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宝ヶ池狐坂を歩いて帰るときの決まり

木曜の夜は、研究所に最後まで残るのが私の番だ。

松ヶ崎の、北山通から少し南へ入ったところにある古い二階建て。
土や水を預かって、中に何が混じっているかを調べる会社だ。
一階が分析室で、二階に事務の机が並ぶ。
社員は九人で、男は私を入れて四人しかいない。
木曜だけは分析の装置を夜通し回すから、零時すぎに試料を入れ替える者が要る。
それが済むころには、地下鉄の終電はもう出てしまっている。

私の部屋は岩倉だ。
ふだんは地下鉄で国際会館まで一駅乗って、そこからバスで帰る。
終電を逃した晩は、狐坂を歩いて越えるしかない。
タクシーを呼べるほどの給料は、もらっていない。

その坂の決まりを教わったのは、何年か前の十月だった。
夜番が初めて私に回ってきた日だ。

夕方の六時ごろ、主任の村井さんが私の机に帳面を置いた。
「今日から歩きやろ。これ、読んどき」
大学ノートを何冊か、糸で綴じ合わせたような厚い帳面だ。
表紙には、黒い字で狐坂とだけ書いてある。
角は丸く擦れて、紙は端から茶色く焼けていた。

村井さんは五十八で、ここに三十年以上いる。
若いころは岩倉に住んでいて、あの坂を何百回も歩いたという。
今は坂の下の松ヶ崎に家があって、歩いて五分の近さだ。
所内ではいつも、灰色の作業ズボンをはいている。
話の合間に、乾いた咳を二つ続けてする癖がある。
そのときも、こほ、こほん、と鳴らしてから言った。
「うちの男は、狐坂を歩いて帰るときにこれを守る決まりや」

表紙をめくると、最初の頁に決まりが並んでいた。
筆ペンの字で、何度も書き写したあとがある。

一、この決まりは、男にだけ申し送る。
二、下の車止めを越えてから坂を上り切るまで、声を出さない。
三、上から下りて来るものがあれば、山側に寄って止まり、下を向いて先に通す。
四、坂下の犬が吠えているあいだは、歩かない。
五、通した晩は、あくる朝この帳面に日付と名前を書く。

正直、笑いそうになった。
土の成分を数字で出す会社で、こんなものが回っている。
「これ、何が下りて来るんですか」
村井さんは答えずに、帳面の横を指でなぞった。

頁のあいだから、赤い紐の端が何本も垂れている。
しおりにしては太い。
下駄の鼻緒くらいの太さで、赤い布を固く撚ってある。
どれも色が抜けて、干し柿のような茶色だ。
「それは数えんでええ」
数えるなと言われると、数えたくなる。
あとで一人になってから数えたら、十一本あった。

向かいの席の長谷さんが、椅子ごとこちらを向いた。
四十すぎの研究員で、岩倉から毎日自転車で通っている。
「それ、男の人だけの交換日記やろ、うちには誰も回してくれへんのに」
坂で何か見たことがあるか聞くと、長谷さんは肩をすくめた。
「夜中でも何べんも通ってるけど、なんも下りて来えへんよ」
村井さんは、それには何も言わなかった。

帰りがけに、村井さんが一つだけ付け足す。
「山側やで、谷側に寄ったらあかん」
上着を羽織りながら、少し笑う。
「昔はな、岩倉の者はみんな、あの坂を下りて町へ出たんや」
こほ、こほん。
「下りるもんの道なんや、あそこは」
村井さんが帰ったのは、九時前だった。

夜の分析室には、装置の送風の音しかない。
零時四十分、試料を入れ替えて装置の表示を確かめた。
裏口の鍵は、カードをかざして閉める。
小さな電子音が一つ鳴った。

北山通は、この時間でもときどき車が走る。
信号を渡って、山の方へ歩いた。
坂の入口には、車止めの柱が何本か立っている。
そのそばに、岩上神社の鳥居がある。
御神体は大きな岩だと聞いた。
境内には入らない。
鳥居の前で、頭だけ軽く下げた。

柱のあいだを抜ける。
ここから上り切るまで、声は出さない。
口を閉じると、自分の鼻息がやけに耳につく。
少し上った右手で、湧き水の音がしていた。
夜中でも、この水は止まらないそうだ。

旧道は、色を塗った舗装の細い道だ。
送り火の妙の字が灯る山の裾を、この道は回り込んでいく。
片側が山で、反対側はガードレールの向こうが谷になる。
街灯は少ない。
仕事で使うペンライトを出して、足元を照らした。
木がかぶさるところでは、その丸い明かりの中しか見えない。

すぐ横の高いところを、新しい道が通っている。
車がそこを走ると、音だけが斜めに降ってくる。
近いのか遠いのか、耳ではつかめない。
車が通っていたころは、ずいぶん危ない坂だったと聞く。

一つ目の曲がり角に差しかかったときだ。
上から、足音が下りて来た。

かつ、と硬いものが舗装を打つ。
少し間があって、また、かつ。
靴の音とは違う。
木の板で地面を叩くような、乾いた音だ。

人だ、と思った。
夜中に坂を散歩する年寄りくらい、どこにでもいる。
それでも、体は帳面の三つ目のとおりに動いていた。
山側に寄って止まる。
下を向く。
自分の靴の先を見る。

足音が、曲がり角を回って近づいてくる。
かつ、かつ。
私の前を、谷側に寄って過ぎていく。
明かりの端に、赤いものが映った。
足首より低いところに、赤い線が二本ある。
足の甲の上で、くの字に交わっていた。
顔は上げなかった。
上げたら、何かが始まってしまう気がする。

足音は下へ遠ざかって、曲がり角の向こうへ消える。
引き返す気には、ならなかった。
戻れば、あれの後ろを下りていく羽目になる。
しばらくして、坂の下で犬が吠えた。
入口のあたりの家の犬だろう。
吠え声は長く続く。
四つ目のとおり、私は止まったまま待った。
首の後ろが冷えて、汗が引いていく。
犬が黙ってから、十数えて歩き出した。

坂を上り切ると、宝ヶ池の南西の端に出る。
そこでやっと、声を出して息を吐いた。
池の西の道を、岩倉の方へ歩く。
家までは小一時間かかる。
歩きながら、理屈を並べた。

下駄を履いた年寄りが、眠れなくて坂を下りていった。
赤い鼻緒の下駄なら、今でも店で売っている。
犬は、知らない人間に吠えただけだ。
そう決めて、布団にもぐった。

翌朝、帳面の最後の頁を開いた。
五つ目のとおりに、日付と名前を書く。

十月三日 一時ごろ 通した 戸川

書いてから、前の頁をさかのぼって見た。
同じ形の行が、何十年分も並んでいる。
決まりのとおりなら、書いたのはみんな男だ。
村井の名が、いちばん多い。
ほとんどの行は、通した、で終わっていた。
ところどころの頁に、一行だけ違うものがある。

二月十一日 二時 下りた 辻
七月二日 一時半 下りた 岡島

下りた、と書いた人の名前は、その行から先に一度も出てこない。
そういう行のすぐ下には、決まって赤い紐が一本、沿わせて挟んであった。
下りたの行を拾っていくと、ちょうど十一ある。
紐の数と同じだ。

村井さんに聞いてみた。
「この、下りた、っていうのは何ですか」
「辞めた人らや」
村井さんは、帳面のほうを見ずに答える。
「辞める前の晩に、そう書いていくんや」
紐のことは、聞けなかった。
聞いたら、数えたことがばれる。

代わりに、犬の話をした。
村井さんは、ああ、と少し笑う。
「あそこの犬な、わしには吠えへんのや、毎朝前を通るさかい」
こほ、こほん、と二つ咳をして、村井さんは装置の方へ行った。

その週の土曜、明るいうちに狐坂を歩いてみた。
昼の旧道は、ただの遊歩道だ。
ジョギングの人が二人、私を追い越していく。
ガードレールの向こうの谷も、木が茂っているだけだ。
舗装には、下駄の歯の跡なんてどこにもない。
曲がり角にも、何も落ちていない。

坂の下の家の犬は、柵の向こうで丸くなって寝ていた。
茶色い雑種で、私が柵の前で足を止めると、起き上がって一声吠えた。
知らない顔には吠える犬らしい。
何もない坂だ、と自分に言い聞かせた。

次の木曜は、長谷さんも報告書の締め切りで、夜中まで残っていた。
間の悪いことに、自転車もパンクしている。
「帰り、一緒に歩こか、一人で坂上がるのも退屈やし」
零時四十五分、二人で裏口を出る。
鍵は、私のカードで閉めた。

鳥居の前で頭を下げると、長谷さんが笑う。
「律儀やなあ」
車止めの柱を抜けたところで、私は口を閉じた。
長谷さんは、かまわず喋る。
装置の癖のこと、所長の車のこと、タイヤに刺さっていた釘のこと。
私がうなずくだけなので、そのうち肘でつついてきた。
「ほんまに喋らへんの、決まりやから?」
うなずく。
「男の人って、そういうの好きやなあ」

二つ目の曲がり角の手前で、また来た。
かつ、と上で鳴る。
私は長谷さんの袖をつかんで、山側へ引いた。
「ちょっ、なに」
二人で、山の斜面ぎわに寄る。
私は下を向いた。
長谷さんは袖を引かれたまま、上のほうを見ている。

かつ、かつ、と近づいてくる。
ペンライトの明かりの中に、長谷さんの白い靴と私の靴が並んでいた。
その先の谷側を、赤い線が二本、下へ通っていく。
鼻緒の赤だ。
今夜は、その下まで見えた。
黒ずんだ木の歯が、一歩ごとに舗装を打っている。
歯の角は、ひどく擦り減っていた。

「なあ、何見てんの」
長谷さんの声が、すぐ横でした。
「誰もおらへんよ」
足音が下へ遠ざかる。
坂の下で、犬が吠えはじめた。
「ああ、あそこの犬な、夜中よう吠えんねん」
犬が黙るまで、私は動かない。
長谷さんは、袖をつかまれたまま待っていてくれた。

上り切って、池の端に出る。
ようやく声が出せる。
「足音、聞こえませんでしたか」
「足音? 車の音しかしてへんかったで」
長谷さんは、携帯の明かりを私の顔に向けた。
「あんた、さっき誰に道ゆずってたん」
私は、答えられなかった。
そこから岩倉まで、長谷さんはもう何も聞かない。

翌朝、帳面に書く。

十月十日 一時すぎ 通した 戸川

長谷さんは、ゆうべの話をみんなの前で笑いながらした。
「戸川くん、なんもないとこに頭下げてはったんよ」
何人かが笑う。
村井さんだけが、笑わずに帳面の方を見ていた。
昼休みに、村井さんが私の横を通りがかった。
「長谷さんの横で、よう止まったな」
それだけ言って、給湯室の方へ行ってしまう。

男にだけ申し送る、という一行を思い出す。
見えない人に教えても、通しようがない。
だから男にだけ回すのか。
それとも、男にしか下りて来ないのか。
帳面を棚の引き出しに戻すとき、紐を数えた。
十一本のままだ。
数えた自分に、少し腹が立った。

三度目は、その次の木曜だ。
村井さんは、九時半に「お先」と言って帰っていった。
灰色の作業ズボンのまま、上着だけ羽織っている。
裏口で、こほ、こほん、と二つ咳をするのが聞こえる。
いつもの音だ。

その夜は、タクシー代くらいは財布に入っていた。
それでも、歩くことにした。
確かめたいことがある。
あの赤が、本当にただの下駄なのか。
次に来たら、もう少しだけ目を上げてみる。
決まりは下を向けと言うだけで、どこまで下かは書いていない。

零時五十分、カードをかざして裏口の鍵を閉めた。
鳥居に頭を下げて、車止めの柱を抜ける。
湧き水の音を右に聞きながら、上っていく。
高架を、トラックが一台通った。
音が上から降ってきて、すぐ消える。

一つ目の曲がり角を過ぎても、何も来ない。
二つ目の手前で、足が勝手に遅くなる。
かつ。
上で鳴った。

山側に寄る。
止まる。
下を向いて、靴の先を見た。
かつ、かつ、と下りてくる。
今夜は、前の二回より足が遅い。
一歩ごとに、少し引きずる音が混じっていた。

目を、ほんの少し上げる。
赤い鼻緒が見えた。
擦り減った歯も見える。
その上に、灰色の布がかぶさっていた。
着物の裾か、ズボンの裾か。
そこから上へは、どうしても目が行かない。

足音が、私の真横で止まった。
谷側に、それがいる。
手を伸ばせば届くくらいの近さだ。
息を止めていたのが、自分でも分かる。
高架の上を、車が一台走っていく。
その音が抜けたあとで、聞こえた。

こほ。
こほん。

乾いた咳が、二つ。
声が出そうになる。
村井さん、と口の中で形だけ作った。
二つ目の決まりが、それを喉の手前で止める。
空いた手を、ポケットの中で握りしめていた。
足音が、また動き出した。
かつ、かつ。
下へ、遠ざかっていく。

私は止まったまま、坂の下の犬を待った。
犬は吠えなかった。
十数える。
二十数える。
高架を走る車の音が、ときどき降ってくるだけ。
吠えてくれ、と思った。
いつまで待っても、坂の下は黙ったままだ。

四つ目の決まりには、吠えないときのことは書いていない。
私は歩き出した。
上り切ったところで、携帯を出す。
村井さんに、短く送った。
「今、狐坂を歩いてましたか」
一時十二分。
家に着いても、既読はつかなかった。
布団の中で、あの二つの咳を何度も思い返す。
人の咳なんて、どれも似たようなものだ。
そう思おうとして、うまくいかない。

翌朝、村井さんは来なかった。
九時を過ぎても、席は空いたままだ。
所長が二度電話をかけて、二度ともつながらなかった。

私は帳面を開いた。
三つ目の行を書くつもりで、最後の頁を探す。
私の二つ目の行の下に、もう一行ある。

十月十七日 三時 下りた 村井

村井さんの字だった。
右上がりの、癖のある字。
ボールペンの線が、途中で一度かすれている。
その行のすぐ下に、新しい赤い紐が一本沿わせてあった。
色はまだ抜けていない。
指でつまむと、布がやわらかい。
干し柿の色の十一本とは、手ざわりからして違う。
紐をよけて、その下に私は三つ目を書いた。

十月十七日 一時 通した 戸川

所長に頼んで、裏口の記録を出してもらった。
カードをかざした時刻が、一覧で印刷される。
零時五十分、私のカードで施錠。
三時七分、村井さんのカードで解錠。
四分後に、同じカードでまた閉められている。
四分あれば、引き出しを開けて一行書き、紐を一本挟める。
三時すぎ、村井さんは坂の下にいた。
では、一時にはどこにいたのか。

昼前に、所長の携帯へ村井さんから電話があった。
辞めます、とだけ言って切れたらしい。
理由は聞けなかったと、所長は首をかしげていた。
それきり、村井さんは研究所に来ていない。
荷物は何週間かして、親戚だという人が取りに来た。
長谷さんは、ときどき空いた席のほうを見る。
「あの人、最後まで坂の話はしてくれへんかったな」

何日かして、長谷さんが帳面を見せてほしいと言った。
私は首を振る。
自分でも、なぜ断ったのか分からない。
一つ目の決まりの筆ペンの字が、目の裏に浮かんでいた。

帳面は今、私の机の引き出しにある。
所長に言われて、私が預かった。
送ったきりの言葉には、今も既読がつかない。
裏口の記録の紙は、四つに畳んで最後の頁に挟んである。

赤い紐は、十二本になった。
いちばん新しい一本だけが、まだ赤い。
最後の頁には、村井さんの一行をはさんで、通した、の行が私の名前で三つある。
木曜の夜は、今も私が最後まで残る。
春には、男の新人が一人入ってくるらしい。

私の名前の行には、まだ一本も挟まっていない。

舞台になった場所

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