昼休みは十二時からの一時間だ。
弁当は十五分で片づける。
残りの時間で、私は歩く。
四月から五月にかけての、田植えの前の話である。
勤め先は佐倉市八木にある運送会社の事務所だ。
二階の窓から、東関東自動車道の高架が見える。
南酒々井駅から歩いて十分ほどの、田んぼの中の会社である。
事務は私と、五十代の田中さんの二人きり。
社長は昼間ほとんど外に出ていて、トラックの運転手たちも夕方まで戻らない。
午後は電話番と伝票で埋まるから、昼のうちに外の空気を入れておきたい。
事務所は古い。
窓は冬でも隙間風が入るのに、夏は開かない。
複合機の熱と、埃の匂いがこもる。
一時間座っていると、肩が石になる。
歩いて戻ると、その肩がほどけている。
それだけの理由で始めた散歩だ。
道順は決まっている。
事務所の裏から農道に出る。
田んぼの間を北へ向かう。
高架が近づくと、タイヤの音が上から降ってくる。
その高架の下に、短い通路がある。
コンクリートの四角い口だ。
向こう側の光が、入口から見える長さしかない。
天井は低く、両側の壁には水の跡が縦に走っている。
出口の先は、草の色しか見えない。
この通路は、バケトンと呼ばれている。
南酒々井のバケトン。
何年か前にテレビでやったらしい。
奥の沼で亡くなったおばあさんが出る、という筋の話だ。
真偽は知らない。
昼に見れば、ただのコンクリートの箱である。
私は中に入らない。
入口の前で踵を返す。
それが私のルールだ。
通路の向こうは草と湿地で、畑に用のない人間には、行っても戻るだけ。
それに、入りたくない気持ちが、少しだけある。
壁に黒い染みがあって、目に入ると足が止まるのだ。
腰から胸くらいの高さに、横に広がっている。
二年、このルールで歩いてきた。
田中さんは、私の散歩を知っている。
「よく飽きないね」
最初の年に、一度だけそう言われた。
それ以来、何も言われない。
毎日十二時十五分に私が席を立ち、五十分に戻る。
入口で折り返すのは、十二時半ごろ。
田中さんにとっては、時計と同じものになっているらしい。
四月、派遣で美奈が来た。
派遣会社から届いた名簿で名前を見て、まさかと思った。
玄関で顔を見て、確かめるまでもなかった。
高校の同級生である。
十四年ぶりに会った。
千葉市の高校で、三年間ずっと同じクラスだった。
隣の席で、弁当のおかずを交換した仲だ。
女子の中では、一番よく話した相手である。
笑い方が変わっていない。
声の高さも同じ。
ただ、左目の下にあったほくろが、なくなっていた。
取ったのかな、と思う。
聞かずにおいた。
初日、社長が美奈の入館カードを作った。
玄関の明るいところで、スマホで顔を撮る。
名前と会社名を印字して、紐を通す。
うちの会社のカードは、みんな顔が白く飛んでいる。
社長の撮り方が下手だからだ。
私のも、そうだった。
美奈は自分のカードを見て、笑った。
「これ、誰だか分かんないね」
美奈は初日から、私の散歩についてきた。
「あんた、昔から散歩好きだったもんね」
そう言われて、私は首をかしげた。
高校のころ、私は歩くのが嫌いだった。
駅までバスに乗る側の人間である。
三十を過ぎれば、人は変わる。
そのくらいに思って、流した。
初めて二人で歩いた日のことを書く。
晴れていた。
四月の農道は、土の匂いが強い。
高架の手前で、美奈が足を止めた。
「ここ、バケトンでしょ。テレビで見た」
うれしそうな声だった。
私は入口の前で止まった。
美奈は、止まらなかった。
通路に入っていく背中が、小さくなる。
足音がコンクリートに跳ね返る。
一人分の足音が、二人分に聞こえた。
向こう側の光の中で、美奈の影が横を向いた。
何かを見ている。
それから、戻ってきた。
「奥、沼あるよ」
息が弾んでいる。
「出口から見えた。水、真っ黒だった。草が一列だけ倒れてた」
それから、声を落とした。
「おばあさんが、草の中にしゃがんでた」
私は、地元の人だよ、と答えた。
高架の向こうに畑があるのは知っている。
美奈は、だよね、と笑った。
その日はそれで終わり。
午後の伝票は、いつもの量だった。
弁当は、美奈も事務所で食べる。
二日目に、卵焼きを一切れ、私の弁当箱に入れてきた。
甘い。
高校の時と同じ味だった。
お母さん元気なんだ、と言うと、美奈は箸を止めた。
「うん。元気」
それから、窓の外の高架を見た。
「ここ、来てみたかったんだよね。佐倉」
派遣先を選べるものなのか、私は知らない。
聞かずに、卵焼きを食べた。
翌週の水曜日、美奈は休みだった。
派遣の契約で、水曜は出ない。
私は一人で歩いた。
一人の方が、歩幅が合う。
田んぼにはまだ水が入っていなくて、土が白く乾いている。
風が低く吹いて、裾を押した。
高架の下まで来て、入口の前に立つ。
タイヤの音が、頭の上を通り過ぎる。
通路の向こうの、明るい四角。
そこに、人が立っていた。
小さい。
背中が丸い。
逆光で、顔のあたりは白く飛んでいる。
こちらを向いているかどうかは、分からない。
私は手を上げかけて、やめた。
向こうは、片手を顔のあたりまで上げた。
それだけ。
横へ動いて、光の外に出た。
畑の人だ。
そう決めて、私は踵を返した。
帰りの農道で、背中の汗が冷えた。
首の後ろが、ずっとこわばっている。
事務所の階段を上がるとき、膝が一段ごとに重かった。
席に着いても、指先の冷えが取れない。
午後、田中さんに聞いてみた。
「高架の向こうって、畑ありますよね」
「あるよ。八木の人がやってる」
伝票から顔も上げずに言う。
「でも、この時期は誰も行かないよ。蛇が出るから」
私は、そうですか、とだけ返した。
おばあさんの話は、しなかった。
聞けば、何か決まってしまう気がしたから。
その夜、スマホでバケトンを調べた。
出てくる話は、どれも似ている。
奥の沼、おばあさん、写真を撮ると壊れるカメラ。
掲示板には、地元の年寄りも普通に通る道だ、と書いてあった。
私はそれを信じることにした。
通るなら、立ち止まることもある。
手を上げることもある。
そこまで考えて、電気を消した。
布団の中で、足の裏だけが温まらなかった。
それから三日、美奈は私と歩いた。
通路の前まで来ると、美奈は中に入る。
私は入口で待つ。
美奈が向こう側で光の中に立ち、戻ってくる。
三日とも、誰もいなかったと言った。
三日のうちの二日目に、沼の方へは行かないで、と頼んだ。
蛇が出るから、と田中さんの言葉を借りた。
美奈は、行ってないよ、と答えた。
草が倒れてた、と初日に言った口で。
三日目、戻ってきた美奈の靴下に、草の種が付いていた。
細長い、黒い種だ。
ズボンの裾が、片方だけ濡れている。
通路の中に、草は生えていない。
私は種を見て、何も言わなかった。
美奈も、裾を払わなかった。
「ほくろ、どうしたの」
一度だけ、聞きかけた。
美奈は伝票の束を数えていて、聞こえなかったらしい。
私もそれ以上は言わずにいる。
その次の週の金曜日のことだ。
美奈がいつものように通路に入っていった。
私は入口で、壁の黒い染みを見ないようにしていた。
美奈が出てきた。
顔が、少しだけ白い。
「あんたのカード、中に落ちてたよ」
入館カードのことだ。
首から下げる、顔写真つきのやつ。
「拾ってきなよ。私、先に戻る。電話が鳴る時間だから」
美奈はそう言って、農道を足早に戻っていった。
私は自分の胸元を触った。
カードは、そこにある。
紐も切れていない。
呼び止めようとして、やめた。
美奈の背中は、もう田んぼの角を曲がっている。
腕時計を見る。
十二時四十分。
戻るまで十二分かかる。
中に入って拾うだけなら、二分で済む。
誰かの落とし物なら、持ち帰って田中さんに渡せばいい。
それだけのことだ。
入口から中をのぞくと、黒い染みの下に、白いものが小さく見える。
私は、二年目にして初めて、ルールを破った。
通路の中は、ぬるかった。
外より三度は高い。
コンクリートの匂いに、草の匂いが混じる。
足音が、二重になって返ってくる。
自分の呼吸まで、壁から戻ってきた。
黒い染みの真下に、カードが落ちていた。
裏返しで、紐が泥で汚れている。
拾おうとして、しゃがんだ。
目の高さに、黒い染みが来る。
近くで見ると、染みは一つではなかった。
細かい点の集まりで、縁がにじんでいる。
目をそらした。
頭の上で、タイヤの音が途切れた。
車が一台も通らない時間が、ある。
その一瞬が、長かった。
その時、出口の光が暗くなった。
顔を上げる。
三歩先に、立っていた。
小さい。
背中が丸い。
顔のあたりは、光で白く潰れて、見えない。
入口までは、十二歩。
しゃがんだままの膝が、伸びなかった。
片手が、上がった。
指が、五本とも、同じ方へ曲がっていた。
壁に手をついて、立った。
私はカードを握って、後ろ向きに歩いた。
踵が、壁の水の跡をこする。
振り返らない。
入口の明るさが背中に当たるまで、目をそらさずにいた。
農道に出る。
走った。
事務所の階段を、二段飛ばしで上がる。
田中さんが、顔を上げた。
「どうしたの、靴」
スニーカーの裏に、黒い泥がついていた。
農道は乾いていたのに。
田中さんが、雑巾を一枚、黙って差し出した。
時計は、十二時五十一分。
一分だけ、遅れていた。
美奈は自分の席で、電話を取っていた。
受話器を置いて、こちらを見る。
「拾えた?」
私はカードを机に置いた。
「これ、私のじゃない」
美奈がカードを裏返す。
「え。あんたのでしょ」
名前の欄には、私の名前があった。
会社の名前もある。
写真は、顔が白く飛んでいる。
うちのカードは、みんなそうだ。
けれど左目の下に、黒い点が一つ。
それだけが、はっきり写っていた。
美奈はカードを私に返して、伝票に戻った。
私は引き出しの一番下に、カードを入れる。
鍵をかけた。
午後の電話は、いつもの本数だ。
受話器を持つ手が、夕方まで湿っていた。
終業前に、玄関の流しでスニーカーを洗った。
泥は黒く、水に溶けて、沼の匂いがした。
私は沼を知らない。
その匂いを、なぜ沼だと思ったのかも分からない。
帰りは、ロッカーの通勤靴を履いた。
翌週の月曜、美奈は来なかった。
派遣会社から、田中さんに電話があった。
家庭の事情で契約を終える、という話だ。
美奈の机の上には、何も残っていない。
引き出しも空である。
社長は、次の派遣はしばらく入れないと言う。
美奈の席には、翌日から伝票の箱が積まれた。
社長が、美奈の入館カードを回収しておけと言った。
田中さんがロッカーと、玄関の流しを探す。
出てこない。
美奈のカードは、どこにもない。
私は、自分の引き出しの一番下を、見なかった。
あれには、私の名前が印字してある。
そう自分に言った。
私のスマホに、美奈の番号は入っている。
かけなかった。
高校の時の番号のまま、更新していないことに、かけようとして気づいた。
この一か月近く、私たちは一度も電話をしていない。
同じ部屋にいたから、する理由がなかった。
散歩は、やめた。
昼休みは、弁当を食べて、二階の窓から高架を見るだけ。
タイヤの音は、ここまで届かない。
田中さんは、何も言わない。
十二時十五分になると、一度だけ時計を見る。
肩は石のままで、夕方まで過ごす。
スニーカーは、机の下に置いたままだ。
洗った日から、一度も履いていない。
窓から見える高架の下は、遠くて、人の姿までは分からない。
それでも毎日、確かめてから目をそらす。
二週間、そうして過ごした。
今日、引き出しの一番下を開けた。
伝票の控えを探していただけである。
田中さんは電話中で、こちらを見ていない。
カードは、あった。
拾った時のまま、紐に泥がついている。
乾いていなかった。
引き出しの底に、湿った輪が広がっている。
沼の匂いが、鼻の奥に入ってきた。
写真の黒い点は、位置が変わっていない。
左目の下。
高校の三年間、隣の席で見ていた、あの場所である。
私はカードを引き出しに戻した。
鍵をかけた。
窓の外で、高架が、昼の光に白く横たわっている。
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