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遺体は蜜漬けで運ばれた――アレクサンドロス大王の墓は、なぜ二千年見つからないのか

世界史でいちばん有名な死体はどれか、という酷い質問があったとして、答えはたぶん一つに絞れる。

アレクサンドロス三世、通称アレクサンドロス大王だ。三十二歳で死んで、金の棺に入れられて、二年がかりで作った化け物みたいな霊柩車に乗せられて、部下に横取りされて、エジプトまで運ばれて、そこから六百年以上も観光名所として展示され続けた男。

カエサルが見に行き、アウグストゥスが触って鼻を折り、カリギュラが胸当てを剥ぎ取り、カラカラが自分のマントを置いていった。ローマ皇帝の聖地巡礼コースだったんだよな。

それが、ある時点でふっと消える。四世紀の終わりごろ、アレクサンドリアの人間に「大王の墓ってどこ」と聞くと、答えが返ってこなくなる。建物ごと、棺ごと、遺体ごと、丸ごと行方不明。

以来千六百年、人類はこの墓を探し続けている。エジプトの役所が正式に受理した発掘申請は百四十件を超え、非公式なものまで数えれば二百件を軽く突破する。ハインリヒ・シュリーマンも申請して断られた。それでも見つからない。

この話、面白いのは「消えた」という一点だけじゃない。消えるまでの過程が、いちいち異常に濃いんだ。腐らなかった遺体、蜜漬け、影武者の棺、街道での強奪劇、地震で沈んだ街、ヴェネツィアの聖人とのすり替え疑惑。順番に全部やる。長くなるけど、たぶん最後まで読める。

六月のバビロン、王の寝台の前を兵士たちが黙って通り過ぎた

紀元前三二三年の初夏。バビロンのネブカドネザル二世の宮殿。

アレクサンドロスは十二日から十四日ほど熱にうなされていた。発端はメディオス、ラリサ出身の側近が開いた酒宴だ。大杯を一気にあおった直後、鋭い痛みが走ったとディオドロスは書く。そこから熱が始まり、下がらなくなる。

宮廷日誌、いわゆるエフェメリデスには日ごとの容態が記録されている。書記官はカルディアのエウメネス。今日は水浴びをした、今日は将軍たちと明日の航海の相談をした、今日は熱が高くて神殿に運ばれた、今日はもう口がきけない。淡々としているぶん、読んでいて背中が寒くなる種類の文書だ。

死の直前、宮殿の外に兵士たちが集まった。

王が死んだという噂が流れ、いや、もう死んでいるのに将軍たちが隠しているんだ、という話にまでなった。兵士たちは押しかけて、王の顔を見せろと要求した。折れた側近が扉を開ける。何千人ものマケドニア兵が、一列になって、無言で、寝台の脇を通り過ぎていった。

アレクサンドロスはもう喋れない。だが意識はあった。通り過ぎる一人ひとりに向けて、目だけを動かし、かろうじて首をわずかに持ち上げ、手を上げようとした。あの行列が何時間続いたのか、記録はない。ただ、あれが最後の閲兵だった。

有名な最期の言葉も、この文脈で出てくる。「王国を誰に譲るのか」と聞かれて「最強の者に」と答えたというやつだ。ギリシャ語のクラティストーイという語は「最強の者に」とも「クラテロスに」とも聞こえるという指摘があって、そこがまた揉めた。さらに続けて「わが葬礼のために、盛大な競技会が行われるだろう」と言ったとも伝わる。実際その後、後継者たちは四十年以上殺し合った。葬送競技会という言い方が皮肉として効きすぎている。

六月十日の夕方から十一日の夕方のあいだに、彼は死んだ。三十二歳。ペルシャもエジプトもバクトリアもインダス川流域も手に入れて、地球の果てを見たと思っていた男の、あっけない終わり方だった。

死んでから六日、遺体は腐らなかった

ここからが怪異案件になる。

プルタルコスの「アレクサンドロス伝」第七十七章に、妙な一節がある。王の死後、後継者争いで宮廷は大混乱に陥り、遺体は放置された。バビロンの六月だ。屋内は蒸し暑く、空気は淀んでいた。それなのに、遺体には腐敗の兆候がまったくなかった。汚れもせず、萎びもせず、生きているかのようだったという。

エジプト人とカルデア人の防腐処理の専門家が呼ばれたのは、死からおよそ六日後の六月十六日ごろとされる。彼らは遺体を見て、最初は手を出すのをためらったと伝わる。まだ生きているように見えたからだ。

近代の遺体防腐の常識で言えば、あの気候で六日は無理がある。だから昔から「大王の神性の証拠」として語られてきた。

医学的な説明は主に四つある。

一つはマラリア説。熱帯熱マラリア原虫による感染で、アッリアノスが記す「病の途中から熱が一切引かなくなった」という経過が、この原虫特有の持続熱と合う。ユーフラテスの湿地帯を視察した二週間ほど前に感染した、という筋書きだ。

二つ目は腸チフス説。一九九八年にメリーランド大学医学部の研究グループが提示した診断で、悪寒、発汗、消耗、高熱という症状の並びが腸チフスに合致するとした。腸チフスの重症例では腸管の麻痺や穿孔が起こる。

三つ目は毒殺説。ニュージーランドの毒物学者レオ・シェプが臨床毒性学の専門誌に出した論考で、バイケイソウ――ヴェラトルム・アルブム、いわゆる白ヘレボルスだ――の中毒を挙げた。この植物は古代ギリシャでも知られた薬草で、ワインに混ぜても味が誤魔化せる。しかも中毒症状は数日から十数日かけて進行する。即効性の毒だと十二日という経過が説明できないので、遅効性のこれなら辻褄が合う、という話だ。

四つ目が本命の怪談枠、ギラン・バレー症候群説。オタゴ大学のキャサリン・ホールが二〇一八年に提示した。

腸チフスの合併症として自己免疫性の上行性麻痺が起き、足先から順に麻痺が体幹へ上がっていく。呼吸が浅くなり、脈が触れにくくなり、瞳孔は光に反応しなくなる。当時の医者に死亡判定の手段は「呼吸しているか」しかない。つまり、アレクサンドロスは死亡宣告された時点でまだ生きていた可能性がある、という説だ。

腐らなかったのは腐る段階に達していなかったからで、六日後に防腐処理を受けたとき、本当の死因は防腐処理そのものだった。そういう結論になる。歴史上もっとも有名な生き埋め、と言われるとぞっとしないか。

もちろん反論もある。プルタルコスの「腐らなかった」記述自体が、神格化のために後から足された美化ではないか、という指摘だ。プルタルコスが書いたのは事件の四百年以上あとで、彼が使った資料の質は場面ごとにばらつく。

ただ、この一節は「後継者たちの醜い争い」への批判とセットで書かれていて、王を持ち上げる文脈というより、周囲の連中を貶す文脈で出てくる。だから捏造の動機が薄い、という反論への反論もある。決着はついていない。

「蜜の中に沈めた」という、記録に残る奇妙な処置

防腐処理の方法についても、伝承が割れている。

プルタルコスはエジプト式の防腐処理と書く。クルティウス・ルフスは、エジプト人とカルデア人が遺体を処置し、香料を詰め、黄金の棺に納め、頭には黄金の冠を置いたと書く。ここまでは普通のミイラ化に近い。

ところが別の系統の伝承では、遺体は蜜に漬けられたことになっている。

十九世紀の大エジプト学者ウォリス・バッジが強く主張したのがこれだ。蜜は糖度が高く水分活性が極端に低いので、細菌が繁殖できない。実際、古代の一部地域では蜜漬けによる遺体保存が行われていた記録がある。バビロニアでも蜂蜜と蝋を使った保存法が知られていた。

もし蜜漬けが事実なら、金の棺の中でアレクサンドロスは液体に浸かっていたことになる。二年がかりの霊柩車の製作期間中も、シリアの街道を揺られていたあいだも、メンフィスの安置所でも、ずっと。

そして後代の皇帝たちが見物したときの「顔が見えた」「触れた」という記述と組み合わせると、蜜から引き上げられた王の顔が想像できてしまう。ローマ人が見たのは、褐色に染まって半透明になった、二百年、三百年前の人間の顔だ。アウグストゥスが花を撒いたのも、カラカラが自分の指輪を置いたのも、その前でだ。

なお、蜜漬け説はあくまで説である。エジプト式のナトロン処理が施されたなら、遺体は乾いた黒褐色のミイラになる。どちらが正しいかを判定する材料は、遺体そのものが出てくるまで存在しない。

二年かけて作られた、動く神殿みたいな霊柩車

ディオドロス・シケリオスの「歴史叢書」第十八巻二十六章から二十八章に、この霊柩車の詳細な描写がある。

ディオドロスが書いたのは紀元前六十年から三十年ごろだが、第十八巻の材源はカルディアのヒエロニュモス、つまり後継者戦争を実際に目撃した同時代人だとされる。だから記述の解像度が異様に高い。

製作の総指揮を執ったのはアッリダイオスという人物。王の異母兄フィリッポス三世アッリダイオスとは別人だ。彼はこの一台を作るのに二年かけた。

完成品は、幅八ペーキュス、およそ四メートル、長さ十二ペーキュス、六メートル弱の黄金の小神殿だった。イオニア式の黄金の円柱が並び、その上に金の鱗を葺いた丸天井が載る。天井には宝石がびっしり嵌め込まれていた。柱と柱のあいだには黄金の網が張られ、その網には鈴が吊るされていた。行列が動くたびに、遠くからでも聞こえるほど大きな音が鳴った。音で先触れが要らない霊柩車である。

四方の面にはそれぞれ絵が描かれていた。

一面目は、王笏を手にした戦車上のアレクサンドロス。左右をマケドニア兵と、ペルシャ王直属の親衛隊メロポロイが固めている。黄金の柘榴の飾りを槍の石突に付けていたので「林檎を持つ者たち」と呼ばれた部隊だ。二面目はインド人の象使いを乗せた戦象の隊列。三面目は戦闘隊形の騎兵。四面目は臨戦態勢の軍船だった。彼の征服のハイライトを四面に貼った、動く記念碑だ。

屋根の四隅には戦利品を掲げる黄金の勝利女神像。入口には黄金の獅子。アカンサスの唐草が金で這っていた。

これを引いたのは六十四頭の騾馬。四頭ずつのくびきに分けられ、一頭ごとに金メッキの冠をかぶせられ、頬の左右には鈴、首には宝石をちりばめた首輪が付いていた。車輪と車軸には衝撃を吸収する仕掛けが組み込まれ、悪路でも棺が揺れないよう設計されていた。行列には道路工事の職人と技師の一団が随行した。橋を架け、地面をならし、この重量物を通せる道を作りながら進むためだ。

そして、この行列は途方もない見世物になった。ディオドロスは、沿道の街から人々が押し寄せ、通過を見ようとして群衆が街道を埋めたと書いている。

バビロンからシリアへ向かう街道を、鈴を鳴らしながら金色の神殿がゆっくり進んでいく。中には蜜に漬かった王が入っている。これ以上の行進はちょっと思いつかない。

シリアの街道で、プトレマイオスは王を横取りした

問題は行き先だった。

摂政ペルディッカスは、遺体をマケドニアの旧都アイガイに運んで、代々の王の墓所に葬るつもりだった。それが正統だ。遺体を持っている者が王権の正統性を持つ、という感覚は当時の全員が共有していた。

ところが紀元前三二二年末か三二一年初め、行列がシリアに差し掛かったところで、エジプト太守プトレマイオスが軍を率いて待っていた。彼はアレクサンドロスの幼馴染で、少年時代からの友人で、遠征を最初から最後まで共にした男だ。

彼は行列を「護衛」した。そのままエジプトへ連れて行った。護送指揮官のアッリダイオスは黙認したどころか、たぶん最初から共謀していた。

アイリアノスの「ギリシャ奇談集」には、さらに芸の細かい話がある。

プトレマイオスはペルディッカスの追撃を予期して、影武者の棺を用意したというんだ。王衣を着せた等身大の像を、豪華な覆いをかけてペルシャ風の車に載せ、銀と金と象牙で飾り立てた。追手が奪いに来たら、そっちを持って行かせるためだ。本物の遺体は、別ルートで、目立たない隊列に紛れて先に送り出した。ペルディッカスが送り込んだアッタロスとポレモンの部隊は、まんまと囮を掴まされた、という筋書きになっている。

これが本当かどうかは分からない。アイリアノスは紀元二〇〇年ごろの著述家で、面白い逸話を集めるのが仕事の人だ。ただ、プトレマイオスの性格を考えるとやりかねない。彼は後継者たちの中で唯一、天寿を全うして自分の王朝を残した男である。冷静で、狡くて、無理な戦争をしない。

ペルディッカスの反応は激烈だった。遺体を取り返すため、紀元前三二一年か三二〇年に大軍でエジプトへ侵攻する。だがメンフィス近郊でナイルの渡河に失敗した。

増水した川に兵を突っ込ませ、流れが速まって渡河点が崩れ、二千人ともいわれる兵が溺れ、あるいはワニに食われた。目の前で仲間が流されていくのを見た軍は、その夜、指揮官を殺した。ペイトン、セレウコス、アンティゲネスら幹部がテントに踏み込んで刺した。

つまりペルディッカスは、遺体を奪い返そうとして遺体に殺されたようなものだ。この墓の話には、こういう筋の通り方が何度も出てくる。

メンフィスからアレクサンドリアへ、そして「セーマ」という名の聖域

遺体はまずメンフィスに安置された。これは伝説ではなく、ほぼ同時代の証拠がある。

パロス島から出たパロス年代記という大理石の碑文で、紀元前二六四年か二六三年に刻まれたものだ。この碑文が、紀元前三二一年か三二〇年の項目としてメンフィスへの埋葬を記録している。事件からせいぜい六十年、まだ関係者の孫が生きている時代の同時代記録だ。ここは動かない。

メンフィスの安置については、こういう伝説も付いている。プタハ神殿の大祭司が受け入れを拒み、こう言った。ここに彼を置くな。彼が建てた街、ラコティスの地に置け。この遺体が横たわる場所は、どこであれ戦と騒乱に苛まれ続けるのだから。

アレクサンドロス・ロマンスという後代の伝奇文学の一節なので史実ではないが、その後のアレクサンドリアの歴史を知っていると、出来のいい呪いになっている。

アレクサンドリアへの移送を実行したのは、プトレマイオス一世の息子プトレマイオス二世フィラデルフォスだった。パウサニアスの「ギリシア案内記」第一巻がそう記している。紀元前二八〇年代の出来事とみられる。

遺体は王宮区画の一角に建てられた霊廟に納められた。これがセーマ、あるいはソーマと呼ばれる建造物だ。ギリシャ語で「セーマ」は墓標、「ソーマ」は身体を意味する。どっちの綴りが正しいかは古代から揺れていて、その揺れ自体が「あそこは墓であり、同時に遺体そのものである」という当時の感覚を映している。

ストラボンの「地理誌」第十七巻がセーマを描写している。ストラボンは紀元前二十五年ごろから数年、実際にアレクサンドリアに滞在した男だ。彼は、王宮群の敷地内に囲い地があり、そこに歴代プトレマイオス王家の墓とアレクサンドロスの墓が置かれている、と書く。

そしてもう一つ、決定的に嫌な情報を残している。プトレマイオス九世ラテュロスが、黄金の棺を溶かして自分の傭兵への支払いに充て、代わりにガラスあるいはアラバスターの棺に入れ替えた、と。紀元前八十九年ごろの話だ。

ゼノビオスという二世紀の諺集の編者は、これをプトレマイオス十世の仕業とし、そのせいでアレクサンドリア市民が激怒して彼を追放し、最終的に殺した、と伝えている。名前がずれているが、金の棺が溶かされたという事実の核は共通している。

つまり紀元前一世紀の初めには、大王はもう金の棺には入っていない。ガラスか半透明のアラバスターの箱に横たわっていた。ローマ人が見物したのは、この中身が見える棺だ。

カエサルは泣き、アウグストゥスは鼻を折った

ローマ人にとって、アレクサンドリアのセーマは特別な意味を持つ場所だった。共和政末期から帝政にかけて、権力者は皆ここに来る。

ポンペイウスは紀元前六十一年の凱旋式で、アレクサンドロスのものと称するマントを羽織って行進した。アッピアノスが記録している。コス島で見つかった品だというが、真贋は当時から怪しかった。それでも「大王の衣を着る」という演出に意味があると全員が理解していた。そのポンペイウスは十三年後、エジプトの海岸で首を切られる。

ユリウス・カエサルは紀元前四十八年、ファルサロスの戦いのあとアレクサンドリアに入り、墓を訪れた。ルカヌスの叙事詩「内乱」第十巻に、この場面の毒々しい描写がある。ルカヌスはカエサルもアレクサンドロスも嫌いなので、あの狂ったフィリッポスの息子が神聖な洞窟に横たわっている、人類にとっての疫病だった男が、なぜ火葬もされずに永遠に残されているのか、といった調子で書く。

カエサル自身は、若いころスペインでアレクサンドロスの像の前に立ち、自分がこの歳ですでに世界を征服していた男に何も追いついていないと嘆いて涙を流した、という有名な逸話がある。その男が本物の遺体の前に立った瞬間だ。

そして紀元前三十年、アウグストゥス。当時はまだオクタウィアヌスだ。

アントニウスとクレオパトラを倒してアレクサンドリアを制圧した直後、彼はセーマへ行った。スエトニウスによれば、棺を安置所から運び出させ、遺体をじっくり眺め、黄金の冠を捧げ、花を撒いた。そのあと案内役が「プトレマイオス家の王たちの墓もご覧になりますか」と勧めると、彼はこう答えた。私は王を見に来たのであって、死体を見に来たのではない。

切れ味が良すぎる。

カッシオス・ディオの「ローマ史」第五十一巻には、続きがある。アウグストゥスは遺体に触れた。そのとき、鼻の一部を折ってしまった。二百五十年以上経った遺体だ。防腐処理された鼻の軟骨部分は脆い。若き支配者が世界の先達に敬意を示そうとして、うっかりその顔を欠いた。この逸話がやたら人口に膾炙しているのは、たぶん、それがあまりにも人間くさいからだと思う。

カリギュラは胸当てを剥ぎ、カラカラが最後の客になった

一世紀に入ると、参拝は略奪に近くなっていく。

スエトニウスの「カリグラ伝」第五十二章によれば、皇帝ガイウス、つまりカリギュラはアレクサンドロスの墓から胸当てを取り出させ、それを着てローマで公の場に出た。他人の副葬品を着て歩く皇帝である。

セプティミウス・セウェルスは紀元一九九年から二〇〇年にかけてアレクサンドリアに滞在した。カッシオス・ディオによれば、彼は墓を訪れたあと、エジプト中の神殿から秘伝の書物を集めさせ、それをアレクサンドロスの墓所に納めて封印した。誰も見られないように、誰も読めないようにするためだ、と。これ以降、一般の参拝はできなくなったらしい。魔術書を大王の遺体と一緒に封印する皇帝、という絵面だけで一本記事が書ける。

そして紀元二一五年、カラカラ。

彼は本気でアレクサンドロスに憑かれていた男で、自分を大王の生まれ変わりだと公言し、マケドニア式の部隊を編成し、大王の像に似せた肖像を作らせた。アレクサンドリアに来た彼は、封印を解いて墓に入り、自分が着ていた紫のマントと、指輪と、帯と、身に着けていた高価な品々を棺の上に置いた。ヘロディアノスとカッシオス・ディオが記録している。

その直後、彼はアレクサンドリア市民を虐殺した。市民が自分を風刺していたことに激怒し、若者たちを広場に集めさせて兵に囲ませ、皆殺しにした。死者数は数千とも万を超えるとも伝わる。大王の遺体の前で敬意を示した数日後に、大王の街の住民を虐殺した。

そして、これが記録に残る最後の確かな参拝になる。カラカラのあと、誰かがアレクサンドロスの遺体を見たという一次に近い記録は出てこない。

四世紀、墓は静かに記録から消える

三世紀のアレクサンドリアは地獄だった。

二六二年に大規模な内乱が起き、市街が壊滅する。二七二年、皇帝アウレリアヌスがゼノビアの勢力を掃討する過程で、ブルケイオン地区――まさに王宮区画であり、セーマがあった地区だ――を破壊した。アンミアヌス・マルケリヌスが第二十二巻でこの破壊に触れている。二九七年にはディオクレティアヌスがアレクサンドリアを八か月包囲して落とした。

つまり三世紀後半のどこかで、セーマは物理的に消えている可能性が高い。ここが冷徹な現実だ。

紀元三六五年七月二十一日、クレタ沖で巨大地震が発生し、津波がアレクサンドリアを襲った。船が家屋の屋根の上に打ち上げられ、数千人が死んだ。アレクサンドリアではこの日を長く「恐怖の日」として記念した。海岸線が変わり、低い土地が水没し始めたのはここからだ。

三九一年、テオドシウス一世の異教禁令が全面的に施行される。アレクサンドリアではセラペイオンが破壊された。大王の遺体を安置し、その霊を祀る儀礼は、この時点で完全に違法になる。守っていた神官団も、参拝も、維持管理も、法的な根拠を失う。

そして紀元四〇〇年ごろ、ヨハネス・クリュソストモスがコリント人への第二の手紙についての説教で、こう言い放つ。アレクサンドロスの墓について、彼自身の民でさえ、その墓を知らない、と。この一文が、墓の消滅を告げる公式なアナウンスみたいに扱われている。

ただし、同じころの弁論家リバニオスは、アレクサンドロスの遺体はアレクサンドリアで今も見られる、と書いている。矛盾している。キュリロスは、テオドシウスが墓を開けさせて略奪させたと伝える。四世紀末から五世紀初頭のこの数十年は、証言がぐちゃぐちゃで、何が起きたのかまったく判別できない。ここが千六百年の断層になっている。

史料を並べ直す――誰が、いつ、何を書いたのか

一度、材料の質を整理しておきたい。この話に登場する史料は、書かれた時期がばらばらで、そこを混ぜると議論が崩れる。

いちばん古い証拠はパロス年代記。紀元前二六四年から二六三年に刻まれた大理石の碑文で、メンフィス埋葬を記録する。文学作品ではなく碑文なので、写本の過程で改変される余地がない。強い。

ディオドロス・シケリオスの「歴史叢書」は紀元前六十年から三十年ごろの成立。四十巻の通史で、アレクサンドロス本人は第十七巻、後継者戦争は第十八巻。前述のとおり第十八巻の元ネタはヒエロニュモス、後継者戦争の当事者に近い場所にいた同時代人だ。だから霊柩車の描写は、伝聞の伝聞ではなく、実物を見た人間の記述に遡る可能性がある。

ストラボンの「地理誌」は紀元前七年ごろから紀元二三年にかけて成立。ストラボンは自分の足でアレクサンドリアを歩いている。セーマの位置と構造についての、実見に基づくほぼ唯一の記述だ。ただし彼の書き方は簡潔すぎて、正確な位置が特定できない。「王宮群のなかにある囲い地」としか言わない。この一行の曖昧さが、後世の探索者を千数百年苦しめている。

クルティウス・ルフスの「アレクサンドロス大王伝」はラテン語で、成立はおそらく紀元一世紀、クラウディウス帝かウェスパシアヌス帝の時代。第一巻と第二巻が失われている。彼の記述の売りは劇的な場面描写で、第十巻の死後の場面――将軍たちが遺体の脇で口論を続け、その間に遺体が放置されていく展開――は迫力がある。ただし彼は演出家なので、細部の数字は疑ってかかる必要がある。

プルタルコスの「アレクサンドロス伝」は紀元一〇〇年から一二〇年ごろ。彼の関心は人物の性格を描くことにあって、事実の年代記を作ることではない。だが宮廷日誌を引用しているし、腐敗しなかったという記述の出所でもある。彼自身がアレクサンドリアを訪れ、遺体をアレクサンドリアに移すべしという神託の話を伝えている。

アッリアノスの「アレクサンドロス東征記」は紀元一三〇年から一五〇年ごろの成立で、史料としては最上級とされる。アッリアノスはプトレマイオス一世本人の回想録とアリストブロスの記録を主材料に使った。つまり遺体を奪った当人が書いた本を、四百年後の学者が丁寧に整理した本だ。彼にはもう一つ「アレクサンドロス以後の出来事」という著作があって、これは断片と要約でしか残っていないが、遺体護送の指揮をアッリダイオスが執ったこと、プトレマイオスが出迎えたことを記している。

パウサニアスは紀元一五〇年から一八〇年ごろ、アイリアノスは二〇〇年ごろ、カッシオス・ディオは二一〇年から二三〇年ごろ、ヘロディアノスは二四〇年代。スエトニウスは一二一年ごろ。ゼノビオスは二世紀。ユスティヌスによるポンペイウス・トログスの抄録は二世紀から四世紀のどこか。

こうして並べると分かるのは、遺体そのものを見た可能性のある著述家はストラボン一人だということだ。あとは全員、他人の書いたものを読んでいる。千六百年の失踪事件の一次証言者が、実質一人。厳しい。

地面が三メートル上がり、街の半分が海に沈んだ

現代のアレクサンドリアで大王の墓を探すのが絶望的に難しい理由は、単純に、街が別物になっているからだ。

まず垂直方向。古代の街路面は、現在の地表からおおむね六メートルから十メートル下にある。二千三百年ぶんの瓦礫と堆積と建て替えが上に積み上がっている。しかもその上には現在進行形で人が住んでいる。人口五百万を超える大都市の、いちばん地価が高い中心部の真下だ。地下鉄工事のように大規模に掘る機会がないと、深部の調査自体ができない。

次に沈下。北アフリカ北東岸一帯は地盤沈下が続いており、アレクサンドリアでは年間数ミリのオーダーで沈み続けている。二千年積み重なれば数メートルになる。加えて海面上昇。結果として、古代の王宮区画のかなりの部分は、いま東港の海底にある。

フランスの水中考古学者フランク・ゴディオのチームが一九九二年から東港の系統的な調査を続けていて、アンティロドス島、ロキアス岬、ティモニウムといった王宮関連施設の遺構を海底で確認している。カエサリオンの頭部像も引き上げられた。クレオパトラが最後の日々を過ごした区画は、いま完全に水の下にある。セーマが王宮区画の中にあったというストラボンの記述を素直に取ると、墓もまた海底にある可能性が普通にあるわけだ。

そして水平方向。

マフムード・ベイ・エル・ファラキという天文学者兼技師が、一八六六年に古代アレクサンドリアの街路網の復元図を作った。ケディーヴのイスマーイールがナポレオン三世のカエサル研究のために作らせたものだ。彼はボーリング調査で古代の道路を追い、格子状の都市計画を復元した。東西の大通りがカノポス通り、これが現在のホッレイヤ通りにほぼ重なる。ファラキは、カノポス通りと南北の道路R5の交点付近をセーマの位置と推定した。その後タソス・ネルツォス、ハインリヒ・キーペルト、エルンスト・フォン・ジークリンといった研究者がこの比定を支持した。

そして、その交点の真上に建っているのが、ナビ・ダニエル・モスクだ。

ナビ・ダニエル・モスクの地下で、石工が見たもの

このモスクは、ここ二百年の墓探しの震源地であり続けている。名前は預言者ダニエルに由来するが、現代の研究者は八世紀の学者ムハンマド・ダニヤール・アル・マウスィリーの墓に由来すると見ている。それとは別に、地下に古代の構造物があるらしいという噂が延々と続いてきた。

一八五〇年、アンブロワーズ・シリッツィという名の男が奇妙な報告をした。

彼はロシア領事館の通訳兼案内人だったとされる。モスクの地下の穴に潜り込んだところ、木製の扉の隙間から向こう側の空間が見えた。そこには人間の遺体が、頭に王冠のようなものを載せた状態で座っていて、周囲には巻物や書物が散乱していた。そういう証言だ。彼はそれ以上進めず、引き返した。

この話は当時のアレクサンドリアで大いに話題になり、以後「モスクの地下に大王がいる」という都市伝説の骨格になった。ただし裏付けは一切ない。シリッツィは自分の目撃を再現できなかったし、同じ場所を見た第三者もいない。

一八七九年には、もう少し確からしい出来事があった。

モスクの地下室で石材の補修工事が行われていたとき、作業員が誤って壁を破り、地下の穹窿状の空間を露出させてしまった。作業員とモスクの導師が中を覗くと、先端が尖った角錐状の花崗岩の構造物が並んでいたという。導師は作業員に、すぐ出て行くよう命じた。そして開口部は塞がれた。

それ以後、この地下室に外部の学者が入った記録はない。花崗岩の角錐という描写は、プトレマイオス朝期のオベリスク状の墓標とも取れるし、単なる建築部材とも取れる。確かめる手段がない。

一八八八年、ハインリヒ・シュリーマンが動いた。トロイアとミュケーナイを掘り当てた男である。彼はナビ・ダニエル・モスクの地下を発掘したいとエジプト当局に申請した。却下された。現役のモスクの床を剥がして掘らせろという要求が通るはずもない。シュリーマンはそのまま二年後に死んだ。もしあの申請が通っていたら、という「もし」は、この分野で最もよく口にされる仮定の一つだ。

似た系統の候補地がもう一つある。シャララート庭園に近いラテン人墓地の一角にある、通称アラバスター墓。一九〇七年にエヴァリスト・ブレッチャが発見した、アラバスターの巨大なブロックで組まれた一室だけの構造物だ。マケドニア式の墓室の特徴を持ち、年代は紀元前四世紀末から三世紀と推定される。

イタリアの考古学者アキッレ・アドリアーニは、これこそセーマの複合施設の一部だと考え、その論をまとめたが、生前には出版できなかった。原稿は没後にニコラ・ボナカーサらの手で刊行された。アラバスター墓は現在も現地に残っている。誰も、確定的なことは言えない。

シワ・オアシス説――「ギリシャ人の手が見つけた」と彼女は言った

砂漠側の候補地はシワだ。

紀元前三三一年、アレクサンドリア建設の直後、アレクサンドロスは砂漠を横断してシワ・オアシスのアンモン神託所へ向かった。途中で嵐に遭い、道を失い、鳥、あるいは蛇に導かれてたどり着いた、という伝説が付いている。神託所で彼はゼウス・アンモンの子であると告げられ、エジプトの正統な王として承認された。彼が自分を神の子と考えるようになった転換点だ。

クルティウス・ルフスとユスティヌスは、アレクサンドロスが死ぬとき、アンモンの神域に葬られることを望んだと書いている。だからシワに墓がある、という発想には一定の根拠がある。

一九九五年一月、ギリシャの考古学者リアナ・スヴァルツィが記者会見を開き、シワのマラキ地区、通称ビラード・アル・ルームの遺構がアレクサンドロスの墓であると宣言した。彼女は「ギリシャ人の手が、この極めて重要な記念物を見つけた」と言った。ギリシャ本国は熱狂した。三本のギリシャ語碑文があり、そのうちの一つが大王の遺体の移送に言及しているというのが彼女の主張だった。

だが専門家の反応は冷たかった。

ギリシャ文化省が派遣した調査団は、そもそもあの構造物が墓であるかどうかすら疑わしいと報告した。ドーリア式ともマケドニア式とも言えない建築で、出土品の様式はマケドニア的でない。碑文の読み方についても異論が続出した。当時のギリシャ首相コスタス・シミティスは発掘の中止を求め、エジプト側に許可の取り消しを働きかけたと報じられた。スヴァルツィは発掘権を失い、その後長く裁判で争った。彼女は最後まで自説を撤回しなかった。

二〇二一年にも、エジプト側からシワで墓の場所を特定したという趣旨の発言が出て、一瞬騒がれた。実質的な物証は示されなかった。二〇二四年には、エジプト学者クリスチャン・ド・ヴァルタヴァンが、遺体は保護のためエジプト東部砂漠へ移された可能性がある、という新説を出している。砂漠は広い。

ヴェネツィアの聖マルコは、実はアレクサンドロスなのか

この分野でいちばん人気のある異説が、これだ。提唱者はイギリスの独立研究者アンドリュー・チャグ。二〇〇四年の著書で本格的に展開した。

筋書きはこうだ。

三九一年の異教禁令で、アレクサンドロス崇拝は違法になった。だが遺体は物理的にそこにある。神官団と信奉者たちは、これを守るために「キリスト教の聖遺物」に化けさせた。当時アレクサンドリアの守護聖人とされていたのが福音書記者マルコで、その遺体は殉教後に信徒が回収したことになっていた。だが実物がどこにあるのかを厳密に知る者はいない。アレクサンドロスの遺体を聖マルコの遺体として登録し直せば、破壊を免れるうえに、以後は教会が守ってくれる。

そして紀元八二八年、ヴェネツィアの商人ブオノ・ダ・マラモッコとルスティコ・ダ・トルチェッロが、アレクサンドリアから聖マルコの遺体を持ち出した。イスラム統治下の税関を突破するために、彼らは籠の上に豚肉を積んだ。ムスリムの検査官は豚に触れることを嫌がるので、中身を検められずに通過できた、というのが有名な伝承だ。遺体はヴェネツィアに運ばれ、サン・マルコ寺院の主祭壇の下に納められた。今もそこにある。

チャグの主張の核心はここだ。もし三九一年に遺体の身元がすり替えられていたなら、サン・マルコ寺院の祭壇の下に眠っているのは福音書記者ではなくアレクサンドロス三世である。

彼はさらに物証も出してきた。ネクタネボ二世の石棺だ。

エジプト最後の土着王ネクタネボ二世は紀元前三四三年にペルシャに敗れてヌビアへ逃げ、自分のために作らせた壮麗な石棺を使わないまま残した。この石棺はのちにアレクサンドリアのアッタリーン・モスクにあり、地元では「アレクサンドロスの棺」と呼ばれていた。ナポレオン遠征に随行した学者たちもそう記録した。一八〇一年、アレクサンドリア開城の際にイギリス軍が接収し、現在は大英博物館にある。チャグは、これがプトレマイオス一世がメンフィスで大王を納めた最初の石棺だったと考えている。

二〇二〇年には、サン・マルコ寺院の基礎に組み込まれた大理石の破片に、紀元前三世紀のマケドニア式の盾と星の意匠が見られると報告した。アレクサンドリアからマルコの遺体を運び出したとき、棺の一部も一緒に来てしまったのではないか、というわけだ。

反論も当然ある。

八二八年の遺体強奪は、ヴェネツィアが自分の都市の格を上げるために作り上げたプロパガンダの色が濃く、そもそも本物のマルコの遺体があった保証がない。中身が何であれ、九世紀の時点で「マルコということになっている骨」があっただけかもしれない。三九一年のすり替えを示す同時代史料は一行も存在しない。サン・マルコの大理石片の年代比定にも異論がある。

決定的な検証手段は遺体のDNA鑑定と年代測定だが、バチカンとヴェネツィア総大司教区がそれを許すことはまずない。一九六八年に教皇パウロ六世が聖遺物の一部をアレクサンドリアのコプト教会に返還した際も、科学的分析は行われていない。

マケドニアへ帰った説、そして「もう存在しない」説

ギリシャ側には、遺体は結局マケドニアに戻ったという系統の説がある。

もっとも極端なのが、一九九三年にトリアンタフィロス・パパゾイスが出した主張で、ヴェルギナ第二墓に埋葬されているのはフィリッポス二世ではなく、アレクサンドロス本人と妃ロクサネである、というものだ。彼は副葬された甲冑の様式を根拠に挙げた。学界ではほぼ相手にされていないが、ギリシャ国内では今も一定の支持者がいる。

もう一つ、感情的には受け入れがたいが、現実的にはいちばん有力かもしれない説がある。遺体はとっくに消滅している、という説だ。

二七二年のブルケイオン地区の破壊、二九七年の包囲、三六五年の津波、三九一年以降の異教施設の解体。このどれか一つでも遺体を直撃していれば、二千三百年前の有機物は残らない。アレクサンドリアは石灰岩と海水と塩の街で、有機物の保存環境として最悪の部類だ。仮に建物の残骸が地下にあったとしても、中身は土に還っている可能性が高い。

これに対する反論は、「その割に、破壊されたという記録が一つもない」というものだ。あれだけの有名物件が破壊されたなら、破壊した側が誇るか、された側が嘆くか、どちらかの記録が残るはずだ。ところが残っているのは「知らない」という証言だけである。壊されたのではなく、忘れられたのだ、という読み方はできる。忘れられただけなら、まだそこにある。

アンフィポリスのカスタ古墳、ギリシャ中が沸いた二〇一四年の秋

現代でいちばん派手に「大王の墓か」と騒がれたのが、この案件だ。

北ギリシャ、アンフィポリス近郊のカスタの丘。高さ約三十メートルの巨大な墳丘で、周囲を囲む擁壁は直径約百五十八メートル、周長にして五百メートル近い。壁面はタソス島産の大理石で覆われている。六十キロ離れた島から大理石を運んできたわけだ。丘の上にはかつて有名なアンフィポリスの獅子像が立っていたとされる。擁壁自体は一九六四年の調査で確認されていたが、内部の墓室が確認されたのは二〇一二年、実際に人が入ったのは二〇一四年八月だった。

出てきたものが凄かった。

十三段の階段を降りると、入口を二体のスフィンクスが守っている。高さ約二メートル。その奥の通路には彩色された柱があり、第二の間の入口には二体のカリアティード、女人柱が立つ。高さ二・二七メートル、台座を含めれば三・七メートル近い。さらに奥の床には、黒白灰黄青赤の小石を使ったモザイクがあった。図柄はハデスによるペルセポネの略奪。ヘルメスが先導している。

この床モザイクは、そもそも人に見せる前提で作られていない。埋め戻されることを前提に、それでも最高級の職人が敷いた。

ギリシャの反応は異常だった。テレビは連日生中継し、新聞は一面で扱い、当時の首相アントニス・サマラスが八月に現地入りして「極めて重要な発見だ」と述べた。SNSでは「大王が帰ってくる」という投稿が溢れた。誰もが分かっていたはずなんだ。アレクサンドロスはエジプトに埋葬されたのだと。それでも、期待は止まらなかった。

冷めた見方も同時にあった。この時期のギリシャは債務危機の真っ只中で、緊縮財政への不満が沸騰していた。政権が国民の目を逸らすために発掘を演出しているのではないか、という批判が国内外から出た。考古学者のオルガ・パラギアをはじめ、複数の研究者が年代比定に疑問を呈した。彫刻の様式はもっと後代、ローマ期に近いのではないか、というのが主な論点だった。発掘団の情報公開の仕方が、学術的な手順よりメディア向けの演出を優先しているという批判もあった。

出土した人骨は五体分。六十歳を超える女性、三十五歳から四十五歳の男性が二人、新生児が一人、そして火葬された骨の断片が一人分。若い男性の一体には、治癒していない、おそらく致命傷になった外傷の痕があった。

発掘団長のカテリーナ・ペリステリは、二〇一五年に見解を発表する。この墓はアレクサンドロスの盟友ヘファイスティオンを記念するものである、と。根拠は、遺構に刻まれた「受け取った」を意味する古代ギリシャ語の語と、ヘファイスティオンのモノグラムだった。設計者はロドスのデイノクラテス、という説も出た。オリュンピアス説、ロクサネと息子アレクサンドロス四世説もある。ロクサネと息子は、実際にアンフィポリスに幽閉され、そこで殺されている。

結局のところ、決定打はない。墓は二〇二三年四月から限定的に公開されている。

ヴェルギナ王墓、父の骨をめぐる四十年戦争

そしてヴェルギナ。

一九七七年、ギリシャの考古学者マノリス・アンドロニコスが、ヴェルギナの大墳丘を六週間掘って、四つの墓を見つけた。うち二つは盗掘されていなかった。

第二墓の中から出てきたのが、二十四金、重さ約十一キロの黄金のラルナクス、骨箱で、蓋の表面には十六条の光を放つ「ヴェルギナの太陽」が打ち出されていた。中には焼かれた骨と、七百十七グラムの黄金の樫葉冠。前室にはもう一つのラルナクスがあり、こちらには金と紫の布に包まれた女性の遺骨と、花模様の冠が入っていた。

アンドロニコスは、これはアレクサンドロスの父フィリッポス二世の墓だと発表した。頭蓋骨に右眼窩の損傷の痕跡があり、フィリッポスが右目を矢で失ったという記録と一致する、というのが決め手とされた。ギリシャにとってこれは国家的な大発見になった。

ところが、この比定が四十年以上揉め続けている。

ユージン・ボーザやオルガ・パラギアらは早くから、第二墓の年代は紀元前三三六年のフィリッポス暗殺より後ではないかと指摘してきた。すると被葬者は、アレクサンドロスの異母兄で名目上の王だったフィリッポス三世アッリダイオスになる。二〇一〇年には、頭蓋骨の顔面非対称性の詳細分析からフィリッポス二世説が補強されたという研究が出た。

だが二〇一五年、アントニス・バルツィオカスらが、第一墓に葬られた男性の膝関節が強直しており、これは槍傷による後遺症で、フィリッポス二世が脚に受けた傷の記録と一致すると発表する。同じ墓に若い女性と新生児の骨があり、これは暗殺後に殺されたクレオパトラ・エウリュディケと赤ん坊に符合する。つまり第一墓がフィリッポス二世、第二墓がフィリッポス三世、第三墓がアレクサンドロス四世という配置換えだ。

二〇二三年から二〇二五年にかけて、この論争はさらに複雑化した。骨の年代測定と同位体分析をめぐって研究者同士が公然と批判し合う状況が続いている。そして最近になって、第二墓の副葬品の一部はアレクサンドロス本人の持ち物だった可能性が指摘され始めた。フィリッポス三世はアレクサンドロスの遺品を相当量引き継いでいるので、あの豪華な武具の中に大王が実際に使った品が混じっていてもおかしくない、という理屈だ。

大王の遺体は行方不明のままだが、大王が触った物は、たぶんヴェルギナのケースの中にある。それが今の到達点だ。

シャララート庭園を十五年掘り続けている女性がいる

現在進行形の探索者で、いちばん本気なのがカリオピ・リムネオス・パパコスタというギリシャ人考古学者だ。彼女はアレクサンドリア文明ギリシャ研究所を主宰し、アレクサンドリア中心部のシャララート庭園で、二〇〇〇年代後半から発掘を続けている。

なぜここか。古代の王宮区画ブルケイオンの範囲に入る一等地でありながら、上に高層建築が建っていない稀有な区画だからだ。街の真ん中で、公園という理由だけで開発を免れてきた土地。彼女はそこを掘った。

作業は過酷だった。

地下水位が高いので、掘り下げると水が湧く。ポンプで排水しながら、瓦礫と近代の建築基礎を一枚ずつ剥がしていく。十メートル以上掘り進んで、ようやくヘレニズム期の層に到達した。舗装された街路が出てきた。プトレマイオス朝期の建築構造も出てきた。そして二〇一八年、彼女のチームは大理石製のアレクサンドロス像を掘り出した。若々しい顔立ちの丸彫り像で、アレクサンドリアの都市中心部でこの種のヘレニズム彫刻が出土すること自体が久しぶりだった。二〇二三年にも小像が出ている。

彼女は、自分は墓を探しているのではなく王宮区画を探しているのだ、と繰り返し説明している。セーマが王宮の敷地内にあったのなら、まず王宮を見つけないと話が始まらない。地味で、正しくて、途方もなく時間がかかるアプローチだ。彼女はそれを十五年以上続けている。

対照的な立場にいるのが、エジプト側の重鎮ザヒ・ハワスだ。彼はシワ説を一貫して否定してきた。彼の見立てでは、墓はアレクサンドリアの地下にある。そして、たぶん永遠に見つからない。なぜなら現代の街がその上に乗っているからだ。地下鉄を通すか、街を移動させるかしないと届かない。この、身も蓋もない現実主義が、いまのところ最も正確な評価かもしれない。

二百件を超える申請書と、エジプト考古省のカウンター

エジプトで発掘するには許可が要る。

文化財を統括する行政機構は名称を何度も変えてきたが、実態としては考古最高評議会が申請を審査し、外国隊であれば大使館や研究機関を通した推薦、調査計画、資金証明、保存計画、報告義務までを含む厳格な手続きを求める。宗教施設の下や、現役の市街地の下を掘る申請は、まず通らない。ナビ・ダニエル・モスクの地下がその典型だ。

その上で、エジプト当局はアレクサンドロスの墓を目的とした探索を公式に百四十件以上数えている。申請ベースまで含めれば二百件を軽く超えるとも言われる。十九世紀からの累計だ。うち、当局が「なるほど」と認めた成果はゼロである。

申請の中身は、真面目な学術調査から、地中レーダーで一発当てようという企画、占星術やダウジングを持ち出す人まで、幅が広い。当局側は毎年のように「大王の墓を発見した」という自称発見者に対応させられている。二〇二〇年代に入ってからも、アレクサンドリア郊外の墓地遺構やタップ・オシリス・マグナ神殿の調査が「大王の墓発見か」という見出しで世界中に配信され、そのたびに当局が否定するというサイクルが繰り返されている。

エジプト側の本音としては、この墓を探す作業に膨大なリソースを吸い取られるのは望ましくない。国内には未発掘の遺跡が数えきれないほどあり、現に成果が出ている現場がいくつもある。そこへギリシャ発の熱狂が周期的に押し寄せる。この温度差が、シワ騒動のときにも、アンフィポリスのときにも表面化した。

ネットは冷めている、でも毎回ちゃんと騒ぐ

古代史クラスタの反応は、ある種の様式美になっている。

「大王の墓が見つかったかもしれない」という記事が出るたび、SNSには「今年もこの季節が来たか」「アレクサンドロスの墓、年に二回は見つかってる」といった皮肉が並ぶ。海外の質問掲示板で誰かが「本当に見つかったの」と聞くと、経験豊富な回答者が「見つかっていません。今回も違います」と冷静に返す。そういう定型が出来上がっている。

同時に、毎回ちゃんと盛り上がるのも事実なんだよな。アンフィポリスのときは日本語圏でも実況スレッドが立ち、モザイクが出てきた瞬間にタイムラインが沸いた。ヴェルギナの被葬者論争が更新されるたびに、専門家でもない人たちが骨の同位体比の話を真剣に議論する。ヴェネツィア説に至っては、テレビのドキュメンタリーで扱われたこともあって、日本語圏でも根強い人気がある。

論点として毎回持ち上がるのは、だいたい次のような話だ。

三世紀後半のブルケイオン破壊で終わっているのではないかという冷静派に対して、記録の断絶が破壊の証拠にならないと返す派。ストラボンの「王宮群のなかの囲い地」という記述をどこまで狭く取るかという解釈論。ナビ・ダニエル説はファラキの復元図に依存しすぎているのではないかという方法論的な批判。ヴェネツィア説は面白いが、根拠の連鎖が長すぎて一箇所でも切れると全部崩れるという構造的な弱さ。シワ説は古代史料の「本人の希望」だけを根拠にしていて、プトレマイオスが本人の希望を尊重した形跡がまったくないという指摘。

そして、いちばん厄介な反証がこれだ。仮に地下から立派なヘレニズム期の墓室が出てきたとして、それが大王の墓であると、いったい何をもって証明するのか。名前を刻んだ碑文が残っている保証はない。遺体が残っている保証もない。金の棺はとっくに溶かされている。決定的な同定材料が事前に想定できないというのは、探索プロジェクトとしてかなり致命的な性質だ。

なぜ人類はこの墓探しを二千年やめられないのか

理由は複数ある。

一つは、この遺体がずっと「権力の装置」だったからだ。

プトレマイオス一世が遺体を奪ったのは、感傷ではない。アレクサンドロスの遺体を持っている者が正統な後継者だという政治力学があったからだ。実際、彼はエジプトで王朝を開き、遺体を王朝の守護聖遺物にした。ローマ皇帝が代わる代わる参拝したのも同じ理屈で、世界征服者の遺体の前に立つことで、自分の権力を歴史の直系に接続していた。二千三百年経った今も、この遺体は「持っていると強い」ものであり続けている。ギリシャがアンフィポリスであれだけ沸いたのも、根っこは同じだ。

二つ目は、記録の残り方が悪趣味なほど絶妙だからだ。完全に失われた古代の建造物なら諦めがつく。だがこの墓は、位置についてのヒントが中途半端に残っている。王宮の敷地内。カノポス通りの近く。四世紀までは確かにあった。地下に何かがあるらしい。この「あと一歩」感が、二百件の申請書を生んできた。

三つ目は、大王本人の物語構造だ。二十歳で王になり、三十二歳で世界の半分を取って、そのまま死んだ。完結していない人生だ。しかも死因すら確定していない。この未完成さと、墓の失踪が、綺麗に重なる。人は完結しない物語に対して、いつまでも終端を探し続ける。

四つ目、これは身も蓋もないが、まだ本当に見つかる可能性があるからだ。トロイアは見つかった。ミュケーナイも見つかった。ツタンカーメンも出た。海底のアレクサンドリアからは実際に王宮の遺構が出ている。過去二百年、この分野は「あり得ない」と言われていたものを何度も掘り出してきた。だから今回も、と思ってしまう。

そして五つ目。仮に見つからなくても、探しているあいだは、あの遺体はまだどこかにあることになる。溶けた金の棺の話も、鼻が欠けた顔の話も、蜜に沈んだ王の話も、全部「まだ続いている話」でいられる。見つけた瞬間に、それは終わる。二千年やめられない理由の一部は、たぶん、終わらせたくないという気持ちなんだと思う。

確度の高い部分と、低い部分に線を引く

ここから先は、上で並べた材料を突き合わせて、もう一段踏み込んで考えていく。

この話には、極端に確度の高い部分と、極端に低い部分が同居している。混ぜて語ると全部が眉唾になるので、線を引いておきたい。

確度が高いのは、遺体がエジプトへ運ばれ、メンフィスに一度葬られ、その後アレクサンドリアに移され、少なくとも紀元三世紀初頭までは公開展示に近い形で存在していた、という骨格だ。パロス年代記という碑文証拠があり、実見者ストラボンの記述があり、複数系統のローマ史料が参拝を独立に記録している。ここは疑いようがない。

世界史でこれほど長期にわたって「見物された遺体」は他にほとんど例がない。エジプトのファラオのミイラでさえ、こんなに人目に晒されてはいなかった。

確度が中程度なのは、霊柩車の細部と、強奪の経緯だ。

ディオドロスの記述はヒエロニュモスという同時代人に遡る可能性が高いので、大枠は信頼できる。ただし数字は誇張の余地がある。騾馬六十四頭という数は、あの規模の構造物を牽くには少なすぎるという指摘もあれば、道路工事班が随行して路面を整えていたなら妥当だという反論もある。四面の絵の内容は、あまりにも都合よく「征服のダイジェスト」になっていて、後世の理想化が入っている疑いは残る。

アイリアノスの影武者の棺の話は、面白すぎるぶん、危ない。二〇〇年ごろの逸話集の記述であり、これを史実として扱うのは無理がある。ただし、プトレマイオスが何らかの欺瞞工作をした可能性自体は否定できない。彼はそういう男だ。

確度が低いのは、遺体が腐らなかったという記述の解釈と、四世紀以降の全部だ。

腐敗しなかったという話は、プルタルコスという四百年後の伝記作家の一行に全面的に依存している。ギラン・バレー症候群説は医学的には成立し得るが、この一行が事実であることを前提にした議論なので、前提が崩れると全部崩れる。逆に言えば、あの一行が本当なら、アレクサンドロスは死亡宣告後も数日間生きていて、防腐処理台の上で本当に死んだ、という結論を避けにくくなる。歴史学の側と医学の側が同じテーブルに着いても噛み合わないのは、そもそも扱っている「証拠」の性質が違うからだ。

では、墓はどこにあるのか

有力な仮説を素直な順に並べると、まず「アレクサンドリア中心部の地下」がある。

ストラボンの記述と、後代の参拝記録の集中と、四世紀末までの言及の存在。三つが指し示す方向は一致している。問題は、そこが現代の街の下だということだけだ。この「だけ」が絶望的に重い。地上に五百万人が住んでいて、地下水位が高く、掘れば水が湧く。掘れる場所は限られる。パパコスタがシャララート庭園という一枚の空白地帯を十五年かけて掘っているのは、そこしか掘れないからだ。

次に「海底」。王宮区画がロキアス岬とアンティロドス島の周辺に広がっていて、その相当部分が水没している以上、セーマが海の下にある可能性は真面目に検討されるべきだ。ゴディオのチームは既に王宮関連の遺構を確認している。ただし海底の遺構は、地上以上に構造物の同定が難しい。倒壊した石材が海底に散らばっている状態から、どれが霊廟の部材かを判定する手立てが乏しい。

三番目に「もう存在しない」。これが冷静に見ればいちばん確率が高いかもしれない。

二七二年のブルケイオン破壊は、記録上、王宮区画そのものへの壊滅的な打撃だ。ここで霊廟が倒壊したなら、その後の三六五年の津波、三九一年以降の異教施設解体、中世を通じた石材の再利用で、部材は跡形もなく散っただろう。アレクサンドリアは石材が貴重な街だ。倒れた大理石は必ず持ち去られて別の建物になる。遺体そのものは、二千三百年前の有機物として、塩分と湿気の環境で残る見込みが薄い。

四番目以降、シワ、ヴェネツィア、マケドニア、東部砂漠。これらは全部、一次史料の裏付けが薄いか、論証の連鎖が長すぎるかのどちらかだ。

ただし完全に無視すべきかというと、そうでもない。特にヴェネツィア説は、検証可能性という点でユニークな位置にある。他の説が「掘らないと分からない」のに対して、ヴェネツィア説だけは「もう掘り出されていて、場所も分かっていて、あとは調べるだけ」なんだ。サン・マルコ寺院の主祭壇の下に何が眠っているのかは、放射性炭素年代測定を一回やれば分かる。九世紀の骨なのか、紀元一世紀の骨なのか、紀元前四世紀の骨なのか。それだけで決着する。

だが宗教施設が聖遺物の科学分析を許可することは、まず、ない。これほど答えに近くて、これほど届かない仮説も珍しい。

「遺体がまだ遺体の形をしている」という前提が甘い

もう一つ、あまり語られない論点を挙げておきたい。

紀元前八十九年ごろに金の棺が溶かされ、ガラスかアラバスターの棺に移し替えられた。この移し替え作業の時点で、遺体は既に二百三十年以上経過している。ミイラであれ蜜漬けであれ、その状態の遺体を別の容器に移すのは、相当乱暴な作業になる。

カリギュラは胸当てを抜き取った。抜き取るには遺体を動かす必要がある。アウグストゥスは触れて鼻を折った。触れたということは、防護もなしに手が届く状態で置かれていたということだ。カラカラはマントと指輪と帯を棺の上に置いた。四百年以上にわたって、遺体は繰り返し人の手で扱われている。

現代の博物館のミイラですら、扱うたびに劣化する。何百年も見物客に晒され、皇帝に触られ、装備を剥がされ、棺を二度替えられた遺体が、三世紀の時点でどこまで原形を保っていたのか。案外、ローマ末期にはもう「かつて遺体だった何か」に近い状態だったのではないか。

そう考えると、四〇〇年ごろのヨハネス・クリュソストモスの「彼自身の民でさえその墓を知らない」という証言も、意味が変わってくる。建物が壊されたのではなく、見せるものがなくなって、展示が終わり、記憶が薄れた。そういう終わり方だった可能性がある。派手な破壊より、静かな消耗のほうが、たぶん実際の歴史に近い。

ヴェルギナが教えてくれる、暗い予測

それから、アンフィポリスとヴェルギナが同じ物語の中で重要になる理由も整理しておきたい。

この二つは、直接には大王の墓と関係がない。アンフィポリスはヘファイスティオンかオリュンピアスかロクサネかで揉めているし、ヴェルギナは父か兄かで揉めている。それでもこの二つが「アレクサンドロスの墓の話」として消費されるのは、両方とも「マケドニア王家の遺体の帰属」をめぐる争いだからだ。誰の骨か。どこに葬られたか。誰がそれを持つのか。後継者戦争の時代から二千三百年、議題がまったく変わっていない。

そしてヴェルギナの論争は、大王の墓探しに対して、恐ろしく現実的な教訓を与えてくれる。

あそこは、盗掘されていない墓が、副葬品ごと、遺骨ごと、完全な状態で出てきた事例だ。金の骨箱があり、王家の紋章があり、豪華な武具があり、骨がある。それでも、四十年以上、誰の墓か決着していない。骨の年代測定の結果をめぐって研究者が公然と対立している。つまり、条件が最良でもこの有様なんだ。

これを踏まえてアレクサンドリアを考えると、暗い予測が立つ。

仮に明日、アレクサンドリアの地下十メートルからヘレニズム期の壮麗な霊廟が出てきたとする。金の棺はない。溶かされているから。遺体もたぶんない。碑文が残っている保証もない。その状態で「これがアレクサンドロス大王の墓である」と確定させるのは、ヴェルギナ以上に困難だ。おそらく発表と同時に論争が始まり、決着しないまま十年、二十年が過ぎる。

二千年探し続けた末に手に入るのが「たぶんそうかもしれない」という結論だとしたら、これはこれで、かなり出来のいい呪いだと思う。メンフィスの祭司が言ったという台詞を思い出す。この遺体が横たわる場所は、どこであれ騒乱に苛まれ続ける、というやつだ。実際そうなっている。遺体が行方不明になったあとでも、まだそうなっている。

神になりたかった男は、行方不明者になった

最後に、この話のいちばん奇妙な部分を書いておきたい。

アレクサンドロスは、生きているあいだ、自分が神の子であると本気で信じるようになった。シワの神託がそう告げたからだ。そして彼は、自分が死んだあと、遺体が神として祀られることを望んだ節がある。

実際そうなった。プトレマイオス朝は彼の遺体を中心に王朝祭祀を組み立て、ローマ皇帝たちは巡礼者になり、六百年以上、その遺体は崇拝の対象であり続けた。ここまでは、彼の望みどおりだ。

だが四世紀の終わりに、彼の神性は法律で禁じられた。祀ることが違法になった。そのとき遺体はどこへ行ったのか。壊されたのか、隠されたのか、聖人に名を変えたのか、忘れられただけなのか。

そして千六百年後、彼は再び、世界で最も熱心に探されている人間になった。神としてではなく、行方不明者として。

SNSに「今年もこの季節か」と書き込む人たちも、シャララート庭園で泥水を汲み出している考古学者も、モスクの床の下に何があるのか想像している人も、全員、二千三百年前に死んだ三十二歳の男の居場所を気にしている。この執着の総量は、たぶん、どんな神殿の香煙よりも大きい。

神格化されたかったのなら、これ以上ないほど成功している。ただ、その形は本人がまったく想定していなかったものだ。金の棺も、蜜も、鈴の鳴る霊柩車も、全部なくなった。残ったのは、探し続ける人間だけである。それでも千六百年もつのだから、大したものだと思う。

次に「アレクサンドロス大王の墓、発見か」というニュースを見かけたら、たぶん今回も違う。でも一応、開いてしまうんだよな。それがこの話の正しい付き合い方だと思う。

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