黒潮のまん中に浮かぶ島に、坊主が七人流れ着いた。島は飢えていた。だから追い出した。坊主は山で死んだ。それから島には、白い衣を着たものが夜歩くようになった――八丈島の中之郷に伝わる「七人坊主」は、だいたいこう要約される。
要約すると三行で終わる。でも、この話はそんなに素直じゃない。調べれば調べるほど、漂着だったはずが流罪になり、餓死だったはずが殺害になり、塚は一つのはずが数カ所になり、そして最後には、平成の火葬場の炉のなかから本当に七体分の人骨が出てくる。
今回はその全部を、順番に並べていく。
- 上方から流れ着いた七人が、まず口にしたのが「情けにあつい島」だったという話
- 気合いで鳥を落として食う坊主を見てしまった村人の、その後の判断
- フドウの沢で一人、六ッパが峠で二人、ハテイの川で四人
- 白い衣の坊さんが、毎晩、家のまわりを歩く
- 同じ人が書いた本なのに、漂着だったり流罪だったりする件
- 平根が浦か、藍ヶ江か、それとも坂上のどこでもないのか
- 塚は一つじゃない――「数カ所ある」という証言のほう
- 昭和二十七年十一月十九日、潮間林道は崩れた
- 引揚者が一カ月で山を降りた話
- 一九八五年、盆の夜、テントの中で頭を撫でられた学生たち
- 釣り帰りと掲示板――現代の目撃談がどこから来ているか
- 一九九四年八月十一日、火葬場の二号炉
- 島の弔いは、掘り返すところから始まる
- 「七体」は本当に七人だったのか、という素朴な話
- 『八丈実記』が書いている「八僧の川」のほう
- 華人の墓は村々にある、と享和二年の島人は書いた
- 天然痘、九百九十人、そして柵
- 飢えの年表を眺めると、伝説がどこにでも置ける理由がわかる
- 流人の島という下地
- 心霊スポットとしての「七人坊主」は、たぶん火葬場を指している
- なぜ「七」なのか
- 寄り神と、祟る漂着物
- なぜこの話は語り継がれたのか
- なぜこの話は怖いのか
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上方から流れ着いた七人が、まず口にしたのが「情けにあつい島」だったという話
まずは、いちばん厚く記録されている版から入りたい。八丈島の郷土史家、浅沼良次が編んだ民話集『八丈島の民話』に、「七人の坊さん」という題で採られているものだ。刊行は昭和四十年。
原話を語ったのは中之郷の佐々木清十郎という老人と、同じく中之郷の山下ぎ乃という故人だと巻末に明記されている。つまり出所のはっきりした聞き書きである。
話はこう始まる。むかしの話でおじゃる。上方から潮に流されて、小舟に乗った七人の坊さんが平根が浦に流れついた。
砂に足をついた坊さんたちは、まず水を欲しがった。誰かがコミを引き抜いて地面を掘った。するとコンコンと水が湧き出した。この湧き水がのちに「コミノ川」と呼ばれるようになった、という地名由来がここに挟まる。民話としては典型的な作りだ。
漂着者が土地に印を残していく。
それから会話になる。ここがいい。ひとりが「この島は何んと申す島でおじゃろう」と言う。もうひとりが「この島はクニから遠くはなれている孤島でおじゃるから、世にいう鳥も通わぬ八丈島でおじゃろう」と答える。さらに別のひとりが言う。
「八丈島と申すと、情けにあつい島とうわさに聞いておじゃる。これから家をさがして助けてもらうことにしやろう」。すると皆が「それがよくおじゃる、それがよくおじゃる」と口をそろえる。
ここを読んだとき、正直ぞっとした。この物語は、冒頭で自分の結末をバラしている。情けにあつい島だ、助けてもらえる、と七人が信じたところから始まるのだ。祟りの伏線というのはこういうものを言う。期待した分だけ、裏切られたときの温度が下がる。
気合いで鳥を落として食う坊主を見てしまった村人の、その後の判断
七人は道もない山を登りはじめる。ところが何日も食っていない。空腹で一歩も動けなくなる。「なにか腹に入れなければ、とても歩けない、なんとかなりもうさぬか」と話し合っていると、頭の上の枝にバサバサと数羽の鳥がとまった。
坊さんのひとりが、その鳥にむかって声を放つ。「エイッ……エイッ……」。鋭い気合いだった。すると鳥はバサリ、バサリと音を立てて地面に落ちてきた。坊さんたちは落ちた鳥を拾い、羽をむしり、生のままムシャムシャと食べた。
この場面が、この伝承のいちばん残酷なところだと思う。飢えた人間が生肉を食っているだけの絵なのに、それを見た村人の目には「魔術をつかうおっかなけ坊さん」に映ってしまう。声だけで鳥を落とす男が七人、山を登ってくる。羽をむしって生で食う。
もし自分が畑仕事の途中でそれを目撃したら、どう思うか。助けようと思うか。
村人は道に柵を設けた。東山から村へ通じる道を封鎖して、坊さんたちを里に近づけないようにした。
怪奇探偵の小池壮彦が『怪奇探偵の実録事件ファイル2』でこの版を紹介していて、彼はこれを「生活習慣の違いから生まれた誤解が、村人と僧侶たちとの対立を生んだ話」と読んでいる。おれもその読みに賛成だ。この話には悪人がいない。
飢えた坊主と、飢えた村人がいるだけだ。ただ、両者は互いを人間として認識しそこねた。それだけで七人が死ぬ。
フドウの沢で一人、六ッパが峠で二人、ハテイの川で四人
追い出された七人は東山の頂上に住みついた。里に降りられないから、野草を食い、たまに海岸まで下りてアワビなどを採って、ほそぼそと命をつないだ。だが続かない。
『八丈島の民話』の版では、彼らが死んだ場所がばらばらに記録される。フドウの沢で一人。六ッパが峠で二人。ハテイの川で四人。合わせて七人。
この「散らばって死ぬ」という細部が、おれにはいちばん怖い。七人が一カ所で折り重なって死んだのなら、まだ物語として収まりがいい。だがこの版は、彼らがてんでばらばらの場所で力尽きたことにしている。
ということは、最後のひとりは、仲間六人がもう死んだことを知りながら、ひとりで山を歩いていたわけだ。誰にも看取られず、名前も告げず、順番に落ちていった。
しかもこの地名は、いまも土地に残っている。ハテイの川は「果てた川」だという理解が現地にはある。地名由来譚と死者の話が完全に縫い合わされているから、この土地では七人坊主の話をやめようがない。地面のほうが覚えているからだ。
白い衣の坊さんが、毎晩、家のまわりを歩く
そこからが祟りだ。原文はこう書く。それから、民家の付近を白い衣を着た坊さんの亡霊が歩きまわり、村人は悩まされました。それとともに農作物が不作になり、家畜が死んだりする不幸が続きました。
村人はミコを頼んで拝ませた。すると出た。七人の坊主のたたりである、と。
ここで注目したいのは、祟りの中身が「農作物の不作」と「家畜の死」であることだ。つまり幽霊が誰かを直接殺す話ではない。飢饉が続く、という話なのだ。飢えて追い返した相手の祟りで、また飢える。八丈島の伝承としてこれ以上に理にかなった呪いはない。
因果が完全に閉じている。
村人は東山の頂上に塚を建てた。浅沼が別の本『流人の島』で書いた版だと、もう少し具体的で、頂上の神木の下に七つの石地蔵を建てて霊を慰めた、とある。
神木というのは椎の古木で、いまも七本、うっそうと不気味なほど繁っている、という書き方までされている。七本の椎、七つの地蔵、七人の坊主。ここまで数が揃うと、逆に人の手で揃えられた気配がしてくるのだが、それは後で書く。
そして最後にタブーが置かれる。この東山の頂上付近で、七人の坊主の悪口を言うと、怪我や災難が起きる。
同じ人が書いた本なのに、漂着だったり流罪だったりする件
さて、ここからが面白いところだ。浅沼良次はこの話を、少なくとも二冊の本に書いている。『八丈島の民話』と『流人の島』だ。同じ著者、同じ島、同じ七人坊主。なのに設定が違う。
『流人の島』のほうは題からして「たたる七人の坊主」で、書き出しはこうだ。中之郷の東の位置に、南端に小岩戸岬をもっている東山が横たわっている。むかし罪名はわからないが、島流しされた七人の坊主が中之郷あずかりとなった。
ところが誰も相手にしないで、食べ物もあたえず追い出してしまった。
漂着していない。流人なのだ。船が難破したのでも、潮に流されたのでもなく、幕府から正式に配流されて島に上げられ、中之郷という村に身柄を預けられた七人ということになっている。
だから「情けにあつい島」の会話も、気合いで鳥を落とす場面も、コミノ川の由来も、まるごと消えている。残っているのは、誰も相手にせず、食べ物も与えず、追い出した、という一行だけだ。
どっちが古いか、という問いは、たぶん立て方が悪い。民話というのは一本の原典から枝分かれするものではなく、同じ村で同時に何通りも語られているものだからだ。
実際、後で触れる調査では、中之郷の伝説四十七話のうち七人坊主に関する話が六タイプ十二話もある、と報告されている。六タイプである。漂着版と流罪版だけじゃない。少なくとも六つの型が同時に生きていた。
だから「本当はどれか」ではなく、「なぜこの村ではこの話だけ六通りにも増えたのか」を考えるほうが実りがある。増えるというのは、それだけ語られたということだ。
平根が浦か、藍ヶ江か、それとも坂上のどこでもないのか
漂着地点も揺れている。『八丈島の民話』は平根が浦と書く。一方、ネット上でよく流通している版は、上方すなわち大坂から出た船が遭難して、藍ヶ江浜に七人の僧侶が漂着した、と書く。
藍ヶ江は中之郷から見て西側の港で、いまは釣り場としても知られる小さな入り江だ。
さらに、一九八〇年代に島で直接聞き取られた話では、坊さんたちが死んだ場所は「中ノ郷集落の外れの岬」ということになっている。山ではなく岬なのだ。実際、七人坊主は「七人岬」という呼び名でも語られてきた。
この呼称の存在は、ネット上に古くから転がっている作業員同士の会話体の怪談――「すぐ上にある岬、いわくつきらしいぜ」から始まるやつ――にもはっきり出てくる。
つまり、この伝承は場所すら固定されていない。浦に着いたのか、浜に着いたのか、山で死んだのか、岬で死んだのか。ここまでバラバラだと普通は「作り話だな」で終わりそうなものだが、おれの感覚は逆だ。作り話ならもっと辻褄が合う。
合わないのは、複数の人間が別々に語り続けたからだ。
塚は一つじゃない――「数カ所ある」という証言のほう
心霊まとめ記事はたいてい「東山の頂上に七人坊主の塚が建てられた」で止める。塚は一つ、頂上に一つ、というイメージだ。だがこれは、たぶん現地の実態とずれている。
中之郷の伝承を実地に調べた報告のなかに、こういう一節がある。この話は今でも中之郷の人たちの心意のなかにとどまり「七人坊さんのたたり」という形で話され、七人坊さんの果てたと言われるハテイの川と呼ぶ所や、塚を建ててまつってある所が数カ所ある。
そして、これらの所で「坊さん、坊さん」と言ったり、坊さんの悪口を言ってはいけないとタブー視している。
数カ所ある、である。一カ所ではない。
これは重要だと思う。七人が七つの場所で別々に果てた、という『八丈島の民話』の記述と、塚が数カ所ある、という報告は、きれいに噛み合う。死んだ場所ごとに祀ったのなら、塚が散らばるのは当然だ。
逆に言えば、「頂上に一つの塚」という現代のイメージのほうが、あとから整理されて単純化された像である可能性が高い。
そしてもうひとつ大事なのは、タブーの内容だ。塚に近づくなとは言われていない。言われているのは、そこで悪口を言うな、はやしたてるな、ということだ。禁じられているのは接近ではなく、態度なのである。
ここは現代の心霊スポット的な読み方とまるで違うところで、あとでもう一度戻ってくる。
昭和二十七年十一月十九日、潮間林道は崩れた
伝説が「事件」に化けた瞬間が、はっきり記録されている。
昭和二十七年、東山を横断して潮間の海岸へ通じる林道の工事が進んでいた。潮間林道、いまで言う東山林道のあたりだ。工事に出ていたのは中之郷の村人たちだった。
浅沼良次が『流人の島』に書いた記述はこうだ。そのとき工事に働いていた村民が、頂上近くでタコツキをやりながら、七人の坊主の悪口を歌の文句にしたそうだ。
タコツキというのは地固めの作業のことで、重い錘を綱で引き上げて落とす。何人かで綱を引くから、拍子を取るために歌を歌う。八丈でも本土でも、土木の現場ではごく普通の光景だ。
そのときの掛け声の文句に、七人坊主の悪口を混ぜて、面白半分にはやしたてた者がいたという。「坊さん、坊さん」と囃した、と書く版もある。
翌日、十一月十九日。現場で山崩れが起きた。生き埋めになったのは七人。
地元紙の南海タイムスが同月二十三日付で報じた見出しは「中之郷潮間林道大崩壊 惨! 大澤監督ら七名生き埋め」だった。実際に八名が巻き込まれて一名だけ助かった、とする記述もある。遺体は二日がかりで全員掘り出された。
そして――ここが伝承として決定的なのだが――浅沼はこう書き添えている。坊主の悪口を言った人ほど、その姿は変わりはてていたそうだ。
土砂崩れの物理的な原因としては、その年の台風の影響が指摘されている。地質のゆるい火山島で、雨のあとに切り通しを掘れば崩れる。合理的な説明はいくらでもつく。だが、島の人がその日に受け取ったのは合理ではない。
前の日に悪口を言って、次の日に七人死んだ、という並びのほうだ。
しかも、である。『八丈島の民話』が刊行された昭和四十年の時点で、民話集の本文中にすでに「『七人』と『いわく付きの場所』だけあって気味の悪い、不思議な事だ」と書かれている。つまり伝承の記録者自身が、リアルタイムでこの一致に鳥肌を立てていた。
祟りの物語は、こうやって民俗資料のなかで更新されていく。
引揚者が一カ月で山を降りた話
昭和二十七年の事故の前に、もうひとつ挟まっている話がある。『流人の島』にだけ載っていて、他の本には見えないという、いわば孤立した証言だ。
終戦後、外地から引き揚げてきた者たちが、この東山の頂上に五、六家族住みついた。だがこの人たちは、一カ月もたたないうちに、さっさと里に逃げ帰ってきた。理由を聞くと、こうだった。
夜になってから「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と低い悲しいお経の声が聞こえる。水汲みに行くと、ボロボロの衣を着た坊さんが、その泉のほとりに立っている。
この証言のディテールが、おれは好きだ。というか、うまくできすぎていて逆に気になる。まず、聞こえるのが読経ではなく念仏である。「南無阿弥陀仏」を低く悲しく唱える。
祟る亡霊が呪詛ではなく念仏を唱えているというのは、考えてみると妙な話で、彼らは怒っているというより、まだ自分の弔いを続けているように見える。
そして泉。水汲みに行くと坊さんが泉のほとりに立っていた、という一行。これはコミノ川の由来譚と対になっている。七人が最初に手に入れたものが水だった。最後まで留まっている場所も水のそばだ。
引き揚げ者の入植という背景も効いている。外地から引き揚げてきて、住む土地も食う物もなくて、島でいちばん条件の悪い山の上に入る。飢えて山に上がった人間が、飢えて山で死んだ人間の声を聞く。誰が言い出した話でもいい。
この構図そのものが、島の記憶の再生産だと思う。
一九八五年、盆の夜、テントの中で頭を撫でられた学生たち
現代の証言もいくつかある。そのなかで、いちばん出所がはっきりしていて、いちばん読み物として上等なものを紹介したい。園芸方面の書き手が自分の体験として書き残しているもので、時期は一九八五年八月、場所は中之郷である。
当時大学三年だった書き手は、仲間六人と一緒に、通い慣れた八丈島の中之郷にカキランを見に行った。実習で世話になった花壇を見学し、食虫植物を見て回った。その夜、花壇の主人の厚意で風呂を借り、農場の裏山にテントを張ってキャンプすることにした。
八丈の夏は蒸し暑く、みんなアツイアツイを連発していたが、疲れていつしか寝てしまった。
そこで、誰かが突然「ワアー」と大声を上げた。全員が起きた。テントの中の数人が、頭を誰かに撫でられた、と言って、がたがた震えていた。
声に気づいた主人がライトを点けて来てくれて、こう言った。今夜は家に来なさい、盆だから。
家に上がると、奥さんが冷たいお茶を出してくれた。何があったのか聞かれて、数人が頭を触られたようだ、と答える。しばらくして主人が語りはじめた。
中ノ郷には昔から七人の坊さんという話が伝わっていて、お盆の時期の晩に外を歩いていると、坊さんが何処からか現れて、出会った人に災いを起こす。
それは昔、八丈に七人の坊さんが流刑になったとき、島は大変な飢饉で、島の住民でさえ食料がなく、とても七人もの流刑者を受け入れることができず、坊さんたちは中ノ郷集落の外れの岬で命を落とした、という話だと。
それから毎年盆になると七人の坊さんが集落に現れる。七人連れは危ない。
そして主人は言った。君たちは山でキャンプをしていたので、きっと坊さんが来て人数を数えていたんだ。
書き手は七人で行っている。本人と仲間六人。撫でられたのは、数えられたからだ、というわけだ。翌日、一行は坊さんの来そうもない別のキャンプ場に移った。
三十年以上たって、農大の収穫祭で当時の仲間に会い、すっかり忘れていたその夜の話で盛り上がった、と文章は締めくくられる。
この体験談の値打ちは、怪異そのものよりも、島の人の語り口が丸ごと残っているところにある。「今夜は家に来なさい、盆だから」。この一言に、島がこの伝承をどう扱っているかが全部入っている。怖がらせるためでも、観光資源にするためでもない。
よそから来た若者を、盆の夜に山に置いておくのは危ないから、家に入れる。それだけだ。
釣り帰りと掲示板――現代の目撃談がどこから来ているか
現代の体験談は、大きく分けて三つの流路から来ている。ひとつは、いま書いた入植者や学生のように、島で直接聞いた話。ふたつめは、テレビだ。フジテレビの「奇跡体験!
アンビリバボー」が平成十四年一月三十一日に「八丈島人骨火葬事件・七人坊主の祟り」を放送していて、これがこの伝承を全国区にした最大のきっかけである。三つめが、巨大掲示板とブログだ。
二〇〇〇年代後半には「八丈島の忌み話」といった題でまとめられた記事が回っていて、そこには某巨大掲示板の書き込みと、釣り好きの同僚から聞いたという体験談が並べられていた。
ここで、ひとつ反証めいたことを書いておきたい。
テレビ放送以降に広まった目撃談のなかに、「緑色の衣を着た坊主が、土砂崩れのあった現場付近でたびたび目撃されている」「緑色の衣とは当時絶命した七人坊主の法衣だと伝えられている」というディテールがある。
妖怪研究の書き手がこれを紹介したことで、けっこう広く出回った。
だが、この「緑色の衣」は、それ以前の文献のどこにも出てこない。『八丈島の民話』も『流人の島』も、亡霊の衣は「白い衣」「白装束」で一貫している。ボロボロの衣、という表現はあっても、色は緑ではない。
緑衣説の出所を追った書き手も、他の文献には見えない、と匙を投げている。
つまり、この伝承には二〇〇二年前後を境にした地層がある。それ以前は白、以後は緑が混ざる。怪談が電波に乗ると、こうやって色がつく。
おれはこういう地層を見つけるのが好きで、というのも、色が変わった瞬間というのは、その話が誰かの手で作られていることの、いちばん正直な証拠だからだ。
一九九四年八月十一日、火葬場の二号炉
そして、この伝承を「ただの民話」から引きずり出した事件が来る。
お盆を直前に控えた八月十一日の朝、八丈町の町営火葬場で、その日に予定されていた葬儀のために職員が炉を開けた。炉のなかに、人骨がぎっしり詰め込まれていた。
火葬というのは市町村長の許可がいる。だが、この骨について申請は一切なかった。誰かが無断で炉を使った、ということになる。通報を受けた警察が調べると、骨は約七体分。そのなかには子供の骨も混ざっていた。
炉が最後に正規に使われたのは、五日前の八月六日。炉内はすでに冷めきっていたから、実質的には三日ほどの間に誰かが焼いたと見られた。骨は少なくとも死後十年、幅を持たせて十年から四十年ほど経過したものと鑑定された。
そして不可解なのは、密室だったことだ。発見時、火葬炉には鍵がかかっていた。ボイラーの重油バルブも元通りに閉まっていた。骨はすべて二号炉に入れられていた。そして、通常なら焼いた骨を拾うために設置される受け皿が、使われていなかった。
最初から骨を拾い上げるつもりがなかった、ということになる。
警察は島内にある墓地六十四カ所を全部調べた。掘り起こされた形跡のある墓があれば、身元はすぐ割れる。だが見つからない。納得がいかず、二度にわたって六十四カ所を洗い直した。それでも掘り返した跡はなかった。
私有地にも捜査は及んだが、これも空振りだった。
こうして「骨は島外から持ち込まれたのではないか」という仮説が浮上する。だが、そうだとすると、なぜわざわざ島外から遺体を運び込んで、火葬場の炉で焼いて、そのまま置いていったのかがわからない。
事件当時、町の人からはいろんな声が上がった。何かの犯罪の被害者の遺体で、痕跡を消すために焼いたのではないか。戦時中に島内で軍の施設を造る作業で死んだ人たちの骨ではないか。
近所の住民が、発見の前日に火葬場から青白い炎のようなものが上がっているのを見た、という話も出た。盆の時期だったから、バラバラに埋葬された家族が寂しくて自分たちで戻ってきたのではないか、と言う人までいた。
事件は未解決のまま時効を迎えた。七柱の遺骨はしばらく署内で保管され、翌年三月に町の福祉課へ引き渡されて、そのまま改葬され、島の寺に納骨された。誰の骨かわからないから、骨壺には名前が書けず、役場の整理番号だけが記された。
骨壺は一年ほど本堂に置かれたのち、永代供養塔の下に埋葬されたという。
島の弔いは、掘り返すところから始まる
ここで、島の葬制の話をしないと事件の見え方が変わってこない。
八丈島では、昭和後期――記録では一九八二年ごろまで、土葬が行われていた。棺は木の箱ではなく「カメカン」と呼ばれる大きな水瓶で、高さ六十センチ、口径五十センチほど。遺体はこの瓶に納められ、地域ごとの共同墓地に埋められる。
そして十三回忌や十七回忌のころに「シャリトリ」と呼ばれる改葬が行われる。墓を掘り返して、白骨になった遺体を取り出し、焼酎や海水できれいに洗う。とくに頭蓋骨は念入りに洗う。清めた骨を、あらためて先祖の墓に納める。
時期は厳密には決まっていなくて、痩せていた人は早めに、太っていた人はもう少し置いてから掘る。白骨化にかかる時間が違うからだ。墓所のスペースが足りなくなれば、早めに掘ることもある。
字面だけ見れば、ぎょっとする習俗だ。だが趣旨はまったく逆で、これは「死者にもう一度会う」ための行事なのだという。人が死んで、いくつかの段階を経て、性質が変わっていく。
シャリトリを経て埋め直されたとき、その人は「個人」から「あまたの先祖霊」になる。つまりシャリトリは、故人が一個の人格として遺族と対面する最後の機会なのだ。手間はかかるが、根っこにあるのは敬意と愛情である。
この前提を知ったうえで一九九四年の炉を見ると、事件はますますわからなくなる。改葬なら遺族がやるはずだ。無断でやる理由がない。焼いたあと骨を拾わずに置いていく理由も、受け皿を使わない理由もない。
改葬の作法をよく知っている者の仕業にも、まるで知らない者の仕業にも見える。
そして正直に書いておくが、この事件と七人坊主のあいだに、因果関係を示すものは何一つない。ないのだが、島の人が結びつけたのは無理もない。四十年前に七人が生き埋めになり、いま七体分の骨が出た。しかも盆の直前に。数と季節が二重に揃ってしまった。
人間の頭は、揃った数を見ると勝手に線を引く。
「七体」は本当に七人だったのか、という素朴な話
反証のほうも書いておこう。
まず、警察の発表がそもそも「約七体分」だったという点。焼けて砕けた骨から人数を割り出すのは、法医学的にかなりの推定を含む作業だ。断定ではなく、およそ七体、という表現が使われている。
もしこれが「約六体分」や「約八体分」だったら、七人坊主とは誰も結びつけなかったはずである。
次に、昭和二十七年の事故。死者七名という数字自体は地元紙が報じていて動かない。ただし、巻き込まれたのは八名で、一名は助かったとする記述がある。つまり「八人埋まって七人死んだ」わけで、七という数はここでも結果論だ。
もし助かった人がもうひとりいれば六人で、伝説とは合わなくなっていた。
さらに、伝説の「七」自体が、あとから固まった可能性がある。というのも、近藤富蔵が編んだ島の一大地誌『八丈実記』の巻三に、これとよく似た話が載っているのだが、そちらは七人ではなく八人なのだ。詳しくは次に書く。
そして、ダメ押しの反証がひとつある。伝説の年代がまったく特定できないことだ。江戸時代のいつなのか、どの飢饉のときなのか、記録は何も言わない。「むかしの話でおじゃる」で始まって、それきりだ。
一方で八丈島の飢饉は、江戸時代を通じて数え切れないほど起きている。年代が空白だからこそ、この話はどの飢饉にも接続できてしまう。
『八丈実記』が書いている「八僧の川」のほう
伝説の親戚筋として、いちばん古い文献に残っているのが、これだ。
『八丈実記』巻三に、末吉村のカワノウ地というところの話が載っている。要旨はこうだ。そこには「八子ノ川」とも「八僧の川」とも呼ばれる場所がある。いつの頃か、唐僧八人が食に窮して山籠りし、そのまま死んだ。その念が残って祟りをなす。
瀬戸物や鉄類、魚を持ってそこを通ると、いつのまにか手から失くなってしまう。その山に入れば足腰を患って一生涯治らない。だから多くの人が悩まされた。
そして解決編がつく。この村に孫十郎という者がいて、八丈富士に登って長く修行し、神仙の道を得て帰ってきた。孫十郎が八僧の死念を丹誠こめて祈り、その災いを鎮めた。この者は凡人ではなく、藁一本を海上に浮かべてそれに乗ったという。
また村人が悪い病にかかると、祈念して癒した。神のようだった。
読み比べてほしい。中之郷の七人坊主とほぼ同型である。よそから来た僧が、食えずに山にこもって死ぬ。その念が祟る。山に入った者が体を壊す。
違うのは、人数が八人であること、僧が唐僧すなわち中国から来た僧とされていること、そして末吉村という別の村の話であること、さらに祟りがすでに鎮められていることだ。
つまり八丈島には、「山で餓死した渡来僧の集団が祟る」という話型が、村ごとに分布していた可能性が高い。中之郷では七人になり、末吉では八人だった。数は物語の本質ではなく、それぞれの村での言い伝えの都合で決まっていたのだろう。
そして、この見立てを補強するのが、次の一節だ。
華人の墓は村々にある、と享和二年の島人は書いた
八丈島出身の学者、高橋興一が享和二年に書いた『園翁交語』に、こういう文がある。いずれの頃か華人流れ来る。其墓所村々にあり。其山に入る時は祟りをなし、村民悩み煩ふ事時々なり。
いつの頃か中国人が流れ着いた。その墓所は村々にある。その山に入ると祟りをなし、村人が病んで苦しむことがたびたびある。
これが西暦一八〇二年の記述である。つまり十九世紀のはじめの時点で、八丈島には「漂着した外国人の墓が村ごとにあって、その山に入ると祟る」という了解がすでにあった。
七人坊主という個別の名前が出てくるよりずっと前から、島には「漂着した死者は山にいて、山に入る者を祟る」という基本形が敷かれていたわけだ。
これは大事な話だと思う。八丈島は黒潮のど真ん中にある。漂着物は日常的に流れ着く。木も、船も、荷も、人も流れ着く。そして流れ着いた人が生きているとは限らない。島の海岸に、身元のわからない死者が上がる。それを村ごとに埋める。
埋めた場所は山の際になる。山は生活圏の外だから、そこに入るときは緊張する。緊張するから、体を壊せば「祟られた」と説明される。
七人坊主は、この土壌の上に咲いた一輪だ。土壌のほうが、花よりずっと古い。
天然痘、九百九十人、そして柵
もうひとつ、生々しい史実がある。民俗学者の大間知篤三が『八丈島――民俗と社会――』で書いていることだ。
正徳元年、西暦一七一一年に、難破船が八丈島に流れ着いた。その船に乗っていた者が天然痘を持っていた。島にはこの病に対する免疫がなかった。結果として島じゅうに広がり、翌年の秋までに九百九十人あまりが死んだ。
そして、ここが決定的なのだが、ある村では感染者を近寄らせないために、柵を設けて侵入を防いだ、と記録されている。
柵である。七人坊主の伝承で、村人が坊さんたちを里に入れないために設けたのと、同じものだ。
これを踏まえると、伝説の理解が一気に変わる。漂着した集団を、村が柵で締め出す。それは冷酷な行為に見えるが、島の側から見れば、村を丸ごと消しかねない病に対する防疫措置だった可能性がある。
実際、僧たちが天然痘を患っていたので村人が受け入れなかった、という説明は、ネット上の解説記事にもよく出てくる。
とはいえ、これも仮説にすぎない。伝承のなかに天然痘という単語は出てこない。出てくるのは飢饉と、気合いで鳥を落とす魔術だ。史実の疫病と伝承の飢饉を短絡させるのは、それはそれで後世の付会である。
ただ、「よそから来た者を柵で締め出した記憶」が島に確かにあった、という事実の重みは動かない。
そして、この記憶がいちばん怖いところは、締め出した側にも正当性があることだ。村を守るためにやった。でも、締め出された七人は死んだ。正しさが人を殺した。祟りというのは、そういうときにこそ必要になる概念なのだと思う。
飢えの年表を眺めると、伝説がどこにでも置ける理由がわかる
八丈島の飢饉の記録を並べると、目眩がする。
元禄十四年、大風で作物が全滅し、冬から夏にかけて七百人以上が餓死した。とくに中之郷の被害が大きかった。宝永から正徳にかけての飢饉は何年も続き、中之郷では三年間で六百六十四人が餓死した。正徳二年までの二年間では島全体で九百九十人が餓死した。
翌年には末吉で三百八十人以上が餓死した。
そして明和年間。明和四年から作物が全滅しはじめ、飢饉は数年続き、中之郷一村だけで七百三十三人が餓死した。生き残ったのは四百人足らずだった。島全体では千五百人以上が死んだ。
八丈町の指定文化財になっている「餓死者冥福之碑」は、この明和の飢饉を後世に伝えるため、明治二十三年に中之郷の大御堂に村民が建てたものだ。町の解説文は、絶海の孤島で生きることの難しさを物語る資料である、と結んでいる。
村の人口の三分の二近くが飢えて死ぬ、という事態が、この島では複数回起きている。飢饉になれば山に入って放牧の牛を食った。それも尽きればアザミを食い、リュウビンタイの根を掘り、タブノキの実を拾い、葛の根を掘り、トコロを掘った。
口減らしのために人を捨てたという「人捨て穴」の言い伝えが残り、父親が餓死させるくらいならと子を崖から落としたという「こんきゅう坂」の民話が残り、食べ物を掘っていた老婆が自分で捨てたトコロの棘を踏み抜いて死ぬ「とこら」という話が残る。
こういう年表を前にすると、七人坊主の伝説がなぜ年代を特定できないのかが、逆によくわかる。特定する必要がなかったのだ。どの世代にも、村じゅうが飢えていた年の記憶がある。
よそから来た七人に施しができなかった、という状況は、この島では例外ではなく標準だった。
だから、この伝説の年代の矛盾を突いて「作り話だ」と言うのは、たぶん的を外している。この話が語っているのは特定の年の出来事ではなく、繰り返し起きた選択そのものだからだ。自分の子に食わせるか、よそ者に食わせるか。
何度も突きつけられて、そのたびに同じ答えを出した。その答えを覚えているための話が、七人坊主なのだと思う。
流人の島という下地
もうひとつの下地が、流刑地としての八丈島だ。
慶長十一年、関ヶ原で西軍の総大将だった宇喜多秀家が、主従あわせて十三人で八丈島に流された。これが八丈流人の公式の始まりとされる。秀家が赦免されるのは明治になってからで、本人はとうに没している。
子孫は「浮田流人」と呼ばれ、幕末まで他の流人とは区別された。島には秀家の墓と住居跡が残っている。
以後、流刑制度が廃止される明治十四年までに、付添人や再渡島者を含めて約千九百人が八丈島に流された。初期は政治犯や思想犯が多く、身分の高い者が目立った。時代が下ると賭博や喧嘩、女犯といった罪状が増えた。
罪状の一覧を眺めると、笑うに笑えないものが並ぶ。町人流人の第一号とされる宗寿は、不受不施の罪で流された。知人が吹き矢でツバメを射るのを見ていただけで生類憐みの令に引っかかって流された者がいる。
江戸城で井戸に蓋をしなかったせいで猫が落ちて死に、それで流された者がいる。病気の馬を捨てて流された者がいる。
ここで、地元の郷土史家が七人坊主について示唆したという説を挙げておきたい。七人坊主の正体は「不受不施僧」ではないか、というものだ。不受不施派は日蓮宗の一派で、幕府から厳しく弾圧され、僧が集団で流罪になった。
実際、八丈島の町人流人の第一号がまさに不受不施の罪だった。七人の僧が同時に船で運ばれてくる、という状況が現実にありうるとしたら、宗教弾圧による集団配流はもっとも自然な説明のひとつだ。もう一つ挙げられているのが、中国人漂流者説である。
こちらは『八丈実記』の唐僧八人や『園翁交語』の華人の記述と直結する。
そして流人の生活は、島が飢えれば真っ先に破綻した。流人は農業の技術も土地も持たない。越後騒動で流された永見大蔵は、飢饉のときに一粒の米も売ってもらえず、千両箱を枕にして餓死したと伝えられる。
陣屋の襲撃を企てた元小普請組の男も、飢えに迫られての凶行だったという。
つまり、「流された僧が村に預けられ、飢饉のときに誰も相手にせず、そのまま餓死した」という『流人の島』版の筋書きは、この島の歴史のなかではまったく突飛ではない。むしろ、ありふれていた。
ありふれていたからこそ、名前も罪名も残らなかったのかもしれない。
心霊スポットとしての「七人坊主」は、たぶん火葬場を指している
現代の扱いについても書いておく。
八丈島の心霊スポットを紹介するデータベースの類には、「八丈島七人坊主の呪い」という項目がある。眺めていて笑ってしまったのは、そこに載っている住所だ。三根の番地になっている。三根は島の北側、坂下地域で、中之郷とも東山とも関係がない。
おまけに、サイト自身のコメント欄に「ちなみに、地図が示す場所は火葬場です」と書いてある。
つまり、心霊スポットとしての「七人坊主」は、伝説の舞台である坂上の東山ではなく、平成の人骨事件の現場である町営火葬場を指している。伝説と事件がネット上で完全に融合して、事件の現場のほうが「伝説の場所」として登録されてしまっているわけだ。
しかも同じデータベース内で、この場所を「かなりやばい心スポ」だと煽り、近寄るだけでも危ないと書いている。
はっきり言っておくと、そこは現役の公共施設である。町の人が近親者を送る場所だ。肝試しに行くようなところではないし、行っていい場所でもない。同様に、島に散らばる塚や墓地も、いまも供物が上がる祀りの場である。
夜に押しかけていい場所は八丈島に一つもない。
そしてもうひとつ、島の側の温度を示す証言がある。ネット上の質問サイトに、「八丈島では七人坊主の話題はタブーですか」という問いが立っている。アンビリバボーで特集されたとき島でけっこう騒ぎになったと聞いた、という前置きつきだ。
これに対する回答が、なかなか含蓄がある。要するに、平成の火葬場から身元不明の人骨が七体分見つかって、死後十数年経っていると鑑定されて、新聞やワイドショーで騒がれたけど未解決だ、と。そして「犯人がまだ島にいるかもしれない」から怖いのだ、と。
祟りが怖いのではない。未解決が怖いのだ。ここが本土のオカルト消費と、島の生活実感がいちばんズレるところだと思う。テレビは祟りを撮りに来る。
島の人が抱えているのは、狭い共同体のなかに説明のつかない出来事が一つ残っている、という居心地の悪さのほうだ。
小池壮彦が実際に島に取材に行ったとき、島民たちはあまりこの話題にしたがらず、はっきりした情報は得られなかった、という結果に終わっている。これも当然だと思う。
中之郷の伝承として明確にタブー視されてきたのは、「その場所で坊さんの悪口を言うこと」だった。よそから来た人間にべらべら話す行為が、その禁忌にどこまで触れるのか、島の人自身も測りかねているのではないか。
なぜ「七」なのか
数の話をしよう。
まっさきに引き合いに出されるのが「七人ミサキ」だ。高知をはじめ西日本に広く分布する怨霊で、水難などで死んだ者たちが七人一列になって現れる。誰かひとりを祟り殺すと先頭の者が成仏し、殺された者が最後尾に加わる。
ひとり減ってはひとり増え、永遠に七人のまま彷徨い続ける。柳田国男も「みさき神考」などでミサキの問題を扱っていて、ミサキを「御先」と書く説と「岬」でよいとする説がある。
七人坊主を七人ミサキの一種と見る整理は、実際によく行われている。共通点は多い。数が七であること、非業の死であること、水に関わること、そして集団で現れて出会った者に災いをもたらすこと。
八丈島の伝承でも「七人連れは危ない」と言われ、盆の夜に七人でキャンプしていた学生が数えられた、という話になっている。この「人数を数えに来る」というモチーフは、七人ミサキ系の怪異にきわめて典型的だ。
ただ、単純に「七人ミサキが伊豆諸島に伝わって七人坊主になった」と言えるかというと、そこは慎重でいたい。ミサキが「岬」でもあるという説を思い出してほしい。
八丈島の伝承では、坊さんたちが死んだのは「中ノ郷集落の外れの岬」であり、そもそもこの怪異は「七人岬」とも呼ばれている。地形としての岬と、霊としてのミサキが、この島では地名の上で重なっている。どちらが先か、この材料では決められない。
数そのものの話もしておく。七は、日本の民俗のなかで「集団の死者」を数える定型だ。七人ミサキ、七人塚、七人同行。広島県三原市には、乱暴を働いた七人の山伏が村人に殺され、その怨霊が祟ったという話がある。愛知県新城市の七人塚は落人の話だ。
全国どこの七人塚も、たいてい「まとめて非業の死を遂げた集団」を祀っている。
そして八丈島には、七がやたらと出てくる。中之郷の草分け伝説は「七軒在家」といって、島に漂着した十三軒の公家のうち七軒が中之郷に住み着いて村の始まりになった、という話だ。ここでも漂着者が七である。
東山の頂上に七人の老人がいる「七曜様」という民話もある。塚の上に立つ神木は椎が七本だという。お手玉唄も七で終わって繰り返す。
つまり、この島では七が「一組」を意味する単位として働いていた。七軒で村が始まり、七人で祟り、七つの地蔵で鎮める。だから逆に言えば、実際に何人死んだかは大した問題ではない。集団として死んだのなら、それは七人なのだ。
『八丈実記』の八僧は例外的で、あちらは「八丈」の八に引かれた可能性すらある。
寄り神と、祟る漂着物
もっと深いところに行こう。漂着神、寄り神の話だ。
日本列島の沿岸には、海から流れ着いたものを神として迎える信仰が広く分布している。エビス信仰がその代表で、漁の途中で拾った石やクジラ、あるいは水死体すら「エビス」として祀り、豊漁をもたらすものとして扱う地域がある。
海の彼方から幸をもたらす存在がやって来る、という世界観だ。
八丈島は、この観念を持つには理想的すぎる場所にある。黒潮のど真ん中の孤島で、島の始祖伝説自体が漂着だらけなのだ。大津波で島が全滅したとき、ただひとり生き残った身重の女、丹那婆が男子を産み、そこから島民が繁栄したという丹那婆伝説。
徐福が不老不死の薬を求めて渡来し、帰りに船が八丈島に漂着して、連れていた童女五百人が島民の祖になったという伝説。島の別名が女護ヶ島なのはそれに由来するとされる。源為朝が伊豆大島から三宅島を経て八丈島に渡り、島民を教化したという伝説。
全部、海から来ている。八丈島の自己認識は「流れ着いた者たちの島」なのだ。
その島が、なぜ七人の漂着者を祟りにしたのか。ここが、この伝説のいちばん深いところだと思う。
寄り神信仰には、常に裏返しがある。海から来るものが必ず幸をもたらすのなら苦労はない。実際には、海から来るものは疫病も持ってくる。正徳元年の難破船は天然痘を持ってきて、島の人口の相当部分を殺した。海から来るものは飢えた口も連れてくる。
飢饉の年に七人ぶんの余分な口が上陸したら、それは福ではなく災厄だ。
だから、島の人々は漂着物を選別しなければならなかった。これは福か、災厄か。迎え入れるか、締め出すか。この判断は毎回、賭けだった。そして賭けに負けたときの記憶が、祟り神を生む。
漂着神と祟り神は、同じ現象を別の側から見ただけのものだ。迎えれば神になり、追い返せば祟りになる。七人坊主というのは、「迎えそこねた寄り神」の話なのだと思う。だから彼らは怒っているというより、いつまでも念仏を唱えている。
彼らが求めているのは復讐というより、正しく迎えられ、正しく祀られることだ。実際、祟りは塚を建てることで鎮められるのだし、末吉の八僧の話でも、孫十郎が丹誠こめて祈ったことで災いは止んでいる。
なぜこの話は語り継がれたのか
まとめに入る前に、この伝承が生き延びた理由を整理しておきたい。
第一に、地面に刻まれているからだ。コミノ川、フドウの沢、六ッパが峠、ハテイの川。話の登場人物が死んだ場所が、そのまま現役の地名として使われている。地名を口にするたびに話が起動する。忘れようがない。
第二に、更新可能な形をしているからだ。この伝承のコアは「東山付近で坊さんの悪口を言うと災いが起きる」という一行だけである。この一行があるかぎり、何か悪いことが起きるたびに、直前に誰かが軽口を叩いていなかったかを探せる。
昭和二十七年の土砂崩れがまさにそれだった。タコツキの掛け声に悪口を混ぜた翌日に七人が死んだ。この構造だと、伝説は永久に自分を証明し続けられる。
第三に、島の歴史がこの話に何度も裏書きしているからだ。飢饉は繰り返し起きた。漂着者は繰り返し来た。疫病も繰り返し入った。流人も千九百人来た。この話は、島で実際に何度も起きたことの、いちばん濃い煮詰めなのだ。
第四に、これがいちばん大事だと思うのだが、この話が加害者側の話だからだ。
七人坊主の伝説は、被害者が怖い話ではない。追い返した側の子孫が語り継いでいる話だ。「うちの村は、飢えた七人を追い返して、山で死なせた」。これを何百年も自分から語り続けるというのは、相当なことである。
しかも語りのなかで、村人は一度も正当化されない。柵を作った理由も、追い出した理由も、はっきり書かれない。ただ、誰も相手にしないで、食べ物もあたえず追い出してしまった、とだけ書かれる。
なぜこの話は怖いのか
で、結局この話のどこが怖いのか。
おれの答えは、祟りが「効いている」ことじゃない。効いていることにしないと、村がもたなかったことだ。
考えてみてほしい。飢饉の年に、村に七人の他所者が来た。食わせる物はない。追い返した。彼らは山で死んだ。その後も飢饉は続き、作物は実らず、家畜は死んだ。
ここで村人が「祟りだ」と言い出したのはなぜか。ミコを呼んで拝ませ、七人の坊主の祟りだという答えを得て、山に登って塚を建て、非情な行いを詫びたのはなぜか。
祟りだと認めることは、自分たちの落ち度を認めることだ。もし「あれは仕方なかった」で済ませていたら、塚は建たない。祟りという説明を採用した瞬間に、村は自分たちが悪かったと言ったことになる。
つまり、七人坊主の伝説というのは、罪悪感の外部化装置なのだ。抱えきれない後ろめたさを「祟り」という形にして山に置き、塚を建てて、そこに向かって謝り続ける。そうすれば村は日常に戻れる。
これが怖い。祟る亡霊が怖いんじゃない。人間が、自分のやったことに耐えるために、亡霊を必要とするという事実のほうが怖い。
そして、この装置は完全には作動しなかった。塚を建てても祟りはおさまらなかった、と伝承ははっきり書いている。詫びても済まない。だからタブーだけが残った。あの山で、あの人たちの悪口を言うな。それだけを守り続けるしかなかった。
飢えて追い返した七人が、山で死んだ。それだけの話だ。だが八丈島は、その一件を三百年しゃぶり続けている。しゃぶり続けなければならないほど、その選択は重かったということだ。
ここからは、上で書ききれなかったことを腰を据えて足していく。
まず、伝承の版をもう一度、精密に並べ直しておきたい。この作業をやると、七人坊主という話がどう組み上がっているかが見えてくる。
浅沼良次『八丈島の民話』所収「七人の坊さん」は、漂着説、平根が浦、上方から潮流で流された小舟、コミノ川の由来、おじゃる言葉の会話、気合いで鳥を落として生食い、村人が柵で道を封鎖、東山の頂上に住みつく、フドウの沢で一人・六ッパが峠で二人・ハテイの川で四人が死亡、白い衣の亡霊、農作物の不作と家畜の死、ミコの託宣、東山頂上に七人の塚、そして昭和二十七年の山崩れ、という順で構成される。
原話提供者は中之郷の二名。
同じ浅沼良次の『流人の島』所収「たたる七人の坊主」は、流罪説、罪名不明、中之郷あずかり、誰も相手にせず食べ物も与えず追い出す、東山の頂上近くに住み民家に近づけず、野草と海岸のアワビでしのぐ、七人とも餓死、白衣の亡霊、不作と家畜の死、ミコ、頂上の神木の下に七つの石地蔵、終戦後の引揚者五、六家族が一カ月で逃げ帰った話、そして昭和二十七年の事故、という順だ。
冒頭に「中之郷の東の位置に、南端に小岩戸岬をもっている東山が横たわっている」という地理説明が入るのが特徴で、これが実は決定的な情報を含んでいる。
というのは、「東山」がどこかという問題があるからだ。八丈島の東山は普通、三原山のことを指す。標高七百メートル、島の南半分を占める古い火山である。ネット上の解説記事も、東山を「現在の三原山」と説明するのがほとんどだ。
だが、事故現場である潮間林道――現在の東山林道――は、三原山の山頂とはかなり離れた、中之郷の東にある三百メートル足らずの山にある。
この矛盾を丁寧に指摘した書き手がいて、彼は『八丈島の民話』が「東山」としか書かず、地図を見ない読者に早合点させる書き方になっている、と批判している。
そして『流人の島』の書き出しにある「中之郷の東の位置に、南端に小岩戸岬をもっている東山」という記述が、まさにその低いほうの山を指していることを突き止めている。
これは、伝説の舞台をまるごとひっくり返す指摘だ。七人坊主が死んだのは三原山の山頂ではなく、中之郷の東にある低い山、海に突き出た小岩戸ヶ鼻をかかえる山塊のほうである可能性が高い。
そう考えると、七人坊主が「七人岬」とも呼ばれること、証言のなかで死んだ場所が「集落の外れの岬」とされていることが、すべて一本につながる。岬の上の山だったのだ。
この修正は、話の温度も変える。三原山の山頂だとすると、村から遠く隔たった山奥の話になる。だが中之郷の東の低山なら、村から見える。畑仕事をしていて顔を上げれば、そこにある。
追い返された七人が飢えて弱っていく様子が、村から見えていたかもしれない距離なのだ。
見えるところで人が死んでいく。声が届くかもしれない距離で死んでいく。これが正しい理解なら、この伝説の後ろめたさは、想像していた何倍も濃い。
次に、伝承の「六タイプ十二話」という報告について、もう少し踏み込みたい。中之郷の伝説総数四十七話のうち、七人坊主に関するものが六タイプ十二話ある。これは尋常な比率ではない。ひとつの村の伝説の四分の一が、たった一つの事件をめぐる話なのだ。
しかも六タイプというのは、単なる細部の揺れではなく、型として違うということだ。
おれたちが確認できた範囲でも、漂着型、流罪型、地名由来型――たとえば鳥を落とす場面が「ロッパガオバタ」という地名の由来譚になっている版がある――、そしてタブー型がある。同じ村で、同じ七人について、まったく違う型の話が並行して語られていた。
これは伝承としてはかなり特殊な状態で、普通は時間が経つと型が収束していく。収束せずに増え続けたということは、この話が村のなかで「使われ続けた」ということだ。
子どもに山の危険を教えるときにも使われ、地名の説明にも使われ、事故の説明にも使われ、飢饉の記憶を伝えるためにも使われた。用途が多い話は、用途ごとに形を変える。だから増える。
三つ目に、記録の系譜そのものを整理しておきたい。
いちばん古い層が『八丈実記』巻三の末吉村八僧の記事と、享和二年の『園翁交語』の華人祟り記事だ。どちらも十九世紀初頭、あるいはそれ以前の島の知識人が残したもので、この時点では「七人坊主」という固有名詞は出てこない。
出てくるのは「唐僧八人」と「華人」である。ちなみに『八丈実記』を編んだ近藤富蔵自身、探検家近藤重蔵の長男で、土地の境界争いから七人を殺めて文政十年に八丈島に流された流人だ。
彼はこの島で八丈実記を書き上げ、公立学校ができる前の末吉や三根で教員を務め、島の有力者の家の娘と結婚し、赦免後もこの島に戻って生涯を終えている。祟る七人の記録を書いたのが、七人を殺した男だった、というのは出来すぎた話だが、事実である。
次の層が昭和前期で、小寺融吉の「八丈島の話」がある。ここには、煙草入れと煙管を失くした若者の話が出てくるらしい。持ち物が手から失くなる、という『八丈実記』の八僧の祟りとまったく同じモチーフだ。
そして戦後、昭和二十六年に大間知篤三の『八丈島――民俗と社会――』が出る。これが七人坊主の背景を知る上での基本文献とされる。正徳元年の難破船と天然痘のパンデミック、村が柵を設けて感染者を締め出した記録は、この本にある。
昭和四十年に浅沼良次『八丈島の民話』が出て、七人坊主が「民話」として全国流通に乗る。日本の民話シリーズの一冊としてだ。同じ浅沼の『流人の島』にも別バージョンが入る。
そのあと、この話は二つの経路で大衆化する。ひとつは児童書だ。菊池俊が「七人ぼうずのたたり」を書いて、『ほんとうにあったおばけの話』のシリーズに収められた。子ども向けの怪談本にこの話が入った意味は小さくない。
ある世代の読者は、民俗資料ではなくこの本で七人坊主を知った。
もうひとつが、松谷みよ子の『現代民話考』だ。「死の知らせ・あの世へ行った話」の巻の「うらみ」の節、「のろって死ぬ」という項に、八丈島の七人坊主が例話として収録されている。出典は浅沼良次『流人の島』と明記されている。
ここに入ったことで、この話は日本の現代民話の正典に組み込まれた。
そして平成十四年一月三十一日、フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」が「八丈島人骨火葬事件・七人坊主の祟り」を放送する。この番組の情報源のひとつが、小池壮彦の『怪奇探偵の実録事件ファイル2』だった。
同書の第一章の巻頭が「謎の人骨火葬事件は七人坊主の祟りか?」で、小池は実際に八丈島まで取材に行っている。ただし前述のとおり、島民たちは話したがらず、はっきりした情報は得られなかった、という結果に終わっている。
この系譜を眺めると、面白いことに気づく。この伝説は、島の外の人間が持ち出すたびに、少しずつ「祟り」寄りにチューニングされてきた。島の記録では、飢えと誤解と後悔の話だ。
だが児童書ではおばけの話になり、テレビでは緑衣の亡霊が出てきて、心霊データベースでは「殺害してしまった」ことになり、火葬場の住所が登録される。
殺害説について、ここではっきり書いておきたい。心霊スポット系のサイトの多くが、「島民は彼らを迎え入れるどころか、冷酷にも全員を殺害してしまった」と書いている。
だが、文献に記録された伝承のなかで、村人が七人を直接手にかけたと書いているものは見当たらない。『八丈島の民話』も『流人の島』も、追い出した、相手にしなかった、食べ物を与えなかった、と書くだけだ。死因は餓死である。
この「餓死」から「虐殺」への変化は、たぶん二つの理由で起きた。ひとつは、話を短くすると因果がきつくなること。飢饉のなかで施しができなかった、という微妙な事情を削ると、追い出して殺した、という単純な悪行だけが残る。
もうひとつは、祟りの強度を上げたいという書き手の欲だ。殺されたほうが、祟りが強そうに見える。
だが、この改変は伝承の核心を殺している。この話の凄みは、殺していないところにあるからだ。誰も刃物を持っていない。誰も手を下していない。ただ、食べ物を分けなかった。それだけで七人が死ぬ。そして、それだけで三百年祟られる。
手を下していないからこそ、村人は自分を責め続けることができたのだと思う。刺し殺したなら、それは事件だ。事件なら裁かれて終わる。だが「何もしなかった」ことは裁かれない。裁かれないから、祟りという形で自分たちを裁くしかなかった。
四つ目に、人骨事件についての現実的な仮説を、公平に並べておこう。
改葬説。島には土葬した遺体を掘り返して焼き直すシャリトリの習俗があり、発見当日もこの炉で改葬が行われる予定だった。骨が死後十年以上経っていたことも合う。だが役場に届けが出ていない。無断でやる理由がわからない。
しかも島内六十四カ所の墓地に掘り返した跡がない。
人捨穴説。飢饉の口減らしで人を捨てたという言い伝えのある横穴が島にある。深さ三十四メートルとも言われ、難破した外国船の船員の遺体を供養もせずに埋めたという噂もある。ここの古い遺骨を誰かが不憫に思って弔ったのではないか、という説。
だが人捨穴は多くの人が訪れていて、平成まで七体分の骨が手つかずで残っていたとは考えにくい。骨の年代とも合わない。
旧日本軍関連説。八丈島には戦時中、人間魚雷「回天」の基地が置かれ、島のあちこちに陣地が築かれた。大坂トンネルの脇の擁壁に開いている巨大な四角い穴も、米軍艦を砲撃するために榴弾砲を据えたトーチカの跡である。
工事中に死んだ作業員の骨ではないか、という声が当時から出ていた。だが終戦から五十年、誰の目にも触れない骨が七体もあったとは考えにくい。
犯罪関連説。何かの事件の被害者を、証拠隠滅のために焼いた。だが骨は死後十年以上経っている。十年隠しおおせたなら、そのまま隠していればいい。わざわざ掘り出して、火葬場まで運んで、焼いて、置いていく理由がない。
密航者説。事件の二年前、毎日新聞が伝えた話がある。八丈島空港にほど近い寺の仏壇の下に、遺骨の入った木箱が並んでいた。それぞれに封筒が添えられ、遺体から写した顔写真が入っている。町の火葬許可書には「本籍、住所、氏名不詳」とある。
彼らの名前は「八丈島一号」から「六号」まで。いずれも身元不明の水死体として発見された。中国の福建省から冷凍運搬船でやってきて、密入国のために八丈沖で小舟に乗り換えたところ、大波にあおられて溺死したと見られている。
ブローカーは天候にかまわず密航者を小舟に移す。彼らはそうして海に落ちた。
この線をたどって、火葬場の七柱が「八丈島七号から十三号」ではなかったか、と考えた書き手もいる。魅力的な仮説だが、確証はない。密航者なら死後十年という鑑定と合わないし、施錠の問題も残る。
そして施錠の問題こそが、この事件の芯だ。当時、火葬場の鍵を持つ者は六人だった。密室である以上、鍵にアクセスできた人物か、あるいは過去に鍵を持ったことのある人物のなかに、答えはあったはずだ。それでも解決しなかった。
未解決事件の記事を追いかけていて、いつも思うことがある。真相がわからないこと自体は、そこまで怖くない。怖いのは、真相を知っている人が確実に存在していて、その人が黙り続けているという状態だ。島は狭い。当時の八丈島の人口は八千人ほどである。
そのなかに、あの三日間に炉を開けた人がいた。そして三十年経っても名乗り出ていない。
七柱の骨は、翌年三月に町の福祉課へ引き渡され、その日のうちに改葬されて、島の寺に納骨された。名前が書けないので、骨壺には役場の整理番号だけが記された。一年ほど本堂に置かれたのち、永代供養塔の下に埋められた。
ここでもう一度、伝説に戻りたい。
七人坊主の物語は、名前のわからない七人が島で死に、村人が塚を建てて祀った話だ。一九九四年の事件は、名前のわからない七体が焼かれ、町が番号をつけて寺に納めた話だ。
四百年近く隔たっているのに、やっていることは同じである。誰だかわからない死者を、それでもきちんと祀る。八丈島がずっとやってきたのは、結局これなのだと思う。黒潮のど真ん中にある島には、名前のない死者が流れ着き続けた。船が壊れて上がってくる。
病を持って上がってくる。飢えて上がってくる。密航に失敗して上がってくる。そのたびに島は、身元のわからない人間を弔ってきた。
そう考えると、七人坊主の祟りというのは、実は弔いを促す仕組みだったのかもしれない。祟るぞ、と言われれば、人は祀る。祀られれば、名もない死者にも居場所ができる。
祟りという言葉がなかったら、飢饉の年に死んだよそ者は、誰にも数えられずに終わっていた。
最後に、この島の名誉のために書いておきたいことがある。
八丈島は、よそ者を殺す島ではない。むしろその逆の記録のほうがはるかに多い。島に古くから唄われるショメ節に、こういう一節がある。沖で見た時や鬼島と見たが、来てみりゃ八丈は情け島。
流されてきた者たちは、この島で読み書きを教え、豆腐の作り方を教え、石碑の彫り方を教え、焼酎の造り方を教え、蚕の飼い方を教えた。島の人はそれを受け入れた。
宗福寺には、無実の罪で流されて抗議の断食のすえ死んだという慈運法印の墓があり、その墓に植えられた二本のソテツに花が咲くと赦免状が届く、という言い伝えから「赦免花」と呼ばれるようになった。ソテツは実際にはほぼ毎年花をつける。
それでも島の人は、それを赦免花と呼んでありがたがった。誰かが赦されることを、毎年願っていたということだ。
七人坊主の伝説を語るとき、この島を「よそ者を追い返した非情な島」として描くのは、たぶん決定的に間違っている。むしろ逆だ。情け島を自任していた島が、飢饉のせいで情けをかけられなかった。その一回の失敗を、彼らは三百年忘れなかった。
忘れられなかったから、塚を建て、地名に刻み、悪口を禁じ、盆になると外を歩くなと若い者に言い続けた。
坊さんたちが最初に交わした会話を、もう一度思い出してほしい。八丈島と申すと、情けにあつい島とうわさに聞いておじゃる。
この伝説がいちばん残酷なのは、その評判が本当だったことだと思う。本当に情け深い島だったから、追い返した記憶がここまで残った。冷たい島なら、七人くらい、とっくに忘れている。
