九月の終わりの日曜だった。
昼前の十一時半に、康介は横浜市金沢区の六浦にあるアパートを出た。
助手席には妻の里奈が座っている。
後ろの席には、梨の入った紙袋がひとつ。
里奈の実家は、逗子市の池子にある。
月に二度は、こうして昼飯を食いに行く。
結婚して二年、ほとんど欠かしたことがない。
空は晴れていて、朝から気温が上がっていた。
六浦の交差点を抜ける頃には、エアコンを一段強くした。
海へ向かう車が、まだ多い。
この季節の逗子海岸は、泳ぐ人こそ減るが、人は減らない。
六浦から逗子へ抜ける近道は、いくつかある。
朝比奈の方から回る道もあるが、康介はいつも池子トンネルを選ぶ。
狭くて暗いが、とにかく空いている。
日曜の昼でも、前にも後ろにも車がいない。
近所の人間は、なぜかこの道を使いたがらないらしい。
康介にとっては、それがありがたい。
「また、こっち」
里奈が窓の外を見たまま言った。
「近いだろ」
「近いけどさ」
その先は言わない。
前に一度だけ、里奈はこのトンネルが嫌だと口にしたことがある。
理由は聞いていない。
聞いても、たぶん答えない。
両側が霊園だから、だろうと康介は思っている。
墓が怖い歳でもないのに、と内心で笑う。
車は春に買った中古の小さなワゴンだ。
国道十六号沿いの店で、相場より安く手に入れた。
走りに不満はない。
ただ、助手席とセンターコンソールの間に、指一本ぶんの隙間がある。
里奈はそこに、よく物を落とす。
先週は髪ゴムが消えた。
その前はリップが消えた。
「この隙間、なんとかしてよ」
「タオルでも詰めとけ」
そんな会話を、もう何度もしている。
康介は、面倒なことを後回しにする性分だ。
里奈も、もう諦めているらしい。
住宅地を抜けると、道の両側に墓石が並び始める。
六浦の霊園だ。
昼の日差しの下で、石がどれも白っぽく光っている。
花を替えに来た家族が、桶を提げて歩いていた。
その奥に、トンネルの口が黒く開いている。
入口の手前で、車体が一度跳ねた。
段差がある。
いつものことだ。
前を見たまま、康介はライトをつける。
中は昼でも暗い。
天井の照明は、半分ほどしかついていない。
壁は湿って黒ずみ、路面には水たまりが残っている。
窓を閉めていても、湿ったコンクリートの匂いが入ってきた。
外は晴れているのに、ここだけ雨上がりの空気だ。
歩道を歩く人はいない。
対向車もいない。
照明の切れた区間に入ると、ライトの先だけが白く浮いた。
トン。
屋根に何かが当たった。
天井から落ちた水滴だ。
里奈が天井を見上げる。
「ひとつ」
「数えるなよ」
「数えちゃうでしょ」
池子トンネルは短い。
出口の光が、すぐに大きくなった。
外に出ると、また墓石の列。
その先に、池子の住宅地。
里奈が助手席で身をよじった。
「なんか落ちてる」
隙間に指を差し込んで、何かをつまみ出す。
一円玉だった。
「康介の?」
「知らない。前の持ち主のだろ」
里奈はそれを、カップホルダーに放り込んだ。
硬貨がプラスチックに当たって、軽い音を立てる。
康介はそれきり忘れた。
一円玉ひとつで、考えることなど何もない。
実家では、義母が玄関まで出てきていた。
里奈が紙袋を渡す。
「梨。五個入りで安かったの」
義母は袋の中をのぞいて、少し笑った。
「六個あるわよ」
「え、五個だよ」
「数えてごらん」
里奈が袋をのぞき込む。
康介も横からのぞいた。
六個あった。
「おまけしてくれたのかな」
里奈はそう言って、袋を義母に押しつけた。
梨は梨だ。
昼飯は、義父が朝に釣ってきた鯵の刺身だった。
縁側から逗子の空が見える。
雲ひとつない。
義父は酒を少し飲んで、トンネルの話を始めた。
「まだあそこ通ってるのか」
「近いんで」
「池子は昔、弾薬庫があったって言うからな」
「だから何です」
「別に。言うってだけだ」
義父はそれきり黙って、刺身をつついた。
康介は、注がれたビールに手をつけなかった。
帰りの運転がある。
里奈は台所で、義母と何か話している。
笑い声が聞こえた。
聞こえたあとで、急に途切れた。
義母の声が、低くなる。
里奈が「大丈夫」と答えるのが、聞こえた。
何が大丈夫なのかは分からない。
親子の話に、口を挟む気はない。
縁側の風が、刺身の皿の上を通っていく。
生ぬるい風だ。
三時過ぎに、二人は実家を出た。
義母が玄関で、小さなビニール袋を里奈に渡す。
「一個は持って帰りなさい。多い分」
梨が一個、袋の底で転がっていた。
里奈はそれを、後ろの席の左側に置いた。
自分の真後ろだ。
帰りも、同じ道だ。
里奈が何か言いかけて、やめた。
康介はそれに気づいていたが、ハンドルは切らなかった。
朝比奈を回れば、二十分は余計にかかる。
それに、昼間だ。
昼間のトンネルで、何があるというのか。
三時の日差しは、まだ夏のものに近い。
池子側から入る時も、段差で車体が跳ねた。
ライトをつける。
路面の水たまりが、白く光った。
中に入ってしまえば、引き返す場所はない。
車がすれ違うのもやっとの、狭い穴だ。
前に進むしかない。
トン。
トン。
「ふたつ」
里奈が小さく言う。
康介は答えなかった。
来る時はひとつだった。
行きと帰りで水滴の落ち方が違うことくらい、あるだろう。
そう思った。
思ったあとで、前の方に光が見えた。
照明の切れた区間の、壁ぎわだ。
小さな光が、ひとつ。
自転車のランプくらいの明るさで、左右に揺れている。
誰かが手に提げて歩いてくる、そのくらいの高さだ。
康介はアクセルをゆるめた。
歩道に人がいるなら、寄せてやらなければならない。
光は、こちらへ近づいてくる。
揺れ方が、歩く速さと合わない。
一度大きく沈んで、浮き上がる。
浮き上がったところで、ふたつに割れた。
ひとつは壁へ吸い込まれ、もうひとつは天井の方へ上がって、消えた。
「今の、自転車?」
里奈が前を見たまま言う。
「対向車のライトだろ。壁に反射したんだ」
対向車は来ていない。
言ってから、康介はそれに気づいた。
光のあった壁ぎわを通る時、横目で見た。
濡れた壁があるだけだ。
人はいない。
自転車もいない。
水たまりに自分のライトが映ったのだと、康介は思い直した。
ルームミラーに目をやる。
後ろの席で、ビニール袋が左から右へ滑った。
坂でもない。
カーブでもなかった。
袋は右の端で止まって、それきり動かずにいる。
康介は前に向き直った。
段差の揺れが残っていたのだ。
トンネルを抜ける。
墓石。
住宅地。
里奈が、また身をよじった。
「ねえ」
隙間から、指をゆっくり抜く。
一円玉が、二枚。
「増えてる」
里奈は笑っていた。
笑っているが、声が少し高い。
「お金が増えるトンネルだ」
「シートの下に落ちてたのが、出てきてるんだよ」
康介は、自分でも納得のいく説明を口にした。
「入口に段差があるだろ。あそこで揺れて、下から出てくる。前の持ち主の小銭だ」
「ふうん」
里奈は二枚を、カップホルダーの一枚の上に重ねた。
三枚。
康介はそれを横目で見ただけだった。
理屈は通っている。
通っているはずだった。
ただ、康介の首の後ろが、少し冷えていた。
窓は閉めている。
エアコンは弱い。
それでも、襟のあたりだけが冷えている。
里奈も、片手で自分の首をさすっていた。
何も言わなかった。
康介も聞かなかった。
六浦のアパートに戻ったのは、三時半過ぎ。
月極の駐車場は、道路からゆるい下り坂になっている。
康介は車を止めて、エンジンを切った。
里奈が先に降りて、部屋へ上がっていく。
後ろの席の袋を、康介は手に取った。
右の端にあった。
梨は一個、ちゃんと入っている。
康介はカップホルダーの小銭を取ろうとして、手を止めた。
空だった。
三枚、重ねてあったはずの一円玉がない。
床を見る。
足元のマットを、手でなでる。
ない。
坂だ。
車が傾いて、転がった。
そう考えて、康介は助手席の隙間に目をやった。
隙間の奥で、何かが光っていた。
指を差し込む。
硬貨の縁に爪が引っかかる。
引き出すと、一円玉が一枚ついてきた。
もう一度。
二枚目。
三枚目。
四枚目。
康介は手を止めた。
三枚のはずだ。
四枚目を引き出した指が、濡れていた。
硬貨が濡れている。
今日は朝から晴れだ。
カップホルダーには、何もこぼしていない。
康介は四枚を手のひらに並べた。
どれも冷たい。
水道の水とは違う冷たさだ。
鼻を近づけると、濡れた石の匂いがした。
隙間に、もう一度指を入れる。
指先に、硬貨の縁が当たる。
五枚目。
その奥にも、まだ何かある。
康介は、そこで指を抜いた。
抜いた指を、ズボンで強くぬぐう。
手のひらの汗が、止まらなかった。
部屋に上がると、里奈が台所で麦茶を出していた。
「小銭、どうした」
「カップホルダーに置いたでしょ」
「なかった」
「落ちたんじゃない」
里奈は振り向かずにいる。
康介は、濡れた五枚のことを口にせずにおいた。
言えば、里奈は明日からもう乗らなくなる。
五枚は、ポケットの中で冷たいままだ。
梨は台所の隅に置かれて、誰も手をつけなかった。
夕方、里奈が台所から戻ってきて、向かいに座った。
「トンネルの光、見た?」
「見た。対向車の反射だ」
「行きにも、あったよね」
「行きは、なかった」
「あったよ。壁のところ。康介、水滴の方を気にしてたから」
康介は、行きのことを思い返した。
水滴がひとつ落ちて、里奈が数えた。
それだけだ。
光など、見ていない。
里奈は、康介の顔を見たまま動かない。
「じゃあ、行きは私の見間違い」
里奈はそう言って、自分の麦茶を注ぎ足した。
それから、ぽつりと言う。
「お母さん、六個って言ったでしょ」
「言ったな」
「私、五個って数えて買ったの。ちゃんと」
「店が一個入れたんだろ」
里奈はそれには答えず、風呂に立った。
康介は麦茶を飲み干して、ポケットの五枚を机に出した。
乾いていた。
乾いているのに、まだ冷たい。
五枚を一列に並べて、しばらく見ていた。
製造年を見る。
どれも、康介が生まれる前の年だ。
たまたまだろう。
一円玉は古いものが多い。
康介は五枚を封筒に入れて、引き出しの奥にしまった。
日が落ちる前に、康介は駐車場へ下りた。
里奈に言われていた、隙間の件だ。
古いタオルを細く巻いて、助手席とコンソールの間に押し込む。
力まかせに、奥まで。
これで何も落ちない。
何も出てこない。
そう思いながら、康介は車のドアを閉めた。
夕日が車の窓に映って、後ろの席は見えなかった。
翌朝、会社へ出る前に助手席をのぞくと、タオルは足元に落ちていた。
巻いた形のまま、転がっている。
康介はそれを拾って、もう一度、隙間に押し込んだ。
今度は、手応えがなかった。
奥に、何かが詰まっている。
タオルの先が、途中で止まる。
康介は押すのをやめて、タオルを後ろの席に放った。
その日の昼休み、康介は会社を抜けて、車を買った店に持ち込んだ。
小さな中古車屋だ。
整備士は、康介より少し年上の男だった。
油の染みた手で、面倒くさそうに話を聞く。
「隙間に物が落ちるんです。シートの下に、前の持ち主の小銭が残ってるみたいで」
「小銭?」
「一円玉が、出てくるんですよ。走るたびに」
「うちで納車する前に、シートは外して洗ってるけどね」
整備士はそれだけ言って、助手席のシートを持ち上げにかかった。
ボルトを外し、レールを外す。
康介は後ろで、ポケットの五枚を握っていた。
引き出しにしまった五枚だ。
朝、封筒ごと持ち出してきた。
店の人間に見せるつもりだった。
昼の光が工場の中まで差し込んでいる。
暗いところは、どこにもない。
国道を走るトラックの音が、ずっと聞こえていた。
整備士の手が止まった。
シートの下を見たまま、動かない。
「お客さん」
「はい」
「これ、落ちたんじゃないよ」
整備士は、レールの隙間を指さした。
一円玉が、縦に立っていた。
一枚。
レールの金属の間に、縁からねじ込むように挟まっている。
整備士は、それを見たまま言った。
「下から押し込んである」
康介は、何も言えなかった。
ポケットの中で、五枚が指に貼りつく。
濡れている。
整備士が、立った一円玉を抜き取って、康介に差し出した。
受け取った。
六枚目は、他の五枚より、ずっと冷たかった。
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