## 王が死んだ。その瞬間、二人の子どもの寿命は決まっていた
1483年4月9日、イングランド王エドワード4世が死んだ。まだ40歳だった。三週間ほど寝込んで、そのまま逝った。死因は諸説ある。テムズ川で釣りをして冷えたのがたたったとか、飲み食いが度を越していたとか、いや毒を盛られたんだとか。とにかく急だった。急すぎたんだよな。
残されたのは12歳の長男エドワードと、9歳の次男リチャード。長男は自動的にエドワード5世になる。戴冠式の日取りも決まった。ここまでは普通の話だ。王が死んで、息子が継ぐ。イングランドがさんざん繰り返してきた手順だった。
ただし、この国はついこの間まで薔薇戦争という30年がかりの内戦をやっていた。王家は二つに割れ、貴族は互いの首を刎ね合い、王位は何度も入れ替わった。ようやく落ち着いたと思った矢先に、王が死んで12歳が即位する。これがどれだけ危険か、当時の人間は全員わかっていた。幼い王は必ず誰かに「保護」される。そして保護した人間が国を握る。それだけの話だ。
エドワード4世の遺言では、その保護者役は弟のグロスター公リチャードということになっていた。北イングランドで長年、兄のために働いてきた男だ。実務能力は高い。ヨークの人々からの人望も厚い。忠誠心も、少なくとも兄が生きている間は疑われたことがない。
その男が二か月後に自分で王冠をかぶり、甥二人が歴史から消えることになるとは、この時点ではまだ誰も口に出していなかった。
## ストーニー・ストラットフォードの朝、12歳の王は叔父に「保護」された
訃報を聞いたとき、エドワード5世はロンドンにいなかった。ウェールズ国境のラドロー城にいた。母方の一族ウッドヴィル家に囲まれて育てられていたんだ。伯父のアンソニー・ウッドヴィル、異父兄のリチャード・グレイたちが少年王を連れてロンドンへ向かう。護衛は2000人という説もあれば、もっと控えめだったという説もある。
4月29日、一行はノーサンプトンシャーのストーニー・ストラットフォードで叔父グロスター公と合流した。前夜、ウッドヴィル側の大人たちはグロスター公とバッキンガム公と同じ宿で夕食をとっている。記録に残る限り、和やかだった。ワインが回り、笑い声もあった。翌朝、その和やかさは消えていた。
グロスター公は伯父アンソニーと異父兄グレイを逮捕させた。少年王の前で。エドワード5世は抗議したという。この人たちは父が信頼していた人たちだ、と。叔父は落ち着いた声で答えたとされる。あなたの周りにいた者たちが、父上の死を早め、あなたを害そうとしていたのだ、と。12歳が反論できる相手じゃない。逮捕された二人は6月25日に首を刎ねられた。裁判らしい裁判はなかった。
5月19日、エドワード5世はロンドン塔に入った。これ自体は不吉なことじゃない。当時のロンドン塔は牢獄専門ではなく、王宮でもあった。戴冠式を控えた王が塔に滞在するのは慣例だ。少年は王として塔に入った。誰もが数週間後の戴冠式を待っていた。
## 母は聖域に逃げ込み、そして弟を差し出した
王妃エリザベス・ウッドヴィルの動きが速かった。夫の死と兄弟の逮捕を聞くと、彼女は次男リチャードと娘たちを連れてウェストミンスター寺院の聖域に駆け込んだ。聖域というのは教会の庇護権だ。ここに逃げ込んだ人間には、王の兵といえど手を出せない。少なくとも建前上は。
真夜中、荷物を運び込む音が響いたという記録が残っている。壁に穴を開けて家具を通したとも言われる。母親は明らかに怯えていた。何に怯えていたのかは、彼女自身が一番わかっていたはずだ。
6月16日、状況が動いた。カンタベリー大司教トマス・ブーチャーが聖域に説得に来る。兄王が一人で寂しがっている、戴冠式には弟が必要だ、と。武装した兵がテムズ川沿いと寺院の周囲を固めていた、という記述もある。物理的には包囲されていたわけだ。
母は折れた。9歳のヨーク公リチャードを引き渡した。別れ際、彼女は息子を抱きしめて「神があなたを守ってくださいますように」と言ったと後世の記録は伝える。この場面はトマス・モアの筆によって劇的に書かれた部分でもあるから、どこまでが実際の言葉かはわからない。ただ、母親が二度と息子を見なかったのは事実だ。
二人の兄弟はロンドン塔で一緒になった。この時点で、彼らは王と王弟だった。
## 6月22日の説教壇から、少年は「私生児」にされた
6月22日、セント・ポール大聖堂の外にあるポールズ・クロスという野外説教壇で、ラルフ・シャア博士という聖職者が説教をぶった。内容が凄まじい。エドワード4世は王妃エリザベスと結婚する前に、エレノア・バトラーという貴婦人と婚約していた。当時の教会法では婚約も婚姻に準じる拘束力を持つ。したがってエドワード4世とエリザベスの結婚は無効であり、二人の間に生まれた子どもは全員私生児である――と。
私生児なら王位継承権はない。つまりエドワード5世は王じゃない。ヨーク公リチャードも継承権を持たない。ではエドワード4世の弟であるグロスター公リチャードが正統な継承者だ、という理屈になる。あまりに都合がよすぎる。
6月25日、貴族と市民の代表がグロスター公に王位を請願する形を取った。翌26日、彼は事実上の即位を宣言。7月6日、ウェストミンスター寺院でリチャード3世として戴冠した。エドワード4世が死んでから、わずか三か月足らずだ。この一連の主張は後にティテュラス・レギウスという議会制定法として文書化される。
この法律には後日談があってな。ヘンリー7世が王位に就くと、彼はこの法律を撤回させただけでなく、写しをすべて回収して焼却するよう命じた。読むことすら禁じた。なぜそこまでしたのか。彼はエドワード4世の長女エリザベスと結婚する予定だったから、彼女を私生児のままにしておくわけにいかなかった――というのが素直な説明だ。だが「その法律の中に、王子たちについて何か書かれていたのでは」と疑う声も昔からある。
## 「奥の部屋に移された。そして、見られなくなった」
二人の少年が最後に目撃されたのは1483年の夏だ。それも、はっきりした日付がない。
唯一の同時代の目撃証言に近いものを残したのが、ドミニク・マンシーニというイタリア人の聖職者だった。彼はフランス側の依頼でイングランドの情勢を探るためにロンドンに滞在していて、1483年7月頃に帰国し、その年の12月に報告書をまとめている。彼の記述はこうだ。少年たちは塔の外庭でときどき遊んでいるのが見られた。矢を射る姿も見られた。だが日を追うごとに姿を見せなくなり、塔の奥の部屋へ移され、やがて完全に見られなくなった。
さらに気味の悪い記述がある。マンシーニは、エドワード5世に仕えていた医師アルゼンティンという人物から話を聞いたと書いている。その医師によれば、少年王は毎日のように罪の赦しを求めて告解していたという。まるで、自分が生贄になることを知っている者のように、と。12歳の子どもが毎日告解している。何を感じ取っていたんだろうな。
マンシーニは「彼が殺されたかどうか、どのような方法でかは、私には確認できなかった」とも正直に書いている。この慎重さがあるからこそ、彼の証言は今も一次史料として重く扱われる。逆に言えば、この程度の記述しか同時代には残っていないってことだ。540年の論争は、この曖昧さの上に建っている。
## トマス・モアが書いた「殺しの夜」――枕、二人の男、階段の下
王子殺害の具体的な情景を最初に細かく書いたのは、トマス・モアだ。『リチャード3世史』、執筆は1513年頃とされ、生前は未完・未刊のままだった。事件から30年後に書かれた、伝聞にもとづく物語だという点は忘れちゃいけない。
モアの筋書きはこうだ。リチャード3世は地方巡幸中、ジョン・グリーンという使者を塔の司令官ロバート・ブラッケンベリーに送り、二人を始末するよう命じた。ブラッケンベリーは拒否した。腹を立てた王は、部屋付きの従僕から「サー・ジェイムズ・タイレルという男が野心的で、この手の仕事を望んでいる」と教えられる。タイレルは塔の鍵を一晩だけ預かる権限を得た。
実行犯として名指しされたのは、マイルズ・フォレストとジョン・ダイトンという二人の男。深夜、二人は少年たちが眠る部屋に忍び込み、羽根布団と枕を顔に押しつけて息を止めさせた。動かなくなるまで押さえ続けた。タイレルは部屋の外で待っていて、事後に遺体を確認した。そして遺体は「階段の足元」に、石の山の下に埋められた――「at the stayre foote, metely depe in the grounde, under a great heape of stones」。この一節が、190年後にとんでもない意味を持つことになる。
モアはさらに書く。後日、王はこの埋葬場所が「王の息子にふさわしくない」として、ある司祭に遺体を掘り出して別の場所へ移させたが、その司祭も死んでしまい、どこへ移したかは誰も知らない、と。物語としてはよくできている。よくできすぎている、とも言える。
そしてタイレルの「自白」だ。彼は1502年にヘンリー7世の下で反逆罪により処刑された。モアによれば、彼はその際に王子殺害を自白した。だが、その自白書は現存しない。誰も見たことがない。裁判記録にも王子殺害の罪状は出てこない。彼が処刑された罪は別件だ。ここが決定的に弱い。
そしてこの物語をイングランド人の脳裏に焼き付けたのが、シェイクスピアの史劇『リチャード三世』(1593年頃初演)だった。背中の曲がった悪魔的な王、無邪気な二人の子ども、闇夜の枕。演劇の力は史料より強い。今も大半の人が思い浮かべる「ロンドン塔の王子たち」の絵は、モアとシェイクスピアが描いた絵なんだよな。
## リチャード3世黒幕説――同時代の人間は、ほぼ全員そう思っていた
通説はシンプルだ。リチャード3世が命じた、あるいは黙認した。動機は明白で、二人が生きている限り彼の王位は不安定だからだ。
同時代の状況証拠も揃っている。フランスの宰相ギヨーム・ド・ロシュフォールは1484年1月、三部会の演説で「イングランドの王子たちは殺され、王冠は殺害者の頭に載せられた」と公然と述べた。外交の場で堂々と言われていたわけだ。ロンドンの商人ジョージ・シーリーの覚書にも、王子の身に何かあったらしいという不安の書き込みがある。修道士ジョン・ラウス、年代記作者ロバート・ファビアン、そしてクロイランド年代記も、リチャードを疑う筆致で書いている。
決定的なのは、母エリザベス・ウッドヴィルの行動だ。彼女は1483年秋、リチャードの政敵であるヘンリー・テューダーと組み、自分の長女エリザベスをヘンリーに嫁がせる密約を結んだ。息子二人が生きて塔にいるなら、こんな動きはあり得ない。母親が息子の生存を諦めた、その事実こそが最も痛い状況証拠だ、という指摘は今も有力なんだ。
もうひとつ。1483年10月、バッキンガム公の反乱が起きたとき、反乱側は当初エドワード5世の復位を掲げていたのに、途中でヘンリー・テューダーの擁立に切り替えた。王子たちがもう生きていないと判断されたからだ、と読むのが自然だ。
ただし、と言い添えておく。リチャード3世は一度も公式に王子たちの死を発表していない。遺体を晒しもしなかった。中世の王政では、政敵の死は「死んだ」と見せてこそ意味がある。ヘンリー6世が死んだときも遺体は公開された。なぜリチャードだけそれをしなかったのか。ここが彼の弁護側の最大の武器になっている。
## バッキンガム公説、そしてヘンリー7世黒幕説
リチャード3世以外の容疑者もずっと語られてきた。まずヘンリー・スタッフォード、バッキンガム公。リチャードの即位を最も強力に後押しした右腕であり、そのくせ数か月後に反旗を翻して処刑された男だ。
1980年代にカレッジ・オブ・アームズ(紋章院)の文書から見つかった一節に、王子たちの死は「バッキンガム公の助言により」なされたという記述がある。ポルトガル側の史料にも、バッキンガムが王子たちを餓死させたという趣旨の記述があるとされる。彼にも動機はあった。彼自身にエドワード3世につながる王位継承権があったからだ。ただ、塔の囚人に手を出すにはリチャードの了解が要る。結局リチャードの共犯か黙認になってしまう、というのが多くの歴史家の見方だ。
そしてヘンリー7世黒幕説。これが一番ドラマとして美味しい。彼は1485年8月のボズワースの戦いでリチャード3世を倒して王位に就いた。彼の王位継承権は非常に細く、正統性を補うためにエドワード4世の娘エリザベスと結婚した。そのために王子たちの私生児宣言を撤回した。だが撤回した瞬間、王子たちが生きていれば彼らこそ正統な王になってしまう。つまり、彼にとって王子たちの生存は結婚と同時に致命的なリスクに変わった。
さらに、彼は在位中、王子たちの死について一度も公式な調査をしていない。リチャード3世を非難する材料としてこれ以上のものはないのに、使わなかった。使えなかったのでは、という疑いが根強い。1502年のタイレル「自白」も、王子の消息を騙る僭称者が出続けたタイミングで都合よく出てきた話だ。
弱点もはっきりしている。1483年夏、ヘンリー・テューダーはブルターニュに亡命中だった。ロンドン塔に手を出せる立場じゃない。彼が殺したとするなら1485年8月以降、二人が二年間ずっと生きて隠されていたことになる。可能性はゼロじゃないが、ずいぶん無理がある。それでもこの説が生き残るのは、動機の鮮やかさゆえだ。
## 1674年7月17日、階段の下から木箱が出た
事件から191年後。チャールズ2世の治世下で、ロンドン塔のホワイト・タワーの改修工事が行われていた。礼拝堂に通じる古い外階段を取り壊す作業だ。1674年7月17日、作業員たちが地面を掘り下げていった。約10フィート、およそ3メートルの深さで、鶴嘴が木の箱に当たった。
中には二体の子どもの骨があった。大きさの違う二体。ぼろ布と、ビロードらしき布切れが混じっていたと記録されている。ビロードは当時、身分の高い者しか身につけない布地だ。
そのときの作業員の一人がどんな顔をしたかは記録にない。ただ、この報せがロンドン中を駆け巡るのに時間はかからなかった。誰もがトマス・モアの一節を思い出したからだ。「階段の足元に、石の山の下に」。160年前に書かれた文章が、目の前の穴と一致した。
実に不用意なことに、骨は最初ゴミと一緒に外へ捨てられ、数日後に慌てて回収されたという話が伝わっている。回収の過程で骨が失われたり折れたりした可能性も高い。動物の骨も混じっていた。現場保存という概念のない時代だ。
チャールズ2世は、これを王子たちの遺骨と判断した。1678年、クリストファー・レンの設計による白い大理石の壺に納められ、ウェストミンスター寺院のヘンリー7世礼拝堂に安置された。碑文には二人の名が刻まれ、「叔父リチャードによって殺され」という趣旨の断定が書き込まれている。裁判もなく、鑑定もなく、王の一存で犯人が確定した瞬間だ。
## 1933年の鑑定、そして今も開かれない壺
1933年、その壺が一度だけ開けられた。ウェストミンスター寺院の記録保管官ローレンス・タナー、解剖学者ウィリアム・ライト、歯科医師会会長のジョージ・ノースクロフトの三人が骨を計測した。
彼らの結論は「二体は12歳前後と10歳前後の子どものもので、王子たちの年齢と矛盾しない」というものだった。さらに年長のほうの頭蓋骨に赤いシミがあり、これは窒息死の痕跡かもしれないと示唆された。世間はこれを「モアの記述の裏づけ」と受け取った。
だが、この鑑定は現代の目で見るとひどい。まず性別を調べていない。当時の技術では骨から性別を判定するのが難しかったのは事実だが、そもそも彼らは調べようともしなかった。少女の骨である可能性を最初から排除していたわけだ。次に年代測定をしていない。ロンドン塔は鉄器時代からローマ時代を経てずっと使われてきた土地で、地下からは何世紀分もの人骨が出てくる。あの二体が15世紀のものだという保証はどこにもない。三つ目に、混入していた動物の骨や、工事で壊された骨の扱いが雑だった。
そして現代。放射性炭素年代測定をすれば、少なくとも15世紀の骨かどうかは絞れる。ミトコンドリアDNAを取れば、エドワード4世の姉ヨーク公妃を経由する母系と照合できる。技術的にはもう可能だ。リチャード3世本人の遺骨が2012年にレスターの駐車場の下から発見され、DNAで同定された前例まである。あれができて、なぜこれができないのか。
答えは単純で、王室が許可しないからだ。ウェストミンスター寺院は「王室の墓所」であり、遺骨に触れるには君主の許可が要る。エリザベス2世は在位中、複数回の要請をいずれも認めなかった。2013年には調査を求める請願が議会に提出されたが、審議に至る前に閉じられた。2018年前後にも研究者グループが申請したが動かなかった。チャールズ3世が前向きかもしれないという観測記事は出ているものの、2026年時点で壺は開いていない。
この「開かない壺」という状況自体が、話をどんどん不気味にしている。ネット上では「開けたら王子じゃないものが出てくるから開けないんだ」「テューダー朝の正統性が崩れるから」といった議論が延々と繰り返されてきた。歴史学寄りの人々は「王室は先祖の墓を暴くこと一般に消極的なだけで、陰謀ではない」と冷静に応じる。どちらの言い分にも一理あるのが、この件の厄介なところだ。
## 「僕はヨーク公リチャードだ」――八年間、ヨーロッパを騙し続けた男
1491年、アイルランドのコークの港に、絹の衣装を着た17歳ほどの若者が現れた。雇い主の商品を着せられて客寄せをしていただけだった、という話も伝わる。だが港のヨーク派たちは彼を取り囲み、「あなたはヨーク家の血筋の方だ」と言い出した。
彼はやがて名乗る。自分はヨーク公リチャード、塔で殺されたはずの弟のほうだ、と。兄は殺されたが、自分は殺害を命じられた男の情けで逃がされた、という筋書きだった。この男が、後世にパーキン・ウォーベックと呼ばれることになる。
驚くのは、彼を受け入れた顔ぶれだ。エドワード4世とリチャード3世の実の姉であるブルゴーニュ公妃マーガレットは、彼を甥として公に認め、ヨーク宮廷の作法を教え込んだ。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は彼を外交使節として遇した。スコットランド王ジェイムズ4世に至っては、自分の縁戚であるキャサリン・ゴードン嬢を彼と結婚させた。国際政治の道具として利用された面は大きい。それでも、これだけの人物が「本物として扱う」と決めた事実は重い。
1497年、彼はコーンウォールのホワイトサンド湾に上陸し、ボドミン・ムーアで「リチャード4世」を宣言した。6000人が集まったとも言われる。だが王軍が近づくと彼は軍を捨てて逃げ、ハンプシャーのビューリー修道院で降伏した。
ヘンリー7世は最初、彼を宮廷に置いて比較的丁重に扱った。そして自白書を出させた。自分はトゥルネー出身の船具役人ジャン・ド・ウェルベックの息子であり、すべて偽りだった、と。ただしこの自白は明らかに強制下のもので、そのまま信じる歴史家は少ない。彼は脱走を図って捕まり、ロンドン塔に入れられ、1499年11月23日、タイバーンで絞首刑になった。
面白い話がある。ヘンリー7世は彼の顔を見た人間の反応を極端に警戒した、という伝承だ。特にヨーク家に近い者との対面を避けさせたとも言われる。もし彼が本物なら、顔を知る人間が「陛下、この方は」と言い出すのが一番まずい。真偽は不明だが、この手の逸話が繰り返し語られること自体が、当時の空気を伝えている。
ちなみに、1487年に「ヨーク公リチャード」を名乗って担ぎ出され、ダブリンで戴冠までしたランバート・シムネルという少年もいた。こちらは早々に偽者と判明し、ヘンリー7世は彼を殺さず、王室の厨房で働かせた。後には鷹匠にまで昇進している。ここに王の余裕がある。ウォーベックへの扱いとの差が、逆に不気味なんだよな。
## デヴォンの村に「ジョン・エヴァンズ」として生きた男
近年、この事件に新しい薪をくべたのが、フィリッパ・ラングリーという研究者だ。2012年にレスターの駐車場でリチャード3世の遺骨を掘り当てたプロジェクトの中心人物、と言えばピンと来る人も多いはずだ。
彼女は2016年から「ミッシング・プリンシズ・プロジェクト」を立ち上げ、警察の未解決事件(コールドケース)の手法で史料を洗い直した。有罪を前提にせず、遺体がない以上「行方不明事件」として扱う、という発想だ。世界中のボランティア研究者が各国の文書館を漁った。
出てきたものの中で話題をさらったのが、二つある。ひとつはデヴォン州コールドリッジという小さな村だ。この村には1480年代、突然「ジョン・エヴァンズ」という素性不明の人物が現れ、王室の森林管理職に任じられている。村の教会には1511年頃に作られた礼拝室があり、ステンドグラスには王冠をかぶった若者――エドワード5世と見られる図像――が描かれ、鹿や薔薇などヨーク家の紋章が散りばめられている。エヴァンズの墓の位置も奇妙で、覗き穴を通してその図像が見えるように設計されているらしい。なぜ田舎の一村人の礼拝室に、廃位された少年王の姿があるのか。
もうひとつは2023年、フランスのリールの文書館から見つかったとされる1487年12月の受領証だ。マクシミリアン1世が、ブルゴーニュ公妃マーガレットのためにイングランド侵攻用の武器を購入した記録で、その侵攻が「エドワード4世の息子」のためになされる、という趣旨の文言が含まれているという。1487年といえばシムネルの乱の年だ。もしこの文書が示すとおりなら、当時の大陸の権力者たちは「エドワード4世の息子」が生きていると認識していたことになる。
2023年にはチャンネル4のドキュメンタリーが制作され、法廷弁護士のロバート・リンダーが証拠を検証する形で放送された。反響はすさまじく、SNSではリチャード3世協会系の人々が沸き立ち、逆に主流派の歴史家からは「文書の解釈が甘い」「僭称者を担ぐ側の宣伝文書にすぎない」という手厳しい反論が飛んだ。マイケル・ヒックスら中世史の専門家は一貫して懐疑的だ。この論争、決着していない。というより、決着させる材料が地面の下と壺の中にしかない。
## 血の塔の階段に、手をつないだ二人の子どもが立っている
さて、ここからは骨と文書じゃない話をする。ロンドン塔は世界屈指の心霊スポットとして知られていて、王子たちの目撃譚も長く語られてきた。
最も有名なのが、血の塔(ブラッディ・タワー)の階段に現れる二人の少年だ。白い寝間着のような服を着て、手をつないでいる。年上のほうが年下の肩に手を回して守るような姿勢をとっている、という描写もある。目撃者が声をかけたり近づいたりすると、二人は無言のまま後ずさりし、石壁に溶けるように消える。何より不気味なのは「怖がっているのはこちらではなく、あの子たちのほうだ」と証言者が口を揃える点だ。助けを求めているようにも見える、と。
最も語り継がれている体験談は、二人の衛兵の話だ。夜間の巡回中、彼らは階段の下に子どもの影を見た。ロンドン塔の敷地内に夜間、子どもがいるはずがない。二人は近づいた。影は動かない。ランタンを掲げた瞬間、光が影を通り抜けて壁を照らした。実体がなかった。衛兵たちは持ち場に戻ってから、互いに何も言えなかったという。後日それぞれ別々に報告書を書かせたところ、服装も背丈も一致していた、という話になっている。この手の逸話は塔の警備隊であるヨーマン・ウォーダーたちの間で代々語り継がれていて、細部が語り手ごとに少しずつ違う。伝承の生き物らしい育ち方だ。
二つ目。1970年代から現在にかけて、観光客が繰り返し訴えているのが「手を握られた」という感覚だ。血の塔の狭い階段を上っているとき、下から小さな手が自分の指に触れる。ぎゅっと握られる。振り返ると誰もいない。子ども連れの家族が「うちの子が誰かに引っ張られたと言っている」と職員に訴えたケースも報告されている。塔の売店で売られている怪談本には、こうした報告がいくつも収められている。冷たい手だった、と書く人と、驚くほど温かかった、と書く人がいるのがまた妙な生々しさを持っている。
三つ目は、王子たちに直接関係しないが、ロンドン塔の怪異の質を物語る例だ。1814年から1852年まで王冠宝器の管理人を務めたエドマンド・レンタル・スウィフトは、自ら書き残している。マーティン・タワーの居室で夕食をとっていたとき、天井と食卓の間にガラス管のような円筒形の物体が浮かんだ。中では白と淡い青の液体がゆっくり渦を巻いていた。それが妻の肩の後ろへ動いたとき、妻は「ああ、キリストよ、それが私を掴んだ」と叫んだ。彼は椅子を掴んで叩きつけたが、手応えはなかった。同じ時期、歩哨の一人が扉の下から現れた巨大な熊のような影に銃剣を突き刺し、刃が空を切って壁に刺さり、その兵士は恐怖で倒れて数日後に死んだ、とも書いている。管理人という公職にある人物が、自分の名前でこれを書き残している。それがロンドン塔という場所だ。
1864年には歩哨がアン・ブーリンの首なしの姿に銃剣を突き出して昏倒し、軍法会議にかけられた事件も記録されている。他の衛兵たちが「自分も見た」と証言したため、彼は無罪になった。ロンドン塔では、幽霊を見たという主張が無罪の理由になる。
## 骨も、名前も、墓も、何ひとつ確かじゃない
この謎がなぜ540年も擦り切れないのか。理由ははっきりしていると思う。
まず、被害者が12歳と9歳の子どもだということ。政治的陰謀も王位簒奪も歴史にはいくらでもある。だが、これは兄弟だ。しかも一緒に閉じ込められて、一緒に消えた。人は子どもの死に対して、大人の死とはまったく違う回路で反応する。しかも彼らの最後の姿は「塔の窓から外を覗いていた」だ。この一枚の絵の強さがすさまじい。19世紀の画家ジョン・エヴァレット・ミレーの『塔の王子たち』が今なお複製され続けるのは、その絵が誰の中にもある不安を突くからだ。
次に、決定的な証拠が一切ないこと。遺体がない。自白書がない。目撃者がいない。死亡日すら特定できない。あるのは、鑑定を拒まれ続けている壺と、190年後に階段の下から出てきた素性不明の骨だけだ。人間は空白を埋めずにいられない。空白があるかぎり、説は増え続ける。
三つ目に、「生きていたかもしれない」という可能性が残されていること。パーキン・ウォーベックがいる。コールドリッジのジョン・エヴァンズがいる。もし彼らのどちらかが本物なら、イングランドの王朝の系譜そのものが、成立の根っこから嘘を含んでいたことになる。この可能性の破壊力が、この話をただの未解決殺人から国家的な神話に押し上げている。
四つ目に、現場が現存していること。ロンドン塔は今日も開いている。年間何百万人が入る。ホワイト・タワーは立っているし、血の塔の階段も上れる。1674年に骨が出た階段のあたりには、案内板が立っている。ウェストミンスター寺院のヘンリー7世礼拝堂へ行けば、レンの白い壺も見られる。開けられていない壺が、目の前にある。触れられる距離に、開いていない答えがある。これほど焦らされる遺跡はそうそうない。
## いちばん背筋が寒いのは、殺しの場面じゃない
この一件をずっと追っていて、いちばん背筋が寒くなるのは殺しの場面じゃない。マンシーニが書いた、あの短い一節だ。少年王は毎日、罪の赦しを求めて告解していた。まるで自分が生贄になることを知っている者のように。医師アルゼンティンから聞いた話として書かれている。12歳が、自分の死を予感しながら毎晩祈っている。この一文だけで、トマス・モアが書いた枕の場面より遥かに怖い。詳細な殺人描写は想像力で書ける。だが「毎日告解していた」という細部は、誰かが実際に見ていないと出てこない種類の情報だ。
そのうえで整理しておく。この事件でほぼ確定していることは、驚くほど少ない。エドワード5世が1483年5月19日に塔に入ったこと。弟が6月16日に合流したこと。7月6日に叔父が王位に就いたこと。その夏以降、二人の記録が途絶えること。以上だ。彼らが死んだことすら厳密には確定していない。ただ、当時の政治的常識と母親の行動から、生きてはいないだろうと推定されているにすぎない。歴史書に堂々と「殺された」と書いてある事柄が、実際にはこの程度の足場の上に立っている。それを知ると、他の歴史記述もちょっと信用できなくなるだろ。そこが面白いところでもある。
犯人論に関して、私の温度を正直に書く。リチャード3世の関与を疑う説が最も自然だとは思う。動機、機会、その後の沈黙、母親の変節。どれも彼を指す。ただ、彼が遺体を公開しなかった点は、いくら考えても引っかかる。中世の権力闘争では、政敵の死体を晒すのは残虐趣味ではなく統治技術だ。ヘンリー6世が塔で死んだときも、遺体はセント・ポールに運ばれて公開された。人々に「もう終わった」と見せるためだ。リチャードはそれをしなかった。結果として、彼は死ぬまで「あの子たちは生きているのでは」という噂に足を引っ張られ続けた。ボズワースで彼が突撃して死んだのも、その空気の中でのことだ。合理的な政治家が、こんな非合理な選択をするだろうか。彼は本当に自分でも二人の行方を掌握していなかったのでは、という説が捨てきれない理由がここにある。
ヘンリー7世黒幕説については、私は「動機は満点、機会は落第」だと見ている。1483年夏に彼はブルターニュにいた。この一点で実行犯にはなれない。ただし、彼が真相を知っていて隠した可能性、そして王子たちが1485年まで生き延びていた可能性は、完全には潰せない。彼がティテュラス・レギウスの写しを一枚残らず焼かせ、読むことすら禁じた執念。在位24年間、一度も王子たちの死を公式調査しなかった不作為。1502年にタイレルの「自白」が、都合よく僭称者問題の最中に出てきたタイミング。どれも単独では何も証明しないが、並べると独特の匂いがしてくる。テューダー朝は自分たちの正統性に生涯怯えていた王朝だ。その怯えが、この事件の史料を歪めているのは間違いない。モアもシェイクスピアもテューダー朝の下で書いている。我々が「知っている」リチャード3世像は、彼を倒した側が編集した映像なんだよな。
そして骨の話に戻る。1674年に出た二体の骨は、いまだに何者なのかわからない。15世紀のものかもしれないし、ローマ時代のものかもしれない。男児かもしれないし女児かもしれない。ロンドン塔の地下からは、他にも子どもの骨が複数出土している。1977年にも別の場所から子どもの骨が見つかったという記録がある。つまり「階段の下から子どもの骨が出た」こと自体は、あの場所ではそれほど特別な出来事じゃない可能性がある。にもかかわらずチャールズ2世は即断し、レンに壺を作らせ、碑文に犯人の名前まで彫らせた。歴史というのは、こうやって作られる。証拠ではなく、その時代が必要としていた物語によって。
技術的には、明日にでも決着する。放射性炭素年代測定で骨の年代を絞る。ミトコンドリアDNAを取り、エドワード4世の姉ヨーク公妃マーガレットの子孫から辿れる母系配列と照合する。リチャード3世の遺骨でまさにその手法が使われ、500年前の骨の身元が特定された。同じ国の、同じ時代の、同じ王家の骨だ。できないはずがない。できないのではなく、しないと決められている。この「しない」という選択が続く限り、この物語は終わらない。むしろ王室は、終わらせないほうがいいと判断しているのかもしれないと思うことがある。決着した謎は観光資源としての価値を失う。開かない壺のまま、レンの白い大理石は今日も礼拝堂に置かれている。
最後にひとつだけ。ロンドン塔に行く機会があったら、血の塔の階段を上ってみるといい。狭い。恐ろしく狭い。大人が二人並ぶのがやっとの幅で、石は磨り減ってつるつるしている。窓は小さく、光はほとんど入らない。ここに12歳と9歳が閉じ込められて、日を追うごとに外へ出してもらえなくなり、やがて誰の記録にも現れなくなった。骨も名前も墓も、何ひとつ確かじゃない。確かなのは、二人がそこにいたということだけだ。それが一番怖い。
ロンドン塔の王子たち――12歳と9歳の王子は、あの塔で何をされたのか
