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黄金の観音像が鎮める「首塚」の秘史――荒川区・円通寺と小塚原刑場、解体新書を生んだ土地の記憶

東京都荒川区南千住。常磐線と京成線の高架が交差する一角に、円通寺という古刹がある。

本堂の上に立つ金色の観音像は、全長十二メートルとされる。近代日本彫刻の祖と呼ばれる高村光雲の作だ。周辺の住宅街から見上げると、異様な存在感を放っている。

この観音像の足元にあたる寺の由緒には、平安時代までさかのぼる「首塚」の伝承が刻まれている。

敵の首を四十八、手厚く葬った男

寺に伝わる話はこうだ。永保三年、西暦一〇八三年のことになる。

源義家が、奥州でくすぶる清原氏一族の内紛を鎮めるべく、大軍を率いて奥州へ向かっていた。その途上、この地に立ち寄る。

当時この一帯には、観音を祀る小さな寺があった。川沿いの、目立たない堂だったらしい。義家は道中の無事と戦の吉凶を占うため、この寺へ祈願を捧げたと伝わる。

寺の観音は霊験あらたかだった。義家はここで、のちに勃発する後三年の役の行方について、予言めいた霊示を受けたのだという。

実際に義家は奥州で清原家衡・武衡らと激しい戦いを繰り広げる。多くの死者を出す凄惨な合戦の末に勝利を収めた。

義家は戦の帰路、再びこの寺へ立ち寄った。敵方として戦い命を落とした武者たちの首級四十八体を手厚く葬り、供養のための塚を築いたと伝わる。

合戦の勝者が敵の首を晒すのでなく、あえて手厚く弔う。この逸話は、当時の武家社会の心性をよく表している。祟りを恐れる気持ちと、敵将への敬意。二つが入り混じった、中世武家説話特有の性格だ。

この塚が「小塚」の語源になった。やがてこの一帯全体が「小塚原(こづかっぱら)」と呼ばれるようになる。円通寺の由緒として、今日まで伝えられている地名由来譚だ。

二十万人が処刑された、二百年

時代は下って江戸期。寛文七年、一六六七年頃に小塚原の地へ正式な刑場が設けられると、この土地の性格は一変する。

鈴ヶ森刑場、大和田刑場と並ぶ江戸三大刑場のひとつだ。鈴ヶ森は品川、大和田は八王子にあった。江戸の出入口にあたる場所へ、見せしめとして置かれている。

明治初期に廃止されるまでのおよそ二百年間、ここでは実に二十万人ともいわれる罪人が処刑されたと伝えられる。

この数字の大きさを裏づける発掘調査もある。二〇〇一年から二〇〇二年にかけて行われた調査では、刑場跡地から二百五十二個体分の頭蓋骨と、およそ千七百本にのぼる四肢の骨が出土した。

正式な記録に残らないまま埋葬された無数の人々。その存在を、骨が物理的な形で今に伝えている。数え上げられたのは、掘り返された範囲の分だけだ。

刑場での処刑を担ったのが、代々「山田浅右衛門」を名乗った処刑人一族だ。

初代・山田浅右衛門貞武は、谷流という試刀術を修めた剣客だった。幕府の「御様御用(おためしごよう)」、すなわち刀剣の斬れ味を試す役目を任されたのが始まりとされる。

この御様御用の職務には、斬首刑の執行も含まれていた。刀の切れ味を確かめる仕事と、人を斬る仕事が地続きだったわけだ。山田家は代々、この特殊な技術と役目を子孫へ継承していく。

面白いのは、これほど幕府にとって欠かせない役目を担いながら、山田家が生涯「浪人」という身分に据え置かれ続けた点だ。士分として遇されることはなかった。八代目にあたる当主の代に至るまで、幕末から明治の初期まで、この一族は連綿と稼業を続けたと伝わる。

墓石を削られ続ける、鼠小僧

小塚原で処刑された人物の中でも、とりわけ庶民の記憶に刻まれているのが「鼠小僧」こと次郎吉だ。

俊敏な身のこなしで大名屋敷の蔵に忍び込み、貧しい者に金をばらまく。義賊として講談や芝居で語られてきた盗賊である。

ただし実際の数字は生々しい。自供によれば八百三十九件の盗みを働き、生涯で盗んだ金額は三千両。現代の貨幣価値にしておよそ九億円にも達したとされる。

捕縛された次郎吉は市中引き回しのうえ、小塚原で処刑された。義賊という評判と、八百三十九件という数字。どちらが本当の姿なのかは今も割れている。

ところがその死後も人気は衰えるどころか、ますます高まっていく。現在も回向院に残るその墓には、今なお多くの参拝者が訪れる。

参拝者の目当ては墓石そのものにある。墓石の欠片を持ち帰ると賭け事や勝負事に御利益がある、という俗信がある。参拝者はその俗信を頼りに、墓石の一部を削り取っていく。正直、危うい信仰が続いているわけだ。

同じ回向院の墓域には、幕末の志士たちの墓も置かれている。安政の大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内だ。

後年、松陰の遺骸は弟子である高杉晋作らの手によって、世田谷の松陰神社へ改葬された。それでも小塚原に最初に葬られたという事実そのものが、この土地を単なる処刑場から幕末史の転換点へ押し上げる重要な要素になっている。

この一帯には「泪橋」という地名も残る。処刑場へ引かれる罪人たちが、家族との今生の別れを惜しんで涙を流した。その光景に由来する地名だという。悲哀の記憶を今に伝える地名だ。

明け方の刑場で、玄白が見たもの

時代はさらに下る。安永三年、一七七四年。この刑場は日本医学史における決定的な転換点の舞台となる。

蘭方医の杉田玄白と前野良沢、それに若き日の桂川甫周ら。彼らは小塚原刑場で行われる腑分け、つまり人体解剖に立ち会う許可を得て、明け方の刑場へ足を運んだ。

玄白らが携えていたのは、一冊の蘭語原典だ。オランダの解剖学者クルムスの著作をもとにした解剖書『ターヘル・アナトミア』である。手に入れたはいいが、当時は読み解く手段がほとんどなかった。

刑場の役人によって腑分けが進められていく。その現場で、玄白たちは強い衝撃を受けた。持参した書物の図版と、目の前で晒される実際の内臓や血管の配置とが、驚くほど正確に一致していたからだ。

当時の日本の医学は、中国由来の五臓六腑説に基づいていた。臓器の位置も、数も、実際の人体構造とは大きくかけ離れている。書物で読んだ知識と、目の前の死体が合わない。そういう時代だった。

この日の体験をきっかけに、玄白たちは仲間を集めて翻訳作業へ着手する。悪戦苦闘の末、安永三年に日本初の本格的な西洋医学翻訳書『解体新書』を世へ送り出した。

刑場という死と直結する場所で目撃した光景が、近代日本医学の扉を開く出発点になる。処刑と埋葬の場であると同時に、科学と啓蒙の原点でもあるという逆説。この土地の二重性を、何よりも雄弁に語る事実だ。

線路で切り裂かれた、弔いの場

現在、刑場跡の敷地は鉄道の高架によって分断されている。

常磐線と京成本線の線路を挟んで、二つの寺が隣り合う。首切地蔵を祀る延命寺と、無縁塔や著名人の墓を抱える回向院。もとは一続きだった土地が、今は線路で割れている。隣接しながら、別々の寺院として存在しているわけだ。

一七四一年に建立されたと伝わる首切地蔵は、高さ約三メートルある。処刑された二十万人の霊を弔うために造立されたとされ、今も静かに線路脇にたたずむ。

この光景そのものが、近代日本の縮図のように見えてくる。都市開発によって、歴史的な弔いの場が物理的に切り裂かれてしまったわけだ。

首のない甲冑が、連なって歩いてくる

現代のインターネットでも、南千住・小塚原一帯は東京屈指の心霊スポットとして扱われる。まあ、これだけの歴史があれば当然かもしれない。

あるブログ投稿者は、中学生時代の体験を証言している。南千住駅近くの日比谷線のトンネル付近で、深夜「ザッザッザッ」という規則正しい足音を耳にした。

気になって塀の隙間から覗き込む。すると首のない甲冑姿の侍が何人も、トンネルの奥から連なって歩いてきた。足音の正体はこれだ。

恐怖のあまり動けずにいると、そのうちの一体がまっすぐこちらへ向かってきた。投稿者は気を失うようにその場を離れたという。

生々しいのはこの後だ。帰宅後、家族からこう指摘された。肩に何か、首のない侍のようなものがだらりとしがみついていた。

職業として怪談を語る「怪談師」を名乗る別の投稿者もいる。刑場跡の駐車スペース付近で、処刑の瞬間そのものを幻視したと述べている。

絶望に満ちた罪人の表情が浮かぶ。首が木桶に落とされる瞬間まで見えた。それらが一瞬、脳裏をよぎったという。

この人物はさらに南千住駅でバスを待っている最中、江戸時代の着物を身にまとった男たちの姿がうっすらと視界に浮かび上がるのを感じた。携帯していたお守りが反応したため、とっさに九字の呪文を唱えて場を鎮めたと振り返っている。臨兵闘者皆陣列在前、というあれだ。

ただしこの投稿者自身の結論は、意外なほど地に足がついている。幽霊よりも、人間の方がずっと恐ろしい。

冤罪で処刑された者が少なくなかったであろうこの土地の歴史的な重みにこそ、本当の恐怖の正体がある。そう結んでいる。

近隣の延命寺についても、霊能者ほどこの場所には近づきたがらない、という噂がまことしやかに語られる。周辺の投げ込み寺や火葬場跡地とあわせて、荒川区南千住から西日暮里・三河島にかけての一帯は、東京でも屈指の「地霊が濃い」エリアとされている。心霊スポット愛好家たちのまとめサイトや動画投稿サイトで、繰り返し取り上げられている。

祟り型の首塚と、供養型の首塚

日本各地には「首塚」を冠する史跡が数多くある。

東京・大手町の平将門の首塚は、動かそうとした者に祟りが起きるという伝承で知られる。GHQや大蔵省関連の工事事故が語られる、代表的な例だ。

京都の首塚大明神には、酒呑童子の首を埋めたという伝承がある。大江山で退治された鬼の首だ。

これらと円通寺の首塚を比較すると、性格の違いがはっきり出る。将門塚が「祟り」を中核に語られる攻撃的な怨霊譚であるのに対し、円通寺の首塚は観音信仰による「鎮魂・供養」を中核に据えている。

同じ「首塚」という言葉でも、供養型と祟り型という二つの型がある。その好例と言っていい。

別々の記憶層が、同じ土地に積み重なった

ここで一度、二つの話を切り離しておきたい。

円通寺に伝わる「首塚」伝承と、小塚原刑場の史実。この二つは成立時期も性格も異なる、別々の記憶層にあたる。

源義家の首塚伝説は、平安後期の武家説話に連なるものだ。江戸期の刑場とは、直接の史料的つながりが確認されていない。

むしろ見るべきは、重なり方のほうかもしれない。平安期の合戦供養の記憶と、江戸期の刑死者供養。時代の異なる二つの「弔いの記憶」が、同じ小塚原という土地へ重層的に積み上がっている。

そして明治以降も、観音信仰がその上から鎮め続けてきた。

この刑場が日本史で特筆されるのも、単なる処刑地としてではない。近代医学の出発点になった場所としてだ。処刑と埋葬の場であると同時に、医学史・科学史の転換点でもある。江戸期の刑場は、そういう二重の意味を持つ土地だった。

隣接する回向院には、刑死者や行き倒れ人を弔うための無縁塔が今も残っている。名前の分からない死者を、まとめて供養するための塔だ。

可視と不可視、二つの観音像

現在、本堂の上に立つ全長十二メートルの金色観音像は、代替の像にあたる。室町時代に焼失したと伝わる秘仏観音像の代わりとして造立されたものだ。

本尊そのものは平安後期の作と伝わる秘仏で、扱いは厳重を極める。住職ですら在職中に一度目にするかどうか。そういう話が残っている。開扉の記録も、ほとんど表に出てこない。

刑場という土地の記憶が、対照的な二つの観音像によって鎮められている。公開された巨大な金色像と、非公開の秘仏。可視化と秘匿の両面から抑えられている構図は、日本の慰霊文化の型として興味深い。

ここで史実と伝承の切り分けをしておきたい。

円通寺の首塚伝承そのものは、史料的な一次資料での裏づけが確認しづらい。中世武家説話の系譜に属し、確証度としては後世の伝承・寺伝の範囲にとどまる。

一方、小塚原刑場としての史実、そして解体新書誕生の現場としての史実は違う。公文書や研究資料で裏づけられた確実な歴史だ。

この二つを混同してはいけない。別のレイヤーとして記録しておきたい。伝説と史実が同じ土地の上で折り重なり、「地霊スポット」として語られる典型例。円通寺と小塚原は、その意味で貴重な事例になっている。

なお、この土地について触れた読み物には、webムーの記事や、解体新書の成立を扱ったサライの記事、小塚原刑場跡を紹介する旅行情報サイトの記述などがある。

こうして重ねて見ていくと、この狭い土地の正体が見えてくる。

平安期の合戦供養がある。江戸期の二十万人におよぶ処刑の記憶がある。解体新書という科学史の転換点も、ここで起きた。さらに現代のインターネットが怪異譚を上塗りしていく。

性格の異なる複数の記憶が、ひとつの狭い土地へ幾重にも折り重なっている。きわめて稀有な「記憶の集積地」だ。

表からは見えづらい線路脇の首切地蔵と、遠くからでも見上げられる本堂上の巨大な金色観音像。対照的な二つの像が、可視と不可視の両面からこの土地の記憶を静かに鎮めている。

東京という巨大都市の地下に今も眠る歴史の厚みを、この構図が何よりも雄弁に語っている。

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