日本の古代でいちばん大きな内乱は、たった一か月で終わっている。六七二年の夏、旧暦六月二十四日から七月二十三日まで。西暦に直すと七月二十四日から八月二十一日だ。真夏だ。汗と埃と血の一か月。しかもこの戦争、負けた側の記録がほぼゼロで、勝った側が書いた文章しか残っていない。それも異様に詳しく。この「詳しすぎる勝者の記録」というのが、壬申の乱を千三百年ものあいだ気持ち悪い謎にし続けている元凶なんだよな。順に見ていこう。
## 六七一年十二月、天智天皇が死んだ。あるいは、山科で消えた
話は前年の冬から始まる。天智天皇——中大兄皇子として大化の改新をやり、白村江で唐と新羅にボロ負けし、近江大津宮に都を移した男が、六七一年十二月に死ぬ。享年四十六。『日本書紀』はあっさり近江宮で崩じたと書く。それだけなら普通の記事だ。
ところが、平安後期に僧の皇円が編んだ『扶桑略記』には、まるで違う話が載っている。天皇が馬に乗って山科の里に出かけ、そのまま帰ってこなかった、というのだ。捜索したが遺体は見つからず、履いていた沓だけが見つかった。だからその場所を陵にした、と。天皇が行方不明になって沓だけ残る。これはもう完全に怪談の構造である。
この記述をどう読むかで、後世の解釈が真っ二つに割れた。ひとつは暗殺説。誰かが山科で天智を殺し、遺体を隠した。当然、犯人候補として真っ先に名前が挙がるのが弟の大海人皇子だ。井沢元彦の『逆説の日本史』がこの説を広く世に知らしめたが、井沢自身が書いているところによると、最初に言い出したのは山田万吉郎という郷土史家だという。土地の歴史をやっている人が、地元に残る妙な記述を拾い上げて、それが後年ベストセラーの中でクローズアップされる。伝説の伝わり方として、かなり典型的なパターンだ。
もうひとつの読み方は、道教の「尸解」だという説。仙人が肉体を残さず天に昇り、衣や沓だけが残る、という中国由来の観念だ。国文学者の山田邦和や外山幹夫がこの線で読んでいて、実際、聖徳太子にも菅原道真にも似たような「遺体が消える」伝承がある。つまり天智の失踪譚は殺人事件の痕跡ではなく、聖人化のためのお約束だった、という話になる。
どちらが正しいかは、正直わからない。ただ確実に言えるのは、天智天皇の死のあたりから既に、この時代の記録は普通じゃないということだ。京都の山科にある御廟野古墳が現在の天智天皇陵とされている。八角形の墳丘で、被葬者がほぼ確実視されている数少ない天皇陵のひとつだ。それでも、「本当にここに埋まっているのか」と書いているサイトが今も存在する。沓の話が効きすぎているんだよな。
## 「虎に翼を著けて放てり」――吉野入りという賭け
天智が死ぬ前年から、大海人皇子の身辺は危うかった。天智は自分の子である大友皇子を太政大臣に据え、後継の道筋をつけようとしていた。従来の慣例だと皇位は弟の大海人に行くはずだった。ここで血が濁る。
有名な場面がある。病床の天智が大海人を呼び、「お前に位を譲る」と言った。大海人はこれを断り、出家して吉野に籠りたいと申し出た。剃髪して僧形になり、そのまま吉野へ下る。要するに「私に野心はありません」の全力アピールだ。だがこれが罠だったのか、それとも大海人が罠を先読みしたのか。素直に受けていれば、その場で殺されていた可能性は十分にある。
このとき、大海人が吉野へ向かうのを見送った人物が漏らしたとされる言葉が、『日本書紀』に残っている。「虎に翼を著けて放てり」。虎に翼を生やして野に放したようなものだ、と。この一言が壬申の乱という物語の最高の枕になっている。あまりに出来すぎているので、後から作られた台詞だろうという指摘は当然ある。だが作られたのだとしても、編纂者がここにこの言葉を置いた意図ははっきりしている。大海人は最初から勝つべくして勝った、と読ませたいのだ。
吉野に入った大海人には、妃の鸕野讚良皇女——のちの持統天皇が同行していた。子の草壁皇子、大津皇子も一緒だ。舎人はごく少数。表向きは完全に隠退した元皇族の一家である。だがこの吉野という土地の選び方が上手い。大和の南、山に囲まれ、東へ抜ける道がある。京から見れば辺境だが、伊賀・伊勢・美濃へ抜ける裏口でもある。
## 六月二十四日、四十人ほどで東へ走った
決起は突然だった。近江朝廷が大海人を討つ準備をしている、という情報が入る。『日本書紀』によれば、朴井雄君という舎人が、美濃と尾張の国司に「山陵を造る」という名目で人夫を集めさせ、しかもその人夫に武器を持たせている、と報告した。天智の陵を造ると言いながら兵を集めている。これは自分を討つためだ、と大海人は判断する。
六月二十四日、行動開始。吉野を出た一行は、まず菟田——現在の宇陀を目指す。この時点で従うのは、妃と子と、二十数人から四十人程度の舎人・女官だけ。馬すら足りていなかった。途中で駅家の馬を徴発し、人家から食糧を分けてもらいながら進む。国家転覆の軍事行動の初日が、ほぼ夜逃げの様相を呈している。ここが壬申の乱のいちばん人間くさいところだ。
伊賀に入ると流れが変わる。伊賀の郡司たちが兵を率いて合流してきた。阿拝郡の郡司が五百の兵を連れてきたと記録にある。ゼロから一気に五百。さらに積殖の山口——現在の三重県伊賀市柘植のあたりで、長男の高市皇子が合流する。このとき十九歳。別ルートで近江を脱出してきたのだ。父と息子が山中で落ち合う。この合流が精神的にどれだけ大きかったかは想像がつく。
二十六日、伊勢の朝明郡の迹太川のほとりで、大海人は天照大神を遥拝したと『日本書紀』は書く。伊勢神宮の方角に向かって拝んだのだ。この記事はよく引かれる。天皇家の祖神である天照大神を、皇位を狙う側が公然と拝んだ。ここには「私こそが正統だ」という宣言が込められている。同時に、伊勢という土地が皇室祭祀の中心として確立していく起点としても、この場面は重要視されている。
同じ日、桑名の郡家に到着。ここで一行は足を止め、妃の鸕野讚良らを残して、大海人は身軽になる。二十七日、不破へ入った。
## 鈴鹿を閉じ、不破を封じる――数日で勝負は決まっていた
軍事的に言えば、壬申の乱の勝敗はこの数日で決している。大海人がやったのは、道を塞ぐことだった。
まず鈴鹿関。伊勢と近江・大和を結ぶ要衝を封鎖した。次に倉歴道。そして最重要が不破だ。不破は東山道が近江から美濃へ抜ける関門で、ここを押さえると近江朝廷は東国と完全に遮断される。当時の東国——美濃、尾張、三河、信濃、甲斐、そして関東——は兵の供給源だった。ここを取られたら、朝廷は自分の首都の周りにいる兵しか使えなくなる。
不破の確保に走ったのが村国男依という男だ。現在の岐阜県各務原市あたりを本拠にした、美濃の小豪族の出。もともと大海人の舎人だった。彼と同郷の側近二名が美濃へ派遣され、驚くべき速さで三千の兵を動員し、不破道を封鎖した。この三千という数字が壬申の乱の最初の分水嶺になる。
一方、近江朝廷側は東国へ使者を出そうとしたが、道が全部塞がっていて通れない。筑紫——九州の大宰府にも援軍を求めたが、大宰帥の栗隈王は「外敵に備えるのが職務だ」と言って動かなかった。吉備にも使者を送ったが、こちらも失敗している。近江朝廷は開戦時点で、地方からの増援をほぼ全部失っていた。
大海人は不破の野上というところに行宮を構えた。関ケ原町大字野上の「長者屋敷」と呼ばれる丘陵地がその跡と言われている。ただし、ここからだと関ケ原方面が見通せないので、桃配山に本陣を置いたという説や、東山道沿いだったという説もある。桃配山という名前は、大海人が兵を励ますために桃を配ったという逸話から来ているとされているが、面白いことに『日本書紀』にこの話は載っていない。出典不明の伝承なのだ。それでも千三百年、地名として生き残っている。ちなみにこの桃配山、九百年以上あとに徳川家康が関ケ原の合戦で最初の本陣を置いた場所でもある。同じ丘に、二つの天下分け目が乗っている。
## 大伴吹負の大和戦線――負けても踏みとどまった男
主戦場は近江方面だけじゃない。もうひとつの戦線が大和、つまり飛鳥の旧都をめぐる戦いだった。ここを担当したのが大伴吹負。この男の戦い方が、壬申の乱でいちばんスリリングだと個人的には思っている。
吹負はまず、少数の手勢で飛鳥の留守司を騙し取った。大海人の将軍がやって来た、という体で堂々と入り込み、拠点を押さえてしまう。ハッタリで都を取ったのだ。それから大和一帯で近江軍と正面からやり合う。六月二十九日には高安城で近江軍が米倉に火をつけて敗走している。七月四日には乃楽山——奈良山で激戦になり、ここでは吹負が敗走している。負けてるのだ、普通に。だが立て直す。同じ四日から五日にかけて当麻、二上山の麓で押し返し、七日には箸墓——あの卑弥呼の墓とも言われる古墳のあたりで、置始菟とともに近江軍を破った。
飛鳥という土地の象徴的な重さを考えると、吹負がここを押さえ続けたことの意味は大きい。近江朝廷にとって飛鳥は旧都であり、豪族たちの本拠地が集中する場所だ。ここが大海人方に握られていることで、畿内の豪族が近江側に付きにくくなった。
戦場の細部も生々しい。七月五日の倉歴での夜戦では、近江軍が「金」という合言葉で敵味方を区別したと記録されている。真っ暗な山中で、殺すべきか殺さざるべきかを一語で判定する。夜襲の実態がこういう形で残っているのは、古代の戦記としてはかなり珍しい。
## 七月二十二日、瀬田橋。板を外した罠と、それを踏み抜いた男
近江方面では、村国男依が着実に前進していた。七月七日の息長横河で勝ち、九日の鳥籠山で勝ち、十三日には安河で破って追撃、十七日には栗太で敵を追った。ただし男依はここで深追いを避けている。伏兵を警戒したのだ。勇猛なだけの武将ではない。
そして七月二十二日、瀬田。琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる唐橋。近江大津宮の目と鼻の先だ。ここに近江朝廷軍が最後の全力を集めた。大友皇子自身も出てきていたとされる。
近江軍は罠を仕掛けていた。橋の中ほどの板を三丈——およそ九メートルにわたって外し、そこに一枚の長板を渡した。踏めば板ごと川に落ちる仕掛けだ。そして板の向こう側から矢を浴びせる。橋という一本道の性質を最大限に使った、えげつない防御だった。指揮を執っていたのは智尊という将で、これがまた腕の立つ男だったと書かれている。大海人方の兵は何度も突入しようとして、そのたびに矢で射すくめられた。
ここで前に出たのが大分君稚臣という男だ。大津皇子に仕えていた者とされる。稚臣は鎧を二重に着込み、矛を捨てて剣一本で橋に突っ込んだ。罠の仕掛けを見抜いていた。長板の綱を切り、矢の雨の中を走り抜けて向こう岸に到達する。この一人の突撃で近江軍の陣形が崩れた。押し寄せた大海人の軍勢が橋を渡り、智尊は橋のたもとで斬られた。近江軍は総崩れになる。
千三百年前の日本で、たった一人が橋を渡り切ったことで国のかたちが決まった。話としてあまりに出来すぎている。だから『日本書紀』のこの場面は創作だという指摘もある。ただ、この橋の攻防が伝えるものはたぶん本質を突いている。古代の戦争において、決定的な瞬間というのは案外こういう、狭い場所での数十秒だったりするのだ。
瀬田が破れた時点で、近江朝廷は終わっていた。七月二十三日、大友皇子は逃げ場を失う。左右大臣以下の重臣たちは散り散りになった。皇子に最後まで従ったのは、わずかな者だけだったと書かれている。そして大友皇子は、山前というところで首を吊って死んだ。二十五歳。この山前がどこなのかは諸説あるが、大津の長等山だとする伝承が有力で、現在の大津市には彼の墓とされる長等山前陵がある。首は不破の大海人のもとに届けられた。
改めて考えると、この人物の生涯は薄い。天智天皇の嫡子で、母は伊賀采女宅子娘という身分の高くない女性。『懐風藻』には彼の漢詩が二首残っていて、若くして学問を好み、風貌に威があったといった賛辞が並んでいる。太政大臣になったのが六七一年、死んだのが六七二年。実質的な活動期間は一年ちょっとだ。何をしたかもよくわからない。ただ、負けて死んだ。それだけの人物として千三百年扱われてきた。
## 『日本書紀』天武紀はなぜ異様に詳しいのか
さて、ここからが本題だ。壬申の乱についてこれだけ細かい経過を語れるのは、全部『日本書紀』が書いているからである。日付、地名、指揮官の名前、合言葉、橋の板の長さ。異様に詳しい。
どれくらい異様かというと、『日本書紀』全三十巻のうち、天武天皇の巻は上下二巻に分かれている。上巻はほぼ丸ごと壬申の乱の記述だ。つまり一人の天皇に二巻を割き、そのうち一巻を即位前の一か月の戦争に使っている。他の天皇の扱いと比べると、明らかにバランスがおかしい。
理由ははっきりしている。『日本書紀』の編纂を命じたのが天武天皇本人だからだ。六八一年に国史編纂の詔が出され、最終的に完成したのは七二〇年。編纂の中心にいたのは舎人親王——天武の子である。勝った側が、自分の勝った戦争を、自分の子孫の手で記録した。詳しいのは当たり前だ。そして詳しいということは、詳しく書きたい理由があったということでもある。
この「書きすぎ」を疑う研究は多い。遠山美都男の『天武天皇の企て 壬申の乱で解く日本書紀』のような本は、まさにこの詳細さを手がかりに天武朝の政治意図を読み解こうとしている。よく指摘されるのは、天武紀が「大海人は追い詰められて仕方なく立った」という筋書きを執拗に強調していることだ。先に手を出したのは近江朝廷であり、大海人は自衛のために動いた。神々も彼の味方をした。だから彼が皇位に就いたのは簒奪ではない。この論理を成立させるために、あの一か月は克明に書かれている。
裏を返すと、書かれていないものがある。大友皇子が何をしていたか、ほとんどわからない。近江朝廷の内部でどんな議論があったのかもわからない。大友の側の言い分は一行も残っていない。負けた側の記録は、単に散逸したのではなく、書かれなかったのだと考えたほうが自然だ。
そして『日本書紀』は、神をやたらと喋らせる。乱の最中、高市県主許梅という人物が神がかりして、神託を告げたと記されている。高市社の事代主神と、身狭社の生霊神が乗り移り、神武天皇陵に馬と武器を奉れば大海人皇子を守護しよう、と言ったのだ。これに従って神武陵に供え物がなされた。もう一つ、村屋神社の神主にも神が憑き、「わが社の中道から敵軍が来るから防げ」と告げたという。実際に近江の将・犬養連五十君が中ツ道を通って村屋に駐屯したので、神託が的中したことになる。乱後、この二社の神主には位が贈られている。
戦争の記録の中で神が具体的な軍事情報を出してくる。これは冷静に見ると相当に変だ。だが編纂側の意図としては筋が通っている。大海人の勝利は人間の力ではなく、日本の土地神たちの意思だった、と言いたいのだ。神武天皇陵——初代天皇の墓に武器を奉れば守護される、という筋書きは特にあからさまで、天武を初代天皇に接続する装置になっている。奈良県田原本町の村屋神社は現在も残っていて、壬申の乱で神託を出した社として由緒に記している。千三百年前の戦場の神託が、いま神社の縁起として生きている。
## 「大友皇子は即位したのか」――三百年続いた喧嘩
もうひとつ、壬申の乱には巨大な論争がある。大友皇子は天皇だったのか、という問題だ。
『日本書紀』は大友皇子を天皇として扱っていない。即位したという記述がない。つまり乱は「天皇である大海人が謀反人を討った」のではなく、「皇太子的立場の大友を大海人が倒した」形になっている。ここが引っかかる人が江戸時代からずっといた。
最初に本格的に論じたのは那波活所で、寛永四年——一六二四年の『帝王暦数図』において、『日本書紀』と『懐風藻』の記述から大友は帝であったと主張した。これが即位説の出発点とされる。そのあと徳川光圀の『大日本史』が「大友天皇紀」を立て、これを三大特筆のひとつとした。水戸学の中で即位説は有力説になっていく。
補強材料も出た。寛政六年——一七九四年、日下部勝皋が『薬師寺檫銘釈』で、薬師寺東塔の銘文にある「即位八年庚辰」という表記と、『日本書紀』の太歳記事の位置が矛盾すると指摘した。さらに伴信友の『長等の山風』が『日本書紀改刪説』を出す。和銅七年の初版には弘文天皇元年の記事があったが、養老四年の改定時に削られたのだ、という説だ。これで即位説の論点は出揃い、江戸末までの通説になる。
反対もあった。安永三年——一七七四年、谷川士清が『続大日本史私記』で、天皇の死後すぐに即位という大礼を行うのは乱世でも考えにくい、と批判している。
そして明治三年、一八七〇年七月二十三日。政府は大友皇子に「弘文天皇」の追諡を与えた。反対意見は出たが少数として押し切られた。ここで大友皇子は正式に第三十九代天皇になった。政治的な決定である。
ところが学問のほうは逆に動く。明治三十七年、一九〇四年、喜田貞吉が『日本書紀改刪説』を批判した。不要な太歳を削り忘れ、必要な太歳を誤って削る、という二重の失敗はありえない、という論だ。喜田はさらに進んで、天智の皇后だった倭姫王が即位あるいは称制したという説を出し、学界ではこちらが優勢になっていく。ただし喜田は明治四十四年、あの南北朝正閏問題で職を失い、議論は宙に浮いたまま止まった。
戦後になると、即位したかどうかは儀式の日取りの問題に過ぎない、という見方が広がる。壬申の乱研究を牽引した直木孝次郎は「大友皇子称制説」を採り、これが主流になった。現在、即位説をそのまま支持する研究者はほぼいない。二〇〇〇年代に入って倉本一宏が倭姫王称制説を提唱し、議論はまだ続いている。
面白いのは、この論争がずっと道徳の話とセットだったことだ。江戸から戦前まで、即位説を支持する人は天武を簒奪者として非難した。反対説を唱える人は「反逆の容認だ」と批判された。学問の外側で名分論が暴れていたのだ。そして明治政府の追諡だけが今も残り、系図や年表には弘文天皇が第三十九代として載っている。学界がほぼ否定した説の結論部分だけが、制度として生き残っている。
## 錦織で見つかった十三個の柱穴――幻の都、大津宮
大友皇子が死んだ都、近江大津宮は、その後どうなったか。答えは、消えた。天智が六六七年に飛鳥から遷都し、六七二年の乱で焼けて終わり。都としての寿命はわずか五年半だ。天武は飛鳥に戻り、大津は放棄された。奈良時代には跡地が「古津」と呼ばれるようになる。
柿本人麻呂が「近江荒都歌」でこの廃墟を詠んでいる。天皇たちは大和を治めていたのに、天智はどういうわけか近江の湖のほとりに都を移した。そして今、その大宮どころには春草が茂り、霞が立ちこめて何も見えない。「昔の人にまたも逢はめやも」——昔の人にもう一度会えるだろうか、いや会えない。日本文学における廃墟詠嘆の原型のひとつだ。乱からせいぜい二十年ほどしか経っていない時期に、もう草に埋もれていた。
場所すらわからなくなった。江戸時代から近代にかけて、錦織説、南滋賀説、滋賀里説、穴太説、粟津説と、大津宮の所在地は五つも六つも説が乱立した。『今昔物語集』の記述などを頼りに、みんなが好き勝手に推定していたのだ。まさに幻の都である。
決着がついたのは一九七四年。大津市錦織の住宅地で発掘調査が行われ、内裏南門跡と考えられる十三基の柱穴が見つかった。あわせて六七〇年頃の須恵器や土師器が出土した。これで錦織説が確定する。その後の調査で、南門から東西に伸びる回廊を境に、北側に内裏正殿と板塀、南側に朝堂院と想定される空間があることもわかった。研究者の林博通は、大津宮の構造が孝徳天皇の難波宮と似ていると評価している。一九七九年に「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定された。
現在、遺跡は普通の住宅街の中にある。区画ごとに小さな公園として整備され、柱の位置が示されている。派手な復元建物があるわけでもなく、看板と地面の表示だけだ。千三百年前、ここで天皇が死に、都が焼けた。今はそこに人が普通に住んでいる。この落差がいい。
## 東国に生きていた大友皇子――各地に散らばる墓と伝承
さて、ここからが伝承の領域だ。壬申の乱は、地方に妙な形の物語を大量に残している。中でも群を抜いて数が多いのが、「大友皇子は死んでいない」系の伝承だ。
神奈川県伊勢原市の日向には、大友皇子の墓と伝えられる五層石塔がある。『皇国地誌 日向村』の記録では、戦乱の折にこの地に仮の御所を建て、そこで亡くなったので葬った、とされている。地元に伝わる話はもっと踏み込んでいて、大友皇子は百済の若者を身代わりに立てて逃げ延び、従者とともにこの地に隠れ住んだのだという。臨終のとき「愛する松を墓に植えよ」と遺言したとも伝わる。後に華厳法師が石雲寺を建てて弔ったとされる。
千葉県君津市の伝承はもっと体系的だ。小櫃川の流域に、大友皇子ゆかりとされる地名と社が点々と残っている。俵田の白山神社古墳は「小櫃山」とも呼ばれ、皇子の陵と伝えられてきた。近くの王守川は、従者が皇子を背負って渡った川だという。木更津市下郡の十二所神社は、皇子の妃と侍女十二人を祀るとされる。そして地名の「小櫃」そのものが、御櫃——ひつぎ、つまり棺に由来するという説まで付いている。ここでの物語は、皇子が上総に落ち延びて暮らしたが、六七三年に天武の討伐軍が来て自害した、という筋になっている。
愛知県岡崎市にも別バージョンがある。こちらでは、大友皇子は南の海を巡って伊勢神宮に詣で、そのあと三河湾に上陸したことになっている。竹林の中に館を建てた跡が「丸藪」として伝えられ、東大友町の神明社は皇子を祭神として祀り、西大友町の大友天神社は皇子がこの地で亡くなったと伝える。玉泉寺は皇子が創建したという伝承を持つ。町名に「大友」が入っているあたりが強い。
千葉県匝瑳市や旭市には、妃の耳面刀自媛が房総に逃れたという伝承がある。旭市野手の内裏神社は妃の埋葬地とされ、近くには弘文帝妃耳面刀自の陵墓とされる場所や、中臣英勝の墓石まである。
これらは当然、史実ではない。ただ、なぜこれだけ生まれたのかを考えると面白い。ひとつの手がかりが、六六六年に天智天皇が百済からの亡命者二千余人を関東に入植させたという記録だ。百済系の人々にとって、天智は自分たちを受け入れてくれた王であり、その子である大友皇子は当然情の対象になる。彼らの土地で「皇子は生きていた」という物語が育った、という説明はかなり説得力がある。負けた者を生かしておきたいという願いが、地名と社の形で残った。日本各地の「実は生きていた」伝承——義経、豊臣秀頼、西郷隆盛——の系譜の、いちばん古い層がここにある。
## 三つの土地に残る、いま見に行ける話
伝承と現地の話を、もう少し具体的に三つ挙げておきたい。
ひとつめは奈良県田原本町の村屋神社。壬申の乱のとき神主が神がかりして「わが社の中道から敵が来る」と告げた、あの社だ。今も蔵堂という集落にあって、社殿の脇に壬申の乱の由緒が掲げられている。この一帯は当時、上ツ道・中ツ道・下ツ道という古代の南北道が走っていた場所で、近江の将・犬養連五十君が中ツ道から進んで村屋に駐屯した。三輪君高市麻呂が上ツ道で防ぎ、箸墓のあたりで近江軍を大きく破ったという記録もある。歩いてみると本当に平坦な農地で、遮蔽物がほとんどない。ここで数千の兵がぶつかったのだと思うと、感覚が狂う。訪れた人のブログでは、神社の静けさと、由緒書に淡々と書かれた戦の記述との落差に驚いたという感想が多い。
ふたつめは岐阜県関ケ原町の桃配山。大海人皇子が兵に桃を配ったという伝説の丘で、繰り返しになるが『日本書紀』にこの逸話は出てこない。それでも地名として定着し、関ケ原町の観光資料にも堂々と書かれている。しかもここは徳川家康が最初に本陣を敷いた場所でもあるので、看板は二つの時代を並べて説明している。地元の学習館の資料は「その根拠については未だ謎に包まれています」と正直に書いていて、この誠実さがかえって想像力を刺激する。誰が、いつ、なぜ桃の話を始めたのか。それがわからないまま、丘の名前になっている。
みっつめは滋賀県大津市の瀬田唐橋。大分君稚臣が突っ込んだ橋だ。もちろん現在の橋は当時のものではない。何度も架け替えられ、織田信長も改修に関わっている。だが「唐橋を制する者は天下を制す」という言葉が今も残るくらい、この橋は交通の要衝であり続けた。壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、承久の乱、そして源平の争乱——この橋は何度も戦場になっている。現在の橋は擬宝珠の付いた立派な景観で、観光名所になっている。橋の上に立って川面を見ると、幅はそれほど広くない。ここの板を九メートル外して、一枚板を渡した。その一枚板を、鎧を二重に着た男が走った。距離感が具体的にわかる場所というのは、それだけで怖い。
## なぜこの乱は千三百年も語られ続けるのか
壬申の乱は、日本史上ほとんど唯一と言っていい、皇族同士の全面戦争だ。しかも武力で皇位が動いた。しかもそれをやった側が、そのあと日本という国号と天皇という称号を確立させたと言われている。天武は即位後、官僚制を整え、八色の姓を定め、冠位を六十階にし、藤原京の造営に着手した。太政大臣を置かず皇族だけで政治を回す「皇親政治」を敷いた。そして国史の編纂を命じた。つまり今我々が知っている「古代日本」の骨格は、この戦争に勝った男が作ったものだ。
だからこの乱は、単なる内乱じゃない。国の設計図が書き換わった一か月だ。そして書き換えた人物が、その一か月についての唯一の記録も残した。ここに気持ち悪さの核心がある。
現代のネット上でも、壬申の乱は根強く議論されている。定番の論点はいくつかある。天智と天武は本当に兄弟だったのか、という疑問はその代表格だ。『一代要記』などの後世の史料から計算すると天武のほうが年上になってしまう、という指摘があり、そこから異父兄弟説、叔父甥説、まったく別系統説まで出ている。『日本書紀』が同母兄弟と明記していない点も、この説の燃料になっている。ただ、後世の系図の年齢記載は精度が低く、そこから逆算するのは危ういという反論も強い。学界では兄弟説が動いていないが、ネットでは根強い人気がある。
天智暗殺説も同様だ。沓だけが残ったという『扶桑略記』の記述が、あまりにも物語として強すぎる。道教の尸解だという学問的な読みが出ても、暗殺のほうが面白いので消えない。
そして大友皇子生存説。地方伝承としてこれだけ広く残っているものは珍しく、地元の郷土史家が丁寧に整理しているサイトもいくつかある。学術的にはまず成り立たないが、それでも「なぜ生まれたか」の研究には価値がある。
結局、壬申の乱の魅力は「勝者の記録しかないのに、その記録が異様に詳しい」という一点に尽きる。詳しく書かれているから細部まで想像できる。だが詳しく書いた動機を疑い出すと、その細部の全部が信用できなくなる。この二重性が、千三百年経っても人を離さない。
## 三本の道を塞いだだけの男が、国のかたちを決めた
最後に、この乱を通しで見たときに浮かんでくる筋をいくつか整理しておきたい。まず、大海人皇子の勝因を軍事的に整理すると、実は非常に地味だ。彼は名将として戦場を駆け回ってはいない。不破に行宮を構えたあとは、ほとんど動いていない。前線に出て戦ったのは高市皇子であり、村国男依であり、大伴吹負だ。大海人がやったのは、開戦から数日のうちに三本の道を塞いだことだけだ。鈴鹿関、倉歴道、不破。これで近江朝廷から東国を切り離した。日本列島の地形は東西に細長く、東海道と東山道という二本の幹線で結ばれている。この二本の首根っこを押さえれば、西の政権は東の兵を呼べない。彼はそれを知っていた。
そしてこの教訓は、そのまま制度になった。天武朝以降、鈴鹿関・不破関・愛発関という三関が設置される。天皇が死んだり反乱が起きたりすると、まず三関を固める「固関」という手続きが取られるようになった。壬申の乱の勝ち方が、そのまま国家の危機管理マニュアルに変換されたわけだ。自分が使った手を、二度と誰にも使わせない。これほど徹底した勝ち方も珍しい。
次に、なぜ地方豪族が大海人についたのかという問題。これは道理から言えば不思議だ。大友皇子は現政権の中枢にいて、正統な後継者と目されていた。大海人はただの出家した皇族である。それなのに伊賀の郡司も、美濃の豪族も、尾張も、次々と大海人に付いた。よく言われるのは、天智政権の中央集権化への反発だ。白村江の敗戦後、天智は防衛のために全国から兵と物資を徴発し、戸籍を作り、山城を築いた。地方にとってはひたすら負担が増える政策だった。そこに「今の政権を倒す」という選択肢が現れたら、乗る豪族が出てもおかしくない。壬申の乱は皇位継承争いの形をしているが、実態としては中央の収奪に対する東国豪族の反乱という側面を持っている。だから東で兵が集まり、西で集まらなかった。
三つ目に、記録の問題をもう一段掘っておきたい。『日本書紀』天武紀上巻がほぼ壬申の乱で埋まっているという構成上のいびつさは、しばしば「天武の正当化」として説明される。それは正しいが、もう一つ考えられることがある。この一か月に従軍した人間が、まだ生きていた時代に編纂が始まっているという事実だ。六八一年に編纂の詔が出たとき、乱からまだ九年しか経っていない。橋を渡った大分君稚臣も、不破を封じた村国男依の一族も、健在だった。彼らにとって、自分の武功が国史に載ることは家の格に直結する。だから『日本書紀』の壬申紀は、単なる天武のプロパガンダというだけでなく、功臣たちの論功行賞の記録という性格も持っている。誰がどの日にどこで戦ったかがあれだけ細かいのは、恩賞台帳を下敷きにしているからではないか。実際、村国男依は乱後に百二十戸という最高クラスの功封を得ており、死後に外小紫位を追贈され、七一六年には子の志賀麻呂が孫の代まで受け継げる功田十町を賜っている。功績が世代を超えて相続される制度があった以上、その根拠となる記録は厳密に残す必要があった。
四つ目。伝承の側から見ると、この乱が生んだ最大の産物は「大友皇子は生きていた」という物語群だ。伊勢原、君津、岡崎、匝瑳。距離的にばらばらな土地に、同じ骨格の話が生えている。共通するのは、皆が東国だということ。西日本にはほとんどない。これは百済系渡来人の入植地と重なるという説明が有力だが、もう一つ言えるのは、東国こそが大海人に兵を出した地域だということだ。つまり、大友皇子を殺した側の土地に、大友皇子を生かす伝承が生まれている。これはかなり示唆的だ。勝った側の子孫が、負けた者を弔う。戦争が終わったあとに人が抱える後味の悪さが、こういう形で結晶するのかもしれない。あるいは、単に「あの戦で東へ逃げてきた誰か」が実際にいて、その記憶が皇子の名前を吸い込んだのか。どちらにせよ、伝承というのは事実の記録ではなく、感情の記録なんだよな。
最後に、この乱がなぜ「怖い」のかを言葉にしておく。合戦の描写が凄惨だからではない。むしろ描写は淡々としている。怖いのは、この一か月ののちに日本という国のかたちが確定し、その確定したかたちの中で我々が今も暮らしていて、しかもその一か月について我々が持っている情報は、勝った側が書いたものしかない、という構造そのものだ。国の起源に、検証できない一次資料が一本だけ立っている。天智が本当はどう死んだのかもわからない。大友が即位していたのかもわからない。天智と天武が兄弟だったのかすら怪しむ人がいる。そして誰も確かめようがない。近江大津宮の跡地に立つと、住宅街の一角に小さな公園があって、柱の位置に石が並んでいる。そこに立って、ここで何が起きたのかを本当に知っている人は千三百年前から一人もいない、と考えると、かなり足元が涼しくなる。壬申の乱は、日本という国の記憶が始まる地点であると同時に、その記憶が最初に編集された地点でもある。だから何度掘っても底が出ない。
壬申の乱――大海人皇子はなぜ勝てたのか、そして『日本書紀』は何を書かなかったのか
