五千二百名、置き去りにされかけた島
1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島で、日本軍守備隊約2600名が玉砕した。圧倒的な兵力差のなか、生還を期さない徹底抗戦の末に守備隊は全滅した。日本国内に「玉砕」という言葉を強く印象づける出来事となったのである。
アッツ島の西方に位置するキスカ島には、当時約5200名の日本軍守備隊が孤立していた。アメリカ軍はキスカ島についても、アッツ島と同様の激しい攻略戦を想定していた。アメリカ軍の警戒は生半可ではない。周到な包囲態勢を敷いていた。大本営は、この孤立した守備隊を救出するため、「ケ号作戦」と呼ばれる撤退作戦を計画する。
まず5月末から6月にかけて、潜水艦による第一次撤収が試みられた。だが、アメリカ軍のレーダーに次々と捕捉され、伊9・伊24・伊7の3隻の潜水艦が撃沈されるなど大きな損害を出した。これだけでも、いかに過酷な作戦だったかが分かる。救出できたのは、わずか800名程度にとどまった。残る4千名以上の将兵は、深い霧の中に取り残されたままだった。
霧と戦う指揮官、木村昌福
この危機的な状況で撤退作戦の指揮を託されたのが、第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将である。着任時、上官からは「これは激戦の戦場に飛び込むより苦心と忍耐がいる任務だ」と告げられた。実質的に、失敗すればすべての責任を負わされる立場だった。並大抵の重圧ではない。
木村が立てた作戦の骨子は単純明快だった。アリューシャン近海特有の濃霧に紛れて高速で湾内に突入し、守備隊を収容してただちに離脱する。当時、濃霧の中で空襲をかけられる航空機は世界のどこにも存在しなかった。濃霧さえあれば、アメリカ軍の空襲圏内を安全に通過できる。問題は、その霧が自軍の視界も同時に奪ってしまうことだった。
木村は、まだ就役したばかりの新鋭駆逐艦「島風」の配備を要望した。当時最新のレーダー(電探)と逆探を搭載した貴重な艦である。視界ゼロの中でも艦隊行動が取れるよう、各艦に「霧中浮標」と呼ばれる標識を曳航させる訓練も徹底した。手を抜ける工程はひとつもない。
さらに、軽巡洋艦の三本煙突のうち一本を白く塗りつぶし、遠目にはアメリカ軍艦艇の二本煙突に見えるよう偽装するなど、細部にわたる周到な準備が重ねられた。
一度目の失敗、批判の中での撤退
7月、艦隊は最初の突入を試みる。しかし、キスカ島に近づくたびに霧が晴れてしまい、木村は突入を断念して引き返す決断を四度にわたって繰り返した。「霧がなければ、この作戦は成立しない」という一点において、木村は徹底して妥協しなかった。簡単に頷ける話ではない。
この判断は、艦隊内外から強い批判を招いた。「手ぶらで帰ってきた」指揮官への非難は激しく、木村を臆病だと詰る声も少なくなかったという。しかし木村は動じず、阿武隈の甲板から釣り糸を垂らしながら、次の霧の機会をじっと待ち続けた。この慎重さは、木村自身がこの年の初め、ビスマルク海海戦で上空援護のないまま敵機の猛攻を受けた経験に基づくものだった。
上空援護なき水上部隊が空襲にどれほど脆いかを、木村は身をもって知っていたのである。正直、これほどの慎重さは誰にでも貫けるものではない。
七月二十九日、奇跡の五十五分
7月22日、艦隊は再び幌筵(ぱらむしる)を出港する。だが今度も濃霧の中で艦同士の衝突事故が相次ぎ、隊列は乱れた。それでも艦隊は諦めず、気象予報担当の橋本恭一少尉が「霧と戦争をする」任務として蓄積してきた予測に基づき、7月29日を最終的な決行日と定めた。この読みが外れれば、すべてが水泡に帰すかもしれない。
当日、キスカ島周辺の視界はわずか1500メートル程度まで低下していた。突入直前、艦隊は敵艦らしき影を発見し、旗艦「阿武隈」が思わず魚雷を発射する場面もあった。この時ばかりは、さすがに肝が冷えただろう。だが正体は敵艦ではなく、霧に浮かぶ小さな島影だった。それほどまでに濃い霧だったのである。
艦隊は午後1時40分、ついにキスカ湾へ突入した。この瞬間だけ、湾内の霧が奇跡的に晴れていたという。
守備隊約5200名は、大発(上陸用舟艇)によるピストン輸送で、わずか55分という驚異的な短時間で全員収容された。時間短縮のため、使用済みの大発は自沈させ、兵士たちは携行していた三八式歩兵銃さえ海に投棄した。時間との勝負がここにある。収容を終えた艦隊は全速力で離脱し、直後から再び深い霧に包まれて、アメリカ軍の空襲圏外へと無事に姿を消した。
アメリカ軍は、日本軍がキスカ島を無傷のまま完全に撤収していたことに、その後もしばらく気づかなかったと伝えられている。艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ全艦無事に帰投し、戦史上きわめて稀な「戦死者ゼロの撤退作戦」が完了した。
なぜ「奇跡」と呼ばれるのか
この作戦が「奇跡」と呼ばれる理由は、単に幸運が重なったからではない。木村の指揮官としての姿勢そのものが、作戦成功の核にあった。木村は出世や評価を恐れなかった。戦史コラムなどでは、一度目の突入を自ら断念する決断を下せたことこそが、二度目の成功につながったと分析されている。
エリート軍人であれば「作戦失敗」という経歴上の傷を恐れ、無理な突入に踏み切ってもおかしくない状況だった。木村はその誘惑を退け、「全将兵の一人残らずの収容」という目的の完遂だけを見据えていた。この芯の強さは並みではない。
木村昌福は寡黙な人物で、戦後もこの作戦について多くを語らなかった。1957年、戦史家の千早正隆が取材によってようやくその全貌を明らかにするまで、家族ですら木村の事績を知らなかったという。
声高に語られることのなかったこの「奇跡」。絶望的な状況の中でも、冷静な判断力と粘り強さが結果を変えうることを、静かに示している。
