群馬の1971年を語るとき、たいていの人は事件そのものの話をする。誰が何人殺されて、どうやって捕まって、いつ刑が執行されたか。それはもう、この場所の別の記事で二度も書かれている。
だからここでは、その周りにこびりついた「もうひとつの話」だけを扱う。
つまり、亡霊の話だ。
留置場でうなされた男の話。夢枕に立って「早く出して」と言ったという女の話。まだニュースにもなっていない時期に、前橋の公園で目撃されたという女の話。遺体が出てくる前から幽霊騒ぎが起きていたという造成地の話。
そして半世紀かけて、それらがどう膨らみ、どう場所に貼りつき、どう掲示板で擦り切れていったかという話。
先に立場をはっきりさせておく。この記事は「霊は本当にいた」とも「全部デタラメだ」とも言わない。言うのは、どの話がいつ・どこに現れて、どこまでなら辿れて、どこから先は辿れないか。それだけだ。オカルトを名乗る以上、そこはむしろ厳しくやりたい。
まず、噂を最後まで聞いてくれ
この件の中心には、ほぼ一字一句同じ文面のテキストがある。ネットの怖い話界隈で二十年以上回り続けている、いわゆるコピペだ。まずはそれを、原文の呼吸ごと再話する。細部が命だから、端折らない。
――ベレー帽をかぶった男が、8人の女性の命を奪った。その男が、7月13日に2件分の現場を自供した。身柄は前橋署から松井田警察署へ移された。
その松井田で、男は毎晩眠れなくなる。
「昨日は眠れなかった。殺した女の亡霊が夢枕に立つんだ。『早く出して』と言うんだよ」
1時間おきに、取り調べ官に泣きついたという。1時間おき、である。つまり夜どおし、ほとんど間断なく。房の中で膝を抱えて、廊下の足音を待ちかまえて、看守が通るたびに格子にすがりついて同じことを訴える男の姿が浮かぶ。
文面はそこまで書いていないが、「1時間おき」という数字がそれを勝手に描かせる。噂の細部というのは、こういう働き方をする。
そして噂は、供述書という言葉を持ち出す。供述書によると、男は幽霊を見ただけではなかった。恨み言を言われていた、と。
ある女性のことを自供しようと決めたとする。すると、その夜。別の女性の幽霊が現れる。夜な夜な、である。彼女は怖い顔で睨みつけて、こう言う。
「私の方が先・・・私をどうしてくれるの」
男が怯える。すると彼女は、追い打ちをかけるように呪いをかける。
「もっと苦しめ」
ここが噂の芯だ。ただ怖がらせるだけじゃない。順番を争っている。「私の方が先」という一言が、この話をひどく生々しくしている。埋められた場所が別々で、掘り出される順番があって、その順番をめぐって死者が抗議している。
土の下にまだ残されている、という感覚が、たった十数文字に圧縮されている。
噂はここで留置場の外に出る。
前橋市内の公園。深夜。カップルが車を停めている。窓の外に、髪の長い女が立つ。顔面蒼白。唇が震えている。何かを訴えようとしている。だが言葉にならない。そして消える。
このとき、女はガラスに顔を押しつけていた。「窓に顔を押し付けて」という一行が入っているのが、この話の気持ち悪さの正体だと思う。遠くに立っているんじゃない。距離ゼロだ。ガラス一枚を挟んで、密着している。
そしてこの女性は、7番目に殺された女性らしい、と噂は付け加える。「らしい」で終わるのが上手い。断定しないことで、逆に本当っぽくなる。
もう一場面ある。高崎市の造成用地。ここには4人の女性の遺体が埋められていた。ところが不思議なことに、遺体が発見される以前から、そこでは幽霊騒ぎが起きていたという。
「白いミニスカート姿の女性が、不意に現れ足音をさせずに移動する」
これが評判になって、野次馬まで出る騒ぎになった。やがてその団地は、近くの八幡霊園をもじって「第2八幡霊園」と呼ばれるようになった――。
締めの一行はこうだ。「幽霊とかを信じない方も、人の道をはずした人には見えるのかも・・・」
これが全文の骨格である。短い。四百字詰めにして五枚もない。にもかかわらず、この短さの中に、夢枕、供述書という権威づけ、死者どうしの序列争い、公園の目撃、発見前から出ていたという時系列の逆転、地名の駄洒落まで詰まっている。設計が異常にうまい。
うますぎる、と言ってもいい。
この文面、よく読むとあちこち引っかかる
素直に怖がったあとで、冷静に読み返すと妙な点がいくつも出てくる。順に潰していこう。
まず「7月13日に2人の殺害現場と死体遺棄現場を自供した」。日付が異様に具体的だ。ところが、遺体の発見日として広く記録に残っているのは7月20日、21日、22日、29日あたりで、その前の6月末にも発見がある。
7月13日という日が自供の節目だったという記述には、公的な記録として辿れる裏付けを見つけられなかった。噂の文面はここで、いかにも資料を引いたような顔をして、出所不明の日付を置いている。
次が決定的で、「前橋署から長野県の松井田警察署に移送された」というくだり。松井田警察署は群馬県内の署である。当時の碓氷郡松井田町、いまの安中市域だ。長野県ではない。
県境が近いから間違えやすいのは分かるが、公文書を写したような口ぶりで書かれた文章に、この種の誤りが混ざっているのは重い。
しかも、身柄を松井田に移した事実そのものは実際に記録されている。取り調べの方針転換の一環として、外部からの雑音を遮断するために本人を移送したという流れは、独立した資料でも確認できる。
つまりこの噂は、事実の骨に、明らかな誤りの肉を貼りつけている。全部デタラメなら見抜きやすいのに、半分が本物だから始末が悪い。
三つ目。「供述書によると」という言い方だ。供述書というのは捜査機関の作る文書で、一般に出回るものではない。誰かが読んで、そこから引用した。そう読ませる書き方になっている。
だが実際にこの噂を追いかけていくと、供述書を見たと名乗る人物にはどこまで行っても行き当たらない。「供述書によると」という五文字は、ここでは証拠ではなくて、演出だ。
四つ目。「高崎市にある造成用地」に4人、というのは、実は数字が合っている。自宅からごく近い、造成中の工業団地の一角に4人分が埋められていたという記録は、複数の資料に共通して出てくる。
掘り返されていないか確認しやすい場所を選んだのではないか、という捜査側の見立てまで伝わっている。ここも骨は本物だ。
そして五つ目。「第2八幡霊園」。八幡霊園は高崎市営の実在する霊園で、いまも普通に運営されている。事件を起こした男の出身地は旧八幡村、いまの高崎市八幡町一帯。つまり、地名と、霊園と、生家と、遺棄地が、全部「八幡」でつながる。
この駄洒落が成立してしまう土地の条件が、最初から揃っていた。
まとめるとこの文面は、実在する地名と実在する事実関係の上に、確認できない日付と、辿れない伝聞と、明らかな県名の誤りを重ねて作られている。作り話としては、かなり練度が高い部類だ。
で、この話はどこから湧いたのか
正直に言う。完全な発生源は特定できなかった。できなかったが、輪郭はかなり絞れた。
まず、事件当時の報道に「霊の話」が載っていた形跡はある。
事件を長く追いかけている書き手の一人は、この事件が有名になった理由を並べるとき、民間捜索隊による確保、遺体なき殺人事件、群馬県警の百日捜査と並べて「夢枕に女の幽霊が立ったエピソード(週刊誌報道もされた)」を挙げている。
つまり、当時の週刊誌がその手の記事を書いた、という認識が、事件に詳しい層の中には共有されている。
これは十分ありうる話だと思う。1971年の夏、群馬では毎日のように穴が掘られていた。捜査員は延べ数千人規模、掘った場所は数千か所とも言われる規模で、報道陣は捜査員の自宅の庭先まで車を乗り入れて張り込んだ。
進展のない日が続けば、記事にする材料は当然足りなくなる。そこへ「あの男が夜な夜なうなされているらしい」という留置場発の噂が漏れてくれば、書かない方が不自然だ。実話誌や娯楽週刊誌にとって、これ以上おいしいネタはない。
ただし。ここは正直に書いておくが、その具体的な誌名と掲載号、記事本文までは、今回の調べでは押さえきれなかった。だから本稿は「当時の週刊誌に載ったと言われている」という段階で止める。載ったに違いない、とは書かない。
一方で、はっきり確認できた事実もある。事件そのものを扱った代表的な独立資料には、幽霊の記述が一行もない。人物の経歴、犯行、取り調べの経緯、遺体の発見日、裁判、獄中手記、死刑執行まで詳細に書かれているのに、夢枕の話は出てこない。
当時の捜査に直接関わった元捜査幹部が書いた取り調べの記録本にも、事件を長期取材した書き手による定番のノンフィクションにも、この挿話が中心的に据えられている様子はない。
つまり構造はこうだ。堅い資料の側には、幽霊はいない。柔らかい媒体の側にだけ、幽霊がいる。この二層構造こそが、この噂の五十年をまるごと説明する。
ネット上での最初の足跡は、意外にも心霊スポットの雑談だった
ここからは、ネットに残る足跡を年代順に並べていく。ここが今回いちばん収穫のあったところだ。
最初に見つかるのは、コピペそのものではない。2002年6月、匿名掲示板の群馬県心霊スポットスレッドでの、ごく短いやりとりだ。
誰かが敷島公園について「出るってどこらへん?」と聞く。返ってきた書き込みが、こうだ。駐車場にいたカップルが、連続女性誘拐殺人の犠牲者の顔を見ている。まだ、ニュースになる前に。
女の人は「お水を頂戴・・・、お水を頂戴・・・」と言い続けていたという――。
翌日にはさらに書き足しがある。その女性は「浮遊」しているらしく、公園内の広い範囲で目撃されている。池の周辺、松林の中、慰霊碑のあたり、バラ園、記念館、球場とプールの間の駐車場。とくにバラ園での出現率が高いと聞いた。
彼女の残留思念はかなり強いのだろう――。
ここで注目してほしいのは、後年の定番コピペと明らかに違うところだ。コピペ版では、女は「何かを訴えようとするが言葉にはならず」消える。ところがこの2002年版では、女ははっきり喋っている。「お水を頂戴」と。
言葉がある版と、言葉がない版。どちらが先かは断定できない。ただ、心霊怪談の一般則で言えば、細かいセリフはあとから足されるより、削られて抽象化される方が多い。
「お水を頂戴」は喉が渇いて死んだ者の定型句として日本の怪談に無数の前例があるから、地元で先にこちらが語られ、のちに全国流通向けに研がれて「言葉にならない」版になった、という順序は十分考えられる。
逆に、コピペ版が先にあって、地元の語り手が説明を足した可能性も消せない。ここは正直、分からない。
同じ2002年6月の別の書き込みでは、倉渕の地蔵峠に白い靄が浮かぶという話に対して、「それって、あの大久保清に殺された女性の霊かもしれない。
何故なら、榛名湖の直線道路から脇に入った細い道の途中(林の中)に死体を埋めていたから」というレスがついている。この一行が興味深いのは、地蔵峠の噂そのものはもともと山岳ベース事件と結びつけて語られていた、という点だ。
つまり、すでに別の事件で心霊化していた場所に、この事件が上書きされている。心霊スポットの起源は、こうやって静かに差し替わる。
さらに同年9月、高崎の話題の中に、こんな一行が現れる。「30年前に大久保清が被害者2人を殺して埋めた現場が高崎の八幡工業団地付近らしい」。地名が「八幡工業団地」と明示されている。
ここで、後年のコピペにある「第2八幡霊園」という駄洒落が成立する下地が、掲示板上でも見えていたことになる。ただし人数は2人と書かれていて、コピペの4人とは食い違う。
そしてコピペ本体である。時刻つきで確認できたものでいちばん古いのは、2006年9月27日未明、匿名掲示板の怖い話系の板への投稿だ。そこには大久保清の段のあとに「まだまだあった!
霊に悩まされた殺人犯」として、小牧バラバラ事件と津久井女店員殺人という別の二件が並べられている。この二件つきの完全形が、同じ月のうちに怖い話のアーカイブサイトに転載され、以後、無数のブログとまとめサイトに複製されていく。
二十年たったいまも、ほぼ改変なしのまま流通し続けている。
まとめるとこうだ。土地の噂としての語りが2002年には掲示板上に確認でき、そこから四年ほど遅れて、留置場の夢枕を主役に据えた完成形のコピペが登場する。心霊スポットの噂が先で、犯人の悪夢が後。この順番は、後で効いてくる。
派生1・敷島公園「大久保清、ここでは誰も殺していない」問題
敷島公園というのは、前橋の真ん中にある広い公園だ。バラ園があり、球場があり、プールがあり、詩人の記念館がある。昼間は市民の憩いの場そのもので、心霊スポットの雰囲気は一ミリもない。
にもかかわらず、この公園はネット上で「大久保清の被害者が出る場所」として定着してしまった。
心霊スポット紹介系のサイトでは、捜索が行われていた頃に「あつい・・・みずがほしい・・・」と訴えかけてくる女性の霊が出た、血だらけで物凄い形相をした苦しげな女性の霊が出没する、といった記述が並ぶ。
ところが、この結びつけには最初から無理がある。
事件の被害者が命を落とした場所と埋められた場所は、榛名湖畔、旧榛名町域、高崎市域、旧松井田町域、旧下仁田町域といった具合に、県の西側から南西側に散っている。敷島公園で殺害があった、あるいは遺体が遺棄されたという事実は確認できない。
このズレに気づいて、正面から検証した個人ブログがある。書き手は前橋の地元事情に詳しい人で、公園と事件を結びつける根拠を探して、ことごとく否定していく。
被害者が公園の近所に住んでいて幽霊になって帰ってきた、という理屈なら何でもありになってしまう、と自分でツッコミを入れ、戦時中の空襲説も検討して「それを言い出したら日本の都市のほとんどが心霊スポットになる」と切り捨て、処刑場跡説も当時の仕置場の位置と照らして否定する。
そして最後に、結論はこうだ。「敷島公園が心霊スポットとされる理由は分からなかった」。
分からなかった、で終わる検証記事というのは、実は誠実さの証明でもある。無理に答えを作らなかった。
ただしこのブログには、後年の追記がある。公園の南端の池のそばに「お艶が岩」と呼ばれる岩があって、そこには古い伝説が残っているという。利根川の西岸の村に、お艶という十八歳のたいへん美しい娘がいた。
あるとき対岸の男と行き会い、意気投合して、また会えるようにと互いのことを教え合って別れた。お艶の初恋だった。彼女は岸から対岸を眺め、名を呼び続けたが、男は見つからない。思いあまって川を渡ったが、いつまで探しても会えない。
悲しみのあまり心を病み、大きな岩の上に立って男の名を呼び続け、やがて利根川の本流に身を投げた。その岩がお艶が岩と呼ばれるようになった――。
書き手はここで、控えめにこう書く。びしょ濡れになった女性の幽霊は、お艶さんが関係しているのかもしれない、と。
これは相当に説得力がある。敷島公園で語られる霊の像は、大きく二系統ある。血だらけで苦悶している女と、ずぶ濡れの女だ。前者は殺人事件のイメージに引っ張られた造形だが、後者は明らかに水死者の造形であって、殺害の状況とは何の関係もない。
むしろ、川に身を投げた娘の伝説の方に、直で接続する。
つまり敷島公園の噂は、江戸期あたりまで遡る土地の悲恋伝説の上に、二十世紀後半の凶悪事件が塗り重ねられて出来た混成物である可能性が高い。土地には先に霊がいた。あとから来た事件が、その霊に新しい名札をつけた。
心霊スポットの生成をこれほど分かりやすく示す例も珍しい。
このサイトのコメント欄には、こんな書き込みも残っている。「犠牲者リストを見てもわかるとおり、敷島公園で大久保に殺された人いないんですよね…」。読者の側でも、気づく人は気づいている。
派生2・榛名湖と地蔵峠、事件が「後から乗る」場所
榛名湖は、事件で最初の犠牲者が見つかった場所として記録に残っている。だから「事件現場」として心霊視される資格は、敷島公園と違って、一応ある。
ところが実際に榛名湖の心霊情報を集めてみると、面白いことになる。名の知れた心霊スポット紹介サイトの記述には、この事件の名前がまったく出てこないものが少なくない。
書かれているのは、自殺の名所であること、沈んだ遺体が浮かばないこと、一家を惨殺した犯人が車ごと湖に飛び込んだという話、電話ボックスに出る霊、手すりの下から覗き込む子どもの顔、すくい上げた黒い藻が髪の毛だった、といった話だ。
一方で、事件と丁寧に結びつけている考察系のブログもある。そちらは榛名湖の暗いイメージの根拠として、この事件と、翌年に表面化した山岳ベース事件の二つを挙げ、あの世代が榛名山に暗い印象を持つのは無理もない、と整理している。
ただしその書き手も、幽霊の目撃談そのものを集めているわけではない。あくまで「これだけの条件が揃っていれば幽霊の噂があってもおかしくない」という書き方に留めている。
倉渕の地蔵峠はもっと分かりやすい。ここはもともと、極左組織のアジトと総括による死者の話とセットで語られてきた場所だ。林の合間に白い靄が浮遊する、という話が先にあった。
そこへ2002年の掲示板で、「それは大久保清の被害者かもしれない」というレスがつく。理由は、榛名湖の直線道路から脇道に入った林の中に埋めていたから、と。
この一行が示しているのは、心霊スポットにおける事件の「乗り換え」だ。場所の異様さは先にある。恐怖の説明は後から足される。そして説明は、その時期にいちばん流通している事件に差し替えられる。
1970年代生まれの人にとっては赤軍の話が説明になり、別の世代にはこの事件が説明になる。同じ白い靄に、二つの名札が交互に貼られている。
榛名湖と地蔵峠の例が教えてくれるのは、この事件が心霊スポットを「作った」というより、既存の暗い土地に「呼び込まれた」側だったということだ。事件の側から怪異が広がったのではない。土地の側が、名前のある恐怖を欲しがった。
派生3・八幡の造成地と「第2八幡霊園」
コピペの中でいちばん凄みがあるのは、実はここだと思っている。
高崎市の造成用地に4人が埋められていた。ところが、遺体が発見される前から、そこでは幽霊騒ぎが起きていた。白いミニスカートの女が、不意に現れて、足音をさせずに移動する。噂は広まって、野次馬が出るほどの騒ぎになった。
やがてその団地は、八幡霊園をもじって第2八幡霊園と呼ばれた――。
この話の構造がえげつないのは、時系列を逆にしているところだ。ふつう、心霊スポットは事件のあとにできる。ここでは順序が逆で、まだ誰も何も知らないうちから、土地が異変を訴えていたことになっている。あとから遺体が出てきて、みんなが青ざめる。
この「先に知っていた土地」というモチーフは、怪談の中でも特に強い型のひとつだ。
そして、いくつかの要素は本当に噛み合っている。自宅からごく近い造成中の工業団地に4人分が埋められていたのは記録上そうだし、この地区の地名は八幡で、実在の八幡霊園が近くにある。
だから「第2八幡霊園」という駄洒落は、その気になれば誰でも思いつける。むしろ、思いつかない方が難しい。
問題は、「遺体発見以前から幽霊騒ぎが起こっていた」という部分に、一次に近い形での裏付けがまったく取れないことだ。誰が最初に白いミニスカートの女を見たのか。野次馬が出るほどの騒ぎだったなら、地元紙のどこかに小さくでも載っていてもおかしくない。
だが辿れない。
そしてもうひとつ。1971年の日本で、若い女性が白いミニスカートを穿いているのは、まったく珍しくない。むしろ流行の中心にあった。つまりこの目撃像は、当時の若い女性の最大公約数的な服装をしている。
「白いミニスカートの女が音もなく移動する」という一文は、その時代の街角にいた誰でもありえた、という怖さと、だからこそ特定の誰かではない、という曖昧さを同時に抱えている。目撃談としては、実はきわめて情報量が薄い。
ここは冷静に言っておきたい。この段は噂として非常によく出来ているが、確認できる証言ではない。伝聞ですらない。誰かが誰かから聞いた、という形さえ取っていない、地の文で書かれた断定である。
断定の形をしているのに出所がない、というのが、この段のいちばん怖いところだ。
語られてきた体験談を三つ、腑分けする
ここからは、いわゆる体験談の類を三件、それぞれ性質を書き分けながら紹介する。断っておくが、性質の違いが本題だ。怖いかどうかより、辿れるかどうかを見てほしい。
一件目・車に乗った女(伝聞、かつ明らかに古典の型)
2014年に個人ブログに載った話である。書き手は、自分の親戚から直接聞いた話として記している。つまり分類は伝聞。しかも又聞きではなく、一次の語り手を書き手が特定できている形の伝聞だ。
話はこうだ。事件当時、その親戚は高崎市内に住んでいた。ある夜、被害女性が埋められたとされる場所の近くを車で走っていた。すると対向車線に、若い髪の長い女性が倒れている。ひき逃げだと思って慌てて車を停め、駆け寄って声をかけた。
女性は苦しそうにしながらも、よろよろと自力で歩いて、後部座席に座った。
ぐったりしているので、近くの病院まで送ろうと車を出す。走りながら、何度もバックミラーで様子を確認した。ちゃんといる。ところが病院の手前でもう一度ミラーを見ると、誰もいない。横になっているのかと思って車を停め、後ろを振り返る。いない。
忽然と消えている。
慌てて駆け込んだのは、寺ではなく交番だった。事情を説明したが、警官の反応は「疲れてるんじゃないですか」の一言。ただ、もう一人の警官が「取り敢えず後ろのシート調べましょうか」と言ってくれた。後部座席のドアを開ける。
大量の土と、長い髪が落ちていた。
これには警官も顔面蒼白になったという。とはいえ誰も乗っていない以上、それ以上は調べようがないということで帰された。その車は土足禁止で、土が入るはずはなかった。
翌朝、車内を掃除すると、男女の区別のつかない人の爪が、ぎざぎざのまま、土に混じっていくつも出てきた――。
語り手はこの体験について、「普通の人間とまったく同じで、とても幽霊だとは今でも思えない」と言っていたという。
さて。怖い。素直に怖い。だが同時に、これは怪談研究の側から見ると、驚くほど教科書的な話でもある。
車に見知らぬ女を乗せる。目的地に着く前に消えている。座席に痕跡だけが残る。この型は「消えるヒッチハイカー」と呼ばれ、アメリカの民俗学者が同名の本にまとめたことで世界的に知られるようになった。
日本語で「都市伝説」という言葉が定着したのも、この本の翻訳がきっかけだったとされる。海外では1800年代末にはすでに記録があるという。
日本にも独自の系譜がある。深夜のタクシーに乗った客が消えていて、座席がびっしょり濡れている。これは1950年代にはすでに新聞に載るくらい広まっていた。
さらに遡れば、江戸時代の怪談集にも、下女の亡霊が馬子に馬を借りて主家へ向かい、屋敷の者に「またあれが来た、駄賃を払え」と言われる話が載っている。乗り物に乗る死者、という発想は、乗り物が変わっただけで何百年も生き延びている。
つまりこの高崎の話は、古典的な型に、この事件という具体的な地名と時代を差し込んだ変奏だと見るのが自然だ。
残された痕跡が「濡れたシート」ではなく「大量の土と髪と爪」になっているのが、この土地版の特徴で、そこは埋められたという事件の性質にきちんと合わせてある。よく出来ている。よく出来すぎている、とも言える。
念のため書いておくが、これは語り手が嘘をついたという意味ではない。人は自分の記憶を、自分が知っている物語の型に沿って整えてしまう。それは嘘とは別のことだ。
二件目・公園のカップルが見たもの(伝聞、ただし発生時期が古い)
2002年6月、匿名掲示板に書かれた例の書き込みである。駐車場にいたカップルが、まだニュースになる前に犠牲者の顔を見ている、女は「お水を頂戴」と言い続けていた――というものだ。
これは書き込んだ本人の体験談ではない。地元で流れている話の紹介という形をとっている。だから分類はやはり伝聞である。ただ、後年のコピペより四年以上早く、しかも心霊スポットの雑談という、コピペ流通とは別のルートで出ている点に価値がある。
少なくとも、この土地でこの手の話が語られていたこと自体は、2002年時点で確認できる。
翌日の追加書き込みでは、目撃場所が公園の広い範囲に散っている。池の周辺、松林、慰霊碑のあたり、バラ園、駐車場。とくにバラ園が多い、と。
この「あちこちで見られている」という語られ方は重要で、一つの目撃談が核にあって周囲に増殖したというより、最初から「この公園には出る」という漠然とした共有知があって、そこに事件の名前が乗った形に見える。
言い換えると、この段階ではまだ「幽霊の身元」がふわっとしている。誰の霊かは特定されていない。「連続女性誘拐殺人の犠牲者」という、事件名だけの匿名の霊だ。
のちのコピペで「7番目の女性らしい」と番号がつくのは、話が流通していく過程で解像度が上がった結果だろう。怪談は流通するほど具体的になる。具体的になるほど、検証は不可能になる。
三件目・刑事と詩(こちらは記録に残っている証言)
三件目は幽霊譚ではない。だからこそ、ここに置く。
取り調べを担当した群馬県警の刑事に、落合貞夫という人がいた。当時38歳の巡査部長。この人は2022年8月に91歳で亡くなっており、地元紙が経歴とともに、元同僚たちの言葉を紹介している。
その紙面によれば、彼は容疑者と連日向き合った。供述は移ろい、余談が多く、嘘が交じった。鋭く追及もした。そして、相手が思い入れを持っていたという詩をそらんじてみせた。硬軟両様の態度でほだした。
逮捕から約2週間後、相手は遺棄した場所を口にした――。
元同僚の言葉として、こう紹介されている。「とにかく優しい男。誠実でね。でも食らい付けば離さない。だから心を開くことができた。彼らでなきゃ、落ちなかった」
テレビの検証番組でも、この場面は再現されている。番組の説明では、逮捕から2週間が経とうとしていた5月26日、刑事は供述を取ろうとせず、ただ、こうつぶやいたという。
いつかある日 山で死んだら 古い友よ 伝えておくれ 俺は男らしく死んだと
すると相手は大声で泣きだした。刑事は、この男がいちばん認めてほしいものは何かをずっと探していて、その答えが詩だと見抜いていた。才能を褒めることで、自供を促した――。
この挿話は、番組では本人の詩として紹介されている。念のため書き添えておくと、この歌詞はもともと登山者のあいだで歌い継がれてきた歌のもので、日本語詞は文筆家の手による。
だから「本人の詩そのもの」というより、本人が愛唱し、書き写し、自分のものとして抱えていた言葉、と理解するのが妥当だろう。番組の伝え方は、そこをやや圧縮している。つまり、記録に残っている側の証言にも、語り直しの圧はかかる。
ここは公平に指摘しておきたい。
それでも、この証言と幽霊譚の間には、決定的な差がある。取調官の名前があり、所属があり、没年があり、元同僚の証言があり、地元紙という媒体名を辿れる。少なくとも、誰がどこで言ったかが分かる。
そして本題はここからだ。
自供が動き出した時期について、記録の側は「刑事の粘りと詩」と説明する。噂の側は「亡霊に責め立てられたから」と説明する。同じ出来事に、まったく別の理由が二つついている。
しかも幽霊バージョンを採用しているブログの中には、はっきり「5月26日に全ての犯行を自白した。それは何故かというと、殺した女性が毎夜出てくるようになったからなのだそうです」と書いているものがある。日付まで同じで、理由だけが差し替わっている。
これは偶然ではないと思う。噂は、記録の隙間に生えるのではない。記録の上に、直接上書きするのだ。刑事の名前と、二週間という日数と、5月26日という日付だけを残して、その中身を丸ごと霊に入れ替える。人間の粘りが消えて、死者の呪いが座る。
言ってしまえば、この噂は一人の刑事の仕事を奪っている。
教誨師と刑務官の証言、とされているもの
拘置所と死刑執行にまつわる話も、この事件には付随している。ただし、ここは輪をかけて出所が怪しい。
いちばんよく見かけるのは、死刑台へ向かうときに腰を抜かして失禁し、刑務官に抱えられるようにして連行された、という逸話だ。事件をまとめた記事の中には、これをきちんと「一説には」と断って紹介しているものもある。
断って紹介している、というのが正直でいい。裏を返せば、断らずに事実として書いている記事も山ほどある、ということだ。
この逸話がどこまで辿れるか。結論から言うと、辿れなかった。刑場の中で起きたことを外に伝えられる立場にいるのは、ごく限られた人間だけだ。刑務官と、教誨師と、検察官と、拘置所の幹部。
その誰かが後年に語ったという形の記録には、今回は行き当たらなかった。
死刑執行に立ち会った人々の証言を集めた本は、実は日本にはいくつもある。刑務官への取材をもとに死刑囚の最期を追った書き手もいるし、そのなかにはこの事件を扱った巻もある。
半世紀にわたって死刑囚と向き合い続けた浄土真宗の僧侶の生涯を追ったノンフィクションもあって、そこでは、教誨師という仕事が無報酬であること、面接した相手の執行に立ち会わなければならないこと、その重圧から酒に逃れた僧侶がいたことまで書かれている。
房の中で親鸞に触れて変わっていった者、無実を訴え続けた者、自分は死刑にならないと思い込んで釈放後の事業計画を語り続けた者。人間の最期の形はいくらでもある。
だが、そうした本の中で「被害者の霊に苦しめられて悶えていた」という証言が中心に据えられている例は、少なくとも今回の調べでは見つけられなかった。むしろ書かれているのは、もっと散文的で、もっと救いのない、それぞれ個別の姿だ。
ここで一つ、方向を変えて考えてみたい。教誨師や刑務官が「霊に苦しんでいた」と証言した記録が乏しいのは、なぜか。
ひとつには、そういう証言はそもそも表に出しにくい。もうひとつ、もっと単純な理由がある。囚人が悪夢にうなされること自体は、たぶん珍しくないのだ。珍しくないから、わざわざ書かない。
重い罪を負って死を待つ人間が眠れなくなり、うなされ、寝汗をかき、夜中に叫ぶ。これは怪異ではなく、拘禁下の心身に起きる、ありふれた現象と言っていい。
つまり「うなされていた」という事実の核は、あった可能性が十分にある。そこに「被害者の亡霊が出て、順番を争って、呪いをかけた」という物語をかぶせたのは、たぶん後の人間だ。核があるから、否定しきれない。
物語が乗っているから、事実としては使えない。この宙ぶらりんこそ、噂がいちばん長生きする条件である。
車と、家と、名前をめぐる噂
事件の道具立てだった白い車についても、噂は生えている。あの車はどうなったのか、というやつだ。
事故物件ならぬ「事件車両」だから当然廃車になっただろう、と書いている記事もあるが、面白いことに、これに対しては近年、当時を知る人物からと思われる書き込みが現れている。事件で有名になったので、兄から払い下げになった。13万キロまで乗った。
林道が好きなので、それらしい仕様にしていた――という趣旨のものだ。真偽を第三者的に確認する手立てはないが、少なくとも「呪われた車が封印された」という怪談的な結末を、実に散文的に裏切っている点が印象深い。
乗る人が乗れば、車はただの車として十三万キロ走る。
車そのものの数字は、記録の側にきちんと残っている。買われたのは3月上旬、納車は3月12日、逮捕までの走行距離は9,537キロ。ナンバーまで記録されている。事件を語る記事はこの数字を必ずと言っていいほど引用する。
数字が具体的だから、引用したくなる。そして数字が具体的だと、その隣に置かれた曖昧な話まで信用されやすくなる。これも、噂の生き延び方のひとつだ。
生家や自宅跡についても、行こうとする人はいる。ここははっきり書いておく。生家周辺は現在も普通の住宅と農地が広がる地域で、そこに暮らしている人がいる。遺棄現場とされる工業団地の一角も、いまは工場と道路が並ぶ、稼働している土地だ。
心霊スポットとして訪ねるべき場所ではないし、私有地や事業所の敷地に立ち入るのは論外である。本稿はいかなる意味でも現地訪問を勧めない。
それから、これは怪談というより社会現象の話だが、事件のあと、群馬で生まれた子に「清」と名づける親がいなくなったという話がある。地元にゆかりのある書き手が、出生届がゼロだったと聞いた、という形で書いている。
同姓同名の競輪選手が客からひどい野次を浴びた、という話も残っている。土地の名前と人の名前に、事件が長く傷を残した。この種の話は霊とは関係ないが、「事件が土地に貼りつく」という現象としては、幽霊譚と地続きだ。
テレビと映画は、幽霊を描かなかった
この事件は、映像化されている。1976年のオムニバス映画では俳優の川谷拓三が、1983年のテレビドラマではビートたけしが、それぞれ役名を変えた同型の人物を演じた。
とくに後者は、お笑い芸人としての評価を一変させた代表作として、いまも語り継がれている。まばたきや顔の引きつりといった微細な表情、特異な仕草の積み重ねによって、理屈抜きで犯罪者だと直感させる演技だったと言われる。
この作品の原作にあたるのは、事件を追った定番のノンフィクションで、脚本は歪んだ家庭環境と服役中の挿話を織り込んで、犯罪者が形成される過程を描くことに焦点を置いた。
さらに、作家の曽野綾子はこの事件をモデルに長編小説を書き、それも映像化されている。
さて、ここで肝心なことを書く。今回、これら映像化作品の中に「被害者の霊が出てくる場面」があったという情報は、確認できなかった。あらすじ紹介にも、視聴者の感想にも、幽霊の話は出てこない。
話題になるのは、演技、家庭環境、取り調べ、そして「わずかな会話のズレで生死が分かれた」という恐ろしさである。
心霊番組の側でも同様だ。この事件を心霊特番が正面から扱った形跡は、今回の範囲では見つけられなかった。この事件を検証したテレビ番組は確かにある。
だがそれは心霊番組ではなく、当事者証言を追うドキュメンタリー系の枠で、そこで語られたのは幽霊ではなく、刑事と詩の話だった。
これは示唆的だと思う。放送というのは、遺族が見る可能性のある媒体だ。事件から数十年しか経っていない実名事件で、被害者の霊を演出として使うのは、制作側にとって取りうる選択肢ではない。倫理の問題であり、同時にリスクの問題でもある。
結果として、この噂は活字とネットの中だけで生きてきた。放送に乗らなかったからこそ、検証もされなかった。誰かが番組で「これはデマです」と言う機会が、一度も来なかったのだ。
掲示板とまとめサイトが、この話に何をしたか
コピペの流通経路をたどると、日本のネット怪談の生態がそのまま見える。
まず、匿名掲示板の怖い話系の板に投稿される。そこには「まだまだあった!」という煽り文句とともに、別の二事件が抱き合わせで載っている。この抱き合わせ構成が効いた。単発の怪談ではなく「霊に悩まされた殺人犯」というカテゴリになったからだ。
カテゴリは繰り返し使える。だから何度でも再投稿される。
次に、投稿の翌月あたりから、怖い話をひたすら集めるタイプのアーカイブサイトに転載される。ここで固定のページを持ち、検索に引っかかるようになる。
その後、洒落怖まとめ、心霊まとめ、個人のコピペブログ、アメーバブログの怖い話垢と、際限なく複製されていく。今回確認した範囲でも、2014年、2016年前後、そして最近まで、ほぼ同一文面が繰り返し掲載されている。
面白いのは、改変がほとんど入っていないことだ。二十年で自然に膨らんでいてもおかしくないのに、「長野県の松井田警察署」という明白な誤りまで含めて、そのまま複製されている。誰も検証しない。誰も直さない。
コピペとは、そもそも読まれるためではなく、貼られるために存在するテキストだからだ。
一方で、独自に膨らんだ枝もある。先ほどの高崎の車の話がそれで、コピペの舞台だけを借りて、まったく別の型の怪談が接ぎ木されている。これは複製ではなく創作だ。
ただし書き手は「親戚から聞いた」という形式を守っているから、創作であることは明示されない。
そして反応の側。この手のまとめ記事のコメント欄を眺めると、ある傾向が見える。多いのは「良心の呵責が見せた幻だろう」「自白したら見えなくなるなら、自分の罪悪感が作り出したものだ」といった、合理化の意見だ。
次に多いのが「こういうことばかりなら世の中平和なのに」という嘆息。そして必ず一定数、別の事件と混同した書き込みが出る。
たとえば、海外の同種事例をまとめた記事のコメント欄では、ある有名な監禁事件について「あれも被害者の霊に悩まされた犯人の自白で判明したんだよね」と書き込んだ人がいて、後年、別の人が「違うよ、あれは別件の取り調べで刑事が言った軽口を、犯行がバレたと誤解して自供したんだ」と訂正している。
混同が起き、訂正が入り、しかしコメントは残り続ける。ネット怪談における事実確認は、だいたいこういう形でしか行われない。
疑うべきポイントを、ここで全部並べておく
ここまでで散らばった疑問点を、まとめて整理しておきたい。
出所が辿れない話。「供述書によると」の供述書が誰にも辿れない。「遺体発見以前から幽霊騒ぎが起きていた」という記述の一次情報が辿れない。「野次馬が出るほどの騒動」だったのに、当時の記録として辿れない。
死刑執行時の様子とされる逸話も、語った人物に辿り着けない。
明らかな誤りを含む話。松井田警察署の所在県が違う。7月13日という自供の日付が、公表されている発見日と噛み合わない。掲示板では埋められた人数が2人と4人で食い違っている。
後年の創作と見るべき話。高崎の車の一件は、世界中に類例のある古典的な型に、この事件の地名を差し込んだ変奏と考えるのが自然だ。敷島公園の「ずぶ濡れの女」は、同じ公園に伝わる入水伝説の造形とほぼ一致する。
別件との混線。地蔵峠と榛名湖の心霊譚は、もともと別の事件と結びついていたところに、この事件が後から乗った形跡がある。海外事例のまとめでは、日本の別の凶悪事件について「霊のせいで自白した」という誤情報が普通に流通している。
そして最大の論点。自供が動いた理由が、記録の側と噂の側で完全に入れ替わっている。片方には名前と所属と日付があり、もう片方には何もない。
こうやって並べると身も蓋もないが、この作業をやったうえでも、噂の怖さは減らない。それがこの手の話の厄介なところだ。理屈で潰しても、あの「私の方が先・・・私をどうしてくれるの」という一行は、頭から消えない。
なぜ「凶悪犯が霊に苦しむ話」は、何度でも作られるのか
最後に、いちばん大きな問いに行く。この型の物語が、なぜ繰り返し作られるのか。
答えは複数あって、どれも同時に正しいと思う。
第一に、法が足りないからだ。裁判は罪を裁くが、被害者の無念を晴らすようには設計されていない。判決は加害者に向けられた処分であって、死者に向けられた返答ではない。8人の命が奪われて、加害者が一人死んだ。数の帳尻は永久に合わない。
この、どうやっても埋まらない差額を、生きている人間はどこかに置きたがる。置き場所として、亡霊はきわめて便利だ。法廷が渡せなかった発言権を、死者に与え直すことができる。
だから噂の中の彼女たちは、喋る。「私の方が先」「私をどうしてくれるの」「もっと苦しめ」。これは全部、法廷では発せられなかった言葉だ。被害者は法廷にいない。証言できない。求刑もできない。噂は、その空席に死者を座らせて、直接しゃべらせている。
この物語の本質は、恐怖ではなく、代理の裁きだと思う。
第二に、反省しなかったからだ。この加害者は、法廷で反省の言葉を口にしなかったとされる。弁護人が謝罪を促しても実現しなかったと伝えられ、判決は「著しい反人間性」を厳しく指弾した。
獄中で書かれた手記も、風俗史家に「難しい言葉で国家権力への反発を述べているが、浅薄で、ひどくセンチメンタルな詩を長々と並べていて、三十六歳の男が書くものかと思うほど少年っぽい」と切り捨てられている。動機は最後まで解明されなかった。
反省しない加害者は、社会にとって未解決の傷になる。誰かが謝らせなければならない。生きている人間がそれをできなかったなら、死者にやってもらうしかない。「夜な夜な現れて怯えさせる被害者」というのは、要するに、社会が果たせなかった追及の代行だ。
第三に、話として単純に強い。恐怖のジャンルにおいて、いちばん効くのは「逃げられない」ことだ。犯人は捕まっている。逃げられない。房から出られない。にもかかわらず、房の中で毎晩やってくるものがある。
閉じ込められた男が、閉じ込められているせいで逃げられない、という構造は、それ自体が完璧なホラーの装置になっている。ここに刑務所と拘置所という、一般人が中を知らない密室が加わる。密室は噂の温床だ。
第四に、これは書いていて気が重いのだが、加害者の苦しみを描くことで、読者は安心できる。少なくとも彼は苦しんだ、と思えると、収まりがつくのだ。世界には因果があるという安心。悪いことをしたら報いがあるという安心。
この安心は、宗教が保証しなくなった社会で、怪談が肩代わりしている。コピペの締めの一行が「幽霊とかを信じない方も、人の道をはずした人には見えるのかも」であるのは、まさにそれだ。あれは怪談のオチではなく、道徳の宣言である。
第五。これがいちばん厄介なのだが、この物語は加害者を主人公にしている。「霊に悩まされた殺人犯」というタイトルからして、主語が犯人だ。犠牲になった8人は、この物語のなかで、加害者を苦しめる装置として登場する。
名前も人生も奪われて、恨みだけになって出てくる。
これは、供養の顔をした二次的な消費だと思う。噂の書き手にその意図はなかっただろう。それでも構造上、そうなっている。
事件から50年の節目に、地元紙は連載を組んだ。副題には「怨嗟」「虚無」「凶悪」といった言葉が並び、第一回の見出しには遺族の言葉が置かれた。「思い出したくない」。記事は冒頭でこう書いている。
県警の取調官をはじめ関係者の多くは既に世を去り、記憶の風化も著しいが、遺族は今なおやり場のない怨嗟を抱える、と。
思い出したくない、と言っている人がいる。その一方で、匿名掲示板では二十年間、同じコピペが貼られ続けている。この距離が、この記事でいちばん考えるべきことだと思う。
ここからは総括と、本編に入りきらなかった論点を追加で書く。
「怪異が先か、事件が先か」という順序の問題
本編で何度か触れたが、この事件をめぐる心霊譚の最大の特徴は、怪異が事件より先にあるケースが目立つことだ。
敷島公園には、入水した娘の伝説が先にあった。倉渕の地蔵峠には、別の事件にまつわる白い靄の噂が先にあった。榛名湖には、自殺の名所という長い評判と、沈んだ遺体が浮かばないという言い伝えが先にあった。
そこへ1971年の事件が、あとから名札として貼られた。
これは、心霊スポットという文化装置の性格をよく表している。心霊スポットとは、恐怖の原因が特定されている場所ではない。恐怖の説明が求められている場所だ。夜になると異様に感じる。
それは薄暗いからかもしれないし、道が細いからかもしれないし、そこで昔なにかがあったと聞いたからかもしれない。理由が確定しないまま、感覚だけが残る。人はその感覚に名前をつけたがる。
名前の候補は、その時代に最も強く共有されている恐怖から選ばれる。1970年代の群馬には、恐ろしい名前がいくつも揃っていた。1971年の連続殺人、翌年の山岳ベース事件、そして1985年の航空機墜落。
この三つは、県内の心霊譚で驚くほど頻繁に、しかも互いに入れ替え可能な形で引用される。同じ峠の白い靄が、語り手によって赤軍の犠牲者にも連続殺人の被害者にもなる。同じ湖の暗さが、自殺者の霊にも一家惨殺の犯人の霊にも、被害女性の霊にもなる。
つまり心霊スポットの怪異は、事件の記憶を保存しているのではない。事件の名前を消費している。保存と消費は、似て非なるものだ。保存は正確さを要求するが、消費は要求しない。だから細部がどんどん狂っていっても、誰も困らない。
この構造を理解すると、「敷島公園で誰も殺されていないのになぜ心霊スポットなのか」という問いの立て方が、そもそも少しズレていることが分かる。正しくはこうだ。
敷島公園にはもともと語るべき暗さがあり、その暗さの説明として、当時いちばん手近だった巨大な事件が採用された。因果は逆なのだ。
コピペの完成度が高すぎることについて
本編でも書いたが、あの文面は作りが良い。良すぎる。
構成を分解してみよう。冒頭で人物と事件を一行で説明する。次に日付と移送先を出して、書類的な信頼感を演出する。ここで初めてセリフを入れる。「昨日は眠れなかった」――一人称の、生々しい、短い一言。
そのあとに「1時間おきに取り調べ官に泣きついた」という、外部から観察したような一文を置く。内側の声と外側の観察が交互に来る。読み手は自然に、これは誰かが記録していた出来事だと感じる。
そこで「供述書によると」が来る。これでもう一段、公的な感触が足される。そして、いちばん強いセリフ「私の方が先・・・私をどうしてくれるの」が来る。ここまでで文章はまだ半分にも達していない。
後半は場所を移す。留置場の外へ、公園へ、造成地へ。カメラが引いていく。個人の悪夢だった話が、土地の話になる。最後に「第2八幡霊園」という、地元でないと分からない駄洒落を置いて、共同体の中で語られていた感じを演出する。締めは道徳的な一行。
これは怪談として、ほぼ完璧な設計だ。二十年間ほとんど改変されずに流通し続けたのは、改変の余地がないほど仕上がっていたからだと思う。誰かがどこかで、相当に上手に書いた。
だからこそ疑いたくなる。これは掲示板でその場で書かれた文章ではないのではないか、と。文体には、活字メディアの匂いがある。事件名を見出しにして、リード的な要約から入り、証言を引用し、周辺の噂で膨らませ、教訓めいた一行で締める。
この段取りは、実話系の雑誌記事のフォーマットにきわめて近い。
さらに、後半に付いている「まだまだあった!」という煽りと、続く二事件の並べ方。これは完全に雑誌の企画構成だ。特集の中の小囲み記事、といった趣がある。
推測にすぎないが、この文面のもとになったのは、どこかの時点で紙媒体に載った記事なのではないかと思っている。実話誌なのか、心霊特集のムックなのか、それとも新聞の三面的な読み物なのか。
それを誰かが要約、あるいはほぼ書き写して掲示板に投稿し、そこから全ネットに散った。松井田を長野県だと誤記している点も、投稿者の手癖というより、元の記事の誤りをそのまま写した可能性がある。
ただし、これは検証できていない。本稿の中で最も弱い部分だ。だから推測として書いておく。
数字がもたらす説得力について
この事件を扱った文章には、やたらと具体的な数字が出てくる。声をかけた人数、車に乗った人数、走行距離、車の値段、頭金の額、ナンバー、逮捕時の所持金、捜索した場所の数、投入された捜査員の数。
これらの数字は、実はかなりの部分が当時の新聞報道や、捜査に関わった人物の著作に由来していて、出所としては相当に硬い。硬いのだが、問題は、この数字群が幽霊譚の隣に並べられたときに起きる。
読み手は、文章全体の信頼度を、いちばん硬い部分に引っ張られて評価する。ナンバーまで書いてある記事なのだから、幽霊の段も何かしら根拠があるのだろう、と。
実際には、硬い部分と柔らかい部分は完全に別のルートから来ているのに、同じページに並んでいるだけで信頼が移ってしまう。
これは陰謀論やデマの拡散でよく指摘される構造とまったく同じだ。検証可能な事実を大量に前置きして、最後に一つだけ検証不能な主張を置く。この配置は、意図してやっている人ばかりではない。
むしろ、単に「知っていることを全部書いた」結果として自然に発生する。
だから、この種の記事を読むときには、段落ごとに出所を切り分ける癖をつけたほうがいい。同じ記事の中でも、この一行は辿れる、この一行は辿れない、と分けて読む。面倒だが、それをやらないと、九割正確な記事によって一割の作り話を信じ込まされる。
本稿でも、辿れるものと辿れないものを可能な限り書き分けたつもりだが、完全ではないだろう。読む側でも切り分けてほしい。
被害者を「恨みの塊」にしないために
これは本編の終盤でも触れたが、もう少し踏み込んで書いておきたい。
「霊に悩まされた殺人犯」という型の物語では、被害者は必ず、加害者を苦しめる存在として登場する。恨み、睨み、呪い、責める。それ以外の姿では出てこない。優しい霊は出てこないし、加害者を許す霊も出てこない。物語の役割上、そうなるしかない。
しかし現実の8人は、事件の前まで、ふつうに生きていた人たちだ。学校に通い、働き、友人がいて、家族がいた。当時の記録に残る年齢は十代から二十代前半に集中している。人生がこれから始まる場所にいた人たちだ。
その人たちが、五十年後のインターネットで、「怖い顔で睨みつけ」「もっと苦しめと呪いをかける」存在として繰り返し登場する。それが供養になっているのかというと、たぶんなっていない。
恨みだけを取り出して増幅させる行為は、その人の人生の残りの全部を切り捨てる行為でもあるからだ。
同時に、これを一方的に責めるのも違うと思う。噂を書き、貼り、読んできた人たちの多くは、たぶん素朴に「せめて報いがあってほしい」と思っていた。その気持ち自体は否定できない。
反省しない加害者を前にして、なんとか収まりをつけようとした結果があの物語だった、という理解は成り立つ。
だから提案はひとつだけだ。この話をするときは、必ず、遺族が「思い出したくない」と言っているという事実も一緒に置いてほしい。地元紙が五十年の節目に確かめて、記事にした言葉だ。怪談として消費するのは自由だが、消費している自覚は持っておきたい。
心霊スポット化した場所への、はっきりした線引き
最後に、実務的なことを書く。
本稿で言及した場所のうち、敷島公園は現在も普通に使われている市民の公園である。榛名湖は観光地であり、周辺には宿泊施設も飲食店もある。高崎市八幡町周辺は住宅と農地と工場が広がる生活圏で、旧八幡村域には人が暮らしている。
遺棄地とされる造成地は、現在は稼働中の産業用地だ。
つまり、この記事に出てくる場所には、ほぼ例外なく、いま生活している人がいる。
だから、心霊スポットとして訪ねることは勧めない。深夜に車で乗りつけて騒ぐ、私有地や事業所の敷地に入る、住宅を撮影する、といった行為は、迷惑どころではなく、はっきり違法になりうる。生家跡や、遺棄現場を特定して訪ねる行為も同様だ。
事件の被害者にも加害者にも、それぞれ親族がいて、いまも生活している。半世紀前の事件の「現場」を消費するために、いまを生きている人の生活を踏むのは筋が通らない。
この記事は、あくまでテキストとして噂を追いかけたものだ。現地に行かなくても、噂の来歴はここまで辿れる。むしろ現地に行っても、噂の来歴は一ミリも分からない。分かるのは、そこがただの公園で、ただの湖で、ただの工業団地だということだけだろう。
そしてたぶん、それが一番大事な結論だ。
結局、あの声は誰の声だったのか
「早く出して」
このセリフが、この噂のなかでいちばん古い層にある言葉なのだと思う。夢枕に立った女が言う。土の下から、出してくれ、と。
考えてみれば、これは恨みの言葉ですらない。呪いでもない。ただの、切実な要求だ。埋められたままにしないでくれ、見つけてくれ、家に帰してくれ。
1971年の夏、群馬では実際に、何千か所も土が掘り返されていた。行方不明のままの人がいて、家族がいて、警察がいて、報道陣がいて、全員が同じことを望んでいた。早く出してほしい、と。
そう考えると、この噂の中心にある一言は、あの夏に土地じゅうが抱えていた願いを、そのまま死者の口に置いたものだったのかもしれない。誰もが思っていて、誰にも言う資格がなかった言葉。それを言えるのは、埋められた本人だけだ。
亡霊が本当に出たかどうかは、知らない。知りようもない。
ただ、あの夏の群馬に、「早く出して」という声が満ちていたことだけは、まちがいなく本当だ。
そしてその声を、いまだにコピペとして貼り続けている我々が、その声にちゃんと応えているかというと――正直、あまり自信がない。
