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豊臣秀次切腹事件――「殺生関白」の汚名と一族三十九人処刑の真相

三条河原に、四十メートル四方の刑場が組まれた

文禄四年八月二日の早朝。京の三条河原に、四十メートル四方の刑場が設営された。

中央には塚が築かれ、その上に首がひとつ置かれる。西を向いていた。前関白・豊臣秀次の首だ。

そのふもとへ引き出されたのは、まだ物心もつかない若君四名と姫君、それに側室、侍女、乳母。あわせて三十九名。群衆が見守るなか、順に首を落とされていった。

秀次が最も寵愛したという側室「一の台」は、公家・菊亭晴季の娘だった。秀吉の正室・北政所が助命を嘆願したにもかかわらず、真っ先に座へ引き据えられたと伝わる。

あまりの酷さに、見物人から非難の声が上がったという記録も残る。処刑のあと、亡骸はまとめて一つの穴へ投げ込まれ、その上に秀次の首を納めた石櫃が据えられた。

塚には「秀次悪逆」と刻んだ碑が立つ。人はこれを畜生塚と呼んで恐れた。

断っておくと、これは戦の直後の処置でもなければ、敵方の一族への報復でもない。豊臣政権が最も安定していた時期に、政権の身内へ向けて行われた処刑だった。そこがこの事件の薄気味悪いところだと思う。

鶴松が死んで、甥が関白になった

秀次は秀吉の姉の子だ。若いうちに宮部家、三好家と養子縁組を重ね、のちに豊臣の姓を許された。

天正十八年の小田原征伐のあと、織田信雄の改易にともなって尾張と北伊勢に百万石を得る。大大名になった。

転機は天正十九年。秀吉が待ち望んだ嫡男・鶴松が、わずか三歳で病没する。後継者を失った秀吉は、その年のうちに甥の秀次を養子に迎えた。十二月には関白の座と豊臣氏の氏長者の地位まで譲っている。

実権は太閤として握り続けたものの、対外的には秀次が豊臣家の跡取りとして扱われた。文禄の役で大陸へ渡った軍勢の後方を支える役回りも、関白の名で担っている。

このとき秀吉が与えたという五か条の訓戒が、今から見るとやけに生々しい。茶の湯、鷹狩り、女狂い。自分の真似をするな、という趣旨だった。甥の素行に不安を抱いていた気配が、この時点で既にある。

淀殿が男児を産んだ日から

暗転の起点は文禄二年八月になる。秀吉の側室・淀殿が男児を産んだ。のちの秀頼だ。

実子を得た秀吉の胸に、関白を譲ってしまった甥への複雑な感情が芽生える。想像に難くない。

当初は日本の統治権を五分割し、その大半を秀次へ、残りを幼い秀頼へ、という形で共存を図ろうとしたとも伝わる。ところが秀吉はやがて秀頼を跡取りと定め、秀次の娘と秀頼の婚約を計画しはじめた。関白の地位を実質的に骨抜きにする動きだった。

将来を閉ざされていく焦りからか、秀次はこの頃から持病の喘息を悪化させる。精神的にも不安定な様子を見せるようになったと記録にある。

秀頼が生まれた時点で、秀次はまだ二十六。関白として政務を握り、諸大名の所領を裁く立場にいた。その立場のまま、自分の家督が赤ん坊へ移っていくのを眺めることになる。

二十代後半の男が、日本最高の官位に就いたまま、行き場を失っていく。正直、見ていられない。

七月三日、奉行四人が聚楽第へ来た

破局は文禄四年六月末に来た。

秀次が鷹狂いを口実にして不穏な会合を重ねている。そんな風聞が秀吉の耳へ入る。

風聞の出どころは分からない。ただ、この時期の秀次が鷹狩りに熱心だったのは確からしく、訓戒で釘を刺された当の遊びが、そのまま疑いの材料に使われた形になる。

七月三日、石田三成ら四人の奉行が聚楽第を訪れた。謀反の疑いを詰問し、疑いを晴らすための起請文へ署名を迫る。

七月五日、三成が秀吉へ報告を上げた。前年に秀次と毛利輝元が交わした誓紙がある、と。これが謀反の物的根拠に仕立てられた。

七月八日、再び使者が来る。伏見への出頭を促された。着いた秀次は登城を許されず、木下吉隆邸に留め置かれたまま、高野山へ登られよ、とだけ告げられる。

七月十日、秀次は高野山青巌寺に入った。剃髪して道意と号する。ここから先に戻り道は無い。

聚楽第に残された家臣や侍女たちは、この間ずっと宙吊りにされていた。主君が謹慎で済むのか、それとも死ぬのか。誰にも分からないまま数日が過ぎていく。

高野山で剃髪し、道意と名乗る

七月十五日、検使として福島正則ら三名が高野山へ着いた。切腹の命が正式に言い渡される。

高野山側も抵抗はした。木食応其が、寺院は無縁所であるという慣例を盾に取りなしを試みている。秀吉方の姿勢は硬く、押し切られた。

近侍していた小姓衆のうち三名が主君に殉じて自ら命を絶つ。続いて虎岩玄隆が自害した。最後に雀部重政の介錯で、秀次が腹を切る。享年二十八。

辞世が一首伝わる。「磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦」。

切腹の場には、殉じた小姓たちの血も流れていた。二十代の主君と、それより若い近習が同じ日に死ぬ。高野山は女人禁制の霊場で、助命を願う身内は山下で待つしかなかった。

妻妾と幼い子女らは、七月八日の時点で既に捕らえられていた。いったん丹波亀山城へ移され、八月二日に三条河原へ引き出される。冒頭に書いた光景だ。

「無実ゆえかくの事候」と公家は書いた

この事件は一次史料が複数残る。当時の京都の空気を伝える記録が、いくつも手元にある。

公家・山科言経の日記『言経卿記』。七月十三日の条に、秀次の死について「無実ゆえかくの事候」とある。謀反という理由付けそのものを疑っていた。

宮中の女官らが記した『御湯殿上日記』も、謀反説を否定的に扱う。七月十六日の条には、無実であったからこそ切腹に至ったのだという趣旨の記述がある。

秀吉の意向を伝える『吉川家文書』所収の書状も妙だ。高野山へ送った理由を「相届かざる子細」「不慮之御覚悟」と曖昧に書くばかりで、具体的な罪状を一つも挙げていない。

太田牛一の『太閤さま軍記のうち』には、稽古と称して人を撃ち殺した、辻斬りをした、比叡山で禁制を破った、北野で座頭を殺した、と乱行が列挙される。ただ、この記録ですら謀反の中身は示されない。

同時代の史料を並べると、当時の宮廷社会のかなりの部分が秀次の謀反を額面通りには受け取っていなかったと分かる。

面白いのは、疑いを書き残した相手が宮中の人間だという点だ。豊臣政権に近い位置で暮らし、下手を打てば自分の首が危うい立場の公家や女官が、日記のなかで無実と書いている。よほど納得がいかなかったのだろうね。

殺生関白という名前は、いつ付いたのか

動かない史実は結果のほうだ。関白の地位にあった人物が高野山で腹を切らされ、まもなく妻妾と子女ら三十九名が三条河原で処刑された。

では殺生関白という呼び名はどうか。こちらは後世の脚色をだいぶ含んでいる。

この呼び名が広く定着したのは、江戸時代に成立した通俗軍記物『絵本太閤記』などの影響が大きいとされ、同時代の史料が伝える秀次評とは温度差がある。

日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスは『日本史』のなかで秀次を「賢明であった」と評した。むしろ晩年の秀吉を誇大妄想に囚われた人物として描き、粛清の原因を太閤と関白の不和そのものに求めている。

暴君だから粛清された、という因果は、事件後に秀吉政権の正当性を守るため意図的に強調された疑いが濃い。現代の歴史学は、この点に慎重な見方を取る。

誰が追い詰めたのか、説が六つある

解釈は江戸期から現代まで積み重なってきた。

古典的なのが秀頼溺愛説。実子が生まれたので、将来の禍根を断つべく甥を排除した、という見方になる。老獪な政治家としての秀吉像と結びつきやすく、長く定説の座にあった。

石田三成讒言説も根強い。秀次が秀吉の側室含みだった一の台を無断で妻にし、それを三成が告げ口した。奉行衆が謀反の疑いをでっち上げて追い落とした、という筋書きだ。江戸期の『甫庵太閤記』に見えるこの構図は、講談や時代小説を通じて広まった。ただし今井林太郎や小和田哲男ら近年の研究者は、三成が首謀者だとする根拠は薄いとして否定的である。

秀吉・秀次確執説を推すのが渡邊大門になる。文禄四年二月、会津の蒲生氏郷が没した際の遺領処置で二人の意見が正面からぶつかった。関白職を譲ったあとも、日本の統治権限をどう分け合うかで深い溝が生じていたらしい。単純な排除ではなく、路線対立の末の亀裂だった、と見る。

『上杉家御年譜』には秀吉暗殺未遂説と呼ぶべき記述もある。秀次が鹿狩りを名目に秀吉を聚楽第へ招き、数万の兵を伏せて暗殺を謀った、というものだ。裏付ける同時代の一次史料は無く、後年の編纂物における潤色と見る研究者が多い。

ほかに服喪拒否説。正親町上皇の崩御直後に服喪の慣習を破って鶴を食い、相撲興行に興じたのが不興を買ったという。皇室の侍医を独占的に召し抱えて上皇の診察を妨げたとする権力濫用説もある。

近年は単一の原因を探すのをやめ、複数の要因が積み重なって破局へ至ったと見る立場が有力になりつつある。どれか一つを主犯に据えると、必ず他の説が反証に使われる。そういう均衡が四百年続いている。

もう一つ、目を引く解釈がある。秀吉には秀次を確実に死なせる意図が無く、高野山行きは謹慎処分で止めるつもりだった。無実の疑いをかけられたことに絶望した秀次が、追い詰められた末に自ら切腹を選んだ。そういう読み方だ。これが正しければ、秀次の死は処刑ではなく、尊厳を守るための最後の決断だったことになる。

悪逆の二文字を削った男

三条河原の首塚は、当初こそ秀次悪逆塚、あるいは畜生塚と呼ばれ、忌み嫌われる場所だった。

慶長十六年、鴨川の大洪水で塚が流失する。これを哀れんだ京都の豪商・角倉了以が、供養のための寺院を建てた。現在の瑞泉寺になる。

了以は碑面から「悪逆」の刻字を削った。そのうえで、秀次と一族を弔う菩提寺として整備し直している。角倉了以といえば高瀬川の開削で知られる人物で、鴨川の水と縁が深かった。流された塚を放っておけなかったのかもしれない。

同寺には処刑の顛末を描いた絵巻「瑞泉寺縁起」が伝わり、毎年、関係者による法要が営まれる。京都国立博物館などで特集展示が組まれることもある。

場所は三条木屋町を少し入ったあたりになる。飲食店の並ぶ通りから一本外れただけで、四百年前の刑場の跡へ行き着く。看板が小さいので、目当てに来ないと気づかないまま通り過ぎる人のほうが多い。

四百年を経ても、この悲劇を手放すまいとする動きが続いている。

三十九の命だけが動かない

歴史ファンの関心も途切れない。歴史系のウェブメディアや専門家の寄稿では、秀次に謀反の意図はあったのか、秀吉の残虐性はどこまで史実か、という切り口の考察が繰り返し出る。殺生関白像を問い直す論調が、近年は目立つ。

大河ドラマなどの映像作品でも、この事件はたびたび重い場面として描かれてきた。そのたびに視聴者の間で議論が起きる。まとめサイトやSNSには、幼い子供まで処刑された凄惨さへの感想や、秀吉の晩年の人格の変化を指摘する声が並ぶ。

学界の主流は、具体的な謀反計画があったとする証拠は乏しいという立場だ。秀吉の疑心暗鬼、豊臣政権内部の権力構造の変化、複数の偶発的な要因。それらが重なった粛清だった、と見る。

秀次の居城だった聚楽第も、事件のあと取り壊された。建物は伏見へ移され、跡地は畑へ戻る。関白の屋敷がひとつ消えるだけで、そこにいた人々の暮らしごと記録から抜け落ちていった。

殺生関白というレッテルについても、同時代史料と江戸期の脚色との距離を慎重に切り分けるべきだ、という声が広がっている。

もう一点、多くの研究者が一致している評価がある。この事件が豊臣家の親族という藩屏を大きく損ない、秀頼ひとりを頼る不安定な権力構造を生んだこと。それが後の豊臣家滅亡の遠因になった、という読みだ。

誰が真の首謀者だったのかは、今も定まらない。名のある研究者が持説を出すたび、別の研究者が史料の不足を突く。その応酬は、たぶんこの先も終わらないだろうね。

ただ、三条河原に眠る三十九の命だけは動かない。

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