毎年、十月の三日に稲武へ行く。
佳代の母親の命日で、墓が稲武の寺にある。
豊田の家から国道を上がって、伊勢神の峠を越えていく。
片道で、一時間と少しの道のりだ。
佳代は稲武の生まれで、わしは豊田の町の生まれだ。
わしは八十で、佳代は三つ下になる。
所帯を持って、もう五十何年たつ。
息子は一人きりで、名古屋で家を持った。
年に一度の墓参りは、二人で行くと決めてある。
わしは、出るのが早い。
トラックに四十年乗ったせいで、三時には目が開いてしまう。
この国道も、何百回走ったか分からん。
佳代は毎年、暗いうちから起こされると文句を言う。
言いながら、四時前にはちゃんと支度を済ませている。
その朝も、四時十分に家を出た。
佳代は助手席で、魔法瓶を膝に抱えている。
後ろの座席の右側には、新聞紙でくるんだ小菊を寝かせてあった。
前の日に、佳代が庭で切ったものだ。
車は白い軽で、何年か前に息子が選んでくれた。
足助の町を抜けるころ、佳代が口を開いた。
「今年は、旧道で行かん?」
「旧道って、伊勢神のか」
「ほうだよ。あの石のトンネル」
わしは、黙ってハンドルを握り直す。
伊勢神の峠には、いま通れるトンネルが二本ある。
みんなが走るのは、国道の長いほうだ。
千二百メートルあまりあって、大型同士だと壁を擦りそうになる。
古いほうは、その上の山の中を抜けている。
百年以上前にできた、石のトンネルだ。
今年の春には、北側に掘っていた三本目が向こうまで抜けたと、新聞に出た。
そっちは工事の最中で、まだ誰も通れん。
旧道のトンネルは、若い者のあいだで、出るの何のと噂になっとるらしい。
息子が高校のころ、そんな話を家でしていた。
わしは、ああいう話は好かん。
旧道を通ったのは、一度きりだ。
五十年あまり前の秋、佳代を稲武の親元へ送っていった晩だ。
嫁にくださいと、頭を下げに行く晩でもあった。
あのころは、国道のトンネルを通るのに金が要った。
その金が、わしには惜しくてな。
買ったばかりの中古の軽で、灯りのひとつもない旧道を上った。
トンネルの中は砂利道で、ライトの届く先しか見えん。
石が車の腹を叩く音だけが、ずっと続いていた。
稲武の家では、佳代の親父さんが黙って酒を出してくれた。
あの晩のことで覚えているのは、それと、トンネルの音くらいだ。
「新しいのが開いたら、もう峠の上には行かんようになるでね」
佳代は、窓の外の暗い山を見ながら言った。
言われてみれば、そのとおりだ。
国道のトンネルの手前で、道が少し広くなっている所がある。
昔の料金所の名残だと、トラック仲間に聞いた。
道沿いの店は昼前からで、窓はまだ真っ暗だ。
晴れた昼なら、その窓から名古屋のほうまで見えるそうだ。
わしは、広い所の端に車を寄せた。
旧道へ入る前に、タイヤを見ておきたい。
エンジンはかけたまま、外へ出てドアを閉める。
山の空気が、首筋に冷たい。
右の前、右の後ろと、靴の先で一本ずつ蹴っていく。
四十年の癖だ。
後ろを回って、左の後輪の前でかがんだ。
車の中から、話し声がした。
佳代の声と、もう一つ、低い男の声だ。
何を言っているのかまでは、聞き取れん。
佳代の声は、わしと話すときより若い。
佳代が笑った。
男の声も、短く笑った。
ラジオなら、家を出る前に消してある。
わしは、助手席のドアを開けた。
中には、佳代が一人で座っている。
魔法瓶を抱えたまま、こっちを見上げた。
「なに」
「誰としゃべっとった」
「誰とも。しゃべっとらんよ」
ドアを閉めて、左の後輪の前へ戻った。
かがんだとたん、ガラスの向こうで、また声がする。
さっきより、少しはっきりしている。
佳代が、相づちを打っているのが分かった。
今度は、左の後ろのドアを開けた。
後ろの座席には、新聞紙にくるんだ小菊が寝ているだけだ。
声は、ぴたりと止んでいる。
佳代は前を向いたまま、魔法瓶の蓋をきつく締め直した。
わしは何も聞かずに、運転席へ戻った。
聞いたところで、同じ返事が来るだけだ。
国道のトンネルの口の手前で、左へ折れる。
時計は、五時を十分ほど回っていた。
旧道は、そこから山へ上っていく。
折れてすぐ、車の尻が沈んだ。
後ろで、新聞紙がかさりと鳴る。
人を一人、後ろに乗せたときの沈み方だ。
ライトの先が持ち上がって、杉の幹の高い所ばかり照らしている。
荷を積んで四十年走った体だから、積んだ重さは尻で分かる。
坂のせいにした。
旧道の上りは、きつい。
窓のすき間から、杉の匂いが入ってくる。
道の縁には、ガードレールの代わりに角ばったコンクリートの塊が並ぶ。
灯りのつかない古い電灯の柱が、ところどころに立っていた。
脇へ分かれる細い道は、車止めと岩でふさいである。
そっちへは、誰も入らん。
石を積んだ古い擁壁の脇を、車はのろのろと上っていく。
「あの晩も、ここを上ったねえ」
佳代が、前を向いたまま言った。
「ノブさんが後ろで、ずっと黙っとって」
「ノブさん」
「おったがね。後ろに」
そう言われると、あの晩も後ろが重かった気がする。
誰かが乗っていた覚えも、今になって戻ってくる。
顔だけは、どうやっても出てこん。
「お前のとこの、従兄弟だったか」
「何言っとるの。お父さんの会社の人だら」
「わしの会社に、ノブなんておらんかったぞ」
佳代は、口を少し開けたまま黙った。
しばらくして、小さい声が返ってくる。
「ほんなら、あれは誰だったの」
「お前が乗せたんだら」
「お父さんの知り合いだと思っとった」
「足助あたりで乗せたんだったか」
「乗せとらんよ。最初から、後ろにおったがね」
五十何年のあいだ、二人とも、相手の知り合いだと思いこんでいた。
あの晩、稲武の家に着いたとき、後ろの座席はもう空だった。
どこで降りたのかは、二人とも覚えておらん。
坂を上りきると、トンネルの口が見えた。
空の端が、少しだけ灰色になりかけている。
御影石を積んだ入口の上に、「伊世賀美」と右から彫ってある。
佳代が、小さく読んだ。
「いせがみ」
入口の脇には、看板がいくつも立っていた。
対向車注意、それに高さ二・二メートルまでの制限。
落書き禁止の札もあって、カメラが付いている。
夜中に面白半分で来て、壁を汚していく者がおったらしい。
中は、天井に灯りが間を空けて並んでいる。
路面も、今は舗装されていた。
あの晩とは、別の穴みたいだ。
「明るなったねえ」
佳代が、天井を見上げて言う。
入口の手前で速度を落として、奥から対向車の灯りが来んのを確かめる。
あの晩も、ここでこうして奥をのぞいた気がする。
幅は、車一台ぶんきりだ。
中ですれ違うことは、できん。
ここまで来たら、前へ抜けるのがいちばん早い。
わしは、ゆっくりアクセルを踏んだ。
中へ入ると、空気が変わった。
窓を閉めていても、足元から冷えが上がってくる。
石の目地から水が染みて、壁が黒く光っている。
タイヤの音が、前からも後ろからも返ってきた。
佳代は、壁のほうへ顔を向けている。
途中で、幅がひと回り広くなる所がある。
そこを過ぎたあたりで、運転席の背中が押された。
後ろから、誰かが身を乗り出したときの押され方だ。
背もたれ越しに、丸い膝か肩が当たっている。
前を見ようとして、乗り出している。
そういう重さだった。
佳代の両手は、魔法瓶を抱えて膝の上にある。
横で、佳代の息が細く続いている。
わしは、ルームミラーから目をそらした。
見て、何もおらんかったら困る。
何かおっても、やっぱり困る。
出口の向こうに、白んだ空が見えてきた。
トンネルを抜けたとたん、背中の重さがすっと引いた。
長い息が、勝手に口から出る。
車は、ゆっくり下りにかかる。
この峠は、どっちから来ても曲がりと坂ばかりだ。
空はもう、山の端のほうから明るい。
佳代は黙って、窓の外ばかり見ていた。
旧道が国道へ戻る手前で、車を止めた。
山の国道は、曲がりの先が見えにくい。
右を見る。
左を見る。
何も来ん。
アクセルへ足を移した、そのときだ。
右の肩を、後ろからつかまれた。
指が、鎖骨の上に食いこむ。
ぐっと、後ろへ引き戻される。
わしの右足は、勝手にブレーキを踏みこんでいた。
鼻先を、タンクローリーが下っていった。
後ろの黒い札の、黄色い「危」の字だけが目に残る。
音は、通り過ぎたあとから追いかけてくる。
風で、車が横に揺さぶられた。
あのまま出ていたら、まともに横から当たっていた。
肩の指は、いつの間にか離れている。
鎖骨の上に、つかまれた形の痛みだけがある。
佳代の手は、魔法瓶を抱えたままだ。
助手席から手を伸ばしても、右の肩を後ろへは引けん。
佳代が、ゆっくり後ろを振り向いた。
わしの真後ろの席に向かって、言う。
「よかったねえ」
わしは、すぐには口がきけん。
誰に言った、と聞きかけて、やめた。
「何が、よかった」
「ぶつからんで、よかったねって」
佳代は前に向き直って、そう言った。
目だけが、まだ少し後ろのほうを気にしている。
わしはそこで、はじめてルームミラーを見た。
映っとるのは、後ろの窓と、誰もおらん席の背もたれだけだ。
国道へ出て、稲武へ下りながら、わしは理屈を並べた。
ローリーの音を、耳より先に体が拾っていたのだと思う。
恵那山のトンネルは危ない荷を通さんから、ローリーはこの峠へ回ってくる。
それくらいは、よく知っている。
肩の痛みは、前から悪い五十肩のせいにした。
車の尻が沈んだのは、坂のせい。
背中を押されたのは、冷えでこわばった体のせい。
理屈は、いくらでも並べられた。
ただ、別の並べ方もできてしまう。
後ろのあれは、沈んで、身を乗り出して、わしより先に道を見ていた。
それで、肩をつかんだ。
そう並べると、全部がきれいに通ってしまう。
わしは、そっちの並べ方を頭から追い出した。
それでも、置き場のないものが二つ残る。
音が、ローリーのあとから来たこと。
それと、ノブさんのことだ。
寺へ向かう途中で、ひとつ思い出した。
あの晩も、峠を下りる手前で一度、わしは急にブレーキを踏んでいる。
前からは、何も来ておらんかった。
佳代が驚いて、わしの袖をつかんだ。
後ろの座席は、ずっと黙ったままだった。
稲武の寺に着いたのは、六時の少し前だ。
山の上から、日が差してきた。
右の後ろのドアを開けて、小菊を取ろうとした。
新聞紙が、平たくつぶれている。
小菊の首が、何本も横に折れていた。
人が一人、上に座ったあとの形だ。
佳代はそれを見て、黙って花の向きを揃えた。
墓を洗って、折れた花もそのまま供えた。
線香を立てて、手を合わせる。
佳代は、いつもより長く目をつぶっていた。
その横で、わしは右の肩をさすっている。
帰りは、国道の長いトンネルを通った。
旧道の入口の前を過ぎるとき、佳代はそっちを見もせん。
家に着いたのは、八時過ぎだ。
その晩、佳代はいつもどおり九時に寝た。
わしは、右の肩に湿布を貼ってから横になった。
それから、一週間になる。
暮らしは、前と同じだ。
わしは三時に目が開いて、佳代は五時に起きて味噌汁を作る。
朝飯のあとは、二人で矢作川の土手を歩く。
昼は、テレビを見て過ごす。
火曜と金曜には、町のスーパーへ買い物に行く。
佳代の膝の具合で、月に一度は病院へも送っていく。
変わったのは、ひとつだけだ。
墓参りのあと、初めてスーパーへ行く日のことだ。
佳代は助手席の前を素通りして、後ろのドアに手をかけた。
それきり、助手席には座らんようになった。
五十何年、ずっと左の前に座ってきた人だ。
後ろは酔うから嫌だと、佳代は息子が小さいころから言っていた。
それが今は、黙って後ろのドアを開ける。
座るのは、左の後ろだ。
わしの真後ろの席は、いつも空けておく。
「前に座りゃええがね」
「ええの。こっちで」
それ以上は、何を聞いても笑うだけだ。
一度、買い物袋をわしの真後ろの席へ置いた。
佳代はすぐに、それを自分の膝へ移した。
「そこは、ええで」
言ったのは、それだけだ。
スーパーの駐車場で、カートを返して車へ戻ったときのことだ。
運転席の側から、後ろのドアの窓ごしに座席が見えた。
佳代が、わしの真後ろの席の座面に、右手を置いている。
手のひらを、上に向けて。
わしが運転席のドアを開けると、その手はすっと膝へ戻った。
赤信号で止まると、ルームミラーに佳代が映る。
佳代は、わしの真後ろの空いた席のほうを向いていた。
右の肩が少し下がって、腕がそっちへ伸びている。
座面までは、ミラーには映らん。
手のひらがどっちを向いとるかは、もう知っとる。
信号が青に変わる。
後ろで、佳代が小さく笑った。
わしは前だけを見て、アクセルを踏む。
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