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鴻巣市小谷・日枝神社の裏の家、北の雨戸は正月に開けない

鴻巣市小谷に、日枝神社という古い社がある。
荒川と元荒川に挟まれた低い土地で、昔は小谷村の鎮守だった。
土地の人は今も山王様と呼ぶ。
秋には五頭の獅子が、ささらを鳴らして舞う。
本殿を囲う覆屋があって、そこには長いこと誰も入らなかった。
氏子でさえ、拝殿から正面を覗くだけ。
何年か前に片付けが入り、中から色の残った彫り物が出てきたと聞く。
新聞にも載った。

何が見つかったのかは、私がここで断定する話じゃない。
私が聞いたのは、その森の裏手にある一軒の家の話だ。

声は三つ。
一人は家を継いだ男で、四十二歳。
達也さんとしておく。
鴻巣駅前の喫茶店で、二時間ほど聞いた。
話の途中で、何度か口の動きが止まった。
鼻歌を飲み込む顔だった。
一人はその叔母。
電話で話した。
もう一つは、鳥居の脇で達也さんが会った年寄りの言葉。
私は会っていない。
年寄りの言葉は、達也さんの口を通して聞いた。

三つの声を、順番に並べる。
つなぎの言葉は、ほとんど入れない。
食い違っているところも、そのまま残す。

一 達也さんの話

去年の暮れ、祖母が死んだ。
九十一。
小谷の家は祖母が一人で守っていて、相続は俺に回ってきた。
叔母は嫁ぎ先が遠い。
親父はとっくにいない。
独り身の俺が、いちばん身軽だった。

十二月の二十九日に、鴻巣駅からタクシーで入った。
運転手は、小谷の山王様の裏と言っただけで道を知っていた。
家は神社の森の裏手にある。
森を挟んで、社の背中と向かい合う格好だ。
昼間は欅の梢しか見えない。
日が落ちると、森の黒い塊だけが窓に残る。

玄関を開けると、線香と灯油の匂いが混ざっていた。
祖母の匂いだ。
廊下は冷え切っていて、靴下越しに板の冷たさが上がってくる。
間取りは古い農家のままで、南に座敷と仏間、西に納戸、北に物置の部屋が一つ。
北の部屋だけ、襖が固くて、肩で押してやっと開いた。
開けると、段ボールと火鉢と、湿った畳の匂い。
障子は外してあって、雨戸が内側から見えた。
桟に埃が積もっている。

三が日が明けたら不動産屋が来る。
それまでに家の中を空にする約束だった。
車は叔母が形見に持っていった。

北の部屋だけ、後回しにした。
正月が明けたら、不動産屋が来る前に片付ける。
祖母の決まりに、理由もなく従っていた。

家には決まりがあった。
祖母が口癖にしていた。
「山王様の裏へは行くな」
「北の雨戸は、正月のあいだ開けずにおく」
「三日の朝まで、火は絶やさない」
「うちは、最後の家だから」
最後の一つの意味は、ずっと分からなかった。
分家がもう無い、という程度に聞いていた。
俺に嫁も子もいないから、祖母なりの皮肉だと思ったこともある。

初日の夜。
仏間に布団を敷いた。
仏壇の横に、壁に沿って敷く。
石油ストーブはそこにしかない。
南の窓の外で、森がずっと鳴っていた。
北の雨戸は、森と反対側だ。
欅の枝が擦れる音は、波に似ている。
聞いているうちに、潮の引く拍が分かるようになった。

仏壇の上には祖父の遺影が掛かっている。
俺が生まれる前に死んだ人で、顔は写真でしか知らない。
隣に、葬儀屋がくれた祖母の遺影を立て枠ごと置いた。
二人並ぶと、祖父のほうだけ目が横を向いている。
写真館で撮ったものらしく、視線がわずかに北側へ流れていた。

零時を回った頃、音がした。
ざり、ざり。
乾いたものをこすり合わせる音だ。
北側の雨戸のあたりから聞こえる。
隙間風が板を鳴らしている。
そう思った。
古い家だ。
あちこち鳴って当たり前。
布団をかぶって、そのまま寝た。

翌日は遺品の整理に費やした。
座敷の箪笥を空にして、着物を畳んで、茶碗を新聞紙に包む。
昼過ぎに、箪笥の一番下の引き出しが抜けなくなった。
力まかせに引いたら、奥で何かがつかえていた。
祖母の帳面だ。
表紙は茶色く焼けている。

最初の頁に、正月の決まりが箇条で書いてあった。
裏へ行かぬこと。
北は開けぬこと。
三日の朝まで火を絶やさぬこと。
どれも祖母の口癖のままだ。
最後の家のことだけ、書いていない。
その次の頁に、鉛筆書きで、歌が一つ。

ひとつ ひがしの いえがきえ
ふたつ ふもとの いえがきえ
みっつ みなみの いえもきえ
よっつ よるには きたをみず

その下に、一行だけ。
「正月には歌わぬこと」

読んで、頁をめくる手が止まった。
覚えのある節だった。
祖母が病院で、熱を出していた晩のことだ。
うわ言みたいに、小さく口ずさんでいた。
病室は暗くて、祖母の口だけが動いていた。
節は四つで切れて、また一つ目に戻る。
何の歌かと聞いたら、「知らない歌」と答えた。
自分で歌っておいて、知らない。
熱のせいだと思って、それきり忘れていた。
帳面を閉じて、箪笥の上に置いた。
捨てる箱には入れなかった。

その夜も、音がした。
ざり、ざり。
今度は長い。
雨戸を開けて確かめたかった。
でも、正月は開けない決まりだ。
三十日はまだ正月じゃない。
そう理屈をつけて、布団から出た。
廊下の電気は切れている。
懐中電灯で足元を照らしながら、北の部屋へ向かった。
物置だ。
段ボールと古い火鉢の間を抜けて、雨戸に手をかけた。

手が止まった。
音が、手をかけた板のちょうど裏側から鳴っている。
風なら、板全体が鳴る。
一か所からは鳴らない。
板は冷たいのに、手のひらに当たるところだけ、かすかに震えていた。
よるには、きたをみず。
帳面の四つ目が、勝手に浮かんだ。
懐中電灯の輪の中で、雨戸の木目が揺れて見えた。
揺れているのは俺の手だ。

俺は手を離した。
仏間に戻る。
遺影が目に入った。
祖父の写真が、少し傾いている。
紐が古いんだろう。
真っ直ぐに直して、布団に入った。
音は朝まで続いた。
数えるのをやめたのは三時過ぎだ。
出て行くことも考えた。
駅までは歩ける距離じゃない。
夜中にタクシーを呼ぶ気にはなれなかった。
運転手に、こんな時間に出る訳を聞かれる。

朝、遺影はまた傾いていた。
傾く向きが、北の雨戸のほうだった。
紐を結び直す。
それだけで気が済んだことにした。

二 叔母さんの話、電話で

あの歌なら知ってる。
母の子守唄よ。
私も弟も、あれで寝かされた。
正月に歌わないなんて、聞いたことない。
むしろ正月によく歌ってた。
親戚が帰った夜に、火鉢の前で。
四つ目の先もあったはずだけど、私は覚えてない。
眠る前に歌うものだから、最後まで聞いた子はいないの。

北の雨戸のことは本当。
開けると、見られるから。
母はそう言ってた。
誰にとは言わなかった。
私はあの家で育ったけど、北側の部屋に入った記憶がない。
物置だったから。

正月の夜はね、母は寝なかった。
北の部屋の前の廊下に、座布団を一枚敷いて座ってた。
火鉢を抱えて、朝まで。
子どもの頃は、それが当たり前だと思ってた。
よその家もそうしてると思ってたの。
嫁いで初めて、うちだけだと知った。
父が死んでからも、母は座り続けてたはず。
火鉢一つで、あの廊下に。

嫁いでからは、正月に戻ったこともない。
達也があの家に泊まると聞いて、止めなかったのは悪かったと思ってる。

山王様の覆屋のことは、新聞で知った。
母は開けるのに反対してたらしい。
何があるのか知ってたんじゃないかって、達也は言う。
私は違うと思う。
母は、あの森の裏に住んでただけ。
中のことなんか、知るわけがない。
母が気にしてたのは、山王様じゃない。
自分の家のほうよ。
正月に廊下で座ってたときも、顔は森じゃなくて、襖に向いてた。
そこまで言って、叔母さんは少し黙った。
それ以上は話さなかった。

三 達也さんの話、続き

大晦日の昼、叔母に電話をして帳面のことを聞いた。
叔母の言い分と、帳面が合わない。
子守唄なら、なぜ正月に歌うなと書く。
電話を切ったあと、俺は廊下に立ってみた。
北の部屋の襖の前。
祖母が座っていたという場所だ。
板の間に座布団の跡は無い。
ただ、そこだけ板の色が薄かった。
長い年月、何かが置かれていた形に。
俺はそこには座らなかった。

仏間に戻って、ストーブの火を強くした。
三日の朝まで火を絶やさぬこと。
帳面の決まりの中で、自分から動いて守れるのはそれだけだった。

大晦日は、荷物を縛るのに夜までかかった。
除夜の鐘は聞こえない。
聞こえるのは、森で風が鳴る音と、ストーブの芯が焼ける音だけ。
それと、三十日の夜から、俺はあの節を口ずさんでいた。
気づいたのは深夜だ。
仏間で荷物をまとめながら、鼻歌が出ていた。
ひとつ、ひがしの。
止めた。
口を閉じたあとも、頭の中で続く。
ふたつ、ふもとの。

音が、それに合わせていた。
ざり、ざり。
歌の拍と、こすれる音の拍が揃っている。
揃っていると気づいてから、音のほうが半拍遅れた。
首の後ろの毛が全部立った。

雨戸は開けない。
開けないが、音の正体は突き止めたい。
乾いたものをこすり合わせる音に、覚えがあった。
俺は納戸を調べた。
竹を細く割って束ねた道具が、壁に掛かっていた。
ささらだ。
祖父が獅子舞で使ったものらしい。
十月の祭りで鳴らすもので、正月には出番がない。
納戸の中で、埃をかぶっていた。

理屈はいくらでも立つ。
でも、納戸は家の西側だ。
音は北から来ている。
懐中電灯を束に向けたまま、しばらく動けずにいた。
束は揺れていない。
埃も、積もった形のままだ。
手は出さずにおいた。
触りたくもなかった。

仏間に戻った。
時計は一時半。
ストーブの灯油が減って、火が青くなっている。
音は続いている。
俺は布団の上に座ったまま、心の中で思った。
やめてくれ。
声には出していない。

音が止まった。

隙間風が止んだだけだ。
そう思いたかった。
息を殺して、もう一度、頭の中で言った。
聞こえているのか。

ざり。

一回だけ。
返事みたいな間だった。
口の中が乾いて、舌が上あごに貼りついた。
寒いのに、背中だけ汗で濡れている。

俺は電気をつけたまま、朝まで座っていた。
考えないようにした。
考えると、拍が揃う気がした。
頭の中の歌を止めるのに、一番苦労した。
よっつ、よるには、きたをみず。
四つ目の先は、帳面になかった。
叔母も覚えていないという。
五つ目を知る者は、いないままだ。
それなのに、頭の中で、五つ目の拍だけが先に来る。
言葉はまだ無い。
拍だけがある。
ストーブの火は、朝まで絶やさなかった。

空が白んで、遺影を見た。
祖父の写真は傾いていない。
祖母の写真が、俺のほうを向いていた。
置いたときは、仏壇の正面に向けてあった。
立て枠の足は動いていない。
写真だけが、枠の中で、こちらを向いている。
俺は枠に手を伸ばして、やめた。

外の空気が吸いたくて、庭に出た。
霜が降りていた。
家の北側へ回ると、雨戸の板が一枚ずつ白くなっている。
一枚だけ、白くなかった。
三十日の夜に手をかけた板だ。
そこだけ、濡れたみたいに黒い。
俺は近づかずに、庭を戻った。

四 鳥居の脇で

元日の朝、日枝神社に参った。
家からは森を回り込んで、十分ほど歩く。
境内は参拝の人で少しにぎわっていた。
子どもの声がして、焚き火の煙が流れていた。
拝殿で手を合わせた。
覆屋のほうは見ずにいた。
近づく気も起きなかった。
裏へは回っていない。
祖母の決まりの一つは、守れた。

帰りに鳥居の脇で、箒を持った年寄りに声をかけられた。
「森の裏の家のもんだろ」
顔を見て分かったらしい。
祖母の葬式にも来ていた人だ。
氏子の世話役を長くやっていると、あとで聞いた。

俺は、雨戸の決まりのことを聞いた。
北を開けない家は、小谷にほかにもあるのか。
年寄りは首を振った。
「あんたの家だけだ」
音のことは言わなかった。
歌のことも言わなかった。
言えば、理由を聞かれる。
年寄りは箒の先で、鳥居の下の砂利をならしていた。
それから、森のほうを見ずに言った。

「社の背中と向かい合ってる、って誰が言った」

祖母だ、と答えた。
子どもの頃から、そう聞かされてきた。
森の向こうが社の背中で、だからうちは裏の家だと。
年寄りは箒の柄を握り直した。
焚き火の煙が流れてきて、目にしみる。
年寄りは目を細めもしなかった。

「山王様はな、森を背にしてるんじゃねえ。あんたの家に、正面を向けてるんだ」

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