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👑 道鏡事件の真相――女帝が愛した破戒僧は、本当に皇位を狙ったのか

近江の離宮で、上皇は病に伏した

始まりは761年、天平宝字5年の近江だ。平城京を離れていた孝謙上皇は、保良宮という離宮に滞在していて、そこで病に伏した。看病にあたった禅師たちのなかに、弓削道鏡という僧がいた。のちに宮廷をまるごとひっくり返すことになる男が、このとき上皇の枕元に座っていたわけだ。

道鏡は河内国の弓削氏の出身で、今の大阪府八尾市あたりの生まれと伝わる。700年ごろの生まれだ。若いころは義淵のもとで法相宗を学び、梵語は良弁に教わったという。禅にも通じていて、宮中の内道場で禅を修め、学問も修行も積んだ僧だった。

上皇のほうも、並の人ではない。阿倍内親王と呼ばれていた738年に、史上ただ一人の女性皇太子に立てられている。749年には父の聖武天皇から位を譲られて即位し、758年には淳仁天皇へ位を譲って、自分は上皇の座に退いた。そんな経歴をもつ上皇が、病の床で出会った一人の僧を、やがて誰よりも深く頼るようになったのだ。

道鏡の加持祈祷で、病は快方に向かった。『続日本紀』によれば、上皇はこの一件で道鏡に絶大な信頼を寄せるようになったという。看病がきっかけで寵愛を受けた、という筋書きそのものが、のちの政争の伏線になっていく。すべての発端。

鈴と印を取り返した9月

都の権力は、二つに割れていた。このとき淳仁天皇を後ろから支えていたのは、藤原仲麻呂こと恵美押勝という実力者だ。764年9月11日、上皇は少納言の山村王を淳仁のいる中宮院へ送り込み、天皇の権力を動かすための鈴印を取り上げようとした。

仲麻呂の息子の訓儒麻呂が駆けつけて、いったんは鈴印を奪い返し、上皇側の出ばなをくじく。だが上皇の側も黙ってはいない。訓儒麻呂を射殺して、鈴印をふたたび自分たちの手に取り戻してみせた。天皇の権威を動かす道具を先に握ったほうが勝つ、そういう勝負が都の真ん中で動いていたわけだ。

都を出た仲麻呂は、宇治を経て近江をめざし、さらに越前へ向けて琵琶湖の西岸を北へ進んだ。だが9月18日、琵琶湖の西の三尾の古城まで追いつめられ、討伐軍との戦いに敗れる。仲麻呂は軍士の石村石楯に斬られ、一家も皆殺しにされて、権勢の幕が一気に下りた。これが藤原仲麻呂の乱だ。

764年10月14日、上皇は操り人形にしていた淳仁天皇を廃した。宣命の言葉は強烈で、今の帝は日々の祭祀と小さな事だけを行え、国家の大事と賞罰は自分が行う、というものだった。天皇の権限を取り上げ、大権を一手に握ったわけだ。それから5日後、淳仁は天皇の座を追われた身として、親王の待遇で淡路国へ流された。

上皇は、こうして自分がもう一度、位に就くための道を、力ずくで開いてみせた。称徳天皇の誕生だ。日本史上ただ一人、出家したまま即位した天皇でもあり、その肩書きがまた話をややこしくしていく。

輿と礼服を許された僧

乱が片づいて上皇が実権を取り戻すと、道鏡の昇進は、階段を駆け上がるような勢いで一気に加速した。765年の閏10月には、僧のまま太政官の最高位に准じる異例のポスト、太政大臣禅師に就く。坊さんが、だ。

その少し前の10月には、淡路の淳仁が逃げ出そうとして捕らえられ、翌日に院の中で亡くなっている。公式の記録は病死だが、実際には殺されたと推定する見方が強く、大がかりな葬儀の記録も見当たらない。のちに淡路廃帝と呼ばれ、淳仁天皇の追号を受けたのは、1870年の明治になってからだった。

このとき、本来は臣下に行わない群臣拝賀まで、道鏡に対して催された。居並んだ役人たちが、頭を丸めた僧侶に向かって一斉に頭を下げたことになる。異様な光景。宮廷の空気が目に見えて変わったのは、おそらくこのあたりからだろう。

翌766年の10月、海龍王寺で仏舎利が現れたのを機に、道鏡は「法王」の称号を手にした。乗輿に礼服、封戸まで与えられ、待遇は天皇にほぼ並ぶところまで来た。称徳と道鏡の二頭体制。そう呼ばれる形が、ここで整ったわけだ。

身内も引き上げられた。弟の弓削浄人は従二位の大納言まで昇り、弓削氏で五位以上に就いた者は、一門で10人に達したという。朝廷の要職を、道鏡本人だけでなく弟まで含めて、一族でがっちり固めてしまった格好だ。

火種はもう一つあった。称徳天皇は独身で子がなく、次の天皇を誰にするかという問題が、ずっと宙に浮いていたのだ。そこへ道鏡の異例の権勢が重なる。宮廷の空気は、ぴりぴりと張りつめていった。

宇佐から届いた、真逆のお告げ

事件が表に出たのは、神護景雲3年、769年の5月だ。大宰主神の中臣習宜阿曾麻呂が、とんでもない報告を都へ上げてきた。豊前国の宇佐八幡宮で、神託を受けたというのだ。中身がすごい。阿曾麻呂は宇佐の神官を兼ねた立場で、道鏡に取り入ってこの話を持ち込んだ、と見る向きもある。

報告には、768年に大宰帥へ就いた道鏡の弟、弓削浄人の名も並んでいたと伝わる。「道鏡を皇位に即かせれば、天下は太平になる」。それが神のお告げだった。道鏡の身内の口から出た話、という影が、どうしてもつきまとう。

当時の宇佐八幡宮は、国を挙げて崇められる神社で、そこから届いた言葉を軽くあしらうことなどできなかった。称徳天皇は、真偽を確かめる手を打つ。宇佐の側が使者に求めてきたのは、側近の尼僧だった法均、俗名を和気広虫だと伝わる。

だが広虫は体が弱く、宇佐までの長旅には耐えられそうになかった。そこで弟の和気清麻呂が、姉の代わりに勅使として宇佐へ向かうことになる。出発の前には、道鏡が昇進を約束して清麻呂に協力を求めた、とも伝わる。道中の話も伝わる。猪に守られた旅。

足の不自由な清麻呂が輿に揺られて宇佐へ向かうと、300頭ほどの猪が現れたらしい。猪は道の両脇に列をなし、10里ばかり先導して、山中へ走り去ったという。参拝のあとは立って歩けるようになり、帰りは馬に乗ったと伝わる。のちの伝えでは、道鏡が刺客を放って清麻呂を道中で殺そうとしたものの、雷雨で辺りが暗くなって果たせなかったともいう。

8月、清麻呂は宇佐に着いた。のちの伝えによれば、禰宜の辛嶋勝与曽女に託宣が下り、身の丈3丈、およそ9メートルもの僧の姿をした大神が現れたという。清麻呂が宣命を読み上げようとしたところ、神はそれを受け取らず、拒んだと伝わる。

宇佐から清麻呂が都へ持ち帰った言葉は、最初に届いたお告げとは、真っ向から食い違う、まるで逆さまの中身だった。『続日本紀』が書き留めた文言は、こうだ。「わが国家は開闢より以来、君臣定まれり。臣を以て君と為すことは、未だこれ有らず」。

続けて「天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」とある。皇位は必ず皇族の血筋から立てろ、道鏡のような無道の者は、早いところ除いてしまえ、という意味になる。容赦のない拒絶。

別部穢麻呂という名

これを聞いた称徳天皇は、激怒した。清麻呂は因幡員外介に左遷される。員外介とは定員の外に置かれる次官のことで、名ばかりの地方官だ。769年9月25日のことだった。さらに名前まで取り上げられ、「別部穢麻呂」と改められたうえで、大隅国へ流された。

穢れた麻呂、という意味合いの名だ。ひどい仕打ちとしか言いようがない。姉の広虫も、弟と同じように「別部狭虫売」という名に変えられ、都から遠く離れた備後国へ流された。姉弟そろって、都での暮らしも名前も取り上げられ、遠い地へ追い払われた形になる。

ところが、道鏡本人はどうか。皇位を奪おうとした張本人のはずなのに、このときは罪に問われなかった。法王の地位も、そのまま保っている。この軽すぎる処分が、のちの歴史学者たちを悩ませる大きな謎として、あとから効いてくる。

10月1日には、称徳天皇の詔が出た。皇位を継ぐ者は天皇自身が決める、という表明だった。宣命には、天が授けようと思わない人に皇位を授けても保てない、という趣旨の言葉が並んだと伝わる。道鏡を次の天皇にするという筋書きは、ここでいったん途切れたことになる。だが道鏡はまだ法王のままだった。

弓削の里に建った西の京

神託事件のあとも、称徳天皇は道鏡の故郷への思い入れを隠さなかった。道鏡の故郷にあたる弓削の地に、新しく離宮を造り、由義宮と名づけたのだ。平城京から見て西の都、つまり西京と位置づけ、天皇が何度も足を運んで行幸を重ねた。西京の誕生。

場所は、今の八尾市の東弓削遺跡あたりが有力視されている。すぐ近くには、もともと弓削氏の氏寺だった由義寺という寺があり、離宮はその近くに造られた。道鏡の台頭で、この寺は西京の官寺へ格上げされ、塔の造営まで始まったとみられる。

770年4月5日の『続日本紀』の記事に、官の造営機構を動かした塔づくりが見える。長く場所さえはっきりしない幻の寺だったが、発掘で塔の跡が見つかった。基壇は一辺およそ20メートルで、大安寺の七重塔に並ぶ規模だという。

出土した瓦には、東大寺式や興福寺式の軒瓦が数多く混じっていた。国の肝いりで建てられた寺の証だ。この由義寺跡は、2017年の答申を経て、2018年2月に国の史跡に正式に指定された。道鏡と称徳が築こうとした都の、いちばん確かな痕跡。

女帝の死と、下野への道

770年の3月ごろ、称徳天皇は病を発した。8月4日、平城宮の西宮の寝殿で崩御する。53歳だった。発病から、5か月に満たない最期。

道鏡は、すぐさま失脚した。造下野薬師寺別当という、名前だけは立派な肩書きを与えられ、遠い東国の下野国へ向かわされる。実質は左遷だ。清麻呂が都へ呼び戻されたのは、その翌月の9月で、771年3月には位階も元に戻された。

次の天皇を決める話し合いは、藤原永手や藤原百川ら、太政官の中心にいた人たちの主導で進み、白壁王に決まった。62歳、天智天皇の孫にあたる人だ。『続日本紀』によれば、称徳の遺宣で後継に指名されたという筋立てになっている。即位の場は大極殿だった。

白壁王は、政争に巻き込まれないよう、酒ばかり飲んで凡庸を装っていたと伝わる。これが光仁天皇だ。天武天皇の系統はここで途切れ、皇統は天智天皇の系統へ移った。古代史でも最大級の交代。

光仁は即位すると、井上内親王を皇后に、その子の他戸親王を皇太子に立てて、新しい体制を固めようとした。だが772年、皇后は呪詛の密告で廃され、山部親王が新しい皇太子に就く。のちの桓武天皇だ。道鏡の事件は、こうして時代の入れ替わりへつながっていく。

道鏡は772年4月、都から遠く離れた下野の地で、ひっそりと世を去った。死去の知らせが光仁天皇のもとへ上げられたのは、772年4月7日のことだと伝わる。弟の浄人と息子たちを含む4人は、土佐国へ流された。あっけない最期。

流されたあとの清麻呂

大隅から戻った清麻呂は、そのまま消えたりはしない。781年に従四位下へ昇り、摂津大夫として785年には、神崎川と淀川をつなぐ工事を進めた。都が置かれた長岡京へ、物資を運び込むための水路を確保する、大がかりな土木の仕事だった。

788年には、新しい都をどこに置くかという話し合いに加わり、その地の選定を進言している。793年には造宮大夫に任じられた。平安京の造営に深く関わった人。

790年に正四位下、796年には従三位まで進み、公卿の仲間入りを果たした。民部大輔の菅野真道と組んで民政の立て直しに取り組み、『民部省例』20巻を編んでもいる。皇太夫人の高野新笠の命で、『和氏譜』も撰上した。

799年2月21日、清麻呂は67歳で亡くなった。その日のうちに、正三位を贈られている。かつて別部穢麻呂と呼ばれた男の、これが最期だった。

記録を書いたのは、勝った側だった

この事件の中身を細かく伝える一次史料は、奈良時代の正史である『続日本紀』しかない、というのが実情だ。頼れるのはこれだけだ。797年に完成した勅撰の歴史書で、全40巻、697年から791年までの95年間を扱う。

編纂は、一筋縄ではいかなかった。前半部は淳仁天皇の時代に、仲麻呂政権の下で着手されたが、乱のせいで不十分な草案に終わる。光仁天皇が石川名足や淡海三船らに手直しを命じたものの、それも未完のままだった。

最終的に、藤原継縄、菅野真道、秋篠安人らが後半部を14巻に縮め、全体をまとめた。つまり編まれたのは、道鏡が消えて、光仁と桓武の世が固まったあとだ。事件から完成まで、約28年。

勝った側が書いた歴史かもしれない。そこが、この事件でいちばん厄介な弱点だ。神託事件や道鏡についての記述には、政治的な意図が混じっているのではないか、という指摘も出ている。

清麻呂の側の記録もある。799年に清麻呂が亡くなったときの伝が、のちに『日本後紀』へ収められた。この書は、藤原緒嗣らが3代の天皇にわたる21年をかけて編み、840年に完成した。清麻呂の功績を伝える立場の文章である以上、その働きを称える色合いが、どうしても濃くなる。

平安時代以降の書物にも、この事件は出てくる。ただ、先行する史書をなぞった内容で、独立した証言とは呼びにくい。道鏡が本気で皇位を望んだのか。それとも排除したい勢力に、神託で罠にかけられたのか。第三の史料で突き合わせる手立ては、ほぼ見当たらない。

黒幕は別にいたんじゃないか

近年の歴史学には、この事件を道鏡ひとりの野心の話として読むことに、首をかしげる見方がある。根拠は、処分の軽さだ。中西康裕らの研究は、道鏡が死罪にならず、天皇が亡くなるまで法王でい続けたことに目をつけた。

皇位を奪う計画そのものが、あとから付け足された話かもしれない。そう考えると筋が通る。最初の神託は道鏡の即位とは別件で、由義宮への遷都に関わる内容だった、という線だ。

さらに踏み込んだ仮説もある。藤原氏の一部が、白壁王を皇太子に立てよという神託を仕立てようとした。それが発覚しかけて、話が道鏡の即位へすり替えられたんじゃないか、というのだ。

ただ、どれも状況証拠から組み立てた推論にすぎない。はっきりした物証はない。細井浩志らは、『続日本紀』の記述をおおむね信頼できるとみたうえで、事件を動かしたのは称徳天皇自身だと論じた。主役は女帝だった、という見方。

皇位を最後まで手放したくない女帝が、皇族ではない道鏡を跡継ぎにしたがった。その後押しに、神託という宗教の権威をわざと使った、という読みだ。この立場に立つと、道鏡は野心家というより、女帝の強い意志に振り回された受け身の僧に見えてくる。ちょっと気の毒になるんだよな。

「道鏡の野望」説と「称徳の意志」説は、今も並んだままだ。どちらを取るかで、道鏡という人の姿は、野心を抱いた怪僧から女帝に振り回された被害者まで、まるで違って見える。そこが悩ましい。

座ると膝が三つできる、という川柳

民間の話は、もっと俗っぽい。道鏡と称徳天皇は男女の仲だった、という噂が昔からあって、道鏡の巨根伝説は江戸時代の川柳のネタになった。江戸の人々が面白がって詠んだ「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という句が、そのまま今に伝わる。

『日本霊異記』や『古事談』といった説話集にも、道鏡を扱った話は出てくる。ただ、これらは平安時代以降に唱えられたものだ。信頼のおける一次史料はない。

この好色なイメージは、史実というより後世の創作や戯作の産物だろう。それでも効き目は抜群だった。皇位を奪いかけた僧という筋書きよりも、ずっと下世話で覚えやすい。人の記憶に焼きついたのは、こちらのほうだ。

道鏡は、平将門や足利尊氏と並べて「日本三悪人」と呼ばれることもある。だが悪人という評判そのものが、勝った側の『続日本紀』が作り上げた面が大きい、とみる人もいる。そう見直す声も根強い。

英雄にされ、疑われた清麻呂

清麻呂の評価は、時代ごとに揺れてきた。戦前の国定教科書では、万世一系の皇統を命がけで守った忠臣として持ち上げられた。1898年には正一位が贈られ、戦前の十円紙幣の肖像にも選ばれている。

戦後の歴史教育は、この英雄扱いから距離を置いた。清麻呂が宇佐から持ち帰った神託は、そもそも本当にあった出来事なのか。都合よく作られた話じゃないか。そんな問いが、定番になっていく。疑いの目。

道鏡のほうにも、見直しの動きがある。八尾市の市民団体「道鏡を知る会」は1980年に発足し、仏教の礎を築いた人物として業績を掘り起こしてきた。2020年には、西大寺へ道鏡の木像を奉納している。

歴史コラムでは、「女性天皇が日本史から消えたワケ」という切り口で、この事件が扱われることも多い。称徳天皇のあと、次の女性天皇が立つまでに約850年かかった。1629年の明正天皇で、859年ぶりだった。

道鏡事件が、その後の皇位継承で女帝を避ける流れの、最初の引き金になったのではないか。そんな論調もある。ただ、これも裏づけのある話ではない。そういう見方が目立つ、という程度に受け取るのがいい。

宇佐の杜と、猪の神社と、三つの町

舞台になった宇佐神宮は、大分県宇佐市の御許山のふもとにある。八幡大神の応神天皇、比売大神、神功皇后の3柱を祀る。本殿は小椋山の山頂の上宮と、そのふもとの下宮から成る。

宇佐神宮では、10月の第2月曜を含む3日間に、放生会という大祭が営まれる。隼人の反乱を鎮めたあと、その供養として始まったと伝わる。神仏分離の前は、宇佐八幡宮弥勒寺と呼ばれた神社でもあった。

宇佐の託宣は、この事件が起きるよりずっと前から、すでに都の政治とつながっていた。743年の東大寺の造営のとき、宮司らが託宣を携えて上京し、造営を支えたのだ。国の大事に神意を仰ぐ土地、という顔があったわけだ。

京都市上京区の護王神社は、京都御苑の蛤御門のそばにある。祀られるのは、和気清麻呂と姉の広虫だ。清麻呂が刺客に襲われて足を傷つけたとき、猪が現れて傷が癒えた、という故事から、足腰の神として拝まれている。

狛犬の代わりに置かれているのは、猪の姿をした狛猪だ。1890年からだという。清麻呂が300頭の猪に難儀を救われた、という伝説に基づく。どこを向いても猪が目に入る、猪づくしの境内だ。

社の起こりは、高雄山の神護寺の境内に営まれた清麻呂の廟だった。1851年に孝明天皇が護王大明神の神号を贈り、1874年に護王神社と改称して別格官幣社に列する。1886年に今の場所へ移り、1915年には広虫も合祀された。

本殿は1886年の建立で、清麻呂の像は1998年に造られた。境内には霊猪の手水舎があり、猪の親子が空を飛ぶ姿の像まで置かれている。

岡山県和気町には、清麻呂ゆかりの和気神社がある。大阪府八尾市には、弓削神社がある。弓削神社は延喜式の神名帳に大社として載る古社で、東弓削と弓削町の2つの社が、それぞれ論社を名乗っている。古代には、枚岡神社に次ぐ格式をもつ神社だったという。

宇佐市と和気町は、清麻呂と宇佐神宮の縁を理由に姉妹都市を結んだ。八尾市と宇佐市は、交流都市の間柄だ。2001年度には宇佐が八尾河内音頭まつりに出展し、2002年度には八尾が宇佐夏越祭りに出展した。1200年前の事件が、今の町どうしの付き合いにまで、しっかりと跡を残している。

決め手は、まだ見つかっていない

一番の壁は、やはり史料だ。道鏡が皇位を望んだという筋書きは、勝った側の『続日本紀』に頼っている。道鏡の言い分も、弟の浄人たち一族の目線を伝える記録も、1行も伝わっていない。

清麻呂が持ち帰った神託の言葉も、宇佐で語られたそのままなのかは分からない。清麻呂や、彼を送り出した側が、あとから整えた文章かもしれない。宇佐の側にも、当時の記録や神託の原文は見当たらない。

手がかりは、処分の軽さだ。本当に皇位を狙った重罪人なら、死罪を免れて法王のまま女帝の最期を迎えるなど、考えにくい。ここが「冤罪説」や「後付けの脚色説」を支える、いちばんの柱になっている。

道鏡が狙ったのか、称徳の意志が動かしたのか、藤原氏のような第三の勢力が絡んだのか。今ある史料では確かめようがなく、古代史の未解決問題の一つに数えられる。

下野市の龍興寺の境内には、道鏡の墓と伝わる塚がある。道鏡塚と呼ばれる、小さな盛り土だ。かつて下野薬師寺があった地で、道鏡はここで772年に息を引き取った。

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