タクシーに乗るようになって、半年になる。
四十二で前の仕事を辞めて、川崎の営業所に入った。
夜勤専門だ。
昼より客単価がいいし、人と話さなくて済む時間が長い。
自分には合っていると思う。
営業所に入って最初に教わったのは、忘れ物の扱いだった。
客を降ろしたら、必ず後ろを振り返る。
いちばん多いのが傘で、次がスマホ。
傘は一晩で三本溜まる日もある。
俺は半年、その癖を守っている。
十月の頭、小雨の夜だった。
夕方から降ったりやんだりで、路面だけがずっと黒い。
二十三時を回ったころ、無線が入った。
梶が谷駅前で一名。
田園都市線の梶が谷駅は、坂の途中にある駅だ。
駅前に車を寄せると、男がひとり、屋根のない場所に立っていた。
手を上げない。
こっちが止まるまで、ただ立っている。
五十くらい。
紺の作業ジャンパーで、肩のところが黒く濡れていた。
手にはビニール傘。
たたんであるのに、先から水が垂れている。
後ろのドアを開けた。
男は傘を閉じたまま乗り込んで、座席の足元に立てた。
靴が鳴る。
ぐちゅ、と中まで濡れた音だ。
「どちらまで」
「梶ヶ谷の、貨物の下を抜けた先で」
声は低くて、少しかすれていた。
行き先はすぐ分かる。
尻手黒川道路から南へ折れて、梶ヶ谷貨物ターミナルの下をくぐる道がある。
第二梶ヶ谷架道橋。
乗務員は皆、梶ヶ谷トンネルと呼んでいる。
車内に匂いが広がった。
雨に濡れた服の匂いとは別だ。
魚屋の前を通った時の、あの匂いに近い。
俺は窓を指一本ぶん開けた。
「だいぶ降られましたね」
「海の方から来たんで」
川崎の海の方となれば、川崎区か。
電車なら一時間もかからない。
それにしては、濡れ方がひどすぎる。
俺はそれ以上聞かなかった。
夜の客に事情を聞くと、長くなる。
尻手黒川道路を宮前の方へ走った。
この時間は大型のトラックが多くて、追い越されるたびに車体が揺れる。
ワイパーは間欠で足りる程度の雨だ。
ミラーの男は、傘の柄を膝の間に立てて、動かない。
窓の隙間から入る風が、匂いを薄めてくれなかった。
梶ヶ谷六丁目の交差点で南へ折れると、道はすぐ細くなる。
住宅の明かりが途切れて、正面に四角い口が見えてきた。
梶ヶ谷トンネルは、山を掘ったトンネルじゃない。
貨物駅の広い線路の下に、コンクリの箱を通した道だ。
長くて、まっすぐで、天井が低い。
歩道はガードレールで車道と仕切られていて、人ひとりがやっとの幅だ。
上は鉄道の敷地で、柵の向こうには誰も入れない。
中に入った。
壁が青い。
地元の中学生が描いた水族館の壁画で、魚の群れが両側を泳いでいる。
ヘッドライトが当たると、魚の目だけが白く浮いた。
天井の隙間を風が抜けて、細く鳴っている。
その上で、貨車を連結する音が、ごん、と響いた。
そこで、屋根が鳴った。
ばらばらばら、と強い雨が当たる音だ。
外の雨は、そんな強さじゃない。
それに、ここは貨物駅の真下だ。
雨が屋根に届くはずがない。
天井の継ぎ目から、水が落ちているんだろう。
線路の排水が溜まって、車が通ると落ちてくる。
俺はそう考えて、アクセルをゆるめなかった。
後ろに一台ついている。
ここで止まるわけにはいかない。
ミラーを見た。
男は傘の柄を両手で握って、前を見ている。
屋根の音に、まばたきもしなかった。
出口の白い光が近づいて、音がやんだ。
切れ方が、蛇口を閉めた時に似ている。
抜けると、フロントガラスに小さな雨粒がつく。
外は、さっきと同じ小雨だ。
やっぱり継ぎ目の水か。
俺は肩の力を抜いた。
「この先の、角でいいです」
高津区と宮前区の境のあたりで、男は降りた。
料金は千円と少し。
小銭を数えて、きっちり出した。
手が冷たくて、札の端が湿っている。
「どうも」
男はそう言って、ドアの外で傘を開いた。
開いた傘の内側から、水がばさっと落ちた。
たたんでいた間に溜まった量にしては、多い。
男は角を曲がって、見えなくなった。
癖のとおり、後ろを振り返った。
座席には何もない。
足元にも、何もない。
濡れた跡が、座面に薄く残っているだけだ。
空車の表示に戻して、同じ道を引き返す。
この辺りは道が細くて、尻手黒川道路に戻るには、架道橋をくぐるのがいちばん早い。
二度目のトンネル。
屋根は鳴らなかった。
壁の魚が、ライトの端を流れていく。
抜けて、最初の信号で止まった。
何気なく、後ろを振り返る。
後部座席に、ビニール傘が一本、横になっていた。
さっきの客のだ。
いや、客は開いて帰った。
俺はこの目で見ている。
降ろした後も、座席を確かめた。
なら、その前の客か。
夕方に乗せた学生が、傘を持っていた気がする。
見落としていたのかもしれない。
座席の下に転がって、カーブで出てきたのなら、話はつく。
手を伸ばした。
傘は濡れていた。
たたんだ布の間から、冷たい水が指に伝う。
夕方からずっと車内にあったなら、乾いているはずだ。
エアコンもかけていた。
俺は首を振って、傘を助手席の足元に移した。
雨の日だ。
濡れた傘が濡れているのは、当たり前だと思うことにした。
無線が入った。
宮前平駅で一名。
宮崎台の方へ行く客で、トンネルは通らない。
若い女で、スマホを見たまま乗って、スマホを見たまま降りた。
その間、俺は助手席の足元を見ないようにしていた。
降ろした後、後ろを振り返る。
何もない。
胸の奥が、少しゆるんだ。
宮前平駅前の乗り場に車を入れて、しばらく待った。
客は来ない。
窓を四枚とも下ろして、外の空気を入れる。
匂いは薄くならなかった。
助手席の足元から、ぽた、と一度だけ音がした。
傘の先から、マットに水が落ちた音だ。
夕方の傘だとしても、乗せてから何時間になる。
まだ落ちるほどの水が、どこに残っているのか。
俺は窓を閉めて、ラジオをつけた。
音があるだけで、少しましになる。
二時を回って、無線がまた鳴った。
梶ヶ谷五丁目、野沢様、一名。
番地を聞いて、胃が重くなった。
さっき男を降ろした角の、すぐ近くだ。
行くには、架道橋を通る。
断る理由がない。
半年目の乗務員が、場所を選んで仕事をするわけにはいかなかった。
売上は毎朝、紙に出る。
俺は了解とだけ返した。
雨は、いつの間にかやんでいた。
尻手黒川道路の路面の黒さが、街灯の下でまだらになりはじめている。
梶ヶ谷六丁目の交差点を折れると、また四角い口が待っていた。
三度目。
入った途端に、屋根が鳴った。
一度目より、はっきり強い。
ばらばらばら、ではなく、だあっ、という音だ。
バケツをひっくり返したくらいの量が、屋根を叩いている。
なのに、ワイパーの前には一滴も落ちてこない。
フロントガラスは、乾いたままだ。
後ろから一台、ライトがついてきている。
車道は対向と合わせて二本きり。
止まれないし、戻れもしない。
抜けるしかなかった。
壁の魚が、横を流れる。
青い壁に、白い目。
その時、後ろで、ばさっ、と音がした。
重いものが座席に落ちた音だ。
ミラーには、座席の背しか映らない。
誰も乗せていない。
出口を抜けた。
屋根の音は、切れるように止まった。
指定の番地の前に車を寄せて、ハザードを出す。
誰もいない。
戸建ての玄関は暗く、表の道に人影もなかった。
五分待って、無線を入れた。
オペレーターの女の声が、少し遅れて返る。
「そちら、キャンセル入ってます。奥様から、ご主人さっき帰ってきたからって。お手数おかけしました」
さっき、という言葉が引っかかった。
俺が男を降ろしたのは二十三時で、もう三時間前だ。
別の客だと思えばいい。
俺はそう思うことにして、ひとつ息を吸った。
いまはそれより、後ろを見る方が先だ。
室内灯をつけた。
後部座席に、ビニール傘が二本。
並んで横になっている。
どちらも、たたんだ布から水が落ちていた。
座席のシートに、丸く濡れた跡が広がっている。
助手席の足元に移した一本は、そのままそこにある。
合わせて三本だ。
数が、合わない。
俺は乗せた覚えのない傘を、三本、車の中に抱えている。
背中の汗が冷えて、シャツが張りついた。
手で触った。
柄は、冷たい。
外気より冷たくて、しかも、ぬるっとしている。
雨水の感じじゃない。
指を鼻に近づけて、すぐ離した。
男の服と同じ匂いだ。
俺は傘から手を離した。
そのまま、来た道を戻る。
戻るには、また架道橋をくぐる。
他の道は、遠回りの上に細くて、夜に走ったことがない。
知らない道で何か起きたら、戻る道も分からなくなる。
四度目は、何も鳴らなかった。
壁の魚は、同じ顔で泳いでいた。
抜けて、尻手黒川道路に出て、コンビニの駐車場に車を入れる。
明かりの下で、長く息を吐いた。
傘を調べることにした。
忘れ物の台帳には、特徴を書く欄がある。
柄の色、持ち手の形、名前の有無。
書けるものがあれば、ただの忘れ物として扱える。
後ろのドアを開けて、座席の端に腰を下ろした。
室内灯の下に、二本を並べる。
どちらも、コンビニで売っている透明のビニール傘だ。
持ち手は黒。
骨の数も同じで、見分けがつかない。
持ち手の付け根に、マスキングテープが巻いてあった。
黄色いテープに、油性ペンの字。
のざわ、と平仮名で書いてある。
もう一本の付け根を見た。
同じ黄色いテープ。
同じ、のざわ。
助手席の足元の一本を引き寄せた。
二度目のトンネルのあとで、俺が自分で移した傘だ。
あの時は、暗くて付け根まで見ていない。
付け根に、黄色いテープ。
のざわ。
二時の客の名字だ。
俺は傘を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
野沢は、珍しい名字じゃない。
川崎にいくらでもいる。
一軒の家の傘に、同じ名前が書いてあるのも当たり前だ。
家族の傘なら、そうなる。
子どもが学校に持っていく傘に、親が名前を書く。
夕方に乗せた学生の傘なら、それで説明がつく。
説明がつかないのは、数だ。
一軒の家の傘が、なぜ俺の車に、一本ずつ増えるのか。
二時の家には、誰も出てこなかった。
奥さんの声を、俺は無線越しにも聞いていない。
さっき帰ってきた、という旦那の顔も知らない。
知っているのは、二十三時に乗せた男の背中だけだ。
紺のジャンパーの、濡れた肩。
あの男が角を曲がった先に、野沢の家はある。
あの家の旦那が、男と同じ人なのかどうか。
俺には確かめようがない。
確かめに戻る道は、架道橋しかなかった。
テープの字は、水でにじんでいた。
三本とも、同じにじみ方だ。
書いてから長い間、水に浸かっていた字に見える。
俺は三本を、元あった場所にそっと戻した。
テープには、もう触らない。
それから営業所に戻るまで、二組の客を乗せた。
溝の口の飲み屋帰りと、高津駅前の若い二人連れ。
どちらもトンネルの向こうには行かない客だ。
俺は配車のたびに、番地を二度聞き返した。
傘は、後ろに二本、助手席に一本、置かれた場所のままだ。
客は誰も、傘のことを言わなかった。
匂いのことも言わない。
気づかないのか、言わないだけなのか、俺には分からない。
五時すぎ、営業所に戻った。
海の方の空が、うっすら明るくなっている。
洗車場の横に、忘れ物の窓口がある。
岡部さんという、七十近い人が、朝だけそこに座っている。
元乗務員で、車の中の忘れ物は、たいてい見た目で分かるらしい。
俺は傘を三本、束ねて持っていった。
束ねる時、濡れた布が手首に触れて、鳥肌が立った。
黄色いテープが三つ、束の根元で重なる。
どれが最初の一本か、もう分からない。
「傘、三本です。梶ヶ谷のトンネルの先で」
岡部さんは台帳を開いて、俺の乗務員番号を書いた。
「客は何人」
「向こうまで行ったのは、一人です。二十三時に」
「一人で三本か」
岡部さんは顔を上げなかった。
三本と書いて、ペンを止める。
傘の一本を取って、先を下に向けた。
水が、台の上に落ちる。
「まだ垂れてるな」
「ずっと、落ちてます」
岡部さんは傘の先に顔を近づけた。
それから、俺を見た。
「これ、雨じゃないよ」
俺は何も返せなかった。
「海の水だ」
岡部さんは傘を元の束に戻して、台帳の三本の横に、小さく何か書き足した。
俺にはその字が読めない。
聞く前に、岡部さんは台帳を閉じて、束を棚の奥に押し込んだ。
いちばん奥の、取りに来る人のいない段だ。
車に戻ると、後部座席のシートに、丸い濡れ跡が二つ残っている。
助手席の足元のマットにも、一つ。
乾いた布で拭いた。
布は、すぐ重くなった。
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