木曜の夜は、日付が変わってから寝る。
由紀の勤め先はホームセンターで、土日に出るかわりに金曜が休みだ。
風呂から上がって、東区のアパートで布団に入る。
携帯にイヤホンをさして、一時を待つ。
一時ちょうどに、甥の配信が始まる。
甥の湊は、宮若の実家から福岡の大学に通っている。
二年生の春から、夜中に声だけの配信を始めた。
題は「一時の噂ばなし」。
ネットに転がっている古い噂をひとつ読んで、湊があれこれしゃべる。
聞いているのは、多い夜で七、八人だ。
コメントを書くのは、そのうち半分くらいだ。
頼んできたのは、弟の隆だった。
「あいつ、夜中に何かしゃべりよるらしい」
「姉ちゃん、たまに聞いてやってくれん?俺が聞きよるってバレたら、すぐやめるけん」
隆は粕屋の倉庫で、夜中の一時半まで仕分けをしている。
仕事が終わると、久山を抜けて犬鳴峠を越える。
新しいほうのトンネルをくぐって、宮若の家に着くのは二時半ごろだ。
湊の配信が終わるころ、隆はちょうど峠にさしかかる。
犬鳴の話になった最初の木曜、湊はちょっと得意げだった。
「今日は犬鳴村です、地元なんで」
由紀は、暗い天井に向かって笑った。
地元といっても、実家から峠までは車で二十分かかる。
由紀が子どものころ、あのあたりはまだ若宮町と言った。
湊は、よく聞く噂から読んでいった。
峠の先に、地図にない村がある。
入口には、「この先、日本国憲法は通用しません」の看板。
近づくと、携帯が圏外になる。
入った者は、それきりだ。
「って、昔の掲示板で広まった話で、全部ネットの中の話です」
湊はそこで、声の調子を変えた。
「犬鳴っていう村は、本当にあったんです」
江戸のころ、福岡藩の言いつけで、足軽の家が何軒か移り住んだ。
藩の山の番をするためだったらしい。
明治に入って、まわりの村と一緒になった。
そのあと犬鳴ダムができて、集落のほとんどは湖の底に沈んだ。
「今は住んどる人はおらんで、ダム湖には司書の湖って名前がついとります」
「だけん、憲法が通じん村とかは作り話です」
「住んどった人たちを、そんなふうに言うのはやめましょう」
由紀は、布団の中でうなずいた。
湊は、こういうところがちゃんとしている。
旧犬鳴トンネルの話にも、湊は触れた。
新しいトンネルができてから、古いほうは使われなくなった。
今は入口を、コンクリートのブロックで塞いである。
そこへ向かう旧道にも柵があって、久山側の入口にはカメラがついている。
「行ったらいかんですよ、勝手に入ったら通報されますけん、ほんとに」
コメント欄に、「はーい」と「笑」が並んだ。
「最後に、あんまり知られてないやつを一個」
湊が開いたのは、古い掲示板の書き込みを集めたまとめのページだった。
読み上げる声が、少しだけ低い。
旧トンネルの奥では、天井から水が落ちる音がする。
その音にまじって、家族の声で名前を呼ばれる。
返事をしたら、
「ここで切れとるんですよ、この書き込み」
湊は笑った。
「続きがないんです、返事したらどうなるか、どこにも書いてない」
由紀の手が、掛け布団の上で止まった。
その文を、由紀は知っている。
打っているところを、すぐ横で見ていた。
隆が中学二年で、由紀が高校二年の秋だ。
居間のパソコンは、家族で一台きりだった。
母の帰りが遅い日は、由紀が晩ごはんを作る。
その夜も、台所から居間へ声を投げた。
「たかし、ごはんできたよ」
「今行く」
隆は返事だけして、まだキーボードを叩いていた。
由紀は居間まで行って、横から画面をのぞきこんだ。
最後の一行は、「返事をしたら、」のまま。
「続きは?」
由紀が聞くと、隆は送信を押した。
「続きは、誰かが勝手に書くけん」
そう言って、隆は先に台所へ行った。
その晩がカレーだったことまで、由紀は覚えている。
中学生のいたずらが、まだネットの中に残っている、と由紀は思う。
配信の湊は、笑いながら続けた。
「誰か、続き知っとる人おったら書いて」
コメントが、ぽつぽつと流れる。
「連れていかれる」
「返事したほうが消える」
「呼んだ家族のほうが帰ってこん」
その下に、見たことのない名前が出た。
しずく、とだけある。
アイコンは、灰色の丸のままだ。
「今は、ブロックの上の穴から呼ぶよ」
「穴?」
湊の声が、半分笑ったまま裏返る。
「穴とか、あったっけ、ブロックの上?」
しずくの書き込みは、その一つきりだった。
由紀はイヤホンを押さえて、天井の暗がりをにらむ。
隆が書いたとき、ブロックの話は一行もなかった。
弟の書きかけの一行に、知らない誰かが、今の形を足している。
配信が終わってから、由紀は隆にメッセージを送った。
「あんたが昔書いたやつ、湊が読みよったよ、犬鳴の」
返事は、二時四十分に来た。
家に着いたらしい。
「何の話?」
「居間のパソコンで書いたやつ、返事をしたら、で終わっとるやつ」
しばらくして、笑った顔の絵文字がひとつ届いた。
「そんなん書いたかね、全然覚えとらん」
由紀は携帯を伏せて、目をつむる。
次の木曜も、湊は犬鳴の話をした。
先週の配信の一部が切り抜かれて、あちこちに回ったらしい。
聞いている人は、四十人を超えている。
「先週の穴の話、調べたけど、よう分からんかった」
湊はそう言って、別の噂を読み始めた。
由紀は聞きながら、同じまとめのページを開いた。
隆の書き込みの日付は、隆が中二だった年の秋だ。
一時半を過ぎたころ、湊の声の後ろで、ぽた、と音がした。
由紀は最初、自分の部屋の音かと思った。
イヤホンを片方外す。
部屋は暗く、冷蔵庫が低くうなっているだけだ。
音は、イヤホンの中にある。
ぽつん。
少しあいて、もう一度、ぽつん。
「なんか、水の音せん?」
湊より先に気づいたのは、コメントのほうだった。
湊が、しゃべるのをやめる。
椅子のきしむ音がして、足音が遠ざかった。
「台所見てきた、流しもからからやった」
戻ってきた湊は、窓を開けたらしい。
カーテンレールのこすれる音が、すぐ耳元でした。
湊の部屋は、もとは由紀の部屋だ。
窓は、家の裏の用水路に向いている。
その向こうには、稲刈りの済んだ田んぼが続く。
虫の声が、どっと流れこんできた。
「上手やねえ」
虫の声の下から、やわらかい声がした。
小さい子をほめるときの、年寄りの声だ。
男か女かは、由紀の耳では聞き分けられないまま。
「え、誰」
湊が小さく言う。
「誰かおる、用水路のとこ」
「上手、上手」
声は、用水路のほうから、もう一度した。
マイクに、湊の荒い息が当たる。
窓から顔を出したのか、風の音がざらりと混じった。
「おらん、誰もおらん、水もほとんど流れとらん」
稲刈りが済んで、用水路の水は落としてある。
その暗い底に向かって、誰が何をほめているのか。
由紀は、布団の中で膝を抱えた。
そのとき、もうひとつ声が入る。
「みなと」
かすれた、男の子の声だった。
声変わりの途中で、高いところと低いところが割れている。
由紀の背中が、すっと冷えた。
その声を、由紀は知っている。
中学のころの、隆の声だ。
窓の閉まる音がした。
鍵をかける音が、二度続く。
「ごめん、今日はここまで」
湊の声の端が、震えている。
配信が切れる直前、コメント欄に一行だけ増えた。
書いたのは、しずくだ。
「上手やね」
次の日の昼、由紀は湊に電話をかけた。
「あれ、家のビデオから取ったんやないと?お父さんの、子どものころの」
実家の押し入れには、父の撮ったビデオテープが段ボールに一箱ある。
中学のころの隆の声なら、いくらでも入っている。
「そんなんせんよ、テープ見る機械も、うちにはもうないし」
湊の声は、まだ硬い。
「おばちゃん、あれ、親父の声なん?」
由紀は、すぐには答えられなかった。
誰かのいたずらだと、由紀は考えることにした。
しずくは、昔の書き込みを読んだ誰かだ。
声は、よそで拾ったものを、窓の外で流しているだけだ。
地元の同級生なら、隆の声も知っている。
そう並べてみても、ひとつだけ収まりが悪い。
中学のころの隆の声を、今、誰が持っているのか。
隆にも電話で話した。
遅番明けの隆は、電話の向こうで大きなあくびをした。
「狸に化かされたっちゃない?山やけん、狸ぐらいおるやろ」
笑い声が、少し遅れて聞こえる。
「あんたの声やったとよ、中学のころの」
「はいはい、湊にも、ほどほどにせえって言うといて」
湊は、配信をやめなかった。
聞いている人は、八十人を超えた。
「次で完結編にするけん、おばちゃんも聞いとって」
やめなさい、と言いかけて、由紀は飲みこんだ。
言えば、湊は意地になる。
隆の子だ。
それなら、横で聞いているほうがいい。
何かあれば、すぐ隆に電話もできる。
三回目の木曜は、風のない夜だった。
由紀は布団に入らずに、台所のテーブルに携帯を立てた。
イヤホンは、片方だけ。
湊は、最初から声が小さかった。
「今日は、返事をしたら、の続きを考える回です」
コメントが、次々と流れていく。
しずくの名前を、由紀は目で探した。
二時を回っても、何も起きなかった。
湊は、コメントの続きを一つずつ読み上げている。
連れていかれる、消える、入れ替わる。
読むたびに、湊の声が平らになっていく。
二時十三分。
画面の時計を見たのは、水の音が聞こえたからだ。
先週より、近い。
湊が、しゃべるのをやめる。
窓は閉めてある、と始まる前に言っていた。
ぽつん。
少しあいて、ぽつん。
それから、声がした。
「たかし、ごはんできたよ」
由紀は、自分の口を手でふさいでいた。
手のひらの中で、唇はちゃんと閉じている。
それでも、それは由紀の声だった。
十六か十七の、台所から居間へ投げた声。
語尾を少し上げる癖まで、そのままだ。
コメントが止まった。
湊も、何も言わない。
息の音だけが、マイクに当たっている。
その息の向こうで、別の声が答えた。
「今行く」
大人の男の声だった。
少しこもって、狭いところで響いている。
隆の声だ。
四十を過ぎた、今の隆の声だった。
「たかしって誰」
コメントの誰かが書いた。
湊が、かすれた声で言う。
「親父の名前」
その下に、しずくの名前が一行だけ流れた。
「上手に呼べたね」
携帯が震えた。
画面に、隆、と出ている。
二時十五分。
由紀が出ると、配信の音が通話に切りかわった。
「姉ちゃん、今、呼んだやろ」
車の走る音がする。
ハンズフリーの、少し遠い声だ。
「エアコンの吹き出し口から、姉ちゃんの声がした」
「ごはんできたよ、って」
「呼んどらんよ、うち、福岡の部屋におるよ」
「分かっとる、分かっとるけど、今行く、って言うてしもうた」
隆の笑い声が、途中でかすれた。
今どこ、と由紀は聞いた。
「新トンネル抜けたとこ、今から宮若に下りる」
トンネルの手前で、旧道の入口の柵を過ぎたという。
「柵の先の路肩に、狸が死んどった、腹出して」
「狸」
「俺、こないだ言うたやろ、狸に化かされたっちゃないかって」
「化かす方が、死んどったわ」
今度は、隆の声が少しだけ笑った。
由紀は、笑えずにいた。
「下りはカーブの多かけん、いったん切るよ、家着いたらまた」
「隆」
由紀は、弟の名前を呼んだ。
呼んでから、はっとして口を押さえた。
家族の声で、名前を呼ばれる。
「何ね」
「何でもない、気をつけて」
通話が切れたのは、二時十八分だった。
配信に戻ると、もう終わっていた。
湊からのメッセージが、二つ来ている。
「ごめん、切った」
「親父から何か来た?」
隆との電話のことを、由紀は短く打つ。
狸のことは、打ちかけて消した。
二時半に、由紀は隆に電話をかけた。
呼び出し音が長く続いて、留守番電話の声に変わる。
運転中だからだ、と由紀は自分に言い聞かせる。
もう一度かけて、同じ声を聞いた。
窓の外を、新聞配達のバイクが一台通っていく。
二時四十一分。
湊から、短いメッセージが来た。
「帰ってきた」
「車から降りて、普通に歩きよる」
由紀は、テーブルに額をつけた。
冷蔵庫のうなる音が、急に耳につく。
金曜の朝、由紀は車で宮若へ向かった。
県道を久山から上って、犬鳴峠を越える。
新トンネルの手前で、道の脇に旧道の入口の柵が見えた。
カメラと、勝手に入れば通報する、という意味の看板。
柵の先の路肩には、落ち葉が溜まっているだけだ。
朝のうちに、道路の人が片づけたんやろう、と由紀は思う。
速度は落とさずに、そのまま長いトンネルに入った。
実家の台所で、三人で湊のノートパソコンをのぞいた。
隆は、目の下が黒ずんでいる。
最初に開いたのは、隆の車のドライブレコーダーの記録だ。
峠のあたりは、二時十二分からの一本に入っている。
ライトの中を、県道が上っていく。
道の脇の暗がりに、旧道の柵が白く浮かんで、すぐ後ろへ流れる。
その先の路肩に、灰色のかたまりが横たわっていた。
狸だった。
腹を上にして、前足を胸の前で折りたたんでいる。
車は止まらずに、その横を過ぎた。
そのすぐあと、車の中の音が変わった。
エアコンの吹き出し口のあたりから、細い声がする。
「たかし、ごはんできたよ」
運転席の隆が、「今行く」と答えた。
迷いのない、昔のままの返事だった。
そのあと隆は「え」と言い、車はそのまま新トンネルに入る。
抜けたところで、由紀に電話をかけている。
「ここまでは覚えとる」
隆は、画面から目をそらした。
「なんで、今行く、て言うたんか分からん、口が勝手に言うた」
由紀は次に、湊の配信のアーカイブを開いた。
二時十三分、ぽつん、と水の音。
高校生の由紀の声が、隆を呼ぶ。
大人の隆が、今行く、と答える。
車の中の声が、この家の、湊の部屋のマイクに入っている。
峠から実家までは、車で二十分の道のりだ。
由紀の携帯の着信履歴にも、隆の名前がある。
二時十五分、三分十二秒。
三つの記録が、二時十三分のあたりで重なっている。
「書いたの、思い出した」
隆が、ぽつりと言った。
「姉ちゃんに呼ばれて、送って、カレー食べた」
「続き、何て書くつもりやったと」
隆は、しばらく黙っていた。
台所の窓の外で、用水路の水が細く流れている。
「それが、出てこん」
湊は、配信をやめると言った。
アーカイブも消す、と言いかけて、由紀の顔を見る。
「おばちゃん、どうする」
由紀は、三つの記録を自分の携帯にそろえてから、うなずいた。
コメント欄の「上手に呼べたね」の横には、しずくの名前のかわりに、退会したユーザー、とだけ出ている。
帰りも、由紀は峠を越えた。
柵のそばの路肩は、朝と同じだった。
狸がいたのは、記録の中だけだ。
アパートに着いてから、アーカイブをもう一度だけ再生した。
湊の「親父の名前」のあとに、水の音が続く。
ぽつん。
ぽつん。
三つ目の途中で、配信は切れている。
まとめのページの隆の書き込みは、今も「返事をしたら、」で止まっている。
返事は、もうした。
その先は、まだ白いままだ。
題材にした資料
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