- まず、夜の善波峠に車で入っていくところから始めたい
- 「もう死なないで準一」――八文字の看板が、全部の始まりだった
- 事故は、たしかにあった――昭和四十年九月二日の夕方
- 看板はなぜ立ったのか――読み筋はふたつある
- 「じゅんいち」という名前は、どこから湧いてきたのか
- 車に乗り込んでくる、後部座席にいる――噂のバリエーションを一つずつ
- 電話ボックスに、深夜二時にかける
- 実際に語られてきた体験談を、いくつか
- 隧道そのものの記録――昭和三年に開いた、158メートルの穴
- 峠のほうが、トンネルよりずっと古い
- 善波太郎、弓を引く――地名になった伝説
- 夜泣石と、首のない地蔵
- 心霊スポットになるまで――モーテル街、テレビ、掲示板、そして動画
- 反証を並べておく
- なぜ、この話はこんなに怖いのか
- 行こうと思っている人へ、先に言っておく
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まず、夜の善波峠に車で入っていくところから始めたい
国道246号を厚木から西へ走る。伊勢原の市街を抜けて、ラーメン屋とガソリンスタンドの明かりが途切れたあたりから、道はゆるやかに登りはじめる。夜の246は妙に速い。トラックが多いし、みんな流れに乗って飛ばす。
カーラジオを消すと、タイヤのノイズだけが車内に残る。
登坂車線が現れて、右手の斜面が黒く迫ってくる。その先に、新善波トンネルの坑口がぽっかり開いている。ここまではただの幹線道路だ。怖くもなんともない。
問題はその手前だ。トンネルに入る少し前、左に折れる細い道がある。案内標識はほとんどない。カーナビだと「旧道」としか出ない。ウインカーを出して入ると、いきなり世界が変わる。
まず、ネオンが出てくる。ピンクと紫と金色の、やたら主張の強い看板が両側に並ぶ。ラブホテル街だ。城みたいな外観の建物があり、その隣に営業をやめて久しい建物があり、さらにその隣に、窓が全部黒くなった箱みたいな建物がある。
生きている建物と死んでいる建物が交互に並んでいる。この時点でもう空気がおかしい。
その並びが途切れると、道は急に暗くなる。街灯が減る。センターラインは目を凝らさないと見えないくらい薄い。左右から竹と雑木が覆いかぶさってくる。
そして、正面に穴が開く。
旧善波トンネル。地元では善波隧道と呼ぶ人もいる。全長158メートル。幅は5.5メートルしかないから、対向車が来たらどちらかが待つしかない。高さは3.7メートル。大型車は入れない。坑口の縁は、長年の排気ガスで真っ黒だ。
ヘッドライトを入れると、内壁がぼんやり照らされる。コンクリートとコンクリートブロックで巻き立てられた壁。あちこちに水が染み出していて、灰色の中に黒い筋が何本も垂れている。天井近くには、青緑色に変色した大きなシミがある。
何かの化学反応らしいが、見ようによっては人の横顔に見える。というか、見えてしまう。一度そう見えると、もう戻らない。
158メートルは、車ならほんの数秒だ。でも、時速二十キロくらいで入っていくと、けっこう長い。エンジン音が壁に反射して、自分の車の音なのに、後ろからもう一台ついてきているように聞こえる。窓を開けると、真夏でも空気が数度下がったのが分かる。
出口の光がだんだん大きくなる。抜けると、また向こう側のホテルのネオンだ。
これが、旧善波トンネル。神奈川で一番有名な心霊スポットのひとつで、ネットのランキングでは「日本三位」なんて書かれ方をすることもある場所。そしてここには、四十年以上前から「じゅんいち君」と呼ばれてきた少年の霊の噂がある。
「もう死なないで準一」――八文字の看板が、全部の始まりだった
この場所の怪談は、ふつうの心霊スポットとは出発点が違う。
たいていの心霊スポットは、まず「出る」という噂があって、あとから理由が後付けされる。廃病院だから、事故が多いから、昔なにかあったらしいから。順番はいつもそうだ。
善波は逆だった。まず、看板があった。
「もう死なないで 準一」
峠のわきに、その一行だけが書かれた看板が立っていた。誰が立てたのかも、なぜ立てたのかも、通りかかっただけの人間には分からない。ただ、夜、ヘッドライトの中にその文字が浮かび上がる。
これがきつい。「もう死なないで」だ。「死なせないで」でも「気をつけて」でもない。もう、死なないで。まるでその準一という人物が、何度も死んでいるみたいな言い方じゃないか。
看板を見た人間は、家に帰るまでにその意味を考える。そして、たいてい一番怖い答えにたどり着く。ここでは準一という子が繰り返し死んでいる、と。
看板の色については、当時を知る人の証言がいくつか残っている。紫の地に黄色の文字だったという書き込みを見たことがある。夜だとむしろ読みにくかったはずだが、読みにくいものほど記憶に焼きつく。
この看板は1989年、平成元年ごろに撤去された。老朽化と道路整備が理由とされる。つまり、現地に行っても看板はもうない。跡すら分からない。にもかかわらず、看板の話だけが三十年以上生き延びて、いまだにYouTubeのサムネイルになっている。
物がなくなっても、テキストは死なない。これが善波の怪談の核心だと思う。
事故は、たしかにあった――昭和四十年九月二日の夕方
じゃあ本当に事故はあったのか。ここは押さえておきたい。
流通している記述はかなり具体的だ。1965年、昭和40年9月2日の夕方。秦野市に住んでいた当時17歳の少年が、バイクで善波峠を走っていた。カーブを曲がりきれず、対向してきたトラックと正面衝突。少年は亡くなった。
日付まで揃っているのが特徴で、心霊系のまとめサイトからブログから、ほぼ全部がこの日付を書く。ソースをたどると、どうも古い時期に誰かが調べた情報が起点になっていて、そこから全部が枝分かれしているらしい。
一方で、事故の状況については別の伝えもある。トラックとの正面衝突ではなく、善波のバス停付近での単独事故、つまり自爆だったという地元筋の話だ。十五年ほど前に閉鎖された個人サイトに書かれていたもので、いまは直接読めない。
でも、この説を紹介している考察系のブログがいくつかあって、そこ経由で内容だけが残っている。
そしてもうひとつ、重い傍証がある。昭和41年5月10日付で、息子を亡くした父親が無事故の祈りを込めた、という趣旨の新聞記事が出ていたという話だ。日付が翌年の春というのは、看板の設置時期としてもつじつまが合う。
事故があって、半年か八か月ほど経って、親が何かを立てる。時間の流れとして自然だ。
つまり、事故があったこと、親が何かを立てたこと、その二つはほぼ間違いない。怪談の骨組みの一番下には、実際の交通事故死がある。ここは軽く扱いたくない。
ただし、亡くなった少年がどこの誰だったのかを掘るのは、この記事ではやらない。ネット上には遺族を特定できそうな書き込みも実際に落ちているが、それを並べて消費するのはただの悪趣味だ。
名前が怪談の中で一人歩きしてしまった、という事実そのものが、この記事で扱う対象だと思っている。
看板はなぜ立ったのか――読み筋はふたつある
看板の設置理由については、大きく二つの読み方がある。どっちを信じるかで、この場所の怖さの種類が変わる。
ひとつめは、怪談が先で看板が後、という順番だ。事故のあと、峠では車の前に飛び出してくる人影が繰り返し目撃されるようになった。その噂が遺族の耳にも入る。まさか、あの子が自分の死に気づかないまま、同じことを何度も繰り返しているんじゃないか。
そう考えた親が、供養と静止の意味を込めて「もう死なないで準一」と書いた、という読み。この筋だと、看板は霊への呼びかけになる。だからこそ、あの文面になる。オカルト好きにはたまらない解釈で、実際いちばん広く流通しているのもこれだ。
ふたつめは、看板が先で怪談が後、という順番だ。息子を失った父親が、この峠でもう誰も死なないでほしいという願いを込めて立てた。主語は準一ではなく、準一からのメッセージ。
「僕みたいな事故で死ぬ人が、もういませんように」を、看板の上では省略して書いた。つまり「もう死なないで」の宛先は、そこを走る全員だった。この読みだと、看板は交通安全の呼びかけになる。地元筋の証言はこちら寄りだ。
冷静に考えると、ふたつめのほうが圧倒的に現実的だと思う。公道のわきに私設の看板を立てるには、いろいろな手続きがいる。「霊が出るので」という理由で通るとは思えない。でも「事故多発地点での注意喚起」なら通る。
そして残酷なのは、看板が現実的な理由で立ったとしても、その文面が独り歩きする力を止められなかったことだ。書いた側の意図と、読んだ側の受け取りは、まったく別物になった。文字は、書いた人の手を離れる。
「じゅんいち」という名前は、どこから湧いてきたのか
ここが個人的に一番おもしろいところだ。噂を追うと、名前の扱いが時代とともに変わっていく。
初期段階では、名前はあくまで「看板に書かれていた文字」でしかない。準一という漢字二文字。実在の少年の名前。それだけだ。
次の段階で、名前が霊の名前になる。準一君の霊が出る、準一君道路と呼ばれる、といった言い方が定着する。旧善波トンネルには「準一君道路」という別名がある、という記述はかなり古くから確認できて、これはもう一種のブランド名みたいになっている。
そして三段階目で、名前が呪いの条件になる。「事故に遭った人の名前が、みんなじゅんいちだった」というやつだ。これはもう、実在の少年とは別物になっている。同名の人間が次々に死ぬ、という設定は、看板の文面から論理的に逆算された結果だ。
もう死なないで準一、だから準一は何度も死んでいる、だから死んでいるのは全部別人の準一だ、だからこの峠は準一という名前の人間を殺す。きれいな三段論法で、しかも全部が想像だ。
さらに派生がある。トラック運転手の話として、人影を避けたあとに「友達になれると思ったのに」という声を聞いた、というバージョンがあるのだが、この運転手の名前が「じゅんじ」だったとされる。じゅんいちではなく、じゅんじ。惜しい。
惜しいから助かった、あるいは惜しいから声をかけられた、という含みになる。名前の一致がどんどん細かい判定になっていくのが分かる。
もうひとつ、掲示板のコメントに残っていた記述で「地元だけど計三人亡くなってるんだっけかな。名前は全員準一」というものがある。三人という数字が出てくる。これも根拠はどこにもない。でも「三人」と言われると急に具体性が増す。
怪談における数字の力だ。
そして表記の揺れ。準一、順一、じゅんいち、ジュンイチ。心霊スポット紹介サイトのコメント欄には「もう死なないで順平」と書いている人までいた。もはや別人だ。この揺れ自体が、名前が実在の記録からどれだけ遠ざかったかを示している。
結論から言うと、「じゅんいち君」という呼び名の出所は、看板の文字以外に確認できない。少なくとも、公開されている資料をどれだけ辿っても、看板より前に「じゅんいち」という名前がこの峠に結びついていた形跡は見つからない。
名前は看板から出て、看板が消えたあとも残った。
車に乗り込んでくる、後部座席にいる――噂のバリエーションを一つずつ
ここからは、実際に語られてきたパターンを個別に見ていく。どれも独立した話として流通していて、必ずしも整合しない。
いちばん基本形は、飛び出しだ。旧善波トンネルの内部、あるいは坑口の手前で、走行中の車の前に人影が飛び出してくる。運転手はブレーキを踏む。あるいはハンドルを切る。衝撃を感じることもある。車を降りて確認すると、誰もいない。バンパーにも傷はない。
この形は五十年以上ほとんど変わらずに語られていて、善波の怪談の原型と言っていい。
その発展形が、後部座席だ。人影を避けてブレーキを踏み、降りて確認して、誰もいなかったので車に戻る。安心してシートベルトを締め、なにげなくルームミラーを見る。後部座席に、知らない少年が座っている。こちらをじっと見ている。声も出ない。
ミラーから目を離せない。この、一度安心させてから車内に入れる、という構成が異様にうまい。逃げ場をつぶす構造になっている。避けた瞬間には終わっていなくて、避けたことで乗せてしまったことになる。
三つめが、名前を呼ぶと返事がある、という型。トンネルの中で「じゅんいち君」と呼びかけると、返事がある。どこから聞こえたのか分からない位置から、短く返ってくるという。
呼びかけと応答の型は日本の怪談では古典的で、これは「こっくりさん」から「だるまさんがころんだ」まで連なる系譜だ。実際、YouTubeの検証動画には、旧善波でだるまさんがころんだをやるという企画が存在する。
呼べば応える、という前提を現地で試したくなるのは、もう本能に近い。
四つめが、ボールを追いかける子ども。トンネル内を、小さい子どもがボールを追って横切っていく。車のライトの中を、左から右へ、あるいは右から左へ。ボールが先で、子どもが後。この型は他所のトンネル怪談にもよく出てくる。
子どもの飛び出しという交通安全教育の刷り込みと、ぴったり重なる。教習所で何百回も見せられる、あの映像だ。だから見た人は「見た」と確信できる。脳内に鋳型がある。
五つめが、母親が探している、という派生。子どもの霊とは別に、女性の姿が目撃される。子どもを探している、あるいは呼んでいる。声だけのバージョンもある。この型が加わると、怪談の性格が変わる。単独の霊が徘徊する話から、家族の物語になる。
看板を立てた親の存在が知られているぶん、この派生は妙な説得力を持ってしまう。看板は父親が立てたと伝えられているのに、噂のなかでは母親が探し歩いている。ずれているのに、両方成立してしまう。
六つめが、目撃される霊の年齢がバラつく問題。これは重要だ。事故で亡くなったとされるのは17歳の高校生で、バイクに乗っていた。ところが目撃談の多くは「小学生くらいの男の子」「幼い子ども」だ。十七歳を子どもと見間違えるのは無理がある。
この矛盾は昔から指摘されていて、だから「準一君とは別の霊がいる」という話に発展した。バイクに乗った青年の霊と、小さい男の子の霊が、同じ場所で別々に目撃されている、という二重構造になっている。
七つめは、周辺スポットとの混線だ。トンネルのそばにはラブホテル街があり、そのなかには廃業して廃墟になった建物もある。そこで殺害された女性の霊、という噂が別系統で存在する。近隣には別の事件の現場もあると書き込まれている。
トンネルの怪談と、ホテル街の怪談と、峠の怪談が、地理的に近すぎて混ざる。「トンネルで女性の声を聞いた」という動画のタイトルが出てくるのは、この混線の産物だと思う。
電話ボックスに、深夜二時にかける
善波の怪談のなかで、いちばん手順が具体的なのがこれだ。
新善波トンネルの前に電話ボックスがある。深夜二時に、そこから「111」にかける。かけたら受話器を置く。しばらくすると、その電話ボックスの電話が鳴る。出ると、男の子の声がする。
この噂は心霊スポット紹介サイトにも独立項目として立てられていて、「新善波トンネル前の電話ボックス」というスポット名で扱われている。トンネルではなく電話ボックスが単体でスポットになっているのが面白い。
付随する現象も語られている。ボックスに入ると急に寒くなる。誰かが先に電話をしているような気配がする。ガラスに影が映る。車で通りかかって、中に人がいるのが見えたので停めて確認したら誰もいなかった、というパターンもある。
種明かしは簡単で、111は線路試験受付という正規のサービス番号だ。回線がちゃんとつながっているか確認するための番号で、かけると自動音声が流れ、切ったあとに折り返しの着信が来る。それだけ。
善波の電話ボックスに限らず、どこの電話からでも同じことが起きる。通話料もかからない。
だからこの怪談は、成立の仕組みが完全に説明できてしまう。にもかかわらず、この手の噂は全国に無数にある。深夜二時ではなく夕方四時四十四分にかける、というローカルルールの学校もあった。かかってきた電話を取ると無音で、すぐ切れる。
無音だからこそ、あとから「声が聞こえた」と言い出す子が出る。そして一人が言い出すと、続々と「聞こえた」が湧く。ある子は低い男の声だと言い、別の子は女の人が泣いていたと言う。内容がバラバラなのに、全員が本気だ。
善波の場合、この汎用ネタが土地の物語と接続してしまったところがポイントになる。全国どこでも起きる無言の折り返し着信が、善波では「少年の声」になる。なぜなら、この峠にはすでに少年がいることになっているからだ。
現地の電話ボックスが今も同じ場所に立っているかは、正直あやしい。公衆電話は全国で猛烈な勢いで撤去されている。噂だけが残って、装置が消える。看板と同じパターンだ。
実際に語られてきた体験談を、いくつか
送迎の帰り道、後部座席で泣いていた子
夜の送迎の仕事をしていた人の話として流通しているものだ。ある晩、女性の従業員を車で送っていた。彼女が突然、旧善波トンネルを通って帰ってほしいと言い出す。運転手にはその理由が分からない。
その方向にあるトンネルは旧善波しかないし、わざわざ狭い旧道を選ぶ理由がない。それでも、本人がそう言うので言われた通りに旧道へ入った。
トンネルを抜けたあたりで、なんとなくルームミラーを見た。後部座席の彼女が、うつむいて泣いていた。声も出さずに、肩を震わせている。大丈夫かと声をかけたが、返事はない。気味が悪かったが、そのまま事務所まで送り届けた。
数日後、同じ子を乗せる機会があったので、あの日のことを聞いてみた。すると彼女は、その日のことをまったく覚えていないと言った。トンネルを通ったことも、泣いていたことも、記憶にない。そのかわり、と言って左手を見せられた。
手の形をしたアザができていた。指の跡がはっきり残っていて、背後から握られたような形をしていたという。
その運転手はしばらくして会社を辞め、以来、旧善波トンネルには行っていないと結んでいる。この話は、霊が見えたとも聞こえたとも書いていないのがいい。何も起きていない。ただ、記憶がなくて、アザがある。それだけ。
午前三時、白いモヤが人の形になっていく
新聞配達をしていた人の話だ。配達の順路の関係で、毎日午前三時前後に旧善波トンネルを通っていた。深夜の峠は静かで、慣れてしまえばどうということはない。むしろ、街より走りやすい。
ある朝、トンネルに入ったところで、前方に白いモヤが出ていた。峠だし、季節によっては霧も出る。最初はそう思った。ところが、そのモヤが動かない。風はあるのに、その一塊だけがその場に留まっている。
近づくにつれて、モヤの輪郭がはっきりしてきた。上のほうが丸く、そこから下に細くなって、途中で二つに分かれている。人の形だ、と思った瞬間、全身に鳥肌が立った。
そのまま加速して抜けた。抜けたあとは何も起きなかった。ただ、その日の配達中、峠の下の家の犬が、ずっとトンネルの方向に向かって吠えていたという。犬というのは、人間より先に何かに気づく。
あの吠え方は、通りすがりの人間に向けたものではなかった、というのがその人の言い分だ。
トンネル内の白いモヤについては、物理的な説明がいくらでもつく。標高百九十メートル台の峠にあって、内部は年中湿っていて、壁からは水が染み出している。
外気温と内部の温度差があれば霧は簡単に発生するし、ヘッドライトに照らされた霧は思ったよりくっきり形を持つ。それでも、目の前で人の形になっていく数秒は説明の外側にある。
「友達になれると思ったのに」
これは古くから流通しているトラック運転手の話だ。夜、荷物を積んで峠を越えようとしていた。トンネルの手前だったとも、内部だったとも言われる。突然、車の前に人影が飛び出してきた。
とっさにハンドルを切った。あるいは急ブレーキを踏んだ。とにかく、当たらなかった。心臓が跳ね上がったが、当たっていないことは確信していた。手応えがまったくなかったからだ。
安堵して息をついたとき、耳のすぐ横で声がした。
「友達になれると思ったのに」
子どもの声だった。運転手は振り返らなかった。振り返れなかった。そのまま峠を下りきって、しばらく車を停められなかったという。
この話の恐ろしさは、飛び出しの目的が語られてしまうところにある。あれは事故を起こさせようとしていたのではない。連れて行こうとしていたわけでもない。ただ、友達になりたかった。避けられたことを残念がっている。悪意ではなく、寂しさだ。
そのほうがずっと怖い。
なお、この運転手の名前が「じゅんじ」だったとする尾ひれもついている。惜しかったから、声だけで済んだのだ、という理屈になる。
深夜二時の電話ボックス、そして無音
四つめは、電話ボックス系のよくある形だ。若い男数人で肝試しに来た。トンネルを往復して、何も起きなかったので、じゃあ電話ボックスをやろうという話になった。深夜二時ちょうどを腕時計で待って、一人が受話器を取り、111を押した。
自動音声が流れる。それを聞いて、受話器を戻す。全員でボックスの外に出て、じっと待つ。十秒、二十秒。
鳴った。
爆音だった。夜の峠でベルが鳴ると、あんなに大きいのかと思ったという。全員がその場から一歩下がった。それでも誰かが出ないと帰れない。じゃんけんで負けたやつが受話器を取った。
無音だった。何も聞こえない。もしもし、と言っても返事はない。数秒でツーツーと切れた。
拍子抜けして帰路についたのだが、車に乗ってから、受話器を取った男が「途中で息づかいみたいなのが聞こえた気がする」と言い出した。ほかの三人は聞いていない。ボックスの外にいたから当然だ。その一言のせいで、帰りの車内は誰も口をきかなくなった。
これが典型的な流れだと思う。実際には何も起きない。起きないのだが、一人が「聞こえた気がする」と言うだけで、その夜の記憶は全部書き換わる。
隧道そのものの記録――昭和三年に開いた、158メートルの穴
怪談から離れて、モノとしての記録を厚めに書いておきたい。ここが薄いと、怪談も薄くなる。
善波トンネル、正式には善波隧道は、1928年、昭和3年に開通した。当時これは県道の一部として掘られたものだ。全長158メートル、幅員5.5メートル、高さ3.7メートル。この幅と高さの数字が、いまの感覚だとかなり小さい。
バスがぎりぎり通れるサイズで、実際、開通後にはバスも走るようになった。
内部の覆工はコンクリートとコンクリートブロックによる巻き立てだ。昭和初期の隧道としては標準的な仕様と言っていい。よく素掘りと紹介されることがあるが、少なくとも現状の内部は全面が巻かれている。
素掘りの荒々しさを期待して行くと、拍子抜けするくらい真っ当な近代トンネルだ。ただし、経年で壁のあちこちから水が滲み、白華とシミが層になっている。あの汚れの表情が、写真を怖くする。
1956年、昭和31年に、この道は国道246号に指定された。戦後の交通量増加はすさまじく、幅5.5メートルの隧道では明らかに足りなくなる。そこで直線的な線形改良と拡幅が行われ、1963年、昭和38年8月に新善波トンネルが開通した。
全長260メートル、幅員13.5メートル、高さ4.5メートル、片側一車線ずつの二車線。旧隧道の北側、少し高い位置を通る。国道のルートが新トンネル側に切り替わったのは、翌1964年、昭和39年のことだ。
つまり、事故があったとされる1965年9月というのは、新トンネルが開通してルートが切り替わった直後にあたる。旧道が旧道になったばかりの時期だ。この時系列は覚えておく価値がある。
そして重要な事実がひとつ。新善波トンネルの開通後、旧道沿いにはモーテルが急増した。国道から外れて交通量が減り、人目につかず、しかも幹線からのアクセスは良い。その条件が、当時のモーテル業態にぴったりだった。
それが現在まで続くラブホテル街の始まりだ。心霊スポットの隣がホテル街、という奇妙な取り合わせは偶然ではなく、道路構造の必然だった。
旧善波トンネルは、いまも車で通行できる。廃道でも廃隧道でもない。実際、探索記を読むと、探索中に何台も車が通過していったと書かれている。その車の目的は言うまでもない。ホテルへの通路として現役なのだ。
近年の状況としては、2024年8月末の台風十号にともなう土砂災害で、国道246号の新善波トンネル厚木側坑口付近が通行止めになった。解除まで十日ほどかかっている。このとき、旧道の通行も推奨はされなかったという。峠は今でもふつうに危ない。
坑口の西側には監視カメラが設置されている。不法投棄が続いたためらしい。そして「もう死なないで準一」の看板が撤去されたあと、まったく別の看板が立ったという話がある。
この場所へゴミを置かれた方がお亡くなりになったそうです、ご冥福をお祈り致します、という文面だ。誰が立てたのかも、内容が事実なのかも分からない。ただ、看板が消えた場所に、また意味深な看板が立つ。この土地はどうも、看板に呪われている。
峠のほうが、トンネルよりずっと古い
善波峠は標高192メートル。秦野盆地と、東側の金目川沿いの低地の境目にあたる。伊勢原市と秦野市の市境でもある。
道としての歴史は古い。古代の官道、足上郡と愛甲郡を結ぶ伝路がここを通っていたという説がある。江戸時代には矢倉沢往還が越えていた。
矢倉沢往還というのは、江戸の赤坂御門を起点に、三軒茶屋、川崎、荏田、長津田、厚木、伊勢原を経て善波峠を越え、秦野の曽屋、十日市場、千村を通り、松田惣領、関本、矢倉沢の関所を抜けて、足柄峠を越えて駿河の沼津宿に至る街道だ。
東海道の脇往還、つまり裏街道にあたる。
この道は、もともと古東海道の本道だった。それが鎌倉時代に箱根湯坂道が開かれ、江戸時代には箱根越えが本道になったことで、格が下がる。ところが江戸中期以降、庶民のあいだで大山講が爆発的に流行する。大山阿夫利神社への参詣だ。
矢倉沢往還は宿駅が整備されていたので、参詣道として一気に息を吹き返した。大山道、大山街道と呼ばれるようになったのはこのためだ。富士参りの道でもあった。
善波峠は、その参詣路の峠だった。伊勢原村と曽屋村という、当時の経済的中心地同士を結ぶ区間にあたる。ただし人馬の往来は楽ではなかった。追い剥ぎが出るため、護衛を頼む旅人がいたと伝えられている。
峠の切通しには聖徳太子像や観世音菩薩像が造立され、旧道沿いには馬頭観音が多い。石仏の多さは、そのまま難所であったことの証拠だ。切通しには六基の石仏があって、そのうちの一基は1802年、享和2年の聖徳太子塔だという。
聖徳太子像が刻まれた石塔は秦野市内でも珍しいものらしい。
峠道には、御夜燈と呼ばれる常夜灯がある。文政10年、1827年に、旅人の峠越えの安全のために道標として建てられたものだ。灯油は近隣の農家が栽培した菜種から絞った拠出油だった。
灯明の下には峠の茶屋があって、その主人の八五郎さんという人が、明治の末まで毎晩火を灯し続けていたという。
峠に灯りをともす仕事を、一人の茶屋の主人が何十年も続けた。この話はいい。石の灯籠と菜種油と、名前の残った八五郎さん。怪談より先に、こういう記録がある土地なのだ。
その茶屋がなくなったのには理由がある。明治30年ごろ、鶴巻温泉方面へ南下して金目川沿いを行くルートが開かれた。いまの県道612号と613号にあたる。荷馬車や人力車はそちらに移った。
善波峠の往来は激減し、一軒だけ営業していた茶店は、まもなく畳まれた。御夜燈も放置された。
ところが昭和3年、峠を通るルートで県道が開鑿され、善波隧道が開通する。峠はまた交通の要所に戻った。ただし今度は、人が歩く峠道ではなく、車が抜けるトンネルとして。人は峠の上を通らなくなった。
放置されていた御夜燈は、平成6年、1994年に、地元の太郎の郷づくり協議会の手によって復元された。いまも切通しの近くに立っている。ただし傷みは進んでいる。
善波太郎、弓を引く――地名になった伝説
太郎の郷づくり協議会の太郎とは誰か。善波太郎重氏という、鎌倉時代の伝説の武将だ。地名の善波自体が、この人物に由来するとされる。
善波氏は史料にも名前が出てくる鎌倉幕府の御家人で、実在したことは確からしい。ただし出自や事跡には不明な部分が多い。居館は現在の三嶋神社付近にあったと伝えられ、三嶋神社は寛文7年、1667年に重氏の居館跡といわれる現在地に移されたとされる。
伝説はドラマチックだ。重氏は若いころ、召使いと通じたことで父の怒りを買い、館を出て流浪した。彼が去ったあと、館には悪臣がはびこる。父の死後、館も社領も奪われてしまう。
それを知った重氏は、三島神社、子易の諏訪明神、大山の石尊権現の助けを得て、悪臣たちを一挙に滅ぼし、館の主に返り咲いた、という筋だ。
面白いのは、この物語の断片が周辺の地名として残っていることだ。重氏が召使いの千子女と雨露をしのいだ場所が虎杖窪。悪臣を討つために伏兵を潜ませた場所が千人がくれ。そして弓の弦を湿らせた場所が弦しめし、正式には湿弦峰と書く。
弦しめしの由来話がまた良い。武勇にすぐれた善波太郎が、峰に登って遊ぶために弓を張り、矢を射ようとして弦を湿そうとした。ところがそこには水がない。都合よく苔の生えた湿った場所があったので、木の履物を履いた足でひと踏みしたら、水が湧き出た。
その場所を湿弦峰という。伊勢原市の解説によると、水が湧いたという場所には昭和初期まで池だか水たまりだかがあったが、いまはその様子はないという。
そして、その弓の話が地名を生む。北の空から、鈴のついた幡が飛んできた。善波太郎が強弓を引いてこれを射落とす。鈴が落ちた川が鈴川になり、矢の先が落ちたところが矢崎になり、幡が落ちたところが落幡になった。
落幡というのは秦野の地名で、昭和30年以降に鶴巻に改称されている。鶴巻温泉の鶴巻だ。
別伝もある。太郎が平塚に向けて矢を射たら途中で折れ、弓の先が矢崎に、羽根が矢羽根に落ちた。あるいは、飛んできたのは曼荼羅の幡の妖怪だった。あるいは、日向薬師の唐櫃から飛び出した錦幡だった。
伊勢原市の資料には、この話は古文書によると師となる人が二つの話を合わせたものだと記されている、という但し書きまでついている。つまり、地元の記録の側が、伝説の合成を自覚している。
さらに、国道246号の南側、大住台に近い場所には太郎のちから石がある。石の上部に二筋の窪みがあって、これは善波太郎が下駄で力踏みしたときについた跡だと伝えられている。解説板を立てたのは、例の太郎の郷づくり協議会だ。
伊勢原市串橋には中世石塔群があり、地元では善波太郎の墓と伝えられている。五輪塔、宝篋印塔、宝塔、板碑の断片などで構成されるが、石塔が無銘のため確認はできない。
弓を引いた男の名前が、峠と川と町の名前になっている。八百年かけて、物語が地形に染み込んでいる。
夜泣石と、首のない地蔵
峠にはもうひとつ、怪談寄りの伝承がある。夜泣石だ。
矢倉沢往還の旧道、峠の手前あたりにある石について、こんな話が伝わっている。その昔、旅人がこの石のあたりで倒れた。誰も助けなかった。それ以来、夜になると、この石のあたりから助けを求めるような声が聞こえるようになった。
これはもう完全に怪談だ。しかも助けなかったという部分に、共同体の罪悪感が刻まれている。夜泣石という名前の伝承は全国にあって、小夜の中山のものが一番有名だが、この善波のものは峠道の遭難と結びついている。峠というのは、人が行き倒れる場所だ。
そして、首のない地蔵。峠の切通しには五体か六体の石仏が鎮座しているが、そのうちに首の落ちたものがある。これがYouTubeの心霊検証動画では定番のカットになっていて、首なし地蔵を見つけた、というタイトルの動画が複数存在する。
でも、首のない地蔵は日本中にある。明治の廃仏毀釈で壊されたもの、単純に石が風化して折れたもの、いたずらで倒されたもの。理由はいくらでもある。街道の石仏は基本的に屋外に何百年も置かれているから、無傷のほうが珍しい。
ここで重要なのは、峠の地蔵と、じゅんいち君の怪談が、まったく別系統だということだ。トンネルまわりに準一君の供養のための地蔵があると書いているサイトは多い。
ところが現地を調べた人の報告では、峠の地蔵は江戸時代の茶屋にまつわるもので、事故とは何の関係もない、とされている。設置年代が全然違う。
つまり、江戸時代の街道の地蔵が、昭和の交通事故の供養地蔵として語り直されている。これが怪談の合成のわかりやすい実例だ。古い石仏がそこにある、というだけで、新しい物語がそこに引き寄せられる。
心霊スポットになるまで――モーテル街、テレビ、掲示板、そして動画
善波の知名度がどう膨らんだかを整理しておきたい。
第一段階は1960年代後半から70年代。看板が立ち、通りかかったドライバーがそれを見て、噂を持ち帰る。この時期の伝播は完全に口コミだ。範囲は湘南、県央、多摩あたりに限られていたはずだ。
第二段階は1980年代。心霊ブームの時代だ。看板がテレビ番組で取り上げられたという話があって、当時のキャプチャ画像が出回っている。番組は、奇妙な噂が流れている、という紹介の仕方をしたらしい。
ちなみに、心霊研究家の池田武央のスタッフ映像として、この峠のトンネルの映像が公開されているし、怪異研究者の小池壮彦の著書でもこの件が考証されていたという指摘がある。オカルト業界のプロが手を出す規模の話にはなっていた。
そして1989年、看板が撤去される。ここが分水嶺だ。実物が消えたことで、かつてそこにあった不気味な看板、という伝説的な存在になる。確かめられないものは、否定もできない。
第三段階は2000年代、2ちゃんねるだ。オカルト板の心霊スポット系スレッドで、旧善波トンネルは常連になる。2chで殿堂入り、という言い回しがあちこちのまとめサイトに書かれているくらいだ。
掲示板でのやりとりを見ると、地元の人間と、行ったことのない人間と、行ったけど何もなかった人間が混ざっている。
実際のスレッドの雰囲気はこんな感じだ。ぜんばとんねるはガチ、行った全員が翌日負傷した。深夜に行くガチグループと昼間に行くチキングループあったよな。五十から六十人くらいで押しかけたい。
ふざけている書き込みと、真剣な書き込みが同じ勢いで並んでいる。この温度差が2ちゃんねるらしくていい。
そして、善波トンネルって何だよ、初めて聞いたんだが、という質問に対して、誰かが看板の由来を丁寧に説明する。その説明が、また別のまとめサイトにコピーされる。この連鎖で、テキストが増殖していく。
第四段階が現在、YouTubeだ。旧善波トンネルの探索動画は、確認できるだけで三十本を軽く超える。心霊系の中堅から大手まで、ほぼ全員が来ている。
有名なところでは、はじめしゃちょーが日本三位の心霊スポットに行く途中で意識が落ちかけた、というタイトルで動画を出しているし、宮迫博之のチャンネルでも扱われている。オカルト部、心霊マニア、ゾゾゾ系のフォロワーたち。
タイトルには必ずと言っていいほど、もう死なないで準一、か、じゅんいち、が入る。
日本で三番目に怖い心霊スポット、という枕詞が定着しているのも面白い。誰がいつ何位と決めたのか、出典はどこにもない。にもかかわらず、動画のタイトルとして機能するので、みんなが使う。順位はコンテンツの燃料になる。
第五段階は、ここ数年の機械生成っぽいまとめ記事だ。検索すると、明らかに量産されたと分かる長大な完全ガイド記事が上位に出てくる。
そこには、工事中に地滑りと機械故障が相次いだとか、トンネル内の電磁波の計測値が通常より高いとか、江戸時代から白装束の女性の伝説があるとか、他では一切確認できない記述が堂々と並んでいる。作業員の幽霊、少女の霊、天井の子どもの霊、時空の歪み。
全部、出典がない。
これは新しい段階の汚染だと思う。人間が口コミで噂を膨らませていた時代には、少なくとも誰かの体験が起点にあった。いまは誰の体験も経由せずに、それらしい文章だけが増える。そしてそれが検索結果の上位に来て、次に調べた人の知識になる。
反証を並べておく
ここまで書いてきたが、疑わしい点は全部並べておきたい。そのほうが誠実だし、正直そのほうが面白い。
まず、看板の場所の問題。心霊スポット紹介サイトのコメント欄に、地元を名乗る人の書き込みがある。要約するとこうだ。もう死なないで準一の看板はここじゃない。
看板があったのは国道246号、新善波トンネルから東京方面に五百メートルほど行った、登坂車線が終わるあたり。そこが事故現場で、準一君の霊が現れていた場所。五十代以上の地元の人ならほとんど知っている。
昔から旧善波トンネルに霊が出る噂はあったが、準一君は関係ない。
これが本当なら、話がまるごとひっくり返る。看板は旧トンネルの前ではなく、現道の直線区間にあった。旧トンネルの怪談と準一君の話は、もともと別々に存在していて、あとから合体した。
ネットの記事が全部、旧善波トンネルの前に看板があった、と書いているのは、単なる伝言ゲームの結果ということになる。
一人の匿名コメントを鵜呑みにはできない。ただ、この指摘には妙にリアリティがある。
事故現場がトンネルの中や坑口ではなく、峠のカーブや直線区間だったという話は複数の筋で出てくるし、そもそも17歳の少年がバイクで走っていて事故を起こしたのなら、それは新道側の可能性が高い。1965年9月といえば、ルート切り替えの直後だ。
バイクが走るのは、新しくできた広い国道のほうだろう。
次に、名前の出所が辿れない問題。前に書いた通りだ。じゅんいちという名前は看板の文字としてしか確認できない。看板の写真が確かに存在して、テレビにも映ったらしいのだから、看板があったこと自体は動かない。
でも、そこから先の、同名の人間が次々に死ぬ、は、完全に文面からの逆算だ。三人死んだという数字にも根拠がない。
三つめ、年齢の矛盾。事故で亡くなったのは17歳。目撃されるのは小学生くらいの男の子。この食い違いを埋めるために、二重構造の説明が生まれた。
でも、素直に考えれば、小さい子どもの霊の目撃談のほうが、準一君の話とは別の由来を持っている可能性が高い。
そして、他所のトンネル怪談との混線。トンネル内でボールを追いかける子ども、後部座席に乗り込んでくる子ども、名前を呼ぶと返事がある。これらは善波固有ではまったくない。
全国のトンネル怪談に共通する定型で、犬鳴、小坪、旧生駒、常紋、畑トンネル、どこにでもある。むしろ、日本の峠とトンネルの怪談は、驚くほど部品が共通している。
音と光の説明も一応やっておく。トンネル内で足音が反響して増えて聞こえるのは、断面が小さく壁が硬いためだ。158メートルの直管で、断面が5.5メートル幅しかなければ、音は横に逃げずに前後に往復する。自分の足音が、少し遅れて背後から返ってくる。
息づかいのようなノイズは、風が坑口を通るときの気柱共鳴で説明がつく。峠のトンネルは両側の気圧差で常時風が抜けている。
光のほうも簡単だ。旧道の両側にはネオンが並んでいる。坑口の外の光が内壁に反射して、走行中は視界の端で流れる。壁面の水滴と白華が、ライトの角度によって突然浮き上がる。人の顔に見えるシミは、湿気とカルシウムが作った模様だ。
人間の視覚は、意味のない模様から顔を見つけ出すようにできている。パレイドリアという。あれは異常ではなく、正常な機能の副作用だ。
最後に、事故記録との照合について。ここは正直に書くと、限界がある。1965年当時の個別の交通事故を、一般に公開されている資料から確認するのは難しい。
警察の統計は集計値だし、当時の地方紙の記事を網羅的に検索できる仕組みも一般には開かれていない。昭和41年5月10日付とされる記事の存在は、それを見たという人の証言としては複数あるが、私はその紙面そのものを確認できていない。
だから、こう書くしかない。事故があったことは、複数の独立した筋が同じ内容を伝えている。看板があったことは、写真と映像の証言があるので、ほぼ確実。それ以外は、全部が伝聞と推測の層でできている。
なぜ、この話はこんなに怖いのか
構造を分解してみる。
第一に、加害者になる怖さがある。善波の怪談の中心は飛び出してくる、だ。幽霊を見るのではない。轢いてしまうかもしれない、という恐怖だ。心霊体験のほとんどは受動的で、見た、聞こえた、触られた、という形をとる。
ところがここでは、こちらがハンドルを握っている。避けられるかどうかは自分次第で、避けられなければ、自分が人を殺す。この能動性が、ほかの怪談にはない生々しさを生む。
そして、実際に運転していれば分かるが、夜の狭いトンネルで何かが視界に入ったときの体の反応は、思考より速い。ブレーキを踏んでから、何だったんだ、と考える。この順番が、怪談を体験にする。
第二に、名前の力だ。幽霊が出ます、より、準一君が出ます、のほうが百倍怖い。名前があると、それは現象ではなく人格になる。しかも、じゅんいち、という名前は、昭和のどこにでもあった名前だ。特別ではない。
だから、自分の親戚や同級生にいてもおかしくない。距離が近い。
そのうえで、同じ名前の人が事故に遭う、という条件が加わると、聞いた人間は自動的に自分の名前を確認する。当てはまらなければ安心し、当てはまれば背筋が凍る。参加型なのだ。
第三に、看板というメディアの特殊性がある。怪談はふつう、人が語る。人が語るものは、疑える。あいつの作り話かもしれない。ところが看板は、道路のわきに物理的に立っている。誰かが金と手間をかけて設置している。
しかも公道沿いだから、勝手には立てられない。つまり、ちゃんとした手続きを経て、誰かが本気で立てたものだと分かる。
その本気の物体に、意味不明なメッセージが書いてある。この落差が耐えられない。人は空白を埋めずにいられないから、いちばんドラマチックな説明を作る。
第四に、親の存在だ。怪談に親が出てくると、話の性質が変わる。恐怖に悲しみが混ざる。もう死なないで、という呼びかけには、諦めきれない誰かの声が明確に宿っている。それを読んだ人間は、怖がると同時に、少し胸が痛くなる。
この二重の感情が、記憶への定着を強くする。純粋な恐怖は忘れるが、悲しい恐怖は忘れない。
第五に、地形だ。峠とトンネルは、境界の場所だ。ここでは秦野市と伊勢原市の境で、秦野盆地と金目川低地の境で、山と平地の境でもある。日本の民俗では、境目は昔から異界と接する場所とされてきた。坂の上、峠、辻、橋、トンネル。
人が行き倒れ、追い剥ぎが出て、道祖神と地蔵が立てられてきた場所だ。石仏が六基も並んでいるのは、そこが危険だったからにほかならない。
そして現代、その同じ場所を、時速六十キロで鉄の箱が抜けていく。行き倒れが交通事故になっただけで、峠が人を殺す場所であることは変わっていない。
行こうと思っている人へ、先に言っておく
ここは廃墟でも廃道でもない。現役の生活道路で、しかも隣はホテル街だ。夜中に大人数で押しかけて騒ぐのは、単純に近所迷惑でしかない。トンネル内は幅5.5メートルで、対向車とすれ違えない。そこに人が立っていたら、車のほうが本当に危ない。
夜間の徒歩での立ち入りは、心霊がどうこう以前に事故のリスクが高すぎる。おすすめしない。
路上駐車も論外だ。旧道は狭く、ホテルの出入口が点在している。ホテルの駐車場を無断で使うのも当然だめだ。峠の切通しやハイキングコース側は、夜は真っ暗な山道で、周辺には熊出没の注意看板も出ている。
立入禁止の表示があるところに入るのは、それがどんな理由であれ違法行為になる。やめてほしい。
そして何より、ここは実際に人が亡くなった場所だ。事故で子どもを失った家族が、同じことが起きないようにと看板を立てた場所でもある。その願いを消費して騒ぐのは、あまりに筋が悪い。
どうしても見たいなら、昼間に、車で、静かに通過する。それで十分だと思う。158メートルの、昭和三年生まれの穴。壁の水のシミ。そして抜けた先の空。天気がよければ、新善波トンネルを秦野側に抜けたところで、正面に富士山が見える。
ここは本来、そういう峠だ。
ここからは、記事の本体では触れきれなかった部分を、もう少し掘り下げて書いておく。総括でもあり、追加の考察でもある。
準一君道路という呼び名が意味していること
旧善波トンネル、あるいは善波峠には、準一君道路という別名がある。この呼び名、よく考えるとかなり異様だ。
心霊スポットにあだ名がつくこと自体は珍しくない。だが、そのあだ名が特定の個人名を含んでいるケースは、実はそんなに多くない。犬鳴、小坪、常紋、旧生駒。有名どころはたいてい地名か施設名だ。
ところが善波は、個人名が道路の名前になっている。つまり、この道は誰かのものになった。地形でも施設でもなく、一人の少年の名前で呼ばれる区間になった。
これがどれだけ強い現象かというと、看板が撤去されて三十五年以上経っても、まだそう呼ばれているということだ。看板を実際に見た世代は、もう五十代以上になっている。それより下の世代は、看板を見たことがない。にもかかわらず、名前は継承されている。
名づけというのは、所有の宣言に近い。この場所は準一君のものだ、という宣言が、噂の中で成立してしまった。そして、そう宣言されたことで、この場所に起きるあらゆる不可解な出来事が、自動的に彼のせいになる。
壁のシミも、反響音も、白い霧も、電話ボックスの折り返し着信も。
看板を立てた人の意図が、もう誰も死なないでほしい、だったとすれば、これは完全な裏目だ。願いを込めた文字が、息子の名前を峠に縛りつける結果になった。
名前の呪いという型は、どこから来たのか
同じ名前の人が事故に遭う、という型について、もう少し考えてみたい。
これは日本の怪談ではわりと古い形式だ。同名者に災いが及ぶ、名前を呼ばれると振り向いてはいけない、名前を答えると連れて行かれる。名前は個人を指し示す呪術的な鍵で、それを共有しているだけで危険が伝染する、という発想だ。
面白いのは、この型が近代以降の交通事故怪談に接続されたことだ。峠で死ぬ人間が全員同じ名前、という設定は、統計的にありえないから怖い。偶然では説明がつかない、つまり意志がある、ということになる。
そして、この型には巻き込みの機能がある。聞いた人が自分の名前を確認せざるを得ない。名前が違えばセーフ、同じならアウト。この判定機能があるから、話が拡散する。人は判定されたがる。
ちなみに、あるホラーゲームの心霊用語データベースに因縁というテーマがあって、同じ名前の人間が事故を起こす場所の例として、このエピソードが収録されていたという話がある。ゲームを経由して知った、という人が実際にいる。
テレビ、掲示板、動画に加えて、ゲームというルートもあった。怪談の伝播経路は、思っているよりずっと多い。
峠とトンネルに子どもの霊が出る、という類型について
これは全国的な現象なので、まとめて考えたい。
日本の峠とトンネルの怪談に登場する霊には、はっきりした偏りがある。多い順に、白い服の女、子ども、落ち武者や作業員、そして首なしの何か。このうち子どもの頻度は異様に高い。
理由はいくつか考えられる。
ひとつは、交通安全教育の刷り込みだ。日本人はほぼ全員、幼稚園から自動車教習所まで、子どもが飛び出してくる映像を繰り返し見せられている。ボールが転がってきたら子どもが追ってくる、という因果関係は、ほぼ条件反射のレベルで脳に入っている。
だから、夜のトンネルで視界の端に何かが動いたとき、脳が真っ先に用意する解釈が子どもになる。見たのではなく、当てはめている。
もうひとつは、罪悪感の構造だ。子どもを轢くことは、大人の運転者にとって最悪の想像だ。想像しうる最悪だからこそ、恐怖の対象として最適になる。怪談は、その社会でいちばん耐えがたい罪の形をとる。
三つめは、体格の問題。ヘッドライトの照射範囲と、路面からの高さの関係で、低い位置の動きは見えにくく、しかも一瞬で視界から消える。実際には路上のビニール袋でも、猫でも、反射板でも、脳は小さい人影に変換できる。
四つめは、赦しの物語としての需要だ。子どもの霊は、大人の霊ほど怖くない。悲しさが混ざる。だから語る側も聞く側も、罪悪感なく語り継げる。悪霊の話は誰も悼まないが、子どもの霊の話は悼まれる。悼まれる話は、長生きする。
善波の場合、この四つが全部揃っている。事故現場である。子どもの飛び出しという型がある。ライトの届きにくい狭い隧道がある。そして、もう死なないで、という悼みの言葉が刻まれた看板があった。これ以上ないくらい条件が揃っていた。
母親が探している、という派生が生まれた理由
派生のなかで、いちばん後発だと思われるのが、母親が探している、という型だ。子どもの霊とは別に女性の姿が目撃される、あるいは子どもを呼ぶ声が聞こえる、というもの。
この型が生まれた背景には、たぶん看板の記憶がある。多くの記述で、看板を立てたのは両親、あるいは母親とされている。実際には父親だったという伝えのほうが具体性があるのだが、ネット上の記述では母親と書かれることのほうが多い。
心を痛めた母が看板を立てた、という書き方だ。
母が息子のために看板を立てた、という筋が広まれば、そこから、母もまた峠にいる、への飛躍は一歩だ。しかも、女性の霊はトンネル怪談の最大公約数だから、既存の目撃談との合流も簡単だった。
さらに、周辺のホテル街で殺害された女性の霊、という別系統の噂もある。これらが混ざって、善波には子どもの霊と女性の霊がいる、という現在の形ができあがったのだと思う。
家族の物語に組み上がると、怪談は強くなる。単体の霊は忘れられるが、探し合う母子は忘れられない。物語としての完成度が上がるほど、事実からは遠ざかる。この相関は、たぶんどの怪談でも成り立つ。
心霊スポットのライフサイクルという観点から
善波を五十年スパンで眺めると、心霊スポットの一生というものが見えてくる。
誕生期は、実在の出来事と実在の物体から始まる。事故、看板、地蔵。手で触れるものがある。
成長期は、口コミとマスメディアの時期だ。テレビが取り上げ、雑誌が取り上げ、県外に広がる。この段階では、まだ現地に行けば実物が確認できる。
転換期は、実物の消滅だ。1989年、看板が撤去された。ここで怪談は物理的な根拠を失い、純粋なテキストになる。皮肉なことに、この時点から伝説としての価値は上がった。確かめられないものは反証もされないからだ。
拡散期は、インターネットだ。2ちゃんねるのまとめが量産され、心霊スポット紹介サイトがデータベース化し、テキストが指数関数的にコピーされる。この過程で、微妙な言い回しの違いが蓄積して、バリエーションが自然発生する。伝言ゲームが自動化される。
映像化期が、YouTubeだ。ここで大きな変化が起きた。誰でも現地の映像を見られるようになった。三十本を超える探索動画がある。つまり、行かなくても現地が分かる。すると何が起きるかというと、行っても何もない、ことが可視化される。
ほとんどの動画で、劇的なことは起きていない。
にもかかわらず、動画の本数は増え続けている。なぜかというと、心霊スポット探索動画の商品価値は、何かが起きること、ではなく、有名な場所に行ったこと、だからだ。怪異の実在は、もはや必要とされていない。
看板を見たことのない配信者が、看板の話を説明しながら、看板のない場所を歩く。
そして最新の段階が、生成されたテキストの氾濫だ。検索上位に、誰も体験していない体験談と、どこにも記録のない工事記録が並ぶ。電磁波の計測値だの、地質学的要因だの、それらしい言葉で埋められた文章が、事実として流通しはじめている。
これは怪談の死かもしれないし、新しい生かもしれない。ただ確実なのは、五十年前に一人の親が立てた看板と、いまネット上に増殖しているテキストのあいだには、もう血のつながりがほとんど残っていないということだ。
それでも、あの峠に行く価値はあると思う理由
ここまで散々、噂の根拠のなさを書いてきた。でも、善波峠が退屈な場所だとはまったく思っていない。むしろ逆だ。
考えてみてほしい。ひとつの峠に、これだけの層が積み重なっている。
古代の官道の痕跡がある。江戸時代の矢倉沢往還が通り、大山詣の人々が越えた。追い剥ぎが出るので護衛を雇った旅人がいた。享和2年の聖徳太子塔がある。
文政10年の御夜燈があり、その下に茶屋があり、八五郎という人が明治の末まで毎晩灯りをともしていた。行き倒れた旅人の声が聞こえるという石がある。首の落ちた地蔵がある。
もっと遡れば、善波太郎重氏という武将の伝説があり、彼が弓を引いたという話が、鈴川、矢崎、落幡という地名になって残っている。落幡は鶴巻になったが、落幡神社の名は残っている。
明治30年に新しい道ができて峠は寂れ、昭和3年にトンネルが開いてまた息を吹き返した。昭和31年に国道になり、昭和38年に新トンネルができ、旧道になった途端にモーテルが建ち並んだ。
そして昭和40年、17歳の少年が事故で亡くなり、翌年、親が看板を立てた。
その看板は平成元年に撤去され、平成6年には別の団体が江戸時代の常夜灯を復元した。片方の火は消え、片方の火は戻った。
令和になって、峠の上をハイカーが歩き、峠の下を配信者が歩き、国道を毎日何万台もの車が抜けていく。2024年には台風で土砂が崩れて、十日間通行止めになった。
これ全部が、標高192メートルの、たった一つの鞍部で起きたことだ。
怪談は、この分厚い堆積のいちばん上の薄い一層でしかない。でも、その一層があるおかげで、多くの人がこの峠の名前を知った。じゅんいち君の噂を検索した誰かが、ついでに矢倉沢往還のことを知る。それはそれで、悪くない伝わり方だと思う。
最後に、看板の文面をもう一度読んでみる
もう死なないで、準一。
この言葉を、怪談としてではなく、そのまま読んでみる。
もし本当に、これが父親から息子へのメッセージだったなら。息子はもう死んでいる。死んだ人間に、もう死なないで、と言うのは、論理的には無意味だ。言っても届かないし、届いたところで、彼はもう二度と死ねない。
それでも書いたのだとしたら、それはたぶん、息子に向けた言葉であると同時に、自分に向けた言葉だったんじゃないかと思う。もう二度と、こんな思いをしたくない。ここを通る誰にも、同じことが起きてほしくない。
だから毎日、ここを通る何千台かの車に向かって、息子の名前で呼びかけ続ける。
一方、地元筋が伝えるもうひとつの読みでは、この言葉の話者は準一のほうだった。僕みたいな事故で死ぬ人が、もういませんように。息子の名前を借りて、息子に言わせている。それはそれで、切実だ。
どちらにしても、あれは呪いではなかった。
呪いにしたのは、通りかかって、読んで、勝手に怖がって、それを面白がって語り継いだ側だ。私たちだ。この記事もその一部でしかない。
だから、せめて最後に一行だけ書いておきたい。
あの看板が本当に願っていたのは、たぶん、あの峠で誰も死なないことだった。それだけだった。
そして、看板が撤去されたあとも、事故は減ったと伝えられている。願いのほうは、たぶん届いている。
