敵のいない海で、いちばん有名な戦艦が消えた
戦争で軍艦が沈む話なら、いくらでもある。雷撃、爆撃、砲戦、機雷。理由がある死に方だ。悲しいけれど、少なくとも「なぜ沈んだか」は分かる。
ところが1943年6月8日、山口県の柱島沖で起きたことは違った。敵はいない。空襲もない。潜水艦の影もない。梅雨入り前のじっとりした霧が海面を覆っていて、昼めしが終わって「煙草盆出せ」の号令がかかった、そのゆるい時間。日本海軍がいちばん国民に自慢していた戦艦「陸奥」が、いきなり自分で爆発した。
船体は真っ二つに折れた。前半分は右に傾いて、あっという間にひっくり返って沈んだ。後ろ半分は艦尾を空に突き上げたまま数時間浮いて、日が落ちる頃に静かに消えた。乗っていた1474人のうち、1121人が死んだ。しかも死因の大半が溺死ではなく爆死だった。つまり、海に落ちる前に死んでいる。
これが「陸奥爆沈」だ。日本の軍艦事故としては、いや世界の軍艦事故史のなかでも最悪クラスの死者を出した。にもかかわらず、当時の日本国民はこの事故を一切知らされていない。新聞にも出ない。ラジオでも言わない。遺族にも半年以上、まともな通知が届かなかった。海軍は本気で、この事件を歴史から消そうとした。
そして原因は、いまだに確定していない。83年経っても、だ。
この記事では、その日に何が起きたのかを時刻を追って全部並べる。陸奥という船がなぜあれほど愛されていたかも書く。海軍がどう隠したか、査問会議がどこでつまずいて、どうして「一人の水兵の放火」というところに着地したのか、その結論がどれくらい薄っぺらい根拠の上に立っているのかも書く。引き揚げの話も、遺族の話も、怪談として語られてきた層の話もやる。長くなるけど、この事件はそれだけの重さがある。
そもそも陸奥って、どういう船だったのか
「未完成艦」と言われて、日本中がキレた
まず、陸奥がどれだけ特別な船だったかを分かってもらわないと、この事件の後味の悪さが伝わらない。
陸奥は長門型戦艦の2番艦だ。八八艦隊計画の2号艦として、1918年6月1日に横須賀海軍工廠で起工。1920年5月31日午後3時8分に進水した。進水式には貞明皇后、皇太子時代の昭和天皇、秩父宮、そして海軍大臣の加藤友三郎まで顔を揃えている。要するに国家行事だった。
問題はここからだ。1921年11月から翌年2月にかけて、アメリカの首都でワシントン海軍軍縮会議が開かれる。日本の全権は加藤友三郎、幣原喜重郎、徳川家達。ここで「会議開催までに完成していない艦は廃艦」というルールが作られ、そのリストに陸奥の名前が載った。
当時、41センチ砲、つまり16インチ砲を積んだ完成済みの戦艦は、日本の長門とアメリカのメリーランドの2隻しかなかった。ここに陸奥が加われば日本が2対1でリードする。英米が必死で潰しにかかったのは当然だ。
日本側は「陸奥はもう完成している」と言い張った。実際は完成していない。突貫工事で装甲板は不良品と判定されたものを使い、測距儀などの備品も間に合わず、公式試験まで省略して半完成のまま海軍に引き渡している。書類上の竣工日は1921年10月24日、引渡し式は11月22日。
艤装中の陸奥に第三分隊長として着任した大西新蔵大尉は「外観は完備しているが多くの整備作業が必要だった」と書き残しているし、アメリカの新聞には完成度85パーセントと報じられていた。
で、日本は何をしたか。外務省を通じて英米の新聞記者を横須賀に招き、陸奥を見学させたのだ。しかもこのとき、艦内の病室に患者が一人もいなかったので、怪しまれないように横須賀海軍病院から患者を大急ぎで運び込んだという。悲しくなるくらい涙ぐましい工作である。
結局、陸奥の保有は認められた。ただし代償として、アメリカは廃棄予定だったコロラド級の建造続行を、イギリスは後のネルソン級となる戦艦2隻の新造を認めさせた。比率で見れば日本はむしろ損をしている。それでも、当時の日本人にとってこれは「国民が守り抜いた船」だった。国内では連日この話題が報じられ、陸奥は完成する前から国民的スターになっていた。
こうして世界に7隻だけの16インチ砲搭載戦艦が揃う。長門、陸奥、コロラド、メリーランド、ウェストバージニア、ネルソン、ロドニー。日本ではこれを「世界のビッグセブン」「世界七大戦艦」と呼んで持ち上げた。
かるたに詠まれ、教科書に載った船
大和と武蔵は徹底的に秘匿されていたから、戦前の日本人が「軍艦」と聞いて思い浮かべるのは長門と陸奥だった。この2隻は交互に連合艦隊旗艦を務めていたから、知名度は群を抜いている。
学校の教科書に絵が載った。少年たちは煙突が後ろに曲がった長門型のシルエットを、みんな描けた。1930年の少年向け雑誌の新春号付録には「陸奥と長門は日本の誇り」という札を含むかるたまで作られている。海軍兵学校では「陸奥、長門の40センチ砲が太平洋を睨んでいればアメリカは攻めてこない」と語り継がれていた。
艦名の由来は旧国名の陸奥国だ。陸奥湾に入泊したときには、大勢の青森県民が見物に押しかけた。艦内神社には岩木山神社の御分神が祀られていて、乗組員は岩木山神社に参拝している。船に土地の神様が乗っている感じ、ちょっといい。
歴代艦長の顔ぶれもすごい。1924年11月から1年間艦長を務めたのが米内光政。その後も堀悌吉、吉田善吾、高木武雄、五藤存知、保科善四郎と、海軍史の教科書に出てくる名前がずらりと並ぶ。1927年の海軍特別大演習観艦式では昭和天皇の御召艦になっている。
1924年9月6日には、廃棄艦「安芸」を標的にした実弾射撃で、長門とともに41センチ砲を叩き込んで沈めてみせた。昭和天皇は金剛の艦上からこれを見ている。要するに陸奥は「見せるための船」でもあった。
大改装、そして「艦隊旅館」
1934年9月5日から1936年9月30日まで、陸奥は二か年計画の大改装に入る。目的は砲戦能力の向上と防御力の改善だ。バルジを付け、艦首を延長し、水平防御を厚くし、注排水区画を増やした。主砲塔は、軍縮条約で廃艦になった加賀型戦艦の加賀と土佐のために作られて保管されていたものを改良して載せ替えている。廃艦になった妹たちの砲を、姉が引き継いだ格好だ。
蒸気缶は減って煙突は1本になり、艦橋は複雑な前檣楼へと変わった。基準排水量は3万9050トン、全長224.94メートル、最大幅34.60メートル。速力は26.5ノットから25.28ノットに落ちたが、航続距離は16ノットで8650海里に伸びた。
ここまでは順風満帆だ。問題は、この船が太平洋戦争で何もできなかったことである。
1941年10月8日、連合艦隊旗艦の座は陸奥から長門に移った。同年12月8日の真珠湾攻撃では戦艦部隊とともに出撃したが、小笠原諸島の近くまで行っただけ。しかも航海中の12月11日に舵が故障して、旋回しながら艦隊から落伍している。宇垣纏連合艦隊参謀長は日記に「敵潜あらば絶対の襲撃機会なり」と書いた。冷たい。
1942年6月のミッドウェー作戦にも出た。だが山本五十六直率の主力部隊は南雲機動部隊のはるか後方にいて、戦局には何も寄与していない。空母が全滅したあと、陸奥は救助された赤城の生存者を収容して帰ってきた。それが唯一の仕事だった。
同年8月の第二次ソロモン海戦では、もっと切ない目に遭う。前進部隊に編入されて久しぶりの出撃だと乗員は前祝いまでしたのに、アメリカ機動部隊を追撃する段になると、25ノットしか出ない陸奥は30ノット超の重巡たちについていけない。白露型駆逐艦3隻と一緒に後方に置いていかれた。対空戦闘で主砲を撃ったのがせいぜいだ。
戦史叢書はこう書いている。空母を中心に機動する作戦においては、低速戦艦はすでに作戦上の要求に適合しなくなっていた、と。
その後、陸奥はトラック泊地で待機を続ける。南太平洋海戦にも第三次ソロモン海戦にも出ない。他艦に燃料や食糧を配るのが仕事になった。乗員たちの間で「燃料タンク」「艦隊旅館」と陰口を叩かれるようになる。
1943年1月7日にトラックを発ち、12日に横須賀着。2月15日に横須賀を出て、広島湾沖の柱島泊地に移った。5月にはアッツ島にアメリカ軍が上陸し、第二戦隊は出撃準備をしたが結局出ない。5月29日、アッツ島守備隊玉砕。
国民的スターの船が、何もできないまま瀬戸内海のブイに繋がれている。艦内の空気がよかったはずがない。実際、この頃の陸奥では窃盗事件が頻発していた。この事実が、あとで恐ろしい意味を持つことになる。
1943年6月8日、柱島泊地のその日
朝の霧雨と、13時のブイ明け渡し
柱島は、岩国港の南東およそ26キロの海上に浮かぶ島だ。島内にたくさんの神社、つまり「柱」が祀られていたのが名前の由来だという。周辺の海域が連合艦隊の泊地に選ばれたのには理由があって、小さい島が多くて敵の潜水艦が入り込みにくく、しかも呉の軍港が近い。艦隊を隠して寝かせておくには理想的な水面だった。
6月8日の朝は霧雨だった。それがやんだあとも風はなく、霧が泊地一面に垂れ込めた。視界は1キロあるかないか。
この日、陸奥の周囲800メートルから1キロの位置に戦艦「扶桑」が停泊していた。ほかに重巡洋艦「最上」、軽巡洋艦「大淀」、第十一水雷戦隊の駆逐艦「龍田」「島風」「若月」「玉波」などがいる。ただし霧が濃すぎて、いちばん近い扶桑の艦影すらはっきり見えない状態だった。
陸奥はこの日、忙しかった。呉で整備していた長門が戻ってくるので、13時には自分が繋いでいる旗艦ブイを長門に明け渡すことになっていたのだ。転錨、つまり錨地変更の準備が朝から進んでいた。
そして陸奥艦長の三好輝彦大佐は、午前中に扶桑を訪ねている。扶桑艦長の鶴岡信道大佐は前日着任したばかりで、しかも三好とは海軍兵学校43期の同期生だった。旧交を温めて、正午前に陸奥に戻った。この数十分後に彼が死ぬことを、当然どちらも知らない。
11時30分、152人の少年が乗ってきた
午前11時30分頃、土浦海軍航空隊の甲種飛行予科練習生第11期の練習生152名が、艦隊実習のために陸奥に乗艦した。153名という記録もある。教官を含めた総数は134名という数え方もあって、資料によって微妙にぶれる。
彼らはパイロットの卵だ。飛行機に乗るのが仕事になる連中だが、海軍軍人である以上は軍艦の実務も学ばなければならない。教育課程に「艦務実習」があった。多くが16歳か17歳。カッターと水泳とモールス信号の訓練に明け暮れていた少年たちにとって、戦艦は未知の巨大建造物だった。
このとき乗艦した一人、山口県出身の和田鶴夫さんは、後年こう振り返っている。緊張もあったが、期待のほうが大きかった、と。みんな色めき立っていたそうだ。世界のビッグセブンに乗れる。しかも実習だから2週間近くいられる。
彼らのうち、生きて土浦に帰れたのは、ごく一部だった。
12時10分過ぎ、白い煙が出た
昼食が終わって「煙草盆出せ」の号令が出た。休憩時間だ。天候が悪いから、ほとんどの乗員は艦内で休んでいた。艦長の三好大佐は艦長室でくつろいでいた。
一方、13時からの錨地変更に備えて働いている者もいた。航海長の沖原秀也中佐の指揮下、航海科員が甲板上で準備をしている。機関科員は艦を動かすために主機械の暖機を始めていた。
12時10分過ぎ。沖原中佐は右舷門のあたりで甲板士官の小針佳男中尉ら3人と話をしていた。そのとき、第四砲塔の出入り口と防水鍔から、蒸気のような白い煙がどんどん噴き出してきたのが見えた。
何だあれは、と近寄ろうとした。しかし圧風に押されて近づけない。押し戻されているうちに爆発した。沖原中佐は吹き飛ばされて海中に落ちた。白煙に気づいてから爆発までは3分ほどだった、と彼は後に説明している。
艦橋にいた兵の証言はこうだ。煙が出たあと、飛行甲板が後ろからめくれ上がって、火焔が高く昇った。
第一艦隊が同日16時20分に打った第二報は、生存者と目撃者からの聴取をこうまとめている。1215、四番砲塔の防水部から白い泡が迸り出て、次いで爆発音が連続して二回。三番と四番の砲塔付近と思われる位置に、大きな白煙が2、300メートル、大火焔が約100メートル昇った。なお水柱を認めた者はいない。船体は二つに折れ、前部は転覆して1333に沈没。後部は逆立ちして、艦尾約10メートルが水面上にある。
「水柱を認めたるものなし」。この一行が、あとで外部攻撃説を潰す決定打のひとつになる。
「ムツバクチンス一二一五」
爆発の瞬間、周囲の艦は何が起きたのか分からなかった。
扶桑の運用長だった宮下亮少佐は、爆音を聞いて甲板に駆け上がった。だが濃霧で陸奥の姿がまったく見えない。艦長室にいた鶴岡大佐も爆発音を聞き、副直将校の急報で上甲板に飛び出したが、陸奥の方向は靄がかかっていて、褐色の煙がもくもくと上がるのが見えるだけだったと証言している。
扶桑はただちに戦闘配置についた。そこへ陸奥の艦載水雷艇が接近してきて、爆沈を報告した。この水雷艇は連絡用に繋船桁で陸奥に繋がれていたもので、沈む艦に引きずり込まれかけながら、もう一隻のランチとともに脱出に成功していた。
事態を掌握した扶桑は、緊急信を打つ。
「陸奥爆沈ス。一二一五」
わずか数文字の電報だ。この一報が、海軍上層部に届いた最初の情報になった。
同じ頃、長門は11時に呉を出て柱島へ回航中だった。小黒神島付近で爆発音を聞いた者もいたが、距離があって聞き取れなかった者もいる。聞こえた者も「砲熕試射だろう」と思っていた。吹きさらしの艦橋にいた第一艦隊司令長官の清水光美中将は、音そのものを聞いていない。士官室で休憩していた足立純夫主計大尉は鈍い爆発音に気づいている。
扶桑から陸奥爆沈の連絡を受けた長門は、これをアメリカ潜水艦の雷撃だと判断した。北方に転舵して距離を取る。艦長の久宗米次郎大佐は呉に戻ろうとしたが、清水中将が柱島への回航を命じ、長門は14時30分頃に泊地に到着した。
呉鎮守府も潜水艦の襲撃と判断し、対潜水艦配備を発令する。泊地は一時パニックになった。最上では霧のせいで事故そのものを目撃できなかったが、敵潜侵入の速報を受けて爆雷戦の準備に入り、そのどさくさで爆雷2個を誤って投下してしまっている。目標も分からないまま海に爆薬を落とした駆逐艦もあった。
報告を受けた昭和天皇は、軍令部の高松宮宣仁親王に「やっているだろうね」と、潜水艦対策のことをしきりに聞いたという。
結局、敵潜水艦が泊地に侵入した形跡は、どこからも出てこなかった。
沈むまでの、たぶん3分
艦の前半分は右舷に傾き、転覆して沈んだ。爆発から13時33分の沈没までの記録があるが、実質的には数分で終わったと見られている。柱島の住民は「地震より激しく島が揺れた」と証言している。
360トンの主砲塔が、艦橋の高さまで吹き飛んだという記述もある。それだけの力が、内側から一気に外へ抜けた。
後半分は艦尾を上にして逆立ちしたまま、しばらく浮いていた。周囲の艦は短艇を出して救助に走った。艦後部は17時頃まで浮いていて、日没後に沈んだ。
海面には真っ黒な重油が広がった。命からがら脱出した水兵たちは、そこからもう一度、重油と冷たい水と漂流物との戦いを強いられる。
生き残った353人、死んだ1121人
乗員1474人のうち、助かったのは353人。約350人と書かれることも多い。死者1121人。
死者のほとんどが溺死ではなく爆死だった、という事実が、この爆発の性格を物語っている。艦内にいた人間は、海に落ちる前に死んだのだ。
なぜそうなったのか。天候が悪かったせいで大部分の乗員が艦内にいた。しかも雨のせいで甲板に通じるハッチが軒並み閉じられていた。だから脱出できない。それだけでなく、爆発の熱と爆風が外に逃げられず、艦内で暴れ回った。艦内は密閉された炉のようになった。
「戦艦陸奥爆沈事故救難調査記録」も、もし天候が小雨でなかったら、昼食後の休憩時間なのだからもっと多くの乗員が上甲板に出ていたはずで、生還者ももっと出ていたのではないか、と考察している。
生存者の内訳にも、はっきりした偏りがある。助かった約350人の大部分は下士官兵で、昼食後に甲板で食器を洗っていた新兵が多かった。移動準備のため甲板で作業していた航海科員にも生存者が多い。逆に、機関の準備作業をしていた機関科員は、機関長以下ほぼ全員が死んだ。
幹部は壊滅した。艦長の三好輝彦大佐の遺体は艦長室で発見された。副長の大野小郎大佐は、戦艦霧島が沈んだときも副長だった人で、二度目の沈没で命を落とした。機関長、砲術長、主計長、軍医長、運用長。軒並み殉職している。運用長の末武政治中佐に至っては、前任者と交替したばかりだった。
幹部で唯一生還したのが、両足を負傷した航海長の沖原秀也中佐だ。彼はのちに大佐に昇進し、終戦後は第二復員官として呉で復員業務に従事した。1947年3月31日までその職にあった記録が残っている。
そして、生きるか死ぬかの分かれ目に、能力も経験も努力もほとんど関係なかった。甲板に出ていたか、艦内にいたか。ハッチが開いていたか、閉まっていたか。それだけだ。
生き延びた人たちが、何を見たか
扉を閉めた、その瞬間だった
長野県小海町の特別養護老人ホームで晩年を過ごした篠原喜一さんは、陸奥の一等水兵だった。担当は砲弾の運搬と補充。乗艦を命じられたのは20歳のときで、爆沈の日はまだ乗って45日目だった。
乗る前、彼はこう教えられていた。これは世界一の船なんだ、魚雷の5本や6本当たったってびくともしない、絶対大丈夫だ、陸奥・長門・大和のこの3隻がある限り日本は大丈夫なんだ、と。晩年のインタビューでも、その言葉をそのままの調子で繰り返している。信じていたのだ。
6月8日、彼は甲板に出て、扉を閉めた。その瞬間だった。
「うわあっと恐ろしいうなりが真っ黒の空から飛んできて、甲板にどさーっと黒い物が落ちた。今までいた兵隊さんが1人もいなくなった」
空から落ちてきた3、4メートルの黒い塊が、甲板にいた兵士たちを根こそぎ消し去った。何が落ちてきたのか、彼にも分からない。艦体の破片か、砲塔の部品か。
艦は大きく傾き、膝の高さまで一気に海水が迫った。水兵長の叫び声が聞こえた。「陸奥の最後だ。泳げない者はしがみつけ」。次の瞬間、彼は海に投げ出されていた。
海の中で、彼の足を誰かが掴んだ。同僚だった。すでに絶命していた。振り払った。その同僚が沈んでいく姿を、彼は80年後まで忘れられなかった。「申し訳ない」。死んでいたと分かっていても、仲間を見捨てたという感覚が消えなかった。
浮いていたブイのワイヤーを掴んで艦首までたどり着き、そこで長門に救助された。海底電話の錨の鎖を見たら、みんながそこにつかまっていた、とも語っている。
沈んでいく陸奥に、彼は思わず手を振った。そのとき海面で光るものがあった。艦首に取り付けられた菊花紋章だった。ケヤキ製で金箔を張った、あの紋章だ。
戦後は長野県で農業と指圧業をやりながら暮らした。表向きは穏やかな日々だ。だが記憶は消えない。約40年前、陸奥の慰霊祭が山口県で行われていると知って以来、毎年6月8日には現地に足を運ぶようになった。約15年前からは、群馬県渋川市の福増寺にも通った。この寺には、引き揚げられた陸奥の鉄で鋳造された鐘がある。戦時中に供出した鐘の復元だった。
「生きてるもんの役目だから」
鐘を突きに来る理由を聞かれて、彼はそう答えている。境内には彼の筆による記念碑があり、柱島沖を模した庭がある。寺には彼が残した品もあった。仲間の遺体を焼いた続島の浜辺を筆で描き、「脳裡から離れない」と添え書きした一幅だ。軸装されて、丁寧に巻かれていた。
2025年6月、102歳の彼を訪ねた記者が海底の陸奥の近影を見せると、彼は声を振り絞った。
「誰もいねえ」
元乗組員で他に生きている者はいない、と言おうとしたらしい。主砲の写真を並べたり、表裏を返したり。何か伝えようとしたが言葉にならず、大きく息を吐いて目を閉じた。
103歳になった彼への最後の取材は、その半年後だった。「陸奥は俺が戸を閉めたら、ドカーンと。気がついたら左に傾いていた」。記者が「陸奥を伝えていきます」と筆談で伝えると、彼は「よかった。陸奥の話ができて良かった」と言った。取材の約1か月後、2026年1月8日に亡くなった。
これで、爆沈を生きた声で語れる人間は、地上から一人もいなくなった。
龍田の甲板で、重油を吐いた
大正15年に山口県山陽町、いまの山陽小野田市で生まれた和田鶴夫さんは、あの日、予科練の実習生として陸奥に乗り込んだ一人だ。故郷の空を毎日のように海軍の練習機が飛んでいくのを見て憧れ、旧制中学在学中の1942年10月に予科練に入隊した。
雨の中、教官を含めて大勢で乗艦した。その数時間後に爆発が起きる。
彼の意識が戻ったのは、その日の夜中だった。軽巡洋艦「龍田」の甲板に、素っ裸で寝かされていた。尿意を催して舷側に立ったところで、急に気分が悪くなった。大量の重油を吐いた。夜目にも、口から出ていく黒く長い帯が見えたという。それだけの重油を飲んでいた。海軍病院に収容された。
そして、退院後に彼が最初にやらされたのが、これだ。
「今回の艦務実習について、一切口外いたしません」
模範文を見ながら、わら半紙にその文言を書き写し、署名して押印した。16、17の少年が、仲間が百人単位で死んだ現場を見た直後に、まずやらされるのが誓約書の作成である。
本来の実習期間だった2週間弱が経つと、他の艦で実習した同期生と合流して土浦への帰路についた。陸奥に乗艦した同期生は100人以上いたが、一緒に帰れたのは6人だったと彼は記憶している。他の同期生の行方は、まったく分からなかった。
土浦では再び猛訓練が始まった。だが爆沈の事実は固く伏せられたままだった。死んだ練習生たちの葬式は、所属していた土浦海軍航空隊で行われることさえなかった。家族に伝えられることもなかった。
彼が体験を語り始めたのは、91歳になってからだ。生き残りの戦友とは連絡が取れず、それまで一度も話したことがなかった。「もう90を過ぎた。寿命も近いでしょう」と、彼は取材に応じた理由を説明している。
10年ほど前、妹に連れられて陸奥記念館を訪れたときのことも語っている。展示された遺留品を見ると、自然に涙がこぼれた。交戦中なら覚悟もあっただろうが、安全なはずの停泊中だ。無念だっただろう、と。
航海長の3分間、そして生存者に告げられた言葉
沖原秀也中佐が見た白い煙から爆発までの3分間は、この事件でもっとも重要な証言だ。彼は幹部でただ一人生き残ったから、艦の上部で何が起きていたかを、責任ある立場の人間として語れる唯一の存在になった。
彼の証言には具体的な人名まで出てくる。右舷門のところで甲板士官の小針佳男中尉ら3人と話していた。そこへ第四砲塔の出入り口と防水鍔から蒸気のような白煙が噴き出す。見に寄ったが圧風で近寄れない。そのうちに爆発して吹き飛ばされ、海中に落ちた。
「圧風」という言葉が生々しい。爆発の前に、すでに何かが猛烈な勢いで噴き出していたということだ。火薬庫の中で、爆轟に至る前の段階の何かが進行していた。3分という時間は、火薬庫の異常が始まってから全体が誘爆するまでのタイムラグを示している。この3分が、事故原因を推理するうえで最大の手がかりになった。
そして生存者たちには、救助のあとで別の試練が待っていた。
長門に収容された生存者は、負傷者を除いて遺体収容作業に従事させられる。それだけではない。長門と扶桑の甲板に整列させられた彼らが受けた訓示は、こうだったと伝えられている。
「お前たちは、再び内地の土をふむと思うな」
翌日から転属が始まった。生存者の半数近い約150名がサイパン島に送られ、アメリカ軍上陸後に全員が玉砕したという。ギルバート、タラワ、マキンに送られた者も全滅。クェゼリンに回された者の多くも南方で死んだ。
そのまま長門に配属された者や、八丈島など内地に置かれた者もいるので、全員が消耗品として使い捨てられたと断じるのは正確ではない。だが吉村昭の取材によれば、生き残った300人あまりのうち、終戦時に日本の内地の土を踏めたのは、わずか60名ほどだった。
上甲板にいて生還した上別府宣紀中尉は、特四式内火艇の要員を経て、人間魚雷「回天」の搭乗員になった。回天特別攻撃隊の第一回出撃、菊水隊として出撃したのち、伊号第三十七潜水艦の沈没にともなって戦死している。二度目の海で、今度は帰ってこなかった。
続島の浜で、仲間を焼いた
沈没から1週間後、長門の甲板に生存者が呼び出された。近くの続島に上陸すると、無条件での昇進が告げられた。そして、こう命じられる。犠牲者を荼毘に付せ、と。
「生き残った者の務めだ」
海岸には、一部の犠牲者184人の遺体が並べられていた。持ち物などをもとに名前と所属を確認し、重油をかけて浜辺で焼いた。
篠原喜一さんはこう語っている。「悲しさよりも、遺骨を遺族に届けなければならない、その一心でした」。
なぜ続島だったのか。最初に遺体が流れ着いたのは柱島の浦庄の浜で、そこで焼いていた。しかし3日目からは人目につかないようにと、浦庄から目と鼻の先にある無人島の続島に運ばれることになった。隠すためだ。
吉村昭の『陸奥爆沈』には、その焼骨についてこう書かれている。焼骨には石油、重油、木材が使われたが、とくに木材は大量に必要だった。柱島やほかの島々で買い求めると爆沈の事実を嗅ぎつけられる恐れがあるので、呉鎮守府海軍軍需部からひそかに団平船で運ばせた。それでも足りず、柱島にいた各艦から円材や酒保の木箱、机までも供出させた。
軍艦の食堂で使っていた机を割って、仲間を焼く。
秘密保持のため、骨壺も手製だった。掃海と遺体収容の作業は2か月も続いた。
戦後、1953年の台風のとき、続島に埋葬されていた遺骨が海岸に打ち上げられた。それを見た地元漁協の組合長らが中心となって、陸奥の爆沈海域を臨む浜に木の墓標を建てた。1963年には島の人たちが金を出し合って「戦艦陸奥英霊之墓」を建立している。柱島の東南端、洲鼻という場所だ。港から歩いて20分ほど。石塔と墓銘碑、それに地元漁協婦人部の歌碑が並んでいる。そこからは、遺体を焼いた続島が目の前に見える。
毎年6月8日、この墓前で慰霊祭が営まれてきた。
海軍は、どうやって事実を消したか
発信禁止、航行禁止、封書禁止
爆沈の直後から、隠蔽は始まった。
「陸奥爆沈ス。一二一五」の緊急信を打った扶桑は、直後に第一艦隊司令部から指示を受けている。以後、陸奥に関する一切の発信を、防諜のため禁止する。
沈没地点付近の航行は禁止された。爆沈を目撃した可能性のある漁民には他言が禁じられた。それどころか、この地域では一時的に封書の送付そのものが禁止された。理由は単純で、封書は中身をいちいち開けないと検閲できないからだ。はがきなら軍が読める。だからはがきの送付だけは認められた。
漁師たちの扱いはもっと露骨だった。吉村昭の取材によれば、爆沈海面の近くで漁をしていた漁師は、濃霧のせいでドカンという爆発音くらいしか聞いていないのに、30名ばかりが捕まって近くの島に軟禁状態に置かれた。周辺の島の住民は3か月以上も足止めされたという話も伝わっている。
犠牲者の火葬は複数の島で秘密裏に行われた。予科練生の葬式は所属航空隊で行われず、陸奥から生還した者や、扶桑に乗艦していて助かった者にも厳重な箝口令が敷かれた。
海軍内部の処分もあった。爆沈時の第一艦隊司令長官だった清水光美中将は、責任をとらされる形で予備役に編入されている。
死んだ人の給料を、送り続ける
もっとも異様なのが、給料の処理だ。
死んだ乗員の家族には、給料の送金が続けられた。生きていることにするためである。担当の主計局員は、爆沈を隠すために死後1年以上も送金を続けたと言われている。
三好艦長の妻は、夫からの連絡が途絶えたことを不審に思って海軍省を訪ねた。応対したのは中澤佑大佐。三好とは海軍兵学校43期の同期生だった。同期の妻を目の前にして、彼は真実を打ち明けられなかった。やむを得ず夫人に帰ってもらったという。
四国の三津浜には「軍艦陸奥」と大書された被服の梱包が流れ着いた。担当者は呉に呼ばれて大目玉を食らったという話も残っている。
なぜここまでしたのか。理由ははっきりしている。1943年という年は、海軍にとって悪いニュースが連続した年だった。4月18日に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、6月5日に日比谷公園で国葬。5月29日にアッツ島守備隊が玉砕。そこへ6月8日、国民的人気を誇った陸奥が、戦地でもなんでもない自国の泊地で、戦わずに爆沈した。
3か月連続の凶報である。しかも3つ目は敵にやられたのですらない。教科書に載り、かるたに詠まれ、少年たちが憧れた船が、味方の海で勝手に爆発したなどと発表できるはずがなかった。
それでも噂は漏れた
面白いのは、これだけの箝口令にもかかわらず、噂は普通に漏れていたことだ。
連合艦隊の各艦にはニュースが通達されていた。爆沈の直前に病気療養で退艦・転勤していた前運用長の福地周夫は、着任先の海軍兵学校で教官たちから「君は幽霊ではないか」と驚かれている。
休暇で上陸した戦艦武蔵の乗組員が、なんと一般国民から「陸奥が爆沈した」と教えられたという証言もある。呉では確証を持って語られていた。舞鶴海軍工廠では「弱り目に祟り目だ」という声が流れた。
そもそも、給料を全額そのまま送り続けたのが逆に怪しかった。陸奥の乗員の家族が多く住む横須賀で、「これはおかしい」と言い出す人が出てきた。夫や息子が一銭も使わずに全額送金してくるはずがない、と。
国家が本気で隠しても、これだけ漏れる。それでも公式には最後まで隠し通され、国民が正式に知ったのは戦後だ。1945年12月9日、占領軍がラジオで放送を始めた番組のなかで、陸奥は1943年6月8日に広島湾で爆発事故により沈没したと説明された。しかも番組の原稿では艦名の漢字が「奥陸」と逆になっていた。そんな扱いだったのだ。
査問会議は、何を調べて、どこに着地したのか
亀ヶ首に、原寸の火薬庫をつくった
爆沈のその日のうちに、呉鎮守府に査問委員会が編成された。委員長は塩沢幸一海軍大将。頭文字を取って「エム査問委員会」と呼ばれた。
最初に疑われたのは、三式弾の自然発火だった。
三式弾というのは対空用の砲弾で、内部に焼夷弾をぎっしり詰めてある。40センチ砲用のものだと、なんと1200個の子弾が入っていた。発射されて一定距離に達すると散開し、敵機の編隊をまとめて焼き払う。当時としては新兵器で、実戦データも安定性のデータも足りていない。
海軍はまずこれを疑った。そして即座に、大型艦から三式弾を陸揚げするという大騒ぎになる。もし三式弾がひとりでに発火するなら、日本の戦艦は全部が時限爆弾を抱えていることになるからだ。
査問委員会がやった検証実験は、当時としては本気も本気のものだった。呉工廠の亀ヶ首砲熕実験場のなかに、陸奥の第三砲塔弾薬庫とまったく同じ構造の模型を建造したのである。予算は約300万円。当時の300万円だ。そこに陸奥の生存者を立ち会わせて、各種の火薬を実際に燃やしてみせた。
なぜ生存者を立ち会わせたのか。煙の色を見分けさせるためだ。
白い煙か、褐色の煙か
これがこの査問会議のハイライトである。
三式弾の焼夷弾が爆発するときには、白い煙が出る。一方、主砲弾用の九三式一号装薬は、ニトログリセリンと綿火薬が主成分で、燃えたときの煙の色が違う。
扶桑艦長の鶴岡信道大佐をはじめとする目撃者たちは、爆発直後に発生した煙は装薬のものだったと述べた。鶴岡は「褐色の煙がもくもくと上がった」と証言している。比較確認実験でも、同じ証言が繰り返された。
もう少し丁寧に言うと、証言には白と黒と褐色が混在している。沖原航海長が爆発前に見たのは「蒸気のごとき白煙」だ。第一艦隊の第二報も「大白煙」と書いている。一方で、爆発そのものの煙を黒煙、褐色煙と表現する証言も多い。おそらく、火薬庫内で最初に何かが燃え始めた段階の煙と、火薬庫全体が爆轟した瞬間の煙とでは、色が違ったのだろう。
いずれにせよ、実験の結果として、三式弾の劣化などによる自然発火は発生しないことが確認された。
さらに、装薬についても検討された。あらゆる条件を想定して調べたが、装薬の自然発火は決してあり得ない。仮に発火したとしても、装薬は装薬缶に収められているから、缶ひとつが燃えるだけで火薬庫全体の爆発にはならない。
ただし、ここに但し書きがついた。何らかの理由で装薬が発火し、なおかつ装薬缶の蓋がすべて開けられていたとすれば、次々に誘爆して大爆発になりうる。
蓋が全部開いていたら。この一文が、査問委員会の視線を「人為」に向けた。
「一水兵の放火」への着地と、その根拠
自然発火が消えると、残るのは人為だ。そして陸奥には、恐ろしいほど都合のいい状況証拠があった。
この頃の陸奥では、金や時計の盗難事件が頻発していた。上層部は、呉の遊郭あたりで娼妓に小遣いをばらまくなど金遣いが荒かったある二等兵曹に嫌疑をかけ、身辺調査を進めていた。
軍令部第二部第三課長の杉浦矩郎大佐が現地調査ののちに残した記述は、こうだ。四番砲塔弾庫の下士官が最近、衛兵伍長を務めていた際に時計を盗んだ。ちょうど8日に衛兵司令の中村乾一大尉と弾庫長、兵曹長らが呉軍法会議に赴いたので、本人はそれを知っていたと思える。日本海軍の同種の事件は人為的な、こうした理由が多い。
つまり、爆沈したその日の朝、盗難事件の報告のために上官たちが艦を離れていたのである。爆発は、その数時間後に起きた。吉村昭の整理では、報告に行ったのは呉にいた戦艦「大和」の法務官のところで、大尉と上等兵曹の2人が向かったという。
そして決定的なのは、この二等兵曹の遺体が見つからなかったことだ。彼が住んでいた第13居住室は、爆発した第三砲塔の真下にあった。海軍のダイバーはこの居住室から5人の乗組員の遺体を回収した。ほかの者は昼食の食卓についたまま押し潰されて死んでいた。だが、彼だけがいなかった。
査問委員会はこの点で行き止まりになった。放火とほぼ断定したものの、決め手がない。結局、あいまいな結論を提出して、2か月ほどで解散した。
その結論の文言は、後年の解説記事でこう要約されている。人為的ではないと確実に証明できないので、人為的と言えなくもないが、それも証明できない。ほとんど日本語として意味を成していない。だが、それが査問委員会の到達点だった。
1970年9月13日発行の朝日新聞は、引き揚げられた四番砲塔の内部から犯人と推定される遺骨が発見されたと報じた。このとき、窃盗の嫌疑をかけられていた人物と同じ姓名が刻まれた印鑑も同時に見つかっている。引き揚げ作業に技術者として関わった花戸忠明さんも、砲塔内部からフルネームの彫られた印鑑が見つかったこと、それが査問委員会の疑った乗組員の名前だったことを証言している。
この報道で、放火説は一般にも広く知られるようになった。
ここで、はっきり言っておきたいことがある。
査問委員会が放火と結論づけたという事実と、その人物が実際に放火犯であったという事実は、まったく別物だ。前者は記録として残っている。後者を証明する物証は、いまだにひとつもない。
印鑑が出たと言うが、砲塔内で見つかった印鑑は、その人物がその場所に配置されていたことしか意味しない。彼は第三砲塔の配置だったのだから、居住区と砲塔にゆかりの品があるのは当たり前だ。遺体が見つからなかったことも、爆心地に近い場所にいた者の遺体が原形を留めないのは、むしろ当然すぎる。1121人のうち、いったい何人が判別可能な形で見つかったと思っているのか。
要するに、この人物が疑われた最大の理由は「動機がありそうだから」であって、「やった証拠があるから」ではない。処罰を免れないと悟って自暴自棄になった、というのはあくまで推論だ。
しかも、この結論には海軍にとって都合がいい面があった。もし火薬や装薬の設計・管理に構造的欠陥があったのなら、日本のすべての軍艦が同じ危険を抱えていることになる。責任は組織にある。だが「一人の不心得者の犯行」なら、責任は個人に閉じる。
爆沈の速報を聞いた高松宮宣仁親王は、その日の日記にこう書いている。完全ナル無駄ナリ、而モ人命ヲ失フコト極メテ多シ。若シ一人ノ不心得者ノ為ストコロトセバ、海軍一般ノ教育並自覚ノ上ニ大ナル反省ト申訳ナキ罪ヲ覚悟スベキナリ。
事件当日の時点で、すでに「一人の不心得者」という枠組みが出てきているのが分かる。結論が先に用意されていた、とまでは言わない。だが、その枠に収まってくれると助かる人たちが、確実に存在した。
諸説を、ひとつずつ検討する
三式弾自然発火説
いちばん最初に疑われた説。新型の対空砲弾である三式弾が、劣化などによってひとりでに発火した、というもの。実際、この疑いが強かったせいで各艦から三式弾が陸揚げされている。
反証は前述のとおり、亀ヶ首の原寸模型を使った実験だ。三式弾の焼夷弾は燃えると白い煙が出るのに、目撃者の証言する爆発煙は装薬のそれと一致した。しかも劣化条件を再現しても自然発火は起きなかった。実験そのものは、当時の日本の技術水準としては相当に本格的なもので、この検証は今日の目で見ても十分に説得力がある。
ただし公平を期すなら、実験には限界もある。艦上で数か月から数年、高温多湿の環境に置かれた弾薬の実際の状態を、実験場で完全に再現できたかは疑わしい。実験は「この条件では起きない」を示せるが、「どんな条件でも起きない」は示せない。
装薬劣化・取扱い過失説
九三式一号装薬そのものが劣化していた、あるいは扱いを誤った、という説。爆発煙の色が装薬のものと一致したことは、この説とも矛盾しない。
補強する話として、当時は硝石が枯渇して新型火薬の製造が滞り、明治期に開発された古い火薬が再生産されていたという指摘がある。この種の火薬は取り扱いが難しく、過去にも扱いのミスによる事故を起こしている。であれば、陸奥もその系譜の事故だった可能性がある、という筋書きだ。
反証は査問委員会の見解そのもので、装薬は缶に収められているから一缶が燃えても全体の誘爆にはならない、というものだ。ただしこの反証は、「装薬缶の蓋がすべて開いていた場合」という抜け道を自分で認めてしまっている。そして昼間の作業中に蓋が開けっぱなしになる状況は、実際にあり得た。この説は、完全には潰せていない。
一水兵による放火説
現在いちばん有力とされている説であり、査問委員会が事実上到達した結論でもある。
吉村昭は『陸奥爆沈』のなかで、この説を成立させるための道筋を具体的に示した。まず、警備が厳重な弾火薬庫の扉を通らなくても、昼間は無施錠になっていた砲塔後盾の出入り口から換装室を経由して火薬庫へ入るルートがある。次に、生存者の目撃情報として「弾火薬庫に通じる入り口が開いたままになっており、横に衛兵が立っていた」という証言があった。
さらに、容疑者と目された下士官は爆発した第三砲塔の配置であり、内部構造に精通していた。加えて、彼は衛兵伍長を務めていた人物なので、入り口に立つ衛兵と顔なじみだった可能性がある。
説得力はある。だが決定的な証拠は何ひとつない。動機と機会があった、というだけだ。
反証も強い。第七駆逐隊司令部付通信兵だった大高勇治は、戦艦の弾薬庫管理は極めて厳重であり、鍵は当直将校が首から下げていて、弾薬庫には不寝番の衛兵がいる、と指摘した。彼に言わせれば、仮に陸奥の艦長が敵国のスパイであったとしても火薬庫に侵入して放火することは不可能だ、という。
長門の副砲手だった田代軍寿郎一等兵曹も、弾火薬庫の常備鍵を持った陸奥の副直将校が鍵箱ごと遺体で回収されたと主張し、予備鍵は艦長室にあることを挙げて、不審者侵入説を強く否定している。
ただし、この反証には反証の反証がある。元海軍大尉の木村八郎が生存関係者に聞き込みを行って1968年にまとめた記録では、副直将校は生還していて、火薬庫鍵箱の鍵が返納されていなかったことを証言していた、と書かれている。田代の証言と真っ向から矛盾するのだ。ちなみに田代は別の資料で、当時柱島泊地にいなかったはずの長門から陸奥の爆沈を目撃したと語るなど、記憶の混乱がうかがえる説明もしている。
さらに厄介なことに、空母瑞鶴の艦長も務めた元海軍少将の野元為輝は、戦後の海軍反省会でこう言っている。鍵の管理を厳格にしているというのは嘘っぱちで、そんなのはすぐ人に渡している、と。管理体制の建前と実態がどれだけ違ったかは、当事者の間でも意見が割れている。
いじめ苦の自殺説
人為説のバリエーションとして、上官の虐待やいじめに耐えかねた乗員が、火薬庫で自殺を図った結果だという説がある。戦後、この解釈はかなり広く流通した。
吉村昭はこれを明確に否定している。上官が兵隊を虐待したからだ、というのは戦後になってからの非常に類型的な解釈であって、事実とは違う、と。彼の取材した限りでは、動機は窃盗の露見と処罰への恐怖であって、いじめではない。
とはいえ、動機の中身は本人しか知らない。金銭欲か、虚栄心か、ノイローゼか、それとも別の何かか。吉村自身、過去の火薬庫爆発事件を起こした水兵たちについて「一人残らず下級の水兵たちで、虚栄心や金銭欲やノイローゼ気味であったため事故を引き起こした」と書き、「裸電球の下でひざを抱いてうずくまっているような、もの悲しい姿」と評している。動機を一語で括ろうとすること自体に無理がある。
爆雷誤爆説
前述の大高勇治が唱えた異説。陸奥爆沈の約1年半前、1941年12月30日、対潜水艦哨戒の出撃準備中だった駆逐艦「潮」が、起爆点を水深25メートルにセットしたままの爆雷1個を、のちに陸奥が沈む地点に落としてしまった。そのときは爆発せず、引き上げもされず、放置された。落としたという事実は上級士官に報告されなかった。
この付近の水深は25メートル前後である。陸奥が移動しようとしてスクリューを回した際、何らかの波動が発生して爆雷が起爆したのではないか、というのが大高の主張だ。
反証は複数ある。まず、沈没当日から海底調査を担当した松下喜代作技術大尉が1948年にまとめた「戦艦陸奥爆沈事故救難調査記録」に、こう記されている。爆破損傷部の外板の捲れは、外から内部に向かうものよりも、内から外方に開いたもののほうが多いようにしか判断されなかったので、爆発原因はともかく、外板の吹き飛ばされている方向はどうしても内から外であると決断した。
つまり、力は内側から外側へ一方的に働いている。外から水中爆発を受けたのなら、逆方向の変形が混在するはずだ。実際、引き揚げられた船体を見た人の証言でも、外から機雷が作用した後に内部が爆発したような相反する二方向の力ではなく、内から外への一方的な力に見えた、とされている。
次に、爆雷による水中爆発があったなら、船体破壊とは別に水柱が立ち、艦に衝撃が伝わったはずだ。ところが第一艦隊の報告書には、はっきり「水柱ヲ認メタルモノナシ」と書かれている。生存者の聴取でも、水柱を見たとか衝撃を感じたと証言した者はいない。
さらに、この説の前提そのものが怪しい。陸奥が本当にスクリューを回したのか。当時、艦長は昼食後に艦長室でくつろぎ、航海長は甲板で移動準備の指示をしたり士官と談笑したりしていた。艦の動きを差配するトップ2人が艦橋にいない状況で、艦が移動を始めていたとは考えにくい。転錨は13時からの予定で、爆発は12時15分だ。
敵潜水艦・機雷説
事故直後、現場でいちばん最初に採用された説がこれだ。長門も呉鎮守府も潜水艦の雷撃だと判断し、対潜配備を発令している。
だが調査の結果、敵潜水艦が泊地に侵入した形跡はまったく出てこなかった。柱島泊地は島が多くて潜水艦が入りにくいから選ばれた場所であり、防潜網もある。加えて水柱がない。加えて船体の破壊方向が内から外だ。
面白いのは戦後の話で、サルベージの現場には米軍将校が何度もやってきて「アメリカ潜水艦の手柄にしてくれ」と、その旨の証言を要求したという話が伝わっている。真偽は確かめようがないが、外部攻撃説は物証にことごとく反する。
スパイ・謀略説
作家の梶山季之によれば、週刊文春の1959年6月1日号は「陸奥爆沈は共産主義者の工作」という説を唱え、日本共産党から抗議を受けた。国際共産主義組織の工作員が潜入して爆破した、という筋書きだ。
この説を支える証拠は、ない。ゼロだ。ただ、当時の査問委員の一人が吉村昭に「犯人は生きているように思う」と語ったという話は残っている。つまり容疑をかけられた下士官が実は工作員で、爆発の混乱に紛れて逃げたのではないか、という含みだ。
吉村はこの言葉が気になって、思い切ってその下士官の生家がある村まで行っている。村の人に聞くと、家には弟さん夫婦だけがいて、下士官は戦死したと言っていた。ただ、陸奥爆沈のあと憲兵が村に入ってきて、その家を取り囲んだそうだ。吉村自身の結論は「生きていないと思う」だった。
謀略説の弱点は明快で、動機と機会と手段のうち、機会も手段も説明できていない。厳重に警備された泊地の戦艦の火薬庫に、外部の人間がどうやって到達するのか。内部に協力者がいたと言い出せば、結局は乗員の犯行説と変わらない。
そして、結論が出ない理由
こうして並べてみると、外部要因説はかなり厳しい。物証が内部爆発を指している。自然発火説も、査問委員会の実験に照らせば分が悪い。消去法で人為説が残る。
だが人為説には、いちばん肝心の物証がない。犯人とされた人物は遺体も見つかっていない。動機とされる窃盗事件だって、本人は否認していた。査問委員会は2か月で解散した。関係者は次々と南方に送られて死んだ。記録の一部は焼かれ、生き残った証言は互いに矛盾している。
つまり、これは「証拠がないから解けない」謎ではなく、「証拠が組織的に散らされたから解けなくなった」謎なのだ。ここが、この事件のいちばん嫌なところだと思う。
帝国海軍には、爆沈の系譜があった
陸奥の話を単発の悲劇として読むと、たぶん本質を外す。日本海軍には、火薬庫爆発で軍艦を失った長い前歴があった。
1905年、日露戦争の勝利からわずか数か月後、佐世保港内で戦艦「三笠」が爆沈した。日本海海戦の旗艦である。査問会は弾火薬類の自然発火が原因と結論づけた。だが後年、1912年の火災事故の調査過程で、当時三笠に乗り組んでいた松本善治中尉が艦長に提出した参考意見書が出てくる。そこにはこう書かれていた。火薬の自爆は稀であり、むしろ人為的行為の結果として大惨事が生じるのではないか、と。
1912年に装甲巡洋艦「日進」で起きた火薬庫爆発は、不満を持っていた乗組員の放火だった。だが当初の査問結果は「人為的形跡は認められない」「紐状火薬に起こり得べき自然的変質に基づく燃焼」だった。しかも軍法会議での取り調べで、被告が艦長に破壊行為を予告する脅迫文書を郵送していた事実が判明する。艦長は艦内に不穏分子がいることを知っていたはずなのに、査問委員会はそれを踏まえずに「自然発火」と結論した。
査問に加わっていた火薬学の権威、当時の造兵廠火薬部長は、残存火薬を全部引き揚げて調査した詳細な報告書を提出し、火薬に異状は認められないと自然発火の可能性を否定していた。それでも委員会は科学的根拠のない結論を出した。
1917年1月14日、横須賀軍港で巡洋戦艦「筑波」が爆沈。1918年7月12日には戦艦「河内」が爆沈。海防艦「松島」も火薬庫爆発で失われている。戦艦「日向」や「榛名」も主砲の爆発事故を起こしている。1906年には巡洋艦「磐手」で、火薬庫を爆破して自殺を図ろうとした水兵が犯行直前に取り押さえられる事件も起きていた。この水兵は金銭を詐取した疑いで尾行されていた。
吉村昭は取材のなかで、この系譜に驚いている。陸奥を含めて軍艦の火薬庫爆発が合計8件もあった。しかも陸奥以前の7件のうち5件は、乗組員の過失または放火だった。残りの2件も乗組員の行為である疑いはあるが、死者が多すぎるなどの理由で確認が取れなかっただけだ、と。
戦後、旧海軍の弾火薬専門家だった千藤千代造が旧海軍史料をもとにまとめた報告書は、海上自衛隊が部内用に印刷配布している。1905年の三笠から1943年の陸奥まで、計8隻の弾火薬庫事件を調査・査問委員会史料に基づいて整理したものだ。その総括はこうだ。当時の旧海軍自身の手による調査では不十分、不徹底なところが多々見られ、そしてほとんどは人為的な要因を無しとしないものとなっている。
要するに、日本海軍は繰り返し同じ事故を起こし、繰り返し曖昧な結論を出し、繰り返し組織の責任を回避してきた。陸奥はその系譜の最後にして最大の一件だ。
これが「陸奥爆沈から帝国海軍の体質が透けてくる」と言われる理由である。
海から引き揚げる、という執念
菊の御紋章が上がった日
沈没直後から、海軍は潜水調査を行った。西村式潜水艇、つまり豆潜水艦まで投入している。海軍は「可能であれば引き揚げて3か月の工期で再戦力化したい」という虫のいい希望を持っていたが、調査の結果、船体の破損が激しすぎて再生は不可能と判断され、浮揚計画は放棄された。
1944年7月には、燃料庫から重油の回収作業が行われ、約600トンが回収された。「竹作業」と呼ばれた。燃料が足りない時代だ。
終戦後は占領下の監視があって浮揚作業は止まっていたが、1948年に西日本海事工業が艦の搭載物資のサルベージを開始する。ところがこのとき、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起きて、作業は中断した。
1952年4月の海底再調査で、船体の状態がかなり詳しく分かった。北緯33度58分、東経132度24分のあたり。三番主砲より前の前半部分は、右舷を下にして横倒しに沈んでいる。一番と二番の主砲塔は船体に残ったまま、艦橋も煙突も後部艦橋も脱落していない。吹き飛んだ三番主砲は船体から離れた場所に横倒しになり、大半が泥に埋まっていた。
切断された尾部は、船体から50メートル離れた場所に、上下逆さのひっくり返った状態で沈んでいた。
1953年8月16日、艦首の菊の紋章が引き揚げられた。ケヤキ製で表面に金箔が張られていたが、劣化が進んでいた。この紋章は文化財と判断され、文化財保護委員会を通して資料番号が割り振られている。
篠原喜一さんが沈む陸奥に手を振ったとき、海面で光っていたものだ。
2450万円と、4億円の赤字
大きな転機は1970年だ。大蔵省は、深田サルベージ株式会社が申請していた艦体の払い下げを認めた。金額は2450万円。評価額から引き揚げ費用相当額を差し引いた額だという。
なぜ民間企業が沈没戦艦を買ったのか。遺骨を収集してほしいという遺族たちの強い希望があったからだ。当時の会社側の証言は率直で、採算ベースは抜きにスタートしている、遺族のために赤字覚悟でスタートしている、というものだった。
現場は過酷だった。当時30歳で技術者としてダイバーに指示を出していた花戸忠明さんによれば、水深42メートルの海底で30分以上働くのに、1時間から2時間の減圧が必要になる。一気に浮上すれば潜水病で重大な後遺症、最悪は死だ。途中の水深20メートルなどで水圧に体を慣らしてから浮上する。船上の技術者たちも毎日夜まで減圧に付き合った。ホースで空気を送り続けなければならないからだ。
沈没から27年、船体は海藻の森というか漁礁のようになっていて滑りやすく、透明度は1メートルほどしかなかった。1回の潜水での実作業時間は20分程度。
1970年7月22日、1500トンクレーンで艦尾部分1400トンの一括引き揚げが試みられた。失敗した。85ミリのワイヤ8本が切断した。
そこで方針を変え、艦尾部分を海底で前後に切断することにした。切断には水中電気切断機と火薬発破を使い分けた。初めての発破のときには、浮いてくる魚を捕まえようと数十隻の漁船が集まってきたという。発破のあと、大きなスズキやタイが浮き上がった。沈没船は最高の魚礁なのだ。この、あまりにも生々しい生活の風景が、この事業のなかで妙に印象に残る。
1971年3月15日、日本で初めて使用された100ミリワイヤー2本と85ミリワイヤー4本で、艦尾の後部部分、500トン、長さ10メートルが引き揚げられた。切断面を下にして広場に据え置かれた。
そして第四砲塔が上がる。27年ぶりに41センチ主砲が海面に姿を現した瞬間、現場にどよめきが起きた。花戸さんは目から自然に涙がこぼれたと語っている。巨大な砲身からは大量の海水が噴き出した。
船に乗って作業を見守っていた遺族たちが、息子や兄弟の名前を呼び、手を合わせていたのを彼は覚えている。「遺族はね、息子であろう、旦那さんかもわからんけど叫んでね、手を合わせる人もおるし」。
3671個の遺骨
引き揚げられた砲塔や船体からは、乗組員の遺骨が出てきた。花戸さんも砲塔の内部に入って遺骨の確認と清掃をしている。艦長食器室からは、旧海軍の錨のマークが描かれた皿やコーヒーポットが回収された。広さ3平方メートルの小さな部屋だ。
海底に残された部分も潜水士が探索し、回収された遺骨は合計3671個にのぼった。
作業は8年続いた。だが1973年、第1次オイルショックで深田サルベージは経営危機に陥る。他社の傘下で再建を目指すことになり、陸奥の引き揚げは中止せざるを得なくなった。この事業が会社に与えた損失は、4億円以上だった。
最終的に艦体の約75パーセントが浮揚された。3分の2という報道もある。艦橋部と艦首部を含む艦の前部分などは、いまも海底に残っている。国は、水深40メートルにある遺骨は尊厳が損なわれる状況ではないとして、これ以上の引き揚げは行わないという立場をとっている。
花戸さんの言葉が印象的だ。社長は作業員への差し入れに大量の肉を抱えて現場に来るような人だった、口癖の「ごくろうじゃのう」という広島弁がいまも耳に残っている、経営的には失格かもしれないが、できる限りの遺骨は回収できた、後はこのままそっとしておくのがよいのではないか。
夜中に船上から海を見ていた同僚は、こう言っていたそうだ。ダイバーが出す白い空気の泡が浮き上がる黒い海面を見つめていて、この下に1100人の恨みをのみ込んだ陸奥の巨体が横たわっているのかと思うと、今にもその傷だらけの巨体が呻き出し、のたうち始めるような錯覚に襲われる、と。
陸奥の鉄が、放射能を測っている
引き揚げられた砲塔の装甲や船体は、鉄屑として再利用された。もともと引き揚げのコストは、鉄屑の売却益で相殺する計画だったからだ。
ところが、この鉄に思わぬ価値があった。
戦後の製鉄では、溶鉱炉の耐火煉瓦の摩耗具合を調べるために、トレーサーとして放射性コバルトを仕込むようになった。そのため戦後に作られた鉄には、ごく微量の放射性コバルトが混入する。普通に使う分には何の問題もないが、微弱な放射線を精密に測ろうとすると、鉄自身が出す放射線が邪魔になる。
陸奥の鉄は違った。1918年から1921年にかけて、戦前の製鉄方式で作られている。放射性コバルトを含まない。しかも戦艦だから、遮蔽体に必要な厚みをいくらでも確保できる。
こうして陸奥の鉄は「陸奥鉄」「むつ鉄」と呼ばれ、日本各地の研究所、原子力発電所、医療機関で、放射能測定装置の遮蔽材として重宝されるようになった。低バックグラウンド鋼という言葉が辞書に載るほどだ。
1974年に製作された東京都市大学の遮蔽体は、高さ1195ミリ、幅690ミリ、奥行き700ミリ。各面は外側に鉛150ミリ、内側にむつ鉄75ミリという構成で、遮蔽体の内外でバックグラウンドの比が約100分の1になる。この装置は2014年に「分析機器・科学機器遺産」に認定された。
東京の都立研究機関にある遮蔽体は、1974年の設置以来ずっと現役だ。1986年のチェルノブイリ事故の際には、日本で最初に飛来した放射能を検出した。福島第一原発の事故の際にも、都内の大気浮遊塵、水道原水、農作物の測定に使われた。東北大学の名誉教授は、原発事故後に学校給食などの検査を続け、魚の骨に蓄積するストロンチウムの精密測定のために陸奥鉄を使うことにした。
海の底で1121人を抱えたまま眠っていた鉄が、いまは目に見えない放射線を人間から遮って、汚染を測る仕事をしている。設計者も乗組員も、誰ひとり想像しなかった使われ方だ。
遺族と生存者の、その後
陸奥記念館という場所
引き揚げられた遺物の展示施設を作ろうという構想が持ち上がり、1972年11月、当時の東和町が事業主体となって陸奥記念館が完成した。1994年3月に近くの国道の改修工事にともなって新築移転し、同年4月27日にオープン。現在の住所は山口県大島郡周防大島町大字伊保田2211ー3。沈没地点を望む丘の上にある。
入り口には艦首錨と錨鎖が置かれている。右手の丘には屋外展示があって、艦首の先端部分、14センチ副砲2門、スクリューが並び、慰霊碑が建てられている。丘からは陸奥が沈んでいる海が一望できる。
屋内には遺影と遺品がある。艦内から見つかった乗組員の食器や時計、拳銃。三好輝彦艦長が身に着けていた軍服。そして軍艦旗。この軍艦旗は、沈没後に残務整理を命じられた人が、第2内火艇に保管されていたのを発見したものだ。当時のまま残っている。
艦と運命をともにした若者たちの写真が、来訪者を見つめている。士官室やハンモックを再現した展示もあり、貴重なフィルム映像も見られる。開館は9時から16時30分、水曜が休館。入館料は大人430円、小中学生210円。
海底から引き揚げられた陸奥の部品は、全国に散らばっている。江田島の海上自衛隊第1術科学校には菊の御紋章と、四番砲塔がある。ただしこの砲塔は引き揚げたものではなく、1935年の大改装で撤去されて教材として運び込まれた旧砲塔だ。爆沈の焦点になった番号の砲塔が、爆沈と無関係にそこにある、という捻れが妙に効いている。
呉市の大和ミュージアムには41センチ主砲身と主錨とスクリューと主舵、横須賀のヴェルニー公園には主砲身、靖国神社の遊就館には小錨と14センチ副砲がある。長野県麻績村の聖博物館、今治の大山祇神社にも部材が渡り、高野山奥の院では第四砲塔の基部と推進機軸の先端部が慰霊碑の一部になっている。そして群馬県渋川市の福増寺には、あの鐘がある。
2007年4月7日には、第六管区海上保安本部が測量船のマルチビーム探測機で海底に残る陸奥の船影を捉え、一般公開した。
6月8日の慰霊祭、そして減っていく人
靖国神社で初めての慰霊祭が営まれたのは、爆沈から20年後の1963年6月9日だ。同じ年、柱島には島の人たちの拠出で「戦艦陸奥英霊之墓」が建った。
周防大島町では、地元住民らでつくる東和陸奥顕彰会の主催で、毎年6月8日に慰霊祭が開かれている。会場は同町伊保田の油田農村環境改善センター。読経のなか、参列者が祭壇で焼香する。
2025年の慰霊祭には遺族や住民ら約80人が参列した。三好輝彦艦長の孫にあたる55歳の男性は、大阪府豊中市から参列してこう話している。父から子煩悩の人だったと聞いている、ウクライナなど世界では戦争が続いている、慰霊を通じて平和を考えていきたい、と。
同じ日、福岡県から2人の女性が記念館を訪れた。福岡市の97歳の女性と、北九州市の86歳の女性。予科練甲飛11期生として陸奥に乗って亡くなった兄の妹たちだ。戦後80年を機に、戦友たちの写真と一緒に飾ってもらおうと、航空機の前で撮影された兄の遺影を館長に手渡した。姉のほうはこう話している。賢くて優しい兄だった、亡くなったとき、この写真と一緒に靴だけが家に届いた、戦争は二度とあってはならない、と。
遺骨ではなく、靴が届いた。
2026年の慰霊祭の参列者は約60人。遺族はわずか5家族にまで減った。毎年参列していた篠原喜一さんの姿は、もうない。
一方で、この海に通い続ける人もいる。広島市の梶川昭夫さんは、35年にわたって海底の陸奥を撮り続けているダイバーだ。20キロ近い機材を身につけて冬の瀬戸内海に潜る。「82年前の感覚を見ているような気がして、行った者だけが感じる何か、言葉では言い表せない何か感じるものがあります」と語る。最初に潜ったときは「深くて、暗いしおどろおどろしく、怖い印象」だったという。
1985年には、艦橋付近から頭蓋骨が発見された。海上保安庁が引き揚げたと彼は記憶している。船体の中には、いまも乗組員の遺骨が残されている。
「潜っていてやっぱり感じるのは『俺たちのこと忘れないでくれ』と感じるので、僕は」
2025年6月1日に新聞社のカメラマンが潜って撮影した写真では、水深14メートルから40メートルに眠る主砲や艦橋が写っている。船体は上下を逆さにし、主砲は泥のなかへ埋もれつつある。天井の甲板が剥がれ落ち、むき出しになった部屋もある。地震の影響と鉄の腐食で、崩壊は年々進んでいる。
梶川さんはこう言う。朽ちていっているのは間違いないので、もう二度と撮れない状況の写真があるので、今できることをさせてもらう、と。
怪談として語られてきた層について
ここからは、はっきり性格の違う話をする。事実として確認できることと、噂として流通していることの区別を、先に断っておきたい。
柱島や周防大島の周辺には、陸奥にまつわる不思議な話がいくつも語られてきた。夜の海に人影が立つとか、無人のはずの海域から声が聞こえるとか、漁の網が急に重くなるとか、そういう類のものだ。ただし、こうした個別の話について、公的な記録や当時の新聞で裏付けが取れるものは、私が調べた範囲では見つからなかった。人づてに広まり、後年の心霊系の媒体で整理されて、いまの形になったと考えるのが自然だと思う。
そもそも、瀬戸内海には船幽霊やアヤカシの伝承が濃い。山口県ではアヤカシと呼ぶ。海難で死んだ者の霊が柄杓を借りて船に水を汲み入れる、という話型だ。民俗学者の花部英雄は、船幽霊の出現が風雨や濃霧の晩、急に天候が悪化したときに多いことを指摘している。そういう状況では実際に事故が起きやすいので話に現実味が加わり、不気味さと不安が増幅されて、わずかな怪異も伝承の枠に組み入れられていく。
つまり、陸奥の爆沈が起きたあの日の条件、濃霧と無風と静かな海面は、そのまま船幽霊の話が生まれる典型的な条件と重なっている。しかも1121人が一瞬で死に、多くが弔われないまま海底に残った。ここに怪談が集まらないほうが不自然だ。
戦後の海難事故でも似たことは起きていて、1954年に洞爺丸が沈んだあと、連絡船のスクリューに見つかった傷は犠牲者が爪を立てた跡だと噂された。のちに電食と判明している。人は、説明のつかない喪失の前で必ず物語を作る。
だからこの記事では、柱島周辺の怪談を「本当にあった心霊現象」としては扱わない。むしろ注目したいのは、心霊譚ではないのに怪談的な手触りを持ってしまった証言のほうだ。
サルベージ作業員が語った「今にもその傷だらけの巨体が呻き出し、のたうち始めるような錯覚に襲われる」という言葉。35年潜り続けたダイバーが感じるという「俺たちのこと忘れないでくれ」という声。前運用長が着任先で「君は幽霊ではないか」と驚かれた話。1985年に艦橋付近から出てきた頭蓋骨。
これらは全部、実在の人間が実在の場所で口にした、記録の残る言葉だ。心霊現象ではない。だが、怪談よりよほど怖い。
いちばん怖いのは、たぶんこれだと思う。爆沈から1年後の1944年、沈没地点には赤い浮標が設置されていた。それを見た宇垣纏第一戦隊司令官が、日記に陸奥爆沈を回想している。艦隊が行き交う海のど真ん中に、赤いブイがひとつ浮いている。その下に1000人以上が沈んでいることを、その海を通る全員が知っていて、誰も口に出せない。
国家が本気で沈黙を強制すると、風景そのものが怪談になる。
ネットと出版界隈で、いまも続く言い合い
この事件は、戦記マニアや歴史考察の界隈で、いまだに定期的に燃える。理由は簡単で、結論が出ていないからだ。結論が出ていない事件は、誰でも参加できる。
議論の陣営はだいたい決まっている。査問委員会の結論を尊重して人為説を採る人たちが最も多く、根拠は状況証拠の積み重ねと、吉村昭の『陸奥爆沈』が示した侵入ルートの検討だ。この本は1970年の発表以来、事実上この事件の標準的な参照点になっている。これに対し、火薬庫の管理体制からして侵入は不可能だと当時の乗員経験者の証言を挙げて反論する人たちがいる。
火薬や装薬の問題だと見る人たちは、放火説を「組織が責任を個人に押し付けた結果」だと批判する。外部要因説はいまも一定数いるが、水柱がないことと外板の変形方向で分が悪い。そこに謀略説やスパイ説が混ざり、話はさらにこじれる。
論争が消えない構造的な理由もある。一次資料が限られていて、しかも重要な証言が互いに矛盾している。副直将校が生還したのか、鍵箱ごと遺体で見つかったのか。この一点ですら決着していない。目撃証言の煙の色も、白と黒と褐色が入り乱れる。
さらに、吉村昭自身が本の中で書いた面白いエピソードが、証言というものの怪しさを教えてくれる。彼が柱島に行ったとき、爆沈の瞬間を目撃したということで有名な老人に会った。「大きな軍艦がゆっくりとコケタ」と言う。「コケタ」という言葉の実感に打たれて、吉村はその話を信用した。ところが調べを進めるうちに、その島からは絶対に見えなかったことが分かった。あの日は濃霧だったのだ。
人は、自分が見ていないものを、見たと信じ込む。悪意ではなく、たぶん記憶の摩耗と、語りたい気持ちのせいで。80年前の事件の証言を扱うということは、そういう地雷原を歩くということだ。
そして考察界隈がしばしば見落とすのが、この議論の当事者性である。ネット上で「犯人はあの二等兵曹だ」と気軽に断定するとき、その名前には実在の家族がいた。爆沈のあと憲兵が村に入り、その家を取り囲んだ。弟さん夫婦がその後どんな人生を送ったのかを、私たちは知らない。証拠がないまま個人を犯人扱いすることの重さを、80年経ったからといって軽くしていい理由はない。
なぜ、この爆沈は語られ続けるのか
最後に、この事件が持っている「終わらなさ」の正体を考えたい。
ひとつめ。理由がないことが、いちばん怖い。
戦闘で沈んだのなら、悲しくても筋は通る。だが陸奥は、味方しかいない海で、昼めしのあとの休憩時間に、いきなり爆発した。敵はいない。攻撃もない。安全だと保証された場所で、安全だと保証された船が、内側から壊れた。
生と死を分けたのは能力でも経験でも努力でもなかった。甲板に出ていたか、艦内にいたか。ハッチが開いていたか、閉まっていたか。それだけだ。私たちは悲劇の原因を誰かの判断ミスや準備不足に求めたがる。理由が分かれば少し安心できるからだ。だが陸奥の原因は、いまも分からない。理由のない、説明のつかない喪失。この形の恐怖には、心の置き場がない。
ふたつめ。隠したことが、謎を永久保存してしまった。
海軍は事実を消そうとした。発信を止め、航行を止め、封書を止め、家族への通知を止め、生存者を南方に散らし、遺体を無人島で焼き、骨壺まで手製にした。その徹底ぶりが、結果として何を生んだか。
証言者が減った。記録が散った。生存者353人のうち、終戦時に内地の土を踏めたのは60名ほどだった。その60人の記憶だけが、後世に渡された。矛盾した証言も、埋めようのない空白も、全部そのまま固まった。
査問委員会は2か月で解散し、あいまいな結論を提出した。当時の海軍にとっては、それが最も傷の浅い着地点だった。だが80年後の私たちにとっては、そのあいまいさこそが最大の壁になっている。隠蔽は、真実を一時的に遅らせるのではなく、恒久的に破壊する。この事件はその教科書だ。
みっつめ。個人に責任を負わせて終わらせる、という誘惑。
「一人の不心得者の犯行」という説明は、あまりにも便利だ。責任は組織から個人へ移る。火薬の設計も、弾薬庫の管理体制も、艦内の風紀も、全部不問になる。実際、高松宮は事件当日の日記の時点でその可能性に言及している。
だが、たとえ本当に一人の下士官が火をつけたのだとしても、そこで話は終わらない。なぜ艦内で窃盗が頻発していたのか。なぜ昼間の火薬庫の入り口が開いていたのか。なぜ死ねば全員を巻き添えにできる構造の船に、追い詰められた人間が近づけたのか。それらは全部、組織の問題だ。
そして日本海軍は、同じ形の事故を8回起こしている。8回目が陸奥だった。1度目は事故かもしれない。8度目は体質だ。
よっつめ。この事件は、まだ完全には過去になっていない。
海底には、いまも艦の前部が残っている。遺骨も残っている。1985年には頭蓋骨が上がった。船体は年々崩れて、主砲は泥に埋もれつつある。慰霊祭の参列者は毎年減り、2026年には遺族が5家族になった。最後の元乗組員は2026年1月に亡くなった。
一方で、引き揚げられた鉄は、いまも放射能を測る装置のなかで働いている。チェルノブイリの飛来放射能を日本で最初に検出したのも、福島の事故後に給食や魚を測ったのも、あの鉄だ。
語り部が消え、遺構だけが残る時代に入った。証言という音声がなくなったいま、私たちは物言わない鉄の塊から意味を汲み取るという、面倒で重たい仕事を引き受けることになる。
いつつめ。そして、これがいちばん大事だと思う。
この事件が語られ続けるのは、謎が面白いからではない。1121人が、なぜ死んだのか分からないまま死んだからだ。しかもその死は、国家の都合で半年以上、家族にすら伝えられなかった。息子の骨の代わりに靴が届いた家がある。夫の消息を聞きに海軍省まで行って、何も教えてもらえずに帰された妻がいる。仲間の遺体を重油をかけて焼き、その光景を80年間「脳裡から離れない」と書き続けた男がいる。
謎解きの対象として消費するのは簡単だ。だが、この事件の中心にあるのは推理ではない。1121通りの、途中で断ち切られた人生だ。
柱島沖の海はいまも穏やかだ。周防大島の丘の上では、錆びて二度と撃つことのない14センチ副砲が、陸奥の沈む方角を向いている。83年前のあの日も、風はなかった。霧が出ていて、視界は1キロもなかった。誰も、何も、見えていなかった。
いまも、ほとんど何も見えていない。それでも毎年6月8日には、誰かがあの海に手を合わせている。分からないまま覚えておく、というのは、そんなに簡単なことじゃない。でも、それしか私たちにできることはない。
