- 山は怖い場所ではない、と最初に書いておく
- 村の空に浮かんだ、きのこ雲みたいな雲
- 谷から上がってきた声は、実在した
- 尾根で語られる怪異を、一本ずつほどいてみる
- タクシーに乗った客と、トンネルの女の子
- 証言その一、毎晩窓の外に並んだもの
- 証言その二、カタンと音がして手が出た
- 証言その三、体育館で誰も笑わなかったこと
- ボイスレコーダーという名の、いちばん長く続いた怪談
- 「自衛隊員が射殺された」という噂は、いつ生まれたか
- 坂本九と、九という数字の後づけ
- 乗らなかった人たちの物語と、怪談師という結節点
- テレビはこの事故を、扱いたくても扱えなかった
- 掲示板が育て、動画が刈り取った
- なぜ、この事故だけが怪異を生み続けるのか
- 風車が回っている山
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山は怖い場所ではない、と最初に書いておく
御巣鷹の尾根を「心霊スポット」と紹介する記事は、いまでもネット上に山ほどある。検索すればすぐ出てくる。だけど、あの尾根は肝試しの場所じゃない。五百二十人が眠っていて、遺族が毎年登ってくる墓所だ。
登山道の入口には数取器が置いてあって、登る人は自分でカチッと押す。押した数だけ、その年に手を合わせに来た人がいたということになる。
じゃあなぜ、この記事を書くのか。理由はひとつで、四十年やまないからだ。事故の翌年から、この山と、この事故をめぐる不思議な話は湧き続けている。声を聞いた。足音がついてきた。写真に何か写った。無人のはずの慰霊碑で鈴が鳴った。
タクシーに乗せた客が消えた。坂本九の曲が勝手に流れた。数え上げるとキリがない。しかも、その多くが誰かの創作というより、実際にそこで起きたことの記憶が形を変えたものに見える。だとしたら、それは笑い飛ばして終わりにする話じゃない。
どこから来て、どう変形して、どこで嘘になったのか。それを一本ずつほどいていくのが、この記事の仕事だ。
だから先に立場を書いておく。ここに並べる怪談を、面白がるためには書かない。あの日、機内には五百二十四人分の人生があった。谷底で二千体を超える断片から名前を取り戻した人たちがいて、その人たちの何人かは、そのあと何年も眠れなかった。
その事実の上に、噂は積み上がっている。積み上がった順番をちゃんと見ていくと、怪談と陰謀論がどこで手をつないだのかも見えてくる。
なお、事故そのものの技術的な原因や、撃墜説の技術的な検証については、別稿でひととおり整理してある。この記事はその隣の階層、つまり怪異と語りの生態のほうを扱う。
村の空に浮かんだ、きのこ雲みたいな雲
噂の最初の一粒は、たぶん事故当日の夕方に落ちている。
上野村の元消防団員、仲沢一男さんは、一九八五年八月十二日の夕方、自宅の庭から山の上空に大きな雲を見た。形がきのこ雲みたいだった。まるで爆弾のようだ、と思って、家族と一緒にしばらく見ていたという。
この話は本人がのちに新聞の取材に答えて語っていて、出所がはっきりしている確認可能な証言だ。テレビのニュースで飛行機が行方不明だと知り、嫌な予感がして見入っていたら、夜八時ごろに翌朝出動の連絡が入った。
ここで押さえておきたいのは、この「爆弾のようだ」が、後年の撃墜説とは別のところから来ているという点だ。仲沢さんは撃墜を主張しているわけじゃない。ただ、山の向こうで何かが爆発したように見えた、と言っている。
実際に墜落して炎上しているのだから、そう見えて当たり前だ。でも、こういう素直な目撃談は、あとから来る人たちにとって最高の材料になる。四十年経つと、村人が爆発を見た、という一行に圧縮される。圧縮されたものは、もう元の形には戻らない。
同じ夜、上野村の子どもたちも空を見ていた。事故後に村の小中学生が書いた文集の中に、大きい飛行機のほかに小型のジェット機を見た、赤い物体を見た、という記述が残っている。この文集は、のちに撃墜説の一次資料のように扱われることになる。
子どもの証言をどう扱うかは難しくて、記憶は思い出すたびに作り直されるし、周りの大人の言葉に引っ張られやすい。一方で、目撃証言というのは元々そういうものだから、書いた子が少数だったことだけを理由に切り捨てるのも乱暴だ。
この記事では、ここは判定しないでおく。ただ、噂の系譜としては重要な結節点なので、位置だけ確認しておく。
谷から上がってきた声は、実在した
怪談の中でいちばん多いのが「声を聞いた」型だ。山の奥から助けてという声がした。夕方になると子どもがおかあさんと呼ぶ声がする。慰霊碑のあたりで、どうして、という言葉と嗚咽が聞こえた。
まとめサイトを何十件見ても、この三つが判で押したように出てくる。
ここで大事なのは、この声が事故の一次資料の中に実在するということだ。
生存した非番の客室乗務員、落合由美さんは、墜落直後の谷で何が聞こえたかを語っている。何人もの荒い息づかいがしていた。男の子がおかあさんと呼ぶ声がした。頑張れ、という励ましの声があった。早く助けに来ないのか、という話し声があった。
そして、それが次第に静かになっていった。この証言は事故から間もない時期に公になっていて、四十年間ずっと引用され続けている。八月十六日には入院先で、報道陣に代わって職員が質問する形の一問一答にも応じている。喉が渇いた。
口に砂が入って息苦しく、顔を少し動かすのが精一杯だった。ヘリの音がしてずっと手を振っていたが、気づいてもらえなかったのか、ここまで来られないのか、と思った。
登山道の途中に建つ「すげの沢のささやき」という碑の脇には、遺族有志が刻んだ説明文がある。そこにも同じことが書いてある。スゲノ沢の地点では約百五十の遺体が残骸の間から見つかり、それらに混じって四名の生存者が救助された。
生存者の証言によれば、四人以外にも救援隊が到着するまでの間、話をしたり、声を出したり、粗い息をしていた複数の人がいたという。この一文は、遺族が石に刻んだ公式の記述だ。怪談ではない。
つまり、あの谷では実際に声がしていた。半日、誰にも届かないまま。それが記録として残っている。
だから、その後の四十年で「声が聞こえる」という話が尾根に定着したのは、まったく不思議じゃない。むしろ必然に近い。人は知っている話を聞く。事故のあらましを読んでから山に入れば、風が谷を通る音も、鳥の声も、遠くの沢の水音も、その形に聞こえる。
怪異が生まれたのではなく、記憶が音として再生されている。そう考えたほうが、ずっと筋が通る。
尾根で語られる怪異を、一本ずつほどいてみる
以下、御巣鷹の尾根まわりで実際に流通している噂を、系統ごとに分けて見ていく。断っておくと、ここに挙げるもののほとんどは、出所が個人ブログか体験談投稿サイトか掲示板で、誰がいつ体験したのかを辿れない。伝聞の伝聞だ。
それでも並べる価値があるのは、変形の仕方に癖があるからだ。
まず「助けて」型。慰霊登山の途中、山の奥から助けてという声を聞いたという話。バリエーションとして、夕方限定になっているものがある。夕方は墜落時刻の十八時五十六分に近いから、そこに寄せているのだろう。
もうひとつのバリエーションは、声が複数だというもの。励まし合うような声、という言い方をするものもある。これは落合証言の「頑張れ」がほぼそのまま流れ込んでいる。
次に「おかあさん」型。子どもが親を呼ぶ声が聞こえる、というやつ。これも落合証言由来だ。派生形として、上野村の周辺で夕方に誰かに道を尋ねられ、振り返ると誰もいない、というのがある。
尋ねられる内容が決まっていて、大阪はどっちですか、あるいは大阪に行くにはどうしたらいいですか、になる。この便が大阪行きだったこと、乗客の中に大阪の親戚宅へ向かう子がいたことが、ネタの根になっている。
三番目が「足音」型。誰もいない登山道で、後ろから足音がついてくる。夜間限定で語られることが多い。ただ、御巣鷹の尾根は麓の村道が四月から十一月しか開かないし、そもそも夜間に一般の人が登る場所ではない。
夜の登山道という設定そのものが、体験談としては相当あやしい。
四番目が「匂い」型。慰霊碑に花を供えた直後、突然強い焦げ臭い匂いに包まれた、というもの。これは怪異として語るには惜しいくらい、現実の記憶と直結している。
事故翌朝に現場へ入った消防団員も、報道カメラマンも、自衛隊員も、ほぼ全員が焦げた臭いを書き残している。第一空挺団の小隊長として尾根に降りた岡部俊哉さんは、四十年経ってもその臭いが脳裏に焼き付いていると語っている。
焦げた匂いは、この事故の記憶のいちばん深いところに刺さっているキーワードだ。それが怪談の中で再生されている。
五番目が「写真」型。撮った写真に人の顔のようなものが写った、無数の光の玉が写った、不自然な手が写った。これはもう、日本の心霊譚の標準装備みたいなもので、御巣鷹に固有の話ではない。
光の玉、いわゆるオーブは、フラッシュが空中の埃や水滴や虫を照らしただけであることがほとんどだ。深い谷筋の湿った森で、夏に、フラッシュを焚けばまず写る。むしろ写らないほうが珍しい。
六番目が「持ち帰り」型。現場周辺で拾った小石や金属片を記念に持ち帰ったら不運が続いた、慌てて返しに行った、というもの。これも典型的な祟り譚の型だ。ただ、この噂には実用的な機能がある。
あそこに落ちている金属片は、機体の破片であると同時に、誰かの持ち物の残りかもしれない。持って帰るなという規範を、祟りという形で流通させている。怪談が禁令の運び屋になっている例だ。
七番目、これがいちばん面白い。「鈴」型。無人のはずの慰霊碑のあたりで鈴の音が鳴る、という話。実はこれ、種明かしがかなり明快だ。御巣鷹の尾根の登山道には、熊よけの鐘と鈴が何か所も設置されている。
近年は熊の出没が増えていて、登る人は杖でその鐘を叩きながら進む。杖で叩くとコーンといい音が鳴る、と登山記に書いている人がいる。そして昇魂之碑の脇には「魂の鐘」も置かれている。
さらに碑の左右には、遺族が言葉を書いて掛けていく鎮魂の鈴が絵馬のように吊るされている。今年が最後でしょう、と書いた人。何年振りかで来ました、と書いた人。息子と嫁と孫四人を失った母が書いた、今、どうしてる、という一行。
あの尾根は、風が吹けば実際に金属の音がする場所なのだ。誰もいないのに鈴が鳴った、は、たいていの場合、本当に鈴が鳴っている。
八番目が「音楽プレーヤー」型。入れていないはずの坂本九の曲が突然流れ出した、というもの。これは他の噂より新しい。カセットウォークマンの時代には成立しづらく、シャッフル再生とクラウド同期がある機器を前提にしている。
つまり二千年代以降に作られた話だ。毎年八月十一日の灯籠流しで、参加者が「上を向いて歩こう」を歌うことも、この話の背景になっている。この曲は、この事故の記憶にとって半ば公的なテーマ曲になっている。だから機械が勝手に鳴らしたことにできる。
そして九番目、これは怪談ではないが、いちばん奇妙な位置にある話だ。登山道の途中、岩の下に石碑が建っていて、こう刻まれている。御巣鷹の尾根登山で、私は霊感を受けました。
途中、私達はいつも沢沿いに登りましたが、私には、なにか水の流れが、私達に語りかけ、登山を励ましてくれているような気がしました。書いたのは、事故当時に米国の運輸安全委員会の委員長を務めていたジム・バーネット氏だ。
遺族有志が一九九四年八月にその言葉を石に刻み、碑を「すげの沢のささやき」と名づけた。事故調査のトップだった人が、水音が語りかけてくると書き、遺族がそれを石にした。この山では、公式の記録の中に、すでに「ささやき」がある。
タクシーに乗った客と、トンネルの女の子
上野村の麓には、二種類の有名な話がある。
ひとつはタクシーの話だ。山合いにはおよそ不似合いなスーツ姿の中年男性が、アタッシュケースを提げて立っている。タクシーを拾い、御巣鷹の尾根へ行ってくれ、と告げる。山道を走って、着きましたよと運転手が振り返ると、後部座席には誰もいない。
戸惑っていると、どこから来たのか着飾った若い女性たちが賑やかに近づいてきて、麓まで行ってくれる、と言う。彼女たちが提げていた土産の袋には、科学万博と東京ディズニーランドの文字があった。
この話が巧いのは、年代をディテールで指し示しているところだ。一九八五年はつくば万博の年で、東京ディズニーランドは開園二年目だった。事故機には万博帰りの客も、ディズニーランド帰りの家族もいた。
遺体の身元確認班長を務めた元刑事官の記録には、最初に身元が判明したのがディズニーランド帰りの母と幼い姉弟だったと書かれている。つまりこの怪談は、事故のプロフィールを土産袋ひとつに圧縮している。よくできている。よくできているから広まった。
ただし、構造としては完全に「幽霊タクシー」の型だ。東日本大震災の被災地で語られたタクシーの幽霊譚と、ほとんど同じ骨格をしている。実際、この型は日本各地の大災害の後に判で押したように現れる。
帰るはずだった人が帰れなかった、という一点を、誰もが飲み込みやすい形にして手渡す装置なのだ。誰がいつ乗せたのかを辿れる版は、少なくとも私が探した範囲では見つからなかった。
もうひとつが、乙父トンネルの女の子だ。上野村にあるこのトンネルで、深夜に走っていると小学生くらいの女の子が泣きながら近づいてきて、大阪に行くにはどうすればいいんですか、と尋ねてくる。
これも定型で、御巣鷹の犠牲者の霊だと言われている、という説明が必ずくっつく。村内の別のトンネルには女性の霊の噂がある。神流川上流のぶどう峠付近では、渓流釣りの最中に誰もいない山中からおーいと呼ばれた、という話がある。
御巣鷹山の裏手の川では、竿が頻繁に折れ、河原から足音が聞こえ、撮った写真に白いフレアが写った、と書かれている。
これらは、悲劇の場所の周囲に吸い寄せられる形で発生する典型的な噂だ。事故と直接の関係を示すものは何もない。ぶどう峠が出てくるのは偶然ではなくて、事故当夜、氏名不詳の百十番通報が墜落地点として北相木村のぶどう峠付近を挙げていた。
初動の混乱で全国に流れた地名が、二十年後に怪談の舞台として再利用されている。噂は、報道が撒いた地名をきちんと拾って育つ。
宿の話もある。上野村や周辺の温泉宿に泊まったら何かがあった、という書き込みが、体験談投稿サイトや掲示板にぽつぽつある。ただ、これがいちばん出所が辿れない。宿の名前が書かれているものは営業妨害に近いので、この記事では扱わない。
書けるのは、事故直後の上野村がどういう状態だったかという事実のほうだ。人口二千人に満たない村に、自衛隊と機動隊と報道陣が一斉に入った。宿という宿が埋まり、村の女性たちが炊き出しをして、疲れきった人たちの話し相手にまでなった。
あの夏、あの村の宿には、山から下りてきたばかりの人が泊まっていた。その人たちが何を見て、何を持ち帰ってきたか。宿の怪談は、たぶんその記憶の残り香だ。
証言その一、毎晩窓の外に並んだもの
ここからは、出所がはっきりしている証言を三つ紹介する。怪談として消費するためではなく、「不思議な体験」と「極限状態の脳」の境界がどこにあるのかを見るためだ。
一人目は岡部俊哉さん。事故当時は二十六歳、第一空挺団の小隊長で、階級は二等陸尉だった。のちに陸上自衛隊のトップである陸上幕僚長になる人だ。事故翌日の朝八時前にヘリで離陸し、八時四十分に御巣鷹の尾根の上空へ到着した。
三番機からロープで降下し、JALのマークが見える主翼の上に降り立った瞬間、ブーツの裏がぐにゅっとした。踏んだものの正体は人の耳だった。彼は心の中で、申し訳ありません、と謝ったという。
任務は地形の偵察と生存者の救出だった。九時半ごろから、動いてください、声を出してください、と呼びかけながら捜索を始めた。木々は倒れ、焦げた臭いが立ち込めていた。
目の前に広がっていたものについて、彼は地獄のような世界だった、職業選択を間違えたと思った、と語っている。真っ赤な色をした木に触ってしまい、よく見たら肉片が付着していた、という一節がある。ここは詳しく書かない。
不思議だったのは、と彼は言う。十時四十五分ごろ、無線に生存者発見の一報が入ったとき、頭が混乱した。人間は皆ぼろぼろなのに、転がっているぬいぐるみはなぜ綺麗な状態なのか。
何かの間違いじゃないか、と思いながら、生存者が運ばれてくる集合場所へ向かったという。
そして三日後、任務を終えて駐屯地に帰還した彼に異変が起きた。残っていた隊員たちから、お前ら目つきがおかしい、と言われた。暗い所が怖くなった。寝ている途中、窓の外に自分が関わった遺体が並ぶ。毎晩だ。それが約一か月間続いた。
あとになって、急性ストレス障害という状態だったと分かった。当時はそんな言葉を知らなかったので、むしろ恥ずかしかった、と彼は言っている。
これは怪談ではない。医学的に説明のつく現象だ。でも、当時それを説明する言葉がなかった人にとっては、毎晩窓の外に人が並ぶのは、限りなく怪異に近い体験だっただろう。そして、こういう体験を持った人が、この事故には何百人といた。
自衛隊員、機動隊員、消防団員、医師、看護婦、歯科医師。彼らが黙り続けた四十年のあいだに、噂だけが先に育った。岡部さんが当時を語ったのは、事故から四十年の節目である二〇二五年になってからだ。
自衛隊の側は、災害派遣を重ねる中でメンタルケアの体制を変えていった。今はさせちゃいけない経験ですので、というのが彼の言葉だ。
証言その二、カタンと音がして手が出た
二人目は、当時三十六歳で上野村の消防団員だった黒沢正昭さん。彼が語った話は、この事故のいちばん明るい瞬間を含んでいる。
墜落翌日の八月十三日午前六時ごろ、中学校に百六十人が招集された。火を消しに行く、と言われて出発した。ヘリコプターを目印に、沢沿いや笹が生い茂る急勾配の獣道を進んだ。途中で人の足が見つかり、大騒ぎになった。
カラマツ林の向こうが明るくなって、現場が近いと分かった。尾根から沢まで、幅二十から三十メートルにわたって樹木がなぎ倒され、沢には遺体と機体の残骸が折り重なっていた。想像を絶する光景だった、と彼は言う。
現場検証があるから近づくなと言われて離れて見守っていたら、カタンと音がして、残骸の中から小さな手が出てきた。手が出た、とレンジャー隊員に言っても信じてくれない。みんなで何度も訴えて、ようやくのぞき込んだ隊員が、生存者確認、と声を張り上げた。
一目散に駆け出して、母親と子どもを救い出した。母親は意識がもうろうとしていた。子どもは怯えたような目つきで、痛い、と訴えた。若い自衛隊員にどこへ運べばいいのかと聞いても分からず、残骸と木で担架を作って急斜面を登った。
木が折れて母親を落としてしまったが、痛がる様子を見て、生きている、と安堵した。肌寒く服がはだけていたので、着ていた消防団の法被をかけた。
同じ分団の別の団員、仲沢一男さんは、当時十二歳だった生存者を尾根へ運んでいる。ヘリの救出を待ったが、なかなか来なくて。まだかー、と空を見て怒鳴っている人もいた。
第二分団の黒沢典久さんは、生存者が発見された後に到着し、なたで沢から尾根への道を作った。猟師だったので血には慣れていて冷静だったというが、斜面でふと横を見たら小さなリュックサックが落ちていて、そこで涙が出たそうだ。
三、四歳くらいの子が背負うような、かわいらしいリュックだった。楽しい旅行だったろうに、と彼は言っている。四十年たっても、あの現場は思い出す、とも。
この人たちの語りには、幽霊は一度も出てこない。出てくるのは、音と、匂いと、手と、リュックだ。そして、その具体物のほうが、どんな怪談よりも長く残る。
証言その三、体育館で誰も笑わなかったこと
三人目は、名前を挙げる形にはならない。藤岡市民体育館に置かれた遺体安置所で、百二十七日にわたって身元確認にあたった人たちの話だ。
規模だけ書いておく。犠牲者五百二十人に対し、検死の対象となった遺体は二千六十五体。五体そろっていたのは百七十七だった。真夏で、体育館の室温は四十度近かったとされる。窓という窓には暗幕が張られ、線香の煙と薬剤の臭いが立ち込めていた。
この期間に入った医師は延べ千八十七人、歯科医師は延べ千二百二十七人、看護婦は延べ千五百八十七人。うち法医学の専門家は百九十九人、法歯学の専門家は二十八人しかいない。残りは開業医と勤務医と地元の看護婦だ。
当時はDNA型鑑定の技術が確立しておらず、身元確認の主役になったのは歯だった。犠牲者のおよそ四割が、歯や骨の特徴から身元を割り出されている。
この現場の記録を書いたのは、身元確認班長を務めた元群馬県警の刑事官、飯塚訓さんだ。彼の本には、怪談として流通してしまいそうな話がいくつも出てくる。極限状態の中で、遺体の前で無意識に小躍りを始めてしまった検屍医。
なかなか身元の判明しない幼い女児の頭部に、毎晩、話しかけてから帰っていた刑事。朝の待機所で歯科医師が、今日はずいぶん来てるなあ、と口にしたこと。疲労困憊した歯科医師が、迷いもせず目当ての棺にたどり着いたこと。
高速道路で霧の中を走っていた警察官の車が、理由もなく車線を変えて対向車との衝突を免れ、その人はそれを被害者の霊が守ってくれたのだと信じたこと。
読んでいていちばん印象に残るのは、こうした体験を誰一人として笑い飛ばしていないことだ。何の前触れもなく理不尽に命を奪われた五百二十人の無念を、その場にいた全員が肌で感じていた。
だから霊魂の存在を、むしろ信じたい、受け入れたいという気持ちが生まれた。あれは怪談ではなくて、極限状態を生き延びるために現場が必要とした共通言語だったのだと思う。
そして、これが重要なのだが、こういう話は本という形で世に出た瞬間、書き手の意図とは無関係に「日航機事故の怪異」として切り抜かれ、まとめサイトに転載されていく。文脈が剥がれ、極限状態の心理という土台が抜け落ちて、心霊エピソードだけが残る。
この事故をめぐる噂の相当部分は、こうやって作られてきた。原典は誠実に書かれているのに、流通の過程で怪談になる。噂の生産ラインは、案外そういう場所にある。
ボイスレコーダーという名の、いちばん長く続いた怪談
この事故には、他の航空事故にはない特殊な材料がある。三十二分十六秒のボイスレコーダーが、正規の手続きを経ずに世の中に出回ってしまったことだ。
事故から十五年後の二〇〇〇年、コックピットの音声が入ったカセットテープが報道各社に配られ、同年八月にテレビが放送した。誰が流したのかは、いまも特定されていない。
同じ二〇〇〇年八月、当時の運輸省が保存期間十年を過ぎた一トン近い事故調査資料を廃棄していたことが新聞で報じられている。廃棄の直前に、原本かコピーにアクセスできる立場の誰かが持ち出したのだろう、というのが通説だ。
二〇〇五年にはジャーナリストが自著の付録として、音声とCG映像を組み合わせたDVDを出した。家庭で繰り返し聴けるようになった。そこからデジタル化され、動画サイトに乗り、字幕付きの検証チャンネルが無数に生まれた。
ここから先が、噂の温床になる。流出した音声には、あちこちに空白がある。しかも空白の長さがまちまちで、五十七秒とか百三十秒とか、まとまって欠けている箇所がある。管制とのやりとりは残っているのに、操縦室内マイクの記録だけが抜けている区間もある。
これを丁寧に照合した人たちが、当然のように問いを立てた。なぜここが消えているのか。
技術的な事情を先に書いておく。事故機のボイスレコーダーは四本のトラックを持っていた。操縦室のエリアマイク、機長、副操縦士、航空機関士。それぞれが独立して記録されている。だから三十分のテープであっても、情報としては四本分ある。
流出した音声はどう聴いてもその情報量を持っていない。時刻の読み上げが後から挿入されていることも分かっている。つまり、世に出回っているものは、複数の音源をつなぎ合わせて再編集された何かだ。オリジナルではない。
この点については、陰謀論に近い立場の人も、それを批判する立場の人も、たぶん一致している。
問題は、そこから先の解釈が真っ二つに割れることだ。編集されているのだから消された内容がある、と読むか。編集されているのだから、この音源から何かを読み取ろうとすること自体が無意味だ、と読むか。前者に立つと、空白のひとつひとつが物語の器になる。
ここで機長は何を言ったのか。ここで客室から何が報告されたのか。器は空だから、何を入れてもいい。四十年、そこにいろんなものが入れられてきた。
いちばん新しくて、いちばん露骨だったのが二〇二五年夏の一件だ。四十年の節目に合わせて、元客室乗務員を名乗る話者が登場する三十八分の動画が公開された。
現在出回っているものは継ぎはぎだらけのまがい物だ、と主張したうえで、機長が「二機の戦闘機が追い抜いていったぞ」「被弾したぞ」と言っている、と字幕で示す構成だった。
四十八万回以上再生され、SNSの投稿は二千五百件以上リポストされ、六百万回以上表示された。
ファクトチェック団体が検証した結果は、根拠不明だ。事故調査報告書の該当ページに、そうした発言の記録はない。拡散された動画の中でも、実際にそのような音声は聞き取れない。
不明瞭な音声部分に、根拠を示さないまま赤字のテロップが乗せられているだけだった。しかも、その動画のチャンネル自体が、生成AIで作った人物像に語らせるタイプのものだった。
聞き取りの問題は、実はもっと根が深い。あの録音は、悪条件で録られたものだ。警報が鳴り続け、風切り音が入り、三人が同時に喋る。事故調査委員会の書き起こしでさえ、判別不能とされている箇所がいくつもある。
有名な「なんか爆発したぞ」という一言も、報告書上は別の表記になっていて、研究者によっては全然違う言葉に聞こえると言う人もいる。人間の耳は、こういう不明瞭な音に対して、あらかじめ持っている文字列を当てはめてしまう。
先に字幕を見せられれば、そう聞こえる。これは心理学の実験で何度も確認されている現象で、心霊音声の大半はこの仕組みで説明がつく。
遺族の側から見ると、この四十年はまた違う景色になる。生の音声データとフライトデータの開示を求めて訴訟を起こした遺族がいて、裁判所はその請求を退けた。判決文は短く、過去に成立した和解の内容が理由に挙げられた。
つまり、公式には出てこないのに、非公式には誰でも聴ける。この歪んだ状態が二十五年以上続いている。隠されている、という感覚が消えないのは、当然と言えば当然だ。そして「隠されている」という感覚こそが、怪談と陰謀論の共通の燃料になる。
「自衛隊員が射殺された」という噂は、いつ生まれたか
噂の系譜を追う作業として、いちばん教科書的に美しいのがこの一件だ。
いま、SNSにはこういう画像が定期的に流れてくる。NHKのニュース速報のテロップ画面で、待機命令を無視して救助に行こうとした自衛隊員が射殺された、という趣旨の文字が出ているキャプチャだ。
撃墜説と証拠隠滅説を信じる人にとって、これほど分かりやすい「証拠」はない。
ところが、この動画は捏造だ。NHK自身が偽動画だと断言している。では、いつ誰が作ったのか。丹念に追跡した検証ブログがある。それによると、動画がアップされたのは二〇一七年八月二十七日。
作ったのは、ニュースのパロディ動画やネットミーム系の動画を多く作っていた人物で、要するにネタとして作られたものだった。当時の掲示板でも、コラだという指摘が最初から出ている。
面白いのは、動画より先に「話」のほうがあったことだ。NHKがそういう報道をした、という情報自体は、二〇〇七年ごろにはもう掲示板に書き込まれていた。
その元ネタは、出典を一切示さない個人ブログの「メモ」記事で、そのメモは別の掲示板の書き込みを転載したものらしい。しかもその掲示板、一九九九年から二〇〇五年八月までの過去ログには、自衛隊員が射殺されたという書き込みが一件もない。
つまりこの説は、二千年代の半ばまでほぼ存在しなかった。二〇〇七年時点でも、掲示板で出典を聞かれるくらい珍しい説だった。
それが二〇一〇年ごろにいくつかのブログへ広がり、二〇一一年には雑誌にまで載り、二〇一七年に動画という「物証」が生まれ、二〇二〇年代に陰謀論のインフルエンサーの手に渡った。
出所のない一行が、二十年かけて「みんなが見たことのある映像」になった。この過程には、伝言ゲームの誤差ではなく、明確な階段がある。誰かが書く。誰かが出典なしで転載する。誰かがそれを事実として書籍に書く。誰かがネタとして映像にする。
誰かがネタだと知らずに証拠として貼る。五段のうちどこか一段が抜けても、この噂はここまで来ていない。
ちなみに、この説の広がり方には尾ひれもついている。元は「待機命令を無視した隊員一名を射殺」だったのが、途中から「自衛隊員数名が何者かに銃撃され死傷者多数」に膨らんでいる。
それを取り上げたある書籍では、テレビや新幹線内のニューステロップで流れた、と書かれている。ただ、一九八五年の新幹線車内にニューステロップを流す設備はなかった、という指摘が出ている。記憶というのは、そういうふうに壊れる。悪意がなくても壊れる。
現場では、もっと重いことが起きている。御巣鷹の尾根への登山道に、自衛隊が意図的に乗客を殺害したという趣旨を刻んだ碑が建ってしまった。二〇二五年四月の参議院外交防衛委員会で、この碑の存在が指摘されている。登る人はみんな見ている、と。
ネットの中の話が、遺族が毎年登る道の上に、物として現れた。
この記事の立場は明確にしておく。撃墜説も、誤射説も、証拠隠滅説も、公式の調査結果ではない。実在の個人や組織を犯人だと断じる材料は存在しない。同時に、なぜこの説がこれほど支持を集めるのかも書いておかないとフェアじゃない。
初動の遅れは事実として存在した。半日、四人以外の誰にも救助が届かなかったのも事実だ。事故調査は責任追及ではなく再発防止のための仕組みなので、なぜ修理ミスが起きたのかという部分に踏み込みきれなかった。埋まらない穴がある。
人は、埋まらない穴に犯人を置く。怪談も陰謀論も、その穴の周りに生えてくる。生え方が違うだけだ。
坂本九と、九という数字の後づけ
この事故で亡くなった中に、坂本九さんがいた。本名は大島九。四十三歳だった。この一点から、日本の都市伝説史でも屈指の分かりやすい数字譚が生まれている。
流通しているのはこんな内容だ。遺体が確認されたのは事故から九十九時間後だった。遺体に付けられた番号は三百三十三番で、足すと九になる。最後に出演した番組は、その日が九十九回目の放送だった。名前が九で、九という数字にまとわりつかれた人生だった。
だから、あの事故も人知を超えた因果によるものかもしれない。
まず、確認できる部分を切り分ける。事故から四日目に、坂本さんのショルダーバッグとペンダントが見つかったという一報が入り、妻の柏木由紀子さんによって身元が確認された。
それが事故発生から九十九時間後だった、という記述は、当時の現場記者が書いた記事に出てくる。ここは一定の裏づけがある。
棺が自宅前に到着したのは八月十七日の午前四時五十分で、五人の親族とともに棺を支えて石段を上がっていく姿を、その記者は見ている。
一方、遺体番号が三百三十三番だったという話と、最後の番組が九十九回目だったという話は、都市伝説サイト以外で確認が取れなかった。遺体には番号を付けて登録していたのは事実だが、特定の個人の番号が公表される性質のものではない。
三たす三たす三は九、という計算が出てくる時点で、これは後づけの意匠だと考えたほうがいい。
そして、そもそも九という数字の周りに何かを集めようと思えば、いくらでも集まる。この事故は八月十二日で、便名は百二十三便で、機体記号はJA八一一九だ。八一一九から一九を取り出せば九になる。
百二十三の一足す二足す三は六だから九にはならないが、三桁を並べれば一二三で数字が続いていて特別だ、と言うことはできる。墜落時刻の十八時五十六分から、五足す六で十一、一足す一で二、と続けていけば何かにたどり着く。
要するに、数字の並びは無限に組み合わせられるから、探せば必ず見つかる。見つかったものだけが語られ、見つからなかった無数の組み合わせは誰も数えない。これを選択的報告と呼ぶ。数字の一致に意味を感じるとき、人はたいてい分母を数えていない。
ただ、この数字譚が生まれた理由のほうは、笑い事じゃない。坂本九さんがあの便に乗ったのは偶然が重なった結果だった。普段は別の航空会社を使うことが多かったが、お盆でどの便も満席で、招待した側がやっと取れたのが日本航空の百二十三便だった。
それを聞いた知人が変更を勧めたが、せっかく用意していただいたのだから、と答えたという。事務所も家族もこの事情を知らず、事故の報を聞いていったんは安堵している。
乗客名簿に本名が出てきて、大阪のホテルに姿を見せず、同行のマネージャーとも連絡が取れないことから、搭乗が確定した。
こんなにも細い偶然の連なりで人が死ぬことに、人間の頭は耐えられない。だから数字を並べて、そこに必然の形をした模様を見つけようとする。九という数字は、その模様を描くための鉛筆だ。運命だったことにすれば、偶然の残酷さから少しだけ目を逸らせる。
この種の数字譚は、たいていそういう働きをしている。
乗らなかった人たちの物語と、怪談師という結節点
坂本九さんの話と表裏一体で流通しているのが、「乗るはずだった人」の物語だ。この便には、乗る予定だったのに乗らなかった有名人が何人もいたと言われている。
代表格が明石家さんまさんだ。当日、東京で番組収録があり、その後に大阪のラジオに出るため百二十三便に乗る予定だった。収録が早く終わったので、一本早い別の便に振り替えた。その日のラジオでは、言葉を失いながら事故のニュースを伝えたという。
この経験が、生きてるだけで丸儲け、という有名な言葉と娘の名前につながった、という筋で語られる。
ほかにもいろいろある。芸能事務所の社長が、俳優からの要請で予定を前倒しして先に大阪へ向かったので助かった。同行するはずだった三人組は、そのせいで東京に残った。
落語番組の出演者たちは翌日の阿波踊りのために別の便を待っていて、遅延した便から百二十三便への変更案が出たが、決まった便でゆったり行こうよ、というひと言で変更しなかった。
あるアナウンサーは家族での帰省で予約を試みたが満席で、長男が新幹線のほうが安いと言い出したので新幹線にした。宝塚出身の女優は仕事が早く終わって一本前の便に乗り、大阪に着いてから事故を知った。
同じ宝塚出身の別の女優は、その便に乗っていて亡くなっている。
こういう一覧は、ネット上で年々長くなっている。中には検証が難しいもの、明らかに後から足されたと思われるものも混ざっている。実際、この種のまとめ記事には基本的な事実の誤りも多くて、墜落地点を鹿児島県と書いているものすらあった。
だから一覧全体を事実として受け取るのは危ない。ただ、この物語群が持つ機能ははっきりしている。虫の知らせ、という言葉が必ず出てくることだ。
そして、この一覧の中に、日本でいちばん有名な怪談語りの人がいる。稲川淳二さんだ。彼も大阪行きの予定があり、百二十三便に乗るはずだった。ところが搭乗直前、番組の収録中に具合が悪くなり、立っていられないほどになった。
それで翌朝の新幹線に変更して難を逃れた、と語られている。しかも、同じ番組の手伝いをしていた別の人が、収録後に羽田へ向かい、到着が早かったので予定していなかった百二十三便に乗って、亡くなっている。
この符合の意味を、ちょっと考えてみたい。日本の夏の怪談を四十年近く牽引してきた語り手が、この事故の「乗らなかった側」にいる。
彼が舞台で何を語り何を語らないかは彼の判断だが、少なくとも構造として、この事故は日本の怪談文化のいちばん太い動脈のすぐ隣を通っている。日本人にとってこの事故が特別なのは、犠牲者の数が多いからだけじゃない。
あの夏、日本中の誰かの知り合いの知り合いが、乗るはずだった。そういう距離にある事故なのだ。距離が近いから、話が湧く。
テレビはこの事故を、扱いたくても扱えなかった
一九八〇年代半ばから九〇年代にかけて、日本のテレビには夏になると心霊特番が並んだ。視聴者から寄せられた心霊写真を霊能者が鑑定し、再現ドラマが流れ、司会者が青ざめる。あの形式は、七〇年代のオカルトブームで作られた型をそのまま引き継いでいる。
型を作ったのは、超常現象研究家の中岡俊哉さんだ。一九七四年に出した『恐怖の心霊写真集』が大ベストセラーになり、そこから心霊写真ブームが始まった。
ここで押さえておきたいのは、この本が既存の心霊写真をブーム化したのではなく、心霊写真というジャンルそのものを発明した、という指摘があることだ。
写真に不可解なものが写る話は明治期からあったけれど、それを一つのジャンルとしてパッケージし、誰でも偶然に撮ってしまう可能性があるもの、投稿してみんなで楽しめるもの、として作り直したのが中岡さんだった。
彼は生涯で二百冊近い著作を手がけ、三千本のテレビ番組にかかわっている。
面白いのは、彼が途中で立場を変えていることだ。シリーズ第三作までは、心霊写真を持っていると不幸が起きるという考えは古い迷信だ、現代人ならそんなものは打ち破らなければいけない、とはっきり書いていた。
ところが第四作では一転して霊障を認め、掲載写真の供養を始める。理由は、執筆中に自分の体調が悪くなることが度々あったからだという。ここから、写真そのものがヤバい、という発想が定着していく。
どこかにいる幽霊をカメラが客観的に記録した、という話ではなくて、その写真を持っていること自体が危険だ、という枠組みだ。心霊写真は、この時点で情報から呪物に変わった。
さて、じゃあこの型で、日航機の事故は扱えたか。
結論から言うと、扱いにくかった。理由は単純で、被害が大きすぎ、遺族が多すぎ、そして事故が新しすぎたからだ。心霊特番が扱う定番のスポットは、たいてい廃墟か、いつの話とも知れない古い伝承か、誰も文句を言わない場所だった。
御巣鷹の尾根はどれにも当てはまらない。あそこを心霊スポットとして電波に乗せたら、翌日には局に電話が殺到する。実際、テレビで心霊スポットを紹介すると、例外なく肝試しの若者が押し寄せて地元から苦情が来る、という構造は当時から知られていた。
だから、この事故をめぐる怪談は、テレビの外で育った。書籍、雑誌、口伝え、そして掲示板だ。心霊特番が全盛だった時期に、この山の話がテレビでほとんど扱われなかったことが、逆にネット時代に爆発する下地になった。
地上波が触らなかったぶん、検証も入らなかったからだ。
そして九〇年代後半から二〇〇〇年代にかけて、心霊番組そのものが姿を消していく。理由はいくつか重なっている。デジタル技術の発達で誰でも心霊写真を作れるようになり、同時に誰でも解析できるようになった。
放送すればその日のうちにネットで、これは合成だ、と指摘される。BPOへの苦情も増えた。子どもが怖がって眠れない、という苦情と、こんな嘘を放送するのか、という苦情が同時に来る。局としては視聴率が取れても割に合わない。
二〇〇〇年代に入ると、番組内で扱った説がネットで即座に否定されるようになり、旧来の手法が通用しなくなった。
心霊番組の衰退は、怪談の消滅を意味しなかった。舞台が移っただけだ。テレビが降りた場所に、掲示板と動画サイトが入ってきた。
掲示板が育て、動画が刈り取った
この事故に関するネット上の語りには、はっきりした世代がある。
第一世代は、九〇年代末から二〇〇〇年代前半の個人サイトと掲示板だ。中でも重要なのが「御巣鷹山ゲストブック」というレンタル掲示板で、一九九九年から二〇〇五年ごろまでの過去ログが残っている。
ここは純粋な心霊掲示板ではなく、事故の「真実」を知りたい人が集まる場所という性格が強かった。当時を知る人の書き込みも、噂の書き込みも、憶測も、同じ場所に並んだ。サービス終了後には後継の掲示板が生まれ、そちらでも同じ性格が引き継がれている。
この時期の掲示板の重要さは、後から見るとよく分かる。ここに書かれた出典不明の一行が、出典を示さない個人ブログに転載され、そのブログが五ちゃんねるに転載され、転載の転載が「昔から言われていること」になっていく。
前に見た自衛隊員射殺の噂は、まさにこのルートを通っている。掲示板は噂の生産工場ではなく、噂に「昔からある」という時間の厚みを与える装置だった。
第二世代は、二〇〇〇年代の巨大掲示板だ。日航機事故のスレッドは、事故の日付や周年に合わせて何度も立て直され、番号が三十を超えるところまで続いている。おもしろいのは、このスレッドの空気が意外と厳しいことだ。
心霊ネタが投下されると、出典は、という突っ込みが入り、コラだろう、という指摘が入る。実際、例の捏造テロップ動画も、投稿された直後のスレッドではコラだという指摘が出ていた。掲示板は噂を育てもするが、同時にいちばん早い検証装置でもあった。
第三世代が、まとめサイトの時代だ。掲示板の議論からおいしいところだけを抜き出して、検証部分を落とす。心霊スポット紹介サイトが量産され、御巣鷹の尾根の項目が作られ、住所と最寄り駅とアクセス方法が書かれる。ここで質的な変化が起きている。
掲示板では「そういう話がある」という語られ方だったものが、まとめサイトでは「ここではこういう現象が起きる」という断定形の一覧になる。文脈が落ち、検証が落ち、否定意見が落ちる。
同時に、こういうサイトのコメント欄には必ず、ここが心霊スポットなら人が死んだ場所は全部そうなる、いい加減にしろ、という書き込みが並ぶ。読者のほうが編集者より節度がある、という妙な状態がずっと続いている。
第四世代が、動画とショート動画の時代だ。ここで起きたのは、量の爆発と、検証コストの逆転だった。三十八分の動画に赤いテロップを入れるのは数時間でできる。それが誤りだと検証するには、報告書の該当ページを開き、音源を照合し、記事を書く作業がいる。
しかも検証記事は再生されない。二〇二五年、事故から四十年の夏に、この非対称がいちばん露骨な形で現れた。四十年報道が新聞やテレビで大量に流れた同じ月に、根拠不明の音声動画が数十万回再生された。
ここでもうひとつ起きたのが、切り抜きによる反転だ。二〇二五年四月の参議院の委員会で、自衛隊出身の議員が陰謀論の書籍を名指しして内容を読み上げ、自衛隊員の名誉に関わる問題だと対策を求めた。
防衛相は、この事故に自衛隊が関与した事実は断じてない、と明言している。ところが、この委員会での読み上げ部分だけを切り出した動画が英語字幕付きでSNSに流れ、まるで元自衛隊幹部が撃墜を認めたかのように拡散された。
ファクトチェック団体が誤りと判定している。否定するために読み上げた文章が、肯定の証拠として流通する。これは、いまのネットで起きるいちばん厄介な現象のひとつだ。
なぜ、この事故だけが怪異を生み続けるのか
理由はひとつじゃない。少なくとも六つある。
ひとつめは、三十二分という時間だ。ほとんどの航空事故は、異常発生から地面までが数分で終わる。三十二分あったせいで、この事故は当事者の一人称を大量に残した。ボイスレコーダーの三十二分十六秒。手帳に書かれた家族への言葉。
時刻を追って書かれた記録。乗客が撮った機内の写真。乗務員が書きつけた脱出手順のメモ。読めるものがこれだけあると、他人事にならない。他人事にならない出来事の周りには、必ず語りが生える。
ふたつめは、谷で実際に声がしていたことだ。生存者が語り、遺族が石に刻んだ。半日、届かなかった声が確実に存在した。この事実がある限り、あの山で声を聞いた、という話は消えない。
消えないどころか、聞くべき人が聞くべくして聞いている、という側面すらある。
みっつめは、名前を取り戻す作業の壮絶さだ。二千六十五体から五百二十人を復元した百二十七日は、日本の災害時身元確認の原点になった。あそこで歯を数えた人たちが、その後の震災や事故の現場に立っている。
技術として継承されるとき、記憶も一緒に運ばれる。運ばれる記憶の中には、説明のつかない体験も混ざっている。
よっつめは、語り手が長く沈黙したことだ。自衛隊員も、警察官も、医師も、四十年近くほとんど語らなかった。急性ストレス障害という言葉すらない時代に体験して、それを恥ずかしいと思って黙った人がいる。
当事者が黙っている空白は、当事者でない人の言葉で埋まる。埋めたものが噂だ。四十年目にようやく口を開いた人たちの言葉は、正確で、静かで、そして怪談よりずっと怖い。もっと早く聞けていたら、噂の景色は変わっていたかもしれない。
いつつめは、埋まらない穴だ。なぜ修理ミスが起きたのか。なぜ半日かかったのか。事故調査は責任追及の仕組みではないから、そこに踏み込みきれない構造がある。事故調査官の一人は、四十年経ってももどかしさが残る、と語っている。
遺族にとっては、なぜ、が残る。この隙間に、怪談も陰謀論も一緒に住み着いた。
むっつめは、記憶を制度にしたことだ。毎年八月十一日に灯籠が流れ、翌朝に人が登り、夕方に五百二十本のろうそくが灯る。日付が固定され、儀式が繰り返される。
これは風化を防ぐための仕組みなのだけれど、同時に、毎年その時期に大量の記事と動画が生産される仕組みでもある。八月になると必ずこの事故の話が流れてくる。流れてくるものの中には、当然のように怪談も陰謀論も混ざる。
忘れないための装置が、噂の再生装置でもあるという皮肉が、ここにはある。
風車が回っている山
最後に、いま現場がどうなっているかを書いておく。
御巣鷹の尾根には管理人がいる。黒沢完一さん。二〇二六年に八十三歳になった。毎年五月ごろ、登山道に風車を飾り付けるのが彼の仕事のひとつだ。ピンクやオレンジの、子どもが持つような風車だ。
もともとは遺族が昇魂之碑の前で始めたもので、二〇一五年ごろから墓標が多く並ぶスゲノ沢のあたりに場所を移した。二〇二〇年は台風被害の影響で約二百本。二〇二五年は寄付が増えて過去最多の六百三十一本。二〇二六年は五百八十二本。
飾り付けを終えるころに晴れ間がのぞいて、そよ風が静かに風車を回していた、と伝えた記事があった。
登山道は、遺族と、上野村と、日本航空の三者が一緒に整備している。全国的にも珍しい形だ。遺族有志のボランティアグループがあって、山開き直後と、夏前と、八月十一日と十二日と、閉山前の年四回、登山道の整備と墓標の清掃をしている。
次男を九歳で亡くした遺族会の事務局長は、年に六回ほど登る。五月五日のこどもの日の前には、息子の墓標にこいのぼりを立てる。
彼女はこの四十年の変化を、こう言い表している。悲しみの山から、優しい山へ。多くの人が集い、安全を願う場所になった。実際、あの尾根には他の事故の遺族が集まるようになっている。東日本大震災で息子を亡くした人。エレベーターの事故で子を亡くした人。
御嶽山の噴火の遺族。年に一度、一緒に登って、それぞれの活動状況を伝え合う。一年に一度の大切なひととき、と言った人がいる。
そして四十一年目の二〇二六年八月十二日。慰霊登山をしたのは四十九家族百六十二人だった。前年は八十二家族二百八十三人だから、大きく減っている。高齢で登れなくなった人が多い。
夕方の追悼慰霊式には百六十五人が参列し、五百二十本のろうそくに火を灯して、十八時五十六分に黙祷した。
この山を心霊スポットとして語ることの何が問題なのか、たぶんこの数字が答えになっている。四十九家族。この人たちは、幽霊に会いに登っているわけじゃない。会えないと分かっているから登っている。会えるものなら会いたいと思っている人も、たぶんいる。
その気持ちと、消費されたくないという怒りは同じ根から出ていて、矛盾しない。娯楽として語られた瞬間に前者が汚れるから、後者が強く出る。
だから、この事故の怪異を語るなら、語り手は自分がどちら側に立っているのかをはっきりさせたほうがいい。私はこう思っている。あの山で聞こえるという声は、たぶん本当に聞こえている。ただしそれは、自分がすでに知っている話の残響だ。
誰かが半日ぶん叫んで、届かなかった。その事実を知ったうえで山に入れば、風の音がそう聞こえる。それは霊感ではなくて、記憶の働きだ。そして記憶の働きを怪異と呼ぶなら、この山には確かに怪異がある。四十年、一度も途切れずに。
ここから先は、本編で骨だけ置いた論点を、もう少し粘って掘り下げる。
怪談の材料表を作ってみる
この事故をめぐる怪談を全部並べて、材料ごとに分解すると、意外なほど少ない部品でできていることが分かる。使われている材料は、声、匂い、足音、光、鈴、音楽、金属片、そして「大阪」だ。八つしかない。
このうち、声と匂いと金属片は、一次資料に直接の裏づけがある。谷で声がしていたことは生存者証言と遺族の碑文にあり、焦げた匂いは現場に入ったほぼ全員が書き残していて、金属片は実際に散乱していた。
つまり、この三つは怪談というより、記憶の直接的な再演だ。
鈴と音楽は、現場の設備と行事に由来する。熊よけの鐘と鎮魂の鈴が実在し、灯籠流しで歌われる曲がある。これも半分は現実だ。
足音と光は、山という環境が勝手に供給する。夜の山道で背後に音を感じるのは正常な知覚で、湿った森でフラッシュを焚けば光の玉は写る。この二つは、どんな場所でも同じ話が出る汎用部品だ。
残ったのが「大阪」だ。これがこの事故に固有の、いちばん強い部品になっている。大阪はどっちですか、と尋ねる声。大阪に行くにはどうすればいいですか、と泣く女の子。御巣鷹の尾根へ行ってくれ、と告げて消えるスーツの男。
全部、目的地に着けなかった、という一点を表現している。行先が決まっていた人が、行先に着かなかった。この事故の本質を、怪談は「大阪」という二文字で表現することに成功している。
怪談がなぜ生まれるのかという問いに、これはひとつの答えを出している。うまく言えないことを、言えるようにするためだ。四百人を超える人が一瞬で行先を失ったという事態は、言葉にすると重すぎて誰も持てない。
それを、深夜のトンネルで女の子が道を尋ねる、という一場面に縮約すれば、誰でも持ち運べる。怪談は圧縮形式なのだ。圧縮率が高いほど広まる。そして圧縮された話は、必ずどこかで元のデータを失う。
記憶が壊れる三つの型
この事故の噂を調べていると、記憶の壊れ方に型があることに気づく。
第一の型は、混線だ。他の事故や事件の要素が紛れ込む。上野村の御巣鷹の尾根と、長野県南相木村にある御巣鷹山トンネルが混同されて、両方に心霊スポットの記述がついている例がある。そもそも「御巣鷹山」という山名自体が、事故現場の正確な名前ではない。
落ちたのは高天原山の名前のない尾根で、報道が早い段階で御巣鷹山と伝えてしまった。混乱を引き取る形で、当時の村長が公文書用に「御巣鷹の尾根」と命名した。地名の混乱が最初からある場所なので、噂も混線しやすい。
岩手の「慰霊の森」など、他の航空事故の慰霊地の話が混ざり込むこともある。
第二の型は、後年の追加だ。音楽プレーヤーの噂がその典型で、話の中に登場する道具が、明らかに事故当時に存在しない。時代の道具が入っている怪談は、その道具が普及した後に作られたと考えていい。
同じ理屈で、スマホで撮った動画に、という前置きがつく話は二〇一〇年代以降の産物だ。噂の年代測定は、実は道具でかなり正確にできる。
第三の型は、権威づけの上書きだ。出典のない書き込みが、出典を書かないブログに転載され、そのブログを参照した書籍が出て、書籍が引用されることで「文献に載っている」という体裁を獲得する。自衛隊員射殺の噂はこのルートを完全に通過している。
恐ろしいのは、この過程のどこにも意図的な捏造がなくてもいい、ということだ。転載する人は事実だと信じている。書籍にする人も信じている。それでも結果として、存在しなかった出来事が文献に載る。
この三つの型は、御巣鷹に限った話ではない。ただ、この事故はサンプルとして異常に良質だ。事故発生から四十年ぶんの記録が残っていて、掲示板の過去ログもアーカイブに残っていて、検証しようと思えばできる。
噂がどう作られるかを研究したい人にとって、これは教科書みたいな事例になっている。
怪談と陰謀論は、どこで手をつないだのか
本編で少し触れたけれど、この事故では怪談と陰謀論が異様に接近している。普通、この二つは別ジャンルだ。心霊スポットの噂と、政治的な陰謀論が同じ場所で語られることはあまりない。
接続点は三つある。
ひとつめが「隠されている」という感覚だ。ボイスレコーダーが正規には公開されないのに非公式には聴ける、という歪んだ状態が二十五年以上続いている。この状態は、隠蔽されているという直感を毎日再生産する。
そして「隠されている何か」は、怪談にも陰謀論にも同じように使える。隠された音声には霊の声が入っている、と言ってもいいし、被弾したという声が入っている、と言ってもいい。器が同じなのだ。
ふたつめが「現場で不思議なことが起きた」という語りの両義性だ。救助にあたった人が説明のつかない体験をした、という話は、心霊譚としても読めるし、何か隠された事実があった証拠としても読める。
極限状態の人間が経験する知覚の異常は、解釈の余地が大きすぎる。だから同じ体験談が、心霊まとめサイトと陰謀論サイトの両方に、別々の見出しで載る。
みっつめが、流通経路の共有だ。二千年代の掲示板は、心霊の話と真相追及の話を同じスレッドで扱っていた。まとめサイトも動画チャンネルも、いまや両方を同じ棚に並べている。
四十年目の夏に拡散した音声動画は、心霊系の見せ方と陰謀論の主張を完全に混ぜたパッケージだった。生成AIで作った語り手が、封印された言葉を解き放つ、という宗教的な言い回しで、被弾したという主張を語る。ジャンルの区別はもう機能していない。
ここに、この記事がいちばん書きたかったことがある。怪談として語られるぶんには、被害は限定的だ。誰も名指しされない。けれど、同じ材料が陰謀論の側に流れると、実在の組織と個人が犯人にされる。
四十年前に山を這い回った人たち、耳を踏んで謝った人、毎晩窓の外に遺体が並んだ人、その人たちが殺人犯として名指しされる。そして御巣鷹の尾根の登山道には、その趣旨を刻んだ碑が実際に建っている。遺族が毎年登る道の上に。
怪談は、たいていの場合は無害だ。でも、無害でいるためには、語り手が自分の立っている場所を分かっている必要がある。ここから先は事実、ここから先は噂、ここから先は誰かの心の中の出来事。
線を引き続けるのは面倒くさいけれど、その面倒くささを引き受けない語りが、四十年かけてあの碑になった。
一度も語られなかったものについて
最後に、この記事に書かなかったことを書いておく。
書かなかったのは、遺体の状態の詳細だ。当時の記録には、読めば読むほど言葉を失う描写が並んでいる。それを引用すれば、記事の「怖さ」は何倍にもなる。実際、そういう引用で作られたまとめ記事はネットにいくらでもある。
でも、あそこに書かれているのは、誰かの父親であり、母親であり、子どもだった人の体の話だ。四十年前にその体を洗い、歯を数え、名前を取り戻した人たちがいて、その人たちの目的は、家族のもとへ返すことだった。
返すために書かれた記録を、怖がらせるために切り出すのは、たぶんいちばんやってはいけないことだと思う。
もうひとつ書かなかったのは、生存者四人のその後の生活だ。四人には四人ぶんの四十年があった。名前も、当時の年齢も、公になっている範囲では書けるけれど、いまどこでどう暮らしているかを追いかける権利は誰にもない。
奇跡の生存者という言葉が独り歩きしたせいで、いたずら電話が鳴り、カメラが向いた時期があった。あれを繰り返さないのが、この事故を扱う書き手の最低限のマナーだと思っている。
そして遺書についても、この記事では内容にほとんど触れていない。三十二分という時間が人に書くという行動を取らせた、という事実だけで、この事故の異常さは十分に伝わる。書かれた文字は、宛先のある手紙だ。
宛先の家族が読み、公開に同意し、いま羽田の施設に展示されている。読みに行くことはできる。ただ、記事の中で「泣ける話」として消費するものではない。
四十年、この事故の周りにはたくさんの言葉が積もった。事故調査報告書。手記。ノンフィクション。小説。ドラマ。掲示板の書き込み。怪談。陰謀論。動画。そのどれもが、あの日の三十二分を説明しようとして書かれている。
説明できていないから、また書かれる。たぶんこれからも書かれ続ける。
だから、せめて順番を守りたい。まず読むべきは、山から下りてきた人の言葉だ。カタンと音がして小さな手が出てきた、と語った消防団員の言葉。窓の外に毎晩遺体が並んだ、と語った元隊員の言葉。今、どうしてる、と鈴に書いた母親の言葉。
水の流れが語りかけてくるようだった、と石に刻まれた調査官の言葉。それを読んでから山に登れば、風の音がどう聞こえたって構わない。順番さえ間違えなければ、怪談は誰も傷つけない。
