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金糸の冠をかぶった男は誰か――阿武山古墳、発見から四か月で封印された「藤原鎌足の墓」と、九十年越しに読み解かれたX線写真

大阪府の高槻市と茨木市の境目に、阿武山という地味な山がある。標高281.1メートル。関西の人でも「ああ、あの観測所のある山ね」くらいの認識で、正直、観光地としては何もない。バスを降りてから坂を三十分。息を切らして登った先にあるのは、盛り土もない、石も立っていない、ただの平らな尾根だ。

でもここは、日本の考古学史でいちばんタチの悪い「開けてしまった箱」が眠っている場所だ。一九三四年、地震計を据えるための工事中に、作業員のスコップが妙なものに当たった。掘り進めた先から出てきたのは、漆で塗り固められた真っ黒な棺。中には、髪も肉も衣装も残ったまま横たわる六十歳前後の男だ。頭のまわりには金の糸が散り、首の下には紺と緑のガラス玉を銀線で編んだ枕。

骨には、生前に負った大きな骨折の痕。新聞は「藤原鎌足の墓か」と書き、人が押し寄せ、学者が集まった。ところが――発見からわずか四か月で、棺は静かに閉じられ、土の下に戻された。それから半世紀近く、この古墳は忘れられる。息を吹き返すのは一九八二年。

ヘリコプターの窓から山肌を見ていた一人のテレビマンが、「あれ、あそこ削れてないか」と気づいたところから、話はもう一度動き出す。これは、掘り当ててしまった学者たちと、閉じさせた国家と、五十年後にレントゲン写真の束から死者の顔をもう一度引きずり出した男たちの話だ。

地震を測るために山を掘ったら、千三百年前の貴人が出てきた

なぜ山の上に地震観測所なんてものがあったのか。ここから話さないと、この発見の妙な巡り合わせが伝わらない。きっかけは一九二七年の北丹後地震だ。マグニチュード7.3。京都府北部を壊滅させたこの地震で、日本の地震観測体制の貧弱さが痛烈に露呈した。

京都帝国大学は本気で観測所を作ることにする。中心にいたのが志田順。京大の地球物理学講座を最初に率いた人物で、地球潮汐の研究で「志田数」に名を残し、深発地震の存在を突き止めた、当時の日本地震学の顔だ。志田は、人工的な震動から可能な限り隔離された、硬い岩盤の上の静かな場所を探した。その条件で白羽の矢が立ったのが摂津の阿武山だった。

原田積善会の助成を受けて計画は進み、観測所は一九三〇年に発足、建物は一九三三年におおむね完成する。ウィーヘルト式地震計は一トン。のちに導入されるガリツィン式は、世界で初めて地震波を電気信号に変換した機械だった。ここは当時の最先端が集まる場所だったわけだ。その最先端の機械を据えるためには、地面を掘らなければならない。

地震計は少しの傾きも嫌う。しっかりした基礎がいる。一九三四年の春、いよいよその掘削作業が、尾根のてっぺんで始まった。

昭和九年四月二十二日、スコップが「饅頭」に当たった

一九三四年四月二十二日。地震計設置のための掘削中、地表から五十センチほどのところで、作業員のスコップが硬いものに当たる。出てきたのは、瓦のような焼き物のかけらだった。しかも一枚二枚じゃない。饅頭を伏せたような、ゆるやかな盛り上がりをつくって、びっしり敷き詰められている。

このあたりの現場のリアクションを想像すると、なかなか味がある。地震観測所の人間であり、考古学の訓練は受けていない。目の前にあるのは「なんか焼き物がいっぱい並んでる」という事実だけだ。なのに並び方が明らかに人為的で、しかも規則的だった。誰かが意図してこう置いた、としか思えない。

掘り進めると、次に白い層が出てくる。漆喰だ。その下から、切石を組んだ構造物の天井が姿を現す。石室である。ここでようやく、これは尋常な話ではないと全員が気づく。

地震観測所は京都の本部に連絡を入れた。報を受けて動いたのが京都帝国大学文学部考古学教室。二日後の四月二十四日、まず現場に駆けつけたのが末永雅雄だった。のちに大和の古墳研究を牽引し、日本考古学の巨人と呼ばれることになる、当時まだ若い研究者である。四月二十六日には、考古学教室を率いる濱田耕作教授が調査団を連れて到着する。

濱田は日本近代考古学の実質的な創始者と言っていい人物で、その彼が自ら山を登ってきたという時点で、京大側がこの発見をどう評価していたかが分かる。四月二十九日には、大阪府の担当者が現地入り。同じ日、大阪朝日新聞がこの発見をスクープした。

二万人が山を登った四月の終わり

新聞が出た瞬間、静かな尾根は地獄になった。「阿武山に貴人の墓」「藤原鎌足の墓か」。当時の紙面がどれだけ煽ったかは想像がつくだろう。折しも春の行楽シーズン、しかも大阪の街から電車とバスと徒歩で行ける距離だ。延べ二万人と伝わる見物人が、山道を列をなして登ってきた。

考えてみてほしい。整備された遊歩道なんてない。柵もない。警備の体制もない。そこに一日で何千人という人間が押し寄せる。

すでに天井石が外され、口を開けた石室の周りに、群衆が押し合いへし合いしながら覗き込む。しかも、である。この段階で棺はすでに開けられていた。記録によれば、棺は一度ならず複数回にわたって開閉され、内部の金糸などの遺物に人の手が直接触れている。現代の発掘現場の常識からすれば、悲鳴が出る。

千三百年間、密封された空間で奇跡的に保たれていた有機質の遺物が、四月の外気と、人の手の脂と、群衆の吐く息にさらされたのだ。この時点で失われた情報は、たぶん取り返しがつかない。ただ、これを当時の人間の無知として笑うのは公平じゃない。日本の考古学が「掘らずに残す」「開けたら即座に環境を制御する」という発想を身につけるのは、もっとずっと後のことだ。彼らは彼らなりに必死だった。

それでも濱田や末永は現場で写真を撮り、実測をし、記録を積み上げている。この時に撮られた写真こそが、半世紀後にすべてをひっくり返す鍵になるのだから、皮肉としか言いようがない。

日本で初めて出てきた「夾紵棺」という異物

石室の中身を、一つずつ見ていく。最初は棺だ。石室の床には塼(せん)と呼ばれるタイル状の焼き物を積み上げた。高さ三十センチほどの棺台が設けられ、その上に長さおよそ二メートルの黒い箱が据えられていた。この棺が、そもそも日本初で、夾紵棺という。

麻布を漆で貼り重ね、幾層にも固めて成形した棺だ。木を刳り抜くのでもなく、石を削るのでもない。布と漆だけで、あの重量と剛性を出している。外側は黒漆、内側は赤漆で塗り分けられていた。夾紵という技法自体は、大陸から入ってきた高級漆工の系譜にある。

仏像の脱活乾漆と同じ発想だ。布と漆でかたちを作り、中身を抜く。軽く、狂わず、腐らない。そのかわり恐ろしく手間と材料を食う。漆は当時、金と同等かそれ以上の貴重品である。

それを棺一つに、何十層と塗り重ねている。厄介なのは、この素材が「本来なら絶対に残らない」という一点だ。麻布も漆も有機質だから、千三百年も地中にあれば普通は跡形もない。事実、日本の古墳から夾紵棺が「腐らずに出土した」例は、この阿武山が最初だった。なぜ残ったのか。

石室が花崗岩の切石で密に組まれ、四壁も床も棺台も漆喰で塗り固められ、その上を塼で葺いて土に埋め戻すという、多重の防水構造になっていたからだ。地下水も空気もほとんど入らない。早い話、千三百年ものあいだ機能し続けたタイムカプセルだったわけである。

紺と緑の玉が五百、銀線で編まれた枕

棺の蓋を取ると、まず目に入ったのが枕だった。ガラス玉であり、それも半端な数じゃない。大小あわせて五百個から六百個。紺色の大きな玉は直径四センチ近くあり、その周囲を緑色の小玉が取り囲む。それらが銀線で一つずつ繋がれ、籠を編むように立体的に組み上げられて、死者の後頭部を受けていた。

玉枕という副葬品自体は他の遺跡にも例があるが、これほど大ぶりのガラス玉を、銀線編みでこれだけ手の込んだ構造にしたものは他にない。紺の大玉は、おそらく西方由来の技術で作られた高級品だ。当時の日本でガラスを大玉に仕上げる技術がどこまであったかを考えると、輸入品か、渡来工人の作か、どっちにしても国内でそうそう持てるものじゃない。想像してほしい。

真っ暗な石室の中、松明の光を当てた瞬間に、千三百年前のガラスが鈍く光を返す。紺と緑。あの場にいた人間が受けた衝撃は、写真では絶対に伝わらない類のものだったはずだ。この玉枕は後年、復元品が作られている。現在は奈良文化財研究所の飛鳥資料館に寄贈され、高槻市立今城塚古代歴史館でも「貴人の墓」というコーナーで関連展示を見ることができる。

頭のまわりに散っていた金の糸

次は金糸だ。被葬者の胸から顔面、頭にかけて、細い金色の糸が散らばっていた。糸といっても撚った繊維ではない。金を薄く延ばして芯に巻きつけた、いわゆる金モールに近いものだ。芯になっていた繊維は腐って消え、金の部分だけが残って、かつてそこに何かがあった形をぼんやりと空中に描いていた。

一九三四年の段階では、これが何なのか誰にも分からなかった。「冠の刺繍らしい」というところまでは推測されたが、糸はバラバラで、しかも人の手が触れて位置がずれてしまっている。復元しようがない。この「分からないまま埋め戻された金糸」が、五十年後に事態をひっくり返すことになる。それはもう少し先の話だ。

副葬品として効いてくるのは、むしろ「何がなかったか」でもある。鏡がない。剣がない。玉類の装身具もない。古墳時代の常識で言えば、これは異常だ。

有力者の墓には鏡と武器と玉が入る。それが数百年続いた作法だった。阿武山にはそれがない。あるのは、身にまとった錦の衣装と、玉枕と、冠だけ。これは古墳時代の副葬観ではなくて、律令的な「位階を可視化する」葬送観への移行を示している。

持ち物じゃなく、身分そのものを持たせて埋める。七世紀後半という時代の空気が、そのまま棺の中に固まっていた。

骨が語っていた「落馬」

被葬者は六十歳前後の男性。身長はおよそ164.6センチ。七世紀の日本人男性の平均を考えると、はっきり大柄な部類だ。しかも驚いたことに、この人物は骨だけの状態ではなかった。毛髪が残り、軟組織が残り、着ていた錦がまだ形を保っていた。

ほぼミイラ化していたのだ。それより本当に効いてきたのは、骨に刻まれていた傷のほうだった。脊椎、とくに腰椎に大きな骨折の痕がある。しかも、その骨折は治りかけていた。骨が癒合しようとしている痕跡がある。

要は、この人物は骨折してすぐ死んだのではない。折ってから、しばらく生きていた。肋骨のほうにも骨折があり、こちらは死のおよそ数か月前のものと推定された。上腕にも、関節に繰り返し負荷がかかった痕、いわゆる野球肘に似た所見が見つかっている。これを総合すると、こういう像が浮かぶ。

壮年期から高齢期まで、日常的に腕に負荷のかかる動作を続けてきた男がいる。弓を引くだとか、馬に乗るだとか。その男が晩年に高所から落ちるような大きな衝撃を受け、腰椎と肋骨を折った。下半身が動かなくなり、寝たきりになった。そのまま治癒しきる前に、床ずれや感染症のような二次的な合併症で死んだ。

高い場所から落ちて背中を強打し、数か月寝込んで死んだ、六十前後の、最高位の冠を持つ男。そりゃあ、あの名前が出る。

日本考古学に初めてレントゲンが当たった日

ここで、この事件のもう一つの主役が登場する。X線である。現代の考古学ではCTスキャンもX線も日常的な道具だが、一九三四年当時、遺物にレントゲンを当てるという発想はほとんど前例がなかった。ところが阿武山では、それが実行された。棺の中の遺骨と遺物を、動かさずに内部から見るために、レントゲンフィルムが持ち込まれ、撮影されたのだ。

京都大学研究資源アーカイブは、この時のレントゲンフィルムについて「日本考古学にX線が利用された最初の事例」と明記している。学史的に、これはとんでもなく大きい。撮られたのは、ガラス乾板の写真が三十六枚、紙焼きが十三枚、そしてレントゲンフィルムが十一枚。京都大学人文科学研究所の側にも、東方文化学院京都研究所の羽舘易が撮影した紙焼き二十枚と台紙七件が残された。

石室の全景、四壁の細部、棺と棺内の玉枕、羨道の敷石、瓦と塼の類。おまけに――再埋葬の前後の外棺の状況と、再埋葬後に営まれた慰霊式の光景まで。つまるところ彼らは、この墓を閉じる瞬間まで、きちんとカメラを回していた。閉じることを決めた人間たちが、同時に「いつか誰かが再検討できるように」記録を残していたわけだ。この矛盾した誠実さが、五十年後に効いてくる。

そして棺は閉じられた

一九三四年六月二十日。大阪府庁で関係者の協議が開かれる。出席したのは大阪府、京都帝国大学、そして文部省と宮内省である。ここに宮内省の名前が出てくる時点で、話の性質が変わってしまっているのが分かる。議論の中身は、記録によればこうだ。

被葬者はきわめて高位の人物であることが確実である。副葬品の格からして、皇室につながる人物である可能性も否定できない。であるならば、これ以上調査を進めることは死者に対する冒涜であり、許されない。現代の感覚だと「いや科学的に調べようよ」と言いたくなる。ところが一九三四年である。

日本が国家神道と皇国史観の内圧をどんどん高めていた時期だ。天皇陵はもちろん、それに準じる可能性のある墓を学者が掘り返して骨を測るなど、政治的にありえない。宮内省が首を横に振れば、それで終わりだった。しかも内務省が警察隊を派遣したという記録もある。名目は被葬者の尊厳の保護。

本音のところは、群衆整理と、学術調査への圧力の両方だっただろう。決定は「調査を最小限にとどめ、棺を埋め戻す」。実行は同年八月。石室に棺が戻され、塼が葺かれ、土がかけられ、上から慰霊の儀式が営まれた。参列者の写真が残っている。

神職が祝詞をあげ、学者たちが頭を下げている。掘り当てた本人たちが、自分の手で蓋をした。そこから五十年近く、阿武山古墳は誰の話題にも上らなくなる。地震観測所の職員は代替わりし、当時の資料は倉庫の奥に押し込まれ、地元でも「昔なんか出たらしい」程度の記憶に薄まっていった。日本の考古学史から、まるごと一件が抜け落ちたような状態だった。

ヘリコプターの窓から見えた、山肌の白い傷

一九八二年三月。大阪の空をヘリコプターが飛んでいた。乗っていたのは、朝日放送のディレクター、牟田口章人。空撮の仕事の途中だった。阿武山の上空にさしかかったとき、彼は山肌に妙なものを見つける。

西側の斜面が、大きく削られて地肌をむき出しにしているのだ。調べてみると、大阪学院大学がグラウンドの造成工事を進めていた。山を削っていたのだ。その削られている場所の近くには――昭和九年に貴人の墓が出たという、ほとんど誰も覚えていない古墳があるはずだった。牟田口はここから執念を見せる。

当時の記録を追いはじめ、京都大学の考古学研究室に問い合わせ、そして地震観測所にたどり着く。一九八二年六月。阿武山地震観測所の、通称「開かずの部屋」から、それは出てきた。昭和九年当時に撮影された写真乾板とレントゲンフィルムの束である。考古学研究室に保管されていたガラス乾板は十四枚だけで、残りはすべて観測所に置きっぱなしになっていた。

地震学者たちにとっては専門外の、しかも触れてはいけない雰囲気のある資料だ。誰も捨てず、誰も開かず、五十年近く放置されていた。ここが、この話でいちばん怖いところだと思う。もし観測所のどこかの代で「古い荷物を処分しよう」という判断が一度でも下されていたら、それで終わりだったのだ。阿武山の被葬者は、永遠に「昔なんか出たらしい」のままだった。

五十三年ぶりに、死者がもう一度顔を出した

フィルムと乾板は劣化しており、修復には約五年かかった。やがて一九八七年、修復された画像をもとに、各分野の専門家による研究会が組織される。京都大学考古学研究室の樋口隆康教授、そして猪熊兼勝。牟田口も引き続き関わり続けた。X線写真から読み取れたことは、想像以上だった。

ひとつは遺骨。腰椎の骨折とその癒合痕、肋骨の骨折、上腕の所見。さっき書いた「落馬して寝たきりになり、数か月後に合併症で死んだ六十前後の男」という像は、この時の分析で確定的になる。もうひとつが、金糸。バラバラに散らばっていたはずの金糸が、X線写真の上では、腐って消えた繊維の位置関係を保ったまま写っていた。

可視光では見えなかった配列が、金属だけを透過像として写し取るX線には残っていたのだ。猪熊兼勝は、この金糸の分布から、被葬者が二種類の冠をかぶっていたと判断した。うち一方は、大化改新期に定められた最高位の冠――大織冠であると。大織冠。六四七年の七色十三階冠制で新設された、日本の冠位制度の頂点である。

織物で作り、刺繍で縁取り、金銀の鈿で飾る。着用者は深紫の衣を着る。ここが肝心で、日本の歴史上、この大織冠を授けられた人物は、ただ一人しかいない。天智天皇八年、六六九年十月十五日。死の前日に大織冠と内大臣の位と藤原の姓を授けられ、翌十六日に世を去った男。

中臣鎌足、すなわち藤原鎌足である。歴史学者の直木孝次郎も、文献史料の側からこの猪熊説を支持した。落馬による負傷、数か月の闘病、そして死。最高位の冠だ。摂津に葬られたという伝承。

すべてが噛み合う。一九八七年、日本の古代史はひっくり返った――かに見えた。

二〇二四年、六弁花が浮かび上がる

話はさらに続く。というより、いまもリアルタイムで続いている。牟田口章人はその後も阿武山の写真を手放さなかった。帝塚山大学の客員教授となり、デジタル画像処理の技術が進むたびに、あの一九三四年のX線写真を読み直し続けたのだ。二〇二四年、その成果が公表される。

白黒のX線像から金糸だけを抽出し、AIと目視を併用して着色し、腐り落ちた経糸の部分を推定で補いながら、冠の全体像を復元したのだ。浮かび上がってきたのは、こういう構造だった。帽子の本体は綴織で作られている。二センチ四方ほどの範囲に、綴織特有の織り返しを示す金糸が密に並んでいる箇所が確認された。綴織というのは、緯糸で図柄を織り出す高度な技法で、経糸を完全に覆い隠す。

ざっくり言えば、糸で絵を描く織り方だ。その帽子の上部には、直径六センチから八センチの六弁花が、羅地に縫い付けられてアップリケのように貼られていた。花である。金糸で織られた六枚の花びらが、頭のてっぺんで開いていた。牟田口はさらに、棺内に二種類の冠――大織冠と、鐙冠と呼ばれる別形式の冠――が副葬されていたと結論づけている。

決定打として持ち出されたのが、大化改新期の織冠の帽子部分は綴錦の一種である織物で作られたとされる、という文献側の記述だった。X線写真が示す綴織と、文献が言う織冠。二つが噛み合う。二〇二四年十月十九日、奈良文化財研究所の飛鳥資料館で特別講演会が開かれ、同年十一月二日には帝塚山大学の公開講座で冠の完全復元写真が初めて一般公開された。

翌二〇二五年二月十一日には、藤ノ木古墳の埋葬状況と比較しながら阿武山の埋葬手順そのものを画像で再現するという、さらに踏み込んだ発表も行われている。九十年前に撮られた一枚のレントゲンフィルムが、いまだに新しい情報を吐き出し続けている。この執念は、正直ちょっと異常だと思う。褒め言葉として。

そして「ヒ素」の話

もう一つ、二〇二四年前後に注目されるようになった論点がある。なぜあの遺体は、あそこまできれいにミイラ化していたのか。石室の密封構造だけでは説明が足りない、という見方がある。ここで浮上したのが、ヒ素だ。鎌足は落馬のあと麻痺の症状に苦しみ、薬としてヒ素を服用していた――という趣旨の記録が伝わっている。

当時、ヒ素化合物は麻痺や種々の症状に対する薬として使われることがあった。もちろん現代の目で見れば毒物だが、古代の薬物観ではそうではない。しかもヒ素には強い抗菌作用がある。長期にわたって服用していれば、体内組織にヒ素が蓄積する。死後、腐敗を引き起こす微生物の活動が抑制される。

要は、生前の服薬が、そのまま防腐処理として働いたのかもしれない。千三百年を経て軟組織が残るという異常な保存状態と、生前にヒ素を飲んでいた人物という記録。この符合を、鎌足説の傍証として挙げる論者は少なくない。ただ、これは慎重に扱うべき論点でもある。棺内の遺骸そのものは一九三四年に埋め戻されており、現代の分析機器でヒ素濃度を測定した結果があるわけではない。

あくまで「記録と保存状態の符合」という水準の話だ。ここを混同すると、話が一気に眉唾になる。

証言その一――「あれは開けてはいけないものだった」

ここからは、この事件をめぐって人が語ってきた言葉のほうを見ていきたい。一九三四年の調査に関わった京都帝大側の人間たちが、後年どういう気持ちでこの一件を振り返っていたか。断片的にしか伝わっていないが、共通して漂うのは高揚ではなくて、悔恨の色だ。現場に最初に入った末永雅雄は、生涯にわたって膨大な古墳を調査した人だが、阿武山については積極的に語ろうとしなかったという話が残る。理由は想像がつく。

あそこで彼らが直面したのは、学問の敗北だったからだ。千三百年ぶりに口を開けた完璧なタイムカプセル。日本で初めての夾紵棺だ。ミイラ化した被葬者。日本考古学で初めてのX線撮影。

学史に残る条件が全部そろっており、それを、四か月で閉じさせられた。しかも自分たちの手で埋め戻して、その上で慰霊の儀式に頭を下げた。当時を知る研究者のあいだで何度も口にされてきたのは、だいたいこういう趣旨の言葉だと言われている。「あの棺の中身を、我々は本当は一度も『調査』していない。ただ見ただけだ」。

見た。写真も撮った。けれど計測も、サンプリングも、組織分析も、何一つできていない。骨の一片も手元に残っていない。分かったつもりでいることの大半は、あの数日間に撮られた写真から後世が読み取ったものにすぎない。

くわえて、群衆に囲まれた現場で、棺は何度も開け閉めされ、金糸には人の手が触れた。並びは崩れた。もし最初に開けた一回きりで密封し、記録だけ取って専門家を待っていたら――という後悔は、当事者のなかにずっと残っていたはずだ。彼らを責めるのは簡単だが、あの時代に大阪府と文部省と宮内省と内務省が並んで「これ以上はだめだ」と言ってきたとき、一大学の教室が押し返せる余地はなかった。

誠実な人間ほど、この種の敗北は骨に残る。

証言その二――山のふもとの村に残った記憶

阿武山のふもと、茨木市の安威という土地には、鎌足にまつわる伝承が濃く残っている。式内社の阿為神社があり、大織冠神社があり、鎌足ゆかりと伝える寺もある。茨木市の公式の説明でも、周辺地域では現在も鎌足信仰が色濃く残っていると明記されているほどだ。だからこの土地の人にとって、一九三四年の騒動は「学術的発見」である以前に、「うちの鎌足さんが出てきた」という話だった。

このあたりの記憶は、地元で断片的に語られてきた。当時子供だった人たちが、後年こんなふうに話している、という形で伝わっているものがある。新聞が出た次の日から、山道が人でいっぱいになった。日曜でもないのに大人が仕事を放り出して登っていく。子供たちは面白がってついていって、大人の脚のあいだから穴を覗こうとしたが、前が詰まっていて何も見えない。

やがて警官が来て人を追い返しはじめる。それでも人は減らない。売り子まで出た、という話まである。この土地の年寄りが子供に言い聞かせた言葉として繰り返し語られてきたのが、こういう趣旨のものだ。「あそこは掘ったらあかんとこや。

掘ったから、みな帰らされたんや」。これは怪談じゃないし、祟りの話でもない。話はむしろ逆で、埋め戻しという結末を、村の側は「当然のこと」として受け止めた、という構図だ。掘り出されたのは自分たちが千年以上祀ってきた人であり、それを他所から来た学者が引きずり出して、見物人が押しかけて、写真を撮った。閉じたのは正しかった――という感覚が、地元にはあったのだ。

学術と信仰が真正面からぶつかったとき、一九三四年の日本では信仰が勝った。それを国家権力の介入としてだけ語ると、たぶん半分しか見えていない。地元の側にも、閉じてほしいという気持ちが確かにあったのだ。その土地の記憶は、いまも消えていない。安威の神社の境内に立つと、山の方角がよく見える。

あの尾根の下に何が眠っているかを、この土地の人はずっと知っていた。

証言その三――「開かずの部屋」を開けた男

三つ目は、再発見側の話だ。牟田口章人が一九八二年三月にヘリコプターから山肌の削れを見つけた、というエピソードは、彼自身が繰り返し語ってきたものである。ところが本当にすごいのは、そこで終わらなかったことのほうだ。普通、テレビマンが空から地形の異変を見つけたら、番組にして終わりである。なのに牟田口は、そこから当時の資料を追い始めた。

半世紀前に閉じられた案件だ。関係者はほとんど鬼籍に入っている。記録がどこにあるのかも分からない。三か月後の一九八二年六月、彼は阿武山地震観測所の使われていない部屋にたどり着く。その部屋に、昭和九年の写真乾板とレントゲンフィルムの束が残っていた。

地震学者にとっては専門外で、しかも扱いに困る性質の資料である。処分するのも憚られ、かといって研究に使うわけでもない。だから誰も触らないまま、五十年近くそこにあった。牟田口がこの発見について語るとき、繰り返し出てくるのは「間に合った」という感覚だという。フィルムは劣化が進んでいて、修復に約五年を要した。

あと十年遅ければ、画像は読めなくなっていたかもしれない。四十年以上たったいまも、彼はまだこの写真を読み続けている。二〇二四年の綴織の発見も、二〇二五年の埋葬手順の復元も、全部おなじ一九三四年のフィルムから出てきたものだ。技術が進むたびに、同じ写真からより多くのものが読み取れる。データが増えたのではなくて、読む力が上がったから見えるようになった。

これは考古学の別のかたちの発掘だと思う。土じゃなく、記録を掘る。

学界はどう受け止めたか、そしてネットはどこに萌えたか

一九八七年に猪熊説が出たとき、考古学と古代史の界隈は当然ざわついた。落馬の骨折痕と大織冠。これほど文献と物証が噛み合う例はめったにない。直木孝次郎という重量級の文献史家が支持に回ったことも大きかった。以来、一般向けの解説や自治体の案内では、阿武山の被葬者は「藤原鎌足とみられる」と書かれるのが半ば標準になった。

高槻市も茨木市も、公式サイトで鎌足説に触れている。国指定史跡の解説にすら「中臣鎌足といわれる阿武山古墳」という表現が出てくるほどだ。ネットの側で人気が出たのは、二〇一〇年代以降だ。理由は分かりやすい。この話は「オチが二段構え」だからである。

一段目は、掘ったら大化改新の主役が出てきた、という単純に痛快な話。二段目は、それを国家が四か月で封じた、という陰謀論的な引っかかり。この二つが重なると、話は途端に強くなる。考察界隈が特に食いついたのは、「宮内省の意向」というワードだ。天皇陵の発掘が原則として認められていない現状と重ねて、「日本の古代史には国家が触れさせない部分がある」という話に接続される。

箸墓や大仙陵をめぐる議論と地続きの構図なので、この連想は自然だ。もう一つ、「本人はまだそこにいる」という点も効いている。阿武山は掘り返されていない。石室は一九三四年に閉じられたまま、いまも尾根の下にある。この話には現在進行形の未確認要素が残っているわけだ。

答え合わせが可能で、しかも誰もやっていない。この状態が人の想像力をいちばん刺激する。ただ、ネット上でよく見る「金の糸で編まれた冠をかぶったミイラが出た」という短いまとめは、実はいくつか不正確だ。冠は金だけで編まれていたわけじゃなく、織物の帽子に金糸で綴織と刺繍が施されたものだ。ミイラのほうも、一九三四年の時点でも完全な形で「見られた」わけではない。

この手の話は、伝言ゲームで必ず派手になる。

最強の反証――須恵器は二十年古い、そして金香炉がない

ここからが本題かもしれない。鎌足説は、決着していない。それどころか、専門の側からはずいぶん強い否定論が出ている。代表的なのが、高橋照彦の「阿武山古墳小考――鎌足墓の比定をめぐって」だ。この論考は、鎌足説の急所を二つ突いている。

一つめは、年代である。阿武山古墳からは須恵器が出土している。土器は考古学の時計だ。形と法量の変化から、高い精度で年代を絞れる。高橋は、阿武山出土の須恵器の杯蓋と杯身の口径や法量を、年代の基準になる資料と突き合わせた。

飛鳥の水落遺跡は六六〇年代、坂田寺池は六五〇年代、山田寺の下層はさらに後出する。その比較の結果、阿武山の須恵器は坂田寺池の段階に相当し、六四〇年代後半から六五〇年前後に収まる線が濃い、と結論づけられた。鎌足の没年は六六九年である。土器の示す年代より、鎌足の死は約二十年ぶん遅い。二十年というのは、考古学の編年精度から言えば、目をつぶれる開きじゃない。

二つめは、金香炉である。『日本書紀』にも『家伝』にも、鎌足の死に際して金の香炉が賜与されたことが記されている。当時の作法からいえば、こうした賜与品は死者とともに葬られるのが自然だ。ところが阿武山古墳は、幸運にも盗掘を免れている。中身は千三百年間そのままだった。

にもかかわらず、金香炉は出ていない。石室からも棺内からも、香炉らしきものは確認されていない。盗まれた形跡がないのに、あるべきものがない。高橋はこれを、被葬者が鎌足ではない有力な傍証として挙げている。彼はさらに文献の側も切り崩している。

鎌足が最初に摂津に葬られたという根拠になっている『多武峯略記』所引の「荷西記」は、史料としての信頼性が低い。むしろ多武峯の妙楽寺が、興福寺に対抗して鎌足との縁を強調するために、記述を改変した節もある。それより『扶桑略記』が伝える、山階精舎に葬られた後に多武峯へ改葬されたという流れのほうが信頼できる、という筋だ。高橋はそのうえで、阿武山古墳が鎌足の墓であることはほぼ否定される、と明言している。

これはなかなか手厳しい。しかも土器年代と副葬品の欠落という、両方とも物証ベースの指摘だ。「文献にこう書いてあるから」という水準の反論ではない。

対抗馬たち

では、鎌足でないなら誰なのか。よく名前が挙がるのが、阿倍内麻呂だ。阿倍倉梯麻呂とも呼ばれる。乙巳の変のあと、孝徳天皇の新政権で左大臣を務めた人物である。六四九年三月十七日に薨去した。

この人物が候補になる理由は明快だ。何より年代がぴったり合う。六四九年は、須恵器が示す六四〇年代後半から六五〇年前後という範囲のど真ん中である。身分の格も足りている。彼が死んだとき、孝徳天皇は朱雀門まで出て哀悼し、皇極上皇と皇太子をはじめとする群臣が付き従って哀哭した、と『日本書紀』は記す。

国家的な葬儀だ。夾紵棺と玉枕と冠にふさわしい人物であることは間違いない。もう一人挙げられるのが、蘇我倉山田石川麻呂だ。同じ六四九年、右大臣の座にありながら讒言により自死に追い込まれた人物である。ただこちらは、政変の敗者としての死である以上、これほど手厚い埋葬が許されたのか、という疑問が残る。

もっと広げれば、摂津三島の地に本拠を持っていた地域の有力者や、鎌足の別業があったとされる安威川流域に関わる人物という可能性もある。ここで面白いのは、大織冠という論点が両刃だという点だ。大織冠が本当に鎌足専用の冠位なら、それが出た墓は鎌足の墓でなければおかしい。けれど逆に、阿武山の被葬者が六四九年前後に死んだ人物だとすると、その頃に大織冠を着けられる人間はいない。

大織冠は六四七年制定で、当初は誰にも与えられていなかったとされるからだ。猪熊や牟田口の読みが正しいなら、鎌足しかありえない。高橋の年代観が正しいなら、あの金糸は大織冠ではない別の冠か、あるいは織冠制度の理解そのものを見直す必要がある。どちらが正しいのか。それを決着させる唯一の方法は――もう一度、あの石室を開けることだ。

多武峰の言い分

もう一つ、鎌足説にとって厄介な相手がいる。奈良県桜井市の多武峰、談山神社だ。談山神社の公式の説明はこうなっている。鎌足は六六九年に亡くなり、最初は摂津国の阿威山に葬られた。ところが長男の定慧が白鳳七年、すなわち六七八年に唐から帰国した際、遺骨の一部を多武峯の山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称した。

それから二十三年後の大宝元年、七〇一年に神殿が建てられ、これが談山神社の始まりとなる。談山神社は、「最初は摂津だった」という一点では阿武山説と矛盾しない。それどころか補強する。ただ同時に、「遺骨の一部を移した」とも言っている。ここが厄介だ。

もし本当に改葬が行われたなら、阿武山の被葬者は骨を抜かれていなければならない。ところが一九三四年に出てきた遺体は、ほぼ完全だった。毛髪も軟組織も残り、五体そろっていた。改葬されたはずの墓に、手つかずの遺体がある。この矛盾をどう説明するか。

一つは、改葬が実際には行われず、伝承だけが作られたという説明。高橋が指摘するように、妙楽寺が興福寺に対抗して縁起を整えた結果だとすれば、これで筋は通る。でもその場合、そもそも「最初は摂津」という記述自体の信頼性も落ちる。鎌足説の根拠が一緒に崩れる。もう一つは、阿武山の被葬者は鎌足ではないという説明。

この場合、多武峯の伝承は伝承として成立するが、阿武山は無関係になる。もう一つは、火葬説をめぐる混乱だ。鎌足が火葬されたとする記載もあり、そうなると阿武山の土葬遺体とは土台から食い違う。結局、どの説明を採っても、どこかが必ず割れる。鎌足の墓をめぐる文献群は、そもそも整合していないのだ。

なぜこの話は、こんなに人を掴んで離さないのか

ここまで書いてきて、あらためて思う。阿武山古墳の話には、人を惹きつける要素が異様なほど密に詰まっている。ひとつ、偶然性がすごい。地震を測るために山を掘ったら、千三百年前の宰相級の人物が出てきた。目的と結果が完全に無関係だ。

人は「探して見つけた」話より「探していないのに出てきた」話のほうを強く記憶する。ふたつ、遺体が残っていたこと。骨だけなら、ここまで話題にならなかったと思う。髪があり、肉があり、着ていた錦が形を保っていた。「人」がそこにいたのだ。

抽象的な古代人じゃなく、六十歳前後で身長164.6センチの、腰を折って寝たきりだった具体的な誰かがいた。みっつ、その骨が物語を持っていたこと。落馬。数か月の闘病だ。合併症。

これは考古学的な情報であると同時に、そのまま一人の人間の晩年の記述になっている。骨が伝記を語る、という体験は強烈だ。よっつ、封印されたこと。四か月で閉じられ、五十年忘れられた。この「中断」があるおかげで、話に緊張が生まれる。

もし一九三四年にきれいに調査が完了していたら、いまごろ教科書の一行で終わっていた。いつつ、記録だけが生き延びたこと。実物は土の下に戻され、残ったのは写真とフィルムだけ。ところがその写真が、九十年たったいまも新しい情報を吐き出し続けている。実体が失われた場所で、影だけが語り続ける。

これはもう物語の構造として反則級だ。むっつ、いまだに決着していないこと。鎌足説は強力だが、須恵器の年代と金香炉の不在という物証ベースの反証も同じくらい強力だ。どちらも譲らない。肝心の答えは、あの尾根の三メートル下にある。

閉じられた箱があり、鍵は失われておらず、開ければ分かる。でも誰も開けない。人間の好奇心を最大限に焼くのは、たぶんこの状態だ。

いま、行けるのか

行ける。ただ、何もない。阿武山古墳は一九八三年八月三十日に国の史跡に指定され、一九八九年に史跡公園として整備された。所在地は高槻市奈佐原と茨木市安威にまたがる。行き方は、JR摂津富田駅の北から高槻市営バスに乗り、公団阿武山方面か大阪薬科大学方面の便で「消防署前」下車。

そこから坂道を約二キロ、徒歩三十分ほど登る。茨木市側からは、自然歩道の入口から三十分から四十分の登りになる。駐車場はない。公共交通機関を推奨、と自治体もはっきり書いている。登り切ると、そこは眺めのいい尾根だ。

大阪平野が広がって見える。でも古墳らしい古墳はない。盛り土がないからだ。あるのは、幅二・五メートルほどの浅い溝が直径八十二メートルの円を描いている痕跡と、その中心の平坦地。案内板が立っているので、それを読んで初めて「ここか」と分かる。

石室は、地表から三メートルほど下に、一九三四年に閉じられたままの姿である。上には樫の木が茂り、かつて地震計を据えた窪みには水が溜まりやすくなっている、という指摘もある。保存状態は、決して安泰ではない。二〇一五年に高槻市教育委員会が編んだ『藤原鎌足と阿武山古墳』でも、同じ問題意識が示されている。貴重な古墳が劣化しつつある現状、そして証拠が永久に失われる前にきちんとした調査と保存が必要だという指摘だ。

復元された玉枕と冠帽は、飛鳥資料館に寄贈されて見ることができる。高槻市立今城塚古代歴史館にも「貴人の墓――阿武山古墳」というコーナーがあり、錦の断片や玉枕、刺繍の錦糸で飾られた冠についての展示がある。実物は山の下。復元品は博物館。真相のほうは、まだ誰も知らない。

ここからは、この一件をもう一段深いところから眺め直したい。個々の事実の羅列じゃなく、「阿武山古墳という事件が何だったのか」という話だ。

一九三四年という年が、すべてを決めた

見落とせないのは、この発見が起きた年の重さである。一九三四年。前年に日本は国際連盟を脱退している。滝川事件で京都帝国大学の学問の自由が政治に踏みにじられたのが、まさに前年の一九三三年だ。その同じ京都帝国大学の観測所で、この古墳は見つかった。

滝川事件で法学部が総辞職に追い込まれたばかりの大学に、「皇室につながる可能性のある被葬者」の調査を押し通す体力があったかというと、無理だったと言うほかない。文部省と宮内省が並んで座っている協議の席で、考古学教室が「いや科学的検証を優先すべきです」と主張し続けることは、当時の空気では自殺行為に近い。阿武山古墳の封印は、単なる「宮内省の横暴」では説明しきれない。

学問と国家の力関係が、日本近代史でもっとも激しく傾きつつあった、まさにその年に起きたのだ。あと十年早ければ違ったかもしれないし、戦後であれば間違いなく違った。歴史の窓は、この一件に対してもっとも狭い時期に開いてしまった。そう考えると、あの現場で写真を撮り続け、レントゲンまで持ち込み、記録を残してから埋め戻した学者たちの行動の意味が変わってくる。彼らは負けた。

それでも負け方を選んだ。いまは通せない、だが記録は残す。いつか誰かが読む。そういう判断だったのではないか。その賭けは、五十年後にちゃんと回収された。

日本考古学史で最初のX線撮影は、いま思えばとんでもなく先進的な判断だ。当時、遺物にレントゲンを当てるという発想を持てた人間がどれだけいたか。しかもその写真こそが、九十年後に冠の綴織の織り返しを見せてくれることになる。一九三四年の敗北は、九十年かけて逆転しつつある。

「物証と文献の一致」という罠

鎌足説の魅力は、噛み合いの良さにある。あまりにも良すぎるくらいだ。腰椎の骨折。落馬という伝承だ。数か月の闘病。

六十前後という年齢だ。最高位の冠。摂津に葬られたという記録だ。地元に残る鎌足信仰。一つ一つが独立した証拠に見えて、全部が同じ方向を指している。

だからこそ、大勢が「これはもう確定だろう」と感じた。ところが、ここには方法論上の落とし穴がある。物証と文献が一致するとき、人はそれを「二つの独立した証拠が同じ結論を支持している」と受け取る。現実には、しばしば逆のことが起きる。物証の解釈が、はじめから文献に引っ張られているのだ。

具体的に言おう。もしあの骨折痕を、鎌足という名前をまったく知らない研究者が見たら、どう解釈しただろうか。腰椎の圧迫骨折は、高所からの落下でも起きるし、重量物の下敷きでも起きるし、加齢に伴う骨粗鬆症性の圧迫骨折でも起きる。上腕の所見も、弓や馬に限らず、繰り返し負荷のかかる作業ならいくらでも候補がある。「落馬」という読みは、骨から直接出てきたものではない。

鎌足の伝承を知っている人間が骨を見たときに、いちばん自然に感じられる解釈として選ばれたものだ。これは間違いだと言っているのではない。ただ、独立した証拠ではない、と言っている。同じことは金糸にも言える。X線写真に写っているのは金の分布であって、「大織冠」という文字ではない。

綴織の織り返しが見える、というのは客観的な観察だ。ところがそれを大織冠に結びつけるには、文献が記す織冠の材質の記述を経由しなければならない。仮に阿武山の被葬者が六四九年に死んだのだとしたら、そもそも大織冠を着ける人間はいないことになる。高橋照彦の議論の切れ味は、まさにここを外してくるところにある。彼が持ち出した須恵器の年代と金香炉の不在は、どちらも「鎌足という名前を経由しない」証拠だ。

土器の形は、誰の墓かとは無関係に時間を示す。副葬品の有無も、被葬者が誰であるかの推定とは独立に観察できる。その独立な証拠が、鎌足説と食い違っている。これは相当に重い。物語としての整合性がどれだけ美しくても、独立な物証が二十年ずれていると言っているなら、疑うべきは物語のほうだ。

それでも鎌足説が死なない理由

そうは言っても、鎌足説を「もう終わった説」として片付けるのも公平ではない。反論の余地はまだある。須恵器の年代について言えば、副葬された土器の製作年代と、埋葬が行われた年代は、いつも一致するわけじゃない。すでに手元にあった器を使うこともあれば、古式の器を儀礼のために選ぶこともある。とくに国家的な葬送であれば、日常品ではなく特別に用意された、あるいは伝世した器が使われることもありうる。

二十年の開きを、この論理でどこまで埋められるかは、まだ決着がついていない。金香炉についても同様だ。賜与された品が必ず副葬されるという前提は、実は自明ではない。寺に納められた可能性もあれば、遺族が保持した可能性もある。とくに鎌足の場合、長男の定慧が僧であり、多武峯や山階との関係が深い。

仏具である香炉が寺に伝えられたと考えるほうが、むしろ自然かもしれない。くわえて、二〇二四年に牟田口が示した綴織の観察は、新しい物証だ。二センチ四方に密に並ぶ織り返しの金糸。これは文献解釈ではなくて、写真から読み取れる事実である。それが織冠の記述と合致するというのは、決定打ではないにせよ、確かに一つの前進だ。

整理すると、いまの状況はこうだ。鎌足説の側は、被葬者の身体的特徴と冠の性質という「人」に関わる証拠を握っている。反鎌足説の側は、土器年代と副葬品構成という「モノ」に関わる証拠を握っている。両者は同じ古墳の別々の側面を見ていて、どちらも切り捨てられない。それなのに、決着をつけられる唯一の手段が、封じられている。

「掘らない」という選択を、どう考えるか

ここが、この記事でいちばん書きたかったところかもしれない。阿武山古墳は、いつでも掘り返せる。天皇陵ではないから、法的に禁じられているわけではない。国指定史跡だから手続きは必要だが、学術目的の調査が絶対に不可能というわけでもない。にもかかわらず、九十年以上、誰も開けていない。

理由はいくつもあり、予算。人員だ。保存技術の問題。何より、開けた瞬間に中身が壊れるリスクだ。一九三四年に一度空気にさらされているとはいえ、その後は再び密封に近い状態に置かれている。

もしいま開ければ、劣化した有機質は一気に崩れるかもしれない。それに、地元感情もある。安威の人々にとって、あそこは千年以上祀ってきた場所だ。学術的好奇心のために掘り返すことへの抵抗は、いまも消えていない。その一方で、放っておけば劣化は進む。

石室の上には樫が茂り、根が伸びる。かつて地震計を据えた窪地には水が溜まる。二〇一五年の書籍でも、証拠が永久に失われる前に調査と保存を、という問題意識が示されていた。掘っても壊れるし、掘らなくても壊れる。この二律背反こそが、阿武山古墳という場所の本質だと思う。

ここには「正しい答え」がない。あるのは、どちらの損失を選ぶかという選択だけだ。おもしろいことに、この問いは一九三四年に彼らが直面したものと、ほとんど同じ形をしている。九十年たって、技術も制度も価値観も変わったのに、問いだけが同じ場所に残っている。

記録を掘るという、もう一つの考古学

もう一つ、この事件が示した重要なことがある。牟田口章人が四十年以上かけてやってきたのは、土を掘る考古学ではない。写真を掘る考古学だ。一九三四年に撮られたレントゲンフィルムは、当時の技術では「骨と金属がぼんやり写った白黒画像」でしかなかった。読み取れる情報には限界があったのだ。

ところが一九八七年の修復とデジタル化を経て、二〇二四年の画像解析とAI補助の着色を経て、同じフィルムから綴織の織り返しが読めるようになった。二〇二五年には、藤ノ木古墳の埋葬状況と比較することで、棺内での遺体の姿勢と副葬品の配置手順まで復元されている。物理的には、フィルムは劣化する一方だ。情報は増えていない。増えたのは、読む側の能力だ。

これは、考古学における「未発掘のまま保存する」という思想を、別の角度から支えている。いま掘れば、いまの技術で読める分しか読めない。けれど五十年後の技術で読めば、いま想像もできない情報が出てくるかもしれない。だから急いで掘るな、というのが現代の保存思想の基本だ。阿武山は、その思想が意図せず実証されてしまった例にあたる。

一九三四年に無理やり掘り切っていたら、金糸は完全に散逸し、遺体は空気にさらされて崩れ、いま我々が持っている情報の大半は失われていた。閉じたのは、国家の圧力による偶然だった。ところが結果として、それは正しかったかもしれない。この皮肉を、どう受け止めればいいのだろう。

死者の名前を知りたがるということ

あと一段だけ、付き合ってほしい。ここまで繰り返してきた問いは、要するに「あの人は誰か」だ。鎌足か、阿倍内麻呂か、それとも名前も伝わらない誰かか。なのにふと考えると、この問いはずいぶん奇妙でもある。あの棺の中にいた人物は、確実に実在した。

六十歳前後まで生き、腕を酷使する生活を送り、晩年に腰と肋骨を折り、動けなくなり、数か月苦しんで死んだ。身長は164.6センチあった。錦を着せられ、紺と緑のガラス玉の枕に頭を乗せ、頭には金糸で花を織り出した冠を載せられ、漆を何十層も塗り重ねた棺に納められて、山の尾根に埋められた。これだけのことが分かっている。この人の晩年について、我々は同時代のほとんどの人間より詳しく知っている。

それでも、名前が分からないというだけで、この人は「未確定」なのだ。人は、名前がついていない事実を持て余す。名前がつくと、途端に物語が動き出す。鎌足だと言われた瞬間に、あの骨折は乙巳の変を生き延びた男の最期になり、あの冠は日本史上ただ一人に与えられた栄誉になる。同じ骨、同じ金糸なのに、意味がまるで変わる。

阿武山古墳が九十年にわたって人を惹きつけ続けているのは、たぶんここだ。物証はすでに十分あり、足りないのは名前だけ。その名前は、あと三メートル掘れば分かるかもしれないのに、誰も掘らない。尾根の上に立つと、大阪平野が見渡せる。足の下には、名前のない誰かが、金糸の冠をかぶったまま横たわっている。

九十年前に一度だけ日の光を浴びて、また閉じられた誰かが。その人が誰なのかを、いま生きている我々が知る必要は、べつにどこにもない。それでも知りたいと思ってしまう。この落ち着きの悪さこそが、たぶん歴史というものの正体なのだと思う。

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