ヨーロッパ全土に支店網を持ち、王侯貴族に金を貸し、要塞を持ち、船を持っていた。教皇以外の誰にも従わない特権を持っていた組織が、たった一晩で消えた。しかも消えたのは組織だけじゃない。帳簿に載っていたはずの莫大な金が、どこへ行ったのか誰にも説明できないまま七百年が過ぎている。
テンプル騎士団の話だ。しかもその一晩というのが、よりによって一三〇七年十月十三日の金曜日なんだよな。この日付が後世どれだけ悪さをしたかは、あとでたっぷり書く。
先に立場を言っておく。これは「財宝が実在した」と煽る話でもないし、「全部デマでした、はい終わり」と切って捨てる話でもない。実際に何が起きたのかを一日単位で追いかける。そのうえで「じゃあ財宝が逃げたって話は、いったい誰がいつ言い出したんだ?」という一点を、原典まで遡って特定する。
結論から言うと、起点はちゃんと存在する。たった一人の騎士の、たった数行の供述だ。そしてその数行には、みんなが信じている決定的な地名が書かれていない。
九月十四日、フランス中の役人に封蝋つきの手紙が届いた
話は逮捕の一か月前から始まる。一三〇七年九月十四日、フィリップ四世は王国じゅうの代官と守備隊長に向けて封書を発送した。中身は開封厳禁。指定した日の夜明けまで蝋を割るなという指示つきだ。
中世に一斉手入れをやろうとすると、これ以外に方法がない。伝令が馬で走る速度が情報漏洩の速度と同じだから、封を切らせないことでしか秘密は守れないんだよな。
役人たちが十月十二日の夜に蝋を割ると、そこには恐ろしく芝居がかった前文が書いてあった。「神はお喜びでない。この王国のなかに信仰の敵がいる」。この一文が指し示す相手が、聖地防衛のために設立され、教皇直属で、二百年近くキリスト教世界の名誉ある盾とされてきた。
それがテンプル騎士団だった。
翌朝、つまり十月十三日金曜日の夜明け。パリのタンプル塔をはじめ、フランス全土の騎士団施設に王の兵が突入する。総長ジャック・ド・モレーはパリで捕まった。前日、彼は王弟シャルル・ド・ヴァロワの葬列で棺を担ぐ栄誉ある役目を務めていた。
国家儀礼のど真ん中に立っていた男が、二十四時間後には囚人になっているわけだ。この落差の演出も含めて、フィリップ四世という王はやることが徹底している。
捕まった人数は、フランス国内で少なくとも数百人、研究者によっては千人以上と見積もる。パリだけで百三十八人が尋問を受けた記録が残っている。誤解されがちだが、その全員が剣を持って戦う騎士だったわけじゃない。テンプル騎士団の実態は、圧倒的多数が農場や倉庫や納屋を切り盛りする在俗の下級構成員だ。
農夫、羊飼い、書記、鍛冶屋。夜明けに家畜小屋から引きずり出された連中が、その日のうちに「異端者」という肩書きを付けられた。
王の財布はとっくに空だった
なぜこんなことをやったのか。動機の話をしないと全部が意味不明になる。フィリップ四世は「美男王」と呼ばれた男で、たしかに顔は良かったらしいが、財政感覚のほうは火の車どころか火事場だった。イングランドとの戦争、フランドルでの泥沼、そして王権を大陸国家として組み立て直すための官僚機構。
全部に金がかかる。
彼が金を作るためにやったことを並べると、この王の思考回路がよくわかる。貨幣の改鋳、つまり銀の含有量を下げて同じ額面で流通させるインフレ税を繰り返した。おかげで市民から「贋金作りの王」というありがたくない渾名をもらっている。それから一三〇六年、王国内のユダヤ人を一斉に逮捕して財産を没収し、国外追放した。
イタリア出身の金融業者、いわゆるロンバルディア人にも同じことをやった。要するに、貸し手を捕まえて財産を取れば、借金は消えるうえに現金が入る。この方式を彼はすでに二回、成功させている。
その次に残っていた最大の貸し手が、テンプル騎士団だった。パリのタンプル塔は当時のヨーロッパで最も安全な金庫の一つで、フランス王室の国庫そのものが長らくそこに置かれていた。国王の財務出納をテンプル騎士団の会計係が代行していた時期すらある。
要するに、フィリップ四世にとっての騎士団は「うちの金庫番であり、大口債権者であり、自分の命令に従う義務がない外国勢力」だった。王権にとって最悪の三点セットだったわけだ。
騎士団の金融業がどれだけ洗練されていたかも押さえておきたい。エルサレム巡礼に行く人間が、道中で追い剥ぎに遭わないよう、ロンドンやパリの支部に現金を預ける。すると証書をもらえて、聖地の支部でその金額を引き出せる。手形と信用状の原型だ。
ヨーロッパから中東まで支店網が繋がっていて、しかも武装した護送能力まで自前で持っている。国際決済銀行と傭兵会社と保険会社を足して修道院の看板を掲げた組織、と言えば近い。金利を取ることは教会法で禁じられていたが、彼らは「保管料」「手数料」「為替差」といった名目でしっかり利益を出していた。中世の金融は、この抜け道の芸術で成り立っている。
密告者は、報酬の催促状まで書いていた
逮捕の口実になった告発は、王が突然思いついたものじゃない。一三〇五年ごろ、エスキュー・ド・フロワランという人物がアラゴン王ハイメ二世に接触した。テンプル騎士団の内部で恐るべき冒涜が行われていると吹き込んでいる。ベジエ出身で、リモージュのサン・マルシャル修道院に属するモンフォーコンの小修道院長を名乗った男だ。
ハイメ二世は話を聞いたが、真に受けなかった。証拠がないうえに、告発者自身が金銭的な見返りを露骨に求めていたからだ。
アラゴンで相手にされなかったフロワランは、フランスに回った。そしてこちらでは客が食いついた。フィリップ四世と、その懐刀である法律家ギヨーム・ド・ノガレだ。ノガレという男は前科がある。
一三〇三年、教皇ボニファティウス八世を現地で拘束するアナーニ事件を主導した張本人だった。教皇に物理的に手を出しても平然としていられる神経の持ち主だった。彼にとって騎士団を潰すのは、二度目の同種の作戦にすぎない。
面白いのは、一三〇八年にフロワランがアラゴン王へ手紙を書いている点だ。「あの時わたしが申し上げた話は本当だったでしょう」という趣旨で、要は報酬を催促している。密告で歴史を動かした男が、報酬の取りっぱぐれを心配して念押しの手紙を送っている。この生々しさが、この事件の温度を一番よく伝えてくる気がする。
「口では十字架に唾を吐きました。でも心では吐いていません」
尋問が始まる。ここは手口の詳細を書く場所じゃないので結果だけ言うが、パリで尋問された百三十八人のうち、ほぼ全員が何らかの自白をした。自白の中身は驚くほど画一的だ。入団の儀式で十字架を否認させられ、十字架に唾を吐かされ、上級者と不適切な接吻を交わした。
頭部の偶像を崇拝し、同性間の行為を許された。
なぜ画一的かというと、尋問する側があらかじめ質問項目を作って、それに「はい」と言わせる方式だったからだ。最終的に告発項目は百二十七件まで膨れ上がる。そのなかには猫を崇拝したという項目まで含まれている。猫だ。
この一点だけで、告発リストが実態調査ではなく想像力の産物だったことがわかる。当時の異端審問で使い回されていたテンプレートを、そのまま騎士団に貼り付けただけなんだよな。
それでも、記録に残った個々の言葉には人間が滲む。二十一歳のレイモン・ド・ラ・フェールという若い騎士は、こう供述した。「わたしは三度、十字架に唾を吐きました。ただし口で吐いただけで、心では吐いていません」。
この一文は、拷問下の自白というものの構造を一撃で説明してしまっている。彼は要求された答えを差し出しながら、同時に自分の魂は売っていないと記録に残そうとした。恐怖のなかで人間が探せる最後の逃げ道が、この副詞句なんだよな。
もう一つ、名前を出しておきたい証言がある。ポンサール・ド・ジジという騎士だ。彼は教皇の委員会の前で、自分の自白は暴力によって引き出されたものだと撤回した。そして撤回した者がどうなるかを知っていた。
彼は委員会にこう申し立てている。もしこの証言のせいで自分が拷問にかけられるなら、これから言うことは何もかも否認する、と。撤回の撤回を先に予告しておくという、絶望的に賢いやり方だ。彼はその後、鎖につながれて食事を制限された。
三人目はピエール・ド・ボローニャ。騎士団の教皇庁付き代理人を務めていた、法律に強い人物だ。一三一〇年の教皇委員会で、彼は騎士団の弁護団の中心に立ち、告発の法的な穴を的確に突いた。自白は拷問と欠乏によって強制されたもので、証拠能力がない。
証人は騎士団に恨みを持つ除名者ばかりである。手続きは教会法に違反している。文書として残る彼の弁論は、六百年後に読んでも筋が通っている。だからこそ、彼は消された。
裁判の途中で忽然と記録から姿を消し、その後の消息はわかっていない。脱獄したことにされた、というのが現在の一般的な見方だ。
バフォメットという単語が生まれた、その現場
自白のなかで最も後世に効いたのが「頭部の偶像」だ。ここから「バフォメット」という語が世に出る。今の人が思い浮かべる山羊頭で翼が生えた両性具有の姿は、実は中世とは何の関係もない。あれは一八五六年、フランスのオカルティスト、エリファス・レヴィが『高等魔術の教理と祭儀』で描いたイラストだ。
五百年以上あとの創作物が、逆流して中世のイメージを塗り替えてしまった典型例なんだよな。
じゃあ中世の「バフォメット」は何だったのか。語源としてもっとも支持されているのは、単純に「マホメット」つまりムハンマドの訛りだ。一〇九八年、アンティオキア攻囲戦に参加した十字軍のアンセルム・ド・リブモンが手紙を書いている。そのなかに、城内の住民が「バフォメット」に大声で呼びかけていた、という記述がある。
南仏のトルバドゥールも同じ綴りでムハンマドを指したし、モスクを似た語形で呼んだ例もある。つまり中世西欧の耳には、この語は「イスラームの神」を意味する既製の罵倒語として響いていた。異端審問の側からすれば、これほど便利なラベルはない。聖地で長く戦った組織が、いつのまにか敵の神を拝むようになっていた、という筋書きが一語で成立する。
さらにややこしいのが、騎士団が実際に「頭部の形をした聖遺物容器」を所有していたことだ。パリのタンプル塔の押収品目録には、銀と金箔でできた女性の頭部の容器があった。そこには頭部五十八番と読める銘が記されていたという。中世の教会は聖人の頭蓋骨や骨片を頭部型の容器に納めて祀るのが普通で、これ自体は何も異常じゃない。
ただ、拷問部屋で「頭を拝んだか」と聞かれた騎士が「はい」と答えれば、それは偶像崇拝の自白として記録される。実在する聖遺物容器と、テンプレート化した異端の疑いが、尋問室で合体してしまった。これがバフォメット誕生の実際の現場だと思う。
証言も一貫していない。ある者は頭が一つだと言い、ある者は三つの顔があると言い、ある者は猫だと言った。ラウル・ド・ジジという騎士は、七つの騎士団施設で謎の頭部を見たと述べた。そのうちいくつかはユーグ・ド・ペローが管理していた、と証言している。
ユーグ・ド・ペローはフランス管区の巡察長、つまり総長に次ぐ地位の実力者だ。名指しの効果は絶大だった。
シノンの羊皮紙が、七百年ぶりに教皇の本音を吐いた
ここが、この事件でいちばん劇的なひっくり返しだ。一般的なイメージでは、教皇クレメンス五世は王の言いなりで騎士団を切り捨てた無能、ということになっている。実際、彼は一三〇七年十一月二十二日に勅書『パストラリス・プラエエミネンティアエ』を発した。ヨーロッパ中の君主にテンプル騎士団員の逮捕と資産の差し押さえを命じた。
少なくとも表向きは、王の作戦に追従している。
ところが二〇〇一年九月、イタリアの古文書学者バルバラ・フラーレがヴァチカン機密文書館で一枚の羊皮紙を「再発見」した。整理番号の付け替えのせいで、何世紀も誰の目にも触れない場所に紛れ込んでいた文書だ。日付は一三〇八年八月十七日から二十日。場所はロワール河畔のシノン城。
そこで何が行われていたか。教皇が派遣した三人の枢機卿がいた。ベランジェ・フレドル、エティエンヌ・ド・スイジー、ランドルフォ・ブランカッチだ。彼らが、幽閉されていた騎士団の最高幹部を一人ずつ、直接尋問していた。
八月十七日にレンボー・ド・カロン、ジョフロワ・ド・シャルネー、ジョフロワ・ド・ゴンヌヴィルが出頭した。十九日にユーグ・ド・ペロー。そして二十日に総長ジャック・ド・モレーが出頭し、彼らは重い罪状を否認するか、入団儀礼の悪習として限定的に認めた。
そして枢機卿たちは、教皇の名において彼らを赦免した。異端を告白した者たちは秘蹟に復帰させられ、教会の一致のうちに戻された、と文書は記す。つまり、教皇庁は一三〇八年の時点で、騎士団の指導部は異端者ではないと内部的に判断していたにもかかわらず、政治的圧力の前にその判断を公表しなかった。
ヴァチカンはこの文書を二〇〇七年に『プロチェッスス・コントラ・テンプラリオス』として刊行した。七百九十九部限定という異様な体裁だ。値段も本というより美術品の水準で、当時それ自体がニュースになった。
この発見の意味は大きい。教会が騎士団を「悪魔崇拝の異端集団」として断罪した、という七百年続いた前提が崩れるからだ。同時に、陰謀論界隈にとってもおいしい素材になった。ヴァチカンが七百年隠していた、という言い方ができるからだ。
実際には隠していたというより整理番号の事故に近いのだが、そういう地味な真相はネットでは伸びない。フラーレ自身、後にトリノ聖骸布と騎士団を結びつける説を出して学界から強い批判を浴びている。彼女の仕事は「決定的な発見」と「踏み込みすぎた解釈」が同居している、というのが現在の相場観だと思う。
五十四人が一日で燃やされた日
一三一〇年、教皇の委員会での弁護が効きはじめ、自白を撤回する騎士が急増した。撤回者は五百人を超えたとも言われる。このままでは裁判が崩壊する。そこで王側が打った手が、恐ろしくシンプルで、恐ろしく効いた。
サンス大司教フィリップ・ド・マリニーが動く。彼は王の側近アンゲラン・ド・マリニーの兄弟で、この職に就けたのも王の意向だ。パリ司教座はサンス大司教区の管轄下にあるという教会組織の構造を利用して、彼はパリの騎士団員に対する管轄権を主張した。そして「一度自白した者が撤回するのは、異端に戻った再犯者である」という理屈を立てた。
再犯異端者の処罰は、火刑と決まっている。
一三一〇年五月十二日、パリのサンタントワーヌ門の外の野原で、五十四人が一日で焼かれた。荷車で運ばれ、杭に縛られた彼らは、最後まで自分たちは無実だと叫び続けたと記録されている。数日後にさらに十四人。撤回すれば焼かれる、という事実が全員に共有された瞬間、弁護は瓦解した。
ピエール・ド・ボローニャが記録から消えるのもこの直後だ。すでに死んでいた騎士の遺体が墓から掘り出されて焼かれた例まである。裁判ではなく、恐怖による制圧だった。
一三一二年三月二十二日、ヴィエンヌ公会議で勅書『ヴォクス・イン・エクチェルソ』が出る。注意深く読むと、この勅書は騎士団が有罪だとは言っていない。判決ではなく行政処分として、教皇の職権により騎士団を廃止する、と書いてある。有罪にできなかったから解散させた、というのが実態だ。
続く勅書『アド・プロヴィダム』で、資産の大半はヨハネ騎士団へ移されることになった。ただしフランス王は「訴訟費用」の名目で相当額を差し引いてから引き渡している。
一三一四年三月十八日、セーヌの中州にて
そして最後の一日が来る。一三一四年三月十八日。ノートルダム大聖堂の前に組まれた壇上で、四人の高位騎士に終身刑が言い渡されるはずだった。ジャック・ド・モレー、ノルマンディー管区長ジョフロワ・ド・シャルネー、フランス巡察長ユーグ・ド・ペロー、アキテーヌ管区長ジョフロワ・ド・ゴンヌヴィル。
読み上げが終わったとき、モレーとシャルネーが立ち上がって叫んだ。自分たちは無実であり、騎士団は聖なる組織である。自白は拷問によって強いられた偽りである。壇上は大混乱になった。
ペローとゴンヌヴィルは沈黙を守り、そのまま終身刑となって歴史から消えていく。
報告を受けたフィリップ四世は、聖職者たちの協議を待たずに即決した。再犯異端者として、その日のうちに焼く。場所はセーヌ川の中州、イル・オ・ジュイフ。現在のシテ島西端、ヴェール・ギャラン公園のあたりだ。
日が暮れかけた時刻に火が点けられた。
その場にいた年代記作者ジョフロワ・ド・パリが、目撃した様子を書き残している。モレーは恐怖の色をまったく見せなかった。衣服を脱ぐとき自ら平然と身を任せ、両手を合わせられるよう頼み、ノートルダムの方角に顔を向けたいと望んだ。そして炎に包まれながら、神は誰が誤り、誰が罪を犯したかをご存じである。
われらを死に定めた者たちの上に、まもなく災いが降りかかるだろう、という趣旨の言葉を発した。火は弱火でじっくり焚かれ、彼が絶命するまでに長い時間がかかったと記録されている。夜になってから、パリの市民が中州に舟で渡り、遺灰を聖遺物として持ち去った。翌朝には灰がほとんど残っていなかったという。
呪いは、いつ「呪い」になったのか
ここからが伝説の解剖だ。「クレメンスよ、フィリップよ、一年以内に神の法廷でわたしと会うことになるぞ」という、あの有名な台詞。あれは同時代の記録には出てこない。
事実として起きたことはこうだ――教皇クレメンス五世は一三一四年四月二十日に死んだ――モレーの処刑から約一か月後だ。国王フィリップ四世は同年十一月二十九日、狩猟中の発作がもとで死んだ。四十六歳だった。告発の設計者ギヨーム・ド・ノガレはすでに一三一三年に死んでいる。
さらにフィリップの三人の息子が次々に短命で、しかも男子の後継者を残さないまま死に、三百年以上続いたカペー朝直系が断絶する。偶然の重なりとしては出来すぎている。
だから人々は物語を足した。イタリアの年代記作者たちが早い段階で「炎のなかから召喚の言葉があった」という形に整えた。そこにフランスの民衆伝承が乗り、世紀を追うごとに台詞が具体化していく。決定版を作ったのは、二十世紀の小説家モーリス・ドリュオンだ。
一九五五年から刊行された連作小説『呪われた王たち』が、モレーの絶叫からカペー朝断絶までを一本の因果でつないだ。フランスでは国民文学級の人気を得て、テレビドラマにも二度なった。今わたしたちが「モレーの呪い」として思い浮かべる場面は、ほぼこの小説の演出だと思っていい。
もう一つの尾ひれが、フランス革命だ。一七九三年、ルイ十六世が処刑された直後、群衆のなかから男が飛び出した。断頭台の血に手を浸し、「ジャック・ド・モレーよ、汝の仇は討たれたぞ」と叫んだ、という話。これも同時代の一次記録では確認できない。
革命期のフリーメイソン陰謀論と、王政擁護派の宣伝が絡み合うなかで広まった逸話だ。ただし、この逸話が語られること自体が重要な意味を持つ。十八世紀末の時点で、すでに「テンプル騎士団とフリーメイソンは繋がっている」という前提があった。それが、街の噂レベルで共有されていたということだからだ。
財宝逃亡説の初出を掘り当てる
さて本題。「テンプル騎士団の財宝が逮捕の直前に運び出された」という話は、誰がいつ言い出したのか。これは特定できる。しかも一次史料まで辿れる。
出典はジャン・ド・シャロンという騎士の供述だ。一三〇八年の夏、ポワティエで教皇の委員会に対して行われた尋問の記録に含まれている。ドイツの歴史家ハインリヒ・フィンケが一九〇七年に刊行した史料集の資料編、文書番号百五十五として世に出た。中身を訳すと、こうなる。
彼はまたこう述べた――騎士団の有力者たちはこの破滅を事前に知って逃亡し、彼自身、ジラール・ド・ヴィリエ修道士が五十頭の馬を率いているのに出くわした。そしてその者が十八隻のガレー船で海へ出た、と人が言うのを聞いた。
これが全部だ。これしかない。世界中の書店で売られている財宝本、テレビの特番、動画サイトで何千万回も再生されている「テンプル騎士団の消えた財宝」というジャンルがある。その全体が、この三行から生えている。
まず注意してほしいのは、シャロンは目撃していないという点だ。彼が自分の目で見たと言っているのは、ヴィリエが馬を連れているところまで。船については「そう言うのを聞いた」という完全な伝聞だ。中世の裁判記録における伝聞は、噂の記録であって事実の記録ではない。
次に、ここには財宝が一語も出てこない。金貨も、聖杯も、契約書も、聖遺物も出てこない。出てくるのは馬五十頭だ。管区長クラスの人物が移動するときに五十頭の馬を連れるのは、別に異常な規模じゃない。
従者、荷駄、替え馬を含めればすぐそのくらいになる。
そして最も重要な点。この供述に「ラ・ロシェル」という地名は書かれていない。一言も出てこない。出港地はどこにも指定されていない。
あの有名な「ラ・ロシェル港から十八隻の船団が財宝を積んで出港した」という一文がある。これは、原典に存在しないパーツを二つも足して作られた合成物なんだよな。誰かが港を書き足し、誰かが財宝を積み込んだ。
さらに言えば、この供述自体が拷問と圧力のもとで得られたものだ。ジャン・ド・シャロンは同じ尋問のなかで、騎士団内部の金銭的腐敗や不正な監禁についても語っている。尋問官が求めていた筋書きに沿って、知っている噂を並べた可能性が高い。アメリカの疑似歴史検証家ジェイソン・コラヴィートのように、この供述を「ほぼ確実に嘘」と切り捨てる論者もいる。
ただ、嘘だとしても、当時パリの街角に「幹部が事前に逃げた」という噂が流れていたことの証明にはなる。伝説の種としては、これで十分すぎるんだよな。
ちなみにジラール・ド・ヴィリエ本人は、フランス管区長の地位にあった人物で、逮捕を免れて行方不明になっている。つまり「逃げた幹部」が実在した点だけは、たしかに動かない。彼がどこへ行き、何を持っていたのかは、どの記録にも残っていない。
ラ・ロシェルという地名は、どこから紛れ込んだのか
では、あの港はいつ物語に入ってきたのか。厳密な初出を一冊に絞るのは難しい。ただ、二十世紀のフランスの神秘主義系著作、とりわけ一九六〇年代のジェラール・ド・セードあたりの流れがある。そこから、七〇年代から八〇年代の英語圏の代替史ブームで定着した、という筋がいちばん納得できる。
一九八二年の『レンヌ=ル=シャトーの謎』、いわゆる『聖なる血、聖なる杯』が英語圏で大ヒットしたことが決定的だった。ここで示された「騎士団の秘密が地下水脈のように生き延びている」という語り口が、その後のすべての亜種の鋳型になった。
歴史側の事実はどうか。ラ・ロシェルは大西洋岸の重要な港で、テンプル騎士団も拠点を持っていた。ただしその主な用途はワインと物産の積み出しだ。聖地への人員と物資の輸送に使われた主要港はマルセイユとバルセロナ、つまり地中海側になる。
大西洋から地中海へ回るには、イベリア半島をぐるりと迂回してジブラルタルを抜けなければならない。十字軍の兵站としては非効率きわまりない。
船団の規模も検証されている。海事史の側から見ると、テンプル騎士団が自前で所有していたのは、数隻のガレー船と、四隻程度の商船兼戦闘船だったとみられる。輸送が必要なときは商船を借り上げるのが基本で、船主は多くの場合その船の船長だった。つまり「十八隻の騎士団艦隊」という規模の常備艦隊は、そもそも存在した形跡がない。
そして騎士団の海上活動の記録は、すべて地中海とレヴァント海域に限られる。大西洋を西に向かった航海の証拠は一つもない。
スコットランドへ逃げた、という話の中身
財宝逃亡説の最大勢力が、スコットランド行きだ。話の骨組みはこうなっている。破門されていたロバート・ブルースの治めるスコットランドは、教皇の逮捕命令が届かない安全地帯だった。そこへ逃げた騎士たちが、一三一四年六月のバノックバーンの戦いで突如として戦場に現れ、イングランド軍を粉砕した。
そしてシンクレア家に匿われ、その子孫がロズリン礼拝堂を建てて、そこに秘密を隠した、という話になっている。
順番に潰していく。まずバノックバーンの騎士団参戦説は、同時代の記録に一切ない。イングランド側の年代記も、スコットランド側の年代記も、白いマントの一団が戦局を決めたなどとは書いていない。この話が文献に現れるのは十九世紀以降で、スコットランドのフリーメイソン団体の系譜主張と結びついて広まった。
実際、この時期のスコットランドでもテンプル騎士団に対する審問は行われている。ただし出頭したのは二人だけで、しかも二人ともイングランド人だった。安全地帯どころか、単に人がいなかった。
ロズリン礼拝堂のほうはもっと単純に日付で終わる。創建認可が一四四六年、実際の着工が一四五六年九月二十日。騎士団が解散させられたのが一三一二年だから、百三十四年から百四十四年後だ。建てたのはウィリアム・シンクレア。
あの異様に彫刻が密集した内装は、十五世紀後半のスコットランドの後期ゴシックとして説明がつく。「見習い工の柱」の伝説も十八世紀に発生したもので、中世の記録には出てこない。
有名な「トウモロコシの彫刻がある。コロンブス以前に新大陸へ行った証拠だ」という主張も検証済みだ。植物学者エイドリアン・ダイヤーが調べた。あれは様式化された木彫のパターンであって、トウモロコシの穂として同定できる特徴を備えていない、と結論している。
そもそも礼拝堂の彫刻は十九世紀にかなりの範囲で修復と補作を受けており、細部を根拠に何かを立証すること自体が危うい。
スコットランドのフリーメイソン研究者ロバート・クーパーは、二〇〇六年の『ロズリンの欺瞞』でこの一帯の主張を体系的に解体した。彼はスコットランド大ロッジの図書館長という立場の人で、つまり内部から「うちの団体の起源神話は史実じゃない」と言ったわけだ。
それでも礼拝堂の観光客は、『ダ・ヴィンチ・コード』の映画公開前後に年間十五万九千人まで跳ね上がった。伝説の経済効果は、反証よりはるかに強い。
キプロス説と、あまり語られない現実的な線
もう少し地味だが、歴史的にはよほど筋が通るのがキプロス説だ。一二九一年にアッコンが陥落して聖地の拠点を失ったあと、テンプル騎士団の本部はキプロス島に移っていた。ジャック・ド・モレーは総長として長くキプロスに拠点を置き、一三〇六年から翌年にかけて教皇の招きでヨーロッパへ渡っている。
この移動の際、あるいはそれ以前から、騎士団の中央金庫の相当部分がキプロスにあったはずだ。この見方は、財宝ロマンとは無関係に成立する。
キプロスでの騎士団審問の結果も興味深い。当地では騎士団員は無罪とされた。フランス以外の地域、たとえばアラゴン、ポルトガル、ドイツ、イングランドでは、拷問を使わない、あるいは限定的にしか使わない手続きが取られた。結果として有罪判決はほとんど出ていない。
「自白の量」と「拷問の量」が綺麗に相関している。これは財宝の話とは別に、この事件の性質を語るうえで決定的な数字だと思う。
そして最も現実的で、最もロマンのない答えが、ポルトガルにある。ポルトガル王ディニス一世は騎士団員の迫害を拒否し、一三一九年に「キリスト騎士団」を新設して、旧テンプル騎士団の人員も資産もそのまま受け継がせた。トマールの修道院はそのまま本部になった。この組織は後に大航海時代の資金源と組織基盤の一部になっていく。
エンリケ航海王子がこの騎士団の管理者だった。つまり「テンプル騎士団の富が海の向こうへ渡った」という話には、ちゃんと本当のバージョンが存在する。ただしそれは秘密の船団ではなく、ごく公式な組織改編としてだ。
中身は金ではなかった、という方向
財宝の中身を貴金属ではなく聖遺物だとする一派もいる。聖杯、契約の箱、キリストの真の血統に関する文書、そしてトリノ聖骸布。この方向を作ったのも、やはり二十世紀後半の代替史本の系譜だ。とくに聖杯を「血統」と読み替えるアイデアが加わってから、話の商業的な射程が一気に伸びた。
歴史側で唯一まともに議論の俎上に載るのが聖骸布だ。あの布の記録上の初出は一三五〇年代のフランス、リレー=シュル=ウルスで、所有者はジョフロワ・ド・シャルニーという騎士だった。名前を見てほしい。モレーと一緒に焼かれたノルマンディー管区長ジョフロワ・ド・シャルネーと、ほとんど同じ綴りなんだよな。
バルバラ・フラーレはこの一致に注目した。騎士団が聖骸布を保管しており、それが「頭部を崇拝した」という自白の実体だったのではないかと主張した。
面白い仮説ではある。ただ学界の反応は冷たい。同名の騎士は当時いくらでもいるし、両者の血縁関係を示す文書もない。加えて放射性炭素年代測定では布は十三世紀から十四世紀のものと出ている。
そもそもこの布自体が騎士団壊滅と同時代に作られた可能性が高い。それでもこの説はしぶとい。「頭部の偶像」という自白と「顔が写った布」という物体が、あまりにも綺麗に噛み合ってしまうからだ。噛み合いの気持ちよさは、証拠の強さと関係なく人を説得してしまう。
フリーメイソンが騎士団の子孫を名乗りはじめた日
継承説の起源も、日付で特定できる。一七三七年三月二十一日、パリでアンドリュー・マイケル・ラムゼー、いわゆるシュヴァリエ・ラムゼーが行った演説がそれだ。スコットランド出身でフランスに帰化したこの人物は、フリーメイソンの起源を石工組合ではなく十字軍の騎士たちに求めた。
実のところ彼が名指ししたのは主に聖ヨハネ騎士団だったのだが、聴衆が受け取ったのは「われわれの祖先は十字軍の秘密の兄弟団である」という壮大なイメージのほうだった。
これに具体的な系図を接ぎ木したのが、ドイツのカール・ゴットヘルフ・フォン・フント男爵だ。一七五〇年代から六〇年代にかけて彼が「厳格遵守派」を広めた。フリーメイソンがテンプル騎士団の直系であり、正体を明かせない「知られざる上位者」によって統率されていると主張し、この体系は驚くほど流行した。理由は簡単だ。
当時の貴族社会において、自分の所属する結社が中世騎士団の後継だという設定は、社会的にとてつもなく格好よかったからだ。ただしフォン・フントは、系譜の証拠を最後まで一つも提示できないまま死んでいる。
十九世紀に入るとフランスで、ベルナール=レモン・ファーブル=パラプラが「ラルメニウス憲章」なる文書を掲げた。モレーの死の直後にヨハネス・マルクス・ラルメニウスが総長職を密かに継承した。以後途切れず現代まで続いてきた、という内容の系譜文書だ。古文書学的に見ると、これは十八世紀末から十九世紀初頭に作られた偽作というのがほぼ定説になっている。
それでも、この文書を根拠にした「現代テンプル騎士団」を名乗る団体は、いま世界中に存在する。
こうした継承主張のすべてに共通するのが、一三一四年から十八世紀までの四百年以上に、文書の空白があるという点だ。系譜というのは切れ目がないから系譜なのであって、四百年抜けているものは系譜ではない。歴史家フランク・サネロは、フリーメイソンによるテンプル騎士団への接続を「マーケティング・キャンペーン」と言い切っている。
実際、十八世紀の結社にとって、それは会員を集めるための最高の物語だったんだよな。ついでに言うと、アメリカで一九一九年に設立された青少年組織デモレーは、モレーの名を冠している。ただ、その由来を歴史的継承ではなく象徴として扱っている。こちらのほうが誠実な態度だと思う。
オーク島の穴と、ノヴァスコシアまで伸びた妄想
一七九五年、カナダのノヴァスコシア州オーク島で、若者たちが地面のくぼみを掘りはじめた。掘るほどに一定間隔で丸太の層が現れ、下へ下へと続いていた。これがマネーピットの始まりで、以後二百三十年、この穴は世界で最も金を吸い込む穴として君臨し続けている。掘削で命を落とした人間は少なくとも六人。
フランクリン・ルーズベルトも若い頃に出資者の一人だった。
初期の推測は素直に海賊、とくにキャプテン・キッドの財宝だった。テンプル騎士団が持ち出されるのは、はるかに後だ。鍵になったのは、一三九八年にオークニー伯ヘンリー・シンクレアが新大陸に到達していたという説だ。これは十六世紀に出版された「ゼーノ兄弟の航海記」という信頼性の疑わしい文書に依拠している。
ここへ「シンクレア家はテンプル騎士団の庇護者だった」「ロズリン礼拝堂に秘密がある」という別系統の伝説が接続された。さらに「ラ・ロシェルの船団は大西洋を渡った」という説が合流して、一つの巨大な物語になった。
構造を見てほしい。それぞれ独立に検証不能な三つの弱い説が、互いを支え合うことで一つの強い物語に見えている。ゼーノ文書の信憑性はシンクレア=騎士団説では検証されない。シンクレア=騎士団説の弱さはラ・ロシェル船団説では問われない。
ラ・ロシェル船団説の原典が三行の伝聞であることは、オーク島では語られない。陰謀論の耐久性は、この相互参照の輪から生まれる。
そして二〇一四年から続くテレビ番組が、この輪に燃料を注ぎ続けている。番組内では十字架型の鉛の遺物や、騎士団の紋章に似た刻印が「発見」されるたびに大騒ぎになる。掘削は今も続いていて、金塊は出ていない。皮肉なことに、番組の考古学的な副産物として、島の入植期の遺物はそれなりに出土している。
真面目な考古学のほうが先に成果を出しているというのは、この手の話でよくある光景だ。
スイス銀行の起源がテンプル騎士団だ、という壮大な飛躍
もう一つの人気路線がスイスだ。逃げた騎士団はアルプスに潜り、ハプスブルク家への抵抗を指導した。やがてスイス連邦を作り、その金融ノウハウが今日のスイス銀行の秘密主義になった、という筋書き。アラン・バトラーとスティーヴン・ダフォーが二〇〇七年の『戦士たちと銀行家たち』で唱えたバージョンがよく知られている。
根拠として持ち出されるのは三つある。アッコン陥落とスイス原初三邦の同盟がどちらも一二九一年であるという時期の一致。スイス各州の紋章に見られる十字などの意匠。そして小さな山岳共同体が当時のヨーロッパ最強クラスの騎兵を撃破したという軍事的な不思議さだ。
反論はかなり素朴で、かつ致命的だ。まず年代が合わない。原初三邦の同盟は一二九一年八月、騎士団の逮捕は一三〇七年十月で、十六年ずれている。逃げてきた集団が、逃げる十六年前の建国を主導することはできない。
次に言語の壁がある。フランス語圏出身の騎士たちが、当時の中世スイス方言で書かれた同盟文書の世界に溶け込む。そして指導層になったという想定には、何の裏づけもない。そして紋章の十字はキリスト教圏ならどこにでもある意匠であって、それを証拠と呼ぶなら世界の半分がテンプル騎士団になる。
スイス金融が発達した実際の理由は、宗教改革期の資本流入、傭兵稼業で得た外貨、そして近代以降の中立政策と法制度にある。中世の騎士は関係ない。
ジゾール城の地下に十九の石棺がある、と男は言った
派生ロアのなかでも、いちばん映画的なのがジゾールだ。一九四六年、ノルマンディーのジゾール城で庭師兼管理人をしていたロジェ・ロモワという男がいた。彼は城の主塔の下を無許可で掘り続けた末に、地下の礼拝堂を発見したと主張した。彼の証言によれば、そこには長さ二メートル、幅六十センチの石棺が十九基あり、金属製の櫃が十個ずつの列で並んでいたという。
数は資料によって三十とも四十とも伝わる。
ロモワは通報したが、まともに取り合われなかった。話に火がついたのは一九六二年、ジェラール・ド・セードが『テンプル騎士団はわれわれのなかにいる』を出してからだ。この本がベストセラーになり、世論に押される形で、当時の文化大臣アンドレ・マルローが公式の発掘を命じた。結果は、行き止まりのトンネルだけ。
ロモワは「あと百五十センチ掘れば着く」と言い続けた。一九六四年の二度目の発掘も空振りだった。
この一件が伝説に残した後遺症は二つある。一つは、フランス政府が発掘の目的について説明を二転三転させたこと。最初は壁画の調査だと言い、後から財宝の確認だと言った。この不手際が「政府は何かを見つけて隠した」という物語を生んだ。
もう一つは、ロモワの代理人的な立場にいた人物が、後にシオン修道会という壮大な偽史を創作するピエール・プランタールだったことだ。ジゾールの穴は、そのままレンヌ=ル=シャトーと『ダ・ヴィンチ・コード』へ続く導火線になった。地下に何もなかったとしても、この穴は間違いなく現代のオカルト史を掘り当てている。
十三日の金曜日は、本当にあの日から始まったのか
いちばん広まっていて、いちばん簡単に否定できるのがこれだ。十三日の金曜日が不吉なのはテンプル騎士団が逮捕された日だから、という説。
まず、十三という数字への忌避と、金曜日への忌避は、それぞれ別々に古くから存在した。最後の晩餐の十三人目、金曜日の磔刑という連想は中世からある。だが「金曜日かつ十三日」という組み合わせを一つの凶日として恐れる習慣は、驚くほど新しい。
英語圏で明確に確認できるようになるのは十九世紀後半以降で、決定打になったのは一九〇七年、トマス・W・ローソンが出した小説『フライデー・ザ・サーティーンス』だ。株式仲買人が十三日の金曜日への恐怖を利用して市場を暴落させる、という筋書きで、これが大衆に組み合わせを刷り込んだ。二十世紀後半にホラー映画シリーズが決定的に固定した。
では、テンプル騎士団との結びつけはいつ生まれたのか。少なくとも十九世紀の民俗学者たちは、この説明を採用していない。もし本当に六百年間ヨーロッパで語り継がれていた由来なら、民俗研究の記録に残らないほうがおかしい。この結びつけが爆発的に広まったのは、二〇〇三年の『ダ・ヴィンチ・コード』以降だ。
作中で語られたことで、一気に「常識」になった。カーディフ大学の中世史家ヘレン・ニコルソンは、こうした騎士団神話に付き合わされ続ける立場にいる。彼女は彼らを「きわめて退屈なローマ・カトリック教徒」だと表現している。人々が求めているのは史実ではなく物語だ、という諦めの混じった名言だと思う。
ついでに言うと、そもそも逮捕は「十三日の金曜日」に世界同時発生したわけでもない。フランス王の命令が及ぶ範囲での作戦だった。イングランドで逮捕が始まるのは翌一三〇八年一月で、アラゴンやドイツはさらにばらばらだ。日付の劇的さは、あとから物語が発見した美点にすぎない。
で、結局、財宝はあったのか
いちばん肝心な問いに答える。あった。ただし、みんなが想像しているものとは形が違う。
テンプル騎士団は間違いなく巨大な富を持っていた。だがその富の大半は、金貨の山ではない。ヨーロッパ全土に散らばる九千とも言われる不動産、農地、水車、市場権、そして貸付債権だ。これは金庫に詰めて馬に積める種類の富じゃない。
土地は逃げられないし、債権は組織が消滅した瞬間に価値を失う。フィリップ四世が押収したのも、そのほとんどが動かせない資産だった。
そして肝心の現金について言えば、フィリップ四世は明らかに期待外れの結果を得ている。彼は結局、借金の帳消しと押収資産の一部で当座をしのいだが、王室財政の根本的な立て直しには失敗した。もし押収した金庫からとんでもない額の金銀が出ていたのなら、その後の彼の財政政策があそこまで場当たり的である理由が説明できない。
逆に「だから財宝は逃げたんだ」と言いたくなる気持ちもわかる。だが騎士団は、その二十年ほど前から慢性的な資金難にあったという指摘もある。聖地を失った軍事修道会は、収入源である寄進が細り、支出だけが残る構造にあった。金庫が思ったほど厚くなかったのは、逃がしたからではなく、もともとそこまで無かったからだという線が、いちばん史料に沿っている。
もう一つ。押収資産の名目上の行き先はヨハネ騎士団だ。移管は各国でぐだぐだにもめ、フランス王は訴訟費用として大きく差し引き、イングランド王も同じことをした。要するに、財宝は「消えた」のではなく、王家と別の騎士団と地方領主のあいだで、何十年もかけてじわじわと溶けていった。
物語としては最高に地味だが、これが歴史の答え方なんだよな。
ネットはこの話をどう転がしてきたか
この伝説の現代史も見ておきたい。二〇〇〇年代前半、『ダ・ヴィンチ・コード』が世界で八千万部級のヒットを飛ばして以降、テンプル騎士団は完全にポップカルチャーの共有財産になった。ゲームの題材としても定着し、暗殺者と騎士団の千年戦争を描くシリーズは世界的なフランチャイズに育った。
若い層の多くにとって、テンプル騎士団の第一印象は史書ではなくゲームだ。
その一方で、検証側も強くなった。疑似歴史の批判で知られるジェイソン・コラヴィートは、ジャン・ド・シャロン供述のラテン語原文と英訳を自分のサイトに公開している。そして「十八隻の船を語る中世の記録はこれ一つしかない」と繰り返し指摘している。歴史系の質問掲示板では、テンプル騎士団の財宝について質問が立つ。
そのたびに、専門家が「動産より不動産が問題です」と説明する光景が何年も繰り返されている。反証は行き渡っているのに、伝説の勢いはまるで衰えない。
反証が効かない理由もはっきりしている。反証は面白くないからだ。「押収された資産の大半は農地でした」という一文には、月明かりの下で船に積み込まれる木箱の絵が付かない。人間の記憶は絵で残る。
そして絵のある話が、絵のない話に負けたところを、わたしは見たことがない。
もう一つ、無視できない現代の側面がある。テンプル騎士団の名前とシンボルが、一部の極右や反イスラームの過激な言説に流用されているという問題だ。二〇一一年のノルウェーでの事件の加害者が、自らの文書でテンプル騎士団を名乗ったのは象徴的だった。ポーツマス大学の研究者らが指摘している。
中世の一組織が「文明の防衛者」という現代的な政治記号に読み替えられてしまっている。歴史上のテンプル騎士団は、イスラーム圏の統治者と外交交渉を重ね、現地の言語を扱い、時には同盟すら結んだ実務的な組織だった。彼らを純粋な宗教戦争の象徴として担ぐのは、史実に対しても失礼な話だと思う。
なぜこの物語だけが七百年もったのか
最後に構造の話をしたい。中世に消滅した組織はいくらでもある。それなのに、なぜテンプル騎士団だけが伝説製造機になったのか。理由はいくつも重なっている。
第一に、終わり方が異常だった。組織は有罪判決を受けていない。教皇は「有罪だから解散」ではなく「職権で解散」という表現を使い、裁判は結論を出さないまま打ち切られ、幹部は火刑になった。物語には解決していない穴が残った。
人間の脳は、穴を見つけると勝手に埋めようとする。
第二に、当事者が全員いなくなった。組織が消えたということは、自分たちの歴史を守る人間が誰もいなくなったということだ。ヨハネ騎士団もドイツ騎士団も存続したから、自分たちについて語られる嘘に反論できた。テンプル騎士団にはそれができない。
空になった名前は、誰でも自由に使える資源になる。
第三に、彼らの実務が現代の陰謀論的想像力とあまりに相性がいい。国際的な支店網。書類による資金移動。数字を扱う修道士がいた。
秘密の入団儀礼。教皇直属で世俗の司法から独立した特権もあった。これを現代語に翻訳すると、多国籍金融機関、国境を越える資本、法の外にいるエリート、非公開の儀式、となる。要するに、テンプル騎士団は「世界を裏で動かす組織」という現代人の不安の鋳型に、あつらえたようにぴったりはまる中世の実在物なんだよな。
第四に、断絶の期間がちょうどいい。証拠が残らないほど遠く、記録が残るほど近い。年代記も裁判記録も王室の会計簿も残っているから、細部を積み上げて「調べている感」を出すことができる。同時に、決定的な確認は不可能なほど古い。
この距離感が、探索者を永久に走らせる。
第五に、そして最も大事なことだが、この物語には損をした人がいる。無実だったかもしれない大量の人間が、権力の都合で焼かれた。取り返しがつかない。だから人は「彼らは最後に何かを守り通した」という結末を欲しがる。
財宝が逃げたという話の本当の機能は、宝物の在処を示すことじゃない。負けた側に、たった一つだけ勝ち星を与えることだ。物語が七百年もったのは、その願いが七百年もったからだと思う。
中世の宗教裁判ではなく、近代国家の予告編だった
ここからは、上で並べた事実をもう一段深く噛み砕いていく。個々の逸話を追いかけていると見落としがちな構造が、いくつかある。
まず、この事件が「中世の宗教的狂信」ではなく「近代国家の予告編」だったという点を強調しておきたい。フィリップ四世がやったことを手続きの側面だけ抜き出すと、驚くほど現代的だ。事前に密告者から情報を集め、法律家に法的な組み立てをさせ、全国の役人に開封期日を指定した封書を配り、指定日に同時執行した。
押収と同時に世論向けの声明を出し、身柄を確保したうえで自白を取り、自白をもって国際世論を作り、最終的に教皇庁を政治的に追い込んで組織の法人格を抹消させた。情報統制、同時作戦、司法手続きの武器化、そしてプロパガンダ。これは中世の暴君の思いつきではなく、官僚機構を持つ王権が設計した作戦だ。
ノガレという法律家が中心にいたことが何より象徴的で、この事件の主役は剣ではなく書類なんだよな。
だからこそ、テンプル騎士団の壊滅は「宗教が国家に負けた事件」として読むと筋が通る。教皇直属という特権は、教皇が強い時代には最強の盾だった。この構図が崩れていく経緯を追っておきたい。しかしアナーニ事件で教皇が物理的に屈服させられ、教皇庁がアヴィニョンへ移って以降、その盾は空手形になった。
クレメンス五世はガスコーニュ出身のフランス人で、フランス王の影響圏から出られなかった。彼が一三〇八年のシノンで下した「異端ではない」という判断を公表できなかったのは、その判断が正しいと信じていなかったからではない。公表すれば自分の立場が持たなかったからだ。シノンの羊皮紙が本当に暴いたのは、騎士団の無実というより、教皇権の無力なんだよな。
次に、財宝伝説の生成過程をもう一度、時間軸で整理しておきたい。第一段階は一三〇七年から〇八年、事件と同時進行で発生した街の噂だ。ジャン・ド・シャロンの供述は、この噂を尋問官が書き留めたスナップショットにすぎない。第二段階は十四世紀から十七世紀、伝説がほぼ休眠していた期間だ。
この間、テンプル騎士団は「異端で滅んだ騎士たち」という道徳的教訓話の役割しか持っていない。財宝を探しに行く人はほとんどいない。
第三段階が十八世紀。ここで質が変わる。フリーメイソンという新しい結社が、自分たちの権威づけのために中世騎士団の系譜を必要とした。ラムゼーの演説とフォン・フントの厳格遵守派によって、テンプル騎士団は「今も生きている秘密組織」に改造された。
財宝は物質から知識へ、つまり「秘密の教え」へと変換される。ここが決定的な転回点だ。財宝が知識になった瞬間、この伝説は物理的な発見によって否定できなくなった。掘っても何も出てこないことが、むしろ「そういう種類の宝ではない」という証拠になってしまうからだ。
第四段階が十九世紀。フランス革命の記憶とロマン主義がこれに乗る。エリファス・レヴィがバフォメットに姿を与えた。ラルメニウス憲章が偽の系譜を提供し、スコットランドのメイソン団体がバノックバーン伝説を整備した。
この時期に作られた意匠が、今のイメージのほぼすべてを供給している。
第五段階が二十世紀後半。ジゾールの穴、ジェラール・ド・セード、ピエール・プランタールのシオン修道会、そして一九八二年の英語圏でのベストセラー。ここで「地名を伴う具体的な地図」が完成する。ラ・ロシェルが物語に組み込まれるのも、大西洋横断が追加されるのも、この段階だ。
第六段階が二〇〇三年以降。小説と映画とゲームによる大量供給。ここで伝説は完全にグローバル化して、日本の深夜のオカルト番組にも、南米の掲示板にも、同じ形で流通するようになった。ここで浮かび上がってくるのは、各段階で伝説が前の段階を「古い言い伝え」として引用している点だ。
十九世紀の創作を二十世紀の本が「古い伝承によれば」と紹介し、二十一世紀の動画がそれを「歴史書によれば」と紹介する。参照の連鎖が時間を偽装する。この装置がある限り、原典に三行しかないという事実は、決して末端まで届かない。
もう一つ深掘りしておきたいのが、「証拠がないこと」の扱い方だ。財宝説の擁護論は、たいてい二段構えになっている。第一段は「押収額が少なすぎる。だから隠された」。
第二段は「記録が残っていない。それこそ隠蔽の証拠だ」。この二段構えは論理的に反証不可能で、どんな新事実が出ても物語が生き延びるようにできている。歴史学の側はこの構造に対して分が悪い。
歴史学が扱えるのは「ある記録が何を語っているか」であって、「記録が存在しない理由」ではないからだ。
ただ、ここで一つだけ、擁護論に有利すぎる前提を外しておきたい。テンプル騎士団の資産構成は、ほんとうに現金比率が低かったのか。これは推定するしかないが、当時の彼らの主要業務は、預金の保管、送金、そして王侯への貸付だった。それを考えると、預かり金は「他人の金」であって騎士団の資産ではない。
押収の際に金庫にあった現金の相当部分は、預金者に返還されるべき性質のものだ。つまりフィリップ四世が期待した「騎士団の金」と、実際に金庫にあった「他人の金」は、法的にも実質的にも別物だった。この点は財宝伝説ではまず語られないが、王が期待外れに終わった理由としては、逃亡説よりよほど説得力がある。
そして拷問の話に、もう一度だけ戻りたい。詳細な手口を書くつもりはない。書く意味がない。ただ、この事件は「拷問で得た自白がどれだけ信用できるか」という問題の、歴史上もっともきれいな対照実験になっている。
そこだけは見ておきたい。フランスでは拷問が広範に用いられ、自白率はほぼ百パーセント、告白内容は尋問項目とほぼ一致した。イングランドでは当初、拷問が国内法で認められず、自白はほとんど出なかったが、教皇の圧力で拷問が導入されてから、ようやく数件の自白が出た。アラゴン、キプロス、ドイツ、イタリアの一部でも同様の相関が確認できる。
拷問の有無で結果が変わるなら、その結果は真実ではなく手続きの産物だ。七百年前の裁判記録が、これほど明快に自白偏重の危うさを示しているというのは、いま読んでも背筋が寒い。
最後に、この物語を追いかけていて個人的にいちばん引っかかった点を書いておく。ジャック・ド・モレーという人物のことだ。彼は総長として決して有能ではなかった。聖地奪還の計画は空回りし、ヨハネ騎士団との合併案には反対し、王と教皇の政治的な機微を読み違え続けた。
逮捕の前日に王弟の葬列で棺を担がされていたのは、名誉ではなく油断の証拠だ。彼は最初の尋問であっさり自白し、その後撤回し、また揺れ、七年近く牢のなかで方針を定められなかった。
それでも、最後の日に彼はやった。終身刑という、生き延びる選択肢が目の前に用意されていた壇上で、立ち上がって「自白は偽りだ」と叫んだ。それが火刑を意味することを、彼は誰よりも正確に知っていた。四年前に五十四人が焼かれるのを見ている。
その選択の重さの前では、彼が有能だったかどうかはどうでもいい。並んで立ったジョフロワ・ド・シャルネーも同じことをした。沈黙して牢に戻った二人を責める気にもならない。あの状況で口を開くのは、正義感というより、たぶんもっと個人的な、これ以上自分に嘘をつき続けられないという類の限界だったんじゃないかと思う。
セーヌの中州の火が消えたあと、パリの市民が舟でその場所に渡り、灰を拾って持ち帰った。異端者として焼かれた男の灰を、聖遺物として。国家が下した判決を、民衆がその日の夜のうちに事実上ひっくり返している。この一場面が、テンプル騎士団伝説の本当の起点だと思う。
財宝の噂よりも、船団の伝聞よりも先に、あの夜、灰を拾う手があった。あの手が持ち帰ったものが、七百年かけて船になり、島になり、礼拝堂になり、ゲームのタイトルになった。
だから、もしどこかに財宝が眠っているのかと聞かれたら、こう答えるしかない。金貨の山はたぶんない。あれば七百年のあいだに誰かが掘り当てている。だが、権力に一夜で消された組織が、その権力よりはるかに長く人々の口に残り続けたという事実だけは、間違いなくそこにある。
フィリップ四世の名を、彼が何をしたかまで含めて言える人間より、テンプル騎士団の名を知っている人間のほうが、いま圧倒的に多い。勝ったのはどっちだったのか、わりと本気で分からなくなる話だ。
