真帆は、私がふざけていると思っていた。誰もいない所で肩をすぼめ、横向きに歩くので、何それ、と笑った。私も笑って、ちょっと待って、と答えた。足元に落ちた団扇を拾いたかった。けれど腰を曲げようとするたびに、前にいる人の背中が邪魔になる。見えるのは、櫓を片づける人と、そのずっと向こうの明るいテントだけだった。
その町へ越して、最初の夏だった。真帆とは高校からの付き合いで、休日には二人で映画へ行ったり、どちらかの家で食事をしたりしていた。私が少し遠くへ引っ越してからは、来月こそ、と言うばかりになっていた。町内の祭りがあると教えたら、それなら行く、とすぐに返事が来た。映画は何度も断られたのに、と思ったが、迎えに行った駅で真帆の顔を見ると、そんなことは言わずに済んだ。
公園には小さな櫓が組まれ、日が暮れてから盆踊りが始まった。真帆は浴衣ではなかった。履き慣れた運動靴に、首へ薄い手拭いを巻いていた。本気だね、と私が言うと、踊るために来たんだよ、と答えた。子供の頃、祖父母の家で毎年踊っていたらしい。そんな話を聞くのは初めてだった。
輪へ入る前に、焼きそばを一つずつ買った。私が端のベンチを指すと、真帆は立って食べようと言った。座るともう動きたくなくなるから。いつものことだった。映画のあとも、店を決めるまで休憩したがらない。私たちはごみ箱の近くで容器を抱え、曲が終わるのを待った。真帆が落とした紅生姜を、私が紙で拾った。
踊ったのは三曲だった。真帆は前の人を見なくても身体が動き、私は隣へ寄りすぎて何度か肘を当てた。輪の内側へ入らないようにと注意され、外を向いて謝ったら、そちらにも人がいて笑われた。足を引くところで前へ出てしまう。三曲目の終わりには汗が顎から落ちて、真帆の動きを真似するのも面倒になっていた。
「まだいける?」
「水、飲みたい」
「じゃあ終わろう。最後の曲だって」
私が飲む間も待つつもりかと思ったが、真帆は輪から外れた。まだ踊っていていいよと言うと、もう十分、と笑った。首の手拭いを外し、濡れた所を内側へ畳んで、また首へ結んだ。そこへ係の人が来て、忘れ物の団扇を何枚か渡してくれた。配っていた物だから持ち帰っていいと言われ、私たちは一枚ずつもらった。
最後の曲が終わると、櫓の周りは急に広くなった。帰りかけた親子が売れ残りのくじを引き、踊っていた人たちはテントで飲み物を受け取っていた。真帆はそこへ挨拶に行った。私は靴の中に入った砂を出そうとして片足を上げ、その拍子に団扇を落とした。
それを拾えなくなった。
腰を折ると額の前に硬い肩があり、少し右へ動くと脇腹へ肘が当たった。どちらも見えなかった。ただ、何人もの人が詰まった所で、下へ手を伸ばす時の窮屈さがあった。団扇はすぐ下にあった。風にめくられ、柄が私の靴へ当たっていた。
戻ってきた真帆に笑われたのは、その時だった。彼女は私の横を通り、何の苦労もなく団扇を拾った。私へ差し出す手を取ろうとすると、胸の前で指が何かにぶつかった。シャツの上から触る、人の肋骨に似ていた。指を引くと、爪の先だけが少し湿っていた。
「今、誰かいた」
真帆は私の指を見て、後ろを振り向いた。
「片づけの人?」
「そうじゃなくて、ここ」
私は手を広げたかったが、腕を外へ開けなかった。満員の電車の中で、吊革へ届こうとする時のようだった。真帆は困った顔で、団扇を私の手へ押し込んだ。その手は、さっき指の当たった所を普通に通ってきた。
真帆に肩を押され、二歩ほど動いた。押されるのが嫌で自分でも歩いたが、足を前へ出す隙間がなかった。左右の足の間に別の靴があり、そこへ爪先を載せないようにしなければ進めない。誰もいない地面を、私は小刻みにまたいでいた。
櫓の柱まで来ると、急に腕が上がった。私は柱へ背をつけ、両手で髪をまとめた。汗が首筋を流れた。真帆は私の前で腕を組んでいた。気分が悪いならそう言って、と言われ、気分は悪い、と答えた。それから、酔ったわけじゃない、と余計なことを言った。今日は二人とも酒を飲んでいなかった。
「帰ろうか」
「少しここにいて。今は平気だから」
「立ってるより座った方がいいよ」
「うん。でも今、動きたくない」
真帆は頷いた。私が怖がっているのは分かったらしかった。自分の水を差し出しかけ、私の鞄にも入っていると思い出して手を下げた。その間に、私の右肩が強く押された。
柱と私の間に人が入ってきた。そうとしか感じられなかった。背中が柱から離れ、身体を正面へ戻せなくなった。真帆は私の肩へ触れたが、押し返す力はなかった。私は彼女の手首をつかんだ。腕を引いてほしかったわけではなく、そこに一本だけ、位置の分かる腕があったからだった。
真帆が、痛い、と言った。私は離した。手首へ赤い指の跡が残った。謝ると、彼女は唇を噛み、私の足元へしゃがんだ。靴紐でも絡まったと思ったのかもしれない。すぐに立ち上がった。片膝をつくはずの地面に、何かがあったようだった。
「そこ、膝が置けない」
真帆は自分の膝を撫でた。私の目には、平らな砂地しかなかった。彼女はもう一度屈みかけ、途中でやめた。
「何に乗ってるの、私」
立っているのにそんなことを言った。片方の靴だけ、踵が少し浮いていた。見えない誰かの靴を踏み、下から持ち上げられているように見えた。
私たちは柱の左右へ分かれた。そうしようと相談したのではなかった。押される方へ足を出すと、柱を間に挟んでいた。真帆の首の手拭いが、何かに引っかかって伸びた。彼女は結び目をほどき、鞄へ押し込んだ。私も鞄の長い紐を肩から外し、胸の前へ抱えた。
周りは空いていた。提灯を外している男の人が二人いて、少し離れた所で女の人がほうきを使っていた。私たちはすみませんと呼んだ。ほうきの人が顔を上げたので、具合が悪いんです、と真帆が言った。少し座れますか。女の人はテントの椅子を指し、係を呼んでくれた。
椅子を持ってきたのは、さっき団扇をくれた男性だった。パイプ椅子を一脚ずつ開き、私たちのそばへ置いた。水を取ってきますね、と言われた。私はありがとうございますと答え、椅子へ腰を下ろそうとしたが、腿が途中で止まった。座面よりずっと高い所に、誰かの膝があった。
「ここ、座れないです」
男性は振り返り、椅子の脚を見た。真帆が説明しようとした。
「椅子はいいんです。私たちの周りに、何かいるみたいで」
男性は笑わなかった。私の顔を見てから、真帆を見た。それから椅子を持ち上げ、少し離して置いた。背もたれを押して安定を確かめ、今度はどうですか、と訊いた。
真帆は座れた。私もその隣へ腰を下ろした。ようやく靴の裏が全部、地面へついた。男性はテントへ戻った。私は真帆の方へ顔を向け、何か言おうとした。真帆が手を上げた。何も言わないで、と小さく頼まれたので、私は黙った。
肩の高さを、たくさんのものが通った。耳の脇に柔らかい頬があり、頭の上を衣服が擦っていった。顔を伏せると、鼻先に温かい息がかかった。どこへ向けても誰かと近すぎた。目を開いている方がまだましだった。真帆は両手を膝へ置き、正面を見ていた。彼女の頬が少しへこんだ。そこを誰かの肘が押し、離れたように、元へ戻った。
テントから持ってきてくれた水は、開けられなかった。肘を張る余地がなく、蓋を回す指へ別の指が挟まった。真帆が自分の水を渡してくれた。さっき差し出しかけたものだった。口をつけた拍子に、唇が硬い布へ押しつけられた。ほんの少しだけ飲み、膝へ下ろした。水の匂いの向こうに、汗を吸った布の匂いがした。
「何時の電車だった?」
私が訊くと、真帆は今それを聞くの、という顔をした。
「分かんない。調べてない」
「泊まっていってもいいよ」
「そこまで行ける?」
私は答えられなかった。真帆は、責めてるんじゃない、と言った。その声が聞けて少し落ち着いた。いつもだったらもう帰ると言われていただろう。私がそれを待っていたことに気づいて、また黙った。
櫓の方で電球が消えた。頭の上が暗くなっただけで、通っていくものは減らなかった。真帆は靴の甲を見ていた。右の靴紐に泥がついていた。誰もそこを踏んでいないのに、小さな溝の模様が何本も重なっていた。私の足にも痛みがあったが、下を向けば目の前の人の腹へ顔を埋める気がして、確かめられなかった。
しばらくして、左の耳が涼しくなった。一人、二人と離れるのが分かった。数えたわけではない。それまで身体へ当たっていたものが、片方ずつなくなっていく。真帆が首を動かした。私は肘を横へ出し、鞄を膝から下ろした。地面へ置くと、鞄はそのまま立っていた。誰にも蹴られなかった。
「いなくなった?」
真帆が私へ訊いた。私は立とうとした。腿に力を入れたところで、向こうから来た男性の前を塞ぎそうになり、座り直した。椅子を持ってきてくれた人だった。だが男性は私の前を通らなかった。身体のすぐ脇へ来て、椅子の背へ手を掛けた。
「あ、まだ使ってます」
私は言った。男性は聞こえなかったらしく、背もたれを引いた。私の腰が前へ滑った。慌てて立つと、膝が何かに当たり、私はまた座面へ落ちた。男性は手を止め、空いている座面を確かめるように下を見た。私と目が合う高さだった。それでも、私の顔を見なかった。
真帆が男性の袖へ触れようとした。指は布をつかめた。男性はそちらを振り返り、手を伸ばした。しかし触れたのは、真帆の肩から少し外れた空間だった。
「すみません、これ、片づけますんで」
真帆は、だから、と言いかけた。男性の手が上下した。人をそっと退かす時の、遠慮がちな手つきだった。手の下には誰もいなかった。
男性は椅子を引きずるのをやめ、テントの方へ顔を向けた。まだ人がいるから、ここはあとで、と誰かへ伝えた。私は息を吐いた。見えているのだと思った。真帆も肩を下ろし、男性へ、もう少しだけ、と頼んだ。返事はなかった。男性は私たちの間へ片足を出し、何かを避けて、大きく遠回りした。
彼が避けた場所は、さっきまで私たちが立っていた所だった。誰もいなかった。男性はそこへ一度頭を下げてから、テントへ戻った。私の膝には、団扇が載っていた。取り上げようとすると、柄が腿へ食い込んだ。私の手とは別の重みが、上から押さえていた。
真帆が私の名を呼んだ。彼女の椅子が、ほんの少しこちらへ寄った。自分で動かしたのではなかった。パイプの脚が砂に四本の線を引き、二つの椅子が触れた。真帆の手が私の手をつかんだ。今度は痛くても離してほしいとは言わなかった。二人の向こうの空いた場所へ、次の椅子が運ばれてきた。係の人は、そこにいる誰かへ背もたれを向け、ゆっくり座らせるように手を添えていた。
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