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室町時代の疫病――史料に残る流行と病原体推定の限界

京の路上に、人がばたばたと倒れていた

室町時代の史料をめくると、同じ言葉が何度も目に飛び込んでくる。疫病、疱瘡、咳病、悪病。どれも人がたくさん死んだという意味で、書き残したのは公家であり、僧であり、寺社の役人だった。

飢饉が襲い、戦乱が続いていた。都には人が集まり、栄養状態は崩れていく。人も物も絶えず動いていたのだから、流行が広がる条件は、これ以上ないほど揃っている。

ただ、ここから先は慎重に進みたい。前近代史料に出てくる病名を、現代の病原体名と一対一対応させることはできない。「疱瘡と書いてあるから天然痘」とは言い切れないわけで、そこを踏み外すと歴史の話が一気に怪談へ化ける。

史料が書き残した「咳の年」

手がかりの中心にあるのが、東京大学史料編纂所の「日本中世気象災害史年表稿」だ。年代記、公家の日記、寺社文書から、災害と飢饉と疫病記事を拾い集めた仕事である。当時の人が何を見て何に怯えたのかが、年代順に並んでいる。

1365年の項目が、とにかく強烈だ。「天下大咳病」「日本国皆ナ咳病」「疱瘡遍天下」。全国が咳をしていた、という書き方になっており、誇張だとしても書き手がただごとでないと感じたのは伝わる。

同年末から翌1366年にかけては、京都の話が増える。疫疾、飢疫、そして路上の死者。複数史料が同じ光景を書いており、都が壊れかけていたと読むしかない。

室町後期を知るための土台になるのが『大乗院寺社雑事記』と、その紙背文書だ。寛正の大飢饉、寺社や荘園の動き、政治と社会の揺れが、まとめて書き込まれている。

面白いのは、疫病と飢饉がほぼ必ずセットで出てくることだ。腹が減れば体は弱り、人は食を求めて動き、集まれば衛生悪化がついてくる。被害が複合化していく道筋が、記録の並びから透けて見える。

「疱瘡」の字を見た瞬間の早とちり

史料中に「疱瘡」の字を見つけると、つい天然痘だと思いたくなるし、候補として発疹性疾患が並ぶのは確かだ。ただ、当時の語が現代医学の天然痘だけを指していたとは限らない。発疹性疾患全般を、まとめてそう呼んでいた可能性がある。

全国が咳き込んだという記録

「大咳病」と書かれれば、インフルエンザ様疾患を思い浮かべる人が多い。百日咳やその他の呼吸器感染症も候補に入る。ただ、症状の出方も続いた期間も年齢分布も分からず、そこが埋まらない以上は確定不能というほかない。

飢えと濁った水の先にあるもの

飢饉、汚染水、集住、戦乱時の衛生悪化。この並びを見れば赤痢や腸チフスを疑いたくもなるし、腸管感染症は候補として十分あり得るわけだ。とはいえ「熱が出た」「下痢をした」という記述だけでは、病名は絞れない。

黒死病と年代は重なる、それでも

ユーラシア規模のペスト流行と年代が重なるから、比較対象にはなる。そこまではいい。問題はその先だ。

日本の室町期流行をペスト菌のしわざと言い切るなら、材料が要る。特徴的症状を記した史料が欲しいし、集団墓地の発掘文脈も要る。古代DNAのような直接証拠まで揃って、ようやく議論の入口だ。今回確認できた範囲に、そこまでの証拠はない。

ついでに言っておくと、「ペストはヨーロッパ特有の病気」という説明も誤りだ。黒死病はアジアを含む広域史の問題として扱われており、舞台は最初から広い。

骨はどこまで喋ってくれるのか

古病理学と聞くと、なんでも分かる魔法のように思えるかもしれない。実際にできるのは、人骨の外傷を読むこと、慢性病変を拾うこと、特定感染症の痕跡や病原体DNAを探すことだ。範囲は決して広くない。

天然痘もインフルエンザも急性腸管感染症の多くも骨に特異的変化を残さず、骨を見ても分からない病気のほうが多い。「人骨に痕があるから天然痘」「骨髄に痕があるから腸チフス」。この手の断定を信じるには、論文と遺跡と試料番号と分析方法が要る。

疫病が社会を削っていく

疫病がもたらすのは、死者の数字だけではない。人が死に、村が空き、残った者は流民化して土地を離れる。社会の形そのものが、じわじわ変わっていく。

都市があり、寺社があり、街道がある。人が集まる場所では感染拡大が起きやすく、祈るために寺社へ行き、そこでまた病をもらう。当時の人にとって、逃げ場は少なかった。

できる対処といえば、祈祷と読経、そして神仏への奉幣だった。今の目には無力に映る。ただ、当時の宗教的対処としては、これが最善の手だったわけだ。

経済への打撃も大きく、働き手が消えれば労働力不足になる。年貢徴収は滞り、市場は縮み、荘園経営は傾き、戦乱が食糧供給と衛生をさらに悪化させる。疫病が社会不安を煽り、その不安がまた社会を弱らせる。

ここで一つ、釘を刺しておきたい。「京都人口が20万人から10万人へ半減した」といった精密な数字が、よく出回っている。ただ、当時に人口統計があったわけでもなく、死亡数の細かい数値は出典を確かめない限り使えない。

噂のほうは、もっと威勢がいい

史料で言えるのはだいたいここまでで、ここから先は噂の領分になる。インターネットで語られてきた説を、いくつか並べてみる。

南朝の敗死者や、非業の死を遂げた天皇の怨霊が疫病を起こした。足利将軍家が呪術を使い、敵対勢力へ病を送り込んだ。応仁の乱の火災が、封じられていた疫神を解き放った。

祇園祭の祭礼には、現代に伝わらない疫神封印の手順が隠されている。史料にある「悪病」の正体は、日本に秘密裏に持ち込まれた未知の病原体だった。だいたい、こんな調子だ。

どれも当時の御霊信仰や疫神信仰と現代の感染症不安を混ぜた物語で、読み物としては面白い。ただ、病原体の因果を証明するものではないので、そこは分けて考えたい。

八万四千本の卒塔婆と、京に積み上がった骸

寛正二年、西暦でいえば1461年。応仁の乱に先立つこと六年の京は、前代未聞の飢饉と疫病に沈んでいた。前年からの旱魃と大雨と洪水が、代わる代わる襲いかかる。収穫は壊滅的な打撃を受けた。

食を求めた人々が地方から流れ込み、都の路上に溢れた。そして飢えと病で、ばたばた倒れていく。当時の記録に、その光景を見かねた僧の名が残っている。願阿弥という。

願阿弥が作らせたのは八万四千本もの卒塔婆で、卒塔婆といっても小さな供養の木片だ。それを京中に放置された死者の亡骸へ、一体一体、祈りとともに立てて回ったと伝わる。

ところが、その八万四千本がほとんど足りなかった。余ったのはわずか二千本ほどだったという。単純計算で八万二千体以上の遺体が路上に横たわっていたことになり、しかも数日から数週間のうちの話だ。想像すると、正直、足がすくむ。

この地獄絵図を前に、京都五山の禅院が動いた。建仁寺や相国寺といった有力寺院が、死者供養のために「水陸会」と呼ばれる大法要を相次いで営む。

場所は鴨川の四条橋と嵐山の渡月橋で、橋の上に施食壇を設け、僧侶たちが香を焚いて読経を続けた。行き倒れた無縁の死者や、川に流された骸を弔うためだ。

なぜ橋だったのか。当時、橋は此岸と彼岸をつなぐ結界、つまり生者の世界と死者の世界の境目だと考えられていた。そこに壇を置く発想は、理屈としてよく通っている。

この寛正の大飢饉の記憶を色濃く映しているのが、後世に描かれた『百鬼夜行絵巻』ではないか、そう指摘する研究者がいる。

絵巻に並ぶ異形の妖怪たちの行列は、単なる空想ではない。都を覆った未曾有の死と、そのさなかで遊興にふけった権力者への、痛烈な批判ではないか、そう読む解釈がある。

「大咳病」「疱瘡遍天下」と書かれた年

室町期の疫病流行を追いかけるとき、まず開くのが東京大学史料編纂所の「日本中世気象災害史年表稿」になる。年代記、公家の日記、寺社文書から、災害と飢饉と疫病の記事を年代順に整理した基礎史料である。

貞治四年、つまり1365年の欄がすごい。「天下大咳病」「日本国皆ナ咳病」「疱瘡遍天下」。全国的な流行を思わせる文言が、これでもかと並ぶ。

同年末から翌年にかけては、京都で疫疾と飢疫が重なる。路上に死者が続出したという記述も複数の史料に確認でき、書き手が違うのに同じ地獄が並んでいる。

室町後期の基本史料といえば『大乗院寺社雑事記』と紙背文書で、興福寺大乗院の門跡、尋尊らが書き残した膨大な日記群になる。寛正の大飢饉をはじめ、政治も社会も宗教も、克明に記録されている。

これらの史料が突きつけるのは、疫病と飢饉がほぼ常にセットで記録されている事実だ。栄養不良は免疫低下を招き、戦乱は人口移動を引き起こす。都市への人口集中と衛生状態の悪化が、被害を雪だるま式に膨らませた可能性は高い。

ただし、ここでも同じ壁にぶつかる。前近代の「疱瘡」「咳病」「悪病」を、現代医学の病原体と機械的に一対一対応させることはできない。言葉の指す範囲が、そもそも違う。

「疱瘡」は発疹性疾患全般を指した可能性がある。「大咳病」はインフルエンザ様疾患から百日咳まで、幅広い呼吸器感染症を思わせる。それでも症状の経過や年齢分布の記録が乏しく、現代の病名で確定させるのは学問的に難しい。

祟りだと考えた室町人のロジック

前近代の日本社会では、疫病の流行は自然現象で片づけられなかった。しばしば「祟り」として理解されており、この考え方が御霊信仰だ。

政治的な非業の死を遂げた人物の霊が、恨みを呑んだまま現世に災厄をもたらす、そういう発想である。日本三大怨霊として名高い菅原道真、平将門、崇徳天皇の伝説は、いずれもこの文脈で語られてきた。

道真は大宰府への左遷後に憤死した。その怨霊が都に雷害と疫病をもたらしたと信じられ、北野天満宮に鎮められている。

この御霊信仰の延長線上に、都市伝説的な考察ブログや歴史系まとめサイトの説が乗っかる。室町時代の疫病は南朝方の敗死者や、非業の死を遂げた天皇の怨霊のしわざではないか。足利将軍家が政敵を呪詛で病に落とし、それが都に広がったのではないか、だいたいそんな筋書きだ。

応仁の乱で都の大半が焼け野原になったときの話も根強い。封じられていた疫神が戦火によって解き放たれた、という物語的な解釈が、いまだによく語られている。

ただ、笑い飛ばす前に押さえておきたいことがある。京都の夏を代表する祇園祭そのものが、疫病鎮めの祭りとして始まっている。起源は貞観十一年、869年に神泉苑で行われた「御霊会」だ。

室町時代にも、この祭礼は町衆によって山鉾巡行として受け継がれ、発展していく。京都文化博物館などの資料にその記録が残り、風物詩の裏には疫病への恐怖がべったり貼りついている。

疫病を怨霊や疫神のしわざと捉え、祭礼と読経でそれを鎮めようとする。この発想自体は、室町人にとって荒唐無稽な迷信ではなかった。社会が共有していた合理的な対処法である。手札がそれしかなかった、とも言える。

京都五山送り火にも似た話がある。度重なる戦乱で生まれた無数の怨霊と死者を鎮めるための「万灯」に起源を持つ、という説明が観光案内でもしばしば顔を出す。祭礼と鎮魂が表裏一体だった室町京都の精神風土を、いまに伝えている。

「正体はペストだった」に飛びつく前に

オカルト系や都市伝説系のサイトでは、断定的な言い切りがよく踊る。「室町期の疫病の正体はペストだった」。「人骨に残る病変から天然痘が確定した」。まるで科学的に決着がついたかのような書き方だ。

実際の古病理学は、そこまで気前がよくない。人骨に残る外傷、慢性病変、特定の感染症が骨に残す痕跡、そして古代DNAの分析。できるのはその範囲までで、過去の病気を丸ごと言い当てる道具ではない。

しかも天然痘、インフルエンザ、急性の腸管感染症の多くは、骨に特異的な変化をほとんど残さない。「骨に痕があるから天然痘」「骨髄に痕跡があるから腸チフス」という断定は、そのままでは受け取れない。本来なら論文名、発掘遺跡名、試料番号、分析手法の明記が不可欠で、そこを書かない話はまず疑っていい。

黒死病がユーラシア規模で猛威を振るった時期と、室町期の日本の流行は年代的に重なる。だから両者を結びつけたがる言説が、後を絶たない。気持ちは分かる。

ただ「ペストはヨーロッパ特有の病気」という前提自体が誤りだ。黒死病はアジアを含む広域的な現象として研究されており、ヨーロッパだけの話にしてしまうとそもそも見誤る。

日本の室町期流行をペスト菌のせいだと断定するなら、材料が要る。特徴的な症状の記述、集団墓地の発掘文脈、そして古代DNAの直接証拠。現時点で確定証拠が示された例は確認されておらず、確定的な決着はまだどこにもないわけだ。

深泥池のタクシーと、濡れた後部座席

疫病と飢饉で死者が積み重なった中世京都の記憶は、そこで終わらなかった。現代の心霊スポットや都市伝説の地層として、いまも生きている。

京都最古の自然池のひとつとされる深泥池にまつわるタクシー怪談は、京都の都市伝説でも屈指の有名どころだ。雨の夜、深泥池付近で白いワンピース姿の女性客を乗せた運転手がいた。

行き先は「山科区上花山へ」。言われるままに向かうと、そこは火葬場だった。バックミラーには誰も映っておらず、振り返ると後部座席は水でぐっしょり濡れていた。

この話は「警察官の証言を通じて聞いた」という形で紹介されたりもする。だから単なる作り話以上の実感をまとって、語り継がれてきた。周辺の花山トンネルは「京都三大トンネル」の一つとして、いまも心霊スポット扱いだ。

京都の観光案内やコラムでは、「京の魔界」というテーマもよく組まれる。平安期から積み重なった怨霊と呪詛の記憶をたどるルートだ。鉄輪の井で丑の刻参りをした女の呪いを、陰陽師の安倍晴明が阻んだという説話。北野天満宮に鎮められた菅原道真の怨霊譚。この辺りが定番になる。

これらが直接に室町期の疫病を指すわけではない。ただ、「都に積み重なった無数の非業の死者が、目に見えない形でいまも土地に残っている」という感覚。それが平安から室町、そして現代の都市伝説まで、一直線につながっている。

「ペストだったのか」で毎回もめる掲示板

5ちゃんねるの日本史板やオカルト板、まとめサイトのコメント欄。「室町時代の疫病はペストだったのか」というスレッドは思い出したように立ち、毎回、似た応酬が始まる。

「ヨーロッパの黒死病と同時期だから可能性はある」という素朴な指摘が出る。すると「日本側の史料には黒死病特有のリンパ節の腫れ、いわゆる横根の記述が乏しい」と返る。「そもそも症状の記述自体が少なすぎて特定は不可能」という、やや専門的な反論も付く。この流れが、ほぼ同じパターンで繰り返し観測される。

「京都人口が20万人から半減した」という数字がSNSやまとめサイトで独り歩きしている件も定番だ。そこには必ず「そもそも室町期の京都に精密な人口統計があったのか」という疑義が付く。根本的な突っ込みで、しかも正しい。

一方で、こんな声も多い。「祇園祭が疫病封じの祭りだったという事実そのものが、当時の恐怖と祈りのリアリティを雄弁に物語っている」。史実として確認できる部分だけで十分にドラマチックだ、という評価である。

願阿弥の八万四千本の卒塔婆も繰り返し引用される題材で、具体的な数字は独り歩きしやすい。それでも凄惨さが際立つせいか、歴史系のnoteやブログで何度も取り上げられている。「現代の感染症パンデミックと重ねて読むと背筋が寒くなる」。そんな感想が、定期的に投稿されるらしい。

史料に刻まれた流行という、動かしがたい事実がある。その上に、後世付け加えられた怨霊譚や病原体特定、精密な死者数といった脚色が積もっている。この二つを丁寧に切り分ける作業こそが、室町の疫病史を読むときの本丸になる。面白がりながら、疑う。それくらいがちょうどいい。

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