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宮内春日神社、裏へもう一本

徹と結婚して、宮内に来て三年になる。
徹の家は、神社から歩いて五分のところにある。
おばあさんが亡くなって空いた家に、私たちが入った。
古い家で、縁側の下に平たい石が一つ置いてある。
沓脱ぎの石の隣。
徹は「ばあちゃんの石」と呼んでいた。

おばあさんは祭りの晩に、この石に塩を置いていたらしい。
誰に、とは徹も聞いたことがないと言う。
私は宮内の生まれではない。
多摩川の向こうで育って、徹と会ってここへ来た。
だから土地の決まりは、一つずつ教わるしかなかった。

十月九日は、春日神社の宵宮だった。
徹は町会の若手で、朝から提灯を吊りに出て行った。
私はテントの手伝いを頼まれていた。
豚汁と甘酒。
紙コップを並べて、釜のそばで鍋をかき回すだけの仕事だ。
嫁に来てから、毎年これをやっている。

神社は参道が長い。
鳥居をくぐって、二の鳥居を抜けると拝殿がある。
拝殿の後ろは森で、昼でも暗い。
樫と欅の大きな木が、屋根の上まで枝を広げている。
隣はお寺で、境内の境目に柵がない。
東側の道の向こうが中学校で、前にはマンションが建っている。
住宅の間に、森だけが残っている。

その森の中に、石で囲った区画がある。
嫁に来てすぐ、徹に一度だけ見せられた。
拝殿の脇から、裏へ回る手前。
低い石の柱が並んでいて、中は暗がりだった。
横の看板に、昔の地誌を引いた文がある。
近づくときは祟りあり、と書いてあった。
「ここから先は行かない。それだけ覚えて」
徹はそう言って、私の肩を押して戻った。
その日から、私は裏へ回ったことがない。

町会の人は、あの区画を禁足地とは呼ばない。
裏、と言う。
人のように言うときは、裏のお方、と言う。
国夫さんが、そう呼んでいた。
徹の叔父で、町会の役を長くやっている人だ。
口数が少なくて、怒ったところを見たことがない。
提灯は毎年、拝殿の前までで止まる。
裏には一つも付けない。
電線が届かないからだと徹は言うが、国夫さんは理由を言わずにいる。

昼のうちに、一度だけ裏の近くまで行った。
風で飛んだ紙コップが、拝殿の脇の角まで転がったからだ。
追いかけて角に手をかけたところで、後ろから声が飛んだ。
「裏はいいから。朝、俺が拾う」
国夫さんだった。
私は手を離して、戻った。
紙コップは一つで、拾えば済む物だ。
それでも国夫さんは、拾わせなかった。
角から回ってくる空気が、昼なのに冷えていた。

宵宮は七時から囃子が始まった。
拝殿の前に組んだ台で、太鼓と笛と鉦が鳴る。
徹は囃子連ではないが、小さいころから聴いて育ったから、節を全部覚えている。
家で皿を洗いながら、よく口で鳴らしていた。
テントは参道の脇で、拝殿までは三十歩ほど。
鍋の湯気の向こうに、提灯の列が二の鳥居まで続いていた。
子どもが走って、紙コップが転がって、いつもの宵宮だ。

八時を回ったころだった。
太鼓の下に、低い音が一つ混じった。
ごん、と。
鉦の高い音とは違う。
胴の太い、長く残る音だ。
私は釜の火を見ながら、お寺の鐘かな、と思った。
隣はお寺だし、夜に一つ鳴ってもおかしくない。
太鼓が止むと、もう鳴らなかった。
甘酒を買いに来た子どもに釣りを渡して、それきり忘れた。

囃子は九時半に終わった。
人が引けて、片付けが始まる。
テントの脚を外して、紙コップの袋をまとめる。
囃子連は台をばらして、太鼓と鉦を倉庫に運んだ。
倉庫は参道の脇、拝殿に近いところにあって、鍵は国夫さんが持っている。
徹は椅子を畳んで、倉庫へ運んでいた。
焼けた炭の匂いが、まだ境内に残っていた。

十時ごろ、また鳴った。
ごん。
今度は太鼓がないから、はっきり聞こえた。
拝殿の方からだ。
拝殿の、裏の方から。
私は鍋の蓋を持ったまま、顔を上げた。
「お寺の鐘?」
椅子を抱えて通りかかった徹に聞いた。
「こんな時間に鳴らしてるの、見たことないな」
徹は足を止めなかった。
国夫さんは、倉庫の戸口で手を止めていた。
一拍おいて、また動き出した。
何も言わなかった。

鍋の底の豚汁を、袋に移した。
見たことがないだけだ。
お寺は見えるけど、鐘のあるところは見ていない。
あるかどうかも知らずにいた。
中学校の方で、何か鉄の物が倒れたのかもしれない。
風が出ていて、提灯の紙がばたばた鳴っていた。
そう決めて、袋の口を縛った。

十一時を過ぎて、残ったのは三人になった。
徹と、国夫さんと、私。
国夫さんが倉庫から一升瓶を一本出してきた。
白い紙が巻いてあって、筆で一字だけ書いてある。
裏、と。
「拝殿の前で待ってろ。これ、持ってな。置くなよ。俺が戻るまで」
私に渡して、国夫さんは倉庫の中の電気を落としに戻った。
徹は二の鳥居の提灯を消しに行っている。
参道の向こうで、懐中電灯の丸い光が一つ、ゆっくり動いていた。

瓶は冷たかった。
紙の字を見ているうち、去年の帳面を思い出した。
町会の当番帳で、徹が家に持ち帰ったことがある。
古い帳面で、何十年か前の欄まで残っていた。
宵宮の欄の最後に、裏へ御神酒一本、と書いてあった。
前の方の欄をめくると、同じ行の字が一つ、墨で潰してあった。
潰した字の横に、小さく裏と書き足してある。
何の字、と聞くと、徹は帳面を閉じた。
「昔の人が書いた名前だよ。今は書かない」
「どうして」
「書くと呼ぶのと同じだって。ばあちゃんがそう言ってた」
誰を、とは聞かなかった。
聞いたら、徹が困る顔をするのが分かっていた。

私は拝殿の前に立っていた。
賽銭箱の前。
右手の脇の角を回れば、裏へ出る。
出たことはない。
森から下りてくる空気が、首の後ろに当たっていた。
木の匂いと、湿った土の匂い。
拝殿の明かりは消えて、参道の提灯も一つずつ消えていく。
私の足もとだけ、倉庫の軒の電球で薄く明るかった。

瓶を胸に抱えて、その明かりの届くところから出ないようにしていた。
道の向こうの中学校は、窓が全部暗い。
マンションのベランダにも、もう人はいない。
森の上で枝が擦れる音だけが、ずっと続いていた。
早く戻ってきて。
口の中でだけ言った。

鳴った。
ごん、ごん、ごん。
一つではなかった。
速い。
誰かが急いで叩くような速さで、十を数える前に止まった。
裏からだ。
石の囲いのある方。
瓶を抱いた腕に、力が入った。
置くな、と言われた。
だから置かなかった。
逃げなかったのではなく、瓶を持ったまま走る自分が思い浮かばなかった。

音が止んで、提灯の紙が鳴って、それから声がした。
「もう一本」
低い、男の声だった。
拝殿の角の、すぐ向こう。
私が立っている場所から、五歩も離れていない。
国夫さんの声だと思った。
裏から戻ってきたのだと。
「はい」
私は答えた。
答えてから、国夫さんは裏に行っていないことに気づいた。
倉庫に行った。
倉庫は私の後ろだ。

振り向くと、倉庫の戸口に国夫さんが立っていた。
懐中電灯を持って、こちらを見ている。
角の向こうからは、もう何も聞こえない。
「今、裏から」
声が震えて、続きが出なかった。
国夫さんは私のそばまで来て、瓶を受け取った。
「何て言われた」
「もう一本、って」
国夫さんは私の顔を見なかった。

倉庫へ戻って、もう一本、同じ瓶を出してきた。
紙も同じ。字も同じ。
懐中電灯を脇に挟んで、二本を両手に持った。
拝殿の脇に置いた。
角を回らず、角のこちら側に。
置くときに、小さく頭を下げた。

「聞いたことは、言わなくていい。徹にも」
言って、国夫さんは倉庫の鍵を掛けに行った。

私が返事をしたことは、言えなかった。
はい、と答えてしまった。
答えてよかったのかどうか、今も誰にも聞いていない。
徹が提灯の束を抱えて戻ってきて、三人で帰った。
徹は、音の話をしなかった。
国夫さんは、鳥居を出るとき一度だけ振り返った。
私は振り返らなかった。
背中に森の空気がついて来る気がして、歩くのが速くなった。
徹が「どうした」と言って、私の手を取った。
手が冷えていると言われた。

家までは歩いて五分だ。
マンションの明かりはほとんど消えていた。
三人の足音の間で、国夫さんの腰の鍵が鳴っていた。
歩きながら、理屈を探した。
囃子連の誰かが酔って、裏で遊んだ。
鉦ではなく太鼓の胴を叩いて、国夫さんの声色を真似た。
それなら全部つながる。
囃子連は九時半に帰っている。
太鼓は倉庫にあって、鍵は今、後ろで鳴っている。
そこから先は、考えなかった。

家に着いて、縁側の下の石を見た。
徹から聞いて、去年は私が塩を置いた。
今年は忘れていた。
朝から神社で、帰ったのは十二時前だ。
置いていない石は、ただの石に見えた。
台所から塩の皿を出して、置く前に手のひらで石を払った。
乾いていて、冷たくて、平らだった。
徹はもう風呂に入っていた。

布団に入っても、耳が起きていた。
隣の家の給湯器が止まる音。
徹の寝息。
遠くで府中街道を走る車。
鐘は鳴らなかった。
鳴らないのを確かめているうちに、朝になった。

翌日は湯立だった。
テントの釜がまた沸いて、湯気が参道に流れた。
昼の境内は人が多くて、子どもの声で埋まっていた。
昨夜と同じ場所に立っても、首の後ろに何も来ない。
石の囲いは森の奥で、昼は木の影に沈んで見えなかった。
国夫さんは普段どおりで、私にも普段どおりだった。
拝殿の脇の瓶は、二本とも無くなっていた。
「下げたよ」と国夫さんは言った。
私はうなずいて、釜の火に戻った。
聞けば、国夫さんが答えなければならなくなる。

徹に、鐘のことだけ聞いた。
「この神社、鐘ってあるの」
二人で豚汁の鍋を運んでいる途中だった。
「ないよ。神社に鐘なんかあるか」
「隣は」
「鳴らしてるの、聞いたことないな」
昨夜の音を、頭の中で数えた。
三回。
手の汗で、鍋の取っ手が滑った。
徹が「おい」と言って、鍋を持ち直した。

祭りが終わって、一週間がたった。
半纏は洗って畳んだ。
豚汁の鍋は町会の倉庫へ返した。
徹は会社へ行き、私はパートへ行く。
夜は二人で飯を食う。
徹は皿を洗いながら、また囃子の節を口で鳴らす。
音は、あれから聞いていない。
拝殿の脇にも、近寄らずに過ごしている。

当番帳は、今年も徹が家に持ち帰って書いた。
食卓で、去年の欄の下に今年の欄を足していく。
提灯何張、豚汁何杯。
最後の行も、徹の筆は止まらなかった。
裏へ御神酒二本。
「二本なの」
聞くと、徹は顔を上げずに言った。
「国夫さんが二本だって」
「なんで」
「聞いてない」
書き終えてから、徹は古い欄までめくって戻した。
墨で潰した字の上を、指で一度なぞった。
なぞってから、何もなかったように帳面を閉じた。

縁側の下の塩は、一週間で固まっていた。
皿を下げようとして、気づいた。
皿が石の上で傾いている。
ばあちゃんの石が、真ん中から、まっすぐ二つに割れていた。
しゃがんで見ると、割れ目は指が入るほど開いていた。
割れ目の中は、外より赤かった。

「石、割れてる」
夕飯のとき、徹に言った。
徹は味噌汁を飲んで、言った。
「前からだよ」
前からではない。
去年も、今年も、置く前に手のひらで払った。
割れていなかった。
徹は箸を止めなかった。
私は味噌汁の椀を持って、黙って飲んだ。

塩の皿は、どちらの側に乗せても傾いた。
石は今も、二つに割れたまま庭にある。

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