孫が持たせてくれた電話は、顔を見て話せる。
私は七十を過ぎてから、それを覚えた。
佐原の家に一人でいると、晩に孫の翔太から、週に一度かかってくる。
東京の大学に行っていて、顔を見せに帰るのは盆と正月だけだ。
電話の画面で見る顔は、少し細く映る。
本人は、そういうものだと言う。
妻が死んでから四年になる。
仏壇の前で電話を受けると、妻にも見せているような気になる。
翔太はそれを知っていて、画面の向こうで、ばあちゃんにも、と手を振る。
その晩は、いつもの曜日ではなかった。
十時を回って、風呂から上がったところだった。
電話が鳴って、画面に翔太の名前が出た。
出ると、翔太の顔ではなく、暗い木の枝が映った。
「じいちゃん、起きてた?」
声は翔太だった。
画面が揺れて、翔太の顔が下から出てきた。
息が白い。
外にいる。
十一月の初めで、夜は冷える。
上着を着ているのかも、画面では分からなかった。
「今どこだ」
「下飯田。コンコン神社って知ってる?」
知っている。
香取の下飯田にある稲荷で、私の若いころは、ただの稲荷だった。
瘡守の稲荷と、年寄りは呼んでいた。
狐の焼き物がたくさん並んでいるので、子どもがコンコン様と言っていた。
いつからか、人が寄らなくなった。
理由は、いろいろ言われている。
私はそのどれも、自分の目で確かめていない。
一度だけ、十年ほど前に、用事で近くを通った。
鳥居に紙が貼ってあった。
悪ふざけで入らないでください、と書いてあった。
誰が貼ったのか、今も分からない。
子どものころは、初午に祖母と油揚げを持って上がった。
石段の途中で、祖母が決まって言った。
狐さまの物に、手を出すな。
置いてある物も、置いてない物も。
置いてない物というのが何なのか、聞いても教えてくれなかった。
「何しに行った」
「友だちが来たいって言うから。有名なんだよ、今」
翔太の後ろで、男の声が二つ、笑っていた。
大学の友だちだと言う。
車で来て、下の道に停めたと言う。
下の道は、私も知っている。
田んぼと家の間の、車がすれ違えない道だ。
夜に停めれば、近所の人が起きる。
早く済ませろ、と私は言った。
「じいちゃん、地元だから詳しいかと思って」
詳しくはない。
私は、そう言った。
言ってから、一つだけ付け足した。
「鳥居は、全部くぐるな」
翔太は笑った。
「それ、ネットに書いてあるやつ。七つの鳥居をくぐると、どうとかいうやつ」
翔太の友だちが、画面の外で、くぐったら翌日どうなる、と言って笑った。
私はその先を聞きたくなかった。
翌日どうなるかは、私の年になれば、聞かなくても毎日考えている。
ネットというものを、私は見ない。
見ないが、同じ話を、若いころに口で聞いている。
口で聞いた話と、画面の話が、同じ場所で重なっている。
翔太は画面を反対に向けて、参道を映した。
暗い斜面に、石段が上へ続いている。
鳥居が、段に沿って、いくつも重なって立っていた。
傾いたものもある。
翔太の友だちの一人が、電灯を持って先に上がっていくのが見えた。
もう一人は、翔太の横で、何か食べている音をさせていた。
「ユウキ、先行くなよ」
翔太が電灯の方へ声をかけた。
電灯は止まらなかった。
「くぐらなきゃ上がれないだろ、これ」
翔太が言った。
そのとおりだった。
鳥居は参道の上に立っている。
くぐらずに上がる道は、ない。
私は、数えるな、と言った。
くぐるのはいい。
数えるな。
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
口が先に出た。
祖母がそう言っていたのか、誰かから聞いたのか、自分で作ったのか。
七十を過ぎると、そういう区別が付かなくなる。
付かないまま、口が覚えている。
翔太が石段を上がり始めた。
石段は狭く、片側は斜面の土で、もう片側は木の根が出ている。
画面が上下に揺れて、鳥居の柱が、手前から奥へ流れていく。
友だちの電灯が、上で丸く光っている。
横の友だちは、何か食べながら、翔太の後ろを歩いているらしい。
足音が、三人分。
いや、四人分に聞こえた。
横の友だちの、何かを噛む音が、途中で止まった。
鳥居を、いくつか過ぎたあたりだった。
止まってから、また始まらなかった。
電話の音は、そういうものだ。
私はそう思って、聞き流した。
上に着いたらしい。
翔太が画面を回す。
小さな社と、その前に、狐の焼き物が並んでいる。
大きいもの、小さいもの、欠けたもの。
白いもの、赤い前掛けのもの。
その前に、供え物があった。
新しい酒の小瓶と、油揚げが皿に載っている。
今も、来る人は来ている。
「すげえ数」
翔太が言った。
祖母と来たころより、狐は増えていた。
減っていると思っていたのに。
友だちの一人が、電灯を狐の列に当てる。
光が動くたび、狐の影が、後ろの木に伸びる。
そのとき、私は見た。
狐の列の奥、社の右の脇に、人が立っていた。
黒い、人の形だった。
顔はない。
服の形もない。
ただ、人の高さの、黒い形が、狐の後ろに立っている。
電灯の光が当たっても、影にならなかった。
光が当たったまま、黒いままだった。
画面の汚れかと思って、袖で拭いた。
拭いても、同じ所にある。
電話を少し傾けると、黒い形も傾いた。
画面の中にいる。
居間のテレビが点いたままだったので、映り込みかと思って、消した。
消しても、同じ所にあった。
「翔太。社の右」
「え?」
「右の脇。誰かいる」
翔太が画面を右へ向けた。
狐と、木と、社の壁。
「誰もいないよ」
画面の中には、確かに誰もいなかった。
私の見ている画面の、翔太が向けた先には。
だが翔太が画面を戻すと、黒い形は、同じ所に立っていた。
翔太が向ければいない。
戻せばいる。
電灯の友だちが、何か言う。
翔太が返事をする。
その返事が、画面の中で、二度聞こえた。
翔太の声と、半拍遅れて、もう一つ低い声で。
翔太の声を、口の中で転がしてから出したような声だった。
「いや、じいちゃんが変なこと言うから」
いや、じいちゃんがへんなこというから。
翔太は気づいていない。
電灯の友だちも、笑っているだけだった。
画面の端に、肩が映った。
食べていた方の友だちだと思った。
黙っている。
肩だけで、顔は映らなかった。
私は、画面を見ながら、自分の居間を見回した。
電話を持ったまま、テレビの前の座卓に目をやった。
仏壇の灯りが点いている。
居間は、私一人だった。
それを確かめてから、もう一度画面を見た。
黒い形は、狐の列の中にいた。
さっきは社の脇だった。
今は、列の、手前から三つ目と四つ目の狐の間に、立っている。
近づいていた。
翔太の方へ、ではない。
画面の、こちらへ。
狐の間を抜けるのに、狐は一つも倒れていない。
触れずに、通っている。
祖母の言葉が、そこで戻ってきた。
置いてない物にも、手を出すな。
「翔太、切るな」
私はそう言った。
切らないで、そのまま下りろ。
友だちも連れて、石段を下りろ。
翔太は、画面の中で、少し黙った。
じいちゃん、どうした、と聞いてくる。
私は、いいから下りろ、と言った。
声が震えているのが、自分でも分かる。
翔太はそれで、何かを察したらしい。
小さいころから、私が声を低くすると、理由を聞かずに従う子だった。
「分かった。戻ろう」
翔太が友だちに言った。
もどろう。
低い声が、半拍遅れて、言った。
翔太が石段を下り始めた。
画面が揺れる。
鳥居の柱が、奥から手前へ流れる。
一本、二本。
私は数えないようにした。
それでも、頭の中で数が動く。
七本目を過ぎて、もう一本くぐった所で、翔太が、下に着いた、と言った。
「じいちゃん、鳥居、八つあった」
翔太はそう言う。
私は、七つのはずだ、と言いかけて、やめた。
私の頭の中の数も、八で止まっていた。
数えないと決めて、数えてしまって、合っていた。
合っていることが、いちばん嫌だった。
下の道に、車が見える。
電灯の友だちが先に乗って、翔太が助手席の側に回る。
もう一人は、と私は聞いた。
翔太が、後ろを見る。
画面が後ろの席を映した。
誰も、乗っていなかった。
「あれ。あいつ、どこ行った」
電灯の友だちが、車の中から言った。
言ってから、自分の言葉に首をかしげた。
「お前、さっきから二人だったろ」
翔太が黙る。
私も黙った。
翔太が、来たときは三人だった、と言う。
友だちは、二人で来た、と言った。
名前を言い合って、翔太の口から出た三つ目の名が、友だちの言う名と合わなかった。
「ユウキは」
翔太がそう言うと、電灯の友だちの声が、変な間を置いた。
「俺がユウキだけど」
翔太が画面をこちらへ返した。
私と目が合った。
画面越しに、七十の私と、二十歳の孫が、同じ顔をしていた。
「じいちゃん、帰る」
翔太はそう言って、車に乗った。
画面に、車の天井が映る。
走り出す音がして、翔太が、着いたらまたかける、と言う。
私は、うん、と言った。
電話が切れる直前、画面の端に、車の後ろの窓が映った。
窓の外の暗闇に、黒い形が、道に立っていた。
車が離れていくのに、大きさが変わらなかった。
離れるほど、こちらに近い。
電話が切れた。
居間は、仏壇の灯りだけになる。
切れてから、一つだけ確かめた。
夕方に来ていたのに、開いていなかった文を、開いた。
今日、友だちと千葉行く、夜に電話するかも。
そう書いてあった。
何人と、は書いていない。
私は文を閉じて、電話を座卓に置き、画面を伏せた。
伏せた画面の裏が、手のひらに温かい。
さっきまで、下飯田の夜を映していた物だ。
翔太から、着いた、と連絡が来たのは、二時間ほど経ってからだった。
どこに着いたのかは、聞かなかった。
声だけの電話で、顔は映していない。
顔を映せ、とは言わずにおいた。
映った顔の後ろを、見たくなかった。
三人目のことを、翔太は口にしなかった。
私も聞かずにおいた。
「鳥居、数えた?」
翔太が、最後にそう聞いた。
数えていない、と私は言った。
それは嘘だ。
翔太は、ならいいや、と言って、切った。
私はまた画面を伏せた。
翌日に人が死ぬ、という話を、私は知っている。
知っているから、考えないことにした。
考えないために、体を動かす。
立ち上がって、縁側へ出た。
雨戸は、いつも開けたまま寝る。
この家に泥棒が来たことはない。
その晩は、四枚とも閉めることにした。
一枚目は、普通に閉まる。
二枚目を引くとき、庭の暗がりに目が行きそうになって、戸の桟だけを見た。
三枚目は、途中で重くなる。
戸車が錆びているのだと思って、腰を入れて引いた。
引けた。
四枚目を閉める前に、庭の方から、砂利を踏む音が一つした。
一つだけで、続かなかった。
私は庭を見ずに、四枚目を閉めた。
閉めて、猿を落とす。
座卓の前に戻って、伏せた電話の上に、手を置いた。
裏は、もう温かくなかった。
雨戸の外で、何かが戸を撫でる音が、二度した。
猫だと思うことにした。
この家に猫は来ない。
来ないことを、私は知っている。
それでも猫だと決めて、電話から手を離さずに、座っていた。
仏壇の灯りが、一度だけ、揺れた。
風はない。
妻の写真は、いつもの顔のままだった。
翔太の顔は、妻に似ている。
画面の中で、七十の私と同じ顔をした時だけ、似ていなかった。
私は写真に、何も言わなかった。
言えば、返事が二つ聞こえる気がした。
明るくなるまで、雨戸は開けなかった。
明るくなってから、一枚ずつ開けた。
一枚開けるごとに、手を止めて、庭を見る。
四枚とも開けて、何も無いのを確かめて、それから、電話を表に返した。
画面には、翔太からの、おはよう、が一つ来ていた。
一つだけだった。
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