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沖ノ島祭祀遺跡――海の正倉院と国家祭祀の変遷

海の先に浮かぶ御神体

福岡県宗像市の沖合、九州本土から約六十キロの玄界灘に沖ノ島が浮かぶ。周囲約四キロの小島。島全体が宗像大社沖津宮の境内であり、御神体として扱われている。

島に祀られるのは宗像三女神の一柱、田心姫神。九州北岸から壱岐、対馬、朝鮮半島へ向かう海路の途中に位置し、古代には航海の安全と対外交渉を祈る祭祀が行われた。位置がすべてを決めた。玄界灘のただ中に置かれた、海の関所のような島だ。

一九五四年から一九七一年にかけて、三次にわたる学術調査が実施された。四世紀後半から九世紀末まで続いた祭祀遺跡が確認された。鏡、武器、装身具、馬具、金属製の祭器、ガラス器など、出土品は約八万点。関連品を含めて一括で国宝に指定されている。

その豊富さから、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれる。ところが、倉庫はない。正倉院のような建物が島に建ち、宝物を整理して保管していた、という話とは違う。岩の上や陰、平坦地で神へ捧げた品が、その場に残った祭祀遺跡。

沖ノ島の神秘性は、禁忌と非公開性によって強められてきた。だからこそ、発掘で確かめられた事実、後世の伝承、現在の立入規則を混ぜずに見る必要がある。先に言っておくと、この三つはやたらとよく混ざる。

四世紀後半から始まった国家的な祭祀

沖ノ島で確認された祭祀遺跡は二十二か所。数え方に癖がある。調査報告では遺跡番号が二十三まであるが、第十四号と第二十号が同じ地点を指すため、実数は二十二となる。ちなみに、番号を数えて二十三だと思い込むと数が合わない。

最初期の祭祀は四世紀後半ごろに始まった。玄界灘が忙しくなる。倭の王権が朝鮮半島の諸国や中国大陸との関係を強め、玄界灘を渡る航海の重要性が増した時期にあたる。

当時の船を想像してみてほしい。風まかせだった。現代の大型船のように天候を予測し、エンジンで荒波を越えられる代物からはほど遠い。風向き、潮流、視界に左右され、航海は命がけだった。沖ノ島は大陸へ向かう海路上の目標となる島であり、無事な往来を願う祭祀の場に選ばれた。

桁違いの捧げ物。高価な鏡や武器を惜しまず捧げた規模からして、地域の漁民だけが行った小さな祈りというより、ヤマト王権が関与した祭祀とみられている。宗像地域を基盤とした豪族、宗像氏が航海と祭祀を担ったという見方も有力だ。

ただ、祭祀を担った人の氏名、役職、祝詞の言葉は遺跡に書かれていない。そこは空白のままだ。「天皇の命令で何年何月に誰が行った」と確定できる同時代記録もない。王権と宗像氏の関与は、品物の質、古墳群、海上交通、後世の文献を組み合わせた歴史的な解釈だ。

巨岩の上に鏡と剣を並べる

沖ノ島の祭祀は、場所と品の置き方から大きく四段階に分けられる。出発点は岩の上。最初が四世紀後半から五世紀初めごろの岩上祭祀。

巨岩の平らな上に品物を並べ、神へ捧げた。鏡、剣、玉類など、古墳の副葬品と共通する品が多い。むき出しだった。祭祀後に土をかぶせて埋めず、岩の上へ置いたため、当時は海や空に開かれた状態だったとみられる。

中国製の三角縁神獣鏡など、大型古墳の有力者に配られた品と同系統の鏡も含まれる。同じ鏡が海へ回った。王権が有力者との関係を築くために用いた威信財が、海上祭祀へ投入されたかたちになる。

この時期の祭祀を、古墳で行う死者への儀礼と同じものだとすることはできない。品目は似ていても、沖ノ島には墓の墳丘や遺体がない。権威ある品を人ではなく神へ捧げることで、航海と外交の成功を願ったとみられる。

祭りの場が岩の陰へ下りる

五世紀後半から七世紀ごろになると、祭祀の中心は巨岩の上から、その張り出しの下へ移る。岩陰祭祀と呼ばれる段階。

岩の陰は風雨を避けやすく、置かれた品がまとまって残った。金製指輪、馬具、武器、装身具、須恵器など、品目も多様になる。朝鮮半島に系譜を持つ金属器や装飾品もあり、海を越えた交流を物そのものが裏づける。

出土品の産地が海外だから、外国人が島を支配したという話にはならない。外交使節、贈答、交易、技術移転で倭へ入った品が、王権の祭祀に用いられた線が濃い。逆方向もあった。日本列島で作られた品が大陸側へ渡った例もあり、交流は双方向だった。

馬の話もしておく。馬具があることから、島で馬を飼っていたとも限らない。実用具をそのまま使ったというより、権力や移動を象徴する品として奉献したとみられる。島内に大規模な牧場や居住地があった証拠はない。

半岩陰祭祀から半露天祭祀へ

七世紀後半から八世紀初めごろには、岩陰の縁と平坦地を併用する祭祀が現れる。半岩陰、または岩陰・岩上から露天へ移る中間段階として説明される。

この時期には、金銅製の龍頭、雛形の機織具、容器など、祭祀専用に作られた小型品が増える。形代の登場。実用品や威信財を神へ渡す方法から、神に捧げるための形代を用いる方法へ変化した。

八世紀から九世紀末の半露天・露天祭祀では、巨岩群から少し離れた平坦地に祭場が設けられる。奈良・平安時代の律令国家が神祇祭祀を整えていく動きと重なり、土器、雛形品、祭器の組み合わせも定型化する。

四段階といっても、ある年を境にすべてが切り替わったわけでもない。境目はぼやけている。古い方法と新しい方法が重なる期間があり、遺跡の年代にも幅がある。祭祀場所の変化は信仰対象が別の神へ変わったというより、国家と地域社会の儀礼形式が変わった痕跡とみていい。

八万点の奉献品

沖ノ島の出土品は、すべてを並べれば一つの文明の宝物庫のように見える。長大な目録。銅鏡、鉄剣、鉄刀、甲冑、勾玉、金製指輪、金銅製馬具、ガラス製容器、金属製容器、雛形の織機、琴、紡織具、人形、舟形などがある。

品々の由来は日本列島だけに限られない。中国大陸、朝鮮半島との関係を示す製品があり、カットグラス碗にはササン朝ペルシアの文化圏につながる系譜が指摘される。遠い地域の製品が、交易網を経て東アジアへ運ばれ、最後に沖ノ島で捧げられた。

だからといって、ペルシア船が直接沖ノ島へ来た証拠にはならない。経由地は多い。物は人から人、港から港へ受け渡される。産地と最終出土地の距離は、航海者一人の移動距離というより、複数の交易圏がつながっていたことを示す。

まあ、八万点という数も、同じ日に大量の宝物をまとめて埋めた結果とは違う。五百年の総和。約五百年間、場所と形式を変えながら奉献が重ねられた総量だ。小さな玉や破片も一点ずつ数えるため、数字だけで一回の祭祀規模を想像するのは正しくない。

価値は豪華さだけにない。置き場所が効いた。どの岩のどこへ、どの品が、どちらを向いて置かれたかという位置情報が残ったため、祭祀の変化をたどれた。盗掘を免れた遺跡では、品物同士の関係が失われていない。

「一木一草たりとも持ち出すな」

沖ノ島には、こんな禁忌が伝わる。島から何も持ち出してはならない。島で見聞きしたことを口外してはならない。上陸前には海で禊をする。

これらは島を聖域として守り、奉献品が長く残る一因になったとみられる。ただ、現在知られる禁忌が四世紀から同じ言葉と形式で続いたと証明されてはいない。証拠が足りない。文書で具体的に確認できる禁忌は、主に近世以降の記録だ。

「不言様」と呼ばれる、島での出来事を語らない慣行も、秘密結社の掟とは違う。聖なる場所の日常化を避け、穢れや災いを外へ持ち出さない宗教的な規範として理解されてきた。

何も持ち出せないはずなのに八万点が発掘されたのは矛盾ではないか、という疑問も生じる。念のため書いておくと、学術調査は宗像大社と研究機関が協力し、記録と保存のために行った。調査後に遺構を埋め戻し、出土品を博物館などで管理する行為は、個人が記念に石や草を持ち帰ることとは性格が異なる。

理由は一つに絞れない。禁忌だけで遺跡が完全に守られたとも言い切れない。島では建物の造営や祭祀、調査が行われ、人の手が入ってきた。遠隔地で上陸が制限され、地形が険しく、信仰上の規範が働いた複数の条件が、保存状態につながった。

女人禁制と現在の立入禁止

ここからが、現代の沖ノ島でいちばん誤解されている話だ。沖ノ島は長く女人禁制の島として知られた。女性が上陸できない理由について、月経や出産に伴う血を穢れとする考え、海上労働の慣行、宗像三女神への配慮など、いくつもの説明が語られる。理由づけは割れている。

どれか一つが古代からの本来の理由だと確定した史料はない。宗教上の禁忌が形成された時代と背景を検討せず、「女神が嫉妬するから」と面白い物語だけを広めると、歴史的な女性排除の問題が見えなくなる。

昔は入れた。かつては毎年五月の現地大祭で、禊をした男性の一般参拝者が人数を限って上陸できた。ところが、その制度は終了している。二〇一八年以降、性別を問わず一般人の上陸は禁止された。

現在、島へ入れるのは宗像大社の神職や、許可を受けた調査・保全関係者などに限られる。だから「男性なら参拝できる」という観光案内は古い。女性だけが現在も一律に締め出され、男性観光客は自由に上陸できる、という状態とは違う。

二つは別物だ。女人禁制の歴史に対する評価と、文化財・自然環境を保護するための現在の全面的な入島制限も分けたい。前者には宗教とジェンダーの問題があり、後者は脆弱な遺跡と生態系を守る管理措置だ。

島へ渡らずに祈る場所

沖ノ島へ上陸できなくても、信仰が途切れるわけでもない。海の向こうを拝む。大島北岸には沖津宮遙拝所があり、天候が良ければ海の先の沖ノ島を望み、遠くから拝める。

宮は三か所。宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、九州本土の辺津宮で宗像三女神を祀る。海路上の三つの宮を結ぶ信仰が形成され、島へ直接渡らない人々も祭祀へ参加できた。

九世紀末ごろに沖ノ島で大量の品を捧げる古代祭祀が終わっても、信仰が消滅したわけでもない。奉献方法が変わり、社殿での祭祀や遙拝へ形を変えて続いた。形が変わっただけだ。

古代祭祀の終了を、航海技術が進歩して神へ祈る必要がなくなった、と説明するのは単純すぎる。律令国家の変化、遣唐使の停止、対外関係、神社制度、祭祀方法の変化が重なっている。原因は複合的だ。

世界遺産としての沖ノ島

二〇一七年、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」がユネスコ世界文化遺産へ登録された。登録対象は沖ノ島だけにとどまらない。

全体で一つの資産だ。沖津宮、沖津宮遙拝所、中津宮、辺津宮、新原・奴山古墳群などから成り、海上祭祀を担った宗像氏の墓域と、三宮へ展開した信仰の歴史を一体で示す。島の宝物だけを切り離さず、航路、祭祀者、地域社会まで含めた構成だ。

争点は登録範囲。登録過程では、沖ノ島の価値づけを祭祀遺跡に絞るべきか、三つの宮と古墳群まで含めるべきかが審査された。最終的には、四世紀から今日まで続く信仰の変化を関連資産全体で示すものとして登録された。

世界遺産になったから一般公開すべきだ、という意見もある。ところが、公開で踏み荒らされれば、遺物の位置や植生が失われる。正直、現地へ行けないのは不便だ。その一方で、立ち入らずに守ること自体が、聖域と遺跡の性格に合った保存方法として働く。

島に残るもの、記録に残らないもの

沖ノ島の発掘からは、いつ、どこで、どんな品を捧げたかがわかる。ところが、祭祀の全場面は復元できない。記録はそこで途切れる。参加人数、滞在日数、祈りの言葉、音楽、供えた食物、帰路の手順は、物として残りにくい。

巨岩を神そのものと見たのか、神が降りる場所と考えたのかも、時代によって違ったかもしれない。答えは出ていない。後世の神道用語を古墳時代へそのまま当てはめれば、当時の信仰を整いすぎた形にしてしまう。

かといって、発掘品を単なる外交貿易の残り物と見るのも不十分だ。高価な品を使用せず、海上の小島へ運び、回収しない行為には、経済合理性とは別の価値観が働いている。割に合わない話だ。危険な海を越えるため、彼らは最上級の品を神へ手渡した。

沖ノ島が伝えるのは、宝物の豪華さだけにとどまらない。国境が今の形になる前から、玄界灘が人と物の通路であり、その往来が祈りと不可分だったことだ。島を覆う禁忌も、海上祭祀も、時代ごとに姿を変えてきた。変わらない神秘の島という像より、五百年の祭祀と千年以上の信仰が積み重なった島として見る方が、遺跡の深さに近づける。

新原・奴山古墳群が示す祭祀者の基盤

話は陸に移る。世界遺産の構成資産に含まれる新原・奴山古墳群は、沖ノ島から離れた九州本土にある。五世紀から六世紀ごろの前方後円墳、円墳、方墳がまとまり、宗像地域の有力者たちの墓域とみられている。

古墳の被葬者名を直接記す墓誌はなく、一基ずつ宗像氏の誰に当たるかはわからない。それでも、海を望む台地に大型古墳を築いた集団が、航海と沿岸地域を掌握する力を持ったことはうかがえる。手がかりは立地。

両者はつながる。沖ノ島の奉献品には王権との関係を示す高級品があり、本土側にはそれを受け取り、船と人員を整えられる有力者の墓がある。島の祭祀だけでは見えにくい政治と経済の基盤を、古墳群が補っている。

王権が都から神職を送り、地域社会を介さず祭祀を完結した、という筋書きは成り立たない。都の神職だけでは回らない。海況を知る航海者、物資を準備する集団、島と本土の祭祀を受け持つ人々が必要だった。宗像氏を単なる地方豪族というより、海上交流を支える専門的な勢力として見る理由がここにある。

自然環境も保存対象になる

沖ノ島には祭祀遺跡だけでなく、原始性の高い森林と海鳥の生息環境が残る。島への上陸を増やせば、岩陰の堆積、土壌、植物、鳥類へ影響が及ぶ。森も鳥も対象だ。

遺跡は地面の下だけにあるものでもない。岩の表面も遺跡。岩の表面に残る品の位置、斜面を流れる水、樹根との関係まで含めて保存される。人が歩くことで土が踏み固められたり、小さな遺物が動いたりすれば、祭祀の配置を読む情報が失われる。

あえて掘り残す。調査者にも制限があり、必要な地点だけを記録し、終了後に埋め戻す方法が取られてきた。未調査区域を残すのは、研究の怠慢とは違う。将来、非破壊探査や分析技術が進んだとき、手つかずの比較資料として使える。

見せ方は他にもある。一般公開をしない代わりに、出土品の展示、三次元記録、データベース、遙拝所からの景観で、その値打ちを伝える必要がある。現地へ入る体験だけを文化財理解の中心にしない工夫がいる。

海路の変化と祭祀の終わり

静かな終幕。九世紀後半になると、沖ノ島で確認される大規模な奉献は終息する。これはある日突然、島が忘れられたという意味でもない。

外の事情が変わった。八九四年の遣唐使停止に象徴されるように、国家の公式な対外交通は形を変えた。朝鮮半島と中国大陸の政治状況、日本国内の律令体制も変化し、王権が高価な品を島へ運ぶ祭祀を続ける条件が薄れたとみられる。

同時に、宗像三女神の祭祀は社殿を持つ三宮へ整理されていく。沖津宮、中津宮、辺津宮を結ぶ信仰により、航海者だけでなく本土の人々にも神へ祈る道が開けた。

物を岩へ置く祭祀が終わっても、神への敬意と海上安全の祈願は別の形式で続く。祈りは残った。考古学が捉える「遺物が出なくなる時期」と、宗教史上の「信仰が終わる時期」は一致しない。

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