十月の終わりの平日に、湯河原へ行った。
会社の有給が一日だけ余っていた。
古い史跡を一人で歩くのが、三十八になった今でも唯一の趣味だ。
人を誘うと、歩く速さを合わせなければならない。
一人の方が気楽でいい。
朝のうちに城願寺を見た。
土肥実平の菩提寺で、七騎堂には頼朝と六人の家臣の木像が並んでいる。
境内のビャクシンは樹齢八百年を超えるという。
幹に手を当てたくなったが、やめておいた。
古いものには触らない。
それだけは、昔から決めている。
昼を駅前の蕎麦屋で済ませて、バスの時刻表を確かめた。
朝に剃った髭が、もう顎にざらついていた。
しとどの窟へ上がる便は、一日に三本か四本しかない。
行きは十五時台、帰りは十七時すぎの一本きり。
それを逃すと、椿ラインを歩いて下りることになる。
帰りの時刻を携帯に打ち込んで、駅前の乗り場からバスに乗った。
乗り場の向かいに、実平夫妻の銅像が立っていた。
バスは温泉街を抜け、椿ラインへ入った。
曲がるたびに、相模湾が右に出たり左に出たりする。
客は私のほかに二人いた。
買い物袋を抱えた女性と、作業着の男。
どちらも途中で降りた。
しとどのいわやの停留所で降りたのは、私だけだ。
運転手に会釈して、降りた。
椿台の駐車場には車が一台もなかった。
風が強い。
海の方から潮の匂いが上がってくる。
案内板の矢印に従って、城山隧道へ入った。
照明のないトンネルだ。
携帯の明かりで足元を照らした。
壁から水が染み出していて、一歩ごとに靴底が鳴る。
自分の靴音が前から返ってくる。
出口の光が丸く見えるまで、二分ほどかかった。
トンネルを抜けると広場があった。
ベンチが二つ。
その脇に、赤いずきんの地蔵が並んでいる。
ここから先が、四百メートルの下り坂になる。
坂は思ったより急だった。
道の両脇に、弘法大師の石仏が点々と立つ。
風化して、顔の彫りがほとんど残っていない。
中にはアニメの柄のずきんをかぶせられたものもある。
落石の跡が道に残っていて、私は石仏の方へ寄らずに歩いた。
膝が笑いはじめた頃に、水の音が聞こえてきた。
窟に着いたのは十六時を少し回った頃だ。
天井から水が落ちている。
滝というほどではない。
それでも洞口を一面に濡らすくらいの量はあった。
苔むした岩肌に、石仏がひな壇状に並んでいる。
土肥椙山観音像群、と案内にあった。
二十体はある。
水の脇に、南無阿弥陀仏の碑が立っていた。
碑の前には、水に濡れた菊が一束、置かれている。
誰かが昼のうちに来たのだろう。
花の茎は、まだ切り口が白かった。
冷えた。
十月の終わりでも、ここだけ季節が一つ先に進んでいる。
水の匂いに、鉄の匂いが混じっていた。
息を吸うたび、鼻の奥がひやりとする。
水の落ちる音が、一定の間隔で岩を打つ。
それ以外の音がない。
鳥も鳴かなかった。
追手に囲まれた頼朝は、ここで何日を過ごしたのか。
鳥が一羽飛び出して、人はいないと判断された。
そう案内に書いてあった。
その鳥の名が、この場所の名になったらしい。
写真を撮った。
石仏群を正面から、斜めから、水の落ちる場所を入れて。
撮りながら、首のない石仏が二体あるのに気づいた。
来る前に調べたとき、首のないものを三つ見つけると良くないと書いている人がいた。
馬鹿らしいとは思う。
思うが、三つ目を探す気にはならなかった。
二つで、やめた。
肩から鞄を下ろして、しゃがんだ。
石仏の足元の苔の中に、白い丸いものがあった。
ゴルフボールだ。
泥がついて、半分は苔に埋まっている。
こんな山の中にどうして、と考えて、この辺りの山にゴルフ場があったのを思い出した。
誰かが拾ってここへ置いたのか。
それとも転がり落ちてきたのか。
手は出さなかった。
古いものに触らないのと同じで、人の置いたものにも触らない。
供え物なら、なおさらだ。
帰りの時刻が気になって、携帯を見た。
十六時二十一分。
電波は一本も立っていない。
坂を上るのに十五分と見て、まだ余裕はある。
もう一枚だけ、と思って石仏群を撮った。
それが最後の一枚になった。
坂を上り切ったときには、肩で息をしていた。
見積もりより倍かかった。
椿台の駐車場に戻ると、海が銅の色に変わっている。
日が箱根の山の端にかかっていた。
停留所の標識の下で、十分ほど待った。
時刻表の紙は日に焼けて、数字がかすれている。
十七時三分、と読めた。
携帯に打ち込んだ数字と見比べた。
合っている。
待っている間に、山の上から太鼓が聞こえた。
二つ打って、間を置いて、また二つ。
風に千切れて、聞こえたり、聞こえなかったりする。
箱根の方で祭りでもあるのか。
十月の終わりに山で祭りとは聞かないが、土地には土地の暦がある。
そう思って、気にしなかった。
バスは下から来るのではなく、上から来た。
箱根側から下りてくる便だ。
停まって、後ろの扉が開く。
運転手は五十代くらいの男で、「最終です」とだけ言った。
「下りは、これで最終ですよね」
念のために聞くと、運転手は頷いた。
整理券を取って、乗り込んだ。
整理券の番号は七だった。
客が二人いた。
一番前の優先席に、小柄な老婆。
膝の上に、畳んだ提灯を載せている。
白い、何も書いていない提灯だ。
一番後ろの席に、帽子を顔に乗せて眠っている男。
老婆は私が乗ると、膝に両手を置いて深く礼をした。
「こんばんは」
声は小さいが、はっきりしている。
私も会釈を返して、左側の真ん中あたりに座った。
下りなら海が多く出る側だ。
座ってすぐ、老婆が前を向いたまま言った。
「上りは、もう一本ございますよ」
運転手は何も答えなかった。
箱根の方へ行く便のことだろう、と私は思った。
駅前の時刻表に、そんな便はなかった気もする。
気もするが、確かめる気はなかった。
バスが動き出す。
暖房の乾いた匂いの中に、自分のズボンから苔の匂いが上がってきた。
窟の水が裾に染みている。
冷たさが膝の裏まで残っていた。
老婆が、また頭を下げた。
今度は私にではない。
前の窓に向かって、ゆっくりと。
運転手は何も言わない。
地元の人の癖だろう、と思った。
神社の前を通るときに頭を下げる人がいる。
それと同じだ。
トンネルの先の広場には地蔵が並んでいた。
あれに下げたのだろう。
携帯を出した。
十七時六分。
電波はまだ立たない。
写真を開いて、さっき撮った石仏群を見返した。
最後の一枚は十六時二十一分。
坂を上る前の時刻だ。
合っている。
水の落ちる場所が、画面の中で白く飛んでいた。
バスが曲がる。
後ろの方で、固いものが床を転がる音がした。
コツ、コツ、と座席の脚に当たりながら、通路を前へ来る。
白い球が、私の靴に当たって止まった。
ゴルフボールだった。
濡れている。
泥がついている。
後ろの男のものか、と思って振り返った。
男は帽子を顔に乗せたまま動かない。
足元に鞄はない。
ゴルフバッグもない。
私は靴を少し引いた。
拾わなかった。
バスがまた曲がって、球は通路を後ろへ転がっていく。
音は、途中で消えた。
床に当たる音も、座席に当たる音もしなかった。
停留所に停まった。
名前を読む前に、扉が開く。
誰も乗らない。
誰も降りない。
老婆が、開いた扉に向かって腰を折った。
扉から入ってきた風が、苔の匂いをしていた。
山の上で嗅いだのと同じ匂いだ。
風の中に、太鼓が二つ、混じった気がした。
扉が閉まると、聞こえなくなった。
扉が閉まる。
私は携帯を見た。
十六時五十八分。
見間違いだと思った。
さっき見たとき、十七時六分だった。
いや、十六時六分だったのか。
それはない。
十七時三分の便に乗ったのだから、十六時台のはずがない。
運転席の上の時計を見た。
十六時五十八分。
携帯と同じだ。
息を吐いた。
時刻表の紙は、かすれていた。
携帯に打ち込んだ数字も、駅前で慌てて写したものだ。
どちらも十六時三分だったのかもしれない。
さっきの六分の方を、見間違えたのだ。
十七時六分と、十六時五十六分。
慌てて見れば、そのくらいは読み違える。
そう決めて、携帯をポケットにしまった。
バスは下りていく。
海は、もう暗い。
山の端の日は、とうに落ちていた。
窓に自分の顔が映りはじめていた。
次の停留所の案内が流れた。
「次は、しとどのいわや」
顔を上げた。
窓の外に、椿台の駐車場があった。
さっき私が立っていた標識。
日に焼けた時刻表の紙まで、見えた。
折り返したのか、と思った。
上の方に転回場があって、そこで向きを変えて下りてきたのかもしれない。
乗ったときに上から来た便だったのだから、それはおかしい。
おかしいが、ほかに考えようがなかった。
バスが停まった。
扉が開く。
誰もいない。
運転手は扉を開けたまま、前を向いている。
老婆が立ち上がった。
通路を扉まで歩いて、外に向かって深く腰を折る。
「お疲れさまでございました」
誰もいない停留所に、そう言った。
後ろを振り返った。
帽子の男がいない。
いつ降りたのか、見ていない。
扉が閉まる。
老婆は何事もなかったように席へ戻った。
携帯を見た。
十六時五十二分。
海を見た。
銅の色をしていた。
日が、箱根の山の端にかかっている。
さっき沈んだはずの夕日が、戻っていた。
手の甲が冷えた。
指先から血が引いていくのが分かる。
喉が鳴って、唾を飲んだ。
座席の布を、知らないうちに握っていた。
山の上から、太鼓が聞こえた。
二つ打って、間を置いて、二つ。
椿台で聞いたときより、近い。
窓を閉めたバスの中で、はっきり聞こえる。
運転手は前を向いたままだ。
老婆の膝の上で、提灯が広げられていた。
畳んであったはずだ。
乗ったときは、畳んであった。
いつ広げたのか、見ていない。
火は入っていない。
白い提灯が、暖房の風で少し揺れている。
標識の下で聞いた太鼓を、思い出そうとした。
思い出せた。
二つ打って、間を置いて、二つ。
同時に、別のことも思い出した。
標識の下で聞こえたのは、風の音だけだ。
太鼓など、聞いていない。
どちらも、自分の記憶だ。
どちらも、はっきりしている。
携帯を伏せて、膝の上に置いた。
考えるのをやめようとした。
やめられない。
一つ目の記憶が正しいのか、二つ目が正しいのか。
電波は立たない。
最終バスだ。
山の中で降りても、歩いて下りる道は暗い。
座っているしかなかった。
膝の裏の冷たさが、腰まで上がってきていた。
老婆が、前を向いたまま言った。
「上で、拾いませんでしたか」
私に言っているのだと、少ししてから分かった。
「いえ」
声がかすれた。
「拾っていません」
老婆は頷いて、膝に手を置いた。
「それはよろしゅうございました」
また、礼をした。
誰に向けたのかは、分からない。
バスは下りていく。
曲がるたびに海が出た。
海は、暗くなっていった。
一度戻った夕日が、もう一度沈んでいくのを、私は見ていない。
見られなかった。
窓から目を離して、自分の靴の先を見ていた。
靴の先に、泥が点々とついている。
白い球が当たったあたりだ。
携帯を見る勇気が出たのは、温泉街の灯りが見えてからだ。
十七時二十四分。
時刻は前に進んでいた。
電波も二本、立った。
息が、やっと胸の底まで入った。
湯河原駅前で、バスが停まった。
運賃の表示は、七番が七百三十円。
整理券と一緒に運賃箱へ入れた。
運転手は「お疲れさまでした」と言った。
老婆の横を通るとき、老婆は頭を下げた。
顔は見なかった。
見ないようにして、降りた。
私のあとに降りた者はいない。
歩道に立って、バスを振り返った。
バスは扉を閉めて、駅前の広場をゆっくり回っていく。
車内の灯りが、窓越しに見える。
一番前の優先席は、空いていた。
提灯も、載っていない。
運転手のほかに、誰も乗っていない。
バスは温泉街の方へ戻っていった。
回送の札ではなく、山へ上る行き先のままだ。
家に帰って、風呂に入って、寝た。
翌日は仕事だった。
写真は見返さなかった。
鞄は玄関の床に置いたままにした。
三日後の夜に、鞄を整理した。
あの日に持っていった、肩掛けの小さな鞄だ。
側面の口を開けると、指先に冷たいものが当たった。
ゴルフボールだった。
濡れている。
泥がついて、苔の欠片が糸くずのようにくっついている。
鼻を近づけると、水の匂いがした。
鉄の匂いが、混じっていた。
机の上に置いた。
球の下に、小さな水の輪が広がった。
鞄の中の手帳も、財布も、乾いていた。
水の輪は、まだ広がっている。
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