慶応二年十二月二十五日。西暦に直せば1867年1月30日。この日の夜、京都御所の奥で一人の男が息を引き取った。第百二十一代・孝明天皇、数えで三十六歳。若い。若すぎる。そして死んだタイミングが、悪魔的なまでに良かった。
幕府を守り続けた天皇が消えた。その一年後に幕府は消えた。この二つの出来事のあいだに線を引きたくなる気持ちを、百五十年以上、誰も抑えられずにいる。それがこの話だ。
## その夜、御所の廊下を走った者たちがいた
十二月二十五日の午前中まで、御所の空気は明るかった。というより、安堵していた。天皇の痘瘡は峠を越えたことになっていたからだ。前日の二十四日には、そばに侍っていた者が「御元気が出たことにはっきりと気づいた」と書き残している。粥を召し上がる量が増えた。声にも張りが戻った。表の役所に「御回復」と申し上げてもいいくらいだ、という空気だった。二十五日の朝の段階でも、その判断は変わっていない。
それが、午後になって崩れる。おおよそ午後四時ごろ、容態が急変した。激しい嘔吐と下痢。全身の痙攣。脈が細くなり、手足が冷えていく。顔から色が引き、代わりに紫色の斑が浮き上がってきた。ここからの数時間の記録は、読んでいて正直きつい。天皇は苦しみ、のたうち、周囲の者が押さえつけるようにして支えた。侍医たちが煎じ薬を用意し、灸を据え、できることを片端からやったが、下がった脈は戻らない。
午後十時過ぎ、絶命。発病から数えて十三日目。ただし前日まで「順症」と報告されていた病人が、たった六時間ほどで死んだ。御所の中を、白い息を吐きながら人が走った。使いが公家の屋敷へ飛び、灯が次々に点いていく。その夜のうちに、京都の一部にはもう妙な噂が回りはじめていたと言われる。「あれはおかしい」と。
ちなみに公式の発表は、死んだ当日ではない。慶応三年に入った一月九日(新暦二月三日)まで伏せられた。天皇の死が公にされるまで一週間以上の空白がある。この空白そのものが、後の世で「何か細工をする時間だったのでは」と疑われることになる。
## 十三日間、日ごとに何が書かれていたか
時系列を追うと、この事件の不気味さがよく分かる。
十二月十一日ごろ、天皇は風邪気味だった。それでも神事に出ている。翌十二日に発熱。ここが実質的な発症日だ。十五日には持病の痔疾が悪化したという記述がある。十六日、体に発疹が出る。そして十七日、侍医団は病名を確定した。痘瘡――天然痘である。
当時の痘瘡は、決して珍しい病気ではない。致死率は高いが、逆に言えば助かる者も大勢いた。侍医団は「御順症」と繰り返し報告している。順症とは、教科書どおりの順調な経過という意味だ。発疹が出て、化膿して、かさぶたになって、落ちる。その順路をきちんと辿っている、という報告が二十日ごろまで続く。
二十一日、診断は「軽症」。二十三日には食欲が戻り、ほぼ普通の食事が摂れるまでになった。周囲の記録も明るい。中山忠能――明治天皇の外祖父にあたる公家だ――は、そもそも天皇について「近年御風邪など一向に御用心も遊ばされず御壮健」と書いている。つまり、日ごろから丈夫な人だという認識だった。
そこから二十四日夜の急変、二十五日夜の死。この落差が異常なんだよな。
ただし、ここに反論がある。後で詳しく書くが、病死説を唱えた研究者たちは「十八日の夜の時点ですでに発疹が紫色に変わっていた」という記述を重視する。紫斑性痘瘡、出血性痘瘡と呼ばれる劇症型の痘瘡が始まっていたのに、公式の御容態書は政治的配慮からそれを書かなかった、という読み方だ。天皇の重体を公表すれば、京都の政局がどう転ぶか分からない時期だった。だから「順症」と書き続けた。そう考えれば、急変は急変ではなく、隠されていた悪化がついに表面化しただけ、ということになる。
## 「御九穴より御脱血」――この五文字が全部を狂わせた
毒殺説の心臓部に、ひとつの言葉がある。
中山忠能の日記に出てくる「御九穴より御脱血」という記述だ。九穴というのは、体にある九つの穴のこと。目、耳、鼻、口、そして下の二つ。そこから血が流れ出た、と書いてある。
この五文字が持つ喚起力はすさまじい。天然痘で死ぬときに、全身の穴という穴から出血するのか。素人が読めば、これは明らかに毒だ、と思う。実際そう思った人が、明治以降ずっといた。
さらに侍医・伊良子光順の記録には、最期が「痰がひどく」苦悶のうちだった旨が残る。嘔吐、下痢、痙攣、紫斑、そして全身からの出血。この症状のセットは、砒素中毒の急性症状の教科書的な記述とかなりよく重なる。だから毒殺説は消えない。
ただし――ここが厄介なところで――出血性痘瘡もまた、まさに全身の粘膜から出血する病気なのだ。皮下出血で紫斑が出て、消化管から出血して吐血・下血し、鼻や口からも血が出る。致命率はほぼ百パーセント。発症から二、三日で死ぬ。つまり「御九穴より御脱血」は、砒素の証拠でもあり、劇症型天然痘の証拠でもある。同じ五文字が、正反対の結論を支えてしまう。この構造がある限り、論争は終わらない。
## 侍医の日記が、百年後に開かれた
この話を一気に加熱させたのが、伊良子家に伝わった文書だ。
伊良子光順は、孝明天皇の最期に立ち会った侍医のひとり。その日々の拝診記録が、子孫の手元に残っていた。曾孫にあたる伊良子光孝は、自身も医師だった。彼は1975年から77年にかけて、この拝診日記を医学史の専門誌『医譚』に連載する形で世に出した。
これが決定的だった。それまで毒殺説は「状況がおかしい」という話でしかなかった。しかし侍医の一次記録が出てきたことで、はじめて症状を医学的に検討できるようになった。しかも書いたのは現役の医師である。
伊良子光孝の検討で有名になったのは、投薬のタイミングの問題だ。天皇は一日三回、煎じ薬を服用していた。二十五日の急変が午後四時ごろだとすれば、その数時間前、正午前後の服薬が疑わしいことになる。砒素は無味無臭に近く、当時は「石見銀山鼠取り」の名で殺鼠剤として普通に流通していた。手に入れるのは難しくない。煎じ薬に混ぜれば分からない。ここまで揃うと、話としては完璧なんだよな。
ただし伊良子光孝自身は、意外なほど慎重だった。彼は資料を公開した上で、真実は医師である自分にも判らない、という趣旨のことを述べ、断定を避けている。この態度は誠実だと思う。だが世間はそう読まなかった。「侍医の子孫である医師が毒殺を裏付けた」という要約だけが独り歩きし、以後、あらゆる読み物でそう紹介されることになる。
ついでに言うと、後年、法医学者が末期症状を砒素中毒と判断した、という話も繰り返し引かれる。医学者が言った、という一言の破壊力は、歴史学の論文百本分ある。
## 犯人説の元祖は、京都の医者だった
じゃあ、この「毒殺説」は誰が最初に言い出したのか。ここが面白い。
記録に残る最も古い層は、そもそも当時の噂だ。イギリス外交官のアーネスト・サトウは、孝明天皇の死から数年後、日本人から「天皇陛下は毒殺されたのだ」と聞かされたことを書き残している。理由として語られたのは、天皇が外国人に対していかなる譲歩にも断固反対だった、という点だった。開国を進めたい勢力に消された、という筋書きである。つまり幕末の京都では、事件直後から普通に囁かれていた。
それを「特定の人物が黒幕だ」という形に組み上げたのが、1940年、京都の医史学者・佐伯理一郎だとされる。彼は講演の中で、岩倉具視が妹にあたる女官・堀河紀子を使って毒を盛った、という説を語った。これが後の毒殺説の骨格をほぼ全部つくった。黒幕がいて、後宮に近い女性が実行する。物語として完成度が高すぎる。
ただし、この説には最初から大きな穴がある。堀河紀子は1862年に出家しており、慶応二年の時点で御所にいなかった、という指摘だ。実行犯が現場にいない。にもかかわらず、この説は生き延びた。現場にいなかったと知った上でなお「別の誰かが手を下した」という形で使われ続けている。陰謀論の生命力というのは、こういうところにある。
戦後になると、皇室に関する言論のタガが外れる。歴史学者の禰津正志(ねずまさし)が1954年、はじめて学問的な体裁で暗殺説を論じた。砒素中毒の可能性を推定し、岩倉が首謀、堀河が実行、という佐伯以来の枠組みを学術の土俵に乗せた。ここから、この話は「トンデモ」ではなく「未決着の論点」になった。
## 岩倉具視という名前が呼び出される理由
なぜ岩倉具視なのか。名指しされるのには、それなりの背景がある。
岩倉はこの時期、和宮降嫁に関わったことで尊攘派から憎まれ、洛北の岩倉村に蟄居していた。政治的には死んだ扱いだった。ところが孝明天皇の死後、彼は急速に復権し、王政復古の中心人物として明治維新を設計する側に回る。この落差が目を引く。天皇が死んだことで最も利益を得た人物は誰か、と問えば、名前が挙がってしまうのだ。
もうひとつ、動機の話がある。孝明天皇は徹底した佐幕派だった。攘夷を望みながらも、幕府を潰すことは望んでいない。徳川慶喜を強く信任していた。倒幕を志す側から見れば、この天皇が玉座にいる限り「錦の御旗」は絶対に手に入らない。天皇が佐幕である以上、討幕は逆賊になる。この一点だけで、動機としては十分に見える。
さらに時期の問題がある。慶応二年八月三十日、尊攘派の公家二十二名が朝廷に押しかけて意見を通そうとした、いわゆる廷臣二十二卿列参事件が起きている。孝明天皇はこれを却下し、関係者に処分を下した。幕府支持の姿勢を、これ以上ないほどはっきり示したわけだ。その四か月後に天皇は死んでいる。この並びを見せられて何も感じるな、というほうが無理がある。
ただし――ここは慎重に書く――岩倉具視が下手人だと断定できる史料は、今日まで一点も出ていない。名指しは、あくまで動機と結果からの逆算だ。実行の証拠はない。だから正確には「岩倉黒幕説が根強く語られてきた」であって、それ以上ではない。
そして反論も強力だ。原口清は、慶応二年十二月の段階で岩倉にはまだ倒幕の意思がなかったこと、天皇の死が岩倉の政界復帰に直結していないことを指摘した。復権はもっと後の政治過程の産物であって、天皇の死の直後ではない、という主張である。慶応三年三月の時点でも、宮廷内に討幕の考えは見えない、とも論じている。
## 薩摩を疑う人たち、幕府を疑う人たち
毒殺説にはバリエーションがある。犯人候補が複数いるのだ。
いちばん多いのが薩摩藩関与説。幕府主導で兵庫開港が進めば、薩摩の財政と交易上の立場は大きく揺らぐ。西郷隆盛がサトウとの対談で幕府主導の開港に強い危機感を語っていたことも引かれる。天皇が慶喜を信任している限り、その流れは止まらない。だから薩摩が動いた、という筋である。この説では、大久保利通の名が黒幕側に置かれることが多い。
逆に、幕府側を疑う説もある。孝明天皇は佐幕とはいえ、攘夷を捨てなかった。開港を進めたい幕閣にとって、天皇の攘夷の頑固さは邪魔でもあった。天皇が死ねば、まだ十代半ばの睦仁親王が即位する。少年天皇のほうが操りやすい。この見方では、佐幕派の天皇を佐幕派が殺すという、ねじれた構図になる。動機としてはやや弱いが、ゼロではない。
第三に、長州・尊攘過激派の単独犯行説。この説は組織の指示ではなく、個人の暴走を想定する。誰かが独断で御所の内部に手を回した、という形だ。証拠は当然ない。ただ、幕末の京都では実際に暗殺が日常的に起きていた。天誅と称する斬殺が路上で行われていた時代である。そういう空気の中で、御所の中だけが安全だったと考えるほうが不自然だ、という感覚論が根拠になっている。
第四に、痘瘡そのものを人為的に感染させたという説。これはさらに極端で、当時の種痘や膿の扱いを利用して、意図的に痘瘡を移したのではないか、というものだ。医学史的にはかなり無理があるが、ネット上ではしぶとく生き残っている。
最後に、複合説。つまり、痘瘡には自然にかかった。しかし回復に向かいはじめたのを見て、誰かが仕上げに毒を用いた、というものだ。これが実は一番きつい。病死説の医学的な根拠と、毒殺説の状況証拠の、両方を飲み込めてしまうからだ。
## 証言を三つ、腰を据えて読む
**その一、イギリス外交官の耳に入った噂**
アーネスト・サトウは幕末の日本を最も近くで見た外国人のひとりだ。日本語を解し、志士たちと直接会話ができた。その彼が、孝明天皇の死からしばらく経ったころ、日本人から「陛下は毒殺された」と聞いている。しかも、その日本人は理由まで説明した。天皇は外国人に一切の譲歩をしなかった。だから邪魔になったのだ、と。
この証言が重いのは、外国人の記録だからだ。日本国内では、天皇の死因を疑うこと自体が不敬になる。書けば命が危ない。だから国内史料には残らない。ところが外交官の日記には、検閲も忖度もなしに、そのまま書かれる。当時の京都で毒殺説が実際に流通していたことの、ほとんど唯一の外部証拠なんだよな。
ただし、サトウ自身が毒殺を信じたわけではない。彼はあくまで「そう言う者がいた」と記している。そして噂の理由として挙げられた「攘夷の天皇だから消された」という筋書きは、その時点ですでに通商条約が勅許されていたことを考えると、動機としてやや弱い。とはいえ、噂というのは正確さで広がるものではない。
**その二、侍医が書いた最期の数時間**
伊良子光順の拝診記録は、この事件で最も生々しい史料だ。医師が、目の前で起きていることを、その場で書いている。
記録に残るのは、順調だったはずの経過が二十四日夜から崩れ、二十五日には手のつけられない状態になっていく過程だ。嘔吐が止まらない。下痢が続く。体が冷えていく。痰がひどく、呼吸が苦しい。最期は苦悶のうちだった。侍医たちは薬を替え、灸を据え、あらゆる手を尽くしたが、何をやっても脈は戻らなかった。
これを百年後に読んだ曾孫の医師は、急性の毒物中毒の像に見えると感じた。しかし同時に、彼は断定しなかった。医師だからこそ、記録だけで死因を確定することの危うさが分かっていたのだと思う。この慎重さと、世間が求める断定との落差が、この事件のもうひとつの主題になっている。
**その三、外祖父が残した二行**
中山忠能の日記も外せない。彼は天皇の側近であり、次代・明治天皇の外祖父でもある。立場的に、内情を最もよく知る人物のひとりだ。
その日記が、天皇の平素の健康ぶりを書き、そして死の場面では「御九穴より御脱血」と記した。もし本当に何も疑っていなければ、こんな書き方をするだろうか、と読む者は思う。逆に、疑っていたのならなぜもっと書かなかったのか、とも思う。この短さがまた不気味なのだ。
忠能はこの後、王政復古の中心に近い場所へ移っていく。孫が天皇になるからだ。彼が何を知っていて、何を知らなかったのか。日記はそこまで教えてくれない。
## ねずまさし対原口清、そして石井孝
学界での殴り合いも、それなりに壮絶だった。
1954年、禰津正志が暗殺説を学問の場に持ち込む。1975年から77年、伊良子光孝が侍医の日記を公開し、火に油を注ぐ。1970年代から80年代にかけて、田中彰をはじめとする幕末史研究者の中にも毒殺説に傾く者が出た。この時期、毒殺説はかなり優勢だった。天然痘がほぼ治癒した段階での容態急変と異常な症状は、単なる天然痘では説明できない、という主張が強かったからだ。
流れを変えたのが原口清である。1989年から90年にかけて発表した二本の論文で、彼は真正面から病死説を立てた。要点はこうだ。第一に、公式の「御容態書」は十二月二十日以降、信憑性が落ちる。表現が急に抽象的になり、具体的な症状の記述が消える。第二に、中山慶子――天皇の側にいた女性である――宛の書簡などから、医師団が内々には予断を許さない病状だと説明していたことが分かる。つまり、順症という公式報告は建前で、内実はとっくに悪化していた。第三に、症状そのものが紫斑性痘瘡、または出血性膿疱性痘瘡の典型と一致する。この型は致命率がほぼ百パーセントで、発症から短時間で死ぬ。
続いて1990年から91年、石井孝との間で激しい論争が起きる。石井は毒殺説側に立って原口を批判し、原口が応じ、また石井が返す、という応酬が続いた。読み物としてはかなり面白い部類の学術論争だ。
結果として、現在の学界では病死説が主流ということになっている。医学的な説明力で病死説が上回った、という評価が一般的だ。ただし、主流になったことと証明されたことは違う。毒殺を否定する決定的証拠も、また出ていない。
2023年には中村彰彦が『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』を出し、この論争そのものを一般向けに整理し直した。つまり、二十一世紀に入ってもまだ本になるテーマだということだ。
## 東山の裏山に、閉じたままの円丘がある
孝明天皇の陵は、京都市東山区の泉涌寺の境内にある。名前を後月輪東山陵という。泉涌寺の北門近くから御陵参道を登り、後堀河天皇の観音寺陵への道を分けて、右へ上がっていく。
この陵には妙なところがある。歴代天皇の中で、仏式の葬儀が営まれた最後の天皇が孝明天皇だ。葬儀そのものは泉涌寺で仏式で行われた。ところが墓の形式は、それまでの仏式の石塔をやめ、古式に改めて円墳を模した円丘が築かれている。仏式で送られ、神代風の墓に入る。この折衷が、時代の切れ目そのものに見える。
言うまでもなく、中は非公開だ。宮内庁が管理する陵墓に、研究者が学術目的で立ち入ることは原則として認められていない。陵墓の発掘調査を認めない方針については、以前から歴史学・考古学の側から批判が出ている。孝明天皇陵についても同じで、遺体を調べれば砒素の有無くらいは分かるはずだ、という声は昔からある。毛髪一本あればいい、と言う人までいる。
しかし、それは行われない。行われる見込みもない。この「絶対に確かめられない」という条件が、この謎の賞味期限を無限にしている。確かめられるなら、いつか決着する。確かめられないなら、永遠に語れる。
参道自体は歩ける。木立の中の静かな道で、観光客もそう多くない。門の前に立つと、正面の柵の向こうに玉砂利と円丘が見える。それだけだ。ここで死因の答えを探そうとしても、何も返ってこない。返ってこないから、みんな帰り道でずっと考えることになる。
## ネットではこの話がどう転がっているか
現代のこの説は、二層構造になっている。
一階部分は、比較的まっとうな歴史クラスタだ。ここでは「毒殺説は面白いが、原口の医学的説明のほうが強い」という穏当な結論に落ち着くことが多い。個人ブログやnoteには、御容態書と伊良子日記を日付順に並べて検討した、かなり本格的な記事がいくつもある。掲示板でも、幕末スレになると必ずこの話が出て、症状の解釈で長文の応酬が始まる。「順症からの急変」を強調する側と、「十八日には既に紫色だった」と返す側の、いつもの構図だ。
二階部分が、もっと騒がしい。孝明天皇毒殺説は、いつのまにか「明治天皇すり替え説」と接続されてしまった。孝明天皇だけでなく、その子である睦仁親王も殺され、大室寅之祐という別人が明治天皇として立てられた、という話である。根拠として持ち出されるのは、十四歳ごろと十六歳ごろで体つきが違う、いわゆるフルベッキ写真に似た人物が写っている、といったもので、どれも検証に耐えない。写真の同定は破綻しており、そもそも比較すべき写真が存在しないケースまである。それでも、動画サイトの考察系チャンネルではいまだに再生数を稼ぐ定番ネタだ。
さらに周辺には、安重根が伊藤博文を撃った理由として孝明天皇の件を挙げた、という話が漂っている。この手の枝葉が無限に生えるのがこのテーマの特徴で、本体の議論とごちゃ混ぜにされた結果、「孝明天皇の死を疑う=陰謀論」という雑な扱いを受けることも増えた。それは本体にとっては不幸なことだと思う。順症からの急変という一次史料上の落差は、陰謀論とは別に、普通に検討に値する問題だからだ。
まとめサイトの類では、だいたい「御九穴より御脱血」の五文字が見出しに使われる。強い言葉だ。これ一発で読者を掴めるのだから、使われ続けるのも分かる。
## なぜこの話だけ、いつまでも死なないのか
幕末には未解決の死が山ほどある。それなのに、孝明天皇の件だけが別格の扱いを受け続けているのはなぜか。
ひとつは、タイミングの完璧さだ。この天皇が生きていたら、明治維新はあの形にはならなかった。少なくとも、あの速度では進まなかった。歴史が急カーブを切るちょうどその瞬間に、カーブの外側に立っていた人物が消えている。人間の脳は、この種の一致に耐えられるようにできていない。偶然だと言われても納得できない。
ふたつめは、密室性だ。御所の奥という、日本で最も閉ざされた空間で起きた。そこに入れる人間は限られている。侍医、女官、ごく一部の公家。容疑者リストが短い。短いのに、誰も特定できない。ミステリとしての設計が良すぎる。
みっつめは、記録が中途半端に残っていることだ。何も残っていなければ、話は成立しない。全部残っていれば、決着している。ところが実際には、公式の御容態書があり、侍医の日記があり、公家の日記があり、それぞれ微妙にニュアンスが違う。しかも肝心の部分で表現が抽象的になる。この「あと一歩で届きそうで届かない」という距離感が、人を狂わせる。
よっつめは、検証が構造的に封じられていることだ。陵墓は開かない。試料は取れない。科学が使えない。だから議論は永遠に文献解釈の中を回り続ける。
そして最後に、怖さの質がある。この話の恐ろしさは、幽霊でも呪いでもない。回復しかけていた病人が、薬を飲んで、数時間後に全身から血を流して死ぬ。そのあいだ、そばには医者がいて、女官がいて、みんな心配そうな顔をしていた。もしこれが人為だったなら、その部屋の中の誰かは、笑いを噛み殺していたことになる。看護されながら殺される、という状況ほど気味の悪いものはない。
## 証拠が足りないんじゃない、多すぎて噛み合わないんだ
ここまで書いてきて、あらためて思うのは、この事件が「証拠不足の謎」ではなく「証拠過多の謎」だということだ。史料が足りないのではない。むしろ多すぎて、しかも互いに噛み合わないのが問題なんだよな。公式の御容態書は順症と言い、公家の日記は九穴からの脱血と書き、侍医の記録は苦悶の急変を伝え、医学は劇症型痘瘡でも同じ像になると告げる。全部本当だとして、なお結論が出ない。こういう謎は、追加史料が一点出たくらいでは動かない。
病死説と毒殺説の対立を、もう少し冷静に整理してみる。病死説の最大の強みは、症状の説明に外部要因を必要としないところだ。出血性痘瘡という診断ひとつで、紫斑も、吐血も、下血も、九穴からの出血も、そして急激な死も、すべて説明がつく。しかもこの型の痘瘡は、初期には普通の痘瘡と区別がつきにくい。だから侍医団が最初「順症」と診立てたことにも矛盾がない。彼らは無能だったのではなく、当時の医学では見分けられなかっただけだ。加えて原口が指摘したように、公式報告が政治的に加工されていた可能性は非常に高い。天皇重体の報が漏れれば、京都の各勢力が一斉に動く。だから表向きは順症と書き続ける。これは陰謀ではなく、統治の常識的な運用だ。
一方、毒殺説の強みは、政治的文脈のほうにある。慶応二年の後半、孝明天皇はほとんど単独で幕府の存続を支えていた。廷臣二十二卿を退け、慶喜を信任し、朝廷内の尊攘派を押さえ込んでいた。その天皇が消えた瞬間、朝廷の重心はまるごと移動する。少年の新帝と、後見に立つ公家たち。そこから王政復古までは一年もかからない。この因果の速さは、やはり異様だ。歴史というのは普通、もっと粘る。粘らずに一直線に進んだとき、人は誰かが押したのではないかと疑う。
では、どちらが正しいのか。正直に言えば、現時点で判定は不可能だ。ただ、判定不能であることの意味は考えられる。仮に毒が使われていたとして、それを証明する方法は事実上ひとつしかない。遺体の分析だ。砒素は毛髪や爪に長く残る。百五十年経っていても検出は可能な範囲にある。しかし陵墓は開かない。つまり、この事件は「技術的には解けるのに、制度的に解けない」という、きわめて珍しい状態に置かれている。多くの歴史の謎は、証拠が失われたから解けない。これは、証拠がおそらく現存しているのに触れないから解けない。この違いは大きい。触れられる場所にあるのに触れられない、という状況が、人の想像力を最も強く煽る。
もうひとつ考えておきたいのが、この説がなぜ明治以降タブー化したのか、という問題だ。理由は単純で、天皇の死因を疑うことが、そのまま明治国家の正統性を疑うことになるからだ。明治政府は、孝明天皇の遺志を継いだという建前の上に立っていた。その孝明天皇が新政府側の手で殺されたのだとしたら、建前は根元から崩れる。だから戦前、この話は公然と語れなかった。佐伯理一郎の1940年の講演が、ぎりぎりの例外として記憶されているのはそのためだ。逆に言えば、戦後になってこの説が一気に噴き出したのは、単に史料が出たからではなく、語ってよくなったからでもある。禰津正志が1954年に論じ、七〇年代に伊良子光孝の資料が出て、八〇年代に毒殺説が学界でも優勢になった。この流れは、戦後日本の言論空間の変化そのものをなぞっている。つまりこの論争は、幕末の謎であると同時に、二十世紀日本が皇室をどう語れるようになったかの記録でもあるわけだ。
最後に、この話をどう扱うのがいいか。犯人探しに乗るのは、正直あまり面白くないと思っている。名前を挙げるのは簡単だが、証拠がない以上それは想像でしかないし、実在の人物を勝手に殺人者にする趣味の良さも疑わしい。むしろ面白いのは、順症と書かれ続けた御容態書の裏で、御所の人々が何を知っていて何を隠していたか、というほうだ。医師たちは本当は絶望していたのに、書類には回復と書き続けた。周囲の公家たちはそれを知りながら、表向きは安堵の顔をしていた。その二重底の空間で、天皇はひとり苦しんで死んだ。毒があったかどうかにかかわらず、この光景は十分に薄気味悪い。
泉涌寺の参道を登って、あの円丘の前に立つと、そういうことを考える。答えはあの下にある。手は届かない。そしておそらく、この先も届かない。だからこの話は、まだ百年くらいは死なないんだろうな。
孝明天皇は病死ではない――慶応二年、痘瘡の床で何が起きたのか
