日本人なら誰でも、西郷隆盛の顔を思い浮かべられる。太い眉、まん丸の大きな目、どっしりした体。教科書にも、上野の公園にも、鹿児島の土産物にも、あの顔がある。ところがだ。あの顔を「本人の顔だ」と証明できる証拠は、実のところ一枚も存在しない。写真がないのだ。同時代の勝海舟にも、木戸孝允にも、大久保利通にも、坂本龍馬にすら写真が残っているのに、維新最大の有名人だけが、顔の記録を持たないまま近代に放り出された。ここではその一点だけを、とことん掘る。生存説にも幕末の政治交渉にも寄り道しない。あくまで「顔・肖像・写真」の話だけをやる。
有名すぎる顔なのに、それは本人の顔ではない
まず順を追って話をまとめておきたい。西郷隆盛は文政十年に薩摩に生まれ、明治十年九月に鹿児島の城山で死んだ。その五十年の生涯のうち、写真術が日本に定着していた期間はけっこう長い。長崎の上野彦馬も、横浜の下岡蓮杖も、江戸や京の写真師たちも、幕末には普通に営業していた。同世代の要人はこぞって写真館に足を運び、椅子に腰かけ、洋装や紋付でカメラの前に座った。彼らの顔は今も残っている。ところが西郷だけは、確実に本人だと言い切れる一枚がない。実子の菊次郎は後年、父は生前写真というものをただの一度も撮ったことがありません、という趣旨の証言を残している。身内が明確にそう言い切っているという点は、この話の出発点としてかなり重い。
そして、では我々が知っているあの顔は何なのかというと、西郷が死んでから六年後、明治十六年に描かれた一枚の素描である。描いたのはイタリア人の版画家エドアルド・キヨッソーネ。彼は西郷に会ったことがないどころか、西郷の写真すら見たことがなかった。会ったこともない死人の顔を、まわりの人間の証言と、血縁者の顔立ちを手がかりに、想像で組み立てた。それが日本中に広まり、教科書に載り、銅像になり、切手や紙幣まがいの印刷物にまで刷られて、いつのまにか「西郷隆盛の顔」として確定してしまった。つまり我々が百四十年以上見つめてきたのは、実物を一度も参照していない再構成なのだ。ここまでは、歴史学の側でもだいたい合意がとれている。おかしいのはここからで、この空白を埋めようとする話が、次から次へと湧いて出てくる。
除幕式でこぼれた妻の一言は、顔の話だったのか着物の話だったのか
西郷の顔をめぐる逸話でいちばん有名なのが、上野の銅像の除幕式で妻の糸子がつぶやいたという一言だ。明治三十一年十二月十八日、上野公園。西郷が死んでから二十一年が経っていた。集まった人々の前で幕が落ちる。そこに現れたのは、着流しに草履、腰に脇差、右手に犬の綱を持った巨漢の像。招かれていた糸子は、それを見上げてこう漏らしたと伝わる。宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ。うちの人はこんな人ではなかった、という意味の薩摩弁である。
この一言は長らく「銅像の顔が本人に似ていなかった証拠」として語られてきた。似てない、と未亡人本人が公衆の面前で言った。これほど分かりやすい否定はない、というわけだ。ところが逸話の中身をたどっていくと、話はそう単純じゃなくなる。昭和五十年代以降の伝記や解説書では、糸子の発言は顔ではなく身なりと態度に向けられたものだ、という読み方が主流になっている。糸子の言い分を補足した記録では、夫は相手がどんな身分の人間であってもきちんとした服装で応対する礼儀正しい人で、人前に浴衣同然の着流しで出るような人ではなかった、という趣旨が続く。つまり「こんな人じゃない」は「こんな格好で人前に立つ人じゃない」であって、「こんな顔じゃない」ではない、という解釈だ。
ややこしいのは、糸子が顔について何も言っていないわけでもないことだ。糸子は別の機会に、夫は歌舞伎役者の中村雁治郎に似ていた、という趣旨の証言を残したとも伝わる。雁治郎といえば、あの上野の像の朴訥な巨漢のイメージとはずいぶん違う、目元の涼しい顔立ちである。さらに孫の隆治を見た人が、肥満体というより引き締まった体つきだったと語ったという話もあって、「実は西郷は美男子だった」説の根拠として繰り返し引かれてきた。こうなると、糸子が着物の話をしたのは確かでも、顔の話をしていないとまでは言い切れない。要するに、除幕式の一言は「顔が違う」とも「格好が違う」とも読める形で伝わっており、しかも一次記録としてその場の発言を逐語で押さえた文書がはっきりしない。有名な逸話ほど出どころが霞んでいる、というよくあるやつである。
そしてもうひとつ、あの銅像そのものが糸子にとって不本意だった可能性も考えていい。当初の計画では、西郷像は馬に乗った陸軍大将の軍服姿になるはずだった。資金の都合で立像に変更され、さらに「さる筋から大将服姿に猛烈な反対が起こった」という経緯を経て、最終的にあの兎狩りの着流し姿に落ち着いている。未亡人からすれば、賊名を解かれてようやく建った夫の像が、軍服でも正装でもなく散歩着だったわけだ。似てる似てないの前に、まずそこに引っかかったとしても不思議はない。
弟の目、従弟の口、足して二で割れという無茶な注文
では、あの顔はどうやって作られたのか。ここが一番おもしろい。キヨッソーネは明治八年に来日したイタリア人の彫版師で、大隈重信に破格の条件で招かれ、大蔵省の紙幣局、いまの国立印刷局にあたる部署を指導した人物だ。月給は四百五十四円七十一銭八厘という、当時としては目玉が飛び出る額が記録に残っている。彼の本業は偽造できない精密な紙幣や切手を彫ることで、在職十六年のあいだに五百点を超える版を手がけた。エッチング、エングレービング、メゾチント、クラッチ法に電胎法と、およそ当時最先端の銅版技術をまとめて日本に持ち込んだ人でもある。要するに、写真がない時代に「写真みたいに精密な顔」を作れる、当代随一の技術者だった。
その彼のところに、西郷隆盛の肖像を作れという話が来る。明治十六年のことだ。困った。キヨッソーネが来日したのは明治八年、西郷はその二年後に城山で死んでいる。会う機会はなかったし、参考にできる写真も一枚も出てこない。顔のわからない人間の顔を精密に描けと言われているわけで、無理な話である。
そこで助言をしたのが、大蔵省の紙幣局を仕切っていた得能良介だった。得能は薩摩の出身で、西郷の顔を知っている。彼が出した答えがふるっている。弟の西郷従道と、従弟の大山巌、この二人は西郷に似ている。だから二人を足して二で割ったように描けばよかろう、というのだ。具体的には目元を含む顔の上半分を従道から、口元を含む下半分を大山から取る。そこに近親者や旧知の人々の「あの人はこういう顔だった」という証言を継ぎ足して調整していく。こうして一枚のコンテ画が出来上がった。
呆れるほど乱暴な作り方に聞こえるが、当の親族はこれを見て「これこそ翁そのもの」と認めたと伝わっている。血縁者の顔の合成なんだから似るに決まっている、と言ってしまえばそれまでだけど、身内が納得したという事実は、少なくとも「まるっきり別人ではない」ことの弱い保証にはなる。逆に言えば、保証はそこまでだ。従道と大山の顔をブレンドしたものが西郷の顔になる保証など、生物学的にはどこにもない。兄弟でも従兄弟でも似ない人は似ない。我々が知っているのは「西郷の親族を平均するとこうなる」であって、「西郷はこうだった」ではない。
ちなみにこのコンテ画、原画そのものの行方についても話がすっきりしない。京都大学の博物館が所蔵しているのは複製で、原画は失われたと説明されている。日本人が最も見慣れた顔の、そのおおもとの一枚がどこにあるのか判然としないというのは、この話らしいオチだと思う。
写真のように見えるものほど、写真ではなかった
キヨッソーネの西郷像には、もうひとつ厄介な性質がある。上手すぎるのだ。彼は紙幣の肖像を彫るプロで、細部を写真的に詰める訓練を積んでいる。だから出来上がった素描は、印刷して縮小すると、ほとんど写真に見える。実際この絵は複製に複製を重ねられるうちに、「西郷隆盛の写真」として紹介されることが繰り返された。今でもネット上には、あのコンテ画を「唯一残る西郷の写真」と紹介している記事がちらほらある。写真がないという話を検証しようとして検索したら、絵を写真だと言っている記事に行き当たる。この時点でもう、迷路のスタート地点に立っている。
同じことは明治天皇の御真影でも起きている。明治二十一年、宮内省の依頼でキヨッソーネが作った天皇の肖像は、やはりコンテによる素描で、それを写真師が撮影したものが「御真影」として全国に配られた。つまり、日本人が拝んだ天皇の「写真」の正体も、イタリア人が描いた絵の複写だったわけだ。この仕事に対してキヨッソーネには二千五百円という破格の慰労金が出ている。明治という時代は、写真という新技術で国家の顔を作ろうとしながら、その中身は職人の手描きだった。西郷の顔がああいう作られ方をしたのは、決して例外的な事故ではなく、時代のやり方そのものだったと考えたほうが筋が通る。
撮らせなかったのか、撮られなかったのか
さて、本丸の問いだ。なぜ西郷は写真を残さなかったのか。ここについては昔から三つの説が言われてきて、どれも決め手を欠いたまま並走している。
第一に、暗殺を警戒したという説。顔が広く出回れば、命を狙う側にとってこれ以上ない情報になる。幕末の京大坂は暗殺が日常茶飯事で、西郷自身も何度も危ない橋を渡っている。顔を知られていないことは実際に身を守った、という理屈は分かりやすい。維新後も彼は不平士族の象徴として政治的に微妙な位置にい続けたから、警戒を解く理由がなかったとも言える。
第二に、迷信を信じていたという説。写真を撮ると魂を抜かれる、寿命が縮む、影を写されると命を取られる。開化期の日本にこの種の言い伝えが広く流れていたのは事実で、写真師が客に説明して回った記録も残っている。素朴で信心深い一面のあった西郷が、これを本気で気にしていたという筋書きだ。
第三に、単に嫌いだった説。理屈も信仰もなく、あの椅子に座って何十秒も動かずにいるのが性に合わなかった。あるいは自分の姿を残して人に見せる、という行為そのものが趣味に合わなかった。派手を嫌い質素を通した人柄の証言は多いので、これも収まりがいい。
で、正直に言うと、どれも決め手がない。第二の迷信説は、同時代の状況を見るとかなり分が悪い。写真を撮ると魂を抜かれると本気で信じられていたなら、幕末の志士たちがあれほど大量に写真を残しているのが説明できない。薩摩は島津斉彬が写真術に熱を入れた土地で、藩主自身の銀板写真が現存しているくらいだ。西郷が仕えた主君が写真の先駆者だったのに、その側近が迷信で怖がっていたというのは、話としてやや無理がある。第一の暗殺警戒説も、では維新後の十年間、政府の中枢にいた時期にまで一切撮らなかった理由としては弱い。第三の「嫌いだった」は反証しにくいぶん、何も説明していないに等しい。
さらに意地悪な可能性もある。撮らなかったのではなく、撮ったものが消されたのではないか、という見方だ。西郷は西南戦争で「賊」として死んだ。賊軍の首魁の肖像が出回ることを明治政府が嫌い、遺族や旧知の者が身の安全のために処分した、という筋書きは、状況としてはあり得なくはない。実際、家族が写真を残させなかったという説を挙げる論者もいる。ただしこちらも、消したという証拠がないという致命的な弱点を抱えている。ないものがないことは、証明のしようがないのだ。この「証明できない空白」こそが、後に述べる無数の物語の苗床になった。
志士が全員そろった奇跡の一枚、という夢の話
写真がないなら見つければいい。そう考えた人たちが飛びついたのが、いわゆるフルベッキ群像写真だ。オランダ人宣教師グイド・フルベッキとその子を中心に、和装洋装の若い男たちが四十数人ずらりと並んだ、幕末明治の集合写真である。この一枚に、坂本龍馬も、高杉晋作も、大久保利通も、そして西郷隆盛も写っている。維新の英雄が一堂に会した奇跡の記念写真だ。そういう説が、少なくとも半世紀にわたって流通してきた。
言い出したのは昭和四十九年、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に発表した論文だとされる。島田は撮影を慶応元年ごろと推定し、写っている人物のうち二十二人を維新の志士に同定した。しかも敵味方に分かれるはずの人間が同席しているのは奇妙だから、これは何らかの事情を隠すために偽装された写真なのだ、という解釈まで添えた。この話は写真雑誌やムック本を経由して広まり、昭和六十年には国会の議場に自民党の議員が現物を持ち込むところまでいっている。流通の過程で同定される人数はどんどん増え、最終的には四十四人全員に有名人の名前が割り振られた版まで出回った。誰が数えても足りないくらいの豪華メンバーである。
ここに西郷も入っていた。フルベッキの後ろあたりに立つ、ごつい顔の大柄な男。あれが西郷だ、と長らく言われてきた。写真がないはずの男の写真が見つかったのだから、盛り上がらないわけがない。
四十四人の英雄は、佐賀の学生たちだった
ところが、この写真は英雄写真ではなかった。今日ほぼ確定している見立てはこうだ。撮影したのは長崎の写真師・上野彦馬で、場所は彼の上野撮影局。時期は明治元年の十月から十一月ごろ、あるいは翌年という説もあるが、いずれにせよ慶応年間ではない。写っているのは、佐賀藩が長崎に設けた英学校「致遠館」の学生と教師たち、およそ四十四人と、教頭格だったフルベッキ父子。つまり学校の記念写真である。
決め手になったのは人物の特定と、別資料の発見だった。フルベッキの左右に写る二人の少年は、岩倉具視の次男と三男である岩倉具定・具経と確認されている。二人が致遠館に留学したのは明治元年十月末で、撮影時期をこの前後に絞る強い根拠になった。さらに二〇一〇年に、フルベッキと致遠館の教師である佐賀藩士五人を写した別のガラス湿板写真が見つかり、関係者の日記の記述と突き合わせて、明治元年十月という時期がほぼ確定している。慶応元年説はここで完全に足場を失った。
そして西郷である。西郷は明治元年の秋、戊辰戦争のまっただ中にいた。長崎の学校の記念撮影に紛れ込む余裕も理由もない。写真史の研究者である石黒敬章は、フルベッキの後ろに写るごつい顔の人物が誰かはまだ同定できていないが、西郷でないことだけは確かだ、という趣旨の見解を示している。近年ではさらに乱暴な検証も行われていて、二〇二四年に画像認識サービスを使って写真の顔と維新の偉人の肖像を照合したところ、岩倉兄弟の一致度が九十九パーセント台に達したのに対し、大隈重信は八十一パーセント台、坂本龍馬は七十八パーセント台にとどまり、同一人物とは判定されなかったという報告がある。機械の判定を鵜呑みにする必要はないが、岩倉兄弟だけが突出して高いという結果の形は、「学校の写真である」という結論とよく噛み合っている。
面白いのは、この写真が否定されればされるほど、別方向に燃え上がったことだ。フルベッキ写真は途中から、明治天皇すり替え説という別のオカルト言説と合流してしまった。写真の中の少年が実は南朝の血を引く別人で、その人物が明治天皇として即位したのだ、という筋書きである。この結びつきによって、フルベッキ写真は歴史クイズのネタから、日本近代史そのものを疑う陰謀論の中心的な物証へと格上げされた。斎藤充功のように、この構図の成り立ちを一つずつほどいて見せた書き手もいるし、加治将一のように写真の中に隠された真実があると主張し続けた書き手もいる。どちらの本も売れた。写真がないという空白は、それだけの熱量を生む。
首がない、という一夜の空白
顔の話をしていると、どうしても避けて通れないのが最期の場面だ。明治十年九月二十四日の朝、城山の岩崎谷で、西郷は銃弾を受けて動けなくなった。晋どん、もうよか。そう言って、付き従っていた別府晋介が介錯した、と伝わる。数え五十歳。ここまでは有名な話である。
問題はこの後だ。戦闘が終わり、政府軍が遺体を収容したとき、西郷の首がなかった。介錯された首は、味方の手で持ち去られ、どこかに隠されていた。首実検ができなければ、討ち取ったという証明ができない。参謀たちは焦った。そこで捜索を命じられたのが、加賀出身の陸軍将校・千田登文である。彼は西郷の従僕が特定の屋敷のあたりをうろついていたという情報をたどり、ついに首を見つけ出した。後年、千田自身が陸軍に提出した履歴書には、西郷ノ首ナキヲ以テ、登文ニ探索ヲ命ゼラル、探索ヲナシタルニ、果シテ門脇ノ小溝ニ埋メアルヲ発見シ、という趣旨の一文が残されている。溝に埋められていたのだ。
見つかった首は浄光明寺に運ばれ、山県有朋、曾我祐準、川村純義らが検分した。胴体と照合し、右腕に残る古傷と、フィラリアの後遺症による陰嚢の腫れという、これ以上ないほど個人を特定できる身体的特徴によって、本人であることが確認された。この場面は当時の絵師によって「西郷隆盛首実検之図」として描かれ、今も残っている。その後、県令の岩村通俊が山県の特別な許可を得て、丁重に埋葬した。
ここで注目したいのは、身元確認の決め手が顔ではなかったという点だ。顔があったのに、傷と病変で確認している。もちろん死後の首は変形するし、確実を期すなら身体的特徴を見るのが当然ではある。それにしても、日本中が知っている顔の男の身元を、顔以外の方法で確定させた記録が残っているというのは、この人物の「顔のなさ」を象徴しているように思えてならない。
「首は見つかっていない」という噂は、どこから湧いたか
にもかかわらず、西郷の首は結局見つかっていない、あるいは見つかったのは偽物だった、という噂は根強く流れ続けてきた。理由ははっきりしている。首が一時的に行方不明だったという事実が、実際にあるからだ。半日か一日か、とにかく「首がない」時間帯が確かに存在した。その空白に、いくらでも別の物語を差し込める。
さらに、埋葬から時間が経つにつれて、南洲墓地に眠っているのは本当に本人なのかという疑いも語られるようになった。首と胴が別々に扱われた経緯、埋葬の記録の細かい食い違い、遺体を見た人間の証言のばらつき。そういう小さなほつれが集まって、大きな疑問の形をとる。ここに西南戦争直後から流れていた別の噂が合流すると、話は加速する。
ただ、この方面についてはかなり有力な決着がついている。二〇一四年、金沢の千田家から先ほどの履歴書が発見され、首をどこでどう見つけたかが当事者の筆で具体的に記されていることが確認された。伝聞ではなく、実行者本人が公的な書類に書いた記録である。これによって、首は見つかったし、埋葬されたし、身元も確認された、という線がかなり固まった。少なくとも「首は永久に発見されなかった」という言い方は、いまや事実に反する。それでも噂が消えないのは、噂というのが証拠で消えるものではないからだ。
明治政府には、なぜ死んだ賊の顔が必要だったのか
ここが個人的にいちばん面白いところだ。考えてみてほしい。西郷は明治十年に政府軍と戦って死んだ、公式には賊軍の首魁である。その男の顔が、なぜ死後わずか六年で、政府の紙幣局のトップの助言を受け、政府が雇った外国人技師の手で、公費に近い形で作られたのか。
流れをたどるとこうなる。西南戦争が終わったあと、西郷を悼む空気は消えるどころか膨らんだ。明治十年の夏から秋にかけて、火星が地球に大接近して赤く異様に明るく輝いた。庶民はそれが惑星だとは知らない。急に現れた赤い星の中に、陸軍大将の正装をした西郷の姿が見える、という噂が流れ、「西郷星」と呼ばれた。それを描いた錦絵が何種類も売り出されて飛ぶように売れたことは、日本にいたアメリカ人動物学者モースの明治十年九月八日の日記にも記されている。近くにあった土星のほうは、腹心の名を取って「桐野星」と呼ばれた。人々は望遠鏡を覗いて、星のなかに顔を探した。写真がないから、星に描いた。これほど分かりやすい話もない。
政府にとって、この人気は放置すれば不平士族や自由民権運動の燃料になる。かといって力で抑え込むのも下策だ。そこで取られたのが、西郷を国家の側に取り込むという方向だった。明治二十二年、大日本帝国憲法の発布にともなう大赦で、西郷の賊名は正式に解かれ、位も追贈される。同時に、吉井友実ら薩摩出身の面々が銅像の建設に動き出す。宮内省から五百円が下り、全国二万五千人以上の有志から寄付が集まった。国家が公認した記念像である。
ここで顔が要る。銅像には顔がいる。教科書にも顔がいる。国民が仰ぐ対象には、必ず一つの決まった顔が必要だ。そして西郷には顔がなかった。だから作った。キヨッソーネのコンテ画が明治十六年、銅像の除幕が明治三十一年。この順番は偶然ではない。彫刻家の高村光雲が像を彫るとき、参照したのはあの絵である。絵が像を生み、像が絵の正しさを保証する。誰も本人を参照していないのに、二つの複製がお互いを支え合って、実物より強固な「西郷の顔」が立ち上がった。
銅像の姿かたちが二転三転したのも、この政治性を裏書きしている。最初の案は馬上の陸軍大将。ところが陸軍大将服では、西南戦争で政府に弓を引いた軍人という記憶をそのまま持ち込むことになる。反対が出て、最終的に決まったのが、着流しで犬を連れた兎狩りの姿だった。軍人でも政治家でもない、郷里の山を歩く気のいい大男。これなら反政府の象徴にはなりにくい。連れている犬にも似た事情があって、モデルは西郷が可愛がった薩摩犬のツンではない。ツンはとっくに死んでいたので、海軍中将の飼っていた雄犬を代役にした。しかも薩摩犬は小さくて像全体のバランスが悪くなるので、高村は実物より大きめに彫っている。犬まで合成なのだ。ちなみに鹿児島市にある西郷像のほうは昭和十二年に安藤照が制作したもので、こちらは陸軍大将の正装で直立している。上野が「中立化された西郷」なら、鹿児島は「名誉回復された西郷」だ。同じ人物の像が、置かれる場所によって別の政治的意味を負っている。
本当に会った人たちは、どんな顔だと言ったのか
キヨッソーネ画がすべてを覆ってしまったせいで忘れられがちだが、西郷に実際に会って、その顔を描こうとした画家は何人もいる。旧庄内藩士の石川静正は、明治三年と八年に西郷と面会した経験をもとに描いた。床次正精は何十枚も下絵を起こし、西郷を知る人々に見せては意見を聞いて修正を重ねたと伝わる。肥後直熊は幼いころ西郷に可愛がられた縁があり、昭和二年の没後五十年祭に向けて筆を執った。彼らの作品は「本人を見た人が描いた」という一点で、キヨッソーネ画より原理的には信頼度が高い。
ただ、これも手放しでは信じられない。石川が会ったのは維新後の西郷で、面会の記憶と制作のあいだには年数がある。床次は関係者の意見を取り入れて修正しているので、これも一種の合議による顔だ。肥後にいたっては幼少期の記憶が頼りで、しかも制作は五十年後である。人間の顔の記憶は、思っているよりずっとあてにならない。数十年前に会った人の顔を正確に描けと言われて描ける人は、まずいない。
それでも興味深いのは、これらの絵に共通する印象がそれなりに一致していることだ。大柄で骨太、首が太く、目が大きくて印象的。イギリスの外交官アーネスト・サトウは、西郷の目を黒いダイヤモンドのようだと書き残し、話すと温かみが伝わる人物だと評した。身長は当時としては驚くべき部類で、体重も相当あった。こうした証言の束を重ねていくと、少なくとも「がっしりした大男で、目が大きく、笑うと人が惹きつけられる」という輪郭までは、それなりの確度で浮かんでくる。逆に言えば、そこまでだ。鼻の形も、口の大きさも、眉の角度も、耳の形も、誰も保証してくれない。
顔がないから、いくらでも顔を足せた
写真がない人物というのは、後世にとって都合がいい。誰も反証できないからだ。西郷の顔は、時代ごとに好き勝手に作り替えられてきた。明治の錦絵では、西南戦争のさなかから彼はすでに英雄的な武将の姿で描かれている。星の中に見えたという噂と一緒に売られた絵では、陸軍大将の正装で夜空に浮かんでいる。教科書の時代になると、キヨッソーネ画の複製が黙って「西郷隆盛」として掲載され、多くの子どもが写真だと思って眺めた。
戦後の映画やドラマになると、今度は俳優の顔が上書きしていく。誰が演じたかによって、その時代の視聴者にとっての西郷の顔は変わる。大河ドラマで新しい俳優が演じるたびに、「イメージと違う」という声と「意外と似ている」という声が同時に上がるのだが、そもそも比較対象が本人ではなくキヨッソーネの絵なのだから、この議論には終わりがない。絵に似ているかどうかを論じているだけなのに、みんな本人に似ているかどうかを論じている気になっている。
さらに現代では、遺伝的な資料や子孫の顔立ちを参照して、コンピュータで西郷の顔を復元する試みも行われた。技術としては面白いし、結果もそれらしく見える。だが原理はキヨッソーネと同じだ。血縁者の顔から本人の顔を推定する。百四十年前に得能良介が「足して二で割れ」と言ったのと、やっていることは変わらない。精度が上がっただけで、参照先が本人でないという根本は一ミリも動いていない。
掲示板とSNSは、この空白でずっと遊んできた
ネットの世界で、この題材は定番中の定番だ。二〇〇〇年代前半の掲示板文化の時代から、「西郷隆盛の写真は存在しない」というスレッドは繰り返し立ってきたし、そのたびに同じ流れをたどる。まず誰かがキヨッソーネ画を貼って「これ写真じゃないの」と言う。すぐさま絵だと訂正が入る。次にフルベッキ写真が貼られて「これに写ってる」と主張が出る。写真史に詳しい住人が撮影年と致遠館の話を持ち出して否定する。それでも引き下がらない人が出てきて、明治天皇すり替え説の方向に話が流れ、スレッドが荒れる。この様式美はいまだにほぼそのまま生き残っていて、投稿の場所がSNSや動画のコメント欄に移っただけである。
面白いのは、この題材が陰謀論寄りの層とオカルト寄りの層と、真面目な歴史クラスタの三つに同時に刺さることだ。陰謀論の側は「政府が意図的に消した」という筋書きを好む。オカルトの側は「顔がないこと」自体の不気味さ、写真に写らなかった男という怪談的な扱いを好む。歴史クラスタは、逸話の出典をひとつずつ潰していく作業そのものを楽しむ。同じ素材で三種類の楽しみ方ができるコンテンツというのは、実はそんなに多くない。だから廃れない。
近年の考察界隈でよく見かけるのは、キヨッソーネ画の「合成」という言葉を強調しすぎた投稿だ。合成という言葉を使うと、いかにも写真を切り貼りしたかのように聞こえる。実際には、写真の合成ではなく、証言と血縁者の顔立ちを参考にした素描である。この微妙な違いが、拡散の過程でどんどん失われて、「西郷の顔はフォトショップ的な合成写真だった」みたいな、事実とずれた形で流通することがある。ネットの伝言ゲームは、正確さより語呂の良さを選ぶ。
もうひとつ、周期的に盛り上がるのが「新発見の西郷写真」ネタだ。小説の形で提示されたものもあれば、テレビ番組が古写真の来歴を追跡する企画として扱ったこともある。ドイツ人軍事顧問を囲んだ集合写真に西郷が写っているという設定の作品や、幕末の写真館に消えた一枚があったという構成の番組など、切り口はいろいろだ。こういうものが出るたびに界隈は一度沸き、専門家が慎重な留保を並べ、数週間で落ち着く。この繰り返しがもう何十年も続いている。
反証の側から見た、この話の弱いところ
正直に穴を数えておきたい。まず、糸子の発言そのものの一次記録がはっきりしない。除幕式の場で誰がそれを聞き、いつ文字にしたのか。逐語で残っているのか、後から思い出して書かれたのか。この基本情報が定まらないまま、解釈だけが何十年も議論されてきた。伝わっている薩摩弁の言い回しも文献によって微妙に違う。したがって「顔の話か服装の話か」という論争は、そもそも確定した原文のない文章を読み比べている可能性がある。
次に、キヨッソーネ画の制作事情も、細部は文献によってぶれる。目元が従道で口元が大山という配分は多くの資料で共通するが、上半分下半分という言い方をするものもあれば、目と口という言い方をするものもある。得能良介の助言という筋書きも、どこまでが同時代の記録で、どこからが後年の回想なのか、はっきりさせている資料は多くない。制作年についても明治十六年とするものが主流だが、他の年を挙げる資料もある。定説の顔を作った出来事の記録自体が、案外ぼんやりしているのだ。
写真がない理由についても、決定的な一次資料は存在しない。菊次郎の証言は「撮らなかった」ことの証言であって、「なぜ撮らなかったか」の証言ではない。暗殺警戒説も迷信説も嫌い説も、すべて後世の推測である。西郷自身が書いた手紙や日記に「写真は嫌だ」と書いてあれば話は早いのだが、そういう記述は見つかっていない。
そして最大の穴は、これらすべてが「ないこと」をめぐる議論だという点だ。写真がないことは証明できない。世界のどこかの蔵から、明日にでも本物が出てくる可能性はゼロではない。実際、フルベッキと致遠館関係者の別写真は二〇一〇年に出てきたし、千田登文の履歴書は二〇一四年に金沢の家から出てきた。古写真も古文書も、まだ地面の下に埋まっている。だから研究者は「現時点で確実な写真は確認されていない」という言い方をする。断定を避けたこの言い回しの隙間に、あらゆる説が住み着いている。
顔のない有名人が、これほど人を惹きつける理由
最後に、なぜこの話がこんなに面白いのかを考えてみたい。ひとつには、欠落の力がある。人間の脳は空白を埋めたがる。顔のない人物がいると、勝手に顔を作ってしまう。西郷星の話は、その働きが集団規模で暴走した例そのものだ。赤く光る点にしか見えないはずのものの中に、日本中の人間が軍服姿の男を見た。見えるわけがないのに見えた。空白は、埋めたくなるという点で、埋まっているものよりずっと強い。
もうひとつは、対比の鮮やかさだ。誰もが知っている顔と、誰も知らない顔。この二つが同一人物のうえで重なっている。上野に行けば毎日何千人もがあの銅像を見上げるし、写真を撮る。その顔が誰の顔でもない合成だと知ったとき、足元がすっと抜ける感じがある。日常のなかに置かれた巨大な虚構というのは、それだけで背筋が寒い。オカルト的な怖さというのは、幽霊よりむしろこういう構造にある。
三つめは、この話が「見ること」への疑いを呼び起こすからだと思う。写真は本当のことを写す、という素朴な信頼を、我々は今もどこかに持っている。ところが西郷の一件は、その信頼が最初から怪しかったことを教えてくれる。明治の日本人が拝んだ天皇の写真は絵の複写だったし、日本人が知っている西郷の顔は絵だったし、志士が勢ぞろいした奇跡の一枚は学校の記念写真だった。写真が嘘をつくのではない。写真を見る人間が、見たいものを見るのだ。合成という言葉が生成AIの時代のキーワードになった今、百四十年前に弟の目と従弟の口をつないで作られた一枚の素描は、妙に現代的に見える。
顔がないというだけで、これだけの物語が生えた。これから先も生え続けるだろう。もし将来、本物の写真が出てきたとしても、たぶん我々は困る。あの銅像とあまりに違っていたら受け入れられないし、そっくりだったら面白くない。結局のところ、我々は西郷の顔を知りたいのではなく、知らないという状態を楽しんでいるのかもしれない。
これは謎ではなく、制度が生んだ怪異だ
ここからは、いま出した材料をもう一段深く噛み砕いていく。まず整理しておきたいのは、この一件は「謎」というより「制度」の話だということだ。西郷の顔がないという事態は、オカルト的な不可思議ではなく、明治国家が肖像をどう扱ったかという極めて散文的な事情の産物である。ところが結果として生まれた光景は、どんな怪談よりも奇妙になった。制度が真面目に働いた末に怪異めいたものが立ち上がる、という構造こそが、この話の核心だと思う。
明治政府が抱えていた課題を、もう少し具体的に想像してみる。近代国家をやるには、国民が共有する視覚的な記号が要る。国旗、国歌、暦、そして人の顔だ。天皇の顔、元勲の顔、偉人の顔。これらが全国どこでも同じ形で流通していないと、「同じ国の人間」という感覚が育たない。ところが当時の日本には、大量の複製を安定して作る技術がまだ乏しかった。写真は一点ずつ焼くもので、印刷して大量にばらまくには向かない。銅版で彫って刷るしかない。だから紙幣局の彫版師が国家の顔づくりを担った。キヨッソーネが天皇と西郷の両方の顔を手がけているのは偶然ではなく、必然だ。彼のところにしか技術がなかった。
この事情は、西郷の顔が「絵から始まった」ことの意味を変える。あれは代用品ではない。当時の基準では、あれこそが正規の肖像の作り方だったのだ。写真をもとに彫るのが理想だが、写真がないなら証言をもとに彫る。彫った結果が写真のように見えるなら、それでいい。目的は本人の再現ではなく、全国に配れる標準的な顔を確定させることだった。この目的からすると、キヨッソーネの仕事は完璧に成功している。百四十年後の我々が、迷いなく同じ顔を思い浮かべられるのだから、これ以上の成功はない。皮肉なのは、成功しすぎたせいで、それが作られたものだという事実まで消えてしまったことだ。
次に、逸話がどう変質するかという問題を、糸子の一言を例にもう少し追ってみたい。あの発言が興味深いのは、内容よりも「なぜこの逸話だけが生き残ったか」という点にある。除幕式には大勢の人がいて、たぶんいろんな感想が飛び交ったはずだ。そのなかで、未亡人の否定的な一言だけが百年以上語り継がれた。理由は明快で、その一言が話を面白くするからだ。銅像が本人に似ていないという情報は、それ自体がひとつの物語になる。似ていましたという証言では話が終わってしまう。逸話の生存競争において、否定は肯定より圧倒的に強い。
そして生き残った逸話は、時代ごとに解釈を着替える。銅像が建った直後は、たぶん単純に「未亡人が不満そうだった」という噂話だった。それが昭和になると「銅像は本人に似ていない」という定型に固まる。さらに研究が進むと「いや服装の話だ」という修正が入る。そして最近では「服装の話だという説明のほうが後付けではないか」という再修正まで出てくる。同じ一文が、時代の要請に応じて意味を変えている。これは西郷の顔そのものの扱われ方と、まったく同じ構造だ。空白があると、そこに時代の関心が流れ込む。
フルベッキ写真については、否定の作業が終わったあとに残る問題のほうが面白い。あの写真が致遠館の記念写真だという結論は、もう動かないと考えていい。撮影者も、場所も、時期を絞る根拠も、確認できる人物も揃っている。にもかかわらず、なぜ半世紀にわたって英雄写真として信じられたのか。ここには、写真というメディアの性質がよく出ている。
集合写真というのは、名前のない顔の集合体だ。四十四人が写っていて、誰が誰か分からない。この状態は、見る人にとって耐えがたい。名前を貼りたくなる。しかも幕末明治という時代設定と、和装洋装が混じった雰囲気と、若い男たちが真剣な顔で並んでいる構図が、「これは何か重大な集まりに違いない」という期待を強烈に喚起する。実際には英語を学ぶ学生の記念撮影という、なんとも平和な場面なのだが、写真はその平和さを伝えてくれない。写真は情報を切り取るが、文脈は切り捨てる。切り捨てられた文脈の穴に、見る側の願望が流れ込む。
さらに、一人を同定すると連鎖が起きるという性質もある。この人物が西郷だとすると、隣は当然あの人だろう。あの人がいるなら、その隣はこの人のはずだ。こうして推定が推定を呼び、四十四人全員に名前がつく。ひとつひとつの同定は「似ている気がする」という主観にすぎないのに、全体が埋まると強固な体系に見えてくる。陰謀論が説得力を持つ仕組みそのもので、フルベッキ写真はその教科書的な標本になった。
首の話にも、似た構造がある。首が一時的に見つからなかった、という事実は動かない。溝に埋められていた、という発見の記録も残っている。ここまでは記録の話だ。ところが「一時的に見つからなかった」という時間の隙間は、物語にとって最高の入り口になる。その間に何が起きたのか、誰も見ていない。見ていない時間には、何を入れてもいい。だから首をめぐる噂は、どれだけ資料が出てきても消えない。資料が示せるのは「見つかった」ことであって、「見つかるまでのあいだ何も起きなかった」ことではないからだ。
ここで一点、慎重に言っておきたい。首をめぐる噂と、いわゆる生存説とは、話の筋としては別物だ。首の行方の話は、遺体の扱いと記録の欠落の問題であって、それ自体は本人の生死を左右しない。二〇一四年に出てきた発見者の履歴書は、首が見つかって身元確認まで行われたことをかなり具体的に裏づけている。噂の側がこれをどう扱うかというと、たいてい無視するか、記録そのものを疑う方向に進む。証拠が出ると証拠を疑う、という段階に入った時点で、それは歴史の議論ではなく信仰の議論になる。この線引きは意識しておいたほうがいい。
写真がない理由の三説についても、もう少し踏み込んでおきたい。三つのうち、実は最も検討に値するのは「単に嫌いだった」説だと思っている。理由は、この説がいちばん人間らしいからだ。歴史上の空白を説明するとき、我々はつい壮大な理由を探す。政治的意図、迷信、陰謀。でも現実の人間が何かをしない理由は、たいてい退屈だ。面倒だった、気が乗らなかった、機会がなかった、たまたま用事が重なった。西郷は生涯を通じて質素と無欲を貫いた人物で、自分の姿を残すことに価値を見出さなかったとしても、まったく不思議はない。しかもこの説の弱点とされる「反証しにくい」という性質は、裏を返せば「余計な仮定を必要としない」という強みでもある。
ただし、ここで一つ考えておきたいのは、「撮らなかった」と「残っていない」は違うということだ。菊次郎の証言は前者を支持するが、明治初年の写真は保存が難しい。湿板写真のガラス原板は割れるし、焼き付けた印画は退色する。関東大震災も戦災もあった。仮に一枚か二枚撮っていたとしても、それが今日まで残っている確率は決して高くない。しかも西郷は賊として死んだ。所持していることが不利益になる時期があった。捨てた人がいてもおかしくない。つまり「撮らなかった」と「撮ったが失われた」の二つを、我々は区別できていない。この区別ができない限り、写真がないという命題は、実は思ったほど強い主張ではないのだ。
もう一つ掘っておきたいのが、「似ている」という言葉の危うさだ。この話には、似ているかどうかを判断する場面が何度も出てくる。親族がキヨッソーネ画を見て似ていると言った。フルベッキ写真の人物が西郷に似ていると言われた。画像認識が何パーセント似ていると出した。だが、そのすべてにおいて、比較の基準になる「本人の顔」が存在しない。親族は記憶と比べた。フルベッキ写真の議論はキヨッソーネ画と比べた。画像認識も結局は肖像画と比べている。基準点のない相似判定を、我々は延々とやっている。数字が出ると客観的に見えるが、比較対象が絵である以上、出てくるのは「絵にどれだけ似ているか」でしかない。ここを意識しないと、機械の判定は新しい迷信になる。
そして、この一件が現代に投げかけているものについて。生成技術で誰の顔でも作れる時代に、百四十年前の顔の合成事件を振り返るのは、思った以上に示唆的だ。当時の人々は、キヨッソーネの絵を疑わなかった。精密で、権威があり、みんなが同じものを見ていたからだ。今の我々も、精密で、権威らしく見えて、みんなが同じものを見ている画像を、たぶん同じように疑わない。技術が変わっても、人が何を信じるかの条件はほとんど変わっていない。西郷の顔は、その条件を丸ごと保存した標本みたいなものだ。
最後に、この話の後味について書いておきたい。西郷の顔がないという事実は、悲しい話ではないと思っている。むしろ、あの巨大な人物が最後まで自分の像を差し出さなかった、という筋書きには、どこか痛快なものがある。政府は顔を必要とし、国民も顔を欲しがり、両方が手を組んで一つの顔を作り上げた。だが本人はそこにいない。銅像を見上げるとき、我々が見ているのは西郷ではなく、西郷を必要とした人々の願望のかたちだ。上野の山でカメラを構えている観光客の群れも、百年前に星を見上げて軍服の男を探した人々も、やっていることは同じである。
だから、もし本物の写真が出てきたらどうするか、という問いには、こう答えたい。たぶん出てこないほうがいい。出てこないからこそ、この顔は誰のものでもなく、同時に全員のものであり続ける。写真が一枚もないという異常事態は、百四十年かけて、日本でいちばん有名な顔を作り出した。事故から生まれた奇跡というのは、たまにこういう形をしている。上野に行く機会があったら、あの銅像の顔をちょっと長めに見てほしい。あれは誰の顔でもない。それでも、たしかに西郷隆盛の顔なのだ。
