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松尾芭蕉は幕府の隠密だったのか――『おくのほそ道』の歩行距離が速すぎる件

四十六歳のじいさん(当時の感覚では立派に老人だ)が、五ヶ月で二千四百キロを歩いた。しかも道は舗装されてない。しかも途中で山を越え、川を渡り、雨に降られ、蚤と虱にたかられている。これ、普通か。普通じゃないよな、というところから、あの話は始まる。松尾芭蕉、幕府の隠密説である。

## そもそも、なんで「俳聖」がスパイ扱いされてるんだ
日本人なら誰でも名前は知っている。教科書に出てくる。「古池や蛙飛びこむ水の音」の人だ。それが、なぜか一方で「実は忍者でした」「幕府の密偵でした」という顔も持たされている。テレビの歴史バラエティで年に一度は擦られるし、ネットの都市伝説まとめでは常連中の常連だ。伊賀出身、藤堂家に仕えていた、異常な健脚、同行者が怪しい、金の出どころが不明、東北の外様大名の領地ばかり回っている。並べられると、たしかにちょっと「ん?」とはなる。
でもここでやりたいのは、「芭蕉は忍者だった、驚愕の真実」で終わることじゃない。逆に「はい全部デマでーす」で切り捨てることでもない。旅の中身をちゃんと最初から最後まで追いかけて、記録として残っている材料を全部並べて、そのうえで「隠密説がどこから生まれて、どう育って、なぜこんなに愛されてきたのか」を見る。そこまでやらないと、この話はおもしろくならない。というわけで、けっこう長くなる。覚悟して読んでほしい。

## 伊賀上野に生まれた、というだけで人生を疑われる男
芭蕉は寛永二十一年、西暦でいえば一六四四年、伊賀国の阿拝郡で生まれた。今の三重県伊賀市だ。出生地については伊賀上野の赤坂町とする説と、上柘植村とする説の二つがあって、今も決着はついていない。父は松尾与左衛門。柘植郷の土豪一族の流れを汲むとされるが、芭蕉が生まれた時点ではすでに武士ではない。無足人という、農民でありながら苗字帯刀を許されるような中間的な身分だったと考えられている。要するに、地元では多少の顔はきくが、藩に召し抱えられているわけでもない、微妙な階層の家だ。
で、問題はここが伊賀だということ。伊賀と言われた瞬間、日本人の脳は自動的に忍者を連想する。服部半蔵、百地丹波、藤林長門。伊賀流忍術の里。そういう文化的刷り込みが強すぎるので、「伊賀出身」と聞くと「じゃあ忍者の血が」と勝手に線がつながってしまう。隠密説の第一の根っこは、正直これだ。もっと言えば、芭蕉の母方が伊賀流忍術の祖とされる百地丹波の一族だった、という話まで出回っている。ただこの母方百地説、出どころをたどるとかなり心もとない。芭蕉の母の出自については確実な系図が残っておらず、伊賀の土豪の娘だった、くらいまでしか言えない。そこから「百地の一族」まで飛ぶには、けっこうな助走が必要になる。
十九歳前後、芭蕉は藤堂新七郎家に仕える。藤堂家は伊賀上野を治める侍大将の家柄で、その嫡子が藤堂良忠、俳号を蝉吟といった。二つ年上のこの若殿と芭蕉は、主従でありながら俳諧の同志になる。二人そろって京都の北村季吟に師事し、貞門俳諧をみっちりやった。ここが芭蕉の文学的な出発点だ。
隠密説はこの藤堂家仕官も材料にする。藤堂家は服部半蔵の家系とつながりがあり、当主が忍術の免許を持っていた、伊賀者の統率にも関わっていた、だから芭蕉もそこで仕込まれたのだ、と。ただ芭蕉が藤堂家で何をやっていたかというと、記録に出てくるのは厨房役、つまり台所の仕事だ。料理人だったとも、台所回りの雑務係だったとも言われる。忍術の稽古をつけられていたという記録は、ない。まったくない。良忠が二十五歳で急死すると、芭蕉は奉公を辞めてしまう。主君であり文学の相棒でもあった男の死は相当こたえたらしく、この時期の芭蕉の足取りは資料が薄い。この「空白」がまた、後の人の想像を刺激することになる。

## 江戸で水道工事の帳面をつけていた男
三十歳前後で江戸に出た芭蕉は、日本橋あたりの名主の家に身を寄せながら俳諧で頭角を現していく。そして延宝五年ごろ、神田上水の工事に関わったことが知られている。水戸藩邸の防火用水として神田川から水を分ける工事だ。ここで芭蕉が何をやっていたかというと、人足の帳簿づけのような、事務方の仕事だったとされる。若いころから算用と記録が得意だったらしい。
隠密説はここも拾う。上水道というのは江戸の生命線だ。その普請の内側を知っている人間は、江戸の土木インフラの構造を把握しているということになる。各藩の普請の進み具合を報告させるなら、こういう人材が適任だ、と。さらに深川の芭蕉庵の立地も怪しまれる。庵は隅田川沿い、船番所や川の関にほど近い場所にあり、庵を提供した杉山杉風は幕府御用の魚問屋で、大名屋敷にも出入りできる立場だった。杉風は耳が不自由だったと伝わるのに鳥の声を詠んだ句を残している、というちょっと不気味な話まで持ち出される。
ただし冷静に見れば、俳諧師というのはもともとパトロンに養われる職業だ。杉風は芭蕉の最大の後援者であり、彼が芭蕉に庵を提供したのは弟子として師を支えたからだと考えるのがいちばん素直だ。魚問屋が大名屋敷に出入りできるのも、単に商売としてそうだからだ。何もかも情報網に見えてくるのは、こちらの目が曇っているだけかもしれない。

## 元禄二年三月二十七日、千住で泣いた朝
そして本題の旅だ。元禄二年三月二十七日、新暦に直すと一六八九年五月十六日。芭蕉は住み慣れた深川の草庵を人に譲り、弟子の河合曾良を連れて舟に乗り、千住で陸に上がった。見送りに来た門人たちと、ここで別れる。
「行春や鳥啼魚の目は泪」。行く春を惜しむ、鳥は啼き、魚の目にも涙が浮かぶ。この句を矢立の初めとして、旅が始まる。芭蕉自身が本文で「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」と書いている通り、みちのくは当時の江戸の文人にとって、ほとんど異界だった。行ったら帰ってこられないかもしれない。実際、旅立つ前に芭蕉は身辺整理をしている。庵を手放したのは、そういうことだ。
なお、この千住がどっちの千住なのか、隅田川の南岸なのか北岸なのか、で研究者が真顔で争っている「千住論争」というものがある。地元同士の意地もかかっていて、なかなか熱い。旅の初手からこうなのだ、この作品は。

## 日光、那須、そして黒羽で十三泊も何をしていたのか
草加、室の八島を経て、四月一日に日光に着く。「あらたうと青葉若葉の日の光」。青葉若葉に降りそそぐ日の光が尊い、という、東照宮を寿ぐ句だ。あまりに素直に幕府の聖地を讃えているので、これを「本心か、それとも皮肉か」と読む人もいるし、隠密説の側からは「幕府への忠誠の署名だ」と読まれることもある。まあ、当時の紀行文で東照宮を悪く書くやつはいない。ふつうに考えれば社交辞令だ。
そのあと那須野をさまよい、殺生石を見て、遊行柳を訪ね、四月三日には黒羽に入る。ここで芭蕉は十三泊、日数にして二週間近く居座る。旅全体で最長の滞在だ。黒羽藩の城代家老の浄坊寺図書、その弟の桃翠が芭蕉の門人筋で、要するにパトロンの家に厄介になっている。雲巌寺に仏頂和尚の山居の跡を訪ねたり、犬追物の跡や玉藻の前の古墳を見たり、けっこう観光している。
この「十三泊」が隠密説では大きな材料になる。なんでそんなに長居する必要があった、任務があったんだろう、と。ただ、四月上旬というのは旧暦だから新暦では五月下旬。梅雨に入る手前で、天候が読めない時期だ。曾良の日記を見ると雨で足止めを食っている日もある。そして何より、当時の俳諧の旅というのは、行った先で連句の座を巻き、地元の連中に指導し、そのお礼として路銀と宿を得るという構造になっている。歓待されればされるほど長逗留になる。むしろこれは、隠密っぽくない。密偵が一箇所に二週間も顔を晒すかね、という話でもある。

## 白河の関を越え、須賀川で腰を据える
四月二十日ごろ、いよいよ白河の関。ここを越えると、歌の世界でいう「みちのく」だ。芭蕉は「心もとなき日かず重るまゝに、白河の関にかゝりて旅心定りぬ」と書く。ここでやっと旅の心が定まった、と。能因法師も西行も詠んだ関である。文学の巡礼としては、ここが最初の頂点だ。
須賀川では相楽等躬という土地の俳人のところに七泊した。ここで有名な「風流の初やおくの田植うた」が生まれる。等躬に「白河の関ではどんな句を」と聞かれて、旅の疲れで句もできなかった、ただ田植歌が耳に残って、と答える場面だ。ここでも滞在は長い。そしてここでも、迎えているのは俳諧の人脈だ。
そこから浅香山、信夫の里、文知摺石、佐藤庄司の旧跡、飯坂。飯坂の宿では雨漏りのする土間に筵を敷いて寝るはめになり、持病まで出て「死ぬかと思った」みたいなことを書いている。この描写、隠密説の人はあまり引用しない。だって、任務中の密偵が宿の手配もできずに野宿同然というのは、絵にならないから。

## 仙台に五日、松島には一泊だけ、という謎
五月四日、仙台に入る。ここで芭蕉は加右衛門という画工の世話になる。この男が松島や塩竈の地図を書いてくれ、紺の染緒のついた草鞋を餞別にくれる。芭蕉は「風流のしれもの」と呼んで喜んでいる。仙台では五日ほど滞在し、宮城野の萩を見、木の下、薬師堂、多賀城の壺の碑を訪ねた。
壺の碑の場面は『おくのほそ道』でいちばん芭蕉が感動している箇所のひとつだ。古人の跡は失われるのが常なのに、この碑だけは千年の記憶を今に伝えている、これを見て「泪も落るばかり也」と書く。歌枕をめぐる旅のクライマックスのひとつだ。
そして塩竈神社を拝み、船で松島へ渡る。ここで隠密説がいちばん食いつく事実が出てくる。芭蕉は旅立つ前から「松島の月まづ心にかかりて」と書き、松島を最大の目的地のように扱っていた。なのに実際には松島に一泊しかしていない。しかも『おくのほそ道』本文に松島の句を載せていない。あれだけ楽しみにしていたのに、素通り同然。おかしくないか、と。
さらに曾良の日記を読むと、松島や塩竈で港や瑞巌寺のあたりをやたら細かく見て回った形跡がある。瑞巌寺は伊達政宗が建てた寺で、有事には要塞にもなるという噂が付きまとう場所だ。仙台藩の港湾、船の数、寺の構え。それを見て、句は残さず、記録だけ残す。これを「軍事偵察だった」と読むのが隠密説である。
ただ、これも別の説明がつく。松島は絶景すぎて句にならなかった、というのは昔から言われる読み方だ。実際、松島の句として世に流布している「松島やああ松島や松島や」は芭蕉の作ではない。後世の狂歌師の作を芭蕉に仮託したものだ。つまり「松島で芭蕉は句が詠めなかった」という物語自体が、そうとう早い段階で日本人の共有財産になっている。それに滞在日数の話でいうと、芭蕉は目的地に長居するタイプではなく、パトロンのいる町に長居するタイプだ。松島には泊まる家がない。そういう身も蓋もない事情もある。

## 平泉で泣き、山を越えて出羽へ入る
五月十三日、平泉。ここが旅の北限だ。藤原三代の栄華の跡、高館に登って北上川を見下ろし、芭蕉は例の句を詠む。「夏草や兵どもが夢の跡」。義経と郎党が最期を遂げた場所で、今はただ夏草が茂っているだけ。杜甫の「国破れて山河在り」を踏まえて、笠を敷いて時のうつるまで泪を落した、と書く。
中尊寺では光堂を見て「五月雨の降のこしてや光堂」。降り続く五月雨が、ここだけは降り残したのだろうか、という句だ。
平泉から折り返して、鳴子から尿前の関を越える。ここで役人に怪しまれて足止めを食う。隠密説からすると「幕府の手形を持っていたなら足止めされるはずがない」という反証材料になる場面だが、隠密説の側は「怪しまれないように演技していた」と返す。この手の議論はどこまでも続けられる。
そして国境の封人の家に二泊。「蚤虱馬の尿する枕もと」。蚤と虱にたかられ、枕元では馬が小便をする。密偵の潜伏先としてはあまりに悲惨だ。翌日は山刀伐峠。案内人を雇って山越えをする、旅程でいちばん危ない区間だ。この案内の若者が「この山は必ず何か起こるから気をつけろ」と言い、無事に越えたあとで「いつもは事故があるのに今日は何もなかった、幸いだった」と言って去っていく。芭蕉は後から聞いて心臓が縮んだと書いている。

## 出羽三山、そして象潟の雨
尾花沢では鈴木清風という紅花問屋の富商のところに十泊。清風は江戸でも知られた豪商で、俳諧をたしなむ人物だ。ここでも滞在は長い。紅花商人の家に長居した、という事実が、隠密説では「東北の物流と経済を調べていた」に化ける。まあ、正直に言えば、金持ちの家は居心地がいいのだと思う。
そこから立石寺。「閑さや岩にしみ入蝉の声」。この句は当初「山寺や石にしみつく蝉の声」だったことが曾良の書留から分かっている。推敲の過程が見えるのが曾良日記のありがたいところだ。
大石田で最上川の舟に乗り、「五月雨をあつめて早し最上川」。これも初案は「五月雨をあつめて涼し最上川」で、地元の連句の座では「涼し」だった。それを紀行文にまとめる段階で「早し」に変えて、川の激しさを前面に出した。作品としての演出だ。
六月に入って出羽三山。羽黒山、月山、湯殿山を巡る。月山では雪の残る山中で一夜を明かし、「雲の峰幾つ崩て月の山」。湯殿山については語ってはならぬ習わしがあるので、と書きつつ「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」と詠む。宗教的な行の色が濃い区間だ。
酒田から象潟へ。ここが旅の最北西端になる。象潟は当時、松島と並び称される景勝地で、無数の小島が浅い潟に浮かんでいた。雨に煙る象潟を見て、芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠む。松島が笑うようであるのに対し、象潟は恨むようだ、という有名な対比を書く。この象潟、後に文化元年の大地震で隆起して陸地になってしまう。今は水がない。芭蕉が見た景色は、もう地球上のどこにも存在しない。

## 北陸道の地獄と、曾良が消える日
象潟から南下して北陸道に入る。ここからの記述はかなりそっけない。実際、越後路は暑さと湿気と長い距離で、旅としては最もきつい区間だったらしい。「文月や六日も常の夜には似ず」「荒海や佐渡によこたふ天河」。佐渡島の向こうに横たわる天の川、というスケールの大きな句だが、これも実景かどうかは議論がある。曾良の日記だと、その日の天候は必ずしも星が見える感じではない。
市振の宿では、隣の部屋に伊勢参りの遊女が泊まっていて、道連れにしてくれと頼まれるが断る、という有名な挿話がある。「一家に遊女もねたり萩と月」。これ、曾良の日記にはまったく出てこない。つまり、ほぼ確実に芭蕉の創作だ。『おくのほそ道』が「旅行記」ではなく「文学作品」であることの、いちばん分かりやすい証拠のひとつになっている。
金沢では八月十五日ごろから十日近く滞在。ここで会うはずだった門人の一笑がすでに死んでいたことを知り、「塚も動け我泣声は秋の風」と慟哭する。小松では多田神社で斎藤実盛の甲を見て「むざんやな甲の下のきりぎりす」。那谷寺では「石山の石より白し秋の風」。
そして山中温泉。ここで曾良が腹を病んで、伊勢の長島にいる縁者のもとへ先に発つことになる。「行行てたふれ伏とも萩の原」という句を残して曾良は去り、芭蕉は「今日よりや書付消さん笠の露」と応じる。笠の内側に書いた「同行二人」の文字を消そう、という句だ。旅の相棒を失った芭蕉が、ここでいちばん寂しくなる場面である。
この別離も、隠密説では「任務の分担が終わったので別行動に移った」と読まれる。曾良は本当に病気だったのか、それとも別の役目で先行したのか、と。曾良の日記は別れたあとも続いていて、彼が実際に長島に着き、しばらく静養していたことは書かれている。ただ、日記は本人が書くものなので、疑う人はどこまでも疑える。

## 大垣の蛤、そして三年がかりの推敲
北陸を抜けて、敦賀、種の浜。そして八月下旬、美濃の大垣に着く。ここで門人たちが待ち構えていて、旅の終わりを祝う。先に別れたはずの曾良も駆けつけている。そして芭蕉はすぐには落ち着かず、九月六日に伊勢神宮の遷宮を拝みに舟で発つ。「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」。蛤の蓋と身が分かれるように、二見が浦へと別れていく秋だ、という掛詞の句で作品は閉じる。
ここで押さえておきたいのは、旅が終わっても『おくのほそ道』は終わっていないということだ。芭蕉はこのあと三年以上かけて推敲し、元禄七年に一応の完成をみる。その年に芭蕉は大坂で死ぬ。刊行されたのは死後八年たった元禄十五年。つまり我々が読んでいるのは、旅の記録ではなく、旅から抽出して練り上げた作品なのだ。ここを押さえておかないと、この先の話が全部ずれる。

## 曾良の日記という怪物が、すべてをひっくり返した
ここからが、この話のいちばん肝心なパートだ。
『曾良旅日記』、正式には『奥の細道随行日記』。これは同行した曾良が旅の最中に書いていた実務的な記録で、日付、天候、宿泊地、区間の距離、会った人の名前が淡々と並んでいる。情緒的な表現は一切ない。芭蕉の文章とは正反対の、乾いた業務日誌だ。
この日記は昭和十三年の夏、伊東の斎藤家の虫干しの現場で、医師で研究者の山本安三郎という人物によって発見された。存在自体は古くから知られていたが、写本しか出回っておらず、学界では偽物ではないかと疑われていた。それが原本の形で出てきた。山本はこれを昭和十八年に世に出す。ちょうど芭蕉の二百五十回忌と生誕三百年の年で、話題性も十分だった。原本は現在、天理大学附属天理図書館の所蔵で、重要文化財に指定されている。
中身は六部構成になっていて、延喜式神名帳の抄録、歌枕の覚書、元禄二年の日記、元禄四年の日記、俳諧書留、雑録。注目すべきは最初の二つだ。曾良は神道学者の吉川惟足に学んでおり、旅程に沿って北国の古社を事前に調べ上げている。歌枕についても『類字名所和歌集』などから抄録して、備忘録を作っていた。つまり、この旅は徹底的に下調べされている。ぶっつけ本番の放浪ではない。
そしてこの日記が公になったことで、『おくのほそ道』と実際の旅の食い違いが大量に見つかった。数え方にもよるが、八十箇所前後の齟齬があると言われる。日付が違う。順序が違う。天候が違う。行っていない場所に行ったことになっている。行った場所が書かれていない。市振の遊女は日記にない。松島の記述の順番も違う。句の初案は別物だった。
これを受けて、志田義秀のような研究者が「『おくのほそ道』には作為と虚構性がある」と指摘し、小宮豊隆はそれに抵抗したが、杉浦正一郎らの詳細な検討を経て、最終的には「虚構である」というのが学界の常識になった。文学作品として構成されている、という理解だ。
ここが分岐点になる。同じ「食い違い」を、文学研究は「創作の証拠」と読み、隠密説は「隠蔽の証拠」と読む。素材は同じで、解釈だけが正反対なのだ。

## で、その歩行距離、本当に速すぎるのか
隠密説の一丁目一番地は「歩くのが速すぎる」だ。ちゃんと数字で見よう。
総距離が約六百里、キロに直して約二千四百キロ。日数は約百五十日。単純に割ると一日あたり十六キロ。これだけ見ると、むしろ遅い。散歩レベルだ。
ただし旅には逗留がある。黒羽で十三泊、須賀川で七泊、尾花沢で十泊、金沢で十日近く。他にも数日単位で止まっている町がいくつもある。逗留日を差し引くと、実際に移動していた日数はおおむね半分から三分の二くらいになる。すると一日あたりの移動距離は二十五キロから三十五キロあたりに上がる。そして曾良の日記から個別の日を拾うと、四十キロを超える日がいくつもあり、最大では五十キロから六十キロに達した日もあったとされる。四十六歳が、である。
じゃあ、これは異常なのか。ここで比較対象が必要になる。江戸時代の旅人の一日の歩行距離について、図書館のレファレンス事例をたどると、複数の研究書がだいたい同じ数字を出している。金森敦子の研究では、平坦な道で成人男子は九里から十里、およそ三十五キロから三十九キロが標準だとされる。女性で六里から八里。同じ著者の別の本では「当時の成人男子の一日の歩行距離は十里が標準」とはっきり書かれ、参勤交代の行列でさえ十二里前後を動いていたとある。鎌田道隆の伊勢参りの研究では「平均的には八里前後」。板坂耀子は「五里から十里前後が一日の行程」としている。
つまり、当時の日本人の標準が三十二キロから三十九キロ。芭蕉の平均は、逗留を差し引いても三十キロ前後。標準の範囲内、いや、むしろやや下だ。ピークの五十キロから六十キロという日も、健脚な旅人としては別に前人未到の数字ではない。伊勢参りの庶民の記録には、もっと歩いている人がごろごろいる。
三重大学で忍者研究をしている吉丸雄哉は、この論点をはっきり潰している。芭蕉が一日に歩いた距離は、長い日でも当時の平均的男性の三割増し程度で、一般人と変わらない、と。三割増しは確かに健脚だが、忍者を持ち出す必要はまったくない。
ここで一つ付け加えておくと、「当時の平均寿命は五十歳だったから四十六歳は今の七十代だ」という説明をよく見かけるが、これはかなり乱暴だ。江戸時代の平均寿命の低さは乳幼児死亡率が押し下げている数字であって、成人まで生き延びた人間の余命はもっと長い。四十六歳は今の四十六歳とそこまで変わらない。むしろ日常的に歩いている分、足腰は今の我々よりずっと強い。
つまり「速すぎる」という前提そのものが、事実としてはもう崩れている。隠密説の看板の柱が、いちばん先に折れているのだ。

## 隠密説の論点を、ぜんぶ並べて叩いてみる
看板が折れても、隠密説には他にもいろいろある。全部並べよう。
通行手形の問題。当時、関所を越えるには手形がいる、芭蕉のような一介の俳諧師にそれが取れたはずがない、だから幕府発行の特別な手形を持っていたに違いない、という主張だ。ただ、この前提が甘い。江戸時代中期の関所は、いわゆる「入鉄砲に出女」を主眼にしていて、男の旅人、とりわけ僧形の者にはかなり緩かった。芭蕉は剃髪していて、僧に近い格好をしている。俳諧師や巡礼、修行者は比較的自由に動けた。実際、尿前の関では怪しまれて足止めを食っているし、フリーパスだった形跡はない。
外様大名の領地ばかり回っている、という主張。伊達、上杉、前田。たしかに大藩の領内を通っている。でも東北から北陸へ抜けるルートを歩けば、必然的にそうなる。当時の街道の構造上、外様の領地を避けて東北を一周することは不可能だ。歌枕は東北に集中しており、白河の関も松島も象潟も平泉も、行くなら外様の領内を通るしかない。
日光東照宮の改修時期と旅立ちが重なっている、という話。ここは慎重に扱いたい。日光の社寺は江戸期を通じて繰り返し修理されており、元禄期の前後にも大小の普請はあった。ただ、元禄二年の芭蕉の旅立ちと具体的な大改修とを直結させる史料は、調べた範囲では確認できなかった。日光市がまとめている江戸期の年表でも、修理成って正遷宮という記録は正徳三年のものが目立つ。つまり「東照宮の改修を検分するために旅立った」という筋書きは、時期の裏付けが弱い。よく語られる話ではあるが、根拠としては相当あやしい。
千住での空白の七日間、という話もよく出る。旅立ちの前に関東代官頭の伊奈家の屋敷でレクチャーを受けていた、というやつだ。ただ、三月二十七日出発で四月一日に日光着という行程を見ると、そもそも七日の空白を挟む余裕がない。この説には基本的な日程の矛盾がある。
仙台藩での不自然な足取り。これは前に書いた通り、瑞巌寺と港をやけに丁寧に見ている、という指摘だ。ただ曾良は歌枕と古社を事前調査してきた男で、彼が寺社と地形を細かく記録するのは、むしろ職業病みたいなものだ。神社は「参詣」「拝ム」と書き、寺は「見学」「見ル」と書き分ける几帳面さは、神道家としての立場の反映と解される。軍事偵察のメモにしては、あまりに神社の格付けにこだわりすぎている。

## 河合曾良という、いちばん怪しい男
正直に言うと、隠密説の中でいちばん筋がいいのは芭蕉ではなく曾良のほうだ。
曾良は慶安二年、信濃国の高島城下の生まれ。両親を早くに亡くし、伯母の養子になり、十二歳でまた孤児になり、伊勢長島の住職に引き取られた。若いころ長島藩主に仕えて河合惣五郎を名乗り、天和元年に江戸に出て芭蕉に入門する。神道と地理と歌枕に通じ、几帳面に記録をつける男。芭蕉より五歳年下だが、旅の実務は完全に曾良が仕切っていた。宿の手配、道中の日程、事前の根回し、全部この人だ。
そして問題は晩年である。宝永六年、曾良は将軍徳川家宣の命により、幕府の巡見使の随員となって九州を回ることになる。巡見使というのは将軍の代替わりごとに諸国を巡って各藩の実情を検分する公式の役目で、要は幕府の目だ。その随員に、俳人が就いている。翌年、巡見の途上、壱岐国の可須村風本で病没する。享年六十二。
これは記録として確実に残っている事実だ。歴史学者の磯田道史は、この曾良の役職を「広義の隠密」と表現している。実際、情報を集めて中央に上げる仕事なのだから、広い意味ではそうだろう。さらに磯田は、曾良が古い旅日記を家に置かず持ち歩いていたこと、その記録が家族ではなく杉山杉風のもとに渡ったことも指摘する。なんで日記が師の後援者のところに行くんだ、と。
ただ、時系列を冷静に見てほしい。『おくのほそ道』の旅は元禄二年、一六八九年。曾良が巡見使随員になったのは宝永六年、一七〇九年。二十年空いている。二十年後の役職から二十年前の旅の目的を逆算するのは、順序としてかなり無理がある。むしろ「旅の経験と地理の知識が豊富で、記録が正確で、諸国の社寺に詳しい男」だからこそ、後年に巡見使の随員として使われた、と読むほうが自然だ。因果が逆なのだ。
とはいえ、曾良が「そういう能力を持った人材だった」ことは間違いない。そして芭蕉の旅の実務を担っていたのもこの男だ。曾良まわりの状況証拠が、隠密説をいちばんしぶとく生き延びさせている。

## 金はどこから出たのか、という現実的な問い
五ヶ月、二人分、宿代と食費と船賃と案内料。現代の感覚で百万円を軽く超えるという試算がある。無職の俳諧師にそんな金があるか、という疑問はもっともだ。
答えは、たぶん半分は「なかった」で、半分は「必要なかった」だ。
まず芭蕉は旅立つ前に深川の芭蕉庵を人に譲っている。これで多少の金は動いたはずだ。次に、門人たちからの餞別。当時の慣習として、師が長旅に出るときは弟子が路銀を包む。これは相当な額になる。
そして最大のポイントが、俳諧のパトロン網である。芭蕉は当時すでに江戸俳壇の大御所で、蕉風という新しい俳諧の総帥だった。地方には彼の名を慕う俳人たちがいて、その多くが有力商人か藩の上級武士だ。黒羽の浄坊寺図書は城代家老、須賀川の相楽等躬は駅長格の有力者、尾花沢の鈴木清風は紅花で財を成した豪商、金沢や大垣にも門人が待っていた。曾良はこのネットワークに事前に連絡を入れ、受け入れ態勢を作ってから出発している。行った先で連句の座を巻き、指導し、その謝礼として宿と食事と路銀を得る。これが当時の俳諧師の旅のビジネスモデルだ。
実際、曾良の日記には食事の記録がやたら詳しく残っていて、酒も飲むし、麺類も果物も食べている。『おくのほそ道』の本文が描く清貧の漂泊とはずいぶん違う、けっこう快適なグルメ旅だったことが分かる。幕府の資金が必要な旅には見えない。むしろ、幕府の金で動いているならもっと宿の手配がスムーズだったろうし、飯坂で雨漏りの土間に寝ることもなかっただろう。

## この説、いつ誰が言い出したのか
ここが、いちばん書きたかったところだ。隠密説はいつ生まれたのか。
江戸時代の記録に「芭蕉は隠密だった」と書いたものはない。同時代人も、江戸後期の芭蕉信仰の担い手たちも、そんなことは言っていない。明治期の芭蕉研究にも出てこない。
三重大学の研究プロジェクトが整理した系譜によれば、芭蕉忍者説の出発点は、松本清張と樋口清之による『東京の旅』、昭和四十一年、一九六六年の刊行だとされる。推理作家と考古学者の組み合わせだ。ここで芭蕉と伊賀、そして旅の不自然さが結び付けられた。
つまり、この説は三百年近く誰も言わなかった話で、戦後の高度成長期に生まれた、まだ六十年ほどしか歴史のない説なのだ。ここは強調しておきたい。「昔から言い伝えられてきた」ものではまったくない。
そして、いったん種が蒔かれると、フィクションが増殖を始める。昭和四十五年には『奥の細道殺人事件』という推理小説が出る。そして決定的だったのが、昭和六十三年から平成元年にかけてテレビ東京で放送された連続時代劇『隠密・奥の細道』だ。全二十四話、第一話と最終話は二時間スペシャル。芭蕉が幕府の隠密として旅をし、行く先々で悪を斬るという、堂々たるエンターテインメントである。サブタイトルには「水戸光圀を殺せ!」とか「芭蕉に迫る暗殺剣」とか、そういうのが並ぶ。俳聖はここで完全に時代劇のヒーローになった。
吉丸雄哉はこの流れを「結論先決めで理屈をつける形で発展してきた」と評している。つまり、まず「芭蕉は忍者だとおもしろい」があって、後から根拠が集められた。順番が逆なのだ。そして根拠が集まるほど、反証可能性のない「隠密説」だけが残っていく。忍術を使ったという逸話は一つもないので、忍者説は自然と「隠密説」へと後退し、隠密説は証明も反証もできない形に洗練されていった。

## テレビとネットが育てた、もう一人の芭蕉
受容の話をもう少し続けよう。時代劇が流行を作り、活字がそれを追いかけ、平成に入るとテレビの歴史バラエティが定期的にこのネタを回すようになる。「教科書に載っていない衝撃の真実」枠だ。番組の構成としてよくできている。誰でも知っている偉人、意外な裏の顔、地理と数字という一見科学的な材料、そして最後に「真相は謎に包まれている」で締める。視聴者は損をしない。誰も傷つかない。芭蕉は死んでいるので抗議もしない。
そこにインターネットが乗った。まとめサイト、都市伝説系ブログ、雑学系の記事。「芭蕉は一日五十キロ歩いた」という数字だけが独り歩きし、逗留日を差し引いた計算だという注釈は落ち、江戸時代の標準が四十キロ近いという比較対象は省かれる。数字は文脈から切り離されると、いくらでも驚異的になる。
掲示板や考察系のコミュニティでの反応もおもしろい。大きく三派に分かれる。「絶対にそう、伊賀出身の時点で確定だろ」という肯定派。「江戸時代の人間はみんなそれくらい歩いてる、現代人の運動不足を基準にするな」という否定派。そして「別に隠密でもいいけど、それより句がすごくない?」という、文学に引き戻す第三派だ。個人的には第三派がいちばん健全だと思う。
さらに面白いのは、否定派の中に「歩いた人」が多いことだ。実際に奥の細道を全行程歩き通す人が今でも一定数いて、その人たちは体感として「一日四十キロは、慣れれば別に無理じゃない」と言う。二週間も歩けば足はできる。むしろ最初の三日がつらいだけだ、と。実践者の証言は、机上の驚きをけっこう静かに解体してしまう。

## それでも残る、確認できていない空白
反証ばかり並べたので、公平のために「まだ分かっていないこと」も書いておく。
芭蕉の母の出自は確実には分かっていない。伊賀の土豪の娘、というところまでで、系図はない。だから百地一族説は否定もできないが、肯定する材料もない。
藤堂良忠の死後、芭蕉が江戸に出るまでの数年間の足取りは、かなり不明瞭だ。京都で北村季吟に学んでいた時期を含め、資料が薄い。
芭蕉の旅の資金の具体的な収支は、一次史料として残っていない。誰がいくら出したかは推定でしかない。
曾良の日記の原本が、なぜ杉山杉風のもとに渡り、そこから伊東の斎藤家に伝わったのか、その経路には不明な部分がある。
そして最大の空白は、そもそも芭蕉本人が「なぜ行ったのか」を、作品の中の文学的な言い回し以外で説明していないことだ。「そぞろ神の物につきて心をくるはせ」「道祖神のまねきにあひて」。行きたかったから行った、以上の説明はない。
ここに、いくらでも物語が入り込む余地がある。

## 隠密説より、たぶんこっちが本当の理由
じゃあ、なぜ四十六歳の男は死を覚悟してまで東北へ行ったのか。文学研究の側が出す答えは、隠密説よりずっとロマンチックだ。
西行である。西行法師は建久元年、一一九〇年に没した。芭蕉が旅立った元禄二年は一六八九年。ちょうど五百年後にあたる。西行の五百回忌の年なのだ。
芭蕉は西行に人生を捧げるレベルで傾倒していた。漂泊の歌人、旅に死ぬ生き方、その足跡をたどることが芭蕉の理想だった。そして『おくのほそ道』が訪ねる場所は、白河の関、武隈の松、末の松山、象潟、汐越の松と、西行や能因が詠んだ歌枕がずらりと並ぶ。曾良が事前に歌枕の抄録を作っていたのも、これが目的だからだ。
つまり、この旅は情報収集ではなく、巡礼だった。文学の聖地巡礼。西行没後五百年という節目に、自分がその後継者であることを、自分の足で証明しにいく旅。それが芭蕉の動機として、いちばん多くの材料と噛み合う。
隠密説の側から見ると、これは「地味な答え」に見えるかもしれない。でも、五百年前に死んだ歌人のために二千四百キロ歩く四十六歳って、隠密より狂ってないか。私はこっちのほうが怖い。

## なぜ人はこの説に惹かれるのか
最後に、核心を書く。芭蕉隠密説がこれだけ愛される理由だ。
第一に、偉人には裏の顔があってほしい、という欲望がある。教科書に載っている人物は、載っている時点で退屈になる。そこに「実は」を差し込むと、一気に自分のものになった気がする。俳聖という称号が神聖であればあるほど、それを裏返したときの快感が大きい。
第二に、地理と数字は説得力の見た目を持つ。二千四百キロ、百五十日、一日五十キロ。数字が並ぶと、なんとなく検証されている感じがする。実際にはその数字を何と比べるかで結論が真逆になるのに、比較対象が省かれていることには誰も気づかない。数字は嘘をつかないが、数字を出す人は文脈を省く。
第三に、伊賀という単語の魔力だ。忍者は日本のフィクションが数百年かけて育てた最強のブランドで、その土地の名前が出た瞬間に、我々の脳は勝手にストーリーを補完する。吉丸雄哉が指摘する通り、芭蕉の家はすでに父の代で農民になっていて、伊賀者ではない。でも「伊賀出身」という五文字の吸引力の前では、そんな細かい話は吹き飛ぶ。
第四に、この説は反証できない構造をしている。忍者説は「忍術を使った記録がない」で潰せるが、隠密説は「隠密だからこそ記録がない」で無限に生き延びる。証拠がないことが証拠になるタイプの説は、絶対に死なない。これは陰謀論一般に共通する性質だ。
第五に、そしてこれがいちばん大きいと思うのだが、我々は『おくのほそ道』を読んでいない。教科書で「夏草や」と「閑さや」を習って終わりだ。だから、あの作品が実際にどれだけ緻密に構成された文学作品かを知らない。知っていれば「事実と食い違う」ことに驚かない。虚構であることこそが作品の価値だと分かる。読んでいないから、食い違いが「隠蔽」に見える。
隠密説は、要するに、読まれなかった名作が生んだ影なのだ。

## 五つの層を、下から順に崩していく
ここから先は、これまで書いてきたことを別の角度から締め直す。総括であり、追加の考察でもある。
まず全体の見取り図をもう一度確認したい。芭蕉隠密説は、五つの層でできている。いちばん下に「伊賀出身」という属性の層。その上に「藤堂家仕官」という経歴の層。さらに上に「歩行距離と旅程」という数量の層。その上に「曾良の後年の役職」という状況証拠の層。そして頂点に「記録の食い違い」という解釈の層がある。この五層は、下に行くほど事実として堅く、上に行くほど解釈の割合が高い。ところが説として語られるときは、この順序が完全に無視され、全部が同じ強度の「証拠」として並べられる。ここに最大のトリックがある。
一つずつ解体してみると、こうなる。伊賀出身は事実だが、伊賀出身者の圧倒的多数は忍者ではない。伊賀の人口の大半は農民であり、忍びとして動員されたのは一部の家に限られる。しかも芭蕉の家は父の代ですでに農民層に落ち着いている。藤堂家仕官も事実だが、職務は台所回りであり、これは武芸とも諜報とも接点がない。ここまでで、下二層はほぼ無害化される。
三層目の数量については、本文で詳しく潰した通りだ。江戸期の成人男子の標準的な一日歩行距離が八里から十里、三十二キロから三十九キロという複数の研究成果を前提にすると、芭蕉の実移動平均三十キロ前後、ピーク五十から六十キロという数字は、健脚ではあるが超人ではない。この層が崩れると、説全体の推進力がかなり落ちる。にもかかわらず、この層こそがネットとテレビでいちばん引用される。皮肉なことだ。
四層目の曾良問題は、率直に言って完全には潰せない。宝永六年に幕府巡見使の随員になったのは動かない事実で、これは公的な情報収集の職務だ。ただし本文でも書いたように、時系列が二十年ずれている。因果関係を主張するなら、元禄二年の時点で曾良が幕府と何らかの関係を持っていたことを示す史料が必要になる。現状、それはない。「後に幕府の仕事をした人物だから、以前も幕府の仕事をしていたに違いない」は、論理としては成立しない。ただ、状況として気持ち悪さが残るのは分かる。私も残る。
五層目の食い違い問題は、じつは説の生死を分ける最重要ポイントだ。『おくのほそ道』と曾良日記の齟齬は八十箇所前後ある。ここで問うべきは「なぜ食い違うのか」ではなく「食い違いの方向性はどうなっているか」だ。もし芭蕉が偵察結果を隠蔽しているなら、削られているのは軍事的・経済的に価値のある情報のはずだ。ところが実際に削られたり改変されたりしているのは、天候、日付の前後、食事の内容、宿の質、そして人間関係のトラブルである。逆に加えられているのは、市振の遊女のような、完全に文学的な虚構だ。これは隠蔽のパターンではなく、明白に作品化のパターンだ。
もっと言えば、隠密説が「怪しい」とする箇所ほど、曾良日記には正直に書かれている。仙台藩の寺社や港を細かく見て回ったことも、日記に書いてあるから我々が知っているのだ。本当に秘密任務なら、その記録こそ真っ先に消す。消していない。むしろ残している。これは隠密説にとって、かなり致命的な事実だと思う。
次に、この説の受容史をもう一段深く考えたい。なぜ一九六六年だったのか。この時期の日本は、高度成長のまっただ中で、忍者ブームの真っ最中でもあった。忍法帖ものの小説が売れ、忍者漫画がテレビアニメになり、忍者は日本のポップカルチャーの主力商品になっていた。同時に、歴史を「教科書の外側から読み直す」という態度が知的な流行になっていた。推理作家が歴史の謎に挑む、という構図そのものが、当時のエンターテインメントだったのだ。芭蕉隠密説は、この二つの流行の交差点で生まれた。だからこの説は、江戸時代の産物ではなく、昭和四十年代の産物なのだ。
そして八十年代末の時代劇が、それを大衆化した。ここで注目すべきは、ドラマが「芭蕉は隠密かもしれない」ではなく「芭蕉は隠密である」という前提で作られたことだ。フィクションとして堂々と作られたものが、二十年三十年たつうちに「そういう説があるらしい」という半事実に格上げされていく。この過程は、他の歴史都市伝説でもよく起きる。義経がチンギス・ハンになった話も、天草四郎の生存説も、だいたい同じ経路をたどる。フィクションは時間が経つと、説になる。
インターネット時代に入って、この説は形を変えた。かつては「芭蕉は忍者だった」という断定形で流通していたものが、今は「隠密説がある」という引用形に変わっている。断定を避けることで批判をかわし、しかし話題としては温存される。この形式は驚くほど強い。誰も責任を取らずに、話だけが生き続ける。SNSでは、そこにさらに「そんなことより句がいい」という文学派の投稿が混ざり、結果として芭蕉の名前が定期的にタイムラインに浮上する。ある意味、この説は芭蕉の宣伝役として四十年以上働き続けているとも言える。
ここで、いつも気になっていることを書いておく。隠密説を語る人は、ほぼ例外なく『おくのほそ道』の後半を語らない。日光と平泉と松島までで話が終わる。出羽三山の宗教的な深度も、象潟の雨の哀切も、北陸道の消耗も、山中温泉での曾良との別れも、大垣の蛤も、ほとんど出てこない。それはなぜかというと、後半は物語にならないからだ。密偵の任務としては、越後路の何もない道を延々歩く区間は退屈すぎる。でも、文学作品としてはむしろ後半のほうが濃い。曾良を失った芭蕉が一人で歩く区間の静けさは、この作品の中でもとくに美しい。隠密説は、この作品のいちばんいいところを、構造的に読み落とす。
もう一つ、隠密説が取りこぼしている大事な事実がある。芭蕉はこの旅のあと、五年しか生きていない。元禄七年、大坂で客死する。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が最後の句とされる。つまり彼にとって旅は任務ではなく、生き方であり、死に方だった。奥の細道の旅は、彼の生涯における特殊な一回ではなく、野ざらし紀行から笈の小文、更科紀行と続いてきた一連の漂泊の、いちばん長い一区間にすぎない。もし奥の細道だけが幕府の任務だったのなら、なぜ他の旅も同じように歩いているのか。説明がつかない。彼はただ、ずっと歩いていた人なのだ。
とはいえ、この説を完全に軽蔑する気にはなれない。理由は二つある。
一つは、この説のおかげで『おくのほそ道』の細部が異常に細かく調べられてきたからだ。何日にどこにいたか、何泊したか、誰に会ったか、いくら使ったか。文学作品としてだけ読んでいたら、ここまで詰められなかった。陰謀論的な問いが、結果として実証研究を刺激するという現象は、じつはよくある。曾良日記が発見された昭和十三年以降の研究の厚みは、この作品を「事実かどうか」の目で読む人がいたからこそ積み上がった部分がある。
もう一つは、この説が「歩くこと」への畏敬から生まれているからだ。二千四百キロという数字に驚くのは、我々がもう歩かなくなったからだ。江戸の人間にとって当たり前だった距離が、今の我々には超人的に見える。その驚きは間違っているが、無意味ではない。むしろ、我々が何を失ったかを教えてくれる。芭蕉を忍者にしてしまうのは、我々の脚が弱くなったことの裏返しなのだ。
だから、結論はこうなる。松尾芭蕉が幕府の隠密だったという説を支持する史料は、現在のところ一つもない。歩行距離は当時の標準の範囲内で、旅費はパトロン網で説明がつき、旅程は歌枕の分布で説明がつき、記録の食い違いは作品化の過程で説明がつく。曾良の後年の職歴だけが唯一の状況証拠として残るが、二十年の時差を埋める材料がない。説としては、ほぼ成立していない。
その一方で、この説が六十年にわたって生き続けてきた理由もはっきりしている。偉人の裏の顔という物語の型、数字の見せ方、伊賀という単語の魔力、反証不能な構造、そして原典が読まれていないという土壌。この五つが揃うと、説は事実の有無に関係なく生き延びる。
そして最後に、いちばん言いたいことを書く。芭蕉が隠密だったかどうかより、四十六歳の男が庵を手放し、死を覚悟して未知の北へ歩き出したという、その一点のほうがはるかにすごい。彼は情報のためではなく、五百年前に死んだ歌人の影を追って歩いた。平泉の草むらで泣き、山寺の蝉に聴き入り、象潟の雨に打たれ、佐渡の上の天の川を見上げ、相棒に去られて一人で北陸道を歩いた。そして帰ってきてから三年以上、その旅を言葉に彫り直し続けて、彫り終わった年に死んだ。
任務なら、こんなことはしない。これは、任務ではできない種類の狂気だ。
もし芭蕉が本当に何かを探っていたのだとしたら、それは仙台藩の兵力でも米沢の紅花の相場でもなく、たぶん、自分がどこまで歩けるかということだったのだと思う。答えは、死ぬまで、だった。

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