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都市を捨てて、誰もいなくなった――マヤ文明はなぜ九世紀にジャングルへ返されたのか

ジャングルの真ん中に、誰も彫り終えなかった石がある。

ホンジュラス西部、コパン遺跡。祭壇Lと呼ばれる四角い石のブロックだ。四つの面のうち、一面だけがきれいに彫られている。王が座り、日付が刻まれ、王朝の続きが宣言されている。残りの三面は、途中で止まっている。下絵の線だけが引かれた面。輪郭を掘り始めたところで手が離れた面。そして何も刻まれていない、つるりとした面。

石工はここで道具を置いた。そして二度と戻ってこなかった。

刻まれていた日付は、西暦八二二年にあたる。この石を境に、コパンは黙る。四百年近く途切れなく続いた王の記録が、彫りかけのまま終わる。誰も「終わり」と書かなかった。ただ、続きが書かれなかっただけだ。

これがマヤ古典期崩壊という事件の、いちばん気味の悪いところだと思う。破壊された都市が焼け跡になって残っているわけじゃない。戦火の記録が「我々は滅びた」と叫んでいるわけでもない。書きかけの文章が、いきなり途切れている。それだけ。それが数十の都市で、ほぼ同時に起きた。

今日はこの話をする。八世紀から十世紀にかけて、中米の熱帯低地から人間が消えた話。数百万人が住んでいたはずの土地が、千年かけてジャングルに戻った話。そしてその謎を追いかけた人間たちが、干ばつだの戦争だの疫病だの宇宙人だのを持ち出して、いまだに殴り合っている話だ。

日付が数えられる文明、という異常事態

まず前提を押さえておかないと、この話の凄みが伝わらない。

マヤ人は「長期暦」という日付システムを持っていた。神話上の起点、いま使われている換算だと紀元前三一一四年八月十一日から、何日経ったかをひたすら数える。二十日で一ウィナル、十八ウィナルで一トゥン、二十トゥンで一カトゥン、二十カトゥンで一バクトゥン。石碑にはこれが五桁の数字で刻まれる。九・一七・〇・〇・〇、みたいに。

これがどれだけ異常か、伝わるだろうか。

古代世界の大半の記録は「王の治世第三年」みたいな相対的な日付しか残さない。だから王のリストが途切れると年代が分からなくなる。ところがマヤの石碑は、絶対日数を刻んでいる。しかも二十進法で桁が上がっていくから、一日単位でズレなく現代の暦に変換できる。八世紀のマヤの王が神殿の階段を上った日を、我々は西暦の何年何月何日か言える。世界史でこんな真似ができる地域はほとんどない。

だからこそ、崩壊のグラフが引ける。

碑文に日付が刻まれた記念碑の数を、年ごとに数えていく。六世紀初め、だいたい年に十基。六七二年ごろで年二十基。七五〇年前後がピークで、年に四十基近い。マヤ低地じゅうの都市が競い合うように石を立てまくっていた時代だ。ところが八〇〇年、これが年十基まで落ちる。八三〇年、ぱらぱら。そして九〇〇年、ゼロ。

グラフの右端が、崖みたいに落ちて、そのまま地面にへばりつく。

最後の長期暦の日付は、メキシコ・チアパス州のトニナ遺跡から出た記念碑一〇一号に刻まれている。一〇・四・〇・〇・〇。西暦九〇九年一月十五日。カトゥンの区切りを記念した、ごく短い、事務的な碑文だ。誰が立てたのかも分からない。王の名前すら読み取れない。

マヤの王たちが千年近く続けてきた「日付を刻む」という行為は、無名の誰かが彫った小さな石で終わる。その後、南部低地から石碑は一基も立たない。二度と。

ティカル、最後の王が石を立てて、街は静かになった

都市ごとに見ていくと、この崩壊が一斉射撃ではなく、ドミノ倒しだったことが分かる。

グアテマラ北部ペテン地方のティカル。マヤ低地最大級の都市で、六十メートル級のピラミッドが密林の樹冠を突き破って立っている。あのスターウォーズ第一作でヤヴィン第四衛星の反乱軍基地として映っているやつだ。全盛期の人口は都市圏で六万から九万、周辺を含めればもっと多い。

ティカルの最後の日付入り石碑は、第十一号石碑。八六九年。立てたのはジャサウ・チャン・カウィール二世という王だ。名前は立派だが、この王については碑文一枚ぶんのことしか分かっていない。二百年前の同名の大王、あのカラクムルを破って黄金時代を作ったジャサウ・チャン・カウィール一世の栄光にあやかろうとした名前だろう。

だが彼が刻ませた石は粗い。彫りも文章も、全盛期の水準からははっきり落ちている。石工の腕が落ちたのか、金がなかったのか、急いでいたのか。

その後、ティカルで起きたことがまた不気味だ。

八三〇年から九五〇年のあいだに、ティカルとその周辺は人口のほとんどを失う。だが「無人」になったわけじゃない。壮麗な石造宮殿の中に、藁葺きの粗末な小屋が建てられた形跡がある。中央広場、王たちが儀式を行った石畳の上に、掘立小屋。宮殿の部屋には炉が切られ、生活ゴミが積もる。彼らは石碑を動かした。壊したものもある。意味の分からなくなった王の像の前に、自分たちの祭壇を置いた。

つまり、王権が消えたあとも人はいた。ただ、その人たちは石碑を立てなかった。日付を数えなかった。長期暦を刻まなかった。文字を書かなかった。国家の記憶を持たない誰かが、王の宮殿でたき火をしていたわけだ。九五〇年を過ぎると、それすらも消える。

カラクムルの蛇の王朝が、名乗るのをやめた日

ティカルの宿敵がカラクムルだ。メキシコ・カンペチェ州の奥深く、いまも道路から遠い密林の中にある。「蛇の王朝」を名乗り、七世紀にはマヤ低地の半分を従属国ネットワークに組み込んでいた超大国だった。

分岐点は六九五年。カラクムル王ユクノーム・イチャーク・カーク、「炎の爪」がティカルのジャサウ・チャン・カウィール一世に敗れる。この一戦で蛇の王朝の覇権が折れた。

以後、カラクムルは徐々に縮む。八世紀にはユクノーム・トーク・カウィールが七三一年のカトゥン区切りに七基の石碑を一気に立てて往時の格を示そうとし、七七一年にはボロン・カウィールが二基立てた。だが密度が違う。かつて属国だった都市が独立し、貢納が止まり、記念碑を立てる資源が枯れていく。

決定的なのは八三〇年だ。

この年、九・一九・〇・〇・〇のあとに続く一〇・〇・〇・〇・〇、つまりバクトゥンの区切りが来る。バクトゥン替わりというのはマヤの王にとって最大級の政治イベントで、必ず盛大な記念碑が立つ。ところがカラクムルは、この記念碑を立てていない。千年に一度の節目に、蛇の王朝は沈黙した。もう立てられる王がいなかった、と読むしかない。

最後の断片は、アジ・トークという名前が刻まれた短縮日付の記念碑で、八九九年か九〇九年のどちらかとされている。世界の半分を従えたと自称した王朝の最後の記録は、年号すら確定できない石片だ。

ちなみにカラクムルの再発見は一九三一年十二月二十九日。サイラス・ランデルというアメリカ人植物学者が、チクル――チューインガムの原料になる樹液だ――採取会社の仕事で低空飛行していて、樹海の上に突き出た二つの巨大な塚を見つけた。彼は翌一九三二年三月にカーネギー研究所のシルバヌス・モーリーに報告する。マヤ最大級の都市が、ガムの原料を探していた人に見つかった。

彫りかけの祭壇と、王座に座れなかった男

冒頭のコパンに戻る。ホンジュラス西部の谷にある、マヤ世界随一の彫刻都市だ。

象形文字の階段には二千を超えるグリフが刻まれ、単一のマヤ碑文としては最長。祭壇Qには初代キニチ・ヤシュ・クック・モから十六代までの王が、ぐるりと一周する形で彫られている。四二六年から七六三年まで、王朝の系譜が石に固定されている。

十六代目、ヤシュ・パサフ・チャン・ヨパートが七六三年に即位する。彼の治世は長い。だが後半になると様子がおかしくなる。建設が止まる。碑文が減る。そして彼の死後、ウキット・トークという人物が現れる。「火打石の守護者」という意味の名前だ。この男が、あの彫りかけの祭壇Lを注文した。

祭壇Lの完成した一面には、ウキット・トークが王座に座り、正統な後継者であることを主張する図像が刻まれている。八二二年。だがそこで止まる。他の三面には、彫られるはずだった王朝の続きが、永遠に来なかった。研究者の多くは彼を簒奪者、あるいは正統性の弱い最後の王と見ている。彼の即位が本当に行われたのかすら怪しい。石に「私は王だ」と刻ませようとして、彫り終える前に何かが起きた。

コパン谷の人口推移も生々しい。八世紀後半のピークで谷全体に二万数千人。九〇〇年ごろで一万五千。一二〇〇年には千人を切る。四百年かけて、じわじわ人が抜けていく。

しかも骨が語っている。コパン後期の人骨には、栄養不良、貧血、感染症の痕跡が目立って増える。特に子どもの骨に成長障害の線、ハリス線が出る。飢えていたんだ。少なくとも、豊かではなかった。

王が消えたあとも、農民は谷に残った。残ったが、痩せていった。

パレンケ、名前が尻すぼみに消える

チアパスの山裾にあるパレンケは、マヤ建築の中でもとりわけ優雅な都市だ。神殿の屋根飾りは薄く軽やかで、漆喰の浮彫は柔らかい。パカル大王――キニチ・ハナーブ・パカル一世だ――の墓が「碑文の神殿」の地下から一九五二年にアルベルト・ルス・ルイリエによって発見されて、世界的に有名になった。

そのパレンケの終わりは、記録の質そのものが劣化していくという形をとる。

八世紀末になると碑文は短くなり、彫刻の質が落ち、そもそも石に彫るのをやめて土器や漆喰に走る。最後に名前が確認できる王はハナーブ・パカル三世で、七九九年十一月に即位したことが記録されている。だがこの記録は堂々たる石碑ではない。土器に書かれた文だ。

大王パカルの棺の蓋には、あれだけの手間と技術と物量が注ぎ込まれた。その百五十年後、王の即位は焼き物に走り書きされる。そして八〇〇年代に入ると、それすらもなくなる。パレンケは静かになり、木が生え、屋根が落ちる。

余談だが、パレンケは長らく宿敵トニナに苦しめられていた。七一一年、トニナの支配者がパレンケ王カン・ホイ・チタム二世を捕虜にしている。パレンケの王朝史はこの事件で十年間ぽっかり空白になる。そして最終的に、パレンケが黙ってから百年後、そのトニナがマヤ最後の長期暦の日付を刻む。勝ち残った方が最後まで生き延びた、というにはあまりに空しい勝ち方だ。

宮殿を壊して壁にした人たち

崩壊の「現場」がいちばんはっきり見えるのが、グアテマラのペテシュバトゥン地方だ。ここは考古学の中でも屈指の生々しさがある。

ドス・ピラスという都市がある。六四八年ごろ、バラフ・チャン・カウィールという男がティカル王家から分かれてここに拠点を築いた。彼はティカルに敗れると、あっさりカラクムル側に寝返り、実兄の都市を攻撃する側に回っている。以後ドス・ピラスは戦争専門国家として膨張した。二代目イツァムナーフ・カウィールは七〇五年にティカル相手に大勝し、貢納と労働力を吸い上げて都市を急拡大させる。

そして四代目、カウィール・チャン・キニチ。七四一年即位。彼はさらに戦線を広げすぎた。七六一年、従属していたタマリンディートをはじめとする周辺都市が一斉に反乱を起こす。王は逃げた。以後、彼の名前は碑文に二度と出てこない。

ここからが本題だ。

アーサー・デマレストのヴァンダービルト大学隊が一九八九年から九四年にかけて発掘して、何を見つけたか。コウモリの宮殿と呼ばれる建物から、叩き壊された王座が出た。粉々ではない。意図的に破砕されている。そして都市の中心部を囲む形で、二重の防壁が発見された。

この防壁の材料が問題だ。神殿と宮殿から剥がした石を積んだものだった。祖先の墓、王の記念建築、儀式空間。それを崩して、生き残った人間が急ごしらえの壁にした。

壁の内側に何があったか。粗末な住居の跡だ。難民村だった。王がいなくなったドス・ピラスの中心広場に、逃げ場のなくなった人々が寄り集まり、聖なる建物を解体して身を守る壁を作り、その中で暮らした。この村も九世紀初頭には消える。

信仰も王権も、生き延びるためには石材にしかならなかった。この光景が、いちばん端的にマヤ崩壊を表していると思う。

マヤのポンペイ、逃げた形のまま焼けた街

ドス・ピラスの双子都市がアグアテカだ。ペテシュバトゥン湖を見下ろす高さ九十メートルの石灰岩の崖の上にある。ドス・ピラスが陥ちたあと、王家はここへ移った。天然の要害である上に、全長五キロ近い防壁が急ごしらえで巡らされた。石を積んだだけの、明らかに時間のない壁だ。

それでも駄目だった。西暦八〇〇年から八一〇年ごろ、タン・テ・キニチという王の時代に、アグアテカは襲われる。エリート居住区が焼き払われ、住民は逃げるか連れ去られた。二十メートル級の神殿は建設途中のまま放棄されている。

ここを発掘したのが猪俣健率いるアリゾナ大学の調査隊だ。彼らが見つけたものが凄い。

焼けた宮殿の床に、生活の一切がそのまま散らばっていた。すり潰し途中の顔料、彫りかけの貝細工、緑石のビーズ、アラバスターの容器、土器、石器、織り具。片付けられていない。持ち出されていない。

つまり住人は、荷物をまとめる時間がなかった。あるいは「すぐ戻れる」と思って出て行った。緑石やアラバスターは当時の貴重品だ。避難するなら真っ先に持っていくはずのものが、床に落ちたままになっている。だからここは「マヤのポンペイ」と呼ばれる。火山灰ではなく放火で時間が止まった街だ。

エリートの日常がここまで解像度高く保存された遺跡は、マヤ世界に他にない。皮肉な話で、丁寧に片付けて撤退した都市からは何も出ない。彼らが慌てて逃げてくれたおかげで、我々は千二百年前の彫刻家の作業台を覗ける。

貯水槽から出てきた三十一人

もうひとつ、デマレストの隊が掘り当てた場所がある。グアテマラのカンクエンだ。

カンクエンはパシオン川の要衝を押さえた交易都市だった。高地からの翡翠、黒曜石、ケツァールの羽根が、この川を通って低地の都市へ流れる。だから王宮が異常にでかい。サッカー場六面ぶんに近い規模で、数百の漆喰彫刻で飾られていた。神殿ピラミッドはほとんど無い。宗教より商売の街だ。

二〇〇五年、王宮の入口近くにある聖なる貯水槽から、三十一体の人骨が出た。西暦八〇〇年ごろ。全員が高位の人間だった。頭蓋変形の跡、翡翠の装身具、ジャガーの牙、太平洋岸の貝。装飾品が身に着けられたままだ。略奪ではない。

死因もはっきりしている。槍と斧。首や頭部への刺突が多い。デマレストは、王と王妃と貴族たちは一箇所に集められ、まとめて殺されたと述べている。犠牲者には男も女も子どももいた。妊婦が二人含まれていた。近くの別の場所からは、王カン・マーシュと王妃と思われる遺体も出ている。二人は貯水槽ではなく、丁寧に近い形で埋められていた。殺した側が敬意を払ったのか、あるいは生き残りが後で埋めたのか、分かっていない。

そしてカンクエンには、建設途中で放棄された防壁がある。誰かが来ると分かっていた。壁を作り始めた。間に合わなかった。

グアテマラ法医人類学財団が調査に加わっている。この団体は本来、一九六〇年から九六年にかけての内戦で虐殺されたマヤ系住民の遺体を掘り、身元を特定するために作られた組織だ。彼らが千二百年前の虐殺現場を掘る。この重なりは、正直、話として重すぎる。同じ土地で、同じ民族の子孫が、千二百年隔てて二度掘られている。

ボナンパクの壁画は、なぜ塗り残しのまま止まったのか

チアパスの奥地、ラカンドンの森の中にボナンパクという小さな遺跡がある。建物一号、通称「壁画の神殿」。長さ十六メートル、奥行き四メートル、高さ七メートル。三つの部屋の壁と天井が、隙間なく彩色壁画で埋まっている。総勢二百八十一人の人物が描かれている。西暦七九〇年前後の作だ。

一号室は宮廷儀礼。王ヤハウ・チャン・ムワーン二世が息子の継承権を貴族に承認させる場面だ。貢納の布が積まれ、楽団が並ぶ。ラッパ、亀甲の打楽器、瓢箪のガラガラ。仮面をつけた踊り手。

二号室が本番だ。マヤ美術史上最大の戦闘場面と呼ばれている。

密林の中での乱戦。槍が交錯し、髪をつかまれた捕虜が引きずられる。敗者は左利きに描かれ、鳥の羽根をつけている。勝者はジャガーの毛皮をまとい、右手が二本あるように描かれる。マヤ絵画のお約束だ。

そして戦闘の隣に、その帰結が描かれる。段状の基壇の上に捕虜が並ばされ、指の爪を剥がされている。指先から血が滴る。一人はすでに死んでいて、階段の上に投げ出されている。王は悠然と立ってそれを見ている。

三号室は勝利の祭典。貴族たちが舌や性器に刺を通す放血儀礼を行い、超自然の存在が黄色で描かれる。マヤ絵画で「現実に存在しない色」が使われた最初期の例とされる。

問題は、この三号室が完成していないことだ。下絵のままの部分がある。彩色が途中で止まっている箇所がある。碑文の枠が空白のまま残っている。ボナンパクの壁画は、勝利の祝宴を描いている最中に、筆が置かれた。

宗主国だったヤシュチランは八〇八年の日付を最後に沈黙する。ボナンパクもそれに続く。二百八十一人の登場人物の誰一人として、この絵が千二百年後まで残り、自分たちの終わりの直前を記録した最後の証言になるとは思っていなかった。

一八三九年、ジャングルで石の顔に出会った二人

ここで時代を千年飛ばす。

一八三九年秋、ジョン・ロイド・スティーヴンズという三十四歳のアメリカ人がベリーズに上陸した。職業は弁護士。だが本業は旅行記作家で、エジプトやペトラを歩いた紀行文がベストセラーになっていた。今回の肩書きはヴァン・ビューレン大統領から任命された中央アメリカ連邦共和国駐在代理公使。要するに外交官だ。

ただし赴任先の国は内戦で崩壊しかけていて、政府がどこにあるのかも定かでなかった。彼にとって外交任務は口実に近い。

同行者はフレデリック・キャザウッド。イギリス人建築家で、製図の腕が異常に良かった。カメラ・ルシダというプリズム装置を使い、対象と画用紙を視野の中で重ねて、実測に近い精度で写し取ることができた。写真がまだ実用化されていない時代の、最強の記録装置が彼だった。

二人は騾馬で山を越え、雨季の泥の中を進み、一八三九年十一月にホンジュラスのコパン川沿いに着く。そこで見たものを、スティーヴンズは後にこう書いている。密林の中に石壁があり、木の根に絡まれた石の柱が立っていた。人の顔が彫られていた。表情は厳粛で、荘重で、意匠は奇異で、彫刻は優れ、装飾に富んでいた。

彼らは分からなかった。誰が作ったのか。いつ作ったのか。

当時のアメリカとヨーロッパの常識では、アメリカ大陸の先住民にこんなものが作れるはずがなかった。だからエジプト人が来たとか、失われたイスラエル十支族だとか、アトランティスだとか、そういう説が真顔で語られていた。

スティーヴンズは有名な一節を残している。この街は荒れ果てていた。それは大洋の真ん中で砕けた船のようだった。マストは折れ、船名は消され、乗組員は死に絶え、どこから来てどこへ行くはずだったのか、誰にも語れる者がいない。

そして彼は決断する。この遺跡を買う。

所有者はドン・ホセ・マリアという地元の男だった。彼はドン・ベルナルド・デ・アギラという人物から土地を借りていて、契約は残り三年。面積はおよそ六千エーカー。年に八十ドル払っていた。要するに、価値のない密林として扱われていた。

スティーヴンズは五十ドルを提示した。ドン・ホセ・マリアは仰天する。この提案に対する彼の反応を、スティーヴンズはこう書き残している。私が彼の哀れな老妻を買いたいと言ったとしても、彼はこれ以上に驚きはしなかっただろう。

交渉は難航した。相手が疑ったのだ。こんな石ころだらけの土地に金を出す外国人がいるはずがない。何か裏がある。村の連中は、二人が黒魔術で隠された財宝を探していると噂した。スティーヴンズは説明した。私はスコップとつるはしと梯子とバールと人手を持って戻ってくる。小屋を建てて住み込み、徹底的に調査する。それだけだ、と。

最終的に五十ドルで話がついた。マヤ最高の彫刻都市が、当時の値段で言えばそこそこの騾馬一頭分くらいの値段で売られたわけだ。スティーヴンズは本気で、石碑を切り出して川に浮かべ、ニューヨークに運んで博物館を作る計画を練っていた。幸か不幸か、川が浅すぎて実行できなかった。

キャザウッドの側の記録も悲惨で面白い。彼は膝まで泥に浸かりながら、蚊を避けるために手袋をはめて製図した。マラリアに罹りながら描き続けた。彼が描いた石碑の図版は、細部の紋様まで正確で、後に文字が解読され始めたとき、原物が風化した部分を補う資料として使われている。

二人が一八四一年にハーパー社から出した『中央アメリカ、チアパス、ユカタン旅行記』は、三か月で二万部近く売れた。一八四三年の続編『ユカタン旅行記』も当たった。この本が決定的だったのは、スティーヴンズがはっきり書いたことだ。これらの遺跡はエジプト人でもイスラエル人でも失われた大陸の民でもない。この地に住んでいた人々の祖先が作ったものだ、と。

十九世紀の白人としては珍しい判断だった。そして、正しかった。

二人の最期は静かではない。スティーヴンズはパナマ鉄道の建設事業に関わり、そこで得た熱病がもとで一八五二年に死ぬ。四十六歳。キャザウッドは一八五四年、大西洋航路の汽船アークティック号の沈没事故で死ぬ。マヤの絵を描き続けた男が、海の底へ消えた。

読めない文字が読めるようになるまで

崩壊の議論が科学的な地盤に乗るには、碑文が読めるようにならなければいけなかった。この解読史がまた、壮絶な喧嘩の歴史だ。

出発点は皮肉なことに、マヤ文化を焼き払った男の書き残しだった。

フランシスコ会士ディエゴ・デ・ランダは、一五六二年七月十二日、ユカタンのマニで大規模な異端審問を行い、マヤの絵文書を焚書にした。彼自身が「彼らはひどく悲しみ苦しんだ」と書いている。数千冊あったとされる樹皮紙の本は、今日四冊しか残っていない。

ところがその同じランダが、一五六六年ごろに書いた『ユカタン事物記』の中で、マヤ文字の「アルファベット」を記録していた。彼は現地の情報提供者に「アーの字を書いてくれ」と頼み、相手は「ア」という音節の記号を書いた。ランダはこれを表音アルファベットだと誤解して記録した。この誤解の産物が、四百年後に鍵になる。

十九世紀末、ドイツのエルンスト・フェルステマンがドレスデン絵文書を解析し、暦と天文の部分を解いた。金星の運行表が読めるようになる。ここから「マヤは平和な天文学者の国」というイメージが生まれた。

二十世紀前半に君臨したのがイギリスのエリック・トンプソンだ。マヤ学の絶対的権威で、彼の説はほぼ教義だった。曰く、マヤ文字は表意文字であり、表音要素はない。碑文の内容は暦と神と天文だけで、歴史は書かれていない。マヤの神官は宇宙の時間を静かに観測していた哲人であり、戦争などしていない。

これを叩き壊したのが二人の人物だ。

一人はユーリー・クノロゾフ。ソ連の言語学者で、第二次大戦末期にベルリンで従軍していた。伝説では燃えるドイツ国立図書館からマヤ関係の本を持ち出したとされる。本人は後にこの逸話を否定しているが。彼は一九五二年、モスクワで論文を発表し、ランダの「アルファベット」は実は音節文字表だと主張した。マヤ文字は表語文字と音節文字の組み合わせで、日本語の漢字仮名交じりに近い構造をしている、と。

冷戦の真っ最中である。トンプソンはこれを「マルクス主義プロパガンダ」と切って捨てた。ソ連の学者がマヤを解読したという事実を、西側マヤ学界は十数年認めなかった。

クノロゾフはマヤ低地に一度も足を踏み入れることを許されないまま、モスクワの机の上で正解を出していた。彼が初めてマヤの遺跡に立ったのは、ソ連が崩壊した後、一九九〇年代のことだ。

もう一人がタチアナ・プロスクリアコフ。ロシア系アメリカ人で、もとは建築の訓練を受けた図案家だった。彼女は一九六〇年、ピエドラス・ネグラス遺跡の石碑群に刻まれた日付のパターンを分析した論文を出す。

彼女が気づいたのは、石碑がグループごとにまとまっており、各グループの日付が人間の一生の長さに収まるということだった。最初の日付と次の日付の間隔が、だいたい十二歳から三十一歳。誕生と即位だ。

つまりこれは天文ではない。人間の伝記だった。

トンプソンの「歴史なき神官国家」像は、この一本で崩れた。マヤの石碑は、王が生まれ、即位し、戦争し、捕虜を取り、死んだ記録だった。ハインリヒ・ベルリンが一九五八年に「紋章文字」を特定していたことも合わさり、どの碑文がどの都市のものか分かるようになる。

一九七三年、パレンケで開かれた第一回円卓会議で、リンダ・シェーレ、ピーター・マシューズ、フロイド・ロウンズベリーらが一晩でパレンケの王朝系譜を復元してしまう。ここから解読は雪崩を打って進んだ。デイヴィッド・スチュアートは子どもの頃からこの会議に出入りしていた早熟な研究者で、一九八七年に音節記号を大量に確定させる論文を出している。

一九九〇年代には、マヤ碑文の大半が読めるようになっていた。そして読めた内容は、トンプソンの理想像とは真逆だった。斬首、放血、捕虜の拷問、同盟と裏切り、都市間戦争。二十世紀中盤のマヤ像は、ほぼ全て書き換えられた。

崩壊論の各説が、この解読の進展に合わせて姿を変えていったことは押さえておいてほしい。読める碑文の量が増えるたびに、有力説がひっくり返ってきた。

干ばつ説はどこから来たのか

いま最も支持されている説から行く。干ばつだ。ただしこの説にも長い前史がある。

一九三〇年代、カーネギー研究所のシルバヌス・モーリーらはすでに気候変動を候補に挙げていた。だが当時は証拠がなかった。証拠が出るのは、湖底堆積物の古気候学が育ってからだ。

決定的な一撃は一九九五年。デイヴィッド・ホデル、ジェイソン・カーティス、マーク・ブレナーの三人が『ネイチャー』に論文を出した。舞台はユカタン半島中央部のチチャンカナブ湖。彼らはこの湖の底に長い柱状の堆積物コアを打ち込み、層ごとに分析した。

ポイントは石膏だ。

この湖は塩分濃度が高く、水位が下がって蒸発が進むと、水に溶けていた硫酸カルシウムが析出して石膏の結晶になる。つまり石膏の層は「湖が干上がった時期」の指紋だ。逆に湿潤な時期は普通の泥灰土が積もる。

コアを見ると、九世紀の層に石膏が厚く出る。しかもこの数千年で最も顕著な部類の乾燥シグナルだった。三人は、西暦九世紀に激しく長期にわたる干ばつが起きたと結論した。マヤ崩壊のグラフと、湖底の石膏層が、ぴたりと重なる。

この論文でスイッチが入った。

二〇〇〇年、リチャードソン・ギルという研究者が『大マヤ干ばつ』という本を出す。ギルは変わった経歴の人で、もともと銀行家をやっていて、四十を過ぎてから人類学の博士号を取った。彼は気候データ、水文データ、年輪、火山噴火記録、考古データを総動員して、西暦八〇〇年から一〇〇〇年の二百年間に、過去七千年で最悪級の干ばつがあったと主張した。そして、それが直接的な餓死と渇死を引き起こしたのだ、と。文明の「衰退」ではなく、人が水を飲めずに死んだのだ、というかなり容赦のない主張だった。

二〇一二年、ダグラス・ケネットらが『サイエンス』に出した論文がまた効いた。今度は湖ではなく洞窟だ。

ベリーズ南部、ウシュベンカ遺跡から五キロほどのヨク・バルム洞窟で、石筍を採取した。鍾乳洞の床から生えるタケノコ状の石だ。石筍は年輪のように層を作りながら成長し、その酸素同位体比が降水量を反映する。彼らはこれで過去二千年の降水量記録を、極めて高い時間分解能で復元した。ヤシュチランやパレンケのあるウスマシンタ川流域からそう遠くない地域の記録だ。

出てきたパターンが示唆的だった。

西暦四四〇年から六六〇年ごろ、この地域は異常に雨が多かった。ケネットの言葉を借りれば、多雨が食料生産を押し上げ、人口が爆発した。ティカル、コパン、カラコルが巨大化したのはこの時期だ。ところが六六〇年から一〇〇〇年にかけて、四百年におよぶ乾燥傾向が続く。その中に何度か強烈な干ばつが挟まる。そして一〇二〇年から一一〇〇年に、記録上最悪の干ばつが来る。これは崩壊よりだいぶ後で、残った人口をさらに削った可能性がある。

ケネットが強調したのは、単純な「雨が降らないから滅んだ」という話ではないという点だ。多雨期に人口と社会の複雑さが膨れ上がったこと自体が、後の脆弱性を作った。膨らみすぎた風船が針に弱い、というやつだ。

そして二〇一八年、ニック・エヴァンズとデイヴィッド・ホデルらが『サイエンス』に出した論文が、干ばつの「量」を初めて数字にした。手法がえげつなく美しい。

石膏の結晶には、結晶構造の中に水分子が取り込まれている。この「結晶水」は、石膏ができたときの湖水そのものだ。千二百年前の水が、鉱物の中に閉じ込められて残っている。彼らはこの水の水素と酸素の同位体比を測定した。

結果。崩壊期の年間降水量は、現代比で四十一パーセントから五十四パーセント減少。最悪期には七十パーセント減。相対湿度は二から七パーセント低下。

雨が半分になった。しかも数十年から数百年のスパンで。トウモロコシの雨頼み農業をしている数百万人の頭上で。

それでも干ばつ説を疑う人たち

もちろん反論がある。むしろ反論があるから面白い。

代表格はデイヴィッド・ウェブスター。二〇〇二年の著書『古代マヤの崩壊』などで、干ばつ単独説を強く批判した。彼の疑問は素朴で強い。

乾いたなら、なぜ水のあるところへ移らなかったのか。ウスマシンタ川もパシオン川も涸れていない。大河のほとりの都市も同じ時期に潰れている。それに、古気候の証拠の多くはユカタン北部から出ているが、崩壊が最も激しかったのは南部低地だ。地域が食い違っている。

この批判はかなり有効だった。ただし近年、南部低地からも同期した乾燥の証拠が出てきて、地理的な食い違いは埋まりつつある。

もうひとつの強い反論が、地理的なちぐはぐさだ。南部が崩壊しているのと同じ時期に、北部のチチェン・イツァ、ウシュマル、コバは繁栄している。ウシュマルのプウク様式建築はまさにこの時期の作だ。干ばつが半島全体を襲ったなら、なぜ北部が栄えるのか。北部は石灰岩の地下水位が浅く、セノーテで水が取れたからだ、という説明はある。だが北部の方が本来は乾燥地帯なのだから、話が逆さまに見える瞬間がある。

そして最も根本的な批判。干ばつが起きたことと、干ばつが原因であることは、別の命題だ。相関は因果ではない。

九世紀に干ばつがあったのは、もう疑いようがない。だが同じ地域は歴史上何度も干ばつを経験している。なぜこの回だけ致命傷になったのか。そこを説明しないと、証明にはならない。

戦争が「様式」から「殲滅」に変わった

戦争激化説を見よう。

トンプソン時代の「平和なマヤ」像が崩れて以降、碑文からは戦争の記録がぼろぼろ出てきた。ただし長らく、マヤの戦争は貴族間の儀礼的なもので、捕虜を取るのが目的の様式化された戦闘だと考えられていた。都市を焼き払って住民を皆殺しにするような総力戦は、崩壊直前の八〇〇年以降に限られる、と。

これを揺さぶったのが、二〇一九年のウィツナ遺跡の研究だ。

米国地質調査所のデイヴィッド・ウォールらが、ウィツナのすぐ近くのエク・ナアブ湖から堆積物コアを取った。すると西暦七〇〇年前後の層に、異常に厚い炭の堆積があった。大規模な火災の痕だ。そしてその直後、人間活動の指標が急落する。ほぼ完全な放棄。

一方、碑文側で分かっていたことがある。ウィツナの古代名はバフラム・ホルといい、ライバル都市ナランホの記念碑に、六九七年五月二十一日にバフラム・ホルが「プルーイ」――焼かれた――と記録されていた。発掘すると、ウィツナの主要建造物は全て焼けており、記念碑は意図的に破壊されていた。

つまり「プルーイ」は儀礼的な焼却ではなく、都市の完全破壊を意味しうる。しかもそれは崩壊の百年以上前、マヤ最盛期のど真ん中で起きていた。総力戦は末期現象ではなく、常態だったかもしれない。

戦争説の最強の物証群は、やはりペテシュバトゥン地方だ。防壁、破砕された王座、焼けた宮殿、貯水槽の三十一体。デマレストの隊はこの地域で「軍拡競争が社会を食い潰した」というモデルを立てた。都市が防衛に資源を吸われ、農地が防壁の外に残されて耕せなくなり、交易路が寸断され、人が逃げる。逃げた先でまた人口圧が高まる。連鎖破綻だ。

ただし戦争説にも決定的な弱点がある。人類史上、戦争で首都が滅んだ例は無数にあるが、地域まるごとが数世紀にわたって無人化した例はほとんどない。戦争は普通、勝者を生む。勝者はそこに住む。マヤの南部低地には、勝者すらいなかった。

木を切りすぎた、という話

環境破壊説の原型は古い。一九二一年、アメリカ農務省の植物学者オレイター・F・クックが、焼畑農業による土壌枯渇でマヤは自滅したと論じた。これが一世紀にわたって教科書に載り続けた。

近年の花粉分析と土壌堆積の研究は、少なくとも森林破壊の事実を裏付けている。ペテン低地の湖底コアからは、古典期を通じて森林の花粉が減り、トウモロコシと雑草の花粉が増え、そして「マヤ粘土」と呼ばれる大量の土砂流入層が積もる。表土が流れ出している。斜面の木を切ると雨が土を洗い流す。単純な話だ。

石灰の生産も効いた可能性がある。マヤの都市は表面を漆喰で真っ白に塗る。あのピラミッドは灰色の石ではなく、当時は白と赤に輝いていた。漆喰を作るには石灰岩を焼く。焼くには薪がいる。ある試算では、漆喰一立方メートルのために相当量の樹木が必要になる。神殿を建てるたびに、森が減る。

さらにティカルでは、二〇二〇年にデイヴィッド・レンツらが貯水池の堆積物を分析して、水銀と有毒なシアノバクテリアの痕跡を検出したと報告している。水銀は辰砂の顔料由来と見られる。王宮に隣接する貯水池、つまり支配層が飲む水が汚染されていた可能性がある。都市が自分の水源を毒していたという話だ。

環境破壊説を一般に広めたのは、ジャレド・ダイアモンドの二〇〇五年の著書『文明崩壊』だろう。彼はマヤをイースター島やグリーンランドのノルド人入植地と並べ、環境収容力を超えた社会が自壊するモデルの一例として扱った。

だがマヤ研究者からの評判は、正直よくない。

批判の中心は、ダイアモンドが提示するマヤ像が単純化されすぎているという点だ。実際のマヤは原始的な焼畑農民ではなかった。運河、段々畑、水位を上げた盛土耕地、湿地の干拓、精緻な貯水システム。ライダー調査が明らかにしたのは、彼らが景観を工学的に作り変えていたという事実だ。環境を破壊したというより、極度に高度な人工環境を維持していて、そのメンテナンスが不可能になった、という言い方の方が近い。

交易路が動いた、という地味だが強い説

派手さはないが、無視できない説がある。交易ルートの構造変化だ。

古典期の低地マヤの物流は、基本的に川と陸路だった。高地グアテマラの黒曜石と翡翠が、パシオン川やウスマシンタ川を下って低地の都市へ流れる。だからこの川筋の要衝、カンクエンやセイバルのような都市が富んだ。

ところが終末期古典期になると、ユカタン半島をぐるりと回る海上交易が台頭する。大型のカヌーで塩、綿布、蜂蜜、奴隷、黒曜石を運ぶ環半島ルートだ。北部沿岸のイスラ・セリートスのような港湾遺跡がこの時期に栄える。そしてこのルートを押さえたのがチチェン・イツァだった。

内陸の物流拠点として存在していた都市は、この構造転換で存在理由を失う。川の関所で食っていた国が、船が海を通るようになった瞬間に無価値になる。カンクエンの虐殺が起きたのも、まさにこの転換期だ。

さらに古い議論として、テオティワカンの衰退との関連もよく持ち出される。中央メキシコの巨大都市テオティワカンは、かつて七〇〇年から七五〇年ごろに崩壊したとされ、その影響でマヤの交易網が破綻したと論じられた。だが年代が改訂されて、テオティワカンの崩壊は六〇〇年から六五〇年ごろとなった。これだとマヤ崩壊の百五十年以上前だ。むしろ六世紀のマヤの「空白期」、ハイエイタスに対応する。この説は、少なくとも直接の引き金としては弱くなっている。

病気で死んだのか

疫病説は一九六〇年代から七〇年代に提唱された。フレデリック・ダンが一九六八年に、デミトリ・シムキンが一九七三年に、熱帯雨林環境の寄生虫と感染症がマヤ社会を蝕んだ可能性を論じている。候補として挙がったのは、シャーガス病、回虫、赤痢を含む腸管病原体、黄熱病などだ。

理屈としては筋が通る。密集した都市、汚染された貯水池、栄養不良の子ども。ここに慢性的な下痢性疾患が入れば、乳幼児死亡率が跳ね上がり、生き延びた子どもも発育不全になる。コパンの人骨に見られる栄養状態の悪化は、この筋書きと矛盾しない。

ただし疫病説には物証の壁がある。ウイルスも細菌も骨に痕跡を残しにくい。結核や梅毒のように骨を変形させる病気なら分かるが、下痢で死んだ人間の骨は「痩せている」以上のことを語らない。古代DNA解析がこの分野を突破する可能性はあるが、熱帯の高温多湿はDNAの保存に最悪の条件だ。現状、疫病説は「あり得るし、たぶん寄与したが、単独では証明できない」というポジションに置かれている。

なお、コロンブス以降の天然痘や麻疹のようなユーラシア由来のパンデミックとは無関係だ。あれは八百年後の話で、混同されがちだが全く別の事件である。

社会が複雑になりすぎて自重で潰れた説

理論屋の説も紹介しておく。

ジョセフ・テインターが一九八八年に出した『複雑社会の崩壊』は、崩壊研究の古典だ。彼の主張は、社会は問題を解決するために複雑さを増していくが、複雑さへの投資は必ず収穫逓減に陥る、というもの。官僚を増やせば行政効率は上がるが、増やし続けると増分の効果はどんどん小さくなり、やがて維持コストが便益を上回る。そのとき社会は、複雑さを維持するより手放した方が合理的になる。

テインターはマヤを主要事例のひとつに挙げた。競合する多数の都市国家が、互いに軍事と儀礼と建築で張り合い、支配層が肥大し、農民への負荷が上がり続ける。神殿を建てても、王が捕虜を捧げても、雨は前より降らない。そのとき民衆にとって、王を養う意味が消える。

ここで思い出してほしいのが、マヤの王権の正統性の根拠だ。マヤの王は「宇宙の秩序を維持する存在」だった。放血し、祖先を呼び、暦を刻み、雨を保証する。それが仕事だ。だから雨が降らないというのは、単なる自然災害ではない。王の失格証明である。

数十年にわたって干ばつが続いたとき、その社会で起きることは想像できる。神殿の階段が、いつしか空しくなる。カウィール神の像が、ただの石になる。ある日、農民たちは供物を持って都に行くのをやめる。誰も宣言しない。ただ、来なくなる。王朝は倒されたのではなく、支持されなくなって蒸発した。

似た趣旨で、心理学者ジュリアン・ジェインズは、宗教と政治権威のシステムが社会経済的複雑さに耐えきれず、伝統的儀礼の力が及ばなくなったのだと論じた。理屈っぽいが、碑文が減っていくパターンとはよく合う。

全部が同時に起きた、というのが今の主流

実のところ、現代のマヤ考古学の主流意見は「単一原因説はどれも無理」だ。

いま一般的に語られるシナリオはこうなる。

七世紀から八世紀にかけての多雨期に、人口と都市が異常に膨張した。ライダーの推計では、後期古典期のマヤ低地に七百万から一千百万人が住んでいた可能性がある。これは相当な高密度だ。この人口を支えるために、森は削られ、斜面は段々畑にされ、湿地は干拓され、システムは限界近くまでチューニングされていた。緩衝材がない状態だ。

そこに気候が乾燥に転じる。収量が落ちる。落ちた分を、王は戦争と征服で埋めようとする。軍事費が上がる。防壁が要る。農地が防衛線の外に取り残される。交易路が戦乱で不安定になる。同時に海上ルートへの構造転換が進み、内陸都市の稼ぎが減る。栄養状態が悪化し、疫病が入りやすくなる。子どもが死ぬ。労働力が減る。灌漑と段々畑の維持ができなくなる。収量がさらに落ちる。

そして人が逃げ始める。ここが決定的だ。

逃げた先の都市はさらに人口圧が上がるか、あるいは受け入れを拒否して戦争になる。逃げるという選択が伝染する。一度「ここは終わりだ」という認識が共有されると、都市は雪崩を打って空になる。人が減れば、大規模水利施設は維持できない。維持できなければ、残ろうとした人も残れない。

複合要因説の何が優れているかというと、「なぜ今回だけ致命傷になったのか」に答えられる点だ。マヤは以前にも干ばつを経験している。前古典期末にはエル・ミラドールが放棄されているし、六世紀にはハイエイタスもあった。だがそのときは回復した。九世紀に回復しなかったのは、その時点で社会が回復力を全部使い切っていたからだ、と説明できる。

そして宇宙人が出てくる

ここからオカルト側の話だ。真面目な考古学の話をさんざんした後で申し訳ないが、この題材にはこれがついて回る。

一九六八年、エーリッヒ・フォン・デニケンが『未来の記憶』、邦題では『神々の戦車』とも呼ばれる本を出した。世界中で数千万部売れている。彼の主張は単純で、古代文明の遺跡には当時の技術では作れないものがあり、それは宇宙人が来ていた証拠だ、というものだ。

そこで槍玉に挙がったのがパレンケのパカル大王の石棺蓋だ。

デニケンはこれを「ロケットを操縦する宇宙飛行士」と読んだ。前傾姿勢で座り、手で操作盤らしきものを触り、足でペダルを踏み、鼻に呼吸装置があり、後方に噴射炎が出ている、と。図版を九十度回すと、確かに横向きのロケットに見えなくもない。

碑文が読めるようになった今、この図像の意味はほぼ確定している。

パカルは死んで、地下世界の入口である「大地の顎」に落下していく途中だ。彼の体の下にあるのは口を開けた冥界の怪物で、噴射炎に見えるのはその歯と骨のモチーフ。上に伸びているのはロケットの機体ではなく、世界樹、ワカフ・チャンである。樹のてっぺんにはケツァールの姿をした鳥の神が止まっている。「呼吸装置」は死者の鼻に置かれる翡翠の玉。四隅には方位を示す記号が配され、周囲には彼の祖先の名が刻まれている。

要するに、これはマヤの宇宙観をこれ以上ないほど正確に図解した、極めて典型的な死者昇天図だ。

面白いのは、デニケンがこの図を見たとき、まだ碑文がほとんど読めていなかったことだ。当時「意味不明の異様な図像」だったものが、今は一行ずつ翻訳できる。文字が読めるようになるというのは、そういうことだ。

宇宙人説がマヤに食いつく理由もはっきりしている。天文学の精度、ゼロの概念、金星の会合周期を千年単位で誤差なく追う能力。石器しか持たない人々がそれをやったという事実が、一部の人には受け入れがたい。だから外部からの介入を持ち出す。

この発想の構造は、十九世紀にコパンを見た白人がエジプト人説やアトランティス説を持ち出したのと、寸分違わない。相手を尊敬しているつもりで、能力を否定している。この点はきちんと指摘しておきたい。

二〇一二年に世界は終わらなかった

もうひとつのオカルト転用が、あの二〇一二年騒動だ。

種を蒔いたのは、意外なことに一流のマヤ学者だった。マイケル・コウが一九六六年の名著『マヤ』の中で、第十三バクトゥンの終わりについて「ハルマゲドンが世界の堕落した民を襲う」といった趣旨のことを書いた。彼は後にこの表現を修正しているが、この一文が一人歩きする。

一九七五年、フランク・ウォーターズが『メキシコ・ミスティーク』でこの日付をホピの予言や占星術と結びつけた。一九八七年、ホセ・アルゲイエスが「ハーモニック・コンバージェンス」というイベントを企画し、著書『マヤン・ファクター』で二〇一二年十二月二十一日という具体的な日付を大衆に刻み込む。彼はマヤの暦が「銀河同期ビーム」に合わせて設計されていると主張した。マヤの碑文にそんな概念は影も形もない。

ここに惑星ニビル衝突説、銀河面通過説、地磁気逆転説、太陽フレア説が合流する。さらにノストラダムスの四行詩を組み合わせて「複数の予言が同じ年を指している」という体裁が作られた。ノストラダムスの詩には年が特定できるものがほとんどないので、これは単に後付けで日付を割り当てているだけなのだが、テレビ番組はこの組み合わせが大好きだった。

肝心の古代マヤ側の証拠はどうか。第十三バクトゥンの終わりに言及した古典期の碑文は、確認されているだけで二例しかない。

ひとつはメキシコ・タバスコ州のトルトゥゲーロ第六号記念碑。ここに、その日にボロン・ヨクテ・クフという神が「降臨する」あるいは「現れる」といった趣旨の文がある。ただしこの部分は石が欠けていて、末尾が読めない。何が起きるとは書かれていない。

もうひとつは二〇一二年にグアテマラのラ・コロナで見つかった象形文字階段第十二段。ここでは七世紀のカラクムル王の訪問を記念して、彼の治世が未来の第十三バクトゥンまで続くという壮大な言い回しが使われている。要するに王への社交辞令だ。終末の予言はどこにもない。

そもそもマヤの暦は十三バクトゥンで終わらない。マヤ人自身がもっと大きな単位を計算しており、コバの石碑一号には、現在の宇宙の始まりを二十四桁以上の巨大数で記述した碑文がある。数字にすると十の二十八乗年オーダーだ。宇宙の推定年齢の何十億倍もの時間を平然と扱っている。この人たちが千年ちょっと先で暦が尽きると思っていたはずがない。

マーク・ヴァン・ストーンは、マヤにもアステカにも古代メソアメリカのどの予言にも、二〇一二年に突然の変化が来るという記述はないと断言している。スーザン・ミルブラスも、彼らが世界の終わりを考えていたという記録も知識も我々は一切持っていない、と述べた。

そして当のマヤ系住民の反応がいい。

グアテマラのマヤ系のアフキフ、暦の守り手たちは、この騒動にかなり苛立っていた。彼らにとって暦は今も使っている生活の道具であって、終末装置ではない。終わるのはバクトゥンであって世界ではない。我々の暦を勝手に持っていって、勝手に終わらせないでくれ。そういう趣旨の抗議が現地で出た。オシュラフフ・バカトゥンの区切りに合わせて、グアテマラやメキシコの各地で儀式が行われたが、それは終末の儀式ではなく、新しいサイクルの開始を祝うものだった。

二〇一二年十二月二十一日、世界は終わらなかった。翌日、マヤ系の人々はいつも通り畑に出た。

「崩壊なんてしていない」という、いちばん強い反論

さて、ここまで「崩壊」と書いてきたが、この言葉自体に強い異議が出ている。しかもかなり早くから。

E・ウィリス・アンドリュース四世は一九七〇年代に、崩壊論について、私の考えではそんなことは起きていない、と書いた。北部ユカタンを掘っていた彼にとって、九世紀は繁栄の時代だったからだ。

事実関係を整理しよう。

南部低地の都市が空になったのと同時期、北部ではウシュマル、カバー、サイル、ラブナーといったプウク様式の都市が最盛期を迎える。チチェン・イツァはこの後、十世紀から十一世紀に半島最大の勢力になる。さらにその後、マヤパンが十三世紀から十五世紀にかけて連合の中心となる。高地グアテマラではキチェ王国とカクチケル王国が力を持つ。

スペイン人が来たとき、マヤは普通に存在していた。しかも激しく抵抗した。ユカタンの征服には二十年近くかかっている。

ペテンのイツァ王国の首都ノフペテンが陥落したのは、なんと一六九七年三月十三日だ。マルティン・デ・ウルスーアの遠征軍が湖を渡って攻め落とした。北米でイギリス人がボストンに街を作り、日本では元禄時代で赤穂事件の五年前という時期に、マヤの独立王国はまだ戦っていた。

さらに十九世紀、一八四七年にはカースト戦争が起きる。ユカタンのマヤ系住民が武装蜂起し、半島の大半を制圧し、独立地域を作った。この戦争は形式的には一九〇一年、実質的には一九三〇年代まで続く。滅んだ民族がやることではない。

そして二〇二四年十二月の『考古人類学ジャーナル』掲載の研究は、干ばつと戦乱を経ても、マヤ地域全体の人口はおおむね安定していて、変わったのは分布だったと論じた。石造建築が作られなくなっただけで、朽ちる材料で作られた農村家屋の集落は広範囲に広がっていた、と。

ユカタンのマヤ語話者であるフィデンシオ・ブリセーニョ・チェルは、この点について強い言葉を残している。マヤは石だけではない、と。文明を石造記念物だけで測る見方は、そこに生きている人々を忘却へ、そしてなにより侮蔑と差別へ追いやることになる、と。

これは重い指摘だ。「マヤは消えた」という物語が心地よく響く理由のひとつは、それが現存する人々を風景から消してくれるからでもある。ミステリーとして消費している対象の子孫が、今日もその土地で暮らしている。

現在の数字を挙げておく。グアテマラに約七百十四万人。メキシコに約三百八十万人。アメリカ合衆国に五十万人前後。ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルにも数万人。合計で一千百万人を超える。マヤ諸語は約三十言語が現役で、キチェ語で百六十八万人、ユカテコ語で百六十五万人、ケクチ語で百三十七万人、カクチケル語で百七万人、マム語で八十六万人が話す。

そして二百六十日暦――ツォルキン、キチェ語でチョルキフ――は、今も使われている。グアテマラ高地のアフキフたちは、二百六十日のサイクルで日を数え、命名し、儀式を行う。長期暦は使われなくなったが、二百六十日暦は千八百年以上、一日も欠けずに回り続けている可能性がある。人類が使っている暦システムとして、これは驚異的な連続性だ。

石碑は九〇九年に止まった。暦は止まっていない。

レーザーが見せてしまった本当のスケール

近年、この分野で最も景色を変えたのがライダー、レーザー航空測量だ。

飛行機からレーザーパルスを毎秒何十万発も撃ち、跳ね返る時間を測る。木の葉に当たって返るものと、地面まで届いて返るものを選り分けると、樹冠を透かして地表の形だけを抽出できる。密林のマヤ考古学にとって、これは天啓に近かった。百年かけて藪をかき分けて測量していた作業が、飛行機一回で終わる。

二〇一八年、グアテマラの財団パクナムが主導し、マルセロ・カヌートとフランシスコ・エストラーダ・ベリらが『サイエンス』に発表した調査は、衝撃だった。ペテンのマヤ生物圏保護区、約二千百四十平方キロメートルを走査している。

見つかった構造物、六万一千四百八十基。

住居、宮殿、儀礼施設、ピラミッド。それだけではない。都市間を結ぶ土手道、サクベが総面積百六平方キロメートル分。改変された農地が三百六十二平方キロメートル分。段々畑、灌漑水路、貯水池、そして大規模な防御土塁。エストラーダ・ベリは、段々畑と灌漑水路、貯水池、要塞、土手道が、驚くべき量の土地改変を示していると述べた。

この密度から逆算すると、後期古典期、六五〇年から八〇〇年のマヤ低地には七百万から一千百万人が暮らしていた計算になる。従来の推計の数倍だ。しかも防御施設が想定よりはるかに多く、広範囲に見つかった。マヤの戦争は局地的な貴族の小競り合いではなく、社会全体が備えを固めるレベルのものだったことになる。

このデータは崩壊論に二つの意味で効く。

ひとつ、消えた人口の規模が桁違いに大きくなった。数百万人が数世代で低地から消えたという話になる。ふたつ、社会が景観そのものを工学的に維持していたことがはっきりした。つまり、維持する人手が減った瞬間に、システム全体が使えなくなる構造だった。

段々畑は放置すれば崩れる。貯水池は浚渫しなければ埋まる。水路は詰まる。人口減少と生産基盤の劣化は、互いを加速させる。ライダーが見せたのは、マヤ低地が「自然」ではなく巨大な人工装置だったという事実であり、装置は運転手がいなくなれば止まる。

密林で石の顔を見た男

ここからは、この事件を目撃した三人の証言を並べたい。

まずスティーヴンズの記述に戻る。

彼らがコパンで最初に見つけたものは、川岸の石垣だった。切石が精密に積まれ、明らかに人工物だった。藪を分けて中に入ると、木の根に締め上げられた石柱が立っていた。高さ四メートル近い一枚岩に、正面には人間の顔と豪奢な装身具、側面と背面には見たこともない記号がびっしり刻まれていた。

スティーヴンズはその場で理解した。これは野蛮人の作ではない、と。彼はこの遺跡の印象を、静謐で荘厳、意匠は奇異、彫刻は優れ、装飾に富む、と書いた。そしてもう一点、髑髏の意匠が異様に多いことにも気づいている。彼はこの都市を、名も知れぬ民のメッカ、あるいはエルサレムだろうと推測した。宗教都市だと感じたのだ。

彼を最も打ったのは、答えが得られないことだった。エジプトなら象形文字を刻んだ民の名は分かる。ローマの遺跡なら誰が建てたか分かる。ここには何もない。誰が作ったのか、いつなのか、なぜ去ったのか。地元の人に聞いても分からない。文献もない。二人は石垣の縁に座り、周囲を取り巻く謎を解こうとして、ただ無駄だった。彼はそう書いている。

そして周囲の樹上では猿が動いていた。スティーヴンズは、猿たちが厳粛な様子で、まるで聖別された土地の守衛を務めているかのようだった、と記している。この一文が個人的にはいちばん好きだ。千年間、この都市の唯一の住人は猿だった。

壁画へ案内したラカンドンの人々

一九四六年、写真家で探検家のジャイルズ・ヒーリーが、チアパスの奥地でボナンパクの壁画を目にした。彼はしばしば「発見者」と呼ばれるが、これは正確ではない。

彼をそこへ連れて行ったのは、ラカンドン・マヤの人々だった。ラカンドンはスペイン支配を逃れて森の奥に入った人々の末裔で、二十世紀半ばまで独自の宗教を保っていた。そして彼らは、その古代の神殿に通い続けていた。祈るために。香を焚くために。土器の香炉を置きに。

つまり、あの壁画は千年間「忘れられて」いなかった。外の世界が知らなかっただけだ。誰が描いたかも分からなくなった祖先の絵の前で、彼らは何世代も祈っていた。

ヒーリーが最初に見たとき、壁画は炭酸カルシウムの膜に覆われていた。湿気で天井から滴った水が石灰分を残し、絵の上に薄い膜を作っていた。皮肉なことに、この膜が千二百年間、絵を守っていた。初期の調査者は膜を溶かすために灯油を塗ったりして、かなり手荒に扱ってしまったが。

一九九六年以降、メアリー・ミラーが率いたボナンパク記録計画は、赤外線撮影を使って、肉眼では見えなくなった部分を復元した。消えたと思われていたグリフが浮かび上がり、人物の名前が特定され、日付が読めるようになる。そして分かったのは、この壁画が客観的な記録ではなく、政治的なプロパガンダだということだった。継承の正統性を主張するために描かれた絵だ。

主張は届かなかった。壁画が完成する前に、そこに描かれた王朝は消えた。

貯水槽を掘った考古学者

アーサー・デマレストは、マヤ考古学で最も現場に長くいる研究者の一人だ。ペテシュバトゥンで戦争と崩壊の物証を掘り、カンクエンで虐殺現場を掘り当てた。

カンクエンの発掘は、その意味で異様な現場だった。

貯水槽から人骨が出始めたとき、最初は儀礼的な埋葬かと思われた。マヤの貯水槽やセノーテには供物や生贄が投じられることがある。だが数が合わなかった。三十一体。しかも装身具が全て身に着けられたままだ。生贄なら装身具は外して別に納める場合が多い。略奪なら翡翠が残るはずがない。

骨の傷を見ると答えが出た。槍と斧。首と頭部。防御創のある骨もあった。デマレストは、王と王妃と貴族たちは一箇所に集められ、まとめて殺されたようだと語り、多くが首や頭部への刺突を受けていたと報告している。子どもがいた。妊婦が二人いた。

そして周囲には、作りかけの防壁と、放り出された建設資材があった。人々は危険を知っていた。守ろうとしていた。間に合わなかった。

デマレストが繰り返し語ってきたのは、マヤ崩壊は「文明が愚かだったから起きた」のではないという点だ。彼らの政治システムは、王の神聖性という一点に依存していた。それは何百年も驚くほどうまく機能した。だが気候と人口と戦争が同時に来たとき、その一点が折れた。折れたときに代わりになる制度がなかった。彼はこれを「政治システムの脆弱性」と呼んでいる。技術でも知能でもなく、制度設計の問題だ、と。

千二百年後の我々にとって、これはかなり嫌な話である。

掲示板と考察界隈は何を言っているか

ネット上でのマヤ崩壊の扱われ方も面白い。

まず一貫して人気なのが「日本の考古学者が見つけた」系の話題だ。アグアテカの猪俣健の発掘や、セイバルでの日本隊の調査は、日本語圏でよく取り上げられる。特にアグアテカの「マヤのポンペイ」ネタは強い。逃げ出した部屋がそのまま残っているという絵面が分かりやすいからだろう。

次に定番なのが「マヤとアステカとインカを混ぜるな」というツッコミだ。ピラミッドで生贄を捧げていたのはマヤ、心臓を抉っていたのはアステカ、石組みが凄いのはインカ、と大雑把に混同されがちで、そのたびに詳しい人が出てきて訂正する。マヤは単一の帝国ではなく数十の都市国家の集合で、アステカとは千キロ以上離れていて、時代も六百年ずれている、という説明が毎回書き込まれる。

考察界隈で盛り上がりやすいのは「崩壊は起きていない」派と「いや起きた」派の対立だ。前者は北部の繁栄と現代マヤ系住民一千百万人を持ち出す。後者は、南部低地から数百万人が消えたのは事実で、それを崩壊と呼ばずに何と呼ぶのか、と返す。この論争、実は用語の定義問題に近い。政治システムと都市が崩壊したのは事実で、民族と文化は継続したのも事実。両方正しい。

海外の議論では、ジャレド・ダイアモンド批判が定番のスポーツになっている。専門家筋は『文明崩壊』のマヤ章に対して、環境決定論的すぎる、マヤの農業技術を過小評価している、崩壊後の継続を無視している、と手厳しい。一方で、一般読者にこの問題を知らせた功績はある、という擁護も出る。

干ばつ説の扱いも興味深い。二〇一八年のエヴァンズらの数値が出て以来、一般向けメディアでは「原因は干ばつと確定」というトーンの記事が増えた。だが専門家はそこまで言い切っていない。干ばつが起きたことは確定した、それが原因のどれくらいを占めるかは別の議論だ、というのが正確な現状だ。ここのズレが、ネット上での「もう答え出てるだろ」と「いやまだ分かってない」の噛み合わなさを生んでいる。

オカルト側の反応も書いておくと、宇宙人説は往年ほどの勢いはない。碑文が読めてしまったからだ。代わりに人気があるのが「実は高度な文明で、失われた技術があった」系と、「未発見の地下都市がある」系。後者はライダー調査が新しい遺跡を出すたびに再燃する。実際に新しい都市は毎年見つかっているので、この期待は完全な妄想でもないところが厄介で楽しい。

なぜ「文明が消えた」話はこんなに刺さるのか

この物語がなぜここまで人を掴むのかを考えたい。

理由のひとつは、証拠の形式が異常に文学的だからだ。彫りかけの祭壇。塗り残された壁画。床に落ちたままの翡翠。宮殿を崩して作った壁。放り出された建設資材。これらは全部、「途中で止まった」という一点で繋がっている。人間は完結した悲劇より、中断された日常に弱い。

もうひとつは、規模と静けさのギャップだ。数百万人が住んでいた。それが消えた。だが誰も叫び声を残していない。碑文には「危機」も「終末」も書かれていない。王たちは最後まで、いつも通りの定型句で自分の偉大さを刻んでいる。破局を語る文書がないまま、破局が起きている。この沈黙が怖い。

三つ目は、我々自身への当てはめだ。マヤは石器文明だが、無知でも野蛮でもなかった。天文学は精密で、数学はゼロを持ち、都市計画は工学的で、農業は高度に集約化されていた。要するに、当時としては先進国だ。その先進国が、気候の変動と、人口の膨張と、資源の争奪と、制度の硬直で潰れた。

このリストを見て嫌な気持ちにならない現代人は少ないと思う。マヤ崩壊が人気コンテンツである理由の何割かは、たぶん恐怖だ。我々の社会も、緩衝材を削り、効率を上げ、システムを限界まで最適化している。マヤは、最適化された社会が想定外の一撃をどう受けるかの、千二百年前の実験結果だ。

そして最後に、これがミステリーとして「解けそうで解けない」絶妙な位置にあること。証拠は毎年増えている。湖底のコアも、洞窟の石筍も、レーザー測量も、古代DNAも。だが増えるほど、単純な答えから遠ざかる。かつては「焼畑で土が痩せた」で済んでいた話が、今は気候と戦争と交易と疫病と制度が絡み合う多層モデルになっている。答えが近づくのではなく、問いが精密になっていく。

こういう謎がいちばん長持ちする。

ここからは総括として、もう少し踏み込んだ話をいくつか置いておく。本編で流した論点のうち、掘るとさらに面白くなるものを拾っていく。

「都市が空になる」の物理的な意味

まず、崩壊を人口動態として冷静に見てみる。

ライダーの推計を採るなら、後期古典期のマヤ低地には七百万から一千百万人がいた。仮に八百万人とする。これが二世紀のあいだに、南部低地からほぼ消える。

消え方には三つしかない。死ぬか、生まれなくなるか、出ていくかだ。

大量死だけで説明しようとすると無理が出る。八百万人分の遺体がどこにあるのか、という問題になるからだ。カンクエンやアグアテカのような虐殺・破壊の跡は確かにある。だがそれは数十人から数百人規模だ。マヤ低地の遺跡から、飢餓や疫病による大量死を示す集団埋葬が体系的に出てきているわけではない。もし人口の九割が餓死したなら、痕跡はもっと露骨に出るはずだ。

出生率の低下は、実は極めて強力に効く。合計特殊出生率がわずかに人口置換水準を下回るだけで、指数関数的に人口は減る。一世代あたり三割減るとすれば、六世代で一割を切る。二百年あればお釣りが来る。栄養不良、乳幼児死亡、婚姻構造の破綻、若年層の流出。これらが重なれば、誰も虐殺しなくても地域人口は蒸発する。

そして移住。北部ユカタンの人口が同時期に増えていること、プウク地域の集落が急拡大していること、チチェン・イツァが台頭することは、この方向の受け皿を示唆する。ただし、南部低地から出た人数を全部北部が吸収できたとは考えにくい。北部にそこまでの人口増加の痕跡はない。

だから現実には、この三つが全部同時に、地域ごとに違う配合で起きたのだろう。ある谷では戦争で人が死に、隣の谷では静かに子どもが生まれなくなり、その隣では若者が北へ歩いていった。「崩壊」という一語がカバーしている実態は、たぶん数百通りの別々の物語の集合だ。

王がいなくなることは、なぜ回復不能なのか

もうひとつ考えたいのが、政治的な非可逆性だ。

マヤの王権、アハウ制は、単なる統治機構ではなかった。王は宇宙の中心軸であり、暦の維持者であり、祖先と現世を繋ぐ導管だった。彼が放血し、幻視を見て、祖先の蛇を呼び出すことで、世界は継続する。この「王が世界を維持している」という了解が、貢納と労役の根拠だった。

さて、王が消える。都市が空になる。何十年か経つ。

このとき、王権を再建しようとする者が現れたとしよう。彼は何を根拠に王を名乗るのか。マヤの王位は血統と祖先の系譜に依存する。祖先の墓は放棄された神殿の下にあり、系譜を刻んだ石碑は倒れ、それを読める書記官はもういない。読み書きができる人間は、王宮という制度に紐づいた専門職だったからだ。制度が消えれば、書記も消える。

つまりマヤの崩壊は、「王権を再生産するための情報基盤」ごと失われた事件だった。だから南部低地では、二度と長期暦の石碑が立たない。立てられる人がいない。読める人も。

北部で新しい体制ができたとき、それは古典期の王権とは形が違った。チチェン・イツァには、単独の王を大々的に顕彰する石碑がほとんどない。代わりに、複数の人物が並ぶ場面や、集団的な統治を示唆する図像が出る。マヤパンでは有力家系による評議会統治、ムルテパルが語られる。神聖王が一人で世界を背負う方式は、九世紀の失敗のあと、少なくとも同じ形では復活しなかった。

これは崩壊の副産物としては、かなり大きい。マヤは制度を学習して更新している。滅んだのではなく、モデルチェンジしたのだ、という言い方は誇張ではない。

干ばつ説に残された宿題

現状の干ばつ説には、まだ気持ちの悪い部分がある。整理しておきたい。

第一に、時系列の細かい食い違いだ。都市の放棄は同時ではない。ペテシュバトゥンは七六〇年代から崩れ始め、コパンは八二〇年代、ティカルは八六〇年代まで石碑を立て、トニナは九〇九年まで持った。一方、古気候の記録が示す最悪の干ばつのピークは、地点によって時期がばらける。単一の気候イベントが全都市を同時に殺した、という単純な絵にはならない。むしろ「乾燥傾向という背景条件の中で、各都市が個別の事情で順番に折れていった」という描像が合う。

第二に、水利技術の問題だ。ティカルには巨大な人工貯水池群があり、雨季の水を貯めて乾季をしのぐ設計だった。都市の中央広場は、水を集めて貯水池へ流すために舗装され、傾斜がつけられていた。これは相当な工学だ。だから短期の干ばつには耐性があったはずで、致命傷になるには数十年単位の連続的な乾燥が必要になる。エヴァンズらの数値、降水量四割から五割減は、まさにそのレベルを示している。ここは整合的だ。ただし、それでも「なぜ川沿いの都市まで落ちたのか」への答えは弱い。

考えられるのは、水そのものではなく食料生産と社会秩序の問題だ。ウスマシンタ川の水は飲めても、周囲の畑のトウモロコシは天水頼みだ。川があっても収量は落ちる。そして収量が落ちた内陸から難民が流入し、川沿いの都市も社会的に破綻する。水の物理的な有無ではなく、地域システム全体の崩れが伝播する。この見方なら、川沿いの陥落も説明できる。

第三に、そもそも古気候の代理指標が示すのは「地域の平均的な傾向」であって、個々の農民が経験した年ごとの変動ではない。二〇二三年に出た研究では、降水量の絶対量よりも「季節の予測可能性の低下」が効いた可能性が指摘されている。雨季がいつ来るか読めなくなることは、種を蒔く日を決められなくなることを意味する。農業社会にとって、平均雨量が減ることより、予測が外れることの方が致命的でありうる。この視点は比較的新しく、今後伸びそうだ。

「崩壊」という言葉をどう扱うか

近年の研究者は「コラプス」を避けて、「ラプチャー」「トランスフォーメーション」「リオーガニゼーション」といった語を使いたがる。断絶、変容、再編だ。理由は二つある。ひとつは現代マヤ系住民への配慮。もうひとつは、事実として的確でないからだ。

デイヴィッド・スチュアートは、この種の断絶がマヤ史において一度きりの特異点ではないと論じている。前古典期の巨大都市エル・ミラドールは西暦一五〇年ごろに放棄されている。さらに遡れば、紀元前一〇〇〇年ごろのアグアダ・フェニックスのような初期の巨大儀礼施設も、使われなくなって放棄されている。マヤ史は、巨大な中心地が建設され、機能し、放棄され、別の場所に新しい中心地ができる、という周期の繰り返しでもある。

この視点に立つと、九世紀の出来事は「マヤ史上最大の断絶」ではあっても、「マヤ史の終わり」ではない。周期のひとつだ。その次の周期をスペイン人の到来が中断した、という整理になる。

とはいえ、である。用語を穏当にすることで見えなくなるものもある。ティカルの宮殿で焚き火をしていた人々、ドス・ピラスの祖先の神殿を崩して壁にした人々、カンクエンの貯水槽に沈められた妊婦。彼らにとって、それは「再編」ではなかった。「変容」でもなかった。彼らの世界は終わった。

学術用語の慎重さと、その場にいた人間の経験は、別のレイヤーの話だ。両方を持っておきたい。片方だけだと、話が薄くなる。

我々が本当に知らないこと

最後に、正直に「分かっていないこと」を並べておく。ここが一番大事な気がする。

なぜ、放棄された都市に誰も戻らなかったのか。土地は残っていた。森は回復した。土壌は数百年で肥えるはずだ。だがティカルの周辺は、スペイン人が来るまで人口が戻らなかった。避けられていたようにすら見える。忌避された土地になったのだろうか。碑文はもう書かれていないので、彼らの理由は分からない。

なぜ、書くことをやめたのか。長期暦を刻まなくなったのは、王がいなくなったからだと説明できる。だが北部や後古典期にも書記はいて、絵文書は作られ続けた。にもかかわらず、石に長期暦を刻む慣行は復活しない。書く技術ではなく、書く「意味」が失われたのだ。何がその意味を殺したのか、まだ誰も納得のいく説明をしていない。

そして、最後の人々は何を考えていたのか。ティカルの中央広場の掘立小屋に住んでいた誰かは、周囲にそびえる六十メートルのピラミッドを毎日見上げていた。彼はそれが何だか知っていただろうか。祖先が建てたと知っていたのか。それとも、巨人か神の遺物だと思っていたのか。彼にとってあの都市は、故郷だったのか、廃墟だったのか。

答えはない。石は日付を刻むのをやめたので、そこから先の時間は数えられていない。

だが、これだけは書いておく。あの広場で暮らした誰かの子孫は、たぶん今もグアテマラかメキシコかベリーズにいる。トウモロコシを植え、二百六十日の暦で日を数え、市場で値段を交渉し、スマートフォンでマヤ語のメッセージを打っている。文明が消えたという話が好きな我々は、しばしばその部分を忘れる。

都市は捨てられた。ジャングルは戻ってきた。石碑は九〇九年一月十五日で止まった。

人は、止まっていない。

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