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消灯ラッパのあと、廊下に立つ白い服の女――霞ヶ浦駐屯地の怪異と、予科練の土地が抱えた死者の記憶

二二〇〇、ラッパが鳴り終わったあとの隊舎は、思っているより静かじゃない

消灯ラッパって、聞いたことある人はわかると思うけど、あれは終わりの合図というより、境目の合図だ。音がやんだ瞬間に隊舎の照明が落ちて、廊下の非常灯だけが残る。緑がかった薄い明かりが、リノリウムの床にべたっと伸びる。

それまでガヤガヤしていた空間が、いっせいに息を潜める。で、そこからが本番なんだよね。

しんとする、と言いたいところだけど、実際は違う。古い隊舎ってやつは、人が黙ったあとから喋りはじめる。配管が鳴る。金属の扉が温度差でわずかに軋む。誰かの寝返り。空調のダクトの向こうから、遠くの何かの音が伝わってくる。

そして不寝番に立った隊員は、その全部を一人で聞くことになる。

茨城県土浦市右籾。陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地。関東補給処と航空学校霞ヶ浦校を抱える、約110ヘクタールの敷地を三つの地区に分けて持つ大きな駐屯地だ。ここには昔から、白い服の女が出るという話がある。夜の廊下を歩いている。階段の踊り場に立っている。

すすり泣きが聞こえる。誰もいないはずの棟から足音がする。当直室の電話が鳴る。

この記事は、その話をきちんと最後まで書く。それから、なぜこの土地でこの話が生まれ、なぜ七十年以上も語り継がれてきたのかを、可能なかぎり具体的に掘る。先に言っておくと、この駐屯地の下に眠っている歴史はちょっと尋常じゃない。

怪談を語るための背景としてではなく、記録としてそれを書きたい。

なお、駐屯地は部外者が立ち入れない区域だ。記念行事や広報センターの見学といった正規の機会以外に近づく方法はないし、探しに行くような場所でもない。ここに書くことは全部、外から読むための話だと思ってほしい。

白い服の女――誰もが少しずつ違う形で語る、いちばん有名なやつ

いちばん流通している形は、こうだ。

不寝番に立った隊員が、深夜二時前後、生活隊舎の廊下を巡回している。手には懐中電灯。やることは決まっていて、火の元の確認、煙缶が所定の位置にあるか、非常口が塞がれていないか、居室の扉が半端に開いていないか。ルーチンだ。眠い。頭は半分寝ている。

曲がり角に来る。廊下の突き当たりに、白い服の女が立っている。

顔は見えない。というより、目撃者の誰も顔を覚えていない。ここが妙に一貫している点だ。服の色と、髪の長さと、立ち姿は語られるのに、顔だけが抜けている。白い、丈の長い服。

着物とも寝間着ともワンピースとも言われるが、いずれにせよ隊内で見るはずのない服装であること、それだけは共通している。女はこちらを見ていない。廊下の先を向いたまま、動かない。

隊員は固まる。声を出すべきか、規則どおり報告すべきか、そもそも何を報告するのか。一瞬まばたきする。いない。廊下の先には非常灯の緑と、閉まったままの扉が並んでいるだけ。走って先まで行って確認する。誰もいない。突き当たりの窓は施錠されている。

戻ってくると、さっきまで自分がいた場所のあたりに、まだ何かの気配が残っている気がする。

翌朝、当直陸曹に報告するかどうかで悩む。たいていは報告しない。かわりに、同じ班の先輩にぽろっと言う。すると先輩は、あーそれね、という顔をする。笑う。「出るよ、あそこ」。それで終わり。

この「先輩がぜんぜん驚かない」というオチが、この話のいちばん怖いところだと思う。組織の中で、その女はすでに既知の存在なんだよ。

派生としてよく語られるのが、女が動く型だ。突き当たりに立っているのではなく、廊下をこちらに向かってゆっくり歩いてくる。足音がしない。というより、足音がするバージョンとしないバージョンの両方がある。足音がするほうが怖い、という人が多い。

裸足でリノリウムを踏む、あの湿った音がする、と語る人がいる。すれ違う瞬間に体温が下がる。振り返ると、もういない。

泣いている、というバージョンが別系統でずっとある

白い女の話とは少しずれた位置に、すすり泣きの話がある。これは姿を見た話ではなくて、音だけの話だ。

消灯後、居室のベッドで横になっていると、廊下の方向から、女がすすり泣く声が聞こえる。押し殺した泣き方。しゃくりあげるあの、ひっ、ひっ、という呼吸音まで聞こえるという人もいる。

距離感が変で、廊下の遠くから聞こえているようでもあり、居室の扉のすぐ外にいるようでもある。起き上がって扉を開けると、やむ。閉めると、また始まる。

これがやっかいなのは、同じ居室の複数の人間が同時に聞くパターンが語られることだ。夜が明けてから、あれ聞こえたよな、と確認しあう。全員が聞いている。でも誰も扉を開けなかった。

開ける係を押しつけあっているうちに朝になった、というのがだいたいの落としどころで、この、みんなでビビって誰も動かなかった、という情けなさが逆にリアリティを支えている。

もうひとつの派生が、泣き声じゃなくて歌だという話。女の声が音階を上がったり下がったりしているのが聞こえる。歌詞はない。ドレミファソラシド、という言い方をする人もいる。

誰かの携帯の着信音が置きっぱなしになっているんだろうと思って音のほうへ向かうと、屋上に上がる階段の踊り場のあたりで、その音が急に変質する。女の声だったものが、男女が入り混じった複数の声になる。ここで引き返した、という語りが多い。

扉を開けたという語りは、ほとんどない。

使われなくなった棟の話は、この駐屯地だと事情が重い

どこの駐屯地にも「あの棟には行くな」という話はある。ただ霞ヶ浦の場合、その手の話に妙な実在感があるのは、実際にここが何度も建て替えられている場所だからだ。

戦後、この土地に自衛隊が入ったとき、部隊は旧海軍の建物をそのまま使った。第一海軍航空廠の庁舎は、そっくりそのまま駐屯地の本部庁舎になり、平成5年3月まで現役だった。

つまり四十年近く、隊員たちは旧海軍の建物の中で日々の業務をこなしていたわけだ。平成2年に施設再配置工事が始まり、平成10年に今の形になるまでの間に、旧海軍の施設は大部分が取り壊されている。

だから、いま四十代以上の元隊員が語る「あの古い建物」と、二十代の隊員が語る「あの古い建物」は、物理的には別物である可能性が高い。にもかかわらず、話のほうは引き継がれる。

「あそこ、前の建物のときからずっと出るらしいですよ」という言い方で、建物が消えても伝承だけが残る。これ、怪談の伝わり方としてはかなり典型的で、場所に憑いた話は建物より長生きする。

使われなくなった棟のバージョンで語られるディテールはこうだ。改修待ちで人が入っていない棟。窓は閉じられ、電気も落ちている。夜、警衛の動哨で外周を回っていると、その棟の二階か三階の窓に、明かりが灯っているように見える。懐中電灯を向ける。

反射だろうと思う。もう一度見ると消えている。翌日、当直に報告すると、そこは配電を落としてあるから明かりはつかない、と言われる。

さらに踏み込んだ型では、その棟の中から足音がする。一定のリズムで、廊下を端から端まで往復している。それが延々と続く。人数は一人。

動哨のペアが二人とも聞いた、というところまでが定番で、鍵を開けて中を確認したという語りは、やっぱりほとんど出てこない。確認しないから話が残る、というのは怪談の構造上とても正しい。

当直室の内線が鳴る話は、たぶんいちばん生々しい

これは霞ヶ浦に限らず、あちこちの駐屯地で語られる型なんだけど、細部がやたら具体的で、聞くとゾッとするやつだ。

隊舎当直に就いた隊員が、当直司令に異常なしを内線で報告して、当直室のベッドで横になる。数時間後、内線が鳴る。取る。ツーツー、という音しかしない。発信元の表示がない古い内線だから、折り返しようがない。

まあいいか、と受話器を置いて、また横になる。しばらくして、今度は廊下に据えつけてある内線が鳴りだす。起きて出て、取る。またツーツーだけ。

翌朝、当直司令に異常の有無を報告するついでに、夜中に内線をかけましたかと聞く。かけていない、と言われる。当直室の鍵を返しに部隊に戻って、同じ話をすると、上司がこともなげに言う。あの部屋な、昔そういうことがあった部屋なんだよ、と。

先輩から申し送られてなかったのか、と笑われて終わる。その隊員はそれ以来、当直に就くときに必ず手を合わせるようになった。

この話の何が上手いって、怪異そのものよりも「申し送りされていなかった」という部分が怖いところだ。組織には申し送り簿がある。当直の引き継ぎは文書で残る。

そこに書かれるべきなのに書かれていない、あるいは書かれているのに理由の部分だけが失われている。

実際、ある駐屯地の当直申し送り簿には「隊舎西側扉を施錠する際に決して振り返ってはならない」とだけ書かれていて、なぜ振り返ってはいけないのかの説を誰も正確には知らない、という話が広く流通している。理由が消えても禁止だけが残る。

これは民俗の伝わり方そのものだ。

格納庫と飛行場地区――ここには本物の祟りの記録がある

霞ヶ浦駐屯地の飛行場地区には、旧海軍時代の格納庫が今も残っている。並んでいる六棟のうち五棟は、昭和22年に米軍が撮影した航空写真の時点から外観が変わっていない。一棟だけ屋根まわりが改修されていて形が違う。

管制塔の隣に立つ格納庫は戦後に建てられたものだが、その先に並ぶものは戦前生まれだ。

格納庫の怪談は、音の話が多い。夜、無人のはずの格納庫の中で工具が落ちる音がする。金属が金属を打つ、あの高い音。飛行場地区の外周を回っている警衛が、滑走路の向こうにエンジン音のようなものを聞く、という話もある。

プロペラの音だった、と言い切る語りもあるが、これは戦跡の怪談としてはかなりベタな型なので、話半分に聞いたほうがいい。

ただし。飛行場地区には、怪談として語り継がれてきたのではなく、公式に記録として書き残されている祟りの話がある。庚申塚だ。

この場所には数百年前から庚申塚があった。青面金剛を祀る、農事の虫送りと結びついた民間信仰の塚だ。ところが霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を建設するにあたって、この塚を取り払って工事を始めた。

すると工事で怪我人が頻発し、その後、飛行訓練中の航空事故が続発した。土地の人と工事関係者のあいだで、庚申さまの祟りではないかという声が上がる。精強を誇った海軍も、これを放置できなくなった。

地元の篤信者と相談のうえ、昭和10年12月、塚を現在地に移して再築し、小さい碑を建てて無事故を祈願した。その後、大事故はほとんどなくなったという。

さらに、格納庫の建設が完了した昭和14年12月には、落成を感謝して大きいほうの碑が建てられ、航空安全が祈願された。時期は不明ながら「庚申塚に手をかけると災難に見舞われる」という言い伝えも残っている。

塚は年月で崩れかかり、碑も傾いたため、平成6年11月に航空学校霞ヶ浦分校と業務隊が整備して再び鎮座させた。

これ、すごい話だと思わないか。近代兵器を扱う軍隊が、飛行機の事故が続いたときに、原因究明の結論として石の塚を建て直しているんだ。そしてその判断を、戦後の自衛隊がそのまま引き継いで、平成に入ってからも隊員の手で整備している。

祟りを信じる信じないの話ではなく、この土地では「触れてはいけないものがある」という了解が、組織をまたいで九十年以上受け継がれているという事実がある。白い服の女の話が生き残る土壌としては、これ以上ないくらい肥えている。

演習場と体育館の話は、少し毛色が違う

隊舎系の怪異が「見る・聞く」なのに対して、屋外系や体育館系の話は「触られる・押される」に寄る。

体育館の話は、消灯後に無人の体育館でボールをつく音がする、という型が基本形。バスケットボールが一定のリズムで床を打つ。窓から中をのぞくと、暗い床の上には何もない。音だけが続いている。

あるいは、床が軋む音が、体育館の端から端へゆっくり移動していく。これも各地の学校の怪談とほとんど同じ構造で、正直、駐屯地固有性は薄い。

演習場系のほうは、話がもう少しヒリつく。夜間の訓練で林の中に入っていくと、後ろからついてくる影がある。振り返ると止まる。歩き出すとまたついてくる。

これは「見える人」の班長が語る型で、旧軍時代に弾薬庫や滑走路だった場所には日常的にいる、という言い方をする。

こちらからちょっかいを出さなければ害はない、ただしちょっかいを出す相手にはとことん容赦がない、というのが、この手の語りの定型的な締め方だ。

階段の話も忘れちゃいけない。古い隊舎の階段で、後ろから押されたような感覚とともに転ぶ隊員が何人も出る、という話は複数の駐屯地で共有されている。霞ヶ浦でも、旧建物時代の階段について同じ型が語られてきた。

実際に転倒事故が起きやすい構造の階段というのは存在するので、これは後で反証の項でもう一度触れる。

証言その一――灰色の服の女を、はっきり昼間に見た

ここからは、隊員側から出ている体験談を、読み物として立てておきたい。特定の個人を割り出せる形にはしないので、部隊名や年次はぼかしてある。

ある元陸士の語りが、この手の話の中では飛び抜けて具体的だ。彼はその日、不寝番の当番のうち一番早い時間帯を割り当てられていた。まだ消灯前で、隊舎の中は明るい。廊下の壁に煙缶が所定どおり掛かっているかを確認しながら歩く、ただの点検業務だ。

怖がる要素は何ひとつない。

自分の中隊と同じ建物の一階、別の中隊のフロアを歩いていたとき、前方右手の洗面所から人が出てきた。洗面所といってもトイレではなく、水飲み場と洗濯と洗面を兼ねたかなり広い区画だ。

出てきたのは、灰色のセーターと同じような色のスカートを着た女性だった。後ろ姿から察するに三十歳前後。廊下を少し歩いて、右手の出口へ向かっていく。彼はこのとき、女の顔をまったく見ていない。後ろ姿だけだ。

彼の部隊は女性とはおよそ縁がない部署だった。女性自衛官も含めて、女性がここに出入りする用事がそもそもない。売店の従業員だろうかと少し不審に思って、彼は後を追った。出口まで行く。もういない。出口を出て右手の売店のほうを見ても誰もいない。

正面の浴場や食堂の方向にも、左手の道路のほうにも人影はない。出口の前は広く開けていて、身を隠す遮蔽物がない。見失うはずのない場所で、その女性の姿が忽然と消えていた。

もしかしてあれか、という考えが頭をよぎったが、そのときは誰にも言わなかった。話したのはずっとあとになってからだ。その年の冬、別の訓練で一緒になった当該中隊の陸曹にこの話をすると、相手は笑って、嬉しそうにこう言った。

「その灰色の彼女はうちの中隊によく現れるアレだよ。俺は見たことないけど目撃者が何人もいる。俺も一度見たいんだけど」。

そのうえで彼は、あとから知ったことをひとつ書いている。彼の部隊では、各中隊の洗面所は夜間巡回のとき、内々で「そこはまあ適当でいい、あえて見なくてもいい」という扱いになっていた。規則にはない。誰が決めたわけでもない。

ただ、そういうことになっていた。

証言その二――廊下を消灯しない、という現実的すぎる対応

もうひとつ、組織の対応まで含めて語られている話がある。これは伝聞の伝聞にあたるが、その伝わり方自体が面白いので、そのまま紹介する。

ある師団司令部付の隊舎で、消灯時間を過ぎても廊下の照明が一晩中つけっぱなしになっている時期が何日も続いた。近くの部隊の隊員たちは、あの隊舎の廊下ずっと明るいな、と気づいていたが、理由は知らなかった。あとから聞かされた理由がこれだ。

不寝番の隊員が夜間巡回中に、アレに遭遇してしまう事案が多発した。ある部屋の前の廊下を巡回していると、ただならぬ雰囲気がある。懐中電灯で照らす。そこに、いる。目が合ってしまう。それが一人二人ではなく、続いた。

結果として何が起きたかというと、その隊舎では、公然と不寝番勤務を拒否する隊員が出た。当然、処分覚悟である。自衛隊という組織の性質上、警備のための不寝番勤務を「幽霊が出るので中止します」というわけにはいかない。

そこで部隊が出した折衷案が、しばらくの間、廊下の照明を消さないことだった。

明かりをつけっぱなしにする。ただそれだけ。ばかばかしいと思うかもしれないが、これが効いた。その後、この話はほとんど噂に上らなくなったという。

出なくなって収まった、という解釈もできるし、暗闇という条件が消えたから見えなくなった、という解釈もできる。どちらの側から読んでも筋が通るところが、この話のよくできたところだ。

そして僕がいちばん引っかかるのは、この部隊が「隊員の申告を頭ごなしに否定しなかった」という点なんだよね。信じたわけではないだろう。でも、勤務が回らなくなるという現実的な問題として処理した。

組織が怪談とどう折り合いをつけるかの、かなり生々しい実例だと思う。

証言その三――資料館の手紙の前で、理由もわからず泣いた

これは白い女の話とは別系統だが、旧軍施設を継いだ駐屯地の怪異を考えるうえで外せない証言だ。語り手は高校を出てすぐ入隊した隊員。後期教育のある七月、駐屯地にある小さな資料館の清掃という課業があった。

駐屯地祭で一般開放されるので、それに備えて教育隊が掃除をするのが恒例行事なのだという。班長からは、ここは元々海軍航空隊の基地で、旧日本軍の遺物が置いてある、と説明があった。

彼は楽そうな展示ケースの中の清掃を選んだ。ケースの中に、透明な保護材に包まれた古い手紙のようなものがあった。台から外そうとして手に取る。シミが入って字も薄く、読みにくい。何だこれ、と読もうとした。

そこで、いきなり涙が出た。ものすごく悲しくなって、涙がぼろぼろ流れた。字も読めていないのに、だ。彼は日本軍への思い入れも信仰も一切ない人間だと自分で書いている。何で泣いているのか自分でもわからなかった。

というより、涙が流れはじめてから、自分が自分でないような感覚に陥っていた。同期と班付に抱えられて医務室に運ばれたそうだが、そのあたりは本人はまったく覚えていない。同期の話では、ひどく自虐的になって、ずっと何かに謝っていたらしい。

その日の課業外、彼は別の班の班長に呼び出された。相手は怒っているように見えた。怖いので全部正直に話す。すると、その班長はどうやら「見える人」で、心霊がらみでノイローゼになるケースがあるので調べておきたかったのだと言った。

演習場の中の旧日本軍時代に弾薬庫や滑走路だった場所には日常的にいる、そういうものが悪さをしていないかという確認だったらしい。

何年もあとの同期会で、彼はふとあの手紙を思い出して、その班長に聞いてみた。答えはこうだった。あの手紙は、志願した特攻隊員が家族に宛てた最期の手紙で、遺族から提供された非常に貴重な資料だった、と。そして班長は笑顔でこう付け加えたという。

呼び出したとき、俺はお前が手紙に悪戯をしたと思っていた、あのとき嘘をついていたら、泣いたり笑ったりできないくらいシバいてやるつもりだった、と。

この話を怪談として消費するのは、正直ちょっと気が引ける。ただ、旧軍の遺品を保管している施設が駐屯地の中にあって、その清掃が新隊員教育の恒例行事になっている、という構造そのものは事実だ。十代の隊員が、遺書の前に立たされる。

そこで何かが起きるとしたら、それは霊のせいでなくてもおかしくない。

この土地に何があったのか――記録として書いておきたいこと

ここからは怪談の材料としてではなく、記録として書く。長くなるけど、この部分を飛ばすとこの駐屯地の話は何もわからない。

阿見原と呼ばれていた台地に霞ヶ浦飛行場が完成したのは1921年7月。翌1922年11月、霞ヶ浦海軍航空隊が開隊した。横須賀、佐世保に次いで、大日本帝国海軍で三番目の航空隊である。

ヨーロッパを視察した金子養三が陸上飛行場の必要を痛感し、この土地が選ばれた。以後この一帯は東洋一の航空基地と呼ばれるようになる。

1924年4月には押収格納庫が竣工している。第一次世界大戦の戦利品としてドイツから押収した飛行船用の格納庫で、全長240メートル。

1929年8月19日、世界最大の飛行船ツェッペリン伯号が世界一周飛行の途中でここに着陸したとき、収まったのがこの格納庫だ。滞在中の見物客はおよそ40万人。上野と土浦のあいだに臨時列車が出たが乗り切れず、飛行場のまわりで野宿する人までいた。

1931年にはリンドバーグ夫妻も飛来している。当時の霞ヶ浦は、まぎれもなく世界的な空港だった。その押収格納庫は、1943年に解体されている。

予科練――海軍飛行予科練習生の制度が始まったのは1930年。高等小学校卒業程度の14歳から20歳未満を対象とする乙種から始まり、1937年に旧制中学4年以上の学力を求める甲種、1940年には隊内選抜の丙種が加わった。

1939年3月、横須賀海軍航空隊から予科練教育が霞ヶ浦に移管される。だが甲飛も乙飛も丙飛も全部を霞ヶ浦空が抱え込む形になり、手狭になった。そこで1940年11月15日、水上機部隊が鹿島空へ移ったあとの遊休地に、土浦海軍航空隊が開隊する。

予科練はこちらの所属になった。だから阿見町は「予科練の街」なのだ。

予科練に志願した少年は、終戦までの十五年間でおよそ24万人。うち実際に飛行訓練を終えて戦地に出たのが約2万4千人。そして戦死者はおよそ1万9千人。戦死率にして八割にのぼる。期によっては約9割が戦死した。

1944年以降、彼らは特攻隊員の主力となった。1942年11月から採用された七つボタンの制服は、桜と錨のボタンが世界の七大陸七大洋を表すのだとされ、映画の主題歌とともに全国的な憧れの記号になった。

憧れの記号として少年を集め、その八割が帰らなかった。

1941年10月には第一海軍航空廠が設立される。海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編したもので、航空機とエンジンの組立と修理を担った。ここで試作一号機が完成したのが、1944年の「桜花」だ。

人が乗ったまま体当たりするために設計された、ロケット推進の特攻兵器である。この駐屯地の敷地は、その設計図が引かれた場所ということになる。

1945年6月10日。グアムとテニアンから飛来したB29の大編隊が、午前8時ごろ、この一帯に250キロ爆弾を投下した。総重量にして約360トン。基地は炎で赤く染まった。阿見大空襲である。

土浦海軍航空隊の予科練生を含む戦死者の数は、駐屯地の展示資料では281人、他の資料では374人、練習生182名という数字を挙げる資料もあって一致しない。負傷者があまりに多く、近隣の家の戸板がほとんど担架がわりに外されたという。

遺体は数が多すぎて、二か所で何日もかけて荼毘に付された。生き残った予科練生の証言、看護にあたった人の証言は、記念館の展示で読むことができる。ここに引用として書き写すことは、僕はしない。

5573柱の名簿は、民家に隠された

戦後の話も書いておかないといけない。むしろこっちが、この駐屯地の怪異の骨格に関わってくる。

霞ヶ浦海軍航空隊の敷地には、霞ヶ浦神社があった。1926年4月竣工。発案したのは、当時この航空隊の副長兼教頭だった山本五十六である。海軍航空隊創設以来、全国の殉職者を慰霊することを目的としていた。建築様式は伊勢神宮と同じ古式神明造。

終戦時までに、この神社に祀られた霊は5573柱にのぼっていた。

1945年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は、霞ヶ浦神社の廃棄と、そこに収められていた5573柱の殉職者名簿の焼却を命じた。名簿は焼かれなかった。関係者が、阿見町内の民家に分散して秘匿したからだ。

天皇の御真影と軍人勅諭も、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がどこかへ移し、その行方は今もわからない。拝殿は町当局の対応で阿彌神社の境内に遷座した。

そして、名簿である。焼却を免れて民家に散っていた霊名録16巻は、武器補給廠の発足後、駐屯地の敷地内に残っていた奉安殿に集められ、大切に保管された。

奉安殿というのは、戦前戦中に御真影と教育勅語を納めていた祭祀の建物で、この駐屯地のものは1941年ごろ、第一海軍航空廠の発足とともに建てられている。名簿は1955年12月に海軍航空殉職者慰霊塔が建立されるまで、そこに置かれ続けた。

奉安殿はその後、慰霊殿と改称された。今は昭和49年までの霞ヶ浦の自衛隊員殉職者――戦闘ではなく、病死や事故も含む――の追悼名簿が納められていて、毎月、各部隊が持ち回りで清掃を実施している。

菊の御紋章が掲げられていた場所に、自衛官の名簿が納められている。ここに、この駐屯地の性格が全部出ていると思う。旧軍の建物が、部隊の慰霊の場としてそのまま使われ続けている。

自衛隊が入ったのは1953年。東京都立川市から陸上自衛隊武器補給処が移転してきたのが最初で、翌1954年に武器補給処が移駐、7月1日に陸上自衛隊の発足とともに駐屯地が開設された。

1959年12月には航空学校霞ヶ浦分校ができ、1964年には航空自衛隊霞ヶ浦分屯基地が開設。1998年3月に関東補給処が新編されて現在に至る。

警察予備隊から保安隊、そして自衛隊へ、という戦後日本の再軍備の道筋を、この土地はそのまま地層のように重ねている。

慰霊の施設が、これだけ近くにある

阿見の一帯には、慰霊の施設が異様なくらい密集している。

予科練平和記念館は2010年に阿見町が開館させた。土浦海軍航空隊があった場所の、土浦駐屯地に隣接する位置に建っている。予科練生の遺書や遺品、証言映像を展示していて、毎年6月10日、つまり阿見大空襲の日には無料開館の行事が行われる。

雄翔館は、それより古い。土浦駐屯地――現在は陸上自衛隊の学校が置かれている、旧土浦海軍航空隊の跡地――の中にある予科練記念館だ。

1966年に予科練の出身者たちが戦没した練習生を慰霊する予科練之碑を建て、その周囲を当時の学校長が整備して雄翔園とした。1968年には、練習生の遺品や手紙を後世に伝えるために雄翔館が建てられた。

ここに保管されている遺書の量は、率直に言って、覚悟なしに向き合えるものではない。

雄翔園には「雄飛の松」がある。1940年に移植された松で、1945年の空襲で傷んだ。長い年月をかけて衰えたため、1995年に二代目が植えられている。山本五十六の銅像は、戦時中に金属供出や冒涜を避けるため上下に切断されて埋められた。

その下半分が2002年に見つかり、2005年に再建されている。山本の揮毫による「常在戦場」の石碑は、1944年に基地の神社に置かれ、のちに移された。

そして駐屯地の中には、さっき書いた慰霊殿と庚申塚のほか、皇紀2600年の記念碑、防火水槽の外壁に刻まれた「総蹶起の月」の記念碑、旧本部庁舎前にあった海軍の錨マーク入りの消火栓、大型機の整備工場に敷かれていた木レンガ、そして飛行機の係留環が残る。

係留環のあるコンクリートには、米軍の爆撃を受けた箇所の補修痕が、周囲と材質が違う形でそのまま残っている。爆撃の威力と範囲が、コンクリートの色の違いとして読める。

「大空の女神」のこと――白い女の話に、簡単には接続しないでおきたい

駐屯地の広報センターの前には、「大空の女神」と呼ばれる歌碑と胸像がある。

1940年、水戸の陸軍航空通信学校で戦闘機事故が相次いだ。地元の女性・藤田多美子は、事故の根絶を願って、飛行場の一隅の掘井戸で自ら命を絶った。

当時これは美談として称えられ、翌1941年に学校にお堂が建てられ、彼女は「大空の女神」として祀られた。

戦後、遺族が像を引き取って安置していたが、その意志を広く伝えたいという支援者らの働きかけで、72周忌にあたる2012年11月以降、飛行場を持つ霞ヶ浦駐屯地に胸像と歌碑が移設された。2013年4月のことだ。

さて、ここで安易な接続を思いついた人がいると思う。飛行場を持つ駐屯地に、飛行機の安全を願って死んだ女性の碑がある。白い服の女。すすり泣き。つながるじゃないか、と。

でも僕は、その接続をしたくない。理由は三つある。ひとつ、彼女の名前も来歴もはっきり記録に残っていて、匿名の怪異とは性格がまったく違うこと。

ふたつ、彼女の死は当時「美談」として国家に回収された死であって、その回収のされ方こそが本当は問われるべきものだということ。

みっつ、そして何より、実在の人の死を怪談の登場人物に配役するのは、遺族が像を守り続けた七十年に対してあまりに失礼だからだ。

ただし、事実として押さえておくべきことはある。この駐屯地の敷地には、女性を祀る碑が実在する。慰霊殿がある。庚申塚がある。慰霊祭が定期的に行われる。

つまりここは、日常業務の合間に「死者に手を合わせる」動作が制度として組み込まれている空間なのだ。その空間で夜勤に立つ人間が、暗い廊下の突き当たりに何かを見たとき、それを「女」だと解釈するだけの下地は、十分すぎるほど揃っている。

部隊の中では、この話はどう扱われてきたのか

ここが個人的にはいちばん面白いところだ。

まず、笑い話としての扱い。これが基本形。誰かが青ざめて報告してくると、周囲は笑う。「出たか」「よかったな、当たりだ」。恐怖を共有するのではなく、恐怖を茶化すことで処理する。

これは組織の防衛機制としてかなり合理的で、ビビった人間を笑いのフレームに入れてしまえば、恐怖が伝染して勤務に支障をきたすのを防げる。

さっき紹介した、灰色の女を見た隊員に対して陸曹が「俺も一度見たいんだけど」と嬉しそうに言った反応は、まさにこれだ。

次に、新隊員への通過儀礼としての扱い。これは古くて、旧軍の時代から続いている。古参兵による新兵いじめの一環として怪談が使われるというのは、軍隊怪談を扱った文献でくり返し指摘されている。

門番に立たされた新兵が居眠りをして、上官に銃の付属品を井戸に投げ込まれ、泳げないのに取りに飛び込んで死に、以来毎晩「返せ、返せ」と声がする、という型の話は、千葉の鉄道連隊をはじめ各地の駐屯地で語られてきた。

捨てられるものや細部は場所ごとに変わるが、骨格は同じ。この構造をそのまま自衛隊が引き継いでいる。

現代版の通過儀礼は、もっとマイルドだ。新隊員が入ってきた時期に、班長や先輩が「あの部屋、前に何かあってさ」と匂わせる。詳しくは言わない。手をだらんと下げるジェスチャーだけして、話をそこで切る。

この「言いかけてやめる」というのがテクニックとして絶妙で、聞かされた側は勝手に想像で埋める。実は語り手も詳細を知らないことが多い。知らないから語らない、を「知っているが語れない」に見せかけるのが、この芸のキモだ。

そして三つ目の扱いが、実務としての処理。廊下の照明をつけっぱなしにする。御札を連隊長要望事項の額の裏に貼る。当直に就く前に手を合わせる。寝床に御神酒を置く。異動で退室するときに、壁に貼った御札を剥がして床にワックスをかける。

どれも規則には一行も書かれていないが、現場では普通に行われてきた。近代的な官僚組織のど真ん中に、盛り塩と同じレイヤーの民俗が普通に流れている。むしろ、生き死にの近い職場だからこそ流れている。

ネットに出てからの話――誰も検証しないまま、形だけが磨かれていく

この種の話が全国区になったのは、2000年代の匿名掲示板と体験談投稿サイトの時代からだ。5ちゃんねるの自衛隊板や心霊板、洒落怖のスレッド、体験談まとめサイト、そして2010年代後半以降はSNSのハッシュタグ企画。

「自衛隊であった怖い話」というタグで大量の投稿が集まり、まとめサイトに束ねられた。近年も「自衛隊といえば怪談ですよね」という呼びかけに、陸海空を問わず体験談が寄せられている。

ネットに乗ったことで何が起きたか。ひとつは、話の形が磨かれた。あちこちの駐屯地の話が同じスレッドに並ぶと、ウケがいい型だけが残る。廊下の突き当たり、当直室の内線、振り返ってはいけない扉。読みやすい型に収斂していく。

もうひとつは、混線だ。これはかなり深刻で、いま「霞ヶ浦駐屯地の話」として流通しているもののかなりの部分は、出典をたどると別の駐屯地の話だったり、そもそもどこの話かが書かれていなかったりする。

北海道の駐屯地の話が関東の話として語り直され、旧軍の飛行場跡という共通点だけで別の場所の伝承が接続される。「湖のそばの駐屯地」という曖昧な言い方が使われると、霞ヶ浦なのか他所なのか、もう区別がつかない。

考察界隈の側も、この土地の歴史が強すぎるせいで、だいたい同じ結論に着地しがちだ。予科練の少年たちの無念が残っている、特攻で死んだ者たちが帰ってきている、空襲で死んだ人々が土地に留まっている。気持ちはわかる。

わかるんだけど、それを言った瞬間、白い服の女という具体的な像が説明の中に溶けて消えてしまう。予科練は男子だけの組織だ。空襲の犠牲者には女性もいたが、白い服の女という像と直接つながる証言はない。

むしろ、この土地の歴史では説明できない部分にこそ、怪異の正体を考えるヒントがある気がする。

冷や水を浴びせておく――ほとんどは、たぶん説明がつく

読み物として楽しんだあとに、ちゃんと反証も書いておく。これを書かないと商売として不誠実だ。

まず、睡眠の問題。不寝番と警衛勤務は交代制勤務そのもので、体内時計に逆らう働き方だ。交代勤務者の七割以上が入眠困難や中途覚醒を経験し、平均睡眠時間は日勤者より一時間から四時間短いという報告がある。

国際的な診断基準では、交代勤務障害の有病率は10から38パーセントとされる。この状態で夜中に起きて歩き回るわけだ。

そこに睡眠麻痺が絡む。いわゆる金縛りは、レム睡眠中に体を止めておく仕組みが覚醒後も数秒から数分持続する現象で、意識ははっきりしているのに体が動かない。しかも扁桃体が活性化したままなので、強烈な恐怖を伴う。

このとき視覚と聴覚の系がレム睡眠由来のパターンを覚醒直後の映像に重ねるので、部屋の中に誰かがいるという鮮明な感覚が生じる。

一般の人口の約8パーセントが生涯に一度は経験するとされるが、学生や交代勤務者ではこれが28から35パーセントに跳ね上がる。つまり、夜勤をしている人は三人に一人が経験する計算になる。

さらに文化的な枠づけの問題がある。日本の調査で、「金縛り」という言葉を使わずに「一時的な麻痺」と言い換えて質問すると、報告される出現頻度が25パーセント下がったという結果がある。

同じ体験でも、名前を与えられているかどうかで報告のされ方が変わる。「あそこには白い服の女が出る」と先に聞かされている隊員は、暗い廊下で何かを見たときに、それを「白い服の女」として認識し、報告する。

逆に何も聞かされていなければ、見間違いとして処理して忘れる。だから話は聞いた人のところに集まる。

建物の物理も無視できない。旧海軍の建物を四十年使い、そのあと建て替えを繰り返してきた敷地だ。異なる年代の建物が混在していれば、伸縮や共鳴の癖もバラバラになる。夜間、外気温が下がるとコンクリートや鉄骨が収縮して音を出す。

空調が止まって圧力が変わると扉が動く。長い直線廊下は音を反射させて距離感を狂わせる。すすり泣きの正体が、換気ダクトを通る風の音である可能性は普通に高い。

実際、隊舎西側の扉のように、金属扉の軋みが人の声に聞こえるという指摘は現場からも出ている。

階段の話も同じだ。踏み面が浅い、蹴上げが不均一、照明が暗い、そして装備を持って昇り降りする。転倒事故が起きやすい階段は物理的に存在する。

「後ろから押された」という感覚は、バランスを崩した瞬間に脳が原因を後付けで探すときによく出てくる報告で、これは他の分野の事故調査でも知られている。

そして人間の要因。夜間に見かけた人影が、単に体調不良で訓練から外れて隊舎に残っていた隊員だった、という実例が実際にある。

教官が誰もいないはずの隊舎で足音を聞き、作業服姿のふらついた人影を見て逃げ出したが、後日それが風邪で訓練を休んでいた訓練生がトイレに行くところだったと判明した、という話だ。同じ状況が、確認しないまま終わっていたら立派な怪談になっていた。

確認できたから、ならなかった。それだけの差だ。

最後に、からかい。新隊員が寝ているときに誰かが廊下を歩く、扉をノックする、というのは、伝統的にどこの組織にもあるいたずらだ。そして、そのいたずらの記憶は語られない。いたずらをした側は名乗り出ない。された側だけが体験談として語る。

この非対称性が、怪談を生む最大の工場だと僕は思っている。

それでも、なぜこの話は消えないのか

じゃあ全部説明がつくのかというと、そういう結論にすると今度は別のものを見落とす。この話が七十年以上残ってきた理由は、真偽とは別のところにあるからだ。

ひとつめ。この駐屯地には、圧倒的に不釣り合いな量の死者の記憶が集積している。5573柱の名簿。24万人の志願者と1万9千人の戦死者。1945年6月10日の朝の三百人前後。そして自衛隊になってからの殉職者の名簿。

これらは全部、実在する紙と石として、この敷地の中にある。慰霊殿の清掃は毎月回ってくる。数字ではなく、掃除という身体の動作として、隊員は死者に触れている。その空間で夜勤に立てば、何かを感じる人が出るのは当たり前だ。

ふたつめ。軍隊組織における怪談は、言えないことを言うための装置として機能する。自衛官には指定された場所に居住する義務がある。「幽霊が出るから引っ越したい」とは言えない。

同じように、「夜勤がきつい」「この部屋にいると眠れない」「あの階段は危ない」と直接言うのは難しい。でも「あそこは出る」なら言える。しかも笑いながら言える。組織の側も、廊下の照明を消さないという形で応じることができる。

怪談は、階級と規律でガチガチに固められた組織の中で、唯一まともに流通する不安の通貨なんじゃないかと思う。

みっつめ。白い服の女という像は、この土地の歴史では説明できない。予科練は少年たちの組織だったし、飛行機に乗って死んだのは男たちだ。にもかかわらず、出てくるのは女なのだ。この不一致こそが、この怪異の核心だと僕は思う。

男ばかりの組織の、男ばかりの死の記憶が積み重なった場所に、女が出る。組織の中に存在しないものが現れるから、それは異物として認識される。灰色の服の女を見た隊員が真っ先に思ったのが「なぜこの時間に女性がいるんだろう」だったのは、まさにそれだ。

彼を怖がらせたのは、女ではなく、いるはずのないものがいるという構図だった。

よっつめ。深夜の隊舎は、恐怖の実験装置として完成されすぎている。消灯ラッパで一日が切断される。照明が落ちる。全員が同じ時刻に横になる。一人だけが起きて歩く。何かがあっても報告しにくい。翌朝には日常が戻る。この繰り返しが毎日、何十年も続く。

これで何も出てこなかったら、そのほうが不思議だと思うよ。

ここまで書いてきて、自分でも整理が必要になってきたので、いくつかの論点をあらためて掘り下げておきたい。

まず、この駐屯地の怪談を語るときに絶対に外せない構造として、「地層の重なり方が異常に濃い」という点をもう一度確認しておく。だいたいの心霊スポットは、一つか二つの出来事に紐づいている。事故があった。処刑場だった。病院だった。

ところがここは違う。1921年の飛行場開設から数えて、この土地は百年以上ずっと軍事施設であり続けている。しかも途中で用途が変わり続けた。

飛行訓練の場であり、少年たちの教育の場であり、特攻兵器の設計と製造の場であり、空襲の被弾地であり、占領軍の接収地であり、そして再軍備の拠点になった。それぞれの段階で別種の死と別種の記憶が積み上がっている。

しかも建物は残ったり壊れたりを繰り返し、格納庫のように往時のまま立っているものと、平成の再配置工事で消えたものが混在している。この地層のねじれ方が、怪異の像を一つに収束させない。

だから「白い服の女」と「旧軍の兵隊」と「庚申さまの祟り」と「殉職した自衛官」が、同じ敷地の中で並行して語られる。普通の心霊スポットなら整合しないはずのこの並存が、ここでは自然に見えてしまう。

次に、庚申塚の件をもう一度考えたい。僕はこの記事を書くにあたって集めた資料の中で、いちばん驚いたのがこれだった。数百年前からその場所にあった塚を撤去したら、工事で怪我人が続出し、飛行訓練の事故が続発した。

そして海軍は、それを祟りとして扱い、地元の篤信者と相談して塚を建て直した。1935年12月のことだ。これは霊が実在したかどうかの話ではない。組織が、原因不明の事故の連鎖に対して、民間信仰の枠組みで対処するという意思決定をしたという記録だ。

しかもその判断を戦後の自衛隊が引き継ぎ、1994年11月には航空学校の分校と業務隊が、崩れかけた塚と傾いた碑をわざわざ整備し直して再鎮座させている。近代軍と現代の実力組織が、九十年にわたって同じ石を祀り続けているんだよ。

この事実は、隊内の怪談を「隊員が勝手に言っているだけの与太話」として片づけられなくする。組織の側にも、触れてはいけないものへの態度が制度として存在するのだから。

夜の廊下で何かを見た隊員が、それを口にできるだけの余地は、最初から組織の中に用意されている。

三つ目に掘っておきたいのが、名簿という物体の重さだ。1945年、占領軍は霞ヶ浦神社の廃棄と5573柱の殉職者名簿の焼却を命じた。それに対して、関係者は名簿を町内の民家に分散して隠した。

命令に背いて、紙束を家に持ち帰って、押し入れかどこかにしまい込んだわけだ。誰の家に何巻あるかは、当事者以外は知らない状態が数年続いた。

そして自衛隊の前身組織がこの土地に入ったあと、名簿は再び集められ、旧海軍の奉安殿に納められ、1955年12月に慰霊塔ができるまでそこで保管された。この一連の流れを想像してみてほしい。

名前の書かれた紙が、焼却命令を逃れて民家に散り、また戻ってきて、いま駐屯地の一角の建物に納まっている。そのうえに、昭和49年までの自衛隊員の殉職者名簿が重ねられている。慰霊殿の内部には、旧海軍と自衛隊、二つの時代の死者の名前が同居している。

そして毎月、各部隊が持ち回りでそこを掃除する。名前を掃除するという行為が、日課として組織に埋め込まれている。夜の怪異よりも、僕はこの日中の光景のほうが、はるかに怖い。

四つ目。反証の項では睡眠麻痺と建物構造の話を書いたけれど、あの説明が届かない領域についても正直に書いておきたい。睡眠麻痺は基本的に、横になっている人間に起きる現象だ。

ところが霞ヶ浦の話の中核である「不寝番が廊下で見る」タイプの目撃は、歩いている人間の証言である。灰色の服の女を見た元隊員の証言にいたっては、消灯前のまだ明るい時間帯、点検業務の最中、しかも後を追って出口まで確認したという行動が伴っている。

これは金縛りでは説明できない。もちろん、単純な見間違いや記憶の再構成という説明はできる。人間の記憶は、あとから聞いた話に合わせて書き換わる。

「うちの中隊によく現れるアレだよ」と言われた瞬間に、彼の記憶の中の後ろ姿が輪郭を持ち直した可能性は高い。でも、その書き換えが起きる前の段階で、彼が「なぜここに女性がいるのか」と不審に思って追いかけたという行動そのものは残る。

何かを見たことは確かで、それが何だったかだけがわからない。怪談として誠実な形は、ここで止まることだと思う。

五つ目に、他所の話との混線について、もう少し実務的な整理をしておきたい。ネット上で「自衛隊の怪談」として流通している話を仕分けていくと、大きく四つの由来に分かれる。旧軍施設を引き継いだ駐屯地に固有の話。

戦後の自衛隊内で起きた事故や殉職に紐づく話。全国どこでも成立する定型の話。そして、外部の心霊スポット談が駐屯地の話として吸収されたもの。霞ヶ浦の白い女の話は、一つ目と三つ目の混合物である可能性が高い。

旧海軍の巨大拠点だったという固有の下地が、全国共通の「廊下の突き当たりの女」という定型を強力に引き寄せている。だから話としては強度が出るけれど、逆に言えば、この駐屯地でしか成立しない細部が意外と少ない。

庚申塚や慰霊殿や格納庫といった、本当にここにしかないものは、怪談の中心にはほとんど出てこないんだ。これは考えてみると不思議で、実際に語り継がれる怪異ほど、その土地の固有性から離れていくという逆説がある。

固有性が強すぎると、話は語りにくくなる。予科練の少年たちの死を怪談にするのは、隊員にとっても重すぎる。だから代わりに、誰の死とも紐づかない匿名の白い女が、その重さを引き受ける器として召喚される。

六つ目。軍隊組織と怪談という普遍的なテーマについて、もう少し踏み込みたい。軍隊という組織は、死を制度として扱う。慰霊祭があり、殉職者名簿があり、階級章があり、儀礼がある。個人の死は、組織の手続きの中で処理され、公式の記憶に変換される。

ところが、その公式の記憶からは必ず何かがこぼれる。名前がわからない死者。数字としてしか残らない死者。あるいは、公式には語りにくい死者。沖縄戦の研究では、国家が公的に管理する「英霊」と、人びとが密かに語る「幽霊」を対比する議論がある。

前者は目に見えず、集合的に、画一的に管理される。後者は目に見え、名前を名乗り、遺恨を語る。この対比は、駐屯地の怪談にもそのまま当てはまる。慰霊殿に納められた名簿は前者だ。夜の廊下に立つ白い女は後者だ。

同じ敷地の中で、二種類の死者の扱われ方が並行して走っている。そして後者は、組織が公式に認めないからこそ、笑い話として、通過儀礼として、廊下の照明という妥協案として、非公式のルートで生き延びる。

八甲田の雪中行軍遭難事件の民俗誌的研究が示したように、公的な報告書から排除された噂話や怪談話もまた、歴史記述の一形態なのだ。駐屯地の怪談は、公式の慰霊が拾いきれなかったものを拾うための、非公式の慰霊装置として機能している。

そう考えると、隊員たちが当直の前に手を合わせるという行為が、ずいぶん違って見えてくる。

七つ目に、これは書いておかないとフェアじゃないので書く。この記事で扱った怪異は、ひとつも検証されていない。目撃者は特定できないし、特定すべきでもない。現職や元職の隊員が誰であるかを割り出すような書き方は、この記事では意識的に避けた。

日時も部隊も曖昧なままにしてある。だから、ここに書いたことは全部、そういう話が流通しているという事実についての記述であって、怪異が実在するという主張ではない。

加えて、自衛隊の中で実際に起きた死亡事案が、しばしば怪談の材料として流通していることについても、僕は距離を取りたい。誰かが亡くなった部屋、という言い方でネット上に流れている話の中には、実在の事案を指しているものがある。

それを面白がって書くつもりはないし、そういう話を求めて場所を特定しようとするのも、やめておいたほうがいい。駐屯地は部外者が立ち入れない区域であり、正規の一般公開や広報センターの見学以外に入る方法はない。

というか、入って何かを確かめたところで、たぶん何も出ない。怪談というのは、確かめない場所にしか棲めないものだから。

八つ目。じゃあ結局、あの白い服の女は何なんだという話に戻る。僕の見立てはこうだ。彼女は、この土地が抱えている「語れなさ」の総量が、たまたま人の形をとったものだ。24万人が志願し、1万9千人が帰らなかったという数字。八割という戦死率。

空襲の朝に一度に失われた三百人前後の若い命。焼却を命じられて民家に隠された5573柱の名簿。切断されて埋められた銅像。撤去したら事故が続いた塚。爆撃の痕がコンクリートの色として残る係留場。これらは全部、公式の記録として保存されている。

保存されているのに、日々の勤務の中で言葉にする機会はほとんどない。慰霊祭のときだけ、掃除の当番のときだけ、儀礼として触れる。それ以外の時間、その重さは行き場を失って敷地の中に滞留している。

深夜、その敷地でたった一人になった人間が、その滞留に形を与えてしまう。男ばかりの組織だから、形は女になる。近づくと消える。顔は見えない。名前もない。

それはつまり、誰でもないということであり、同時に、この土地で名前を失ったすべての人であるということでもある。

最後に、この記事を読んだあとの話をしておく。もしあなたがこの土地に関心を持ったなら、行くべき場所は駐屯地ではなくて、予科練平和記念館だ。阿見町が運営している公開施設で、大空襲のあった6月10日には毎年、慰霊のための行事が行われている。

展示されているのは怪談ではなく、十代の少年たちが家族に宛てた手紙と、生き残った人の証言だ。あれを一度でも読めば、この土地の夜が静かでない理由が、霊とは別の意味でわかると思う。そして雄翔館の遺書の前に立ってみるといい。

誰かが泣くとしたら、それはたぶん、憑かれたからではない。

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