- その峠を、みんなただ「小峰」と呼んだ
- 事件の話は、これだけ知っていればいい
- 噂は事件より先に立っていた――昭和六十三年十月二日の紙面
- 黄色い帽子の女の子は、カーブのたびに立っていた
- 「たちけて」という言い間違いが、いちばん怖い
- 噂は枝分かれする――一つずつ、独立して育った話
- そして誤報が来た――1989年8月17日の夕刊
- 小峰公園という「基地」――なぜ公園が入口になったのか
- 一本のコースができるまで――秋川街道を北へ
- 心霊本と深夜番組が「地図」を配った九〇年代
- 掲示板が噂を上書きした二〇〇〇年代
- 動画の時代、トンネルは舞台装置になった
- 体験談その一――ガードレールを叩く音
- 体験談その二――カーブミラーに映った赤
- 体験談その三――誰も触っていないのに、シャッターが切れた
- 反証の時間――ここは遺棄現場ではない、という一点
- 音と地形が、だいたい全部説明してしまう
- なぜ怖いのか、なぜここまで広まったのか
- 地元の人たちが、ずっと黙って見てきたもの
- それでも、行くなと書いておく
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その峠を、みんなただ「小峰」と呼んだ
東京の西のはずれに、地図で見ると呆れるほど小さな峠がある。八王子市とあきる野市の境目、都道32号八王子五日市線――地元では秋川街道と呼ぶ道が、いちばん高いところで山を抜ける。そこが小峰峠だ。
峠のてっぺんには大正5年に掘られたレンガ巻きの隧道が横たわっている。全長は80メートルもない。歩けば1分で抜けてしまう。
それなのに、この短いトンネルと、その北側にある都立小峰公園と、峠をはさんだ一帯は、平成のあいだずっと「東京でいちばんヤバい」と言われ続けてきた。理由はひとつ、と多くの人は思っている。
1988年から1989年にかけての東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件、警察庁が広域重要指定117号としてくくったあの事件の現場だから、と。
ところが、順番が逆なのだ。噂のほうが先に立っていた。事件が起きるより前から、この峠には女の子の幽霊が出ると言われていた。しかもその噂を最初に活字にしたのは、よりによって、のちに逮捕される男の父親が発行していた地元紙だった。
この記事は事件そのものの話をしにきたわけじゃない。事件の経過なら別にいくらでも読める。ここで追いかけたいのは、噂のほうだ。
どうやって生まれ、どうやって膨らみ、どうやって「心霊ドライブコース」という一本の道順にまとめられ、どうやってネットと動画で焼き直され、そして現地に行くと結局のところ何もない――その全部を、なるべく細かく。
事件の話は、これだけ知っていればいい
噂を理解するために必要な最低限だけ書く。
1988年8月から1989年6月にかけて、埼玉県入間市、飯能市、川越市、そして東京都江東区で、幼い女の子4人が相次いで連れ去られ、殺害された。
犯人は1989年7月に八王子市内で別件の現行犯として捕まった当時27歳の男で、東京都西多摩郡五日市町――いまのあきる野市――の住人だった。名前は宮崎勤。警察庁は同年9月1日付でこの一連の事件を広域重要指定117号とした。
死刑判決が確定し、2008年6月17日に執行されている。法的にはとうに終わった事件だ。
この記事では以後、彼を主役として扱わない。心霊スポットを語る文章がしばしば犯人の異常さを見世物にするが、あれは怪談ではなく、ただの悪趣味だ。ここで必要なのは、どの地名がどう語られたかという情報だけになる。
噂を追ううえで押さえておくべき地理はふたつだけ。ひとつ、犯人の生家は五日市町小和田にあり、彼の父親はそこで秋川新聞という週刊の地域紙を出していた。
もうひとつ、被害者のうちの一人が見つかったのは、五日市町戸倉、東京電力の新多摩変電所の裏手にあたる山中で、日向峰と呼ばれる尾根筋だ。1989年9月6日のことだった。
この「新多摩変電所の裏の山」というのが、後々ぜんぶをこじらせる。変電所へ入る脇道は秋川街道から分かれていて、小峰トンネルの手前にある。つまり同じ道沿いなのだ。だが実際の場所とトンネルは2キロほど離れている。峠のてっぺんではない。
トンネルの中でもない。ましてや小峰公園でもない。
この2キロが、平成のあいだずっと、誰にも埋められなかった。
噂は事件より先に立っていた――昭和六十三年十月二日の紙面
多摩の一帯で「小峰峠に女の子の幽霊が出る」と囁かれ始めたのは、昭和63年、つまり1988年のことだと語り継がれている。発火点はタクシーの運転手の話だったという。夜、八王子から五日市方面へ客を乗せて峠を越えたとき、女の姿を見た。
あるいは乗せてしまった。そういう類の、日本中どこの峠にもある話だ。
面白いのはここからで、その運転手の目撃談を記事にしたのが、地元の週刊紙・秋川新聞だった。掲載日は昭和63年10月2日と伝えられている。
記事が出ると、同じような目撃談が次々にその小さな新聞社に集まってきて、しばらく人気の連載めいた扱いになったという。地方紙の埋め草としては最高の素材だ。読者が反応して、投書が来て、また記事になる。
その新聞を出していたのが、翌年に逮捕される男の父親だった。
順番を確認しておく。記事が出たのが10月2日。二件目の誘拐が起きたのが10月3日。翌日だ。そして、その二件目の被害者が見つかったのが、翌1989年9月、この峠のすぐ近くの山中だった。
偶然を並べただけの話だ。因果関係は何もない。それでも、この三つの日付を並べたときに背筋を撫でていくものの正体を、否定するのは難しい。噂というのは、こういう「並べると気持ち悪い偶然」を燃料にして生き延びる。
小峰峠の話が三十年以上も擦り切れずに語られてきたのは、幽霊の質が高かったからじゃない。この年表の並びが異様だったからだ。
黄色い帽子の女の子は、カーブのたびに立っていた
いちばん古い形の噂を、できるだけ当時語られていた通りに再現してみる。ネット掲示板のオカルト板に長く残っていた版が、たぶん最も原型に近い。
秋川街道を八王子側から登っていく。いまの新小峰トンネルはまだない。片側一車線、いや、場所によっては一車線半ほどしかない道が、山肌を縫うようにぐねぐねと折れ曲がりながら高度を上げていく。両側は杉と雑木で、昼でも暗い。街灯はひとつもない。
ヘッドライトの届く範囲だけが世界で、その外側は塗り潰したような黒だ。
カーブを曲がる。ライトが路肩を舐める。そこに、女の子が立っている。
黄色い帽子をかぶっている。通学帽だ。うつむいていて、顔は見えない。ふしぎなことに、周りは真っ暗なのに、その子の姿だけはやけに鮮明に見える。輪郭がぼやけない。反射しているわけでもないのに、白く浮いている。
ぎょっとして通り過ぎる。次のカーブを曲がる。
また立っている。
同じ格好で、同じようにうつむいて、同じ黄色い帽子で。
「そう、何度カーブを曲がっても、何回カーブを曲がっても、女の子が立っているんだよ」――当時の目撃者のひとりは、額に深い皺を寄せてそう呟いたという。
この「カーブごとに繰り返し現れる」という一点が、小峰峠の噂を他所のトンネル怪談から決定的に分けている。一回きりの遭遇じゃない。逃げても逃げても追いつかれる。峠を抜けきるまで、何度でも同じ子が立っている。
運転しているかぎり止まれない、という車という空間の閉塞感と、ぴったり噛み合っている。
「たちけて」という言い間違いが、いちばん怖い
もうひとつ、初期の噂には決定的なディテールがある。
女の子の、手首から先がない。
その、先のない手を、走ってくる車に向かって振る。バイバイをするみたいに。あるいは、止まって、と言うみたいに。
そしてトンネルに入ると、声が聞こえる。「助けて、助けて」と。ただし地元で伝わってきた版では、その声は正しく「たすけて」とは言えていない。舌の回らない、幼い子の言い方で「たちけて」と聞こえる、とされていた。
この一語が、この噂の中でいちばん強い。「助けて」だと怪談の定型に落ちてしまう。「たちけて」だと、急に、本当に小さい子の声になる。作り話にしては芸が細かすぎるし、逆に、誰かが本気で怖がらせようとして作ったのだとしたら相当な腕前だ。
三十年以上経ってなおこの語り口が生き残っているのは、たぶんこの一語のせいだ。
さらに派生の一つには、トンネルの天井から、青白い子どもの手や足が何本もだらりと垂れ下がっていた、というものもあった。何本も、というのがポイントで、一人ではないと匂わせている。
事件が四件だったことと後から結びつけられて語られるようになるが、この形の目撃談自体は事件の全容が明らかになる前から出回っていた。
噂は枝分かれする――一つずつ、独立して育った話
小峰まわりの怪異は、ひとつの物語がバージョン違いになったというより、独立した小話が同じ地名の下に積み上がっていった。並べてみると、それぞれ生まれた時期も語り手の層も違うのがわかる。
鈴の音の話は、おそらく二番目に古い。どこからともなくリン、と澄んだ音が鳴って、その直後に幼い女の子が現れる。あるいは、姿は見えないまま鈴だけがトンネルの奥から近づいてくる。この鈴には由来の説明がいくつも後付けされてきた。
ランドセルにつけていた鈴だ、という説。峠道を歩く人が熊よけに鳴らしていた鈴の残響だ、という説。地元の祭礼の神楽鈴だ、という説。どれも根拠はない。
ただ、深い山でいちばん遠くまで届く高い金属音が鈴であることは事実で、実際に峠道では熊鈴を鳴らして歩く人がいる。怪談としての鈴と、現実の熊鈴が、この場所では気持ち悪いくらい相性がいい。
車のドアや窓を叩く音の話は、トンネルがまだ現役だった頃の話として語られてきた。夜、峠を越えて家まで帰ってきて、翌朝ふとボディを見ると、小さな手形が無数についている。洗ってもなかなか落ちない。
あるいは、車を停めて煙草に火をつけていたら、コン、コン、と後部ドアを外から叩かれる。振り返っても誰もいない。
この系統には、家まで持ち帰ってしまう版もあって、峠から戻った晩、マンションのベランダの窓を誰かが叩き続けたが、カーテンを開ける勇気が出ないまま朝を迎えた、という書き込みが残っている。
心霊スポットの怪談としては珍しく、「現地で終わらない」型なのがこの土地の特徴だ。
深夜2時15分という時刻の噂は、明らかに後発だ。ネット時代に入ってから広まった系統で、この時刻前後にトンネル内で起きる現象が集中する、とされる。時計が止まる、急に気温が下がる、無音になる、といったバリエーションがぶら下がっている。
なぜ2時15分なのかを説明できる資料は何ひとつない。ただ、時刻を特定する噂は「検証しに行ける」という機能を持つので、動画時代に爆発的に使われた。行って、待って、カメラを回す口実になるからだ。
背の高い女の噂は、体験談としてぽつぽつ出てくる系統だ。友人数人と冗談半分で行った帰り、トンネルの入口に2メートル以上ある女が立っていた、という。全員が同時に見て、全員が凍りついて、そのまま無言で逃げ帰った。
手首のない女の子の系統とはまったく別物で、こちらは「大きすぎる」ことそのものが怖い。異常なスケールへの恐怖で、峠の話にはあまり馴染まないのに、なぜかここに定着した。
赤いワンピースの女の話は、比較的新しい。トンネルを抜けたすぐ先にカーブミラーがあり、そこに黒髪の長い、赤いワンピースの女が映る、というものだ。本人はそこにいない。ミラーの中にだけいる。
この系統は、後述する体験談として語られたものがそのまま噂に昇格した珍しい例で、出どころがはっきりしている分だけ、逆に他の話より新しく薄い。
そして、小峰公園の噂だ。公園そのものについて語られてきたのは、まず、暗くなってから園内に耳を澄ませていると少女の呻き声が聞こえるというもの。次に、駐車場に子どもの影が立つ、あるいは横切るというもの。
もうひとつ、公園入口から続く坂道で、誰もいないのに背後から声をかけられるというもの。この三つが繰り返し語られてきた。園内には八坂神社があり、その存在が浮遊霊を引き寄せているのだという、まったく根拠のない説明までセットで流通している。
付け加えると、公園の噂には具体的な日時や状況を伴った証言がほとんどない。トンネルの噂に比べて、圧倒的に痩せている。それでも消えないのは、公園が「噂の入口」として機能してきたからだ。その話は後でする。
そして誤報が来た――1989年8月17日の夕刊
ここまでの噂は、あくまで多摩ローカルの怪談だった。全国区にしたのは、幽霊ではない。新聞だ。
1989年8月17日、読売新聞が夕刊の一面トップで、捜査本部が容疑者のアジトを発見した、と報じた。場所は奥多摩の山中、小峰峠の近く。自宅から南東へおよそ1.5キロ。
地元の名士だった一家の使用人が使っていた山小屋の廃屋で、そこに遺体を隠していた――そう書かれていた。有力な物証を多数押収した、とまで書き、山小屋付近の地図まで刷った。
捜査本部は即座に全面否定した。そんな事実はなかった。アジトなど存在しなかった。翌日、紙面には「おわび」が載った。関係者の処分の中身も、書いた記者の名前も、最後まで公表されなかった。
この誤報が、小峰峠を全国の地図に打ち込んだ。夕刊一面トップに地図つきで載った地名は、訂正が出ても消えない。訂正のほうは翌日のベタ扱いだからだ。読者の頭に残るのは「小峰峠、あの事件の場所」という一行だけになる。
そこに、もともとその峠には幽霊が出るという地元の噂があった。前の年に地元紙が書いていて、事件のあとには週刊誌もタクシー運転手の目撃談を拾った。
さらに、事件を取材したジャーナリストのノンフィクションの中にも、小峰峠には幽霊が出るという話が書き込まれた。
誤報と、先行する怪談と、事件の実際の現場が同じ山域にあったという地理的偶然。この三つが重なって、小峰峠は「日本一有名な、現場ではない現場」になった。
小峰公園という「基地」――なぜ公園が入口になったのか
都立小峰公園が開園したのは1990年7月1日だ。事件の犯人が逮捕されたのが1989年7月だから、ちょうど一年後ということになる。開園面積は10.8ヘクタール、三つの尾根と二つの谷戸からなる里山で、標高290メートルほどの展望広場がある。
ビジターセンターがあり、遊歩道が整備され、ふつうに家族連れが弁当を広げる場所だ。
この公園の南の端を走る尾根が、あきる野市と八王子市の市境にあたる。つまり小峰峠の稜線と、公園の南端は地続きだ。地図の上では、公園と峠は同じひとつの丘陵の表と裏でしかない。
そしてもうひとつ、決定的な事情がある。無料の駐車場がある。
1999年に新小峰トンネルが開通して、旧道の両端に車止めのゲートが設けられてから、旧小峰トンネルへは車で行けなくなった。歩いていくしかない。ではどこに車を置くのか。峠の周辺には駐車帯らしい駐車帯がない。路肩は狭く、駐停車禁止の区間もある。
結果、深夜に来る連中が使うのは、小峰公園の駐車場になった。公園からトンネルまでは直線で500メートルちょっと、歩けば10分から15分ほどの距離だ。
ここから、公園そのものの怪談が生えてくる。
考えてみてほしい。深夜、車を停める。エンジンを切る。真っ暗な里山の駐車場に、自分たちの車だけが残される。これからトンネルへ向かって、暗い坂道を歩いて登る。戻ってくるのも同じ道だ。往復三十分、心臓は跳ねっぱなしになっている。
帰ってきて車に乗り込むとき、駐車場の隅の暗がりに何かが立っているように見える。歩き出した坂道の途中で、後ろから声をかけられた気がする。
つまり小峰公園の怪談は、トンネルの怪談の「往路と復路」なのだ。恐怖のピークはトンネルにあるが、いちばん無防備なのは、車を降りた直後と、車に戻る直前だ。だから駐車場の影と、入口の坂の声が語られる。
呻き声が「園内で」聞こえるとされるのも、たぶん同じ理屈だ。公園は舞台の袖であって、舞台そのものじゃない。それなのに、袖にいる時間のほうが長い。
心霊スポットの噂が、その場所の歴史ではなく、その場所での人間の動線から生まれることがある。小峰公園はその典型だ。
一本のコースができるまで――秋川街道を北へ
「小峰へ行く」という言い方は、九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、多摩の若い連中のあいだで一種のイベント名だった。単独では行かない。車で、複数で、深夜に、いくつかの場所を順番に回る。だから正確には「小峰へ行く」ではなく「回る」だった。
コースの組み方には地域差があったが、骨格はだいたい共通していた。八王子側から入る場合、まず秋川街道を北上する。途中、旧上川病院のあたりを流す。廃墟になった病院は、三階の窓に明かりがつく、心電図の音が聞こえる、といった定番の噂を背負っている。
そこから今熊神社の参道に寄り道して、奥宮のある呼ばわり山に触れる。
行方不明者や失せ物の名を山に向かって呼ぶと帰ってくるという古い民間信仰の山で、本来は怪談の場所ではないのだが、「名前を呼ぶ」という一点だけを切り取られて、心霊スポットの側に回収された。
そこから小峰峠へ。旧道のゲートに車を寄せられなければ、小峰公園の駐車場に停めて歩く。トンネルを往復する。これがコースの本丸だ。
抜けたあとは、そのまま五日市方面へ下って、秋川橋のあたりの河川公園や、網代の城跡、あきる野市内の小さな三角形の公園に寄る。長年放置されて落ち葉と雑草に埋もれた、遊具のない公園。
子どもが遊具から落ちて亡くなったという話がつき、夕暮れどきに遊ぶ子どもの姿が見える、と語られてきた。真偽を裏づける資料は見つからない。
体力と度胸が残っていれば、そのまま北へ抜けて青梅の吹上峠まで足を延ばす。新・旧・旧旧と三本並んだ吹上トンネル群は、多摩でいちばん有名な心霊スポットで、白い和服の女、子どもの泣き声、車についた手形、といった噂を持っている。
あるいは西へ振って奥多摩へ入り、ダムと湖と峠道を流す。奥多摩周遊道路は夜間通行止めになるので、実際にはその手前まで、というのが定番だった。
この「多摩西部一晩コース」を、実際に走っていた人間の言葉が残っている。夏の夜のドライブといえば昔から心霊スポット巡りが定番で、しかし多摩は巨大なベッドタウンだからどこも住宅地が近く、雰囲気が出ない。
もっと強い刺激が欲しくなると田舎の暗いスポットを目指すことになるが、そういう場所では不良グループと鉢合わせたり、住人に通報されて警察の世話になったりする。
だから安全牌は、周りに民家の少ない八王子の小峰トンネルと青梅の吹上トンネルだった――そう振り返っている。
身も蓋もないが、これがコース成立のいちばん正直な理由だ。怨念の強さでも、事件の凄惨さでもない。「近所迷惑になりにくい暗い場所」という、極めて実務的な選定基準。
心霊ドライブコースというのは、要するに深夜に大声を出しても誰にも怒られない場所を数珠つなぎにした地図だった。
心霊本と深夜番組が「地図」を配った九〇年代
九〇年代、この手の地図を全国に配ったのはテレビと出版だ。
日本テレビの昼のワイドショーで1973年から1997年まで続いた心霊コーナーは、夏休みになると連日放送され、視聴者の体験を再現ドラマに仕立てた。
峠、トンネル、旧道といった舞台は使い勝手がよく、「亡霊渦巻く魔界のトンネル」のようなタイトルが子どもたちのトラウマを量産した。
1991年には木曜スペシャル枠で世界の怪奇現象を扱う単発番組が組まれ、投稿映像をコンピュータで解析して現場検証し、専門家がコメントするというフォーマットが確立する。
この構成は九〇年代末に登場する投稿心霊映像シリーズにそのまま引き継がれ、さらに二〇〇〇年代の心霊スポット探索番組へつながっていく。
雑誌側では、オカルト誌の心霊スポット特集と、女性週刊誌の怪談企画が両輪だった。小峰峠のタクシー運転手の目撃談は、地元紙のあと、女性週刊誌でも取り上げられている。地方の小さな噂が全国誌に載る、というルートがこの時期にはちゃんと機能していた。
そして何より、心霊スポットのガイド本、ムック本の存在が大きい。住所と、行き方と、噂の要約が並ぶ。読者はそれを持って車に乗る。九〇年代の心霊スポット巡りが「コース」になったのは、本が実質的にルートマップだったからだ。
小峰は、東京都西部の項に必ず入っていた。掲載のされ方はだいたい共通していて、あの事件の現場、というただし書きがついていた。誤報の余韻が、そのまま活字として固定された。
この時期の扱いには、いま読むと引っかかる点がある。事件で亡くなった子どもの霊が出る、と当たり前のように書かれていた。被害者を怪異の登場人物として使うことに、誰も疑問を持っていないように見える。
九〇年代のオカルト出版と心霊番組は、その一線をほとんど無造作に踏み越えていた。
掲示板が噂を上書きした二〇〇〇年代
二〇〇〇年代に入って、噂の主戦場は掲示板に移る。ここで起きたのは、拡散よりむしろ「上書き」だった。
掲示板の心霊スポットスレッドでは、体験談が匿名で積み上がる。書き込みは検証されない。前の書き込みを読んだ人が、それを踏まえて次を書く。結果、噂はどんどん詳細になり、どんどん互いに似てくる。
小峰の場合、この時期に定着したのが「2時15分」「オーブが写る」「電子機器が不調になる」といった、九〇年代までの語りにはなかった要素だ。時刻の指定も、機材トラブルも、カメラを持って現地に行く人間の目線から生まれている。
同時に、掲示板は反証の場でもあった。地元住民の書き込みが混じるからだ。家から数百メートルのところに住んでいるが何も起きたことはない、と書く人がいる。実際に遺棄があったのは峠ではなく別の場所だ、と正す人がいる。
あるトンネルの情報ページには、この場所では逮捕も遺棄も殺害も行われていない、とだけ書かれた短いコメントが今も残っている。
面白いのは、こうした訂正が噂を弱めなかったことだ。むしろ「本当は違うらしい」という但し書きごと、噂のパッケージに組み込まれた。
現在のまとめ記事はほぼ例外なく、心霊現象を列挙したあとに「ただし実際の現場はここではない」と付け足す構成になっている。訂正が、噂の一部として消費されている。
動画の時代、トンネルは舞台装置になった
二〇一〇年代後半から、小峰は完全に映像コンテンツの現場になった。
心霊系のチャンネルが繰り返し訪れ、第一夜、第二夜、第三夜、最終夜、と連作で撮る。定点カメラを置いて一晩回す。足音が聞こえた、笑い声が入った、機材が勝手に動いた、複数人が同時に寒気を感じた――そうした報告が積み上がる。
人気お笑い芸人グループのメンバーが撮影中に金縛りに遭ったとされる回があり、俳優が主宰する検証チャンネルの回もあり、怪談を語る芸人が現地ロケでの体験を境に心霊ロケを一切断るようになったという話もある。
テレビ番組に画像を提供した個人ブログもある。
動画時代のトンネルには、九〇年代とは違う機能がある。九〇年代の心霊スポットは「行って怖がる場所」だった。動画時代の心霊スポットは「撮る場所」だ。だから条件が変わった。
徒歩でしか入れないこと、短いこと、片側だけ照明が生きていて反対側が真っ暗であること、周りに民家がなくて長時間居座れること。これらは怪談の要素としてはどうでもいいが、撮影地としては極めて優秀な条件になる。
旧小峰トンネルが二十年以上も飽きられずに撮られ続けているのは、怖いからというより、撮りやすいからだ。
照明が片側だけなのにも、身も蓋もない事情があるとされる。トンネルの管理は八王子市とあきる野市にまたがっていて、片方が電気代の節減で消しているのだという。
真っ暗と明るいの境目が一本のトンネルの中にあるという、あの独特の絵は、行政の予算の都合で生まれた可能性が高い。
体験談その一――ガードレールを叩く音
ここからは、実際に語られた体験談を三つ、いずれもかなり詳しく紹介する。
ひとつめは、大学のテニスサークルの男五人が車で来た、初冬の夜の話だ。
助手席に座っていた男が語り手だった。目的は旧小峰トンネル。ところが旧道の入口がわからず、とりあえず現役の新小峰トンネルを抜ける。後続車もいないので徐行しながら旧道を探していると、左側にそれらしい道があった。
入ってみると、少し進んだところに車止めがある。ここは車では入れないのだと、そのとき初めて知った。
ここに車を置いておくわけにもいかないな、とドライバーと話していると、ヘッドライトに何かがふっと映った。
男の人だった。
向こうから歩いてきたらしい。時刻は午前2時を過ぎている。周りにコンビニどころか自販機もない。しかも初冬なのに、その男は半袖だった。
車内が、おかしな奴だな、という空気になっているうちに、男は踵を返して向こうへ歩いていき、やがてライトの届かない闇に溶けた。
やべえ、あれ幽霊じゃない。後部座席からそんな声が上がって、車内が変にはしゃぎ始めた。結局、来る途中で見た木工所らしき建物の近くの広い道に路上駐車して、徒歩で旧道に入り直すことになった。
懐中電灯をつけて歩く。旧道というだけあって路面は所々割れ、道端は草が伸び放題で、落ち葉が路面を埋めている。最初はばらばらに騒ぎながら歩いていた五人が、道幅が狭くなるにつれ自然とかたまって歩くようになった。ぐにゃぐにゃ曲がる峠道。
両側の木が高いので空が狭く、月明かりが下まで届かない。白いガードレールとポールだけを頼りに登っていくと、白い照明に照らされた旧トンネルが見えてきた。
心霊スポットのトンネルといえばオレンジ色のナトリウム灯だと思い込んでいたので、白いのが少し意外だった。
とりあえず向こう側まで行ってみようということになり、抜けた。何も起きなかった。反対側には廃屋のようなものが右手にあるだけで、このまま進めば最初に車で入った旧道につながるんだろうな、と思った。
そこで誰かが言った。そういえばさっきの男と、すれ違わなかったね。
全員すっかり忘れていた。まあいいか、戻ろう、と来た道を引き返す。ひんやりした空気の中、中ほどまで下ったあたりで、カン、カン、と金属を叩くような音が小さく聞こえ始めた。何だろうね、と話しながら、先頭を歩いていた語り手は内心かなり怖かった。
下っても下っても、不規則にその音は続く。心なしか大きくなっている気がする。
本当に突然だった。カリカリカリ、カンカンカンカン、と音が跳ね上がり、右耳を刺した。たぶん全員が右を見た。次の瞬間、右手のガードレールの付近でゴドン、と重い音が響いた。五、六秒、誰も動けなかった。
ぅっ、と誰かが悲鳴になりきらない声を出して、先頭の語り手を追い越して走り出した。語り手も本気で怖くなって、うまく走れないまま追いかけた。全員無言だったと思う、と本人は書いている。
体力には自信のあるサークルの連中が、車に着いた頃には全員ぜいぜい言っていた。
最初に逃げ出した男が、ドライバーに何だよと怒られて答えた。金属音はガードレールを木の枝か何かで叩いている音だった。いちばん大きな音がしたあたりで、道路とガードレールの隙間から人の指のようなものが見えた。だから逃げた。
語り手は最後にこう締めている。小峰峠のトンネルには、みんな行かない方がいいよ。
体験談その二――カーブミラーに映った赤
ふたつめは、霊の存在をまったく信じていない人間が、心霊マニアの友人に付き合わされた話だ。
一人で行くのは不安だから一緒に来てくれ、と頼まれた。乗り気ではなかったが好奇心もあって同行した。向かう車内でも語り手は至って冷静で、怖いという感覚はまるでない。一方の友人はテンションが高く、懐中電灯の点検までしている。
現地到着は午前1時過ぎ。秋川街道から旧道へ入り、草が生い茂った真っ暗な山道を20分ほど歩いて、旧小峰トンネルに着いた。中は半分だけ照明が点いている。友人によれば、片側の自治体が電気代削減のために消しているのだという。
不思議な雰囲気だな、と思いながら、変わったことも起きないままトンネル内部や周辺の道を淡々と観察していた。そのときだった。
照明が消えている側から、「ねぇ、ここ?」という女の声が聞こえた。
語り手は、自分たちと同じように見物に来た人だろうと思った。ところが友人の反応が違う。何かを確かめようとしているのか、照明の消えた側へずんずん歩いていく。そっちは電気が消えていて危ないから行かない方がいい、と声をかけたが、まるで反応しない。
仕方なく後を追った。
短いトンネルなのに、中でも、抜けた先でも、女とは会わない。友人に追いつくと、トンネルを抜けてすぐの場所に設置されたカーブミラーの手前でぴたりと止まって、ミラーを見つめたまま、独り言のようにぶつぶつ何か話している。
肩をぽんぽんと叩いて、おい、どうしたんだよ、と声をかけた。友人がミラーを指さす。つられてその先に目をやると、ミラーの中に、赤いワンピースを着た黒髪のロングヘアの女が映っていた。
一瞬で恐怖に包まれた。服を掴んで、おい、ヤバい、逃げるぞ、と大声を出しても友人は動かない。
無理やり歩かせてその場から引き離すと、友人は急に我に返って、真っ青な顔をしている語り手に向かって、どうしたの、顔真っ青だよ、何かあった、と他人事のように聞いてきた。
説明している余裕はなかった。とにかくヤバいから逃げるぞ、と叫ぶ様子から友人も何かを察したらしく、二人でトンネルを全速力で抜けた。その瞬間、背後から「フフフ」と女の笑い声が聞こえた。
車まで無我夢中で戻り、互いに一人になるのが怖くて、朝までファミリーレストランで過ごしてから帰宅した。
あのとき聞いた声と、ミラーの中の姿は、今でもはっきり覚えている――霊感もなく、霊の存在をさほど信じていなかったはずの語り手は、そう書いている。
体験談その三――誰も触っていないのに、シャッターが切れた
三つめは、ネット配信の企画として三人で入ったときの記録だ。
配信の運営スタッフ、心霊スポット突撃の生放送をやっている配信者、そして語り手の三人。旧小峰トンネルは女児の幽霊の目撃情報が多数寄せられている場所として選ばれた。
現地では、配信者の提案で、まずスタッフの一人が単独でトンネルを往復した。次に配信者が。最後に語り手が。順番に一人ずつ、短いトンネルを行って戻る。この時点では特に何も起きていない。
不可解だったのは、そのあとだ。
持ち込んでいたポラロイドカメラが、勝手に動き出した。撮影はもう終えていて、誰も触っていない。それなのに、ジー、という駆動音を繰り返しながら、何度もシャッターが切れた。三人で顔を見合わせたまま、カメラが自分でフィルムを吐き出すのを見ていた。
最後に出てきた一枚は、真っ暗だった。
誰も触っていないのに動いたこと。そして、何度も撮ったはずなのに最後の一枚が真っ黒だったこと。この二つが説明できない、と語り手は述べている。撮影されない何かが、そこにいたのではないか、と。
機材の不調は、この場所でもっとも頻繁に報告される現象だ。カメラが止まる、音声が途切れる、バッテリーが急に落ちる。湿度の高い古いトンネルで長時間機材を回せば起きて当たり前のことでもあるのだが、それを言い出すと三本目の話は終わってしまう。
反証の時間――ここは遺棄現場ではない、という一点
さて、冷や水を浴びせる。
旧小峰トンネルは、事件の現場ではない。トンネルの中で誰も殺されていないし、トンネルの中に誰も遺棄されていない。
実際に被害者の一人が見つかったのは、五日市町戸倉の山中、東京電力の新多摩変電所の裏手にあたる尾根筋で、日向峰と呼ばれる場所だ。トンネルからは直線でおよそ2キロ離れている。犯人の生家があったのは小和田で、峠とは山をいくつか隔てている。
1989年8月の読売新聞夕刊が報じた「小峰峠近くのアジト」は、捜査本部が即日全面否定した通り、存在しなかった。
つまり、小峰峠と事件を結ぶ線は、地図の上では「同じ市内」「同じ街道沿い」という程度でしかない。にもかかわらず全国的に「あの事件のトンネル」として定着したのは、誤報が一面に載り、訂正が目立たなかったからだ。
さらにややこしいのが、噂の飛び火だ。青梅の旧吹上トンネルにも、まったく同じ「あの事件の現場」という噂が付いている。あちらの情報ページには、ここでは逮捕も遺棄も殺害も行われていない、という趣旨の書き込みが残っている。
事件と無関係な二本のトンネルが、それぞれ独立に同じ事件を背負っている。これは怪談の伝播として非常にわかりやすい症例で、「多摩西部の古いトンネル」というカテゴリーに事件のラベルが貼られ、個々のトンネルに分配されたことを意味する。
手首がない、という中心的なモチーフについても、事実として確認できるものではない。
事件報道の断片的なショッキングな語が独り歩きし、先行していた幽霊譚の細部と結びついて、あたかも目撃証言の裏づけがあるかのように語られるようになった、と見るのが自然だ。何より、手首のない女の子の目撃談は、事件が明るみに出る前から語られていた。
時系列が合わない。
供え物についても誤解がある。トンネルの入口に花や造花が置かれていることがあり、これが被害者を悼むものだと説明されることが多いが、実際には誰が何のために置いたのかを特定できない。
事件の慰霊なのか、別の交通事故の供養なのか、噂に便乗した演出なのか、区別する手段がない。花が置かれていることが噂の根拠になり、噂を信じた人がまた花を置く。この循環は、全国の心霊スポットで観察できる。
音と地形が、だいたい全部説明してしまう
現地に行った人の記録を読み比べると、面白いくらい同じことが書かれている。
峠の旧道は約1.6キロ、徒歩で20分ほど。街灯はひとつもない。路面は落ち葉に埋もれ、蔦が這い、道端には草どころか木が生え始めている。日の当たらない山陰では路面に苔が生えている。両側の木が高いので空が狭く、月が出ていても足元は暗い。
この条件下で、人間の感覚は簡単に狂う。
金属を叩く音は、ガードレールに枝が当たれば鳴る。風でも鳴るし、落ちてきた枝がかすっても鳴る。峠道は谷筋なので、音が思わぬ方向から届く。反響で距離感がずれるから、遠くの音が耳元に聞こえる。
鈴の音は、実際に熊よけの鈴を鳴らして歩く人がいる。この一帯では熊の目撃例が報告されていて、鈴は珍しい持ち物ではない。姿の見えない相手の鈴だけが谷を渡って届けば、それはもう怪談の材料だ。
トンネル内の冷気は、単に岩盤とレンガに囲まれた湿った空間だからだ。夏場に外との温度差を感じるのは当然で、2006年に止水と崩落補強の工事が行われ、レンガの上からコンクリートが吹き付けられている。
壁が20センチほど厚くなった分、内部の空気はさらに動かなくなった。
足音は、自分の足音の反響だ。80メートル弱の直線に近い筒の中では、砂利を踏む音がずれて返る。止まれば止まる、歩けばまた聞こえる、という典型的な「もう一人分の足音」は、この構造がほぼ確実に作る。
そして、あの半分だけ点いた照明。明暗の境界を人間が見ると、暗い側に何かが立っているように見える。壁のシミや水の跡を懐中電灯で照らせば、顔に見える。シミュラクラ現象だ。
半袖の男の話にしても、深夜の峠道を歩く人間が絶対にいないとは言い切れない。地元の人もいれば、自転車で峠を攻めに来る人もいる。旧道で見かけるのは犬を散歩させる地元の人と自転車乗りくらい、と現地を歩いた人は書いている。
要するに、この峠で起きることの大半は、地形と素材と光で説明がつく。それでも噂が消えないのは、説明がつくことと怖くないことがまったく別だからだ。
なぜ怖いのか、なぜここまで広まったのか
小峰の噂が三十年以上生き延びた理由を、整理しておきたい。
第一に、順番の異様さ。噂が事件に先行していた。しかも、その噂を書いたのが犯人の父親の新聞で、掲載の翌日に次の事件が起きている。これは因果ではなく偶然の羅列にすぎないが、人間の頭は偶然の羅列を物語に整形するようにできている。
第二に、誤報という強力な公的裏づけ。一面トップに地図つきで載った地名は、訂正されても記憶から消えない。噂は「新聞に載った」という格を手に入れた。
第三に、被害者が子どもだったこと。心霊スポットの怪談は、被害者が抽象的であるほど弱く、具体的であるほど強い。子どもの霊は、怖さと痛ましさを同時に発生させる。だから語り手は罪悪感を覚えながら語ることになり、その罪悪感が話を忘れにくくする。
第四に、地理の使い勝手。徒歩でしか入れず、短く、周囲に民家がなく、片側だけ照明が生きている。九〇年代は肝試しの舞台として、二〇一〇年代以降は撮影地として、どちらの用途にも最適だった。
第五に、コースの一部だったこと。単独では小さな噂で終わったはずのものが、旧上川病院、呼ばわり山、河川公園、吹上、奥多摩といった他のスポットと束ねられ、「一晩で回る地図」の中心に据えられた。
地図の中心にあるものは、地図が生き延びるかぎり生き延びる。
そして第六に、訂正が噂を殺さなかったこと。「実は現場ではない」という情報すら、噂のパッケージに取り込まれた。ここが本当に厄介なところで、正しい情報を足しても噂は縮まない。むしろ「詳しい人が語る小峰」という一段上のコンテンツになる。
この記事だって、その構造から自由ではない。
地元の人たちが、ずっと黙って見てきたもの
峠のすぐそばに住んでいる人が、何年も前に、公開の質問板にこう書いた。宮崎勤事件で有名になった小峰峠のことだが、自分の家から数百メートルの場所なので質問する。あそこが心霊スポットになっているが、自分は何も怪奇現象なんて起こらなかった。
これに対する回答のひとつが、当時「秋川新聞」という地元紙に、小峰峠に手だか首だかのない女の子の幽霊が出るという記事が載ったと思う、というものだった。心霊スポット化の由来を、地元の記憶がきちんと保存していたわけだ。
もうひとつの回答は、実際に遺棄はあったのだから、あまり心霊目的で行かないほうがいい、と釘を刺していた。
この二つの回答に、地元の受け止めがだいたい表れている。噂の出どころを知っていて、噂が誇張であることも知っていて、それでも面白がって来られることには抵抗がある。
事件の記憶そのものも、地域からは消えていない。あるノンフィクション作家は2015年に埼玉県内の現場付近を撮影していて、不審者と間違われた経験を書いている。この地区ではまだ亡霊が生きているのだと思った、と。
あきる野市小和田にあった犯人の生家は取り壊され、更地を経て、いまは広場になっている。秋川新聞は1989年8月末で廃刊した。最終号は同月6日付だった。事件から5年後、その新聞を出していた父親も亡くなっている。その最期をここに書くつもりはない。
噂話のオチとして繰り返し消費されてきた事実そのものが、この記事が問題にしたいことだからだ。
自治体側の対応は、あくまで安全管理の枠内に留まっている。旧道の両端にはゲートが設けられ、車両は通行できない。トンネルは2006年に補強工事を受けている。心霊スポットだから閉鎖する、という論法は使われていない。
使えば、それこそ噂を公認することになるからだ。全国の同種の場所で、行政が沈黙を選びがちなのには、この事情がある。
その沈黙の隙間で、近隣は騒音とゴミを引き受けてきた。
他所の例を出せば、千葉県内のある廃ホテルでは、心霊スポットとしてネットで拡散した結果、近隣住民が累計で300回近く通報する事態になり、警察がパトロールを強化し、5日間で約150人が現場を訪れ、大半が10代から20代だったと報じられている。
深夜の花火や爆竹、ごみの散乱、ボヤ騒ぎ。同じ構図は、規模を変えてどこにでもある。
それでも、行くなと書いておく
この記事の結論はひとつだ。行かないでほしい。
理由は霊障ではない。第一に、旧道の両端にはゲートがあり、周囲には私有地が混じっている。無断で立ち入れば軽犯罪法や住居侵入の問題になり得る。第二に、街灯がゼロの山道で、路面は落ち葉と苔で滑る。
夜に足を踏み外して転べば、携帯の電波が届かない場所もある。第三に、この一帯では熊やイノシシの目撃が報告されている。第四に、深夜に人が集まれば、近隣にとってはただの騒音だ。峠のすぐ下には人が暮らしている。
そして第五に、これがいちばん大事なのだが、ここは誰かが実際に亡くなった山域だ。トンネルそのものは現場ではないにせよ、2キロ先にはそういう場所がある。
肝試しの舞台としてその一帯を扱うことは、亡くなった子どもたちと、その家族に対して、単純に失礼だ。
事件現場の心霊スポット化については、実際に胸の詰まる例がある。長く未解決の一家殺害事件の現場に、高校生たちが立ち入り禁止のフェンスを乗り越えて侵入したことがあった。彼らは、そこが事件現場だと知らなかった。
心霊スポットだと思って肝試しに入った、と話したという。以前にも、事情を知らない高校生が同じ場所に落書きをして書類送検されている。噂が事実を追い越して、事実そのものを消してしまった状態だ。
小峰も、同じ道を歩いてきた。誤報と怪談が事実を追い越し、いまや大半の人が「あの事件のトンネル」だと信じている。信じたまま、深夜に車で乗りつけ、カメラを回して帰っていく。
読むだけにしてほしい。写真も動画もいくらでもある。峠は、静かなままでいい。
ここまで書いてきて、どうしても引っかかったままの問題がいくつかある。総括を兼ねて、もう少し踏み込んでおきたい。
まず、この土地の噂が持っている構造的な奇妙さについて。心霊スポットというのは普通、出来事が先にあって噂が後から来る。事故があった、事件があった、誰かが亡くなった、だから出る。因果が明快だから、噂は説明として機能する。
ところが小峰峠は、順番が逆立ちしている。1988年10月2日に地元紙が幽霊譚を載せ、その翌日に二件目の誘拐が起き、翌年9月にその被害者が峠の近くの山中で見つかった。噂が事件を予告した形になってしまった。
もちろん、これは偶然の並びに過ぎない。地元紙が峠の怪談を扱ったのは、単に峠が暗くて記事になりやすかったからだろうし、犯人がその山域を使ったのは単に土地勘があったからだ。どちらも独立した事実で、両者を結ぶ線はない。
それでも、この年表を目にした人間は「予告」という言葉を思い浮かべてしまう。そして、いったんその言葉が浮かんだら、もう外せない。
怪談が強度を持つのは、超自然的な内容そのものよりも、こういう「配置」による場合が多い。同じ「手首のない女の子」でも、どこかの峠で語られただけなら、たぶん十年で消えていた。年表の中に置かれた瞬間に、消えなくなった。
次に、誤報の重さについて。1989年8月17日の夕刊一面トップは、この土地の運命を決めてしまった。捜査本部が即座に否定し、翌日おわびが載ったが、そんなものは間に合わない。一面で報じられた地名と地図は、読者の脳に地形として刻まれる。
おわびは、地形を消さない。
近年よく議論される「誤情報は訂正しても定着する」という現象を、この件は三十年以上前に先取りしていた。しかも定着した先が、心霊スポットという、そもそも検証されない領域だった。訂正が届かない領域に、誤報が着地してしまった。
以後、この土地では「事実ではない」という指摘が何度も繰り返されているのに、噂はまったく痩せていない。それどころか、指摘そのものが噂の解説パートとして取り込まれている。
さらに言えば、あの誤報は「報道の暴走が場所を作った」事例でもある。事件そのものの報道でも、犯人の趣味や生活の映像が繰り返し流され、後年になって本質から逸れた趣味叩きだったと批判された。同じ報道熱の中で、存在しないアジトが一面に載った。
噂の側だけを責めるのは筋が違う。心霊スポット化の最大の共犯者は、その時代の報道だった。
三つめ。小峰公園の位置づけについて、もう一度考えたい。あの公園は1990年7月に開園した、ごく普通の里山公園だ。ビジターセンターがあり、遊具があり、展望広場がある。市境の尾根の上に立てば、あきる野の街並みと、その向こうの山が見える。
子ども向けの自然観察会が開かれるような場所だ。
その公園が心霊スポットのリストに載っているのは、公園で何かがあったからではない。トンネルへ行く人間が、そこに車を置いたからだ。これは考えてみると相当に理不尽な話で、公園には落ち度がひとつもない。
にもかかわらず、駐車場の影も、坂道の声も、園内の呻き声も、全部この公園の名前で語られている。
心霊スポットの噂は、しばしばこうやって隣接地に転移する。中心から半径数百メートルの範囲にある目立つ施設が、中心の噂を薄めた形で引き受ける。廃墟の隣のバス停、事故現場の近くの公衆便所、峠の下の駐車場。
噂の「郊外」とでも呼ぶべき層があって、そこには本体より薄い、しかし本体と同じ形をした話が生える。小峰公園は、旧小峰トンネルという本体に対する、教科書のような郊外だ。
四つめ。心霊ドライブコースという形式そのものについて。
九〇年代の心霊スポット巡りは、いま振り返ると、若者の夜間の居場所づくりだった。金がなくても車があれば成立するレジャーで、目的地が無料で、閉店時間がなく、大声を出しても怒られない。そういう条件を満たす場所を数珠つなぎにしたのがコースだった。
恐怖は口実で、実際に必要だったのは、深夜に仲間と過ごす言い訳だ。
だから、コースの選定基準に「本当に何かがありそうか」はほとんど関係していなかった。実際に走っていた人が正直に書いている通り、決め手は「周りに民家が少ないこと」だった。信心の話ではなく、通報されないことの話だった。
このことを認めると、心霊スポット文化に対する見方が少し変わる。あれは信仰でも探究でもなく、都市近郊の若者が夜を過ごすための空間利用だった。そして、その空間利用のコストを払っていたのは、コースの沿線に暮らす人たちだった。
騒音、ごみ、路上駐車、深夜の人声。三十年間、静かに払われ続けたコストがある。
五つめ。動画時代になって何が変わったか。
いちばん大きな変化は、心霊スポットが「一人で行ける場所」から「配信できる場所」に変わったことだ。九〇年代の肝試しは、体験が仲間内で閉じていた。話は口伝えでしか広がらず、だから細部が変形し、変形しながら地域の物語になった。動画は変形しない。
同じ映像が何万人にも同じ形で届く。
その結果、噂の作られ方が変わった。かつては体験談が噂を作ったが、いまは噂が撮影計画を作る。2時15分という時刻の指定も、機材トラブルという定番も、カメラを持って行く人間の都合から生まれた要素だ。
深夜2時15分に何かが起きるという噂があれば、その時刻まで回し続ける理由になる。機材が不調になるという噂があれば、不調になったこと自体がコンテンツになる。
つまり、旧小峰トンネルは今、怪談の現場というより、撮影のためのフォーマットになっている。片側だけ照明が生きているのは行政の予算の都合だろうが、その明暗は画面の中で完璧に機能する。
長さ80メートル弱というのも、往復の緊張を保つのにちょうどいい。徒歩でしか入れないから道中の20分が前振りになる。この場所が撮られ続けているのは、霊が強いからではない。編集しやすいからだ。
六つめ。それでも残る問題について。
この記事は噂を扱った。噂を扱うということは、噂を運ぶということでもある。事実関係の訂正をどれだけ丁寧に書いても、読んだ人の頭に残るのは「手首のない女の子」と「たちけて」かもしれない。
訂正が噂を殺さないことを、この記事自身が書いてしまっている以上、その罠から抜けたとは言えない。
だからせめて、ここに書いておく。
あの峠と、その周辺の山と、公園は、実在の人が実際に亡くなった土地の一部だ。亡くなったのは幼い子どもたちで、その家族はいまも生きている。事件から三十年以上が経ち、犯人の刑は執行され、事件は法的に終わっている。
だが終わっていないものが確かにあって、それは怪談の側ではなく、遺された人たちの側にある。
心霊スポットとして語られる場所の多くは、誰かにとっては何でもない場所だ。峠は峠で、トンネルはトンネルで、公園は公園だ。実際、あの旧道を歩いた人たちが口を揃えて書いていることがある。何もない、ただのトンネルだった、と。
落ち葉が積もり、苔が生え、蔦が這い、緑に飲まれかけている。犬を散歩させる地元の人と、峠を攻める自転車乗りが通るだけの、静かな廃道だ。
その静けさを、噂は三十年間ずっと邪魔してきた。誤報が種を蒔き、雑誌とテレビが地図を配り、掲示板が細部を書き足し、動画が撮り尽くした。今度こそ、静かにしておく番だと思う。
七つめ。最後に、この土地の噂が今後どうなるかを考えておきたい。
心霊スポットには寿命がある。多摩の古いスポットのいくつかは、すでに実質的に死んでいる。廃墟が解体され、道が舗装され、監視カメラがつき、行政が柵を立て、行く理由がなくなる。
噂だけがまとめサイトの中に残り、誰も現地を確かめないまま、コピーが再生産されていく。
旧小峰トンネルは、その手前まで来ている。現地を歩いた人たちの記録を年代順に並べると、劣化の進み方がよくわかる。路面の落ち葉が年々厚くなり、道端の草が木に変わり、蔦が壁を覆い、緑が道を狭めていく。
二十年以上、人の足がまとまって通っていない道だ。このまま行けば、あと十年か二十年で、旧道は歩行に適さなくなる。行けなくなった場所の噂は、加速度的に事実から離れていく。誰も確かめられないからだ。
そのとき、小峰の噂はどうなるか。たぶん、いま以上に「あの事件のトンネル」になる。実際の遺棄現場が2キロ先の別の尾根だったという地味な事実は、行けなくなった時点で完全に忘れられる。
手首のない女の子は残り、鈴の音は残り、たちけて、という一語も残る。訂正だけが落ちる。噂というのは、確かめられなくなった瞬間から一気に純化する。
だから、この記事を書いておく意味があると思っている。純化する前に、噂の成り立ちを一度ぜんぶ並べておく。
地元紙の一本のコラムがあり、その翌日に事件が起き、翌年に誤報が一面に載り、雑誌が拾い、心霊本が地図にし、掲示板が細部を足し、動画が時刻まで決めた。この積み重なりの全部を見せておけば、少なくとも「なぜここが有名なのか」の答えは残る。
怪異が本当にあるかどうかは、正直、どうでもいい。あの峠でいちばん不気味なのは、青白い手でも鈴の音でもなく、ひとつの地名がここまで人の手で作り上げられてしまったという事実のほうだ。土地は何もしていない。全部こちら側がやった。
読んで、怖がって、それで終わりにしてほしい。行く必要はどこにもない。
