猫が城主になった城で、本当は何があったのか
備中松山城と猫。この組み合わせで公的資料からきちんと確認できるのは、たった一匹の猫をめぐる話だけだ。2018年に城へ住み着き、「猫城主」に任命された雄猫、さんじゅーろー。中心にいるのはこの猫であって、それ以上でも以下でもない。
では、戦国武将の魂が猫へ宿り、古くからこの城を守ってきたという「猫武将」伝説はどうか。江戸初期の旅人日記、夜ごと城内に集まる猫の軍勢。この手の話は、今回確認した城史・市史系の資料からひとつも裏付けが取れなかった。まあ、近年の人気者を過去へさかのぼらせた後付けの物語、と扱うのが妥当なところだ。
1240年から積み上がった山城の来歴
高梁市の公式沿革をたどると、城の始まりは延応2年、西暦1240年までさかのぼる。秋庭三郎重信が大松山へ砦を築いた。それが出発点だ。現在の天守を含む城郭は、天和3年、1683年までの修築で今の形に整えられている。現存する天守を持つ山城として知られるのは、この積み重ねがあるからだ。
戦国期の山場は、三村氏と毛利氏の争いを軸とする備中兵乱。城の歴史ではここが大きな転換点になる。
ところが巷で語られる話には「1580年代、毛利氏と織田氏が城を直接争奪し、守備武将が全滅した」という説明が混じる。これが高梁市の示す城主変遷とも年代とも噛み合わない。織田と毛利の広域的な対立を、備中松山城での特定の全滅戦へ縮めてしまった。そういう可能性がある。
豪雨のあとに現れた一匹の雄猫
2018年7月の西日本豪雨。その後に一匹の雄猫が城へ姿を現し、同じ年、観光協会から「猫城主」に任命された。名前は備中松山藩出身とされる新選組隊士、谷三十郎にちなむと紹介されている。
ここで見落とせないのが、公式情報の書きぶりだ。取り上げられているのは複数の野良猫の集団ではない。個体としてのさんじゅーろー、その一匹である。
城を訪れた猫が復興期の観光と地域の象徴になった。そこまでは史実として確認できる。ただし、それ以前から猫武将信仰があったという話の証拠にはならない。
どこまでが確認済みで、どこからが空白か
確認が取れる側から並べよう。現存天守を持つ山城であること。これは高梁市の公式城郭史で裏が取れる。2018年に猫城主が誕生したことも、公式年表と観光資料に記録が残っている。名前が谷三十郎にちなむという点は、複数の紹介資料で一致しているので、おおむね確認と見ていい。
正直、そこから先は急に薄くなる。多数の野良猫が常時城内を歩いているという話は未確認だ。公式資料が記録しているのは、あくまで一匹の猫城主を中心とした情報である。猫が戦国武将の化身だという古来の伝承にいたっては、裏付けが何もない。伝承の採録も、郷土史も、社寺の縁起も示されないままだ。
1580年代に毛利・織田の城争奪戦があったという話は、年代にも構図にも疑義が残る。公式沿革が軸に据えるのは三村と毛利だからだ。江戸初期の旅人日記に番猫の記述があるという主張も、出典が不明のままだ。旅人の名も、日記の名も、本文も、所蔵先も出てこない。
夜の猫軍勢や、会話するように鳴き交わす声。これも証言者、日時、記録媒体のどれ一つ提示されていない。地元で代々語られてきたという触れ込みも同じで、近代以前の採録は見つからなかった。
伝説はこの順番で組み上がった
順を追うと筋道は見えてくる。まず2018年、災害のあとの城に一匹の猫が現れる。次にその猫が猫城主として任命され、城と猫の組み合わせが広く知られていく。
三番目に効いてくるのが命名だ。谷三十郎にちなむ名前から「猫と武将」という連想が強まる。そこへ城の戦乱史、猫の夜行性、守護者としてのイメージが結合する。最後に、新しい観光物語が、あたかも古くからの地元伝承であるかのように語られはじめる。
この順序なら、実在の猫城主と史料のない戦国伝説が同時に語られる現象を、無理なく説明できる。近年になって成立した伝説でも、地域文化としての価値はちゃんとある。ただ、成立年代を古く見せる必要まではない。
現地へ行くなら、ここを掘りたい
確かめる余地はまだ残っている。まず高梁市歴史美術館と郷土資料館に、猫伝承の採録が眠っていないか。次に例の「旅人の日記」について、書名と旅人名、成立年、所蔵機関をひとつずつ押さえたい。
2018年以前の新聞や観光パンフレットに「猫武将」の語が出てくるかどうかも大きい。猫城主の任命時に出された発表資料と、命名の由来も原典で確認したい。加えて城内の動物管理、夜間の閉鎖、実際にいる猫の個体数。この五点が埋まれば、話の輪郭はかなりはっきりする。
この話をどの棚に置くか
分類するなら、実在する近年の地域マスコットを核にした現代伝説になる。成立の過程を最初から追跡できる、珍しいタイプの一つだ。
物語の完全再話――「なつめ」が「さんじゅーろー」になるまで
平成30年、2018年の7月。記録的な豪雨が西日本一帯を襲い、高梁市を含む岡山県南部が水に沈んでいた。その最中の7月14日の夜、市内のある家庭で飼われていた一匹の雄猫が、豪雨の混乱にまぎれて姿を消した。名前は「なつめ」。
飼い主のもとから逃げ出したなつめが、その後どこをどう彷徨っていたのかは誰にも分からない。濁流と土砂崩れの爪痕が生々しく残る城下町だ。そこを一匹の猫が三ヶ月近く、単身で生き延びていたことになる。
約三ヶ月後、備中松山城の管理人が三の丸付近でその猫を発見する。推定年齢は三歳から四歳、左目にはどこかで負ったとおぼしき傷があった。やがて城の管理小屋に居着いたこの猫を、城の関係者たちは最初「ご家老さま」と呼んで可愛がっていたという。
城主のいない山城に、家老格の猫が一匹だけ住み着いている。その絵面自体が、すでに一種の物語性を帯びていた。まもなく高梁市観光協会は、この猫に正式な名前を与えることを決める。備中松山藩出身で、新選組七番組組長を務めた実在の武士、谷三十郎。その名にちなんで「さんじゅーろー」と命名されたのである。
城址で保護された猫に、かつてその藩の武士の名を与える。この発想は単なる思いつきというより、もっと意図的だ。「猫と武将」という組み合わせを人為的に、それでいて極めて自然な形で城の物語へ接木する作業だったとも言える。12月16日には「猫城主さんじゅーろー再入城の儀」という儀式めいた行事が執り行われた。こうしてさんじゅーろーは正式に備中松山城の「猫城主」に就任した。
就任後の住まいは、本丸の五の平櫓に設けられた管理事務所。毎日午前10時と午後2時の二回、天守周辺を「見回る」のが日課となった。山道を登り切った先で、本物の猫が悠然と城内を歩き回っている。観光客からすれば、それだけで十分に非日常的で、SNS映えする体験になる。
だが、この物語は穏やかなだけではない。就任からわずか一年も経たない2018年11月4日の夜のことだ。観光協会事務局長の相原氏は、週刊誌の取材を控えていたこともあり、さんじゅーろーを自宅へ連れ帰った。ところが自宅の門前で放したところ、さんじゅーろーは「パーッと一目散に」どこかへ走り去ってしまったという。
ここからが騒ぎの本番だ。19日間にわたる大捜索劇が始まる。相原氏と観光協会の職員たちは、地域を巻き込んで捜索網を広げた。郵便局員や農協職員、町内会にまで協力を仰ぎ、400枚のチラシを刷って配布している。地元紙やケーブルテレビまで動員される騒ぎになった。
おまけに「体の色がなんとなく似ている」という、俗に言う「偽さんじゅーろー情報」が十件以上も寄せられる珍事まで起きている。そして11月23日、相原氏の自宅近くの住民から一報が入る。駆けつけると、白い迷子札をつけたさんじゅーろーが庭先に佇んでいた。体重は5.3キロから3.8キロにまで落ちていたが、目立った怪我はなかった。
城主が城から「出奔」し、城下を挙げた捜索の末に「帰城」する。この展開は、まるで戦国大名の逃亡と帰参の逸話をなぞるかのようだ。この一件によって、さんじゅーろーの物語には「単なるマスコット」以上の劇的な奥行きが加わったと言われている。
「猫武将伝説」が生まれた年をたどる
高梁市および観光関連の公式資料をどれだけ遡っても、江戸期以前から「猫が戦国武将の化身として城を守る」という伝承が存在した形跡は出てこない。城そのものの来歴ははっきりしている。延応2年、1240年の秋庭三郎重信による築城を起源とし、天和3年、1683年までの改修で現在の姿になった。現存天守を持つ山城として知られる城だ。
しかし猫にまつわる言い伝えが史料上で確認できるようになるのは、あくまで2018年の豪雨後、さんじゅーろーが発見されて以降のことである。つまり「城の猫武将伝説」の正体はこうだ。実在の一匹の保護猫が観光の目玉として脚光を浴びた。それをきっかけに、後付けで戦国期の物語へと結び付けられていった。極めて近年に成立した都市伝説と考えるのが自然だろう。
その後の展開は驚くほど早い。2019年7月には早くも児童書『備中松山城猫城主さんじゅーろー』が刊行され、さんじゅーろーの生い立ちが一冊の本として世に出た。著者は西松宏、版元はハート出版。ご当地マスコットとしては異例の速さでの書籍化だ。
猫自身の「伝記」が公式に編纂されたことが、後年の伝説化に拍車をかけたとみられる。さらに2020年6月には、観光客の呼び戻しに貢献したとして、高梁市から「観光事業功労者」として表彰された。猫としては極めて異例の栄誉に浴している。そして就任5周年にあたる2024年3月16日、いわゆる「さんじゅーろーの日」を迎える。
この日、城の麓の石火矢町ふるさと村内に「猫城主さんじゅーろーあしあと館」が新規開館した。館内にはさんじゅーろーの生い立ちを紹介するミニシアターと、年表付きのクイズパネルが並ぶ。寝転んださんじゅーろーと一緒に撮影できるフォトスポット、「にゃんガチャ」などのグッズコーナーもある。一匹の保護猫の物語が、正式な「城の歴史展示」の一部として制度化されるに至ったわけだ。
発見、命名、就任、失踪、帰城、表彰、書籍化、記念館開設。これほど短期間のうちに一連の「物語の型」が完成した例は、ご当地キャラクター史の中でも際立って早い部類に入る。
実話が「猫武将」へ飛躍するとき
ネット上のまとめ記事や旅行ブログを覗くと、話はもう一段ふくらんでいる。さんじゅーろーの実話を土台にしつつ、そこへ神秘的な尾ひれが付く。「戦国武将の魂が猫に宿った」「江戸初期の旅人が石垣を見張る猫を日記に記した」といった具合だ。
こうしたバージョンでは、複数の野良猫が集団で城を守護しているという描写が加わる。夕暮れ時に一斉に天守へ向かう。夜中には猫同士が会話するように鳴き交わす。単独の保護猫の実話が、いつしか「城に古くから住み着く猫の一族」という伝承へと変質していく。
谷三十郎という実在の新選組隊士の名を借りたことも、この飛躍を後押しした一因と考えられる。「猫と武将の名」という組み合わせ自体が、聞き手に強い連想を喚起するからだ。昔からこの城には猫武者の伝承があったのではないか、と。
そこへ城の戦国期の争乱史、つまり三村氏と毛利氏による備中兵乱が重なる。猫の夜行性、俊敏さ、独立心といったイメージも結びつく。こうして「猫武将が今も城を守っている」という現代版の守護獣伝説が形成されていった。そう見るのが、最も筋の通った解釈になる。
現地を訪れた人が書き残した一日
2019年3月9日に実際に城を訪れた、ある旅行ブログの記録が残っている。標高480メートルの急坂を登り切った先、三の丸跡の広場。管理人の小屋の中で食事をしているさんじゅーろーに、そこで遭遇したという。
人が集まってきたのを察知したさんじゅーろーは、律儀に少しだけ姿を見せた。それからまた食事に戻っていったと綴られている。そして午後2時、見回りの時間になると様子が変わる。石垣の隙間に潜んでいたトカゲを発見し、狩猟本能をむき出しにして飛びかかったのだ。
結果は取り逃がし。いかにも無念そうな表情を浮かべていたという、生々しい描写が残されている。ちなみに訪問記の中では、注意書きも強く押し出されていた。フラッシュ撮影の禁止、勝手な餌やりの禁止、そして特に左目の傷への配慮。
単なる観光マスコットというより、実際に城で暮らす一個の生き物として大切に扱われている。訪問記からはその様子がよくうかがえる。SNS上の公式アカウント、@sanju_ro_ にも日々の見回りの様子や表情豊かな写真が投稿され続けている。
雲海に浮かぶ「天空の山城」という幻想的な光景。その足元を悠然と歩く一匹の猫。この組み合わせが、多くの観光客や写真愛好家を引き寄せる要因になっている。
実話と尾ひれが混ざったまま流れていく
観光系メディアや個人ブログでは、さんじゅーろーの物語はしばしば「実話に基づく感動秘話」として好意的に取り上げられる。一方、都市伝説やオカルト系のまとめサイトはそうならない。実話の部分と「猫武将の古い言い伝え」という尾ひれの部分が、渾然一体となって流通している側面がある。
SNSでは「新選組の生まれ変わりが今は猫になって城を守っている」というロマンあふれる解釈も散見される。ただしこれは、谷三十郎という名の由来から連想的に派生した俗説だ。公式には、猫の性格や来歴と結び付けられていない。
観光協会や地元メディアが強調するのは、むしろ別の側面である。災害から生まれた奇跡的な出会い。そしてそれを地域一体となって育てていったという、極めて人間臭い「地域再生の物語」としての顔だ。
城の歴史に積み重なった新しい層
備中松山城は、現存12天守のうち唯一の「山城」として知られる。雲海の名所であり、天空の城とも呼ばれる高梁市のシンボルでもある。城の戦国史における備中兵乱、江戸期の板倉氏による治世、そして幕末に活躍した山田方谷の改革。重厚な史実が幾重にも蓄積されている。
その上に、平成から令和にかけての「猫城主」という新しい層が重なった。歴史都市が新旧のシンボルを併存させながら、物語を更新し続けている。この構図は典型例として、今後も注目に値するだろう。
