日光の宿に着いたのは、三時を回ったころだった。
圭吾は車を宿の駐車場に入れて、エンジンを切った。
奈緒は助手席で、地図の画面を見ていた。
「憾満ヶ淵、ここから歩けるよ。二十分」
行くの、と圭吾は聞いた。
「暗くなる前に。お地蔵さん、見たい」
奈緒の祖母が宇都宮の人で、子どもの頃に一度連れて行かれたのだと言う。
その時は怖くて、列の途中で引き返した。
祖母が、ここから先は数が合わなくなるから帰ろう、と言ったのだという。
奈緒はその言葉の意味を、結局、聞けずじまいだった。
祖母は三年前に亡くなった。
今度はちゃんと最後まで見る、と奈緒は前から言っていた。
圭吾は地蔵に興味はなかったが、川は見たかった。
宿は大谷川に近い古い旅館で、部屋は二階の角だった。
窓を開けると、川の音がした。
低く、途切れない音だった。
仲居さんが、夕食は六時半です、と言って出ていった。
圭吾は時計を見た。
四時前。
行って帰って、間に合う。
川沿いの道を上流へ歩いた。
日はまだ山の上にあったが、谷の底は先に暗くなり始めていた。
奈緒は歩きながら、調べたことを話した。
並んでいるお地蔵さんが、昔は百体あったこと。
明治の大水で、寺ごと流されたこと。
行きと帰りで、数が合わないと言われていること。
「数えないよ。数えちゃだめなんだって」
奈緒はそう言って、圭吾の袖を引いた。
小さな寺の前を通った。
明治の大水で流されて、建て直したのだと、案内の板に書いてある。
その先が憾満ヶ淵だった。
黒い岩の間を、白い水が落ちていく。
岩の上に小さな堂があって、昔はここから川へ向けて護摩を焚いたのだと書いてあった。
今は堂の戸が閉まっていて、中は見えない。
淵の名は、水の音が不動明王の真言に聞こえるから付いた、と奈緒が言った。
圭吾には、ただの水の音に聞こえた。
大きくて、低くて、途切れない。
遊歩道に入ると、川の音がさらに大きくなった。
対岸の岩に当たって返ってくるので、前からも後ろからも聞こえる。
奈緒が、数えないよ、ともう一度言った。
その言葉が、一拍遅れて、対岸から返ってきた。
かぞえないよ。
奈緒の声より低く、ゆっくりした声だった。
圭吾は、川の音がそう聞こえただけだと思った。
奈緒は気づいていない顔をしていた。
気づいていて、黙っている顔にも見えた。
左手に、地蔵が並び始めた。
赤い帽子と前掛けが、苔の緑の中で、そこだけ色を持っている。
顔は雨で削れて、目鼻の分からないものが多かった。
奈緒は一体ずつ、前で立ち止まった。
数えてはいない。
見ているだけだと、圭吾には分かった。
列の中ほどで、奈緒が足を止めた。
一体だけ、帽子が落ちていた。
色の抜けた赤い布が、地蔵の足元の石の上に、裏返しで置いてある。
風で落ちたのだろう。
奈緒が手を伸ばしかけて、止めた。
「触っちゃだめだよね」
触らない方がいい、と圭吾は言った。
信仰の物だし、ここの決まりは知らない。
奈緒はうなずいて、帽子のない地蔵に、小さく頭を下げた。
圭吾はその時、足元の砂利を一つ拾っていた。
癖だった。
川や海に行くと、小石を一つ持って帰る。
机の引き出しに、もう三十ほど溜まっている。
灰色の、親指の先ほどの石だった。
ポケットに入れて、奈緒には言わなかった。
言えば、やめろと言われる気がした。
列の終わりまで行って、引き返した。
帰りは奈緒が先を歩いた。
帽子の落ちていた地蔵の前を通る時、奈緒が、あ、と言った。
帽子が、頭に載っていた。
赤い布が、きちんと頭を覆っている。
誰かが直したのだ。
圭吾はそう思って、道の前後を見た。
人はいなかった。
ここまで、誰ともすれ違っていない。
「風かな」
奈緒が言った。
風で落ちた物が、風で頭に戻ることはない。
圭吾はそれを言わずに、そうかもね、と答えた。
帰り道、川の音は背中から追ってきた。
遊歩道を出ても、寺の前を過ぎても、同じ大きさで続いた。
宿が見えた時、圭吾は自分が早足になっているのに気づいた。
奈緒も何も言わずに、同じ速さで歩いていた。
宿に戻ると、五時半だった。
部屋の窓から、川の音が入ってくる。
奈緒は宿の売店を見に下りて、圭吾は窓際の椅子に座った。
ポケットの石を出して、窓の桟に置いた。
石は、まだ湿っていた。
拾ってから一時間は経つのに、乾いていない。
触ると、指に水が付いた。
圭吾はそれをズボンで拭いて、石をそのままにした。
夕食は部屋だった。
仲居さんが膳を運びながら、お地蔵さんは見ましたか、と聞いた。
見ました、と奈緒が答えた。
帽子が落ちているのがあって、触らないでおきました、と。
仲居さんは、それでいいんです、と言った。
帽子も前掛けも、檀家の人が縫い替えるのだと。
落ちていても、その人たちが直す。
「数えました?」
数えていません、と二人で答えた。
仲居さんは笑って、それもいいんです、と言った。
何がいいのかは、言わなかった。
夕食の膳が下げられてから、二人で風呂へ行った。
戻ると、布団が敷いてあった。
窓の桟の石は、無かった。
仲居さんが片付けたのだろう、と考えることにした。
ごみに見えても仕方のない石だ。
奈緒は、石のことを知らない。
夜中に、圭吾は目を覚ました。
川の音が、夕方より大きい。
部屋の明かりは消してあって、障子の向こうの廊下だけ、常夜灯が点いている。
廊下の板が冷えているのが、障子越しでも分かる気がした。
川の音が、障子の紙を細かく震わせていた。
その障子に、影が映っていた。
廊下に立っている人の影だと、最初は思った。
背が低い。
子どもほどの高さで、頭が丸い。
肩がなく、頭から下が一つの形で、裾が広がっている。
その影が、障子の端から端へ、ゆっくり動いた。
歩く動きではなかった。
横へ滑る動きだった。
圭吾は、隣の布団を見た。
奈緒は寝ている。
寝ながら、圭吾の浴衣の袖を掴んでいた。
掴む手に力が入っていて、起きているのかと思ったが、息は寝息に聞こえた。
もう一度障子を見ると、影は一つではなかった。
同じ形の影が、間を空けて、二つ、三つ、並んで動いていく。
端まで行って、消える。
また左から出てくる。
数えようとして、圭吾はやめた。
奈緒の言葉が頭にあった。
数えちゃだめなんだって。
常夜灯の前を、誰かが通れば影は映る。
廊下を、他の客が歩いているのかもしれない。
子どもの客が、何人も、列になって。
圭吾はそう考えて、その考えのおかしさに、途中で気づいた。
影が最後の一つになるまで、圭吾は目を開けていた。
最後の一つは、端まで行かずに、障子の真ん中で止まった。
そのまま、動かなかった。
圭吾は布団をかぶった。
川の音だけを聞いて、朝まで待った。
朝、障子を開けた。
廊下には誰もいなかった。
常夜灯は消えていて、廊下の窓から日が入っていた。
足元に、何か落ちていた。
赤い布だった。
小さな、丸い帽子。
昨日、地蔵の足元に落ちていたのと同じ形だった。
圭吾は拾わなかった。
部屋に戻って、奈緒を起こした。
廊下に帽子が落ちている、と言うと、奈緒は寝ぼけた顔で廊下に出て、それから声を出さずに戻ってきた。
「宿の人に言おう」
奈緒はそう言って、電話を取った。
仲居さんが来て、廊下を見て、首をかしげた。
うちの物ではないです、と仲居さんは言った。
でも、お地蔵さんのなら、お返ししておきます。
仲居さんは帽子を両手で持って、裏を返した。
「新しいですね」
布は赤く、縫い目も白く、日に焼けていなかった。
昨日、石の上に落ちていた帽子は、色が抜けて、端がほつれていた。
圭吾はそれを言わなかった。
仲居さんは帽子を持って、下りていった。
朝食の時、圭吾は昨夜のことを言わなかった。
食堂は川と反対側で、窓は閉まっていた。
それでも、川の音が聞こえた。
低く、途切れない音が、味噌汁の椀の縁で鳴っているように思えた。
奈緒も、一度だけ、窓の方を見た。
奈緒は、帽子のことだけ話した。
誰かが、お土産に持ってきちゃったのかな、と奈緒は言った。
それで気が咎めて、廊下に置いたのかも。
そうかもしれない、と圭吾は答えた。
障子の影のことは、言えば奈緒が今日一日、怖がる。
帰りの車で話そうと思って、結局、話さなかった。
会計の時、仲居さんがもう一度来て、奈緒に小さな紙の袋を渡した。
寺の護符だった。
さっき人に頼んで返しに行ってもらって、ついでにいただいてきました、と仲居さんは言った。
奈緒は礼を言って、鞄の内側に入れた。
圭吾の分は、なかった。
宿を出る前に、圭吾は靴を履いた。
右の靴の中に、何か入っていた。
出すと、小石だった。
灰色で、親指の先ほどの、湿った石。
窓の桟から消えた石が、靴の中にあった。
仲居さんが靴に入れるはずがない。
圭吾は石を見て、それから玄関の外を見た。
川は見えない。
音だけが聞こえる。
圭吾は石を、玄関の脇の植え込みに置いた。
持って帰らない、と決めた。
置いた石の横に、同じ灰色の石が、もう一つあった。
前からそこにあったのか、分からない。
圭吾は見なかったことにして、車に乗った。
帰りの道は、圭吾が運転した。
日光の町を抜けるまで、二人とも黙っていた。
高速に乗ってから、奈緒が言った。
「石、置いてきたでしょ」
圭吾は、奈緒に石の話をしていない。
見てたよ、と奈緒は言った。
拾う時も、置く時も。
「置いてきて、よかったと思う」
奈緒は窓の外を見ながら言った。
その先は言わなかった。
圭吾も聞かなかった。
三日後に、奈緒が宿へ電話をかけた。
あの帽子がどのお地蔵さんに戻ったのか、気になったのだと言う。
電話に出たのは、あの仲居さんだった。
お返ししました、と仲居さんは言った。
ただ、帽子のないお地蔵さんが、一体もなかったんです。
全部、かぶっていました。
だから、列のいちばん端に、置いてきました。
奈緒はその話を、圭吾に電話で伝えた。
文字で打つ気になれなかった、と言った。
それから一週間ほどして、奈緒から写真が送られてきた。
奈緒の部屋の玄関で、靴箱の上に、小石が一つ載っている。
灰色で、親指の先ほど。
奈緒は一人で住んでいる。
合鍵は圭吾しか持っていない。
拾ったの、と圭吾は返した。
拾ってない、と奈緒は返した。
朝起きたらあった。
次の日も、写真が来た。
石が二つになっていた。
その次の日は三つ。
並べたのは私じゃない、と奈緒は書いていた。
朝起きると、一つ増えて、並んでいる。
間隔が同じで、靴箱の端から順に、左から右へ。
写真を見ると、石と石の間が、指一本ぶんずつ空いていた。
圭吾は、宿の障子の影のことを、その時に初めて奈緒に話した。
奈緒はしばらく返事をしなかった。
それから、短く返ってきた。
「私も見た。言わなかっただけ」
圭吾は、自分の部屋の引き出しを開けた。
三十ほどの石が、仕切りの中に入っている。
入れた時は、ばらばらに放り込んだはずだった。
今は、仕切りの縁に沿って、一列に並んでいた。
全部、濡れていた。
引き出しは、机の中だ。
水の来る所ではない。
一つを取り出して、窓の日の当たる所に置いた。
夕方になっても、乾かなかった。
圭吾は引き出しを閉めて、奈緒に電話をかけた。
出るまでの間、呼び出し音の向こうに、川の音がしていた。
奈緒の部屋は、川から遠い。
石は今も、奈緒の玄関に増えている。
今朝の写真で、七つになった。
七つ目の右に、指一本ぶんの空きがある。
奈緒は捨てていない。
捨てるとどうなるか、二人とも、聞く相手がいない。
圭吾の引き出しの石は、減っていないはずだ。
数えてはいない。
並びが崩れていないことだけ、手で触って確かめる。
触るたびに、指が濡れる。
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