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闇の三百八メートル――旧伊勢神トンネル、白い着物の女はいったい誰だったのか

夜の伊勢神峠は、想像していたよりずっと静かだった。

国道百五十三号から脇へ逸れて、細い舗装路をぐいぐい登っていく。ガードレールの代わりにコンクリートの角ばったブロックが並ぶ、いかにも古い峠道だ。ヘアピンを二つ三つ曲がると、あれだけ聞こえていた現道のトラックの走行音が、ふっと遠のく。

標高七百メートル。夏でも空気がひんやりしてくる高さだ。杉の匂いと、湿った土の匂い。それから、どこかで細く鳴っている沢の音。

そしてカーブの奥に、それは口を開けている。

石を積み上げた坑門。左右に太い柱が立ち、その上に笠石が渡してある。アーチの縁は二重の石で組まれていて、正面から見るとちょっと威圧的なくらい立派だ。表面はでこぼこにわざと荒く仕上げてあって、そこに苔がびっしり乗っている。

上に掲げられた扁額には、右から左へ「伊世賀美」の四文字。隧道、とすら書いていない。名前だけがどんと彫られている。

伊世賀美隧道――読みは、いせがみずいどう。旧伊勢神トンネル。愛知県豊田市。全長三百八メートル、幅三メートルちょっと、明治三十年開通の道路トンネルで、国の登録有形文化財だ。

そして東海地方屈指の心霊スポットとして、たぶん全国で一番名前を知られている隧道のひとつでもある。

坑門の前に立って中を覗くと、まず思うのは「短いな」だ。三百八メートルというのは、直線だから向こうの穴が小さく光って見える。夜でも見える。だから最初はちょっと拍子抜けする。ああ、出口見えてるじゃん、と。

でも、歩き出すと話が変わる。

三百八メートルは、歩くと嘘みたいに長い

一歩目で気温が落ちる。これは比喩じゃなくて本当に落ちる。夏場に外が三十五度あっても、中は上着が欲しくなる。天然の冷蔵庫、と表現した人がいたけれど、まさにそんな感じで、冷たい空気の層に体を突っ込む感覚がある。頬と首筋から冷えていく。

音が変わる。自分の足音が、前と後ろに割れて返ってくる。アスファルトを踏む硬い音が、壁の石に当たって、少し遅れて戻ってくる。これが厄介で、自分の足音なのに、どうしても「後ろから来ている」ように聞こえる瞬間がある。

歩調をちょっと変えると、返ってくるタイミングもずれる。ずれた瞬間に、背中がざわっとする。

壁を照らすと、切石がひたすら続いている。花崗岩を一つひとつ積み上げて、馬蹄形のアーチにしてある。百二十年以上前の仕事だ。よく見ると場所によって石の目地から水が滲んでいて、黒く筋になって垂れている。冬に来れば、そこがつららになる。

そして途中で、壁の位置が変わる。トンネルの幅が、ある地点から急にひと回り広くなるのだ。境目には反射板が貼ってあることもある。

おそらく後年、内側にもう一層アーチを巻き足した名残で、石のアーチの内側にさらに石のアーチを重ねるという、なかなか大胆な仕事の跡らしい。この「途中で断面が変わる」というのが、歩いていると妙に効く。

壁がすっと逃げるので、視界の端で空間が広がったように感じる。誰かが横に立てるだけの隙間ができたように感じる、と言ってもいい。

天井には、等間隔で照明の灯具が並んでいる。今はLEDが入っていて、点いていれば足元は困らない。ただ、この光がまた独特で、リング状に浮かび上がった石のアーチが延々と奥へ続いていく光景は、正直かなり美しい。

美しいのだけれど、光と光の間に必ず暗がりができる。その暗がりを一つずつ通過していくうちに、だんだん「次の暗がりに何かいたらどうしよう」という気持ちが育ってくる。

真ん中あたりが一番きつい。入口の光も出口の光も、遠く小さい。振り返れば戻れるし、進めば出られる。どっちにも行けるのに、どっちも遠い。この「どっちつかずの中間点」が、たぶんこのトンネルの本当の怖さの中心だと思う。

出口が近づくと、急に足が速くなる。これは誰でもそうなるらしい。最後の五十メートルくらいを、ほとんど小走りで抜ける人が多い。抜けた先には、木立に囲まれた小さな空間があって、車を停められるくらいの余地がある。

振り返ると、さっきまで自分が入っていた穴が、黒くぽっかり空いている。

そこで初めて、息が乱れていることに気づく。

語られてきた怪異を、いったん全部並べてみる

まず断っておく。ここから書くのは「語られてきた話」であって、事実として確認されたものではない。それどころか後で書くとおり、行政が調べた限りではこのトンネルで人が亡くなった記録は残っていない。それでも噂は分厚い。しかもよく整理されている。

まずはそれを丁寧に並べてみたい。

一番有名なのは、白い着物の女だ。トンネルの中に、ぽつんと立っている。うつむいているとも、こちらを見ているとも言われる。長い髪。素足。輪郭がはっきりしない、というより「そこだけ妙にはっきり見える」と語られることが多い。

真っ暗なのに、その女だけが見える、というやつだ。

この女は、立っているだけのバージョンと、手を挙げるバージョンがある。手を挙げるほうは、ヒッチハイクの型に近い。車を停めると、反対側まで乗せてほしいと言う。乗せて走ると、抜ける直前でいなくなっている。

座っていたシートがぐっしょり濡れている、という尾ひれが付くこともある。この「濡れたシート」は水難や土砂災害を連想させる装置で、後述する伊勢湾台風の説とセットで語られることが多い。

トラック運転手が乗せた、という語り口も定番だ。地元の新聞に幽霊騒動として載ったことがあるらしい、という伝聞まで含めて、この型はかなり古くから流通している。

ただし面白いのは、この「和服の女を乗せた」話が、旧隧道ではなく昭和三十五年開通のほうの新しいトンネルの話として語られることも多い点だ。新旧の怪談が最初から混ざっている。

次に、天井から下がる足。これは車で通る人向けの怪談だ。走っていてふとフロントガラス越しに天井を見ると、上のほうから足だけがぶら下がっている。裸足の足。揺れている。慌ててブレーキを踏むと、もう無い。

この「足だけ」というモチーフは、トンネルの断面が低いこと、そして天井にケーブルや照明の配線が這っているという実物の光景と、かなり相性がいい。実際、暗がりで天井の配管を一瞬見間違えたら、あれは足に見える。

走ると追ってくる音。これは徒歩勢の定番中の定番だ。中を歩いていて、ふざけて走り出すと、後ろから足音が付いてくる。止まると止まる。歩くと歩く。走ると走る。振り返っても誰もいない。

この話が厄介なのは、実際に反響音でそうなるからで、つまり「本当に起きる」。起きたうえで、それを霊のせいだと解釈するかどうかだけの話になる。だからこの怪異は、体験者が一番多い。

トンネルを抜けると人数が増えている。これは全国のトンネル怪談に共通する型だが、伊勢神版にはバリエーションがある。よく語られるのは、奇数の人数で横一列に並んで通り抜けると、真ん中の一人がいなくなる、というもの。

並び順にこだわるのが特徴で、「真ん中」という位置に意味を持たせている。逆に、抜けた後で人数を数えたら一人多かった、という増えるパターンも語られる。どちらにせよ、この怪談は「数える」という行為そのものを怖くする。

トンネルを抜けた後、誰もが無意識に仲間の顔を数えてしまうようになる。

車のボンネットに落ちてくる。これは古い世代の語りで、手順が決まっているのがポイントだ。トンネルの真ん中で車を停めてエンジンを切り、クラクションを三回鳴らす。すると、ボンネットの上に何かがどすんと落ちてくる。バン、という音がする。

翌朝、車を見ると、ボンネットとルーフに手の跡がびっしり残っている。子どもの手形と大人の手形が混じっている、と言われることもある。手順があるというのがこの怪談の強さで、儀式めいた再現性を持たせることで「試せる怪談」になっている。

写真に写る手。フラッシュを焚いて撮ると、写り込んだ人の肩や首に、細い手が写る。あるいは車内を撮ったら、後部座席に髪の長い女が座っている。フィルムの時代からある型だが、デジタルになってもオーブが写るという形で生き残った。

心霊スポット紹介サイトのコメント欄には、トンネル内に浮かぶ光の玉について、あれは複数いるうちのリーダー格が撮影者を威嚇しているのだ、と真顔で書き込んでいる人までいる。

抜けた先の待避所での金縛り。これは少しマイナーだが、根強い。トンネルを抜けて、木立に囲まれた退避スペースに車を停めて一息つく。そのタイミングで体が動かなくなる。運転席で、シートベルトを外そうとしているのに指が動かない。

窓の外に人が立っている気配がするのに、首が回らない。抜けた直後という「安心した瞬間」を狙ってくるのが、この話の性格の悪いところだ。

そして旧道に残る石垣と朽ちた電灯。これは厳密には怪異ではなく、風景の話だ。隧道に至る旧道の斜面には、明治期に積まれた石造の暗渠や擁壁が今も残っている。

沢を跨ぐ小さな石の暗渠は、中腰なら人が入れるくらいの大きさで、天井には加工した石板がきれいに並んでいる。そういう遺構の脇に、もう点かない古い電灯の柱が立っていたりする。この「機能を失った照明」というのが、夜に見るとやたらと効く。

かつて光っていたものが光らないまま立っている、という状態そのものが、うっすら怖い。

女の霊の正体をめぐる、六つか七つの説

ここが本題だ。伊勢神の怪談の中心には、いつも女がいる。じゃあその女は誰なのか。語られてきた説を、一つずつ潰していく。

まず、工事中の事故で亡くなった人夫の霊という説。より過激なバージョンでは、人柱として壁の中に埋められた人がいる、と言われる。

根拠らしい根拠として持ち出されるのは、この隧道が当初レンガ造で設計されながら、現地の地層と湧水が悪くて崩落の危険があるという理由で石造に変更された、という事実だ。設計変更が必要なほど条件が悪かったのなら、事故が起きていてもおかしくない。

そういう理屈になる。人柱については、北海道の常紋トンネルで実際に人骨が出た例があるじゃないか、という援護射撃も定番だ。

弱点も明確だ。まず、豊田市が調べた限り、このトンネル内および周辺で事故や災害によって死者が出たという記録は市に残っていない。文化財を管理する立場の担当者が、はっきりそう答えている。次に、人柱説の細部が一切具体的でない。

何人が、いつ、どの区間で、というのが全部ぼやけている。誰それという名前も出てこない。実際に犠牲者が出た工事現場では、たいてい慰霊碑が立つし、施工記録や地元の寺の過去帳に痕跡が残る。ここにはそれが無い。

そして決定的なのは、「女の霊」の説明になっていないことだ。明治の隧道工事の人夫は基本的に男である。工事犠牲者説は、うめき声や作業員の霊の説明にはなっても、白い着物の女の説明には届かない。

次に、峠で行き倒れた旅人の霊という説。これは筋としては悪くない。伊勢神峠は江戸期から知られた難所で、標高八百メートル近い尾根を越える。冬は雪が積もり、道は凍る。

荷を積んだ馬が力尽きることも珍しくなくて、その供養のために街道沿いには石造の馬頭観音があちこちに置かれている。馬が死ぬ道では、人も死ぬ。峠越えの途中で倒れた行商人や参詣者がいたとしても、まったく不自然じゃない。

しかも峠道には、天和三年という古い年号を持つ石仏の観音像も残っている。誰かを弔うために置かれた石が、実際にそこにある。

ただし弱点は、その行き倒れがなぜ「隧道の中」に出るのか、だ。行き倒れたのは峠のほう、標高八百メートルの尾根道であって、隧道は明治三十年にその八十メートルほど下を貫いた別の道である。江戸期に死んだ人が、明治になって掘られた穴に出る理由がない。

もちろん「土地に縛られている」と言ってしまえばそれまでだが、話の筋としては一段ゆるい。加えて、行き倒れた旅人が女である必然性も薄い。この説は、峠の歴史が持つ重さを借りているだけで、女の像そのものは説明できていない。

戦時中の話という説もある。空襲を逃れて疎開する母子がこの道を歩いた、とか、軍需輸送のトラックがトンネルで事故を起こした、とか、いくつかのバリエーションがある。

トンネルが軍の大砲を通せる規格で掘られたという話も伝えられていて、それが軍とトンネルを結びつける補強材料になっている。

これも弱点だらけだ。まず、伊勢神峠が空襲の主要な避難経路だったという記録は見当たらない。名古屋からは遠すぎる。そして戦時中の話は、語られるときにいつも主語がぼやける。「戦争のとき」で始まって、誰が何をしたかは出てこない。

戦後まもない時期の心霊譚は全国どこにでもあって、伊勢神に固有の要素が何も無い。この説は、噂に重みを付けるための年代のラベルとして機能しているだけ、というのが正直なところだと思う。

トンネル完成前に伊勢神峠を越えた人々の霊、という説はもう少し面白い。峠道はもともと中馬街道であり、塩の道であり、善光寺参りの道でもあった。三河湾の塩を信州へ運ぶ馬方が、一頭に四俵を負わせてここを越えた。

伊勢参りに向かう人も、善光寺へ向かう人も歩いた。つまりこの峠は、大量の人間が長い年月にわたって行き来した場所である。その膨大な通行の記憶が、後から掘られた穴に集まっている、という捉え方だ。

面白いけれど、これは説明というより解釈だ。反証も肯定もできない。ただ、この説には一つ見逃せない副産物があって、それが八百比丘尼の伝説である。峠の近くには八百比丘尼の杉と呼ばれる大杉が立っている。

若狭の国で八百歳まで生きたという尼が、観音を巡拝した帰りにこの峠で一服し、突いていた杖を地面に挿して去った。その杖が根付いて杉になった、という話だ。つまりこの峠には、トンネルができるはるか前から、女の姿をした超自然的な存在の伝承がある。

白い衣の女が峠に立っているイメージは、実は明治より前からこの土地にあった、と言うこともできる。これはなかなか示唆的だと思う。

後年の事件や自殺の噂もある。トンネルの中や旧道の脇で誰かが亡くなった、という話だ。これについては、はっきり書いておきたい。確認できる公的記録が無く、具体的な人物を特定して語ることは、遺族が存在するかもしれない以上、やってはいけない。

だからここでは説の存在にだけ触れて、中身には踏み込まない。噂の内容を詳しく書き広めること自体が加害になりうる領域がある。心霊スポット記事が一番雑になりやすいのがここで、私はその一線は越えたくない。

地元に伝わる祟りの話。これは少し性格が違う。峠の名前が「石神」だったこと、つまり石を神として祀る場所だったという事実に絡めて、山を貫いたことへの祟りだと語る説だ。神の山に穴を開けたのだから、何かが起きて当然だ、と。

この説は、峠の古名という実在の材料を使っている点で、他の説より地に足がついている。ただしこれも、具体的な祟りの事例が語られない。祟られた人がいない祟り、というのは説として空洞だ。

最後が、一番よく流通している説。伊勢湾台風の犠牲者説である。昭和三十四年の伊勢湾台風のとき、この付近で土砂崩れが起き、近くに住んでいた母子が亡くなった。その霊が現れる。

これが「和服の女と子どもの霊」がセットで語られる理由であり、「シートが濡れていた」という尾ひれの理由でもある。派生形として、台風のときにトンネル工事に従事していた作業員十二名が亡くなった、という数字入りのバージョンも広く出回っている。

数字が入ると、話は一気に本当らしくなる。だから広まった。でも、ここが一番検証が必要な部分でもある。

トンネルの歴史を調べた豊田市の担当者は、この母子の話が地域でまことしやかに語り継がれていることを認めたうえで、事故や災害で死者が出たという記録は市に残っていないと明言している。

十二名という数字についても、出所を辿れる一次資料に行き当たらない。さらに年代がずれている。伊勢湾台風は昭和三十四年九月。新しい伊勢神トンネルの開通は昭和三十五年。

台風の時点で工事が進行していた可能性はあるにせよ、犠牲者十二名という規模の労災が起きて記録に何も残らないというのは考えにくい。

ここまで並べてみて分かるのは、どの説も「女」の説明にはなっていないということだ。工事犠牲者説は男の話。行き倒れ説は峠の話。戦時説は主語がない。台風説は記録がない。にもかかわらず、伊勢神の怪談の中心にはずっと女がいる。

この空白こそが――この場所の怪談の本体なんじゃないかと思う。理由が無いのに像だけが先にある。だから何度でも新しい理由が発明される。

実際に行った人たちが、何を持ち帰ったか

体験談を三つ、丁寧に紹介したい。いずれもネット上に残されているもので、真偽を保証するものではない。ただ、語りの質がそれぞれ違っていて、並べると見えてくるものがある。

一つめ。高校三年の夏休み、原付の免許を取ったばかりの四人組の話だ。バイト先の先輩から、旧伊勢神トンネルというのがあると聞かされた。夕方に車で入ろうとすると、入口付近で髪の長い女がヒッチハイクをしている。

反対側まで乗せてくれと言われて乗せると、出口の直前で消えていて、座っていたシートがびしょ濡れになっている。そういう話だった。

四人は原付で二時間かけて向かった。国道の坂は原付にはきつかったが、みんなで走るのが楽しくて、あっという間に着いた。脇道を登った先に、林に囲まれてトンネルが口を開けていた。中は真っ暗で、ヘッドライトが無ければ何も見えないほどだった。

誰かが「女の人はいないみたいだね」と笑った。四人で走り抜けた。実際は二百メートルほどで反対側に着いた、と語り手は書いている。

抜けたところで、友人の一人が震え出した。夏なのに、めっちゃ寒い、と言う。そのときはみんな笑って流した。トンネルの中は確かに肌寒かったからだ。

後日、その友人が言った。あの後、家に帰ってからも寒くて寒くて、二階の部屋で布団にくるまっていた。そうしたら、階段を登ってくる音がした。それが一時間くらいずっと続いた。音がやんでほっとして、腹を掻きむしりながらテレビを見ていた。

風呂に入ろうと服を脱いで鏡の前に立ったら、掻きむしっていた腹に「呪」という字の形の痕が浮かんでいた。痕はすぐ消えたという。語り手は、それ以来もう面白半分で心霊スポットには行かないと決めた、と結んでいる。

二つめ。免許を取ったばかりの若者たちが、一台の車で心霊スポット巡りをしようとして旧伊勢神トンネルに来た話。着いてまず驚いたのは、坑口の落書きだったという。

車一台がやっと通れる幅なので、どうするか相談した結果、車を置いて歩いて往復することにした。

歩き始めは全員に余裕があった。雑談しながら、笑いながら進んだ。ところが三分の一ほど進んだところで、空気が変わったと全員が感じた。温度が変わっただけかもしれない、と語り手は自分で断りを入れている。だが急に冷たく、重くなった。

証拠は単純で、その瞬間に会話がぴたりと止まったからだ。

そこからは何を見ても怖く見えた。壁の石の模様が人の顔に見える。肩が重くなる。それぞれが別々の異変を訴え始めた。半分ほど進んだところで、友人の一人が突然大声を出した。「どうしてここにいるんだ」と叫んだ。顔つきが明らかに違っていた。

みんなでどうしたと聞いても、無言になった。まずいと判断して、全員でその友人を引っ張って入口へ引き返した。

車に戻ってその友人を見ると、きょとんとしていた。なんで戻ってきたの、と聞いてくる。経緯を説明すると、そんなことは言っていない、歩いていたらみんなに無理やり引っ張られた、と主張した。原因は最後まで分からなかった。

三つめ。これは二〇〇〇年代前半、心霊スポットの取材サイトが夜中に入ったときの記録だ。名古屋を深夜十二時に出て、午前二時前に到着した。二人で懐中電灯を持って中に入った。

当時は照明が点いていなかったので、懐中電灯なしの徒歩探索はかなり厳しかったという。壁のあちこちから水が滲んでいた。百年経っているのに造りはしっかりしていて、大地震でも崩れそうにないと感じた、と書かれている。途中、同行者が叫んだ。

ライトの先に、プラスチック製のお面が壁に掛けられていた。誰かの悪戯だった。

反対側の坑口に出た。思ったほど怖くなかったので、帰りは一人ずつ入ることにした。同行者が先に入り、しばらく経ってから語り手が続いた。すると、さっきまでとまるで違った。一人になった途端、後ろが気になる。誰かが追いかけてくるような錯覚に陥る。

前を歩いていた同行者も同じだったらしく、出口に向かって走り去る足音が響き渡った。語り手はさらに、懐中電灯を消して歩いてみた。安全だと分かっていても、真っ暗闇を歩くのは怖い。

手探りと、カメラのフラッシュの一瞬の光だけを頼りに出口へ向かった、と書いている。

この三つを並べると、共通点がはっきりする。全員が「寒さ」と「後ろの気配」を報告している。そして全員が、大人数のときは平気で、単独か少人数になった瞬間に怖くなっている。

決定的な視覚体験、つまり女を見た、という報告は、実はこの三つのどれにも出てこない。出てくるのは、体感の変化と、その後の解釈だ。

心霊の話をいったん置いて、この峠の記録を書いておきたい

ここからは怪談の材料としてではなく、記録として書く。この隧道は、正直に言って、怪談抜きでも十分に凄い。

まず峠の名前の話から。伊勢神峠は、江戸時代ごろまで石神峠、あるいは石亀峠と呼ばれていた。石の神。峠に石を祀る信仰があったと考えるのが自然で、これは山越えの道にはよくある。転機が来たのは幕末だ。

稲橋村、今の豊田市稲武の庄屋で、造り酒屋でもあった古橋家の当主が、この峠に伊勢神宮の遥拝所を建てた。

国学に傾倒していた人物で、天保の大飢饉のときには蔵を開いて村人に米や麦を配り、稲橋村から餓死者を出さなかったと伝えられる、地域の中心人物である。

遥拝所というのは、遠く離れた場所から神社を拝むための施設だ。伊勢神宮は三重県。ここからは当然見えない。だが峠に立つと伊勢湾が一望できた。海の向こうの伊勢を拝む場所として、この峠は選ばれた。

設置の年については文久四年、つまり一八六四年とする資料と、慶応年間に企画されて慶応三年に完成したとする資料があって、少し揺れがある。いずれにせよ幕末の話だ。これを機に、石神峠は伊勢拝峠と改められ、やがて伊勢神峠になった。

つまり、「伊勢神」という神々しい名前は、明治より前に、地元の人が意図的に付け替えた名前なのだ。石の神から、伊勢を拝む峠へ――。この改名が、後に全国区の心霊スポットの名前になるとは、当時誰も思わなかっただろう。

ちなみに現在の遥拝所は再建されたもので、かつて見えた伊勢湾の眺めは、植林された杉が育って見えにくくなっている。

峠の道そのものは、飯田街道、三州街道、中馬街道、塩の道、善光寺街道と、いくつもの名で呼ばれてきた。信州の飯田や伊那、塩尻へ向かう道であり、三河湾で採れた塩を内陸へ運ぶ道であり、善光寺参りの道でもあった。

中馬というのは、馬の背に荷を載せて運ぶ運送業者のことだ。宿場ごとに荷を積み替える伝馬制に対して、中馬は同じ馬方が同じ荷を目的地まで運ぶ。荷傷みが少なく効率がいいので、江戸期に大いに栄えた。一頭に四俵。それでこの峠を越える。

馬方の苦労は相当なもので、力尽きた馬を弔う馬頭観音が、街道沿いのあちこちに今も残っている。

足助はその中継地として栄えた町だ。山からの物資と平野からの物資が集まる集散地で、今も古い町並みが残っている。峠を挟んだ反対側の稲武も、養蚕や林業で独自の産業を育てた土地である。この峠は、二つの経済圏を繋ぐ首の部分だった。

だからこそ、難所であることが致命的だった。

明治に入って街道の改修が進む。そして明治二十九年七月に起工、翌明治三十年十一月に竣工したのが、伊世賀美隧道である。工期はおよそ一年四か月。全長三百八メートル、幅員三メートル十五センチ、高さ三メートル三十センチ。

坑口の標高は七百五メートルで、峠の頂上より八十メートルほど低い。当初はレンガ造で設計されていたが、現地の地層の状態と湧水による崩落の危険から、石造に変更された。花崗岩を切り出して積む、総切石造の隧道になったのだ。

坑門の意匠がまた凝っている。左右にピラスターと呼ばれる付柱が立ち、表面はルスチカ積みという、わざと粗く仕上げた石積みで飾られている。アーチの縁は、仕上げの異なる石を二重に組んだ迫石だ。道路トンネルでこの二重の迫石というのは相当珍しい。

扁額には右横書きで「伊世賀美」。そして脇には「正四位時任為基」と彫られている。当時の愛知県知事の名前だ。彼の知事在任は明治二十五年から明治三十年十一月まで。竣工がぎりぎりその任期に間に合った形になる。

扁額は足助側と稲武側で字体が微妙に違うが、書いた人物は同じらしい。帯石の部分には起工と竣工の年月まで刻まれている。

戦後、車の時代が来る。昭和三十五年、伊世賀美隧道より六十五メートルほど低い標高六百四十メートルに、全長千二百四十五メートルの伊勢神トンネルが開通した。開通当初は有料道路で、昭和四十六年に無料開放された。今も料金所の跡が残っている。

この新トンネルの開通で、伊世賀美隧道は幹線の役目を降りた。物流のためにここを使う人は、ほぼいなくなった。

そして平成十二年九月二十六日、伊世賀美隧道は国の登録有形文化財に登録される。愛知、岐阜、三重、静岡の東海四県に残る明治期竣工の石造トンネルは、この伊世賀美隧道と、静岡県の天城山隧道の二つだけだ。

天城山隧道は明治三十八年開通なので、伊世賀美のほうが八年古い。文化財の登録理由には、中部地方における明治期の代表的道路隧道の一つ、と書かれている。

周辺にも見どころは多い。峠の東側、段戸川に架かる郡界橋は大正六年の竣工で、東海地方最古の鉄筋コンクリートアーチ橋とされる。かつての東加茂郡と北設楽郡の境界だったのでこの名がある。老朽化で現在は通行止めだ。

旧道の斜面には、明治期の石造暗渠がいくつも残っていて、沢を跨ぐ位置に今も歪みなく立っている。国道の線形改良で切り捨てられた短い廃道区間も点在している。

峠の頂上には、江戸期の石仏や馬頭観音、八百比丘尼の杉が残り、街道の一部は東海自然歩道として整備されている。

つまり伊勢神峠は、江戸の峠道、明治の隧道、昭和のトンネルという三世代の道が、そのまま垂直に積み重なって残っている場所だ。街道の交通博物館、という呼び方がされるのも大げさじゃない。

そして二〇二六年三月二十五日、四代目にあたる新しい伊勢神トンネルが貫通した。全長千九百一メートル、幅十メートル五十センチ、高さ六メートル二十センチ。

二代目の高さ制限三メートル五十センチでは大型車の屋根が擦れる事故が起きていたので、これは待たれていた改良だ。この四代目が開通すれば、伊世賀美隧道は三代前の道になる。

どうやって、全国区になっていったのか

この隧道が全国的な心霊スポットになる過程には、はっきりした段階がある。

最初の段階は、口承だ。旧隧道については、現役の頃から幽霊が出ると言われていたという伝聞がある。ただし詳細は不明で、これ自体が伝聞の伝聞なので確度は低い。ここは正直に「分からない」と書くしかない。

より確度が高いのは、昭和三十五年開通の新トンネルにまつわる幽霊騒動が、地元の新聞に取り上げられたという話だ。和服の女がトラックに手を挙げ、乗せると消える。これが複数起きた、と報じられたとされる。

地方紙の記事が噂を固定する、というのは怪談の伝播ではよくあるパターンで、口承だったものが活字になった瞬間に「あの話は新聞に載った」という権威を得る。

第二段階が、テレビだ。決定的だったのは、昭和から平成にかけての心霊番組ブームで、霊能者としてお茶の間の顔になっていた人物がこの隧道を訪れたことだろう。

番組の中で、トンネル工事中に死亡した者が成仏できずに霊になっているという趣旨のことを述べ、除霊の様子まで放送された。これが効いた。地元の噂だった話に、全国ネットの映像という後ろ盾が付いたからだ。

しかも「工事中の死者」という説明が、このとき事実上の公式見解として全国に配信された。後に自治体が記録は無いと言っても、テレビで見た記憶のほうが強い。

その後も、毎年夏になると心霊番組で紹介される場所になった。二〇〇一年に訪れた探索者が、毎年夏になるとテレビで紹介される場所だと書いている。つまり九十年代にはすでに定番だった。

深夜のバラエティやオカルト誌の心霊スポット特集にも常連として載り続けた。

第三段階が、インターネット掲示板だ。二〇〇〇年代、匿名掲示板のオカルト板で心霊スポットのランキングが繰り返し作られ、この場所は東海地方の筆頭として、いわば殿堂入りの扱いを受けた。掲示板が効いたのは、体験談を無限に蓄積できたからだ。

テレビは年に一度だが、掲示板は毎日誰かが書き込む。しかも読み手がそのまま次の書き手になる。ここで怪異のカタログが完成した。クラクション三回、奇数人数の横一列、手形、天井の足。細かいバリエーションはこの時期に増殖している。

第四段階が、動画だ。二〇一〇年代以降、動画投稿サイトに肝試し動画が大量に上がった。ある心霊スポット情報サイトのこのトンネルのページには、投稿された動画が四十七件、コメントが九十件を超えると表示されている。

動画の強さは、行かなくても追体験できることだ。画面越しに三百八メートルを歩ける。これで裾野が一気に広がった。

そして少し変わった第五段階が、モータースポーツである。二〇二二年と二〇二三年、世界ラリー選手権の日本ラウンドで、この隧道がタイムアタックコースの一部に設定された。狭い石造の隧道をラリーカーが疾走するという絵は、そのままで強烈だった。

ところが二〇二二年、トンネル出口付近でクラッシュが起きる。原因は砂ぼこりによる視界不良と見られたが、ネット上では即座に「祟りだ」という声が湧いた。心霊スポットとしての名前が、そこでもう一度強化されてしまったわけだ。

面白いのは、その後の展開だ。豊田市は翌年、トンネル内の大規模な舗装工事に着手した。砂利道だった路面が黒いアスファルトになった。

祟り説の払拭が目的だったわけではなく、ラリーの円滑な開催などが理由だとされるが、結果として現場の条件は大きく変わった。あわせてLED照明も入った。夜でも足元が見える。

中日新聞の記者が二〇二三年に夜のトンネルを歩いたルポでは、壁に据え付けられた電灯がLEDで、何となく幽霊には似合わない気がする、と書かれている。この一文が、二〇二〇年代の伊勢神をよく表していると思う。

掲示板とSNSで、この場所はどう論じられてきたか

考察界隈の議論は、大きく三つに分かれる。

一つめは、肯定派の考察だ。人柱説の傍証として常紋トンネルを引き合いに出す議論はその典型で、他所で実例があるのだから完全には否定できない、という論法を取る。あるいは、旧隧道より新トンネルのほうが変な現象が起きる、と主張する書き込みもある。

無線機が勝手に起動する、反響音ではありえない人の声が車内から聞こえる、といった具体的な内容だ。

霊視ができると称する人が、坑口に結界が見える、母親の霊は赤ん坊を探しているだけで危険度は高くない、赤ん坊のほうは天井にいてクラクションを鳴らすと好奇心で付いてくる、と書き込んでいるのも見た。

天井の赤ん坊という設定は、天井から下がる足の怪談と綺麗に接続している。

二つめは、否定派だ。こちらもかなり強い。市には開通工事中の死亡事故の記録も、付近で母子が亡くなった記録も無い、寒いと思ったらそれは霊気ではなく冷気だ、なぜこんな分かりやすい作り話を信じる人がいるのか、という書き込みが実際にある。

探索系のブロガーにも、いろいろ噂はあるが全部デマではないかと思う、と率直に書いている人がいる。実際に行った人ほど否定的になる、という傾向は割とはっきりしている。

三つめは、その中間の立場で、これが一番面白い。心霊スポットとして名を上げた理由は、車に乗ったまま肝試しができるお手軽さにあるのではないか、と分析した探索者がいる。これは鋭い。

あるいは、二〇〇〇年代に訪れた人が、旧道の入口に何台も車が停まっていて若者がたむろしていた、心霊スポットで幽霊より怖いのは人間だ、と書いている。観光地化した心霊スポットはスリルに欠ける、という感想もある。

怖さの源泉が霊ではなく人間の密度にある、という指摘だ。

さて、反証をきちんと並べておこう。

出典が辿れない話が多すぎる。工事中の死者、人柱、台風時の作業員十二名、母子の死。どれも一次資料に行き着かない。地元紙に載ったという幽霊騒動も、記事そのものを提示している人は見当たらず、「載ったらしい」という形で伝聞されている。

この構造は、噂が噂を根拠にしている典型だ。

湧水と反響音で説明がつく現象が多い。壁から水が滲むのは設計変更の理由になったほどの現地条件で、当然の物理現象だ。滴る水音は、石のアーチの中で反響して、位置が分からなくなる。すすり泣きに聞こえる音の候補としては、これが一番手堅い。

足音が追ってくるのも、三百メートル超の直線的な石造空間なら普通に起きる。体感温度の低下は、標高七百メートルの山中で、日射が入らず、湧水で湿った石に囲まれていれば当たり前だ。冬に坑口の水が凍るくらいの環境である。

旧道の照明という要素も見落とせない。かつては照明が消えていて、昼でも坑口の光以外はほとんど見えなかった。ところが今はLEDが点いている。同じ場所なのに、二〇一〇年代までの体験談と二〇二〇年代の体験談では、前提となる暗さがまるで違う。

古い体験談を今の現場で追試しようとしても、条件が一致しない。これは検証をとても難しくする。

他のトンネル怪談からの流入も明らかだ。クラクションを鳴らすと何かが落ちてくる、車に手形が付く、往復すると呪われる。これらは全国の心霊トンネルで共通して語られる型で、伊勢神固有のものではない。

ある書き込み主自身が、当時のトンネル系は似たような噂が多かった、と正直に書いている。

そして年代のずれ。姫街道として女性たちに好まれた道だった、という記述を載せている媒体があるが、姫街道という呼称は本来この街道のものではなく、混同の疑いが濃い。

姫街道を歩いた女性たちが落盤で亡くなった、という話に至っては、街道時代にはまだトンネルが無いのだから成立しない。伊勢湾台風の犠牲者が旧隧道の工事で亡くなった、という語りも同様で、旧隧道は台風の六十二年前に完成している。

それでも、この隧道はなぜ怖いのか

反証を並べたうえで、それでも認めなければならないことがある。ここは怖い。

理由の第一は、断面だ。幅三メートル、高さ制限二・二メートル。歩いていると、手を伸ばせば両側の壁に届く。この「両手が壁に届く」という身体感覚が、閉塞感を決定づける。人間は、自分の身体の大きさに近い空間に入ると警戒する。

逃げ場が左右に無いと分かるからだ。

第二は、石だ。ここを訪れた人の多くが「素掘りみたいな荒々しさ」と書くのだが、実際は逆で、この隧道は素掘りの区間が一切無い、全部が切石積みの豪勢な構造である。ではなぜ素掘りに見えるのか。

ルスチカ積みという、表面をわざと粗く仕上げる技法が使われているからだ。整えた石を、あえて岩肌のように荒く見せている。つまりこの隧道の「原始的な荒々しさ」は、明治の技術者が意図してデザインした演出なのだ。

百二十年後の若者を怖がらせるためではもちろんないが、結果としてそうなった。人工物なのに自然物に見える、という状態は、人の脳が一番落ち着かない状態のひとつだと思う。

第三は、途中で幅が変わることだ。歩いていると、ある地点から急に壁が遠ざかる。視界の端で空間が広がる。これは無意識にかなり効く。同じ断面が続く現代のトンネルは、いくら長くても単調だから慣れる。ここは慣れさせてくれない。

第四は、音響。石積みのアーチは音をよく返す。しかも均一に返さない。積んだ石の目地、幅が変わる境目、路面の凹凸、水たまり。反射面が不均一だから、返ってくる音の方向がぼやける。

自分の足音の位置が特定できない、という状態は、それだけで恐怖の条件だ。

第五は、光の性質。LEDが入った今でも、光は等間隔の点でしかない。点と点の間には必ず影が落ちる。連続照明ではないので、視線を動かすたびに明暗が切り替わる。人間の眼は明暗差に弱いから、暗部の中に何かがあると錯覚しやすい。

第六が、たぶん一番大きい。ここは廃隧道ではない、ということだ。今も車が通る。地元の人の生活道路の一部として使われている。文化財のプレートが誇らしげに掲げられ、監視カメラがあり、落書き禁止の掲示がある。

つまり、完全な廃墟の孤独と、完全な日常の安心の、どちらでもない。この中途半端さが一番怖い。文化人類学者が言うところの、あまり行かないけれど全く人が行かないわけではない場所、という条件にぴったり当てはまる。

学校の怪談が普通教室ではなく理科室で起きるのと、同じ理屈だ。

そして名前。伊勢神。石神から伊勢を拝む峠へと付け替えられたこの名は、神域を連想させる。伊勢神宮は隣の県の、はるか遠くにある。遠くの神域を思わせる名前が、山奥の暗い穴に付いている。この不整合が、説明のつかない期待感を生む。

名前が怪談を呼び込んだ、という分析には、けっこう説得力があると思う。

地元は、この状況をどう受け止めているか

ここは書いておかないといけない。

豊田市の文化財担当者は、この場所が心霊スポットとして有名なことについて、それもトンネルが持つ一つの側面として地元も受け入れている、と述べている。突っぱねてはいない。そのうえで、トンネル自体の歴史的価値も知ってもらえれば、と続けている。

この温度感が、実は一番リアルだと思う。怒っているわけでも歓迎しているわけでもなく、まあそういう面もあるよね、でも本当はこっちを見てほしいんだ、という。

現実の困りごとははっきりしている。落書きだ。石造りの内壁は、一度描かれると完全には落としきれない。清掃は行われてきたし、消した跡も残っているが、石の目地に染みた塗料はどうにもならない。

二〇二三年に夜のトンネルを歩いた記者が、思っていたほど落書きやごみは無く、文化財としてしっかり保全されている様子がうかがわれた、と書いているのは、裏を返せば、そうでない時期があったということだ。

ある探索者は、ここまで落書きの酷い石アーチ隧道にはなかなかお目にかかれない、と嘆いている。

現在は登録有形文化財の銘板と落書き禁止の掲示、そして監視カメラが設置されている。文化財に監視カメラを付けなければならない、という事実そのものが、この場所が受けてきた扱いを物語っている。

だから、はっきり書く。深夜の肝試しは、やめたほうがいい。これは説教ではなく、実務的な話だ。まず、ここは幅三メートルの現役の道路であって、地元の人の車が通る。夜中に路上でたむろされると、単純に危ない。次に、旧道の入口周辺には民家がある。

深夜のエンジン音と話し声は、そこで暮らす人にとってただの騒音だ。そして落書きや器物損壊は、国の登録有形文化財に対する加害である。立入が規制されている区域や私有地に入るのも当然だめだ。

周辺の廃道区間には車止めが置かれ、岩が積まれて封鎖されている場所もある。あれは通るなという意思表示だ。

昼に行けばいい。西側からのアプローチなら道は整備されていて、東海自然歩道の入口もある。登山者用の駐車場もある。峠まで登れば遥拝所があり、八百比丘尼の杉があり、江戸期の石仏がある。

明るいうちに石積みのアーチをじっくり見上げれば、明治の技術者がどれだけの仕事をしたかが分かる。それで十分に凄い。むしろそっちのほうが、怪談を読んだ後だと味わい深い。

ここからは、記事を書き終えたうえで、もう一段掘り下げておきたいことを書く。取材を進めるうちに、当初の見立てとは違う輪郭が見えてきた部分がいくつかあった。

まず、この怪談を分類し直したい。伊勢神の怪談は、実は一つではなく、少なくとも三つの独立した怪談が同じ名前の下で融合している。第一が旧隧道の怪談。徒歩で入る前提の話で、足音、寒さ、後ろの気配、人数の増減が中心だ。第二が新トンネルの怪談。

車で通る前提の話で、和服の女を乗せると消える、雨合羽の男が立っている、バックミラーから消える、といった走行中のモチーフが中心になる。第三が旧道と峠道の怪談。石垣、暗渠、朽ちた電灯、待避所での金縛りなど、トンネルの外側で起きる話だ。

この三つは、本来まったく別の空間の話である。徒歩と車では身体の状態が違うし、旧隧道と新トンネルは開通が六十三年離れている。それなのに、「伊勢神トンネル」という一つの名前で括られたせいで、全部が混ざった。

多くの心霊まとめ記事が新旧の怪異を並べて紹介し、どちらの話なのか明示していないのは、書き手が怠けているからというより、もともと分離不能なほど混ざってしまっているからだ。この融合こそが、この場所の噂が異様に分厚く見える最大の理由だと思う。

単純に、三つ分あるのだ。

次に、「女」というモチーフの起源について、もう少し踏み込んで考えたい。本文で書いたとおり、正体をめぐるどの説も女である必然性を説明できていない。だが、この土地には女性像の伝承の下地がある。峠の八百比丘尼の杉だ。

若狭から来た尼が、杖を突き立てて去り、それが根付いたという。八百比丘尼の伝説は全国に分布するが、共通するのは、若い女の姿のまま何百年も生き続ける、つまり時間から外れた女という像である。

そしてもう一つ、峠に残る「南無大慈大悲観世音」と彫られた石仏。観音は、日本の民間信仰では女性的な姿で受け取られてきた。天和三年、つまり一六八三年の年号を持つ観音像が峠道に立っていて、長年の風雨で首から上が失われているものもある。

首の無い女性像が街道沿いに並んでいる、という光景を思い浮かべてほしい。これは、そのままで怪談の絵になる。

さらに、峠の古名である石神。石を神として祀っていた場所だ。石神信仰は、しばしば女神や産の神と結びつく。つまりこの峠には、隧道が掘られるはるか前から、女性的な神格の層が何重にも積もっていた。

トンネル怪談の女は、明治の穴に湧いたのではなく、峠の土着的な女神信仰が、近代のトンネルという新しい器に流れ込んだものだ、という読み方ができる。これは証明できる主張ではない。

だが、どの現代的な説よりも、なぜ女なのかという問いにまっすぐ答えている気はする。

三つめ。噂の年代について、もう一度整理したい。ここは混乱が激しいので、時間軸を丁寧に置き直す価値がある。峠道が難所として機能していたのは江戸期からで、遥拝所の設置が幕末。旧隧道の起工が明治二十九年七月、竣工が明治三十年十一月。

新トンネルの開通が昭和三十五年で、その前年の昭和三十四年に伊勢湾台風。旧隧道が文化財に登録されたのが平成十二年。ラリーコースになったのが二〇二二年と二〇二三年で、路面舗装とLED照明化がその間。そして四代目のトンネルの貫通が二〇二六年三月。

この年表に噂を重ねると、ずれがはっきりする。伊勢湾台風で亡くなった人の霊が旧隧道に出る、という話は、旧隧道が台風の六十二年前にできていることを考えると、少なくとも「工事の犠牲者」としては成立しない。

土砂崩れで母子が亡くなったという話も、台風のときに新トンネルの工事が動いていた可能性を踏まえると、出るならそちらのはずだ。実際、丁寧な媒体では母子の霊は新トンネルのほうだと書き分けている。

ところが世に流通している大半の記事では、それが旧隧道の話として語られている。

もう一つ、姫街道の混同。ある記事は、旧隧道が姫街道として徒歩で歩く女性たちに好まれた場所だった、と書き、姫街道時代に多くの女性が落盤で亡くなったとまで書いている。

だがこの峠道の通称は飯田街道、三州街道、中馬街道、塩の道、善光寺街道であって、姫街道ではない。姫街道の名で知られる道は東海道の脇往還など別にある。しかも街道時代にトンネルは存在しないのだから、落盤で亡くなりようがない。

この一箇所の誤りが、白い着物の女という像に「街道を歩いた女性たち」という物語を接続してしまった。誤情報が怪談の説明装置として機能する、という現象の、かなり分かりやすい標本だと思う。

四つめ。二〇二〇年代に起きた変化の意味を考えたい。舗装とLED照明は、この場所の性格をかなり大きく変えた。砂利道が黒いアスファルトになり、真っ暗だった洞内に等間隔の光が入った。夜歩いても足元が見える。壁の石積みが常時見える。

中日新聞の記者が、LEDは幽霊に似合わない気がする、と書いたのは冗談めかした感想だが、本質を突いている。

ここで面白い逆説が起きる。怪談の条件が減ったのに、訪問者はむしろ増えた可能性が高い。ラリーで世界に映像が出て、動画も増え、道は走りやすくなった。つまり――怖さは減ったが知名度は上がった。

この先、伊勢神の怪談がどうなるかは、けっこう興味深い観察対象だと思う。可能性は二つある。一つは、実体験が「意外と怖くなかった」に収束していき、怪談が過去形になっていく道。

もう一つは、逆に「昔は真っ暗だった」という語りが権威を持ち、体験できない過去への憧憬として怪談が保存される道だ。個人的には後者が優勢になると見ている。心霊スポットの語りは、現在の体験より過去の伝聞に依存するからだ。

五つめ。四代目トンネルの開通が、この場所にもたらすものについて。二〇二六年三月に貫通した新しいトンネルが供用を始めれば、二代目の伊勢神トンネルは旧道になる。そのとき何が起きるか。おそらく、怪談の主役が一段ずれる。

今まで「旧」と呼ばれてきた明治の隧道は、三代前になる。そして昭和三十五年の二代目が、新たに「旧トンネル」の座に就く。

これは冗談ではなく、心霊スポットの生成としてはかなり典型的なパターンだ。役目を終えた構造物が心霊スポット化する、という傾向は繰り返し観察されている。交通量が落ち、管理の手が減り、夜に人が来なくなる。その条件が揃った瞬間に、噂が生えてくる。

二代目の伊勢神トンネルには、すでに和服の女や雨合羽の男の噂が付いている。素地は十分だ。開通から五年後、十年後に、二代目がどう語られているか。これは追跡する価値のあるテーマだと思う。

六つめ。改めて、この記事で一番言いたかったことを書く。

伊勢神の怪談を調べていて何度も思ったのは、噂の総量に比べて、この隧道そのものへの敬意が圧倒的に足りていない、ということだ。明治二十九年の七月に起工して、三十年の十一月に竣工している。一年四か月。

重機の無い時代に、三百メートル超の山を貫き、しかも湧水が酷いから設計を変更して、全長を花崗岩の切石で巻いた。二重の迫石を組み、ルスチカ積みの付柱を立て、扁額に県知事の名を刻んだ。これを難所の峠でやった。

これが凄くない、という判断はちょっとありえない。

そして、その仕事は今も機能している。百二十年以上経って、まだ車が通っている。地元の人が日常的に使っている。落書きされ、肝試しに使われ、ラリーカーに走られ、それでも崩れずに立っている。

石造の内壁は落書きを完全には落とせないから、あの壁には人間が付けた傷が残ったままだ。それでもそこにある。

心霊スポットとして語るなということではない。怪談は土地の記憶の器でもあるし、この隧道の場合、怪談があったからこそ名前が全国に知られた側面もたしかにある。心霊スポットとして訪れた人が、坑門の石積みを見上げて、これ何なんだ、と思って調べる。

そこから明治の土木にたどり着く。そういう入口として怪談が機能するなら、それは悪いことじゃない。

ただ、順番だけは間違えたくない。ここは怪談の舞台である前に、人が知恵と力を尽くして山に開けた穴だ。誰かが死んだから怖いのではなく、誰も死ななかったかもしれない場所で、これだけの物語が生まれた。

そのことのほうが、よっぽど不思議で、よっぽど面白い。

最後に一つだけ。取材の過程で読んだ書き込みの中に、こんなものがあった。

伊勢神トンネルを歩きました、車が疾走するので大変怖かったです、和服の女性を確認するほどの心の余裕などありませんでした、もし女性がいてくれたら、ともに歩いて行きたかったほど一人歩きが大変な場所でした。

たぶんこれが、一番正しい伊勢神の感想だと思う。あそこで本当に怖いのは、霊ではなく、狭い穴の中で背後から迫ってくる現実の車のライトだ。そして本当に心細いのは、三百八メートルの石の中を、たった一人で歩くという、ただそれだけのことなのだ。

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