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梶さんの声

梶さんが引き出しから鉋を出し、真由の作業台へ置いた。持っていけ、と言った。台の角が黒く丸まり、片側に小さく「梶」と彫ってあった。真由は刃をのぞかず、明日でもいいですか、と返した。仕事を辞めるまであと五日ある。その五日を、毎日少しずつ片づけられるのが嫌だった。

川沿いの建具屋に入って八年目だった。真由は去年から一人で現場へ行くようになり、梶が工房へ残る日は増えていた。腰が悪いと聞いている。それでも、長い材料を持ち上げる時には先に手を出す人だった。退職後も忙しい時だけ来てもらえばいい、と真由が社長へ話すと、本人には言うなよ、と釘を刺された。

その晩は、頼まれていた戸棚の扉を二人で仕上げていた。社長は配達へ出ていて、戻らずに帰る。梶は扉の縁を削り、真由は蝶番の位置を確かめた。明日の午前には引き取りがある。取り付けを終えれば帰れるのに、真由は金具の袋を開けるのを後回しにしていた。梶が何か教えてくれるなら、今夜も聞いておきたかった。

「それ、捨てる方に入れないでくださいよ」
真由は台の端の鉋を指した。梶は手を止めず、捨てやしない、と答えた。譲る方は小さな仕上げ用で、梶が今握っているのとは別の鉋だった。刃を引くたび、薄い削り屑が裏返りながら落ちた。真由は足元を掃いた。巻いた屑に古い鋸屑が混じり、箒の先で灰色になった。

一束を塵取りへ入れたところで、梶が「ああ」と言った。誰かを呼び止めるような声だった。真由が顔を上げると、梶は材料を台から外している。どうしました、と訊いても、何が、と返された。その間に、掃いたばかりの場所へ白い屑が一枚落ちた。細く巻いていた。梶の手にはもう鉋がなかった。

作業着に付いていたのだろう。真由はその一枚も拾い、袋の中へ入れた。戸棚は小さく、扉を二枚並べても作業台の幅より狭かった。長い板が別に一本、壁沿いの架台へ渡してある。棚板を取るために昼間出した樺の板だった。その下にも白い屑が落ちていた。真由は箒を持ってそちらへ行った。板にはまだ鋸を入れていない。

「梶さん、こっち、削りました?」
「いや。厚みがいるから触るなって言ったろ」
叱られたわけではなかったが、真由は、私も触ってないです、と答えた。屈むと、板の裏へ薄い皮が垂れていた。幅は指二本ほどで、光が透けるくらい薄い。端をつまもうとすると、頭のすぐ上で梶の声がした。「ああ」。真由は肘を架台へぶつけた。

顔を上げた時、梶は離れた作業台にいた。鉋の刃を布で拭いている。声の出た場所には、樺の板の平らな腹しかなかった。真由が板の下を指すと、梶は面倒そうにこちらへ来た。裏側の屑を見て、口の端だけで笑った。刃物を入れなきゃ、こんなのは出ん、と言った。その声が、真由の耳には低い位置から聞こえた。

梶が自分の喉に触れた。咳払いをした。板の下から、同じ咳払いが少し遅れて返った。工房には機械が何台もあって、普段は声が聞き取りにくい。だが今はすべて止まっていた。真由はラジオを見た。昼に自分が切ったまま、赤い印のあるつまみは左へ回りきっていた。

「気持ちの悪い反響だな」
梶の唇が動いた。真由は彼の顔を見ていたのに、声は板から聞こえた。反響の前にあるはずの声が、なかった。梶はもう一度咳をした。喉が上下し、肩が揺れた。架台の間から短い咳が二つ出た。垂れていた皮がそこで切れ、床へ落ちた。

真由は表の引き戸を開けた。軽トラックが通り、タイヤの音がいつもより大きく聞こえた。外の音を入れれば、何かが元に戻るような気がした。梶へ、出ましょう、と言った。彼は台に掛けていた上着を取り、真由の前を歩いた。入口の段差で躓きかけ、片手を柱についた。真由がその腕を支えると、後ろの架台から「大丈夫だよ」と聞こえた。

外の梶は何も言わなかった。真由を見て、唇をゆっくり動かした。もう一度、同じ形に動かす。工房の奥から、聞こえるか、と声がした。真由は手を離せなくなった。上着の下の腕は温かく、梶の手の甲には、昼に運んだ板で擦った傷もあった。目の前の人を取り違えているとは思えなかった。

「私の声は、ここで聞こえますか」
梶は頷いた。真由は入口の脇から携帯を取り、救急へ電話した。喉の具合がおかしく、声が出ないと伝えた。訊かれるたび梶の顔を見た。息は苦しいか。胸は痛いか。梶はどちらにも首を振った。最後に、急にこうなった、と奥から聞こえた。電話の相手が、今のお声はご本人ですか、と訊いた。真由は返事に詰まり、はい、と答えた。

入口から見える架台には、長い板が横たわっていた。床へ屑が落ちた。梶の方へ向き直ると、彼は携帯の画面を指していた。貸してほしいらしい。真由は通話を終えてから渡した。梶は文字を打とうとして何度も指を戻し、結局、手帳を持ってくるよう身振りをした。真由は作業台から彼の手帳と鉛筆を取ってきた。

梶は立ったまま、手帳を掌に載せて書いた。声があっちにある、と読めた。ページの下へ小さく続けた。口を閉じても出る。梶は鉛筆を置き、唇を指で押さえてみせた。真由は工房へ目を戻した。板の下には、両手で持てそうな量の屑が溜まっていた。

「痛いわけじゃないんですね」
奥から、痛くはない、と返事があった。梶は手帳を閉じかけ、また開いた。真由には何が違ったのか分からなかった。鉛筆の先が紙を強く押し、一本の線が引かれた。その下に、きくな、と書いた。真由は唇を閉じた。梶が怒った時の字を見たことはなかったが、電話番号を書く時の丁寧さはなくなっていた。

車の音が近づくたび、真由は道を見た。早く人に来てほしかった。梶は少し腰を曲げ、膝へ手を置いた。椅子を出そうとすると、首を振った。中へ戻ってほしくないのだろうと思い、真由も入口に残った。工房の奥で、長く息を吐く音がした。目の前の梶は、息を止めたように口を固く結んでいた。

「お前さんも帰りたいだろ」
梶の声だった。真由は返事をしかけた。梶が上着の袖をつかんだので、言葉を飲み込んだ。声は続いた。「あと五日くらい、見ていてくれてもいいのに」。真由は梶の顔を見た。彼は目を見開き、頭を左右に振っていた。額に汗が浮いていた。そんなことを言う人ではない。そう思う一方で、退職の話をした時の顔が浮かび、すぐに消した。

梶は手帳の最後のページを引き裂いた。真由の手へ押し当てるようにして、鉛筆で書いた。いまのは話してない。筆圧で紙が破れ、最後の一文字は読みにくかった。真由は分かったと言った。それでも工房の方を見てしまった。梶の声で言われたことを、梶の顔より長く考えている自分が嫌だった。

救急車が止まった。来た人へ真由が話していると、奥から、腰が悪いだけなんだ、と聞こえた。隊員は一度そちらを見て、それから目の前の梶へ名前を尋ねた。梶は胸の前で手帳を開いた。自分の名と年齢を指し、喉へ触れた。隊員は頷き、まず車へ入ってもらいましょう、と真由へ言った。誰も板の返事を待たなかった。それを見て、真由はようやく少し息をつけた。

梶が車へ乗る前に、工房から怒鳴り声がした。「置いてくのか」。梶は振り向かなかった。真由は入口の柱を握った。照明をつけたまま閉めればいいのに、毎晩押して帰るスイッチを見てしまった。二歩で届くのに、足が出なかった。隊員の一人がそばに残り、待っていますよ、と言った。真由は中へ入り、手を伸ばした。

作業台の上に、譲ると言われた鉋がなかった。さっき梶の手帳を取った時には、その横にあった。真由は床を見た。拾うためではなく、踏まないようにするためだった。長い板の下から、刃を引く音がした。一筋の屑がほどけて落ち、続いて梶の声が、こっちだ、と言った。真由は照明を消した。暗くなってからも、鉋を置く重い音が一度聞こえた。

病院へ着くまでに社長と連絡がついた。梶の奥さんにも来てもらった。真由は待合の端に立ち、工房の鍵を握っていた。社長から、何か揉めたのか、と訊かれて、違います、と強く答えた。説明しようとしたが、声が板から出たと言えば言うほど、梶が工房に残りたがっているという話に聞こえそうだった。真由は手帳の破れた一枚を見せた。

奥さんは紙を読み、真由へ返した。あの人、休みになったら迎えに行く約束をしたのよ、と言った。離れて住む娘に子供が生まれ、しばらく手伝いに行くのだという。真由は初めて聞いた。梶は工房の外に用事を作らない人だと思っていた。奥さんは鞄から小さな靴下を出しかけ、今見せることじゃなかったわね、としまった。

翌朝、社長と二人で工房を開けた。真由は中へ入る前に奥を見た。板は架台の上にあった。照明をつけると、屑の山の上へ鉋が横たわっていた。「梶」の一字が上を向いていた。台から架台までは、人が持って歩かなければ届かない距離だった。社長は拾おうとせず、梶の道具は触らずに置こう、と言った。

頼まれていた戸棚の扉は、作業台に二枚並んでいた。金具の袋は未開封で、真由が確かめた蝶番の印も残っていた。客への連絡は社長がしてくれた。真由は床を掃かなかった。長い板の裏側は削れているように見えたが、屈んで確かめる気にはなれなかった。作業台の端へ寄ると、奥から、金具は、と梶の声がした。

真由は振り向いた。いつもなら、今付けます、と答えていた。社長は入口の外で電話をしている。真由はポケットの紙へ触れ、何も言わずに工具箱を閉じた。板は黙った。しばらく待っても次の言葉はなかった。

昼前、梶から携帯へ文字で連絡が来た。奥さんと一緒に帰宅したこと、道具は社長に任せることが書いてあった。最後に、鉋はもらってくれ、とあった。真由は画面を見つめた。返事を書きかけて、消した。工房の入口まで出てから、今は預かっておきます、と送った。

その五日後、退職の書類に判を押すため、梶が奥さんと店へ来た。声はまだ出なかった。社長が事務机を片づけ、真由も呼ばれた。渡すつもりで用意した菓子折は、結局、奥さんへ渡した。梶は手帳へ、世話になった、と書き、二人へ見せた。真由が頭を下げると、作業場の方から「まだ早いだろ」と声がした。

梶の手が真由の手首へ触れた。彼は手帳を裏返し、空いた所に一行を書いた。真由は近づいて読んだ。私にきいてくれ、とあった。板の声は続いていた。今度は真由の名を呼び、返事を促していた。梶は口を動かさず、真由が読み終えるまで、鉛筆の先で「私」の字を押さえていた。

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