奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

歴史ミステリー

オカルト総合資料館

歴史ミステリー

史料に残る出来事と、後世に生まれた異説を分けて読み解きます。

275件の記事を収録しています。

この話について 1945年4月7日、沖縄方面へ向かった第二艦隊が米機動部隊の艦載機に襲われた。大和は坊ノ岬沖で転覆し、そのまま沈んでいる。大爆発が起きたこと自体は記録も写真も証言も残っていて、そこは動かない。 ところが、細かい数字になると資料がそろわない。着弾数も、沈没時刻も、戦死者数も、どの弾薬庫が最初に爆発したのかも、資料ごとに食い違う。そこへ「海底から

丘というより、もはや地形だ 大阪の堺、住宅地のど真ん中に、地形と呼ぶしかない大きさの丘がある。大仙陵古墳だ。宮内庁が仁徳天皇陵として管理している巨大な前方後円墳で、百舌鳥・古市古墳群の構成資産でもある。 先に断っておく。「仁徳天皇本人の墓」だとする治定と、考古学的に被葬者を個人特定できていることは、まったくの別物だ。ここを一緒くたにすると、この先の話が全部ぼ

この話について 壇ノ浦後の平家残党が山間部へ逃れた可能性は否定できないが、全国の「平家落人村」を一つの史実として証明する記録はない。椎葉、五家荘、祖谷、白川郷、秋山郷、檜枝岐などに類似伝説が分布し、地元の由緒、近世文書、観光・文学、山村の自己認識が重なって現在の物語になったとみるのが妥当である。 確認できる記録と伝承 椎葉村の伝承では、那須与一の弟とされる那

豊臣を追い詰めた手口と、海の向こうの黒幕説 方広寺の鐘に刻まれた文字から、この話は動き出す。冬の陣のあとに講和が結ばれ、堀が埋め立てられ、そして夏の陣で決着がついた。順番に並べていくと、徳川方が豊臣家を政治的にも軍事的にも追い詰めた策略が、はっきり見えてくる。 ところが、話はそこで終わらない。「スペインやポルトガルが秘密の資金を出した」「宣教師が豊臣軍の情報

祈りを隠すために、信仰そのものが形を変えた 江戸幕府が禁教を敷いた時代、それでもキリスト教信仰を手放さなかった人々がいた。 彼らが使ったのは、共同体の役職、口伝の祈り、暦、そして聖像だ。外から見ても信仰実践が見えにくい。そういう形に組み替えて、代々受け継いでいった。 ここで言う「暗号」は、数学的な暗号文のことではない。発覚を避けるための言い換え、偽装、口伝、

京の路上に、人がばたばたと倒れていた 室町時代の史料をめくると、同じ言葉が何度も目に飛び込んでくる。疫病、疱瘡、咳病、悪病。どれも人がたくさん死んだという意味で、書き残したのは公家であり、僧であり、寺社の役人だった。 飢饉が襲い、戦乱が続いていた。都には人が集まり、栄養状態は崩れていく。人も物も絶えず動いていたのだから、流行が広がる条件は、これ以上ないほど揃

掘れば十字架は出る。金貨は出ない 島原・天草一揆の籠城地、原城跡。ここからは十字架やメダイ、ロザリオの珠が出土している。弾丸も出ているし、人骨も出ている。一揆とキリシタン信仰が確かにそこにあったことを示す、重い遺物だ。 ただ、そこまでだ。「天草四郎が巨額の黄金を隠した」という財宝伝説を、これらの遺物が直接証明してくれるわけではない。出土品と黄金の話のあいだに

「鍵をあてれば読める」という話の正体 『古事記』と『日本書紀』は、8世紀初頭に編集された文献だ。中身は神話であり、系譜であり、伝承であり、歴史記事でもある。 政治的な構成、宗教的な意図、文学的な仕掛け、そして象徴表現。この辺りはまじめな研究対象として扱われている。ただし「一定の鍵で解読できる秘密暗号」が仕込まれた、と示す証拠のほうは確認されていない。そこがこ

山頂の石柱は、ただの石柱じゃない 山を登ると、頂上のあたりに四角い石柱が埋まっている。あれが三角点だ。地球上での正確な位置を決めるための、れっきとした国家基準点なんだよな。地図作成の土台になり、地籍測量にも使われるし、土地区画整理や災害対応の基準にもなる。 三角測量というやり方は、点同士を結んで三角網を組む。だから地図上に幾何学模様が浮かぶのは、陰謀でも何で

そもそも「縄文人」って誰のことなんだ 「縄文人」という言葉、なんとなく一つの民族の名前みたいに聞こえる。だが実際は違う。単一で均質な民族名ではないんだよな。長い縄文時代に、日本列島の各地で暮らしていた人々の総称だ。 古代ゲノム研究が描く筋書きはこうだ。縄文関連集団は東ユーラシアの古い系統から早期に分岐し、それから列島で長期間独自の人口史をたどった。 そして後

縄文人はなぜ人の形を焼いたのか 土偶は縄文時代の人形状土製品だ。手がかりは身体表現、出土状況、破損の具合、地域差あたりにある。そこから祭祀や生命、再生、社会関係といった用途が論じられてきた。 ただ、用途を直接説明する文字資料は一つもない。だから全土偶を一つの目的で説明することはできない。遮光器土偶の外見を宇宙服に見立てる説は、たしかに有名だ。とはいえ、縄文時

敗戦間際の島に、金塊は消えたのか 「山下財宝」という名前は、一度聞くと妙に耳に残る。日本軍が第二次世界大戦中に東南アジア各地から集めた金・宝石・美術品を、敗戦直前のフィリピンへ隠した。そういう筋書きの、とんでもない規模の伝説だ。話に絡んでくる要素も多い。戦争略奪、マルコス家の不正蓄財、宝探し、詐欺、文化財破壊が一本の線の上に並ぶ。 だから、実在するのかしない

神代文字で書かれた、もうひとつの日本史 竹内文書、正しくは竹内文献という。竹内巨麿と天津教・皇祖皇太神宮が20世紀初頭に世へ出した、文書と系図と神宝類の総称だ。神武以前に超長期王朝があった、日本を中心に世界史が回っていた、と語る。神代文字も出てくるし、世界宗教の開祖来日まで書いてある。 信仰団体はこれを古代から伝わった記録だと位置づけている。歴史学の側は真逆

御廟の中では、まだ話が終わっていない 高野山では、弘法大師空海が835年にただ死去したとは語られない。奥之院で今も禅定を続け、衆生を救っているとされる。これが入定信仰だ。 毎日食事を供える生身供は、その信仰をそのまま形にした実在の儀礼である。壇上伽藍の根本大塔は、密教世界を立体的に表現している。 一方で、噂のほうもよく育っている。肉体が生物学的に生存している

赤煉瓦の下に、本物の金庫室がある 旧唐津銀行本店は、1912年竣工の赤煉瓦調銀行建築だ。監修は辰野金吾で、設計を担ったのは清水組の田中實である。 地階も金庫室も、ちゃんと実在するし、存在自体はまったく秘密じゃない。やっかいなのはここから先の話だ。 建築の幾何学や西洋装飾をフリーメイソンの符号として読む説がある。財宝、隠し扉、夜の足音。この手の噂は、確認できる

水に囲まれた伯爵邸で、何が語られてきたか 福岡県柳川市に、水路がそのまま庭へ流れ込んでくる屋敷がある。柳川藩主立花邸「御花」、国の指定名勝だ。江戸期の御花畠を起源として、明治末の伯爵邸、松濤園、大広間、西洋館、家政局、東庭園、水路護岸までが一体で残っている。 この水路というのがくせ者で、柳川の治水、灌漑、生活、景観、そして庭園用水の歴史がまるごと乗っかってい

概要 旧開智学校は1873年開校、現存校舎は1876年竣工の擬洋風学校建築である。大工棟梁・立石清重は東京・横浜の洋風建築を実見し、旅行ノート、仕様帳、平面図、出勤簿など多数の建築資料を残した。したがって「知識の出所も設計過程も全く不明」という謎ではない。中央の八角塔屋は時計塔ではなく、授業開始・終了を知らせる鐘を吊った塔である。 確認できる歴史 開智学校は

概要 東大寺二月堂の修二会は752年に実忠和尚が始め、2026年で1275回を数えると東大寺が説明する。3月12日深夜、若狭井から本尊へ供える香水を汲む行法が「お水取り」である。若狭国の遠敷明神が水を湧出させたという縁起と、福井県若狭の鵜の瀬から水が地下を通って届くという伝説があるが、地質学的な連続地下水路が確認されたわけではない。 名称と建物 二月堂は本尊

設計図が無いという謎は、最初から無い 旧三笠ホテルの怪談は、たいてい同じ枕から始まる。設計者が分からない、図面が一枚も残っていない、だから建物そのものに秘密が仕込まれている、という筋書きだ。まあ、そこは先に片づけておきたい。この枕は、文化財の資料を一枚めくった時点であっさり崩れてしまう。 建てたのは実業家の山本直良で、軽井沢に立つ木造の洋風ホテルだ。1905

石畳の坂に貼りついた噂 オランダ坂は、長崎市東山手の旧外国人居留地に残る石畳の坂の通称である。当時の長崎では欧米人を広く「オランダさん」と呼んでいた。その人たちが通る坂だから、オランダ坂と呼ばれた。名前の由来は、驚くほど素直な話だ。 観光客がまず向かうグラバー住宅は、実は南山手にある。オランダ坂そのものの代表建築ではない。ここを取り違えたまま、話が転がってい

白亜の館の地下に、何があるのか 旧岩崎邸庭園は、1896年に三菱第3代社長・岩崎久彌の本邸として整えられた。設計はジョサイア・コンドル。洋館と撞球室、書院造を基調とする和館、そして近代的な芝庭が一体になった、明治期の邸宅だ。 公式資料で確認できる地下施設は2つある。洋館と撞球室を結ぶ地下道と、洋館の地下室だ。風水や陰陽による配置、財宝を隠した地下庫、設計図の

丘の上の「フランス寺」で何が起きたか 長崎の丘に、開国後の長崎居留地で暮らす外国人信徒のために建てられた聖堂がある。大浦天主堂だ。完成は1864年で、いまも現存最古の教会堂として残っている。そして翌年、ここで歴史が動く。 1865年、浦上の潜伏キリシタンがプティジャン神父の前で信仰を告白した。世に言う「信徒発見」だ。地下にプティジャン神父の墓所があることは、

上っても下っても誰ともすれ違わない堂 福島県会津若松市の飯盛山に、妙な形の仏堂が立っている。会津さざえ堂だ。正式な名は円通三匝堂。文化財指定名は旧正宗寺三匝堂という。六角三層の、ずんぐりした木の塔だと思ってほしい。 建てたのは正宗寺住職の郁堂。1796年、寛政8年のことだ。この人が考えたのは、上りと下りの参拝者が決してすれ違わない斜路だった。つまり二重螺旋で

近江屋の二階で何が起きたのか 慶応3年11月15日、西暦なら1867年12月10日の夜のことだ。京都の近江屋で、坂本龍馬が中岡慎太郎もろとも斬られた。龍馬はその晩のうちに死亡し、中岡も2日後に息を引き取った。 犯人については、佐々木只三郎が率いた京都見廻組の関与が今のところ最有力とされる。ただし実行者の全員、命令系統、政治的な黒幕まで断定できる決定的資料はな

死ぬまでの二日間に、彼は何を語ったのか 中岡慎太郎は陸援隊長として武力討幕を主張し、坂本龍馬とともに薩長連合の成立へ奔走した。慶応3年11月15日、西暦でいえば1867年12月10日のことだ。京都の近江屋で、中岡は龍馬とともに襲撃された。重傷を負いながらも、そこから約2日を生き延びた。亡くなったのは11月17日、30歳のときだ。 死ぬまでの二日間、中岡は事件

朝の坂道で、明治の最高権力者が斬られた 明治11年、西暦でいえば1878年の5月14日。内務卿だった大久保利通が、東京の紀尾井町清水谷で殺された。通勤の馬車ごと待ち伏せされての最期である。手を下したのは、島田一郎を中心とする6人の不平士族だった。 彼らは事件のあと、逃げも隠れもせずに自首している。しかも「斬奸状」という趣意書まで用意していた。誰がやったのか、

首が消えた半日が、すべての始まりだった 明治10年(1877年)9月24日、西南戦争最後の城山総攻撃で、西郷隆盛は倒れた。政府軍は遺体を確認し、首実検まで行っている。それでも「生きている」という話は消えなかった。 火種は三つある。戦闘直後に首がすぐ見つからず、胴体とは時間を置いて発見されたこと。西郷の圧倒的人気、そして明治政府への不信だ。 のちには「ロシアへ

斬られたのは本当、毒を盛られたのは? 岩倉具視が襲われた話のうち、確認できるものは一つだけだ。明治7年、つまり1874年1月14日に起きた「赤坂喰違の変」である。征韓論を支持する高知県士族9人が、赤坂仮皇居から帰る岩倉の馬車を刀で襲った。岩倉は斬られながら濠へ落ち、暗闇のなかで命を拾っている。 ところが、この話が語るのはもう一つの事件だ。1880年頃に毒を盛

短刀が光った玄関先 明治15年(1882年)4月6日のことだ。自由党総理の板垣退助が、岐阜の中教院での演説後に襲われた。場所は玄関付近、刃を握っていたのは相原尚褧という男だった。板垣は負傷したが、生きて帰っている。 実行者も凶器も犯行経緯も分かっているし、取調記録まで残っているから、事件の骨格はくっきりしている。それでも「政府が相原を送り込んだ」という説は消

話の骨格と、裏が取れなかったという結末 先に話の骨格を押さえておく。1886年、東京大学本郷キャンパスの工事現場から人骨が複数まとまって出てきた。そして読売新聞が、それを殺人事件の可能性ありとして報じた。ネット上で語られている筋書きは、おおむねこの形をしている。 ところが、裏を取ろうとした途端に手がかりが消える。東京大学の大学史をあたっても該当する記述が出て

空へ伸びた塔が、なぜ怪談になったのか 明治のなかば、浅草の空に妙な建物が生えた。1890年に開業した凌雲閣だ。高さは約52メートル、階数は12。だから誰もが「浅草十二階」と呼んだ。 日本初の電動式エレベーターが動き、東京を一望する展望が売りになった。百美人のような興行も打っている。近代都市の象徴、というわけだ。 ところが後年の記憶はまるで違う。周辺の私娼街、

触れ込みは派手、裏付けはゼロ この話が語るのはこうだ。1890年代、三井財閥の東京・大阪の倉庫や事務所で原因不明火災が相次ぐ。朝日新聞が霊的な炎や白い影を報じた。そういう筋書きになっている。 正直、裏を取ろうとした瞬間に足元が崩れる。三井の公式年表や史料紹介、三井文庫関係資料、新聞・図書検索を当たっても、この名称の事件は出てこない。連続火災の日時も施設名も新

谷底の街に眠るという、七つの名前 明治の渋谷には七つの怪異があった。そう語られることがある。人喰い池、首塚、鬼女の森、鳴る石、血の池、影の橋、幽霊坂、この七つで一組らしい。 新聞に載り、『東京怪談集』に記され、金王八幡宮の伝承にも残る。触れ込みはそう立派だ。ところが、この固定された七項目が見つからず、この話以外の郷土資料にも、渋谷区資料にも、金王八幡宮公式由

「10選」の中身を、片っ端から裏取りしてみた 「明治時代の歴史ミステリー10選」は、9件の個別記事に渋谷七不思議を足した案内ページだ。中身を一件ずつ当たってみると、史実の事件と民間伝承、そして出典がまるで見つからない創作的な事件が混ざっていた。とくに東京大学人骨事件、三井財閥怪火事件、岩倉具視毒殺未遂、渋谷七不思議の四つは、記事が示す形では確認できない。 元

名前も年代も出てこない話は、まず疑う 古代から中世のどこかで、伊勢神宮の神職が禁じられた儀式を行い、神罰を受けて失踪した。ネットで拾える怪奇事件として、この筋書きはかなり有名な部類に入る。ただ、腰を据えて中身を確かめようとすると、掴むところが一つもない。 消えたという神職の名前がない。年代もない。内宮なのか外宮なのか別宮なのか、場所すら書かれていない。儀式の

この噂、どこまで本当なのか 金田一耕助は横溝正史が生んだ架空の名探偵で、初登場は1946年に連載が始まった『本陣殺人事件』だ。倉敷市の公式資料によれば、金田一が横溝の疎開宅で構想された日は1946年4月24日とされる。 ところが、この話はまったく違うことを言う。1930年代の岡山で怪事件を調べ、呪いのメモを残して失踪した実在モデルがいた、と。だが氏名がない。

山が唸ると言った老人の話 明治の箱根に、大涌谷の噴火を言い当てた老人がいたらしい。住民に逃げろと警告して回り、誰にも相手にされなかった。予言はその通りになり、老人は神隠しのように消えた。調査したのは、そういう筋書きの記事だ。 ところが、調べ始めるとすぐに手が止まる。老人の氏名も年齢も居住地も、どこにも書かれていない。予言日、失踪日、噴火日、捜索記録、新聞名も

乾板に顔が浮かんだ、という話の正体 大正末期から昭和初期の千里丘陵に、念写ができる女性がいたらしい。実験の最中に錯乱し、乾板へ不気味な顔を残した。そんな筋書きの記事を、今回まとめて調査してみた。 結果から言う。事件名がない。被験者名も研究者名も出てこない。実験日、実験室、写真原板、当時の新聞記事、どれ一つ提示されないまま話だけが流通している。独立した記録も確

氏名も日付もない、埼玉の少女 1970年代の埼玉県の話だ。「霊が見える」と語る少女がいた。ある日その子は「霊に導かれる」とだけ言い残して消えた。家族の言い分はこうだ。娘は異界へ連れ去られたのだ、と。 そういう記事があったので調査した。ところが、調べようにも取っかかりがない。少女の氏名も年齢も出てこない。市町村も学校も失踪日も届出番号も、報じた報道機関の名すら

血痕と符だけを残して僧が消えた、という話 江戸時代の高野山で、ひとりの僧が禁忌の呪術儀式に手を出して失踪した。寺に残されたのは血痕と、見たこともない異様な符咒だけ。そういう記事を見つけたので、腰を据えて調べてみた。 結果から言うと、僧の名前が出てこない。寺院名も年代も儀式の名前も同じで、史料の巻次も、根拠にされている怪談集の書名すら書かれていない。この事件だ

降霊実験の夜に、一人が死んだという話 1920年代の東京。心霊研究者が主催した降霊実験の最中に、参加者の一人が突然死した。しかも直後に火が出て、実験記録がまるごと焼けたという。そういう記事を調べてみた。 ところが、名前が一つも出てこない。主催者も死者も霊媒も無記名だ。会場、日時、死因、火災場所、新聞記事、どれも同じだ。「東京心霊実験の怪死」という固有の事件を

天狗にさらわれた霊能者、という話の正体 大正時代の鞍馬山で、修行中の霊能者がふっと姿を消した。天狗に連れ去られたのだ、と噂された話らしい。その記事を一本まるごと調べてみた。 鞍馬寺の天狗伝説も、牛若丸の物語も、寺の公式な由緒として確認できる。ところが大正期の霊能者失踪のほうは、氏名も日付も出てこない。捜索の記録も、新聞も、口承の採録もない。実在する古い天狗伝

追える事件と、後から盛られた尾ひれ 御船千鶴子(1886―1911)と千里眼事件は、ちょっと特別な立ち位置にある。今回の歴史ミステリー群では珍しく、人物も実験も新聞報道も著作も具体的に追える実在の事件なのだ。資料が残っている、というのは強い。 ただ、この話ではいろいろが混ざっている。実験順序、山川健次郎の関与、他殺説、墓の怪異、現代の来訪者数。そのあたりが混

江戸の赤坂見附に浮かんだ青い火の噂 江戸時代の赤坂見附で、青白い怪火が浮遊したという。幕府が調査したが、原因不明だった。そんな一文から始まる記事を、腰を据えて調査した。まあ、江戸の怪談としては王道もいいところの入り口だ。 赤坂見附・外濠・溜池の地理史は、公的な記録できちんと確認できる。ところが怪火も、幕府調査も、紀州坂処刑場も、出典箇所を特定できない。『江戸

御金蔵から金が消えた、という話 幕府崩壊時、徳川家の莫大な金銀がどこかへ隠された。行き先は赤城山、静岡県田野口、日光だと語り継がれてきた話を、今回は史料の側から洗ってみる。 確認できる部分ははっきりしている。赤城山と小栗忠順を結ぶ埋蔵金伝説はあるし、百年を超える民間発掘も実際に続いた。テレビと書籍がそれを広めたのも事実だ。この三つは動かない。 一方で、足がつ

舞台のお岩と、四谷にいたお岩は別人だ 『東海道四谷怪談』は実在作品であり、四世鶴屋南北作の歌舞伎として1825年に初演された。芝居に出てくるお岩は、毒で容貌を損なわれて怨霊になる。ところが四谷左門町には、実在したと伝わる別のお岩がいる。この二人は、まず切り離して整理したほうがいい。 新宿区の公式伝承によれば、実在のお岩は夫婦仲が良かったうえに働き者で、彼女が

何が謎で、何が謎じゃないのか 京都の本能寺が襲われたのは天正10年6月2日、グレゴリオ暦だと1582年6月21日にあたる。攻めたのは明智光秀方の軍勢で、織田信長はそこで死んだ。ここまでは同時代史料が複数そろって裏づける。 謎はその先にある。未解明は、光秀の動機、事前の共謀者や黒幕の有無、そして信長遺体の行方の三つに絞られる。「光秀が攻撃したこと」自体は、べつ

十六歳の総大将、どこまでが事実なのか 天草四郎、本名を益田四郎時貞というこの少年は、実在の人物だ。1637年から38年の島原・天草一揆で、象徴的な総大将として掲げられた。南島原市は史跡資料でこう紹介する。島原・天草の領民およそ3万7千人が原城へ籠城し、益田四郎が一揆を率いた、と。 ところが、そこから先がやっかいなんだよな。出生年、正確な役割、容貌、洗礼、奇跡

猫が城主になった城で、本当は何があったのか 備中松山城と猫。この組み合わせで公的資料からきちんと確認できるのは、たった一匹の猫をめぐる話だけだ。2018年に城へ住み着き、「猫城主」に任命された雄猫、さんじゅーろー。中心にいるのはこの猫であって、それ以上でも以下でもない。 では、戦国武将の魂が猫へ宿り、古くからこの城を守ってきたという「猫武将」伝説はどうか。江

まず押さえておきたいこと 源義経とチンギス・ハンを同一人物とする説は、史料上成立しない。最大の問題は容姿や戦法の違いではなく、二人の生涯が同時進行していることにある。義経が日本で活動し1189年に衣川で死んだと同時代史料が伝える一方、テムジンはそれ以前からモンゴルで父母・兄弟・妻・子を持つ人物として系譜と物語を形成している。1924年の小谷部全一郎『成吉思汗

まず、どこまでが本当かを線引きする 阿波狸合戦は、徳島県小松島の日開野を中心に伝わる金長狸の物語だ。地域文化としての実在は明確である。 ただし、確認できないものもある。狸同士の戦争を史実とする記録は確認できない。特定の人間同士の地域紛争を隠した寓話だとする史料も無い。古代の『阿波国風土記』に豊作・厄除けの狸信仰が記された、という説明も見当たらない。 口承、講

名前だけの史料で組まれた黒幕劇 本能寺の変には黒幕がいた。そう言い切る筋書きが、いくつも並んで流れている。ここで見るのは物語の出来ではなく、根拠として置かれた史料のほうだ。名前しか出てこない引用が、どれだけ混ざっているか。 そもそも証拠が一つも出てこない この話の中核にある黒幕説には、肝心のものがそろっていない。命令書も資金記録も出てこない。連絡文も、同時代

まず押さえておきたいこと 「北海道開拓使の失踪事件」という固有の事件は確認できない。開拓使というのは、1869年から1882年まで北海道・千島・樺太の開拓と行政を担った官庁の名前だ。消えた人々の集団名ではない。入口からすでにずれている。 この話が挙げる事例は三つある。1872年に十勝川付近で5人、1873年に十勝の家族7人、1875年に根室で10人以上が消え

海の底に金塊の山がある、という話から 1185年の壇ノ浦合戦、平氏の敗北、安徳天皇と二位尼らの入水。ここまでは歴史でも文学でも地域史でも、核として確認できる。ところが、その先が急に怪しくなる。平氏が金塊と大量の刀剣、交易で得た財宝を積んだ船を丸ごと沈めたという話だ。 それが今も関門海峡の海底に残っている、という「財宝事件」は確認できない。三種の神器が海へ沈ん

卑弥呼を伝える中心史料は中国にある 邪馬台国と卑弥呼を考える出発点は、三世紀末に西晋の陳寿がまとめた歴史書『三国志』である。そのうち『魏書』東夷伝の倭人に関する部分が、日本で「魏志倭人伝」と呼ばれてきた。 独立した一冊の旅行記が残っているわけではない。中国王朝から見た周辺諸国の記録の一部であり、陳寿は卑弥呼と同時代に倭を訪れた人物でもない。魏の役所に届いた使

奈良盆地の東南に、やけに大きな遺跡がある 奈良県桜井市の纒向遺跡は、奈良盆地東南部に広がる3世紀を中心とする大規模遺跡である。三輪山を東に仰ぐ一帯で、地表に見えるのは田畑と住宅地ばかりだ。石垣も天守も、復元された宮殿もない。 それでも、邪馬台国の話が出るたびにこの名前が顔を出す。確認されたものは、計画性をうかがわせる溝と建物群、祭祀具、各地系統の土器、初期古

基本情報 箸墓古墳は奈良県桜井市にある全長約280メートルの前方後円墳で、最初期の巨大古墳の一つ。宮内庁は倭迹迹日百襲姫命の墓として管理する。墳丘への自由な立入りや全面発掘には制約がある。 何が分かっているか 周辺調査、墳丘形態、出土・採集資料、土器編年などから、3世紀中頃から後半を中心に築造年代が論じられてきた。規模と施工は、それ以前の墳墓を超える動員力と

「空白の4世紀」は何を指す言葉か 「空白の4世紀」は、中国正史に倭の対外関係がほとんど現れない時期を指す通称である。起点は266年の倭人遣使記事。終点は413年の倭王讃とみられる遣使記事だ。日本列島で出来事がなかったという意味ではない。 考古資料が見せる変化 この時期には、巨大前方後円墳が奈良盆地から各地へ展開する。副葬品・埴輪・葬送儀礼の共有と地域差も進む

資料 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣。X線調査を契機に、金象嵌された115文字の銘文が確認された。銘文は辛亥年、乎獲居臣(ヲワケ臣)と祖先系譜、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)への奉事を記す。 歴史的意義 ワカタケルを『古事記』『日本書紀』の雄略天皇に比定する見解が有力で、辛亥年を471年とみると、5世紀後半の王権と東国有力者の関係を示す同時代級資

熊本の古墳から出た、文字を持つ鉄の刀 熊本県和水町の江田船山古墳は、5世紀後半から6世紀初頭ごろの前方後円墳。まずはこの一行を覚えておいてほしい。豊富な副葬品のうち、銀象嵌銘をもつ大刀は、地方首長とヤマト王権、東アジアの金工技術を考える鍵である。刀一本が三つの話題の交差点になっているわけだ。出土品は国宝群として東京国立博物館に所蔵される。 読めない数文字が研

資料 奈良県天理市の石上神宮に伝来する鉄剣で、幹から左右三本ずつ枝刃が出る特異な形をもつ。表裏の金象嵌銘は、製作年、百済王世子、倭王への授与と解される語を含み、4世紀の百済・倭関係を考える第一級資料である。 確認事実 実物の銘文は錆や欠損があり、全字が鮮明ではない。年代干支、授受関係を表す語、王名の読みには複数説がある。刀身そのものは伝世品で、古墳から層位を

資料 一辺約2.3センチの金印で、印面に「漢委奴國王」。1784年に福岡・志賀島で発見されたと伝わり、国宝として福岡市博物館が所蔵する。『後漢書』の建武中元二年(57)に光武帝が倭奴国へ印綬を与えた記事と対応すると考えられる。 確認できること 蛇鈕、金質、字形・鋳造技法、同時代の漢印との比較は、後漢印制の文脈で研究されてきた。一般的な読みは「漢の倭の奴の国王

何が問題か 三角縁神獣鏡は、断面が三角形状に高い縁と神仙・霊獣文を特徴とし、日本列島の古墳から多数出土する鏡群。『魏志倭人伝』が魏から卑弥呼へ贈った「銅鏡百枚」と結びつける説が長く論じられてきた。 確認事実 同笵・同型鏡の分有関係、銘文、鋳造痕、古墳の年代・分布が政治的ネットワーク研究に用いられる。中国鏡の系譜を持つ一方、中国本土での確実な出土例の少なさ、列

資料 奈良県明日香村のキトラ古墳は7世紀末から8世紀初頭ごろの小円墳。石室天井に天文図、壁面に四神、十二支像、日月像が描かれる。壁画は国宝で、保存のため石室から取り外され修理・管理されている。 天文図の特徴 多数の星を朱線で結び、赤道・黄道と考えられる円、内規・外規など中国式星図の要素を描く。現存する本格的な東アジア古代天文図として極めて重要である。 謎と仮

古墳と発見 奈良県明日香村の高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初頭ごろの二段築成の円墳。1972年の調査で、石室壁面の男女群像、四神、日月、星宿図が発見され、飛鳥美術・東アジア交流研究を大きく進めた。 確認事実 築造時期は藤原京期(694―710年)を中心に考えられる。人物の服飾・持物、描画材料、墓制には中国・朝鮮半島を含む東アジア文化との関係がみられる。壁画

住宅地のそばに残っていた巨大円墳 奈良市西部、富雄川を見下ろす丘陵の端に富雄丸山古墳がある。築造は古墳時代前期後半、四世紀後半ごろ。墳丘の直径は一〇九メートルに達し、円墳としては国内最大である。 「丸山」という名から、きれいな円形の丘を思い浮かべるかもしれない。実際には、東北側に祭祀や埋葬の場とみられる造出しが付き、周囲には葺石や埴輪列がめぐっていた。墳丘の

遺構 奈良県明日香村の石舞台古墳は、6世紀末から7世紀前期ごろの巨大な横穴式石室をもつ方墳。墳丘上部の封土を失い、30数個・総重量約2300トンとされる巨石が露出する。盗掘を受け、副葬品と被葬者情報の多くが失われた。 蘇我馬子墓説 『日本書紀』は626年に蘇我馬子が「桃原墓」に葬られたと記す。古墳の年代、規模、蘇我氏の本拠とされる島庄の立地から、馬子墓説が有

「焼けた寺」と「現存する古建築」 奈良県斑鳩町の法隆寺西院伽藍には、金堂と五重塔が並ぶ。七世紀から八世紀初めにかけて建てられた建築群で、現存する世界最古級の木造建築として知られる。 ところが『日本書紀』には、天智天皇九年、すなわち六七〇年に法隆寺が全焼したという記事がある。「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」。夜半過ぎに火災が起き、一屋も残らなかったという意味で

発見が変えた通説 かつて和同開珎(708年)が日本最古の流通貨幣として広く紹介された。飛鳥池遺跡で富本銭、鋳型、鋳棹、未製品がまとまって出土し、7世紀後半の国家的工房で鋳造されたことが明確になった。 確認事実 飛鳥池工房は金・銀・銅・鉄・ガラス・漆製品を生産し、天武・持統朝の紀年木簡や皇族名、資財管理関係木簡が出土する。富本銭の七曜文と「富本」文字、製造工程

木簡とは 墨書した木札で、荷札、文書、帳簿、練習、呪符、削屑など用途は多様。平城宮・京跡から膨大な点数が出土し、正史が記さない役所業務、物流、食料、地方名、個人名、文字習得を復元できる。 何が分かるか 年紀・官司名・地名のある木簡は遺構の年代や機能を絞る。貢進物荷札は地方から都への税・産物移動、食料支給札は労働・饗宴、削屑は文書作成過程を示す。木簡は捨てられ

九千件は、ひとまとめの塊じゃない 正倉院の核にあるのは、東大寺大仏へ献納された聖武天皇の遺愛品だ。そこに文書、楽器、染織、調度、薬物、仏具などが加わり、全体で約9000件の宝物を伝える。北倉・中倉・南倉で由来は異なる。全部が一括して同時に海外から来た、というわけではないんだよな。 産地を言い当てるのが難しい理由 西アジア、中央アジア、中国、朝鮮半島との意匠・

今の本殿でも、見上げれば首が痛い 島根県出雲市に鎮座する出雲大社。その中心に立つ現在の本殿は、延享元年、一七四四年に造営された。高さは八丈、およそ二十四メートルだ。木造の神社本殿としては国内最大の高さを持ち、昭和二十七年に国宝へ指定されている。 平面は九間。九本の柱を三列ずつ配した造りで、正確には二間四方の母屋を柱間で九区画に分ける構成である。中央には心御柱

水中遺跡 長崎県松浦市鷹島沖の鷹島神崎遺跡は、1281年弘安の役で沈没した元軍船と積載品を伝える。2012年、日本初の海底遺跡の国史跡となった。陶磁器、碇、武器・武具、「てつはう」、船材、パスパ文字の管軍総把印などが確認される。 船体発見 2011年に1号沈没船、続いて2号船、2024年10月に3号沈没船が確認された。3号船は2025年度も竜骨・接合部などの

海の先に浮かぶ御神体 福岡県宗像市の沖合、九州本土から約六十キロの玄界灘に沖ノ島が浮かぶ。周囲約四キロの小島で、島全体が宗像大社沖津宮の境内であり、御神体として扱われている。 島には宗像三女神の一柱、田心姫神が祀られる。九州北岸から壱岐、対馬、朝鮮半島へ向かう海路の途中に位置し、古代には航海の安全と対外交渉を祈る祭祀が行われた。玄界灘のただ中に置かれた、海の

茶畑の造成中に見つかった銅板 一九七九年一月二十日、奈良市東部の此瀬町で、茶畑の造成作業中に小さな墓が見つかった。場所は奈良盆地を離れた山間の斜面で、平城京の中心から直線で十キロ以上東にある。 掘り出された銅板には四十一文字が刻まれていた。そこに記されていた名は「太朝臣安萬侶」。日本最古の歴史書の一つ『古事記』の序文に、編者として登場する太安萬侶である。 発

日光東照宮の奥、いろは坂の手前に「明智平」という地名がある。地元の観光案内を開くと、この名を付けたのは天海だと事もなげに書いてある。徳川家康の懐刀、あの大僧正・天海。 ここで引っかからない人はいないと思う。明智光秀といえば、主君・信長を本能寺で討ち、三日天下に終わった逆臣だ。なぜ徳川家の聖地に、よりによってその名を刻む必要があったのか。筋が通らない。 江戸幕

1872年12月、大西洋のど真ん中で一隻の帆船が見つかった。誰ひとり乗っていない。それでいて、静かに漂っていた。 船室のテーブルには食事の跡が残っている。船長の航海日誌は、つい数日前まで几帳面に記されていた。積荷は無傷。金庫の中の現金にも手がつけられていない。船員の私物も、妻子の衣類も、すべてそのままそこにあった。 ただ、人間だけがいない。船長ベンジャミン・

死んだはずの男が、家康の隣に立っている 明智光秀は本能寺の変を起こした。そして山崎の戦いで敗れる。逃亡中に落ち武者狩りに遭い、命を落とした。これが日本史の通説だ。 ところが、その光秀が生き延びていたという話がある。しかも僧侶として、江戸時代を通じて徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えたという。その僧の名は南光坊天海、「黒衣の宰相」とも「怪僧」とも呼ばれた天台宗の

牢で死んだはずの男が、静岡で医者をやっていた 江戸中期の博物学者にして発明家、平賀源内(ひらが・げんない、1728―1780年)。エレキテルの復元、本草学、戯作、蘭画と、手を出した分野が広すぎる。「日本のダ・ヴィンチ」と称されるのも分かる話だ。 ところが、その最期は業績の華やかさと不釣り合いなほど暗い。安永8年(1779年)11月、酔った上での行き違いから人

遺体だけが、どこにも無かった 寿永4年、西暦でいえば1185年の3月24日。長門国壇ノ浦、いまの山口県下関市の沖で、源平最後の海戦が終わった。平家一門はここで滅んだ。数え年で8歳、満なら6歳4か月の第81代安徳天皇も、入水して崩御した。 祖母の二位尼、つまり平清盛の妻・時子に抱かれ、幼帝は海へ消えた。「波の下にも都がございます」という一言とともに、姿を消した

三本足の霊烏が、いつのまにか秘密結社になる 「八咫烏(やたがらす)」と聞いて浮かぶのは、たいてい日本神話の霊烏だろう。神武天皇の東征を導いたとされる、三本足の烏だ。日本サッカー協会のシンボルマークとしても広く知られている。ところが現代のオカルト・都市伝説の世界では、この名は全く別の顔を持つ。 そこでの八咫烏は、日本最古の秘密結社ということになっている。皇室の

坪9000万円の土地に、誰も動かせない一画がある 東京都千代田区大手町。三井物産本社ビルやOtemachi Oneといった超高層ビルが林立する、日本屈指のオフィス街だ。そのビル群の足元に、明らかに周囲から浮いた小さな一画がある。石碑と灯籠が置かれ、線香の煙が絶えない。平将門の首を祀るとされる「将門塚」、通称「首塚」である。 地価公示ベースでいくと、坪9000

1587年7月22日、新大陸に上陸した117人 物語の始まりは、大西洋を渡ってきた三隻の船である。率いていたのは、画家であり統治者でもあったジョン・ホワイトだ。彼らが目指していたのは現在のバージニア州チェサピーク湾岸、そこに建設するはずの「ローリー市」だった。出資者は、女王エリザベス1世の寵臣サー・ウォルター・ローリーである。 すでに1585年、1586年と

1872年12月4日、大西洋上での奇妙な遭遇 その日、ジブラルタル海峡へ向けて航行していたカナダ船籍のブリガンティン船「デイ・グラツィア号」の船員たちは、奇妙な光景を目にした。アゾレス諸島とポルトガル本土の中間、北緯38度20分・西経17度15分の海上を、一隻の帆船が不規則に揺れながら漂っていたのだ。帆は半分だけ開かれ、あちこち破れて垂れ下がっている。信号を

ペルー南部の荒野に眠る巨大なキャンバス 首都リマから南へおよそ400キロ、ペルー南部の乾燥地帯イカ県。ナスカとパルパという二つの町の間に広がる、雨がほとんど降らない台地。その一面を、暗赤褐色の岩石が覆っている。この土地に、少なくとも2000年前の人々が、驚くべき方法で「絵」を刻みつけた。 やり方そのものは、拍子抜けするほど単純なんだよな。表面の酸化した黒っぽ

黄金の柩が開いた日から、話は始まる 1922年11月、エジプトの王家の谷。三千年以上ものあいだ、盗掘者の手からも砂漠の熱風からも守られ続けてきた少年王の墓が、ついに開かれた。開けたのは、ひとりのイギリス人考古学者である。 ハワード・カーター。長年の失意の発掘生活の果てに、この男は黄金で埋め尽くされた副葬品の山と、静かに眠るツタンカーメン王のミイラを発見する。

1900年、嵐が海底に暴いた「死体と馬の山」 事の発端は、ただの嵐だった。ギリシャ・シミ島出身の海綿採取ダイバーたちが、1900年の春、地中海名物の荒天にコースを外された。彼らの小船団は避難先を求め、クレタ島とペロポネソス半島のあいだに浮かぶ小さな岩礁、アンティキティラ島の港に逃げ込んだ。 海が凪ぐのを待つあいだ、船長ディミトリオス・コンドスは、せっかくだか

総督が3年ぶりに戻ると、村ごと消えていた 1590年8月18日、大西洋を渡ってきた一隻の船が、北米東海岸へと近づいていった。目指すのは、現在のノースカロライナ州アウターバンクスに浮かぶロアノーク島。船を率いるのは総督ジョン・ホワイトだ。 3年前、彼はこの島に117人の入植者を残し、食料と支援を求めてイギリスへと戻っていた。男も女も、子どもも老人も、そして生ま

海底から出てきた青銅の塊 地中海の紺碧の海底、水深およそ45メートル。そこに二千年以上も沈み続けていた難破船から、腐食した青銅の塊がひとつ引き揚げられた。誰もがただの装飾品か、せいぜい古い彫像の破片だと思っていた。ところが緑青にまみれたその塊を割ってみると、中から信じがたいものが出てくる。 何十枚もの精巧な歯車が、時計仕掛けのようにびっしりと噛み合って並んで

「素晴らしいものが見えます」――バレー・オブ・ザ・キングスの運命の一夜 1922年11月4日、エジプト・ルクソール西岸の王家の谷。考古学者ハワード・カーターは、すでに5シーズンにわたる発掘で成果を出せずにいた。資金提供者のカーナーヴォン卿から受け取っていたのは、「今シーズンで最後」という最後通牒めいた言葉だ。あとがない。 その日の現場は、それまで調査していた

東京都千代田区大手町。皇居のすぐそば、超高層ビル群にぽっかりと空いた一角がある。そこに平将門の首塚が、ひっそりと佇んでいる。ひっそりと、それでいて圧倒的な存在感を放っている。 地価にして坪数千万円とも言われる、日本屈指の一等地だ。それでいて、誰もこの土地を再開発しようとしない。いや、正確に言えば「できない」のだという。 平安時代に朝廷へ反旗を翻し、非業の死を

死んだはずの謀反人が、江戸を設計していたとしたら 日本の歴史ミステリーは山ほどある。そのなかで、これほど壮大で、これほど多くの人間を巻き込み、これほどしつこく語られ続けてきた「生存説」は他に思いつかない。主役の名は明智光秀。 天正十年(一五八二)六月、光秀は主君・織田信長を本能寺で討った。天下を掌握したかに見えたのは、わずか十一日。その十一日後、京都・小栗栖

崇徳上皇の生涯──呪われた出生から「大魔縁」への転落 崇徳の悲劇は、生まれたその瞬間から始まっていたと言われている。父とされる鳥羽天皇の中宮・璋子(しょうし、待賢門院)は、実は鳥羽の祖父にあたる白河法皇の寵愛を受けていた女性であった。後世に成立した説話集『古事談』は、崇徳は白河法皇と璋子の密通によって生まれた子であり、鳥羽にとっては実質的に「祖父の子」であっ

壇ノ浦の戦いと安徳天皇入水の完全な物語的再話 寿永四年三月二十四日(西暦1185年4月25日)、長門国壇ノ浦(現在の山口県下関市関門海峡)の海上では、源義経率いる源氏の軍勢と、都落ちして西国を漂流し続けてきた平家一門の最後の艦隊とが、雌雄を決する最終決戦に突入していた。平家の総帥・平宗盛の甥にあたる幼帝・安徳天皇は、このときわずか数え年で八歳。父は高倉天皇、

1947年、ヨルダン川西岸。死海のほとりの断崖に穿たれた、無数の洞窟のひとつ。そこへ一人のベドウィンの少年が石を投げた。その石が、人類最大級の考古学的発見の引き金を引いた。 少年の名はムハンマド・エッ・ディーブ。ターアミレ族の羊飼いだった。そしてその約3000年前、エルサレム神殿の至聖所に安置されていた「契約の箱」――アーク・オブ・ザ・コヴェナント。その箱が

伝説の全貌―三歳で帝位に就いた男が「大魔縁」に堕ちるまで 崇徳院、諱を顕仁という。生まれ落ちた瞬間から、この人物の運命は歪んでいた。表向きは鳥羽天皇の第一皇子とされながら、宮中には「実の父は祖父・白河法皇ではないか」という噂が絶えず流れていた。祖父・白河法皇と母・璋子(待賢門院)の関係を疑われた鳥羽院は、成長した顕仁を「叔父子(おじご)」と呼んで忌み嫌ったと

京の空が裂けて、朝廷の重臣が目の前で次々と焼け死んでいく。平安時代の都を恐怖のどん底へ叩き落としたのは、左遷されたたった一人の貴族の怨念だったと言われている。その名は菅原道真。 今日では学問の神様として、全国の受験生に拝まれている人物だ。その同じ男が、かつては日本史上もっとも恐れられた怨霊だった。平将門・崇徳天皇と並ぶ日本三大怨霊、その筆頭格である。栄光の頂

平安の都に「見えないもの」を操る男がいた。安倍晴明。その名を聞くだけで、五芒星と紙の人形、そして一匹の白い狐を思い浮かべる人は多いだろう。 だが伝説の厚化粧を剥がしていくと、この人物は二重写しの存在として立ち上がってくる。片方は驚くほど地味な官僚だった顔。もう片方は驚くほど派手な怪物じみた顔だ。 今回は葛の葉伝説の出生譚から式神使役、蘆屋道満との呪術対決、花

伝説の全貌――始皇帝との謁見から日本漂着まで 時は紀元前219年、あるいは221年ごろとされる。中国を統一したばかりの始皇帝は、東方巡幸の途上、斉の琅邪(ろうや、現在の山東省沿岸)に立ち寄った。そこに献策してきたのが方士・徐福である。「陛下、東の海上には蓬莱・方丈・瀛洲という三つの神山があり、仙人が住み、不老不死の霊薬を蓄えております。私に童男童女と技術者、

天正十年六月二日、未明の京に上がった火の手 天正10年(1582年)6月2日。まだ夜も明けきらない京都、本能寺。前日まで「敵は本能寺にあり」という光秀の号令など、信長は知る由もなかった。わずかな近習と共に、静かに床についていたのだ。物音に気づいた小姓たちが「下々の喧嘩でございましょう」と告げた。 その瞬間、鬨の声と鉄砲の音が四方から轟く。明智光秀率いる一万三

敗軍の将、伊吹の山中を彷徨う――三成、捕縛から処刑までの生々しい道程 慶長五年(1600年)九月十五日。関ヶ原の盆地に立ち込めた濃霧が晴れたとき、そこにはすでに東軍の勝利が確定していた。西軍総大将格として奔走した石田三成は、小早川秀秋の裏切りという致命的な一撃を受ける。笹尾山の本陣を捨て、そのまま戦場を離脱する。 だが、この逃避行こそが後世に語り継がれる怨念

概要――夭折の天才剣士、その光と影 新選組一番隊組長・沖田総司ほど、「美しく、そして呪われた」という言葉が似合う剣士はいない。天保十三年(一八四二年)とも十五年(一八四四年)ともいわれる曖昧な生年に生まれ、幼くして白河藩お抱えの剣術道場・試衛館に入門した沖田は、天賦の才によってあっという間に頭角を現す。近藤勇を「大将」と慕い、土方歳三を「兄貴分」と仰ぎながら

九枚目で必ず途切れる声――井戸の底で起きたこと 江戸・牛込御門内、番町と呼ばれた武家屋敷街の一角に、火付盗賊改役を務める旗本・青山主膳の屋敷があった。この家には代々伝わる家宝があった。南京渡りの染付の皿、十枚一揃い。一枚でも欠ければ家の格が傾くとまで言われた、まさに命より重い什器だ。 その屋敷に奉公していたのが下女の菊で、器量よく気立てもよく、屋敷の誰からも

戦後まもない頃、ある考古学者がラジオの座談会でこう言い放った。「日本の天皇家は、四世紀から五世紀にかけて、大陸から馬に乗ってやってきた征服者の末裔ではないか」。その名は江上波夫。彼が唱えた「騎馬民族征服王朝説」は、戦後日本史学に最大級の衝撃を与え、今なお歴史ファンの間でくすぶり続ける大論争の火種となった。その論争の中心にいるのが、第十五代応神天皇である。全国

天正十九年、西暦でいう一五九一年の二月二十八日。京都の聚楽第の一室で、一人の老人が静かに脇差を腹に突き立てた。享年七十、名は千利休。侘び茶を大成し、天下人・豊臣秀吉の側近くに仕え、「天下一の茶の湯者」と謳われた男の、あまりに唐突な最期だった。 切腹を命じられた理由は、表向きには「大徳寺山門に自らの木像を置いた不敬」とされる。ところが、その罪状の軽さと処罰の重

推古天皇十二年、飛鳥の宮に十人の男が同時に膝をつき、それぞれ違う訴えを口にした。ある者は隣村との水争いを、ある者は税の不公平を、ある者は嫁ぎ先での諍いを訴えた。ざわめきの中で、上座に座す若き摂政は目を閉じたまま静かに頷き、十人が語り終えるやいなや、一人ひとりの名を呼び、それぞれの訴えに的確な裁定を下したという。居並ぶ官人たちは息を呑み、やがて都じゅうにこの噂

五〇六年、大和の宮廷は深い動揺に包まれていた。第二十五代武烈天皇が、跡継ぎを残さぬまま崩御したからである。応神天皇以来続いてきたとされる皇統は、事実上そこで途絶えていた。 誰を次の大王に立てるべきか。群臣たちは連日評議を重ねた。最終的に白羽の矢を立てた相手は、男大迹王おほどのおおきみという人物だった。都からはるか遠く離れた越前国(現在の福井県)三国の地で暮ら

大坂夏の陣、真田信繁の最期 慶長20年5月7日。現在の暦なら1615年6月3日にあたる。大坂夏の陣の最終局面で、真田信繁の部隊は徳川家康の本陣へ迫った。 信繁は後世、「真田幸村」の名で知られるようになる。だが、本人が幸村と名乗ったことを示す同時代史料は確認されていない。そこで、ここでは史料上の名である信繁を使う。伝承や作品の中の人物を指す場合だけ、幸村と記す

試合が終わった瞬間、巨大な競技場から音が消えた 1950年7月16日、リオデジャネイロのマラカナン競技場で、ワールドカップのブラジル対ウルグアイ戦が行われた。 終了の笛が鳴ったとき、得点板はブラジル1、ウルグアイ2を示していた。公式入場者数は17万3850人。実際には20万人近くが詰めかけたともいわれる巨大な観客席が、にわかには結果を受け止められない人々で埋

サッカーが戦争を起こした、という短すぎる説明 1969年7月、中央アメリカのエルサルバドルとホンジュラスが交戦した。開戦の直前に両国代表がワールドカップ予選で三度対戦していたため、この戦争は「サッカー戦争」と呼ばれる。 名前だけを聞けば、試合の勝敗に怒った国どうしが武器を取ったように見える。実際、予選会場とその周辺では暴力が起き、新聞とラジオは相手国への敵意

紙の上に残ったのは、四十九通の同じ物語ではない 特攻隊員の遺書を集めた記事や書籍には、「四十九名」「百名」「千通」といった数が掲げられることがある。数は収録範囲を示すには便利だが、四十九人が一つの部隊で、同じ日に、同じ命令を受けて書いたわけではない。 海軍と陸軍、フィリピンと沖縄、士官と下士官、既婚者と未婚者では置かれた状況が違う。文書の種類も、正式な遺書、

三つの地名を一つの「出撃基地」にしない 鹿児島県には、知覧、万世、鹿屋、串良、国分、出水など、特攻作戦に関係した飛行場跡が残る。喜界島の飛行場も、沖縄方面へ向かう航空機の中継地点になった。 地図上ではいずれも南の島々へ続く線上にあるため、「知覧・万世・喜界島から若者が飛び立った」と一文で語られやすい。しかし、三地点の役割は同じではない。 知覧と万世は九州本土

「佐々木小次郎」と呼べる人物は、史料の中で少しずつ姿を変える 宮本武蔵の最大の好敵手。長い刀「物干し竿」を背負い、秘剣「燕返し」で武蔵を追い詰め、巌流島で敗れた美剣士。誰に聞いても返ってくる佐々木小次郎の像は、そのくらい明快だ。 ところが、決闘に近い時期の史料へさかのぼるほど、その明快さが溶けていく。名前も年齢も出身地も分からなくなる。武蔵の養子が建てた碑に

2017年、NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」が始まった。柴咲コウが演じたのは、女性当主・井伊直虎。戦国時代の遠江・井伊谷を舞台にした波乱の物語として、大きな話題を呼んだ。 ところが放送とほぼ同時期、井伊家ゆかりの研究者から、とんでもない異説が突きつけられていた。「その直虎は、実は女ではなく男だったのではないか」。根底を揺るがすこの問いは、いまも歴史ファンの

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城本丸御殿の松之大廊下で、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家旗本・吉良上野介義央に脇差で斬りかかった。この一瞬の刃傷沙汰が、翌年の赤穂浪士47名による吉良邸討ち入りへとつながり、「忠臣蔵」として300年以上にわたり日本人の心を捉え続ける一大物語を生むことになる。しかし物語の出発点である「なぜ浅野内匠頭は斬りつけたのか」

越後の龍、その生涯――「軍神」上杉謙信の物語 享禄三年(1530年)、越後守護代・長尾為景の子として生まれた虎千代は、幼くして城下の林泉寺に預けられ、住職・天室光育のもとで学問と禅を叩き込まれた。兄・晴景の跡を継いで長尾家の家督を継承したのは十九歳のとき。以後、元服して長尾景虎と名乗り、やがて関東管領上杉憲政から上杉の名跡と関東管領職を譲られて上杉政虎、さら

少年天皇は東京へ向かう前に入れ替わったのか 明治天皇は嘉永5年9月22日、現在の暦では1852年11月3日に京都で生まれた。幼名は祐宮、名は睦仁。父は孝明天皇、母は中山慶子である。 孝明天皇が1866年末に崩御すると、睦仁親王は翌1867年に践祚した。大政奉還、王政復古、戊辰戦争という政治の激変を経て、1868年に東京へ行幸する。 明治天皇すり替え説は、この

蝦夷地の最期――箱館戦争と土方歳三の物語 天保六年(1835年)、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農の家に生まれた土方歳三は、幼少期から薬売りの行商を手伝いながら剣術に励み、天然理心流の門下となる。のちに幼馴染であった近藤勇とともに江戸で剣術道場「試衛館」に集い、文久三年(1863年)、将軍上洛警護のために結成された浪士組に加わって京へ上る。ここ

大西洋に口を開けた「魔の海域」――なぜこの話は消えないのか フロリダ半島の南端、プエルトリコ、そして大西洋に浮かぶ英領バミューダ諸島。この三点を結んでできる海域は、およそ130万平方キロメートルある。そこが20世紀半ば以降、「バミューダトライアングル」という不吉な名で呼ばれるようになった。 船が跡形もなく消える。飛行機が無線を最後に忽然と姿を消す。救助に向か

越後の龍、その知られざる素顔 上杉謙信という名は、実のところ晩年の号にすぎない。幼名は虎千代、元服してからは長尾景虎と名乗った。のちに関東管領上杉家の名跡を継いで上杉政虎となり、さらに謙信と号した。天文11年(1542年、異説には1530年生まれとも)に越後国守護代・長尾為景の子として生まれたとされる。 若くして家督を継ぎ、越後国内の争乱を鎮めた。ここからが

1945年4月30日、ベルリンの総統地下壕。アドルフ・ヒトラーは拳銃で自ら命を絶ち、遺体は側近の手で焼却された。第二次世界大戦史における公式かつ確定した結末が、これだ。ソ連軍は遺体の一部を回収している。顎の骨や頭蓋骨の破片とされるものだ。 それらは長らく機密資料として保管され、後年の鑑定でもヒトラー本人のものと一致するとされてきた。にもかかわらず、戦後80年

1937年7月2日。世界一周飛行に挑んでいたアメリカの女性飛行家アメリア・イアハートが、太平洋上の小さな島を目指して飛び立った。目的地はハウランド島。そして彼女は、二度と姿を現さなかった。 同乗していたのはナビゲーターのフレッド・ヌーナン。二人を乗せたロッキード・エレクトラは、忽然と消息を絶った。アメリカ史上最大規模とも言われる捜索活動が展開された。それでも

大坂城が燃え落ちたあの日、本当に主君は死んだのか 慶長二十年(一六一五年)五月七日から八日にかけて、大坂城は徳川方の総攻撃を受けて炎上した。翌八日、天守近くの山里丸で、豊臣秀頼と生母の淀殿は自害したという。日本史の教科書に載る「大坂夏の陣」の結末。豊臣家はここに滅亡した、というのが公式の歴史の扱いだ。 ところが、落城の混乱のさなか、秀頼の遺体をその目で確かめ

砂漠に沈んだ王国という物語 中国北西部、タクラマカン砂漠の東端に広がるロプノール盆地。かつてここには、小さなオアシス王国が存在した。名は楼蘭(ろうらん)。シルクロードの交易路を扼する要衝として栄えた国だ。 紀元前後から西暦四世紀頃にかけて、この国は東西交易の中継地として繁栄した。ところが、話はある時期を境に途切れる。楼蘭は歴史書からふっつりと姿を消し、その所

「空飛ぶ円盤を回収した」という一枚のプレスリリース 一九四七年七月、アメリカ・ニューメキシコ州の田舎町ロズウェル近郊で、後に二十世紀最大のUFO事件と呼ばれることになる出来事が起きた。事の発端は、フォスター牧場を管理していた農夫ウィリアム・ブレイゼルが、牧場の一角で奇妙な残骸を発見したことに始まる。ゴムやスズ箔、頑丈な紙のようなもの、そして木の棒で構成された

炎上する大坂城で、秀頼は死んだのか 元和元年、慶長20年5月8日。現在の暦では1615年6月4日、大坂城で豊臣秀頼と母の淀殿が命を絶った。 前日の天王寺・岡山の戦いで豊臣方は敗れ、徳川軍が城へ迫っていた。千姫は秀頼の正室であり、徳川秀忠の娘でもある。城を出た千姫は、祖父の家康へ助命を願った。だが願いは聞き入れられず、秀頼らは山里丸の一角で自害したと伝わる。こ

江戸幕府を作った家康は、別人だったのか 徳川家康は幼いころ人質として今川氏のもとへ送られ、桶狭間の戦い後に三河で自立した。織田信長、豊臣秀吉と同盟や服属を重ね、関ヶ原の戦いに勝ち、征夷大将軍となった。75年の生涯にわたる歩みは、多くの書状と同時代記録に残る。 ところが、この長い人生の途中で本人は死に、まったく別の男が家康を演じたという説がある。 代表的なのが

越後の龍は女性だったという説 上杉謙信は、戦国時代を代表する大名の一人だ。越後の春日山城を拠点とし、武田信玄と川中島で争い、関東や北陸へ軍を進めた。出家して毘沙門天を信仰し、生涯正室を持たず、実子も確認されていない。 その謙信は、実は女性だったのではないか。そんな説がある。 根拠に使われるのは、まず生涯結婚しなかったこと。それに、毎月決まったころに腹痛があっ

孫市は「雑賀衆の王」ではない 戦国時代の紀伊に、鉄砲を自在に操る軍団がいた。その頭領は雑賀孫市。織田信長の大軍を撃退し、金で雇われれば全国どこへでも向かう傭兵王――創作では、このような姿がよく描かれる。 史料に現れる雑賀衆は、もっと複雑な集団だった。現在の和歌山市と海南市の一部に広がる複数地域の地侍、農民、漁民、商人らが、地縁と利害に応じて結んだ連合である。

右手の親指が、一本多かったという話 豊臣秀吉の右手には、通常より一本多い指があったという話が残る。後世の奇談として片づけたくなるが、そう単純でもない。ルイス・フロイスの『日本史』にも、前田利家の談話を伝える『国祖遺言』にも記述がある。単なるインターネット上の噂とは、はっきり区別できるわけだ。 ただし、遺骨や肖像から確認された身体所見ではない。複数の文章資料を

斑鳩寺に伝わる「地中石」 兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺には、「地中石」と呼ばれる球形の寺宝が伝わる。寺名は「いかるがでら」と読む。文字化けした原稿にある「旭盩寺」ではない。聖徳太子ゆかりの寺として知られる、あの斑鳩寺だ。 大きさはソフトボールほど。表面の凹凸や線が、海と陸を表すように見える。その形から「聖徳太子の地球儀」と呼ばれ、飛鳥時代の日本で世界地図が球体

兵馬俑は陵墓全体の入口にすぎない 秦始皇帝陵は、西安の東の臨潼区に広がる。紀元前221年に中国を初めて統一した秦王政、すなわち始皇帝の墓域である。観光写真でよく見るのは、整列した兵士像が出土した兵馬俑坑だ。しかし、兵馬俑坑は巨大な墓域の一画にすぎない。始皇帝の遺体を納めたと考えられる中心の墓室は、現在も開けられていない。 ユネスコの世界遺産登録範囲は約56.

小早川秀秋は、関ヶ原で西軍を裏切った若武者として知られている。家康の鉄砲に驚いて寝返り、大谷吉継の呪いで酒に溺れ、若くして死んだ――ここまでが有名な物語だ。でも、戦場で確認できる動きと、後世に整えられた因果応報の話は、同じではない。 関ヶ原で実際に起きたこと 慶長5年(1600年)9月15日、小早川秀秋は松尾山に大軍を置いていた。表向きは西軍側にいたが、戦闘

2019年10月31日の未明、首里城の正殿など9棟が焼けた。沖縄の象徴が炎に包まれる映像は、あまりに強烈だ。そこから「首里城は呪われている」という話まで広がった。 でも、首里城が何度も焼けた理由を歴史から追いかけると、超自然的な説明を持ち出す必要はない。政治の中心だったこと、木造建築だったこと、そして時代ごとの防火上の弱さ。それが重なっている。 五度の火災に

出口王仁三郎は、新宗教「大本」を大きくした宗教家であり、膨大な『霊界物語』を口述した人物だ。その文章が関東大震災や太平洋戦争後の出来事を予言していた、という話でも知られる。ただ、教団の歴史として確認できる出来事と、物語を後世の事件へ当てはめる予言解釈は、分けて読んだほうがいい。 出口なおと出会い、大本を広げた 王仁三郎は1871年、京都府亀岡市で上田喜三郎と

支倉常長は、仙台藩から太平洋を渡り、スペイン国王とローマ教皇に会った武士だ。旅の規模だけでも十分すごいのに、伊達政宗が徳川幕府を倒すための軍事同盟を求めた、という説までついて回る。まず押さえたいのは、使節の航路と外交文書から確認できること。そして、政宗の胸の内を推測した後世の物語は分けて読むことだ。 月浦からローマまでの長い旅 日本とスペインの交流が動き出す

ハワイには、人が眠っている夜だけ働き、一晩で石の壁や水路を作ったという「メネフネ」の伝説がある。小柄で働き者、姿を見られるのを嫌う、不可能に見える工事をあっという間に終える。そんな語りが島々に残っている。一方で、実在した先住集団の記憶だという説も、比較的新しく作られた物語だという説もある。遺構の存在と、小人族の実在は分けて見たい。 夜に働くメネフネの伝承 伝

箱の中を確かめない継承 皇位継承のときの「剣璽等承継の儀」を思い浮かべてほしい。黒い箱と細長い包みが、侍従の手で運ばれる。中にあるとされるのは、草薙剣の形代と八尺瓊勾玉だ。ところが、新しい天皇がその箱を開け、品物を一点ずつ確認する場面はない。中身を見ないまま受け継ぐこと自体が、儀式の作法になっている。 普通の引き継ぎなら、まず現物を出して数を合わせるところだ

石川五右衛門と聞けば、派手な着物の大泥棒や、釜の中で最期を迎える姿がすぐに浮かぶ。でも、その生涯を丸ごと史実として読んでしまうのは危ない。記録から見えるのは、1594年ごろの京都で盗賊たちが厳しい刑に処されたこと。そして後世、その出来事を芯にして、忍者、義賊、秀吉暗殺といった物語が重ねられていったことだ。 同時代の記録から見えること 五右衛門の実在を考えると

応仁の乱には、話を一気にわかりやすくする説明がある。「日野富子が、わが子を将軍にするために仕組んだ」というものだ。ただ、実際の経過を追うと、一人の黒幕ですべてを説明するのはかなり苦しい。将軍家だけでなく、畠山氏と斯波氏でも後継争いが起き、そこへ細川勝元、山名宗全、将軍側近らの対立が重なっていたからだ。 史料から追える大乱の流れ 応仁元年(1467年)、京都で

「結界」と聞くと、見えない壁で町ごと守る陰陽師の姿が浮かぶ。でも日本に残る結界の話を並べてみると、同じ一語の中に別々のものが同居している。寺院が修行の場を区切る決まりもあれば、山の聖域へ入る人を制限する制度もある。都市の方角を神仏が守るという後世の解釈も混ざっている。 先に言っておくと、この三つは一緒にせず、分けて見たほうがずっとわかりやすい。 そもそも結界

1945年の日本には、爆弾だけでなく大量の紙も空から落ちてきた。米軍が撒いた宣伝ビラ、いわゆる「伝単」だ。空襲への恐怖が続く中、敵国の言葉が突然、家の近くへ降ってくる。その不気味さは想像しやすい。 一方で、戦後にはこんな話も広まった。「あれは原爆投下を事前に知らせるビラだった」というものだ。これは、伝単が存在した事実とは分けて考える必要がある。 伝単は実際に

「七不思議」という発明 「世界の七不思議」という言葉を聞いて、多くの人はギザの大ピラミッドやバベルの塔的な空中庭園を思い浮かべるだろう。だが、この「七つのリスト」は最初から確定していたものではない。時代ごとに何度も編み直されてきた、いわば人類の「すごいものランキング」の系譜だ。 古代、中世、自然、水中。実に多様な「七不思議」バージョンが存在する。 起源は古代

乙巳の変は、645年、飛鳥の宮中で蘇我入鹿が斬られた政変だ。中大兄皇子と中臣鎌足が計画し、その後の政治体制を大きく動かした事件として知られている。ただし、暗殺現場の細かな描写も、入鹿が殺された本当の理由も、現場で作られた記録からそのままわかるわけではない。事件の記録、後世の伝承、現代の解釈を分けて見ていこう。 『日本書紀』が描く暗殺の場面 『日本書紀』によれ

絵島生島事件は、「大奥の女性と人気役者の禁断の恋」としてよく知られている。けれども、確実に追える発端は、絵島が芝居を見たあと、江戸城へ戻るのが門限に遅れたことだ。二人が本当に恋愛関係だったのか、事件が大奥の派閥争いに利用されたのかは、今もはっきりしない。 芝居見物から始まった門限違反 正徳4年(1714年)1月12日、大奥の御年寄だった絵島は、七代将軍徳川家

白虎隊士中二番隊の少年たちは、飯盛山から燃える鶴ヶ城を見て、落城したと思い自刃した。よく知られた話だ。ところが、当日の城はまだ落ちていない。少年たちの目に映っていたのは、城下の火災だった可能性が高い。それでも、単なる見間違いだけで19人の死を説明することはできない。 戦場から飯盛山へ 慶応4年(1868年)8月、会津藩は新政府軍と戦っていた。白虎隊は、16歳

「日本人でありながらシャムの王になった男」。山田長政はときどきそう語られる。たしかに、17世紀初めのアユタヤで日本人集団を率い、王朝の政治や軍事に関わった人物ではある。ただ、王になったという記録はない。出世も死にざまも、後世の脚色が相当に混じっている。 駿河生まれの男がアユタヤに現れるまで 長政は駿河国の出身と伝わり、通称は仁左衛門だった。若いころは足軽小頭

山形県の庄内地方には、僧侶の姿を保った「即身仏」が、いまも寺院に安置されている。生前から厳しい食事制限を続け、最後は地中へ入り、そのまま仏になった人々。世間に広まっているのは、だいたいそういう話だ。ただ、修行の細かな手順には伝承が混じっているし、遺体に死後の処置が加えられた線も残る。信仰と身体保存の仕組みは、そこで分けて見たい。 死んだ人ではなく、今も祈って

かぐや姫は月から来た宇宙人だった。実在の高貴な女性をモデルにした。奈良の竹林で生まれた――。『竹取物語』には、いろいろな「正体」が語られてきた。ただ、かぐや姫本人が実在したと示す記録はない。作品の成立、実在の官人を思わせる登場人物、各地の伝承を順に分けて見よう。 作者も成立年もわからない古い物語 『竹取物語』は、平安時代に成立した古い物語文学だ。紫式部は『源

浦島太郎といえば、いじめられていた亀を助け、竜宮城で乙姫にもてなされ、最後に玉手箱を開けて老人になる話だ。でも、古い記録の浦島は少し違う。亀は助ける相手ではなく女性へ姿を変え、行き先も竜宮城ではなく蓬萊山だった。物語は長い時間をかけて、かなり大きく作り替えられている。 『日本書紀』の浦嶋子は亀を助けていない 『日本書紀』の雄略天皇22年の条には、丹波国の水江

秋田の黒又山、富山の尖山、広島の葦嶽山は、きれいな三角形に見えることから「日本のピラミッド」と呼ばれてきた。山中の巨石、地中の段差、周辺遺跡との配置も根拠として挙げられる。でも、超古代人が山を築いたと確認できる考古資料はない。この説がどう作られたのかから見ていこう。 酒井勝軍が広めた日本ピラミッド説 日本ピラミッド説を広めた中心人物は、酒井勝軍だ。酒井はキリ

姫路城には、今も「お菊井戸」と呼ばれる井戸がある。皿を一枚ずつ数える幽霊の話は、江戸の番町皿屋敷が有名だが、姫路には別の筋書きを持つ播州皿屋敷が伝わっている。井戸は実在する。ただし、お菊という女性がそこで殺されたことまで確認できるわけではない。 姫路に伝わるお菊の物語 播州皿屋敷では、物語の舞台は戦国時代初めの姫路とされる。城主の小寺氏を倒そうとする家老・青

鎌倉の大仏は、最初から青空の下に座っていたわけではない。かつては大仏殿の中に安置されていた。その建物が失われ、再建されなかったため、現在の「露座の大仏」になった。厄介なのは、大仏殿を最後に壊したのが台風、地震、津波のどれだったのか、はっきり決められないことだ。 大仏殿は確かにそこにあった 高徳院の本尊は、銅造阿弥陀如来坐像だ。この銅製の大仏は、建長4年(12

世界中で語られる「上半身人間・下半身魚」の謎 ギリシア神話のトリトン、フランスの伝説上の女性メリュジーヌ、日本の八百比丘尼――世界中の神話や伝承には「上半身が人間で下半身が魚」という共通の形態をもつ存在が登場する。大航海時代にはコロンブスやハドソンといった探検家たちも自らの航海日誌に人魚目撃記録を残している。 一般にはジュゴンやマナティーといった海棲哺乳類の

「人類は、金を掘らせるために宇宙人が作った」。アヌンナキをめぐる説は、そんな強い一文で広がった。元になった古代メソポタミア神話には、神々が労働を任せるために人間を作る話がある。ただし、そこに遺伝子操作、金鉱山、未発見惑星を加えたのは、20世紀の作家ゼカリア・シッチンによる独自解釈だ。 古代神話に書かれていること メソポタミアの『アトラハシス叙事詩』などには、

# 羅生門は実在したのか――『今昔物語集』の鬼が棲む門の正体 芥川龍之介の小説で知られる羅生門には、ちゃんと実在した門の記憶がある。ただし、歴史上の門と、老婆が死体の髪を抜く話、渡辺綱が鬼の腕を斬る話は、もともと一つの出来事ではない。長いあいだに別々の物語が重なり、「鬼が出る都の門」というイメージができあがった。 平安京の正門だった羅城門 門の本来の名は「羅

# 崇峻天皇暗殺の謎――蘇我馬子に殺された唯一の天皇 飛鳥時代の592年、崇峻天皇は宮中で命を奪われた。『日本書紀』は、蘇我馬子が計画し、東漢直駒が実行したと記す。天皇の死をここまではっきり臣下側の行動として書いた例は異例だ。 ただし、残された記録だけで事件の動機まで断定することはできない。馬子がただ権力を欲しがったという単純な話なのか、朝廷内の対立が背景に

# 道鏡事件の真相――宇佐八幡の神託は何を決めたのか 奈良時代の僧・道鏡には、「女帝に取り入って皇位を奪おうとした怪僧」というイメージがつきまとう。ところが、事件を伝える記録をたどると、道鏡本人が皇位を望んだと明言した場面は出てこない。宇佐八幡宮から届いた神託と、それを否定する二度目の神託が、政治を大きく動かしたことが分かるだけだ。 道鏡は本当に天皇になろう

# 補陀落渡海――南の海に観音浄土を求めた人々 紀伊半島の南、熊野の海から小舟で沖へ出て、観音菩薩の浄土を目指す。補陀落渡海は、そんな信仰にもとづく宗教実践だった。現代では「恐ろしい航海」として紹介されがちだが、当時の人にとっては、死後ではなく生きた身のまま浄土へ近づこうとする切実な行だった。 ただし、記録に残る渡海がすべて同じ形だったわけではない。本人が強

# 秦氏の正体――渡来系氏族の史実とユダヤ人説 京都の太秦、広隆寺、伏見稲荷大社、松尾大社。これらをたどると、古代の渡来系氏族・秦氏の名に行き着く。養蚕や機織り、治水などの技術に関わり、朝廷の財政や山城国の開発を支えたとされる大きな集団だ。 その一方で、「秦の始皇帝の子孫」「古代ユダヤ人の一族」「景教を日本へ運んだ人々」といった説も語られてきた。歴史史料に書

神様も妖怪も戦争に出た――戦場で怪異が語られた理由 戦争の記録に出てくるのは、作戦や兵器の話だけじゃない。神や妖怪、正体の分からない兵士が現れたという話も、しっかりついて回る。日露戦争では撃たれても倒れない兵士、太平洋戦争では敗戦を告げる予言獣。海外にも、天使や小さな怪物が兵士を助けたり困らせたりする話がある。 もちろん、こうした話を戦闘の事実と同じようには

史上最大の海戦、その最終局面で 1944年10月23日から26日にかけて、フィリピン・レイテ沖でレイテ沖海戦が行われた。日米合わせて280隻以上の艦艇が参戦し、史上最大級の海戦として知られる。この戦いで日本海軍は事実上壊滅した。組織だった艦隊としての作戦行動を行う力を失った。その最終盤、太平洋戦争史上もっとも語り継がれる「謎」の一つが起きる。 「栗田艦隊の謎

五千二百名、置き去りにされかけた島 1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島で、日本軍守備隊約2600名が玉砕した。圧倒的な兵力差のなか、生還を期さない徹底抗戦の末に守備隊は全滅した。日本国内に「玉砕」という言葉を強く印象づける出来事となったのである。 アッツ島の西方に位置するキスカ島には、当時約5200名の日本軍守備隊が孤立していた。アメリカ軍はキスカ

一件の通報から始まった騒動 1944年8月31日夜、イリノイ州マトゥーンで、地元の有力者アーバン・ラエフ夫妻が就寝中に「甘ったるい、安っぽい香水のような匂い」を感じ、体が麻痺したと警察に通報した。これが後に「マッド・ガッサー・オブ・マトゥーン(マトゥーンの狂気さん)事件」として全米を騒がせる、アメリカ集団ヒステリー史上最も有名な事件の発端であった。 翌日9月

ティティウス・ボーデの法則が投げかけた問い 話は18世紀後半にさかのぼる。ドイツの天文学者ヨハン・ティティウスとヨハン・ボーデは、太陽系の惑星の距離が一定の数列で表されることに気付いた。この「ティティウス・ボーデの法則」に従えば、火星と木星の間にも何か惑星が存在するはずだった。太陽から2.8天文単位(AU)の位置。 しかし実際にそこで見つかったのは、単一の惑

# 温羅伝説――吉備津神社に残る鬼退治と鳴釜神事 岡山には、温羅という鬼を吉備津彦命が退治した伝説がある。山城から人々を苦しめる温羅と、朝廷から派遣された吉備津彦命。話の形だけ見れば桃太郎によく似ている。ただ、温羅伝説がそのまま桃太郎の原作だった、と確認できる古い記録があるわけではない。 この伝説の面白さは、退治された温羅がただ消えないところにある。吉備津神

一寸法師は実在したのか――小さな英雄が生まれた背景 お椀を舟にして、箸で漕ぎ、針を刀にする。見立てが楽しい。一寸法師は、身の回りの道具がそのまま冒険の装備に化ける昔話だ。小さな主人公が都へ出て、鬼を退け、打出の小槌で大きくなる筋書きは、いまも広く知られている。 では、この主人公に実在のモデルはいたのか。先に言っておくと、特定の人物だったと示す記録はない。『御

# 江戸城無血開城の密約説――勝海舟と西郷隆盛は何を決めたのか 1868年3月、江戸への総攻撃を目前にして、勝海舟と西郷隆盛が会談した。攻撃は中止され、江戸城は戦闘なしで新政府へ引き渡された。大都市が戦場になる事態を避けた重要な交渉だった。 一方で、「二人だけが知る密約があった」という話も根強い。徳川家の存続、薩摩への利権、幕府の埋蔵金まで、さまざまな説が語

# 坂井三郎の生還飛行――頭部被弾からラバウルへ戻るまで 零戦搭乗員として知られる坂井三郎には、数多くの伝説がある。その中でも広く語られてきたのが、1942年8月7日、ガダルカナル上空で重傷を負いながらラバウル基地へ帰還した飛行だ。坂井は後年、意識が遠のくなかで亡き母の声を聞いたように感じた、と振り返っている。 超自然的な力に守られたのか、それとも操縦経験と

語り継がれている話 戦争にまつわる不思議な話・戦闘兵士編には、こんな一文が残されている。 第2次大戦中の1945年2月、ベンガル湾のラムリー島のマングローブが生い茂る沼地にイギリス軍が1,000人を超える日本軍をおびき寄せていた。19日の夜から20日の未明にかけて恐ろしい叫び声が続いた。負傷者の血の匂いに刺激された無数のイリエワニがこの沼地に集まり、動きのと

大正四年十二月。留萌の奥地に広がる原生林は、すでに深い雪に覆われていた。苫前村字三毛別、通称・六線沢。内地からの入植者たちが鍬一本で切り拓いた新興の開拓地で、十五戸ほどの家がまばらに点在するだけの、心細いほど静かな土地だったと伝えられる

チャールズ・ハプグッドという名前を世に押し出したのは、本人の突飛な着想ではなかった。きっかけは授業だ。ニューハンプシャー州のキーン州立大学で、彼は「科学史」を受け持っていた。一九五〇年代前半、ハプグッドは学生に古地図を集めて見比べろとい

元亀四年四月十二日。信濃と三河をつなぐ街道の途中で、二万を超える軍勢がふいに止まった。先頭も後尾も、理由を知らされていない。ただ本陣の輿のまわりだけが、やけに静かだったという。甲斐の虎、武田信玄が死んだ。享年五十三。そしてこの日から三年

##1.72ミリグラムの髪一本が、200年前の密室をこじ開けた1961年10月14日、イギリスの科学誌ネイチャーに、素っ気ないタイトルの短い報告が載った。「おそらく死の直後に採取されたナポレオン1世の毛髪のヒ素含有量」。著者は3人。スウ

一六九二年の冬、マサチューセッツの片田舎で、九歳の女の子が床を転げ回った。それから九か月で、二十人が死んでいる。十九人が絞首され、一人が石で押しつぶされた。牢の中で息を引き取った人も、確認できるだけで五人はいる。告発された人間は百五十人

一八八六年六月十三日、聖霊降臨祭の日曜日。ドイツ、シュタルンベルク湖の岸辺。夜十一時すぎ、雨の降る真っ暗な水面に、二つの体が浮いていた。ひとつは前々日まで王だった男。もうひとつは、その男を「治療」する立場にあった精神科医。水深は、深いと

2000年11月5日の朝、日本の歴史は七十万年ぶんだけ縮んだ。正確に言うと、縮んだのではない。最初から無かったものが、無かったことになっただけだ。だがその朝まで、日本人は本気で信じていた。この列島には七十万年前から人が住んでいて、原人が

氷河が痩せると、山は隠していたものを吐き出す。ふつうは登山靴の片方とか、色あせたザックとか、運が悪ければ何十年か前の遭難者の骨だ。ところが一九九一年の秋、エッツタール・アルプスの稜線が吐き出したのは、五三〇〇年ぶりに外気に触れた一人の男

夜明け前のメキシコシティ、地下鉄の始発が走り出す少し前の時間帯に、旧市街のグアテマラ通りを歩いたことがある。カテドラルの裏手だ。石畳が濡れていて、パン屋の換気扇から甘い匂いが流れてくる。ごく普通の朝の風景である。その足元、アスファルトの

四百年以上たった今でも、この女の名前を出すと場の空気が一段下がる。バートリ・エルジェーベト。日本では「エリザベート・バートリ」と呼ばれることの方が多い。若い娘の血を浴びて若返ろうとした伯爵夫人。犠牲者は六百五十人。ギネスブックに「史上最

慶長三年の夏、伏見城の奥深くで、日本という国をまるごと手に入れた男が、自分の体を自分で制御できなくなっていた。名を豊臣秀吉という。針売りだか草履取りだか出自すらはっきりしない男が、気づけば関白になり太閤になり、朝鮮半島に十数万の兵を送り

##1669年7月28日、カレー近郊で一人の男が消えたフランスの北、ドーバー海峡に面したカレーの近くで、一人の男が逮捕された。1669年7月28日のことだ。年は30前後とされる。名前はユスターシュ・ドージェ。この名前がくせ者なんだよな。

岩手県平泉町。関山という丘の上に、一辺五メートル半ほどの小さなお堂が建っている。金色堂。中尊寺の創建当初の姿を伝える唯一の建物で、国宝建造物の第一号だ。この中に、四人分の遺体がある。三人は全身。ひとりは首だけだ。しかもその首には、刀傷が

世界には、まだ誰にも読めていない文字がいくつかある。その中でも、ロンゴロンゴはちょっと異質だ。なにが異質かというと、読めなくなった瞬間が、ほぼ特定できてしまう点である。エジプトの神聖文字は千数百年かけてじわじわ忘れられた。インダスの印章

砂漠には、人が消える。これはたぶん、人類が砂漠を歩き始めた瞬間から知っていたことだ。だが「五万人が、朝めしを食っている最中に、まとめて消えた」という話になると、話の重さが変わってくる。これはそういう話だ。紀元前524年ごろ、ペルシアの大

ポーランド南西部に、ヴァウブジフという町がある。石炭で栄えて石炭とともに沈んだ、坂だらけの地味な工業都市だ。2015年の夏、この町の名前が突然、世界中のニュース番組に出た。理由はひとつ。ナチスの黄金列車が見つかったかもしれない、という話

豊臣秀頼という男は、生まれた瞬間から「お前は誰の子だ」と言われ続けた。生きているあいだ中ずっと言われ、死んでからも四百年言われている。天下人の跡取りとして生まれ、天下人の跡取りとして死んだ男に対して、これはちょっと異常な扱いだ。しかもこ

大阪府の高槻市と茨木市の境目に、阿武山という地味な山がある。標高281.1メートル。関西の人でも「ああ、あの観測所のある山ね」くらいの認識で、正直、観光地としては何もない。バスを降りてから坂を三十分。息を切らして登った先にあるのは、盛り

まずこの文章から入りたい。1848年4月25日、北極圏のキング・ウィリアム島の西岸、石を積んだ小さな塚のなかから、11年後に見つかることになる紙。印刷された海軍の定型書式の余白に、細かい字でぐるりと書き込みがしてある。「エレバスとテラ。

アメリカのイリノイ州、コリンズビル。州間高速55号線と70号線が重なって走る区間を車で流していると、右手にやたらとでかい丘が見えてくる。緑の芝に覆われた、四角い台形の山。高さはおよそ30メートル、ビルにして十階建てだ。初めて見た人はた。

千年前に書かれた世界最古の長編小説。その作者の名前を、私たちは知らない。正確には、知っているつもりでいる。紫式部。だがこれは本名じゃない。宮仕えのときのあだ名みたいなものだ。しかも彼女が書いたという原本は、一枚も、一行も残っていない。。

吸血鬼という言葉が、最初に紙に印刷されたのは小説ではない。役所の書類だ。もっと言えば、税務と補給を担当する下級役人が上司に宛てて書いた、言い訳まじりの報告書である。しかもその役人は、事後に「もし手続きに落ち度があったなら、それは私ではな

奈良県桜井市の多武峰。談山神社の朱塗りの社殿を抜けて、十三重塔の脇から山道を三十分ほど登ると、樹に囲まれた平場に出る。柵で囲われた円い塚がある。案内板には藤原鎌足公墓とある。そのすぐ上が御破裂山の山頂で、標高は六百七メートル余。四等三角

北見市端野町緋牛内。国道から旧道へ少し入ると、こんもり盛った土の山がいくつも並んでいる。地元での呼び名は鎖塚(くさりづか)という。埋まっているのは囚人だ。明治二十四年、わずか一年足らずで切り開かれた中央道路、別名を北見道路。その突貫工事

資料館の入口へ戻る

タイトルとURLをコピーしました