資料
奈良県明日香村のキトラ古墳は7世紀末から8世紀初頭ごろの小円墳。石室天井に天文図、壁面に四神、十二支像、日月像が描かれる。壁画は国宝で、保存のため石室から取り外され修理・管理されている。
天文図の特徴
多数の星を朱線で結び、赤道・黄道と考えられる円、内規・外規など中国式星図の要素を描く。現存する本格的な東アジア古代天文図として極めて重要である。
謎と仮説
星の位置関係から、原図の観測緯度・年代を中国大陸の特定地域・時代に推定する研究がある。ただし壁画の点位置には描写誤差、剥落、転写・縮尺変形があり、統計モデルの前提で結果が変わる。「飛鳥で直接観測した星空」「高句麗からそのまま運んだ図」と断定できない。
被葬者
天武天皇の皇子・渡来系有力者など複数候補が挙がるが、墓誌や人物名銘文はなく未確定。壁画様式だけで民族・国籍を決めない。
公的資料
- 文化遺産オンライン・キトラ古墳
- 文化遺産データベース・キトラ古墳壁画
- 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区
- 奈良文化財研究所
- 国指定文化財等データベース
最終確認:2026-07-19。
小さな石室の上に広がる天
キトラ古墳は、奈良県明日香村阿部山の丘陵南斜面に築かれた二段の円墳である。復元された下段は直径一三・八メートル、上段は九・四メートルほどで、高松塚古墳より小さい。墳丘の中央には二上山産の凝灰岩を組んだ横口式石槨があり、床、壁、天井へ漆喰を塗り、その上に四神、十二支、日月、天文図が描かれた。
石室は十八枚の直方体の石材からなる。天井は水平な面だけではなく屋根形に削られ、東側の斜面に金箔の日像、西側に銀箔の月像、中央の平らな部分に円形天文図を置く。死者の周囲に東西南北と十二の方角を配置し、頭上に太陽、月、星々を載せることで、狭い墓室が秩序ある宇宙へ組み替えられている。
築造年代は七世紀末から八世紀初頭と考えられる。藤原京の時代と重なる終末期古墳で、巨大な前方後円墳が王権の墓として造られた時代より後である。墳丘が小さいから身分も低いと単純には言えない。精密に加工した石槨、漆喰壁、金銀箔、天文知識を用いた内部装飾には、多くの技術者と資材が必要だった。
壁画は一度に発見されたのではない
キトラ古墳の存在が知られるようになったのは一九七八年頃である。一九八三年、明日香村がファイバースコープを石槨へ入れ、北壁の玄武を確認した。高松塚古墳壁画の発見から十一年後のことで、これにより二つ目の飛鳥の壁画古墳として広く知られた。
一九九八年三月の小型カメラ調査では青龍、白虎と天文図が確認され、二〇〇一年三月に南壁の朱雀が見つかった。四神がすべて現存する国内唯一の古墳という評価は、この段階的な調査を経て固まった。最初から人が石室へ入り、壁画の全景を見渡したのではない。細い孔から機器を挿入し、保存状態を確かめながら少しずつ画像を得たのである。
文化庁と奈良文化財研究所が二〇〇二年に行った墓道部調査では、平安時代末から鎌倉時代とみられる盗掘坑、棺と閉塞石を運ぶための墓道、木製レールを抜いた痕跡などが確認された。盗掘で副葬品の多くは失われたが、金銅製棺金具、刀装具、ガラス・琥珀玉、漆塗り木棺片、人骨や歯が残った。
人骨は一人分で、五十代から六十代の男性とみる分析が紹介されている。これは被葬者像を絞る資料になるものの、名前は分からない。墓誌や人名銘文がなく、皇族、渡来系氏族、有力官人といった候補を、骨の年齢だけで一人に決めることはできない。
四神と十二支が守る方角
東壁には青龍、南壁には朱雀、西壁には白虎、北壁には玄武が、それぞれ担当する方位に合わせて描かれる。玄武は亀と蛇が絡み合う姿で、青龍と白虎は進むような長い体を持つ。四神は単なる動物画ではなく、東アジアで天の四方、季節、色を結びつけてきた象徴である。
四神の下には、獣の頭と人の体を持つ十二支像が配置された。北壁中央を子とし、一壁に三体ずつ、十二方位を一巡させる設計と考えられる。剥落が大きく、現状で姿が確認されるのは子、丑、寅、午、戌、亥など一部に限られる。「失われた六体が初めから描かれなかった」のではなく、壁面の損傷で見えなくなった可能性を考える必要がある。
衣服、持物、線描には唐や朝鮮半島の壁画文化との関係がある。図像が大陸系であることは、絵師本人の国籍を示す署名ではない。下絵、粉本、工人の移動、外交使節が持ち帰った知識など、図像が伝わる経路は複数考えられる。特定の壁画古墳と似るという理由だけで、被葬者をその国の出身者と決めることもできない。
三百六十を超える金の星
天井中央の天文図は、天の北極を中心にした円形の星図である。奈良文化財研究所のキトラ古墳壁画保存管理施設は、金箔で表した星が三百六十個以上、朱線で結んだ中国星座が現状で七十四座確認できると説明する。星の数や星座数に幅があるのは、剥落した箇所、点と汚れの区別、どの朱線を一座として数えるかによる。
図には三つの同心円と、中心を北西へずらした一つの円がある。内側から内規、天の赤道、外規を表し、ずれた円が黄道に当たる。内規は、ある観測地から見て一年中沈まない星の範囲、外規は一年のどこかで地平線より上に出る星の限界を示す。黄道は太陽が一年かけて天球上を通る見かけの道である。
これらの円は装飾だけでは描けない。星の動きを長期間観測し、天球を平面へ投影する知識が要る。ただしキトラ図の黄道には位置の誤りがあると、保存管理施設の解説も明記している。精密な理論図を写した部分と、写し間違い、縮尺のずれ、墓室の形に合わせた調整が同居している。
北極付近には、当時の中国天文学で天上世界の中心とされた紫微垣に関わる星々が置かれる。周囲には二十八宿をはじめ、宮廷、役所、市場、農具など地上社会を映した名の星座が広がる。古代中国の星図は、自然科学的な位置記録であると同時に、天と王権、政治の対応を読む体系だった。墓に星空を描くことは、夜空の再現だけでなく、死者を天上の秩序へ置く行為でもあった。
「世界最古級」の範囲
キトラ天文図は「世界最古の天文図」と短く紹介されることがある。より正確には、赤道、黄道、内規、外規を備えた本格的な中国式星図として、現存する世界最古の実例と評価される。古代エジプトの星の表現、バビロニアの天文記録、洞窟や器物の星形より、あらゆる意味で最初という主張ではない。
中国にはキトラより古い星表や天文学文献があり、星の位置を記した伝統そのものはさらに遡る。中国・朝鮮半島の古墳壁画にも星宿や日月が描かれる。キトラの特別さは、体系的な四円と多数の星座を一枚の図として残し、製作年代を七世紀末から八世紀初頭の墓へ位置づけられることにある。
「現存最古」は、新しい発見や資料の再年代測定で変わり得る評価でもある。文化庁は「本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の例」と表現しており、対象と条件を添えている。条件を外して文明全体の優劣へ結びつける説明は避けたい。
観測地は飛鳥ではないのか
内規と外規の大きさは観測地の緯度で変わる。北へ行くほど一年中沈まない星の範囲が広がり、南へ行くほど小さくなる。この性質を使い、図の円や星の位置から原図の観測地を推定する研究が行われてきた。候補には、中国の長安・洛陽付近、朝鮮半島、飛鳥などが挙げられた。
近年公表された「キトラ古墳天文図の観測年代と観測地の推定」は、比較的正しく赤緯が描かれたと判断した十一星を用い、観測地を中国の長安、現在の西安付近や洛陽付近と考え得るとした。両都市の緯度は北緯三四度台で、飛鳥とも大きく離れてはいない。計算結果が都市名そのものを返すのではなく、推定緯度と歴史的に天文観測が行われた場所を照合して候補を出している。
別の研究では、内規や外規の半径、二十八宿の配置を用い、より高い緯度や朝鮮半島を候補にした例もある。結果が分かれる理由は、星点をどの恒星へ同定するか、壁画の円をどこまで真円として測るか、剥落部をどう補うか、描画時の変形を誤差へ入れるかが異なるためである。
歳差運動を使うと、地球の自転軸の向きが長い時間をかけて変わるため、天の北極と星の位置関係から原観測年代を推定できる。ただし壁画の星点は現代の精密観測値ではなく、原図から何度か写された可能性がある。描いた時代が七世紀末でも、参照した星表は数百年前の観測に基づくことがあり得る。「墓を造った年」「壁画を描いた年」「原図を作った年」「星を観測した年」を同じにしないことが重要である。
星図はどうやって天井へ移されたか
天文図を飛鳥で一から実測したというより、東アジアで流通した星図や星表を下敷きにし、墓室へ合わせて転写したとみる説が有力である。紙や絹の原図、工房に伝わる粉本、天文官の資料などが想定されるが、キトラ壁画の直接の原本は見つかっていない。
円を描くには、中心を定めて紐や定規を回す方法が考えられる。星点には金箔を貼り、朱線で結ぶ。屋根形天井の限られた面で作業するため、原図の比率を完全には保てなかった可能性がある。黄道のずれも、天文学の無理解だけでなく、転写や作業空間の制約を含めて検討される。
筆順や重なりを調べれば、円、星、朱線のどれを先に置いたかを考えられる。顔料と金銀箔の分析は材料の由来や技法を示すが、絵師の名前までは返さない。中国式の星座を描けたことは、飛鳥の王権周辺に天文知識を扱う人材や資料が届いていた証拠であり、作業者全員が天文官だったことを意味しない。
高松塚の星宿図との違い
高松塚古墳の天井にも金箔の星を朱線で結んだ図がある。ただし高松塚は星空を象徴的に構成した星宿図で、キトラのように内規、赤道、外規、黄道をそろえた本格的な円形天文図ではない。二つの古墳は近い年代と地域にありながら、天井画の情報量と構成が異なる。
この差を被葬者の官位や職掌に直結させ、「キトラの人物は天文官だった」と断定する説には証拠が足りない。依頼者の好み、入手できた原図、工房の違い、墓室天井の形、製作時期の差でも説明できる。比較から確かに言えるのは、藤原京期の葬送美術に複数の星空表現があったことまでである。
四神の白虎の向きも異なる。高松塚では一般的な南向き、キトラでは北向きとされる。この違いにも、粉本、配置、作画順序など複数の説明がある。向きの珍しさだけを、特定民族や秘密の宗教の印に変えることはできない。
漆喰を外して守るという選択
発見後の壁画は、漆喰の浮き、微生物、泥の流入などで剥落の危険が高かった。文化庁は検討会を設け、石材から壁画のある漆喰層を取り外し、保存処置を行う方針を採った。天文図も一枚の板のように外したのではなく、状態に応じた小さな単位で分離し、修理施設で再構成した。
取り外しは、古墳という場所から絵を動かす重大な介入である。一方、そのままでは絵の具と漆喰が落ち、像そのものを失う危険があった。文化庁の会議資料には、顔料の剥落、同じ画像の分断、石室と壁画を一体で守る理念の間で検討した経緯が残る。結果だけを「壁画を切り取った」と表現すると、保存上の切迫と試験の積み重ねが見えなくなる。
二〇一六年九月、国営飛鳥歴史公園内にキトラ古墳壁画保存管理施設が開館した。二重壁と独立空調を備え、壁画と出土品を安定した環境で保管し、期間を限って実物を公開している。文化庁は二〇二五年九月にも保存・活用方針を一部改正した。公開日程は保存状態と作業に合わせて決まるため、常時実物を見られるわけではない。
現在の墳丘は整備され、石室内へ入ることはできない。体験館の精密な複製や映像は、壁画の配置を理解するために用意されている。実物を守ることと、原位置の空間を伝えることを別の方法で両立させる仕組みである。
観測計算が答えない被葬者名
天文図の精度が高いほど、被葬者を天武天皇の皇子、陰陽寮や天文に関わった官人、渡来系の有力者へ結びつけたくなる。しかし星図が中国由来であることは、墓の主が中国人だった証拠ではない。墓を設計した人、絵を注文した人、原図を持った人、実際に埋葬された人は別々であり得る。
骨の年齢、棺金具、刀装具、墳丘の規模、築造年代から候補を絞る研究は続いている。決定に必要な墓誌や氏名銘がない以上、候補者ごとに死亡年、年齢、政治的地位、葬地を照合することになる。天文図の観測地を長安に推定できても、長安で観測した本人が飛鳥へ葬られたという話にはならない。
キトラ天文図が直接伝えるのは、七世紀末から八世紀初頭の飛鳥で、中国式天文学の体系を知る原図と、それを高度な壁画へ変える技術が利用できたことだ。原図がどこで観測され、何段階で写され、なぜこの墓へ選ばれたかは研究上の問いとして残る。円と星点の誤差まで含めて読むことで、完成した科学図だけでなく、知識が国境と時代を越えて運ばれた過程が見えてくる。
