奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

影の中は夜

日陰に置いた水筒を、杏が日なたへ戻した。瑞穂がまた引き寄せると、娘は小さな声で、そこは夜だから、と言った。九月最後の日曜だった。五階の台所で洗ってきた水筒には、まだ氷が鳴っていた。

啓介が来るのは四時の約束だった。団地の中庭にあるベンチへ座り、瑞穂は娘の後ろ髪を結び直した。ゴムを引くたびに、杏の頭が小さく傾く。父親へ見せるために自分で結んだものだったが、片方だけがほどけかけていた。やめてと言われてから、瑞穂は手を離した。

別々に暮らし始めてからも、啓介は日曜に来ていた。今日は荷物を取りに来る日でもあった。部屋へ上がってもらい、冬物と本を持ち帰ってもらう。その前に杏と少し遊ぶと言われていた。瑞穂は昼のうちに段ボールを二箱作ったが、本人のいない所で詰めてしまったことを、どう言おうか考えていた。

杏はベンチから離れ、煉瓦を敷いた通路に立っていた。足元に伸びる自分の影をまたぎ、戻ってはまた足を出す。瑞穂が呼ぶと、娘は水筒を指した。
「お茶、冷たくなるよ」
「冷たいの持ってきたんだよ」
「違う。もっと」
瑞穂は蓋を開けて飲ませた。杏は一口だけ飲み、両手で返した。いつもなら自分で首から提げるのに、それをしなかった。

啓介は紙袋を持ってきた。駅のパン屋で杏の好きなものを買ったと言った。瑞穂はありがとうと言い、袋を膝に載せた。晩ご飯までに食べると夕食が入らなくなる。その一言を飲み込む間に、杏は父親の手を引いて、さっきの煉瓦へ連れていった。

「ここ、踏まないで」
「何があるの」
「私の夜」
啓介が瑞穂を見た。影のことみたい、と答えると、じゃあ跳ぶか、と娘へ言った。二人は揃って足を上げた。啓介の大きな影が杏の影を横切った時、杏が泣いた。急に声を張ったので、瑞穂も立った。

父親はすぐにしゃがんで謝った。どこか踏んだかと、娘の靴を確かめている。杏は足を引かなかった。ただ、もう寝てるのに、と繰り返した。瑞穂は啓介に少し待ってもらい、娘の指した所を見た。二つの影が重なった所に、白い粒がいくつか浮いていた。

煉瓦の隙間には、普段から白い砂が入り込んでいた。けれど粒は隙間と合っていない。掌をかざすと、粒が消えた。腕を引くと戻った。瑞穂はしゃがみ、横から見た。白かったものは小さな長方形で、縁が黄色く光っていた。五階の自分たちの台所にある、曇りガラスの窓に似ていた。

影の中に、建物が映っていた。水溜まりの反射なら、上へ目をやれば同じ窓があるはずだった。瑞穂は振り向いた。南棟の窓は夕方の空を映し、どれも青かった。灯りのついている窓はない。娘の足元へ戻ると、影の中の窓だけが明るかった。煉瓦は乾いていた。

「あれ、うちじゃない?」
瑞穂が訊くと、啓介は眼鏡を押し上げた。娘を抱こうとしていた手を下ろし、顔を近づけた。
「電気、消してきたよね」
「消した。まだつけてない」
「いや、台所の」
分かってる、と言いそうになった。瑞穂は上の窓を指した。自分の部屋は暗い。そのすぐ下、杏の影にある同じ窓の中を、小さな人が通った。

瑞穂は立ち上がった。窓の向こうに誰かがいる。そう思ったのに、本物の窓には何も動かなかった。影へ顔を戻すと、灯りはそのままだった。杏が一歩ずれた。小さな窓も煉瓦の上を滑った。娘の頭の丸みに合わせて、建物の端が切れていた。

啓介が娘へ、ここに座ってみよう、と言った。杏は父親の膝ではなく、ベンチの瑞穂の隣へ座った。足が地面から離れ、影の形が縮んだ。窓は見えなくなった。代わりに、煉瓦の一角に街灯の白い光が落ちていた。中庭の入口に立っている、丸い傘のついた街灯だった。本物の街灯は、まだ消えていた。

「いつから見えたの」
瑞穂は娘の顔を覗いた。
「お昼に来た時」
「お昼は来てないよ」
「来た」
杏はそれきり黙った。昼は二人でうどんを食べた。娘は汁で服を汚し、着替えてからテレビを見ていた。瑞穂はその黄色い服を洗面所の洗濯籠へ入れた。今着ている青い服も、瑞穂が出してやったものだった。

啓介は立ち上がり、娘の影の先へ片足を近づけた。瑞穂が名前を呼ぶと、止まった。試すつもりだったのだろう。足を戻し、どうすればいいと思う、と訊いてきた。瑞穂にも分からなかった。娘へもう一度昼のことを尋ねようとしたが、杏は父親が持ってきた袋を開けていた。

パンの包み紙が擦れた。その音が、すぐ足元でもした。袋は瑞穂の膝にあった。杏の影はベンチの下へ潜り、向こう側の煉瓦まで続いていた。暗い形の中だけ、葉の落ちている場所が違った。足元には一枚もない黄色い葉が、影の中の地面を何枚も滑った。

瑞穂は水筒の紐を持ち、ベンチの座面へ載せようとした。底が影に入った時、手の甲がひどく冷たくなった。水筒を引き上げると、底に水滴がついていた。氷のせいだと思ったが、底に触れていない手の甲まで冷えていた。冬に外へ出した布団を取り込む時に似ていた。水筒を載せた膝まで、冷えが残った。

啓介が上着を脱いだ。杏へ着せるのかと思ったが、地面に広げた。影を隠そうとしたらしい。紺の布が煉瓦へ落ち、袖が片方めくれた。杏の影に入ったところだけ、布の皺が見えなくなった。そこに街灯の光が落ち、瑞穂の知らない虫が一匹、ゆっくり横切った。

「取って」
瑞穂が言うと、啓介は上着の襟を引いた。虫は布についてこなかった。影の中を歩き続け、煉瓦の端の暗がりへ消えた。啓介は上着を畳まず、胸へ抱えた。その両腕が震えているのを、瑞穂は初めて見た。

部屋へ戻ろうという言葉を、瑞穂は口にしかけた。杏を立たせれば、影も動く。階段を上れば、この暗さが部屋の床へ来るかもしれない。だからここにいればいいということでもない。日なたはさっきより狭くなり、娘の影の肩へ、南棟の大きな影が近づいていた。

杏はパンを半分食べ、残りを紙へ戻した。眠そうに目をこすった。瑞穂は娘の額へ手を当てた。熱はなく、髪の生え際は少し汗ばんでいた。啓介が病院へ電話しようかと言った。瑞穂は頷いたが、何を伝えていいか分からず、娘が眠いことだけではない、と余計なことを言った。

「分かってる。見えてるから」
啓介は強く言わなかった。そのことが瑞穂にはかえって辛かった。すぐ、そう、と答えた。啓介は携帯を出し、画面を何度か触った。
「先に橘を呼んでもいい? 二人じゃ、電話してる間に何もできない」
瑞穂は頷いた。同じ棟の階下に住む、啓介の古い同僚だった。啓介は子供のことで、ちょっと降りてきてほしいと頼んでいた。

同僚は近くの店から帰る途中だという。荷物を部屋へ置いてから降りてくる、十分ほどで戻ると聞き、啓介は携帯をしまった。瑞穂は娘の結んだ髪へ手をやりかけ、やめた。父親へ見せたい髪は、もう片方も緩んでいた。杏が自分でゴムを抜き、瑞穂の掌へ置いた。ほどけた髪が耳を隠した。影の中の葉は動き続けていた。

啓介は部屋の鍵を持っていた。確認してこようかと言われ、瑞穂は首を振った。上に何かいるから行かせたくないのか、自分と杏だけで待つのが嫌なのか、うまく言えなかった。
「じゃあ、ここにいる」
啓介はそう答え、ベンチの端へ腰を下ろした。しばらく誰も話さなかった。団地の放送から夕方の音楽が流れ、帰っていく子が二人、杏へ手を振った。瑞穂が代わりに手を上げた。あとで部屋を訪ねてくるかもしれないと思うと、そこへ帰っていいのか分からないことが、さっきより怖かった。

杏の頭が瑞穂の腕に寄りかかった。抱き上げると、影がベンチの前へ流れた。その黒い頭の中に、また台所の窓が出た。今度は窓が少し開いていた。網戸の内側へ誰かの腕が伸び、洗濯物を押さえている。瑞穂はそれを見て息を止めた。うちの台所に、干す場所はない。

腕は窓から消えた。黄色い布だけが残った。襟元に小さな白い兎がついている。昼に杏が汚した服だった。瑞穂は五階を見上げた。自分の窓は閉まっていた。曇りガラスに、日の当たる向かいの壁が薄く映っていた。

杏を膝に戻し、瑞穂は影へ身をかがめた。服は窓枠へ引っかかり、風に動いていた。影の中から、食器の触れる音がした。流しの水音が続いた。部屋は五階にあるはずなのに、音は椅子のすぐ下から聞こえた。瑞穂は濡れた水筒を握った。昼に洗った食器は水切り籠へ伏せたままだった。三人分の皿は出していない。

「私、上にいるのかな」
啓介は答えなかった。瑞穂も答えてほしくなかった。窓の腕が自分だったかどうかさえ分からない。うちに入った人が娘の服を触っているのか、ここにいる自分がどこかで洗っているのか。どちらを考えても、抱いている娘を下ろすことはできなかった。

階段室の扉が開き、啓介の同僚が出てきた。橘という人だった。部屋着の上に薄いシャツを羽織り、サンダルで歩いてきた。啓介が手を振って止めたので、少し離れて立った。地面の窓を見せると、橘は上を見ず、しゃがんだ。それから、誰か降りてくるぞ、と言った。

窓はもうなかった。杏の丸い頭の中を、白い階段が斜めに走っていた。手すりをつかむ腕と、階段を下りる足が見えた。全体が一度に収まらない。動くたびに肩や腰が暗い縁の外へ切れた。誰なのかは分からなかった。足のそばで、黄色い服の裾だけが揺れていた。

瑞穂は娘の手を握った。杏は目を閉じたまま、痛い、と言った。慌てて指を緩めると、小さな手が瑞穂の人差し指へ巻きついた。啓介が隣へ座った。荷物は後でいいと言った。瑞穂は頷いた。今日の約束が守れないことを、まだ誰も責めていなかった。

橘は入口の街灯の下へ行き、瑞穂たちへ何か言いかけた。その時、街灯がついた。中庭の地面が白くなった。杏の影にあった灯りは、先に消えた。黒い中から、短く金具の鳴る音がした。階段室の扉を閉める音だった。本物の扉は橘が出てきてからずっと閉まっていた。

瑞穂は娘を抱き直した。啓介が鞄と水筒を持ち、すぐ脇へ立った。杏の影は街灯に照らされ、足元から反対側へ伸びるはずだった。けれど夕方のまま長く、南棟へ向いていた。その中を小さな靴が歩いてきた。窓や階段とは違い、今度は靴の先しか見えなかった。

靴は止まった。抱いている杏が、瑞穂の胸へ顔を押しつけた。眠ったままなのか、何かを見たくないのか、瑞穂には分からなかった。足元で、紙袋を開ける音がした。パンの袋は啓介の手にあった。彼も袋を見ていた。

瑞穂は杏を抱いたまま立った。影の中の靴も、地面を踏み直した。逃げる方を決めようとしたのに、どちらへ向いても娘の影が足元から離れなかった。啓介が瑞穂の背へ手を当てた。引いたり押したりはしなかった。

影の中の灯りが一つずつ消えた。最後に台所の窓だけが、娘の爪先の下で小さく点った。それも消えると、黒い縁が煉瓦から浮いた。瑞穂は足を引いた。影の丸い頭が、自分の膝ほどの高さまで持ち上がっていた。杏の頭は胸にある。娘の髪へ顔を埋めると、すぐ下の暗がりから、椅子を大きく後ろへ引く音がした。

新着の怪談

2026.10.10

毎朝、家の前の桜を数えてから仕事に出る。川沿いの道に一列に植わった、十二本だ。古い借家に一人で住んで、もう十年になる。端の一本は、その借家の…

2026.10.10

わしは今年で七十四になる。菰野の小さいタクシー会社で、夕方の番をしとる。四日市の工場をやめてから乗りはじめたで、もう三十年あまりや。夕方の持…

2026.10.10

十月の半ばの、金曜の夜だった。拓海の仕事が長引いて、名古屋を出たのは九時半を回ってからだ。行き先は、京都の清滝。愛宕山の登り口にある、川沿い…

2026.10.10

六月の終わりは、工場の中まで湿っている。床のコンクリートが汗をかいて、長靴の底がきゅっと鳴った。グリスと雨の匂いが、朝からこもったままだ。樋…

2026.10.10

ばあちゃんは、人の話を右の耳で聞いた。誰かに話しかけられると、首を少し右にかしげる。左の耳は、子どものころから遠かったらしい。「左は、雄別に…

怪談の一覧へ

コメント

タイトルとURLをコピーしました