矢口に嫁に来て、もう五十年を越した。
家は新田神社の裏の方で、多摩川の堤まで歩いて十分ほどの所にある。
夫は先に逝って、今は息子と二人で住んでいる。
息子は来年の春に嫁をもらう。
だから、この話は今のうちに書いておく。
嫁に来た年の秋、姑に連れられて神社へ行った。
秋の彼岸の中日、昼の一時ごろだったと思う。
よく晴れていて、商店街の魚屋が道に水をまいていた。
姑は白い紙の包みを一つ、風呂敷に入れて持っていた。
中は握り飯が一つ。
朝、わたしが握らされたものだ。
「塩だけ。具は入れない」
理由は言われなかった。
鳥居をくぐって、手水を使って、参道の狛犬の前を通る。
社殿の前で、姑は手を合わせなかった。
拝むのは帰りだと言う。
社殿の左手に、石で作った卓球台がある。
その奥に、狛犬が一体だけ立っていた。
片方は戦争で壊れたのだと、あとで知った。
姑はその狛犬の前も、黙って通った。
社殿の裏へ回ると、柵があった。
柵の向こうが、こんもりと丸い。
木が茂っていて、藪のようにしか見えない。
手前に説明の板が立っていて、この中に入ると必ず祟りがある、と書いてある。
荒山とも、迷い塚とも呼ぶそうだ。
南朝の殿様を葬った塚で、殿様は矢口の渡しで殺されたのだという。
わたしは板を読もうとして、姑に袖を引かれた。
「読まなくていい。見なくていい」
姑は柵の前に、紙の包みをそのまま置いた。
地面に、じかに。
置いてから、頭を下げた。
手は合わせない。
わたしも真似をした。
日が高くて、柵の影が地面に細く並んでいた。
柵の端から、塚の裏手の竹が見える。
細い竹が、塚の縁で揃って止まっている。
その先には一本も出ていない。
「竹の方へは回らない」
姑が言った。
「金物は身に着けない。鍵も、時計も、かんざしも」
「どうしてですか」
「どうしてもだ」
それから社殿の前へ戻って、ここで初めて手を合わせた。
帰りにまた柵の前へ行き、包みを拾って風呂敷に戻す。
家へ帰ると、姑は仏間の引き出しから帳面を出した。
和綴じの、古いものだ。
開いて、一番新しい行の下に、一行だけ書く。
日付と、天気と、握り飯一つ、と、異状なし。
それだけ。
「来年からは、あなたが書く」
「前の行は読まなくていい」
帳面はまた引き出しにしまわれた。
握り飯は、その日の夕方、わたしが一人で台所で食べた。
それも決まりだと言われた。
家の者は食べない。
嫁が食べる。
冷えて固くなった飯は、塩の味しかしなかった。
夫はこの神社へ行かなかった。
初詣も、よその神社へ行った。
舅もそうだったし、息子も今はそうしている。
行くのは嫁だけ。
矢口の家は、そういう決まりだった。
理由を聞いても、夫は、昔からだ、としか言わなかった。
嫁に来て十五年ほどたった秋のことだ。
姑が夏の終わりから入院していて、彼岸の日はわたし一人で行った。
夫は祭日でも仕事に出ていた。
息子はまだ小学生で、朝から友達の家へ行っていた。
家の戸締まりをして、鍵を割烹着のポケットに入れた。
鍵には、息子が土産にくれた小さな鈴が付いていた。
金物を着けるなという決まりは、頭にあった。
ただ、戸を閉めて鍵を回したあと、その鍵をどうするか、考えなかった。
鍵は、いつも姑が家の者に預けて出ていた。
わたしはいつも、手ぶらで姑の後ろを歩いていた。
その日もよく晴れていた。
商店街には昼の買い物の人が出ていて、自転車のベルが鳴っていた。
鳥居をくぐると、音が少し遠くなる。
境内は木が多い。
社殿の裏へ回ると、人はいなかった。
柵の前の地面に包みを置いて、頭を下げた。
かちゃ、と鳴った。
自分の鍵だと思った。
ポケットの中で鈴が動いたのだと思って、手で押さえた。
鍵は手の下で、動いていない。
かちゃ、かちゃ、とまた鳴った。
音は、柵の向こうから来る。
塚の裏の、竹の方からだ。
風はなかった。
竹の葉は動いていない。
金物同士が、ゆっくり触れ合うような音。
鍵の束を、袋の中で揺らしたような音だった。
わたしは柵から一歩下がって、頭をもう一度下げた。
決まりの通り、竹の方へは回らなかった。
回らなかったのは、決まりのせいだけではない。
足が、そちらへ向かなかった。
社殿の前で手を合わせて、柵の前へ戻って、包みを拾った。
拾う間、音は止んでいた。
鳥居へ向かって歩き出すと、また鳴った。
後ろから。
わたしの歩く速さに合わせて、かちゃ、かちゃ、と鳴る。
立ち止まると、一つ遅れて止まる。
ポケットから鍵を出して、鈴ごと握りしめた。
鳴らないように、拳の中に閉じ込めた。
歩く。
かちゃ、かちゃ。
拳の中の鈴は、鳴っていない。
石の卓球台の横を過ぎて、狛犬の前を過ぎた。
一体だけの狛犬は、わたしの方を見ていなかった。
鳥居を出て商店街に入ると、音は人の声に混じって分からなくなった。
消えたのか、混じったのか、分からなかった。
家に着いて、鍵を柱の釘に掛けた。
いつもそこに掛ける。
仏間へ行って、引き出しから帳面を出した。
日付を書いて、晴れ、と書いた。
握り飯一つ、と書いた。
その次が、書けなかった。
かちゃ、と鳴った。
玄関の方からだ。
釘に掛けた鍵が揺れているのだと思って、見に行った。
鍵は釘に掛かったまま、動いていない。
鈴も、止まっている。
玄関の土間に立って、わたしは息を止めた。
かちゃ、かちゃ。
音は仏間から来ていた。
わたしが今まで座っていた所からだ。
帳面を開いたまま置いてある、あの座卓のあたりから。
仏間へ戻る足が重かった。
戻ると、音はしなかった。
座卓の上に帳面が開いている。
わたしの書いた日付と、晴れと、握り飯一つ。
その続きに、わたしは、音あり、と書いた。
異状なし、とは書けなかった。
書いたら帳面を閉じて、引き出しに戻した。
その日、音はもうしなかった。
握り飯は夕方に食べた。
塩の味しかしなかった。
喉を通る時、飯が一度引っかかった。
水を飲んで、流した。
その夜、わたしは理屈を並べた。
商店街の自転車の鍵。
犬の首輪の金具。
耳の病気。
姑の入院で、気が張っていたこと。
どれも、一つずつは、ありそうなことだった。
ただ、仏間の音は、どれにも当てはまらなかった。
当てはまらないものは、考えないことにした。
次の日、わたしは決まりをもう一つ破った。
帳面の前の行を読んだ。
読まなくていい、と言われていた行だ。
自分の行から、前へめくっていった。
姑の字は、終わりの方が崩れていた。
入院する前の二年ほどだ。
行が斜めになり、握り飯の字が潰れている。
最後の行は、異状なし、の「し」が、紙の端まで伸びていた。
病気だったのだから、そういうものだと思った。
そこから前は、日付、天気、握り飯一つ、異状なし。
何十行も、それが続く。
姑の字の一番前まで戻ると、一行だけ、違う行があった。
音あり。
姑の若い字で、そう書いてある。
姑が自分で書いた、一番初めの行だった。
嫁に来た次の年の秋になる。
わたしは指を止めた。
同じ二文字を、昨日、自分で書いた。
その前のページは、姑の姑の字だ。
夫の祖母で、わたしは会ったことがない。
筆の崩し字で、読めるのは、異状なし、の形くらいだった。
その並びの中に一行、音あり、と読める行がある。
その次の行は字が多くて、詰まっていて、形も追えなかった。
その人が嫁に来た年の行かどうかは、わたしには分からない。
帳面の始まりはもっと前からで、字は形にもならなかった。
そこで閉じた。
姑は冬に退院して、家に戻った。
わたしは帳面のことを聞いた。
音あり、と書いたこと。
姑の行にも同じ字があったこと。
姑はしばらく黙って、それから言った。
「書いたなら、もういい」
「お義母さんの時も、音がしたんですか」
「書いてあるだろう」
それ以上は、何も言わなかった。
鍵のことは、わたしは言えなかった。
姑はその後、何年か生きて、畳の上で死んだ。
鈴は、その年のうちに鍵から外した。
捨てる気にはなれなくて、帳面の、自分の書いた行のページに挟んだ。
今もそこにある。
それから何十年、わたしは彼岸の昼に神社へ行っている。
金物は着けない。
鍵は、出る前に家の者に預けるか、誰もいない年は植木鉢の下に置いた。
握り飯を置いて、頭を下げて、社殿で手を合わせて、包みを拾って帰る。
帳面に、異状なし、と書く。
音はしなかった。
一度も。
神社は年ごとに変わっていった。
御神木には、今は触れない。
社殿の前に大きな破魔矢の飾りができた。
若い人が写真を撮りに来る。
柵の前の説明の板は、新しくなった。
中に入ると祟りがある、という文は、新しい板にもそのまま書いてある。
今年の彼岸も、晴れた。
昼の一時に家を出た。
息子が家にいたから、鍵は持たずに出た。
割烹着のポケットには、紙の包みしか入っていない。
鳥居をくぐって、狛犬の前を過ぎて、社殿の裏へ回った。
柵の前に、人はいなかった。
包みを置いて、頭を下げた。
かちゃ、と鳴った。
竹の方からだ。
わたしは手でポケットを押さえた。
押さえてから、押さえるものが何もないことに気づいた。
金物は、何一つ着けていない。
老眼鏡も家に置いてきた。
入れ歯の金具くらいだ。
口を閉じて、歯を噛み合わせた。
音は、口の中からではなかった。
かちゃ、かちゃ。
あの時と同じ速さだった。
鍵の束を、袋の中で揺らすような。
わたしは頭を下げたまま、柵の影を見ていた。
影は地面に細く並んで、あの時と同じ所にあった。
日は高い。
商店街から自転車のベルが聞こえた。
明るいのに、首の後ろだけが冷えた。
社殿で手を合わせて、包みを拾って帰った。
音は、鳥居まで付いてきた。
歩く速さに合わせて鳴り、商店街で分からなくなった。
家に帰って、仏間で帳面を開いた。
日付、晴れ、握り飯一つ。
その次に、金物なし、と書いた。
入れ歯のことは、書かなかった。
それから、音あり、と書いた。
書いてから、ページを前へめくった。
姑の、音あり、の行は、一行だけだ。
次の年からは、異状なし、が続いている。
それは前から知っていた。
もっと前の、筆の崩し字のページを開いた。
あの日は、形しか追えなかった字だ。
今は時間がある。
老眼鏡を替えて、一字ずつ、指で押さえて読んだ。
音あり、と読める行の、次の行。
あの日、詰まって読めなかった行だ。
金物なし。音あり。
そう読めた。
何度読んでも、そう読めた。
その次の年は、異状なし。
その次も。
会ったことのない人の二行は、続いた年に並んでいる。
わたしのは、今日で二行目になった。
帳面は今、仏壇の引き出しにある。
一番前のページの余白に、わたしは今日、書き付けを足した。
秋の彼岸の中日の昼に、嫁が一人で行くこと。
握り飯一つ、塩だけ。
竹の方へ回らないこと。
金物を身に着けないこと。
鍵は、植木鉢の下に置いて行くこと。
どうしてかは、書かなかった。
書けることが、わたしにも無い。
握り飯は、台所の皿の上にある。
夕方になったら、わたしが食べる。
息子の嫁になる人は、川の向こうの人だ。
この家の血ではない。
わたしもそうだった。
姑も、そうだったと聞いている。
引き出しの帳面には、音あり、と読める行が五つある。
字は三つ。
姑は一行。
会ったことのない人は、続いた年に二行。
わたしの二行は、何十年も離れている。
帳面の始まりの字は読めないから、そこに何があるかは、数に入れていない。
鈴は、わたしの一行目のページに挟んだままだ。
帳面を閉じると、鈴の分だけ、そのページが厚い。
来年の行は、空けてある。
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