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「神の手」が埋めた七十万年――2000年11月5日、毎日新聞の一枚の写真が日本の教科書を書き換えた日、旧石器捏造事件の全記録

2000年11月5日の朝、日本の歴史は七十万年ぶんだけ縮んだ。

正確に言うと、縮んだのではない。最初から無かったものが、無かったことになっただけだ。だがその朝まで、日本人は本気で信じていた。この列島には七十万年前から人が住んでいて、原人が石器を作り、穴を掘り、柱を立て、仲間の死を悼んでいた――と。中学校と高校の教科書にそう書いてあった。国の史跡にも指定されていた。文化庁が主催する展覧会の一ページ目を飾っていた。

その全部が、一人の男が畑で拾ってきた縄文時代の石を地面に埋め、翌朝みんなの前で掘り出してみせる、それだけの作業で作られていた。

これはその話だ。日本の考古学が二十五年かけて積み上げた「日本の前期旧石器時代」という巨大な建物が、毎日新聞のビデオカメラ一台で、丸一日かけずに全壊した話。そして、なぜ三千六百人もの専門家が二十五年間ずっと気づかなかったのか、という、こっちのほうがよっぽど怖い話だ。

「神の手」と呼ばれた男が、どこから来たのか

藤村新一は1950年5月4日、宮城県加美郡中新田町――いまの加美町に生まれた。子どものころに土器のかけらを拾って、それで古代にハマった。仙台育英高校を出て、東北電力の子会社である東北計器工業に就職している。工員だ。学者でも研究者でもない。休みの日に石器を拾いに行く、どこにでもいる考古少年がそのまま大人になった感じの人物である。

ただ、拾う量が尋常じゃなかった。1973年には線刻文字が入った瓦についての論文を書いている。1974年からは宮城県の江合川流域を歩き回りはじめた。同じ年、岩出山町座散乱木の農道のわきで遺物を採取している。これが後にとんでもないことになる場所だ。

1975年、宮城県で「石器文化談話会」というグループが立ち上がる。中心にいたのは岡村道雄。東北大学の芹沢長介教授の門下生だ。芹沢は当時、日本にも前期旧石器時代があるはずだと主張していた研究者の代表格で、栃木県の星野遺跡なんかを掘っていた。この談話会は、プロの考古学者と、学生と、藤村みたいな在野の愛好家が入り混じった、ゆるくて熱いチームだった。門戸が開かれていること自体は、当時としてはむしろ理想的な形に見えた。

そこに藤村が入る。そして、掘りはじめる。

異常なのは打率だ。後に鎌田俊昭と梶原洋がまとめた検証記録によると、1974年4月から2000年5月までの踏査は記録されているだけで135回。うち藤村が参加した102回では、93回で石器が出ている。約九割だ。藤村がいなかった33回では、たった6回しか出ていない。二割以下。

九割と二割。この数字を並べただけで、いま読んでいるあなたはもう「おかしいだろ」と思うはずだ。実際おかしい。だが当時の現場では、これは「藤村さんはすごい」という話にしかならなかった。人の何十倍も歩いているから、土の色を見る目が違うから、腱鞘炎と腰痛を抱えながら誰よりも必死に掘っているから。そういう説明が用意され、みんなが納得した。

そのうち、彼は「神の手」と呼ばれるようになる。本人はこの呼び名を極端に嫌ったという。「あれは努力の結果だ」と言い続けた。その謙虚さが、また信用を増幅させた。

1981年10月、座散乱木。ここから坂を転がりはじめた

座散乱木遺跡の発掘は1976年に第一次、1978年に第二次と進み、1981年に第三次調査が行われた。この第三次で、約四万年前の地層から石器が出た、と発表される。

日本の考古学にとって、これは特大の意味を持つ数字だった。当時、日本列島の人類史は三万年から三万五千年前あたりが上限だと考えられていた。関東の武蔵野台地の研究がその根拠だ。それより古い「前期旧石器」は、戦後何度も探されては消えていった。1950年代に杉原荘介が青森県の金木遺跡で挑戦し、礫層の中の自然石だったという結末になっている。1960年代には大分県の丹生遺跡や早水台遺跡をめぐって大論争が起き、西日本に百か所以上の「前期旧石器遺跡」が現れては、1960年代末までにほぼ全部が自然消滅した。

つまり日本考古学は、前期旧石器で二回コケていた。三回目はない、そう思われていたところに、座散乱木が来た。

現場で何が起きていたか。鎌田と梶原の記録がやけに生々しい。一週間、掘っても掘っても石器が出ない。誰もが焦れている。そこへ藤村が現場に到着する。五分後、十三層の上面から石器が出た。翌朝は十五層で同じことが起きた。二人は後にこう書いている。藤村は朝早く現場に来て埋めていったのだろう、と。

だがその時は、誰もそう思わなかった。むしろ逆だった。岡村道雄はこの成果をまとめた報告書で、日本の前期旧石器の存否論争は終結した、と宣言している。臆面もなく、と後年の小田静夫は書いた。

そして1997年、座散乱木遺跡は国の史跡に指定される。国が、公式に、ここは日本最古級の遺跡ですと認めたわけだ。

年代がどんどん遡っていく、あの気持ち悪さ

座散乱木の四万年前が受け入れられると、あとは坂道だった。

1984年、宮城県の馬場壇A遺跡。ここで十数万年前の層から石器が出る。1987年5月には東京都の多摩ニュータウン内の遺跡で、藤村が「ここを掘れば出る」と指定した場所から、予言通りに石器が出た。しかもこの時、藤村は踏査に参加していない。東京都教育庁の職員が掘って、出た。宮城だけのローカルな話ではない、日本列島全体に前期旧石器はあるんだ、という証拠にされた。

1992年8月29日、宮城県の高森遺跡。藤村が「あきちゃんがかわいそうだから、二、三点石器を見つけてやるか」と言った。その予言通り、三点出た。後から読むと血の気が引く記録だが、当時は「藤村さんのジョーク」で済んでいる。

同じ1992年8月、宮城県築館町――いまの栗原市――の牧草地化のために削られた丘で、藤村と鎌田俊昭が石器を見つけた。上高森遺跡である。この年、鎌田たちは民間の研究団体「東北旧石器文化研究所」を設立した。

上高森の年代の遡り方が、いま見るとほとんどギャグだ。1993年に四十万年前。1994年に五十数万年前で「日本最古」。1995年に六十万年前。1998年に六十万年以上前。1999年には七十万年以上前の石器を発掘したと報告している。1993年11月19日から2000年10月31日まで六次にわたる調査で、延べ七百五十平方メートルが掘られ、石器二百六十一点が「出土」した。

さらにすごいのは、石器そのものより「遺構」のほうだった。石器が何点かまとまって埋められた「埋納遺構」が見つかった、と発表される。原人が石器を大事にどこかに納めていた、つまり精神的な行為をしていたという話になる。1999年には埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡で、原人の墓かもしれない土坑まで出た。そして2000年10月23日、上高森で「国内最古の建物遺構」――柱穴だ――が見つかったと発表されている。

ここで踏み止まるべきだった。欧米の古人類学の常識では、原人は死という概念を理解しない。宗教も、象徴的な行為も、原人には想定されていない。日本の原人だけが墓を作り、家を建て、石器を丁寧に埋納していた。それはもう「日本の原人はアジアで、いや世界でいちばん賢かった」と言っているに等しい。

山形県から袖原3遺跡の石器と、三十キロ離れた宮城県中島山遺跡の石器の切断面が偶然ぴったり合った、という発表まであった。三十キロである。原人が石器を割って、片方だけ持って三十キロ歩いたことにされた。

なんでこんなものが通ったのか。話はそこに戻ってくるのだが、その前に、これを終わらせた側の話をしよう。

2000年8月25日、根室に一本の情報が入った

毎日新聞北海道支社。根室通信部の記者が、ある情報をつかむ。藤村という人の発掘成果はまゆつばだ、という話だ。日付は2000年8月25日。

当時の北海道支社報道部長がこれに食いついた。担当デスクの渡邊雅春と、記者四人、カメラマン一人、計六人の取材班が組まれる。ただし、この時点で証拠はゼロ。渡邊は後に、スジが良くない、可能性の低い取材だと感じていた、と率直に振り返っている。記者たちは考古学の知識もほとんどない。

彼らはまず勉強した。専門書を読み込み、研究者に片っ端から当たった。返ってきた答えは、ほぼ全員が同じだった。捏造なんてありえない、プロが見ればわかる。

ここで諦めなかったのが、この取材のいちばん偉いところだと思う。彼らは長野の発掘コンサルタントが運営していたウェブサイトで、藤村の一連の「発見」の矛盾を指摘する文章を見つけた。書いていたのは角張淳一。石器の整理や図化を請け負う会社の代表で、実際に発掘現場に入っていた人物だ。プロの学者が誰も言わないことを、現場を知る民間の人間が書いていた。そこから糸をたぐった。

そして、決めた。現場を張り込むしかない、と。

木に登り、草むらに這いつくばった九月の夜

最初のターゲットは北海道の総進不動坂遺跡。空知管内の新十津川町にある。この遺跡は1998年7月3日、札幌国際大学の助教授だった長崎潤一が藤村を招いた初日に「発見」されたものだ。

張り込みは2000年8月31日から9月2日。記者四人が入った。学生たちが午前二時ごろに寝るのを確認して、そこから朝七時前までを見張る。雑木林の木によじ登った者もいれば、草むらに腹ばいになった者もいた。

ここで一つ、地味だが決定的な判断があった。ビデオカメラを使ったことだ。当時、新聞社が取材にビデオを持ち出すのは相当に珍しかった。理由は単純で、下見をしたら未明の現場が静かすぎて、スチルカメラのシャッター音が響き渡ることがわかったからだ。音を消すには遺跡からかなり離れないといけない。それだと写らない。ビデオなら無音だし、暗視モードもある。だからビデオにした。

結果は、失敗だった。テープが入っていないカメラで回してしまい、写真も遠すぎてぼやけた。記者たちは千載一遇の好機を逃したと落ち込んだ。

ただし、目撃はしていた。藤村が発掘現場の地面を掘り、何かを入れるような動作をして、そのあと地面を踏み固めた。渡邊は言う。この時点で、我々は捏造を確信しました、と。

確信と、紙面に載せられる証拠は別物だ。ここから彼らは追いかけを続ける。

九月下旬、埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡。四人が約十日間、毎日午前二時過ぎから七時前まで張った。ここでは藤村の姿を現認できなかった。にもかかわらず、石器が出た。柱穴も土坑も出た。どうやったのか。取材班が引き上げた後にやったのか、見ていない角度でやったのか。渡邊はこれを「今もって謎」と言っている。

金がかかった。総進不動坂の段階で約百万円。小鹿坂までで約二百万円。そして継続を決めた時点で、別枠で約四百万円が積まれた。全部ムダになる可能性が普通にある取材だ。報道部長はこう言ったという。金はいくらかかってもいい、俺が責任を取ればいいだけのことだ、と。小鹿坂で空振りした後も、全然気にすることない、ダメ元でやってるんだから、と。

この一言がなかったら、たぶんこの事件はいまも発覚していない。日本の教科書には、いまも七十万年前の原人が載っていた。

10月22日午前6時すぎ、上高森。一分半の映像

年内に残った現場は上高森だけだった。取材班は機材を大幅に強化する。二十五万円から二十六万円する高性能カメラを買い、三脚に据えて遠隔操作できるようにした。記者は身を隠したままリモコンでカメラを回せる。

張り込み開始は10月20日ごろ。そして三日目、10月22日の朝、それは起きた。

午前六時すぎ。上高森遺跡に人がいないことを確認した藤村が、地面に穴を掘る。ポリ袋から石器を取り出す。並べる。土をかぶせる。足で踏み固める。所要時間、およそ一分半。

映像を後で見た記者たちは、その堂々ぶりに驚いている。渡邊の言葉を借りれば、藤村はカメラのほうを見て「撮ってください」と言わんばかりのアングルだった。彼が警戒していたのは道路の方向だけで、カメラのある方向にはまったく注意を払っていなかった。

二十五年間、誰にも見つからなかった人間の油断が、そこにあった。

取材班は張り込みを発掘の最終日まで続けた。別の日にも、藤村が石器を埋める場面を撮影している。

そして10月27日、調査団は上高森で約六十万年以前とされる地層から石器八点を発見したと発表した。国内最古の石器とみられる、と説明した。翌10月28日付の全国紙がそれを報じた。10月23日には例の建物遺構の発表もある。10月31日、第六次調査は終了した。

なぜ二週間も寝かせたのか

撮影に成功した10月22日から、紙面に載せた11月5日まで、十四日ある。二週間だ。

なぜ寝かせたのか。これはよく突っ込まれる点で、渡邊ははっきり答えている。わざと時間をかけたのではない、結果として二週間必要だったのだ、と。

理屈はこうだ。石器を埋めただけでは捏造ではない。埋めた石器を、正式な発掘作業で掘り出し、調査団が数十万年前の石器だと認定し、記者発表して、初めて捏造になる。だから発掘の最終日まで追いかけ、埋めた石器と発表された石器が一致することを確認しなければならなかった。

もう一つ、本人に聞く必要があった。相手に不利な事実を報じるとき、本人の言い分を聞くのは鉄則だ。取材班はそう考えていた。

だから彼らは、藤村本人にアポを取った。もちろん「石器を埋めているところを撮りました」とは言っていない。一般的な業績についての話を聞かせてほしい、という申し入れだ。藤村は11月5日なら空いていると答えた。

ところが東京本社は、Xデーを4日にしようと決めていた。11月3日、記者が詳しい時間の打ち合わせで電話を入れると、藤村は5日は都合が悪いと言い出す。もっと先にしてくれないか、と。記者が粘って交渉した結果、4日の午後七時で話がついた。

11月4日午後7時、仙台のホテルのスイートルーム

一泊八万五千円のスイートルームが用意された。相手に恥をかかせない形で話を聞くための場所だ。

記者はまず雑談から入った。藤村が書いた「遺跡発見学の提唱」という論文の話を四分ほど。そして午後七時四十五分、切り出した。

実は、見てもらいたい映像があるんです。

藤村の顔色が変わった。激しく動揺した。そこから十分ほど、沈黙が続いた。

映像を見せられた藤村が最初に口にしたのは、全否定ではなかった。「皆々ではない」――全部を埋めたわけではない、という意味の言葉だった。そして言った。鎌田さんに会いたい。

東北旧石器文化研究所理事長の鎌田俊昭が呼ばれ、ホテルに到着する。藤村は鎌田が部屋に入ってくるなり、こう打ち明けた。

実は俺、とんでもないことをした。石器を埋めていたんだ。

鎌田は信じなかった。そんなことあるわけねえじゃねえか、プロが見てんだから、お前、何か被害妄想になってるんじゃねえか。そういうやりとりになった。二十年以上一緒に掘ってきた相棒が、突然「埋めてました」と言い出したのだから、そりゃそうだ。

記者が「いや、映像があるんです」と言って、再生した。

鎌田は絶句した。しばらく言葉が出なかった。そして言った。これはもう決定的な証拠だ。何でこんなことしたんだ。

鎌田は藤村を慮って「プレッシャーがあったんじゃねえのか」と聞いている。だが実は、鎌田が来る前に、藤村はもう一言だけ漏らしていた。「魔がさした」。この言葉が東京本社に伝わった時点で、紙面化のゴーサインが出たと言われている。本人が認めた、と。

三十分ほど遅れて、東北福祉大学の梶原洋が到着した。研究所の理事で、藤村の「発見」をもとに論文を書いてきた人物だ。

そこからの藤村は、腹をくくったように話した。何でも聞いてください、お話しします。上高森については、今年の分は穴とごくわずかの石器を除いて自分が埋めたものだと認めた。総進不動坂については当初は否定した。しかし記者が「我々は総進不動坂でもあなたが不審な行動を取るのを見ているんです」とぶつけると、また苦しげな表情になって黙り込み、「総進不動坂でも埋めたんじゃないですか」と重ねると、こっくりとうなずいた。最後には「今年見つかった分は、すべてダメです」と言い切った。

その一方で、それ以外は頑として認めなかった。埋めたものではない、去年までのものも含めて、小鹿坂もそうだが、本当に出たものだ、これだけは信じてほしい。何度も繰り返した。

破門してくれ、とも言った。死にたい、とも言った。かと思うと「鎌田さん、俺再起するよ」とも言った。鎌田は「これからの罪滅ぼしは、みんなの見てる前で本物をちゃんと掘り出すことだ」と返している。この時点では、二人ともこれから何が起きるかを本当には理解していなかったのだろう。

深夜、午前零時前。インタビューを終えて立ち上がった藤村は、記者にこう言った。

きょうお話ししたことを明日、全部皆さんに話します。どうもありがとう。

渡邊はこの「ありがとう」を予期していなかった。何と答えていいかわからず、「頑張ってください」と言った記憶がある、と語っている。なぜ礼を言われたのか、いまも考えている、とも。

二十五年間、誰も自分を止めてくれなかった男が、初めて止められた夜だった。

11月5日朝、六ページの朝刊。そして宮城県庁の会見

翌11月5日付の毎日新聞朝刊。一面トップに、藤村が石器を埋める場面のカラー写真三枚。特別面には、捏造の過程がわかるよう映像から切り出した連続写真十四枚。計六ページを使って、一部始終を報じた。

紙面化の直前、編集局内からは懸念も出ていた。ビデオでの隠し撮りを、盗撮と誤解する読者がいるのではないか、と。そこで同じ紙面に「おことわり」を載せた。取材班の判断はこうだ。公式に認知されている遺跡は公の場所である。仮にプライバシーの侵害に当たるとしても、捏造を暴くという公益性が優先される。

実名報道にも議論があった。藤村はアマチュアだが、NPO法人の副理事長であり、講演をし、ラジオに出て、論文の共著者にもなっている。実質的に公人だと判断して、実名にした。

一方で抑制もかけている。テレビ局からビデオ映像を出してくれという要請が相当あったが、テレビで流すために撮ったものではないし、これ以上の個人攻撃は必要ないという判断で、出さなかった。藤村の顔写真を繰り返し載せることも避けている。

その日、藤村は宮城県庁で記者会見に臨んだ。五十歳。

魔が差してやった。おわびの言葉も見つからない。

彼は具体的に語った。10月22日午前六時すぎ、上高森遺跡に人がいないのを確認して、地面に数か所の穴を掘り、自宅に保管していた宮城県内から出土した石器数点を並べ、上から土をかぶせて足で踏み固めた。ほかにも別の日に数回、同じことをした。今年上高森で出土した計六十五点のうち、六十一点を自分が埋めた。総進不動坂で九月下旬から十月上旬の調査で見つかった二十九点は、全部、自分で埋めた。

そして、十月二十三日に発表した原人の建物遺構については「人為的につくりようがなく、本物だ」と否定した。小鹿坂や袖原3など、他の遺跡での捏造も否定した。

動機については、上高森が小鹿坂に比べて成果が劣っていた、焦っていた、と説明した。出身地である宮城で日本最古の成果を挙げたかった、と。

産経新聞はその日の記事に、こう書いている。一部始終を告白、泣き崩れる。

教科書が消え、史跡が消え、162の遺跡が消えた

余震は、その日のうちに始まった。

11月7日、高校日本史の教科書を出している出版社六社が記述の見直しを検討していると報じられる。実教出版の「高校日本史A」には、宮城県上高森遺跡では旧石器時代前期、約六十万年前の地層から石器が発見された、という記述と、1994年の発掘現場の写真が載っていた。11月23日、実教出版が正式に訂正申請を出す。第一号だった。11月11日には山川出版社が見直しを表明し、11月25日には東京書籍が文部省に訂正を申請した。12月26日、高校教科書からの上高森の記述削除が決まる。2001年10月には、さらに広い範囲での削除が報じられた。

文部省には批判が集中した。報告書も出ていない遺跡が、なぜ教科書に載るのか、と。まったくその通りである。藤村が関与した遺跡の大半は、正式な発掘調査報告書が出されていなかった。事件後の文化庁の調べで、報告書がまったく出ていない遺跡が九か所あることも判明している。

大学入試にも影響が出た。前期旧石器を前提にした問題が作れなくなった。自治体も慌てた。東京都教育庁は11月6日から多摩ニュータウンの遺跡の再検証に着手し、福島県は知事の指示で県内六遺跡の調査に入った。宮城県では国民体育大会の炬火の採火地の見直しや、小中学校の社会科副読本の内容検討まで議論になっている。四つの遺跡だけで自治体が計二千三百二十五万円を支出していたことも報じられた。

日本考古学協会は11月12日に委員会見解を発表し、翌13日に藤村を退会処分にした。

そして2002年11月、文化審議会が座散乱木遺跡の史跡指定解除を決め、12月9日付の官報で告示された。国が一度「これは日本最古級の遺跡です」と認定したものを、自分の手で取り消したわけだ。日本の文化財行政の歴史でも、そうそうない出来事である。

最終的に、藤村の成果をもとに認められていた日本の前・中期旧石器遺跡は、その全てである162遺跡が、遺跡や遺物の認定を取り消された。全て、である。ゼロになったのだ。

三年間の検証――ヘラで土を割り、石器を挟み、足で踏む

日本考古学協会の動きは早かった。2000年12月20日に「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会準備会」が結成される。考古学だけでなく人類学、地質学の研究者を含めた十一人の委員で構成され、2001年5月までに六回開かれた。

2001年5月19日の第67回総会で、特別委員会が正式に発足する。委員長は明治大学の戸沢充則。2002年7月からは小林達雄が引き継いだ。副委員長に小林達雄と春成秀爾。その下に五つの作業部会が置かれた。遺物の検証、遺跡の検証、検証技術の開発、型式の検証、研究方法論の研究。三年計画である。

戸沢は藤村に五回にわたる聞き取りを行った。その結果、藤村は42遺跡での捏造を告白する。北海道が四、岩手が二、宮城が十四、山形が六、福島が二、群馬が三、埼玉が十一。総進不動坂も、座散乱木も、馬場壇Aも、高森も、上高森も、小鹿坂も、袖原3も、ひょうたん穴も、全部この中に入っている。会見で否定していたものが、ほぼ全部ひっくり返った。

しかもこれで全部ではない。文化庁の調査では藤村関与の遺跡は55。さらに記録類の分析から三遺跡が把握されている。関与した可能性のある遺跡は延べ百七十か所、石器資料は三千五百点にのぼった。

検証の中身がまた凄まじい。第一作業部会は藤村関与の28遺跡から千百点以上の石器を集めて調べた。すると、正常な出土状態ではありえない不自然な傷が付いた石器の割合が異様に高い。農機具の鉄がこすれてできた線状の痕。何かに噛まれたような「ガジリ痕」。表面に地表の黒色土が付いたまま埋まっていたもの。新しい風化と古い風化が同居しているもの。褐鉄鉱が付着したもの。学問的な資料としての要件を欠いている、という結論になった。

第二作業部会は現地に戻って掘り直した。そして、藤村が埋めたまま掘り残されていた石器を、実際に再発掘してしまう。ここで手口が完全に判明した。ヘラのような工具を土に差し込んで地層を半開きにし、その隙間に石器を挟み込んで、上から足で地固めする。だから石器の周りに、本来あるべき「型」の痕――インプリント――が残らない。土に何万年も埋まっていた石は、周囲の土に自分の形を刻み込む。埋めたばかりの石には、それがない。

上高森の埋納遺構と建物遺構も、この作業部会が潰した。埋納遺構とされたものの底面には、工作された痕跡があった。建物遺構の柱穴とされたものは、マンガンや酸化鉄によるまだらな変色か、地震の液状化現象でできたひび割れの誤認だった。

地質学者との連携でわかったこともある。石器が、本来人が生活できない水成の堆積層の中や、火砕流の地層の中から出てきていた。火砕流というのは、要するに高温の火山灰と岩の塊が時速百キロで流れ下るやつだ。その中に人が座って石を割っていたわけがない。

第四作業部会は、捏造石器を東北地方の縄文時代の石器と型式学的に比較した。似たものが普通に見つかった。当たり前である。藤村がどこかの畑で拾ってきた縄文の石器だったのだから。

2003年5月、日本大学で開かれた第69回総会で、小林委員長が総括報告を行った。同じ月、六百二十五ページの報告書『前・中期旧石器問題の検証』が刊行される。結論は一行で言える。確実な前・中期旧石器時代と判断し得る証拠は、認められなかった。

証言その一――長崎潤一「お前はグルか、バカか」

この事件でいちばんきつい立場に立たされたのは、たぶん長崎潤一だ。

1998年7月3日、彼は三十七歳の助教授だった。北海道に赴任して五年。週末のたびに古そうな地層を探していたが、何も出ない。そこで、本州で次々と石器を掘り出して「神の手」と呼ばれていた藤村に、頭を下げて協力を頼んだ。尊敬していたのだ。

その日、長崎は藤村を空港に迎えに行き、そのまま学生たちと道内の何か所かを案内した。夕方、新十津川町の不動坂近くの崖をみんなで削っていると、少し離れたところで藤村が声を上げた。

出たぞーっ。

見ると、旧石器時代中期にあたる四万年以上前の地層から石器が出ていた。長崎は思わず言った。ええーっ、僕がいくら探しても出なかったのに。

帰りの車で、ハンドルを握る手が震えていたという。無理もない。五年間の空振りが、たった一日でひっくり返ったのだ。

そこから長崎が責任者になって本格的な発掘が始まり、2000年までに四十点以上の石器が見つかった。中には二十万年以上前のものも出た。何の変哲もなかった丘は「総進不動坂遺跡」になり、考古学上の大発見になった。

2000年11月5日の未明、彼は関係者からの電話で全部を知る。後から埋めた。そんなことできるか。電話口でぼう然と繰り返したという。

数日後、長崎は母校である早稲田大学の先輩で、北海道教育委員会の職員だった田才雅彦に呼び出された。そこで言われた言葉が、この事件を象徴する一文としていまも引かれている。

お前はグルか、バカか、どっちだ。世間はどっちかとしか見ていない。

長崎はグルではないと答えた。すると田才は言った。それなら、私がバカでしたと謝れ。そうじゃなきゃ、誰もお前を信用しない。

翌月、北海道考古学会の遺跡報告会の場で、長崎は「見抜けなかったことを深くおわびしたい」と頭を下げた。そしてそのまま、捏造遺跡の検証に自分から乗り出していく。

二十年以上経ってからの取材で、彼はこう振り返っている。偽りの出土は、自分にとって都合がよかった、と。この一言が、この事件の核心を突いている。みんな、都合がよかったのだ。だから見なかった。

長崎はいまも掘っている。日本原人の痕跡を、ではなく、確かなものを、確かな手続きで。

証言その二――鎌田俊昭と梶原洋「二十年以上だまされました、では済まない」

藤村と最も長く現場を共にした二人が、2002年、日本考古学協会の特別委員会報告に文章を書いている。タイトルからして重い。「藤村新一による旧石器ねつ造事件と我々の責任」。

冒頭で二人はこう書く。二十年以上だまされました、ごめんなさい、では済まない。原因を究明し、検証に協力することが我々の責務である。

そのうえで、彼らは自分たちの記録を洗い直す。踏査135回のうち藤村参加102回で九割発見、不参加33回で二割弱という、あの数字が出てくるのはここだ。発掘調査でも、長期間掘っても何も出ない状況が、藤村が来た途端に発見に転じるパターンが延々と繰り返されていたことを、二人は自分たちの記録から掘り出してみせた。

そして、これは「魔がさした」という一時の出来心ではない、と断じている。理由が明快だ。捏造するには、その地層の年代に見合った石器を、あらかじめ自分のコレクションから選んで持ち込まなければならない。四十万年前の層には四十万年前らしい石器を、六十万年前の層には六十万年前らしい石器を。それは準備であり、計画である。

出土状況の不自然さも列挙されている。風で倒れた木の根が抜けた跡の埋土から、レベル差なしに平面的に遺物が出る。異なる地層から出た石器がぴたりと接合する。斜めに傾いた地層をまたいで、石器だけが水平に分布する。どれも、後から水平に埋めればそうなる、というだけの話だ。

目撃証言もあった。1982年4月から1983年9月にかけて、石器文化談話会の会員が、藤村が石器を差し込んでいるところを目撃している。だが、周囲は「あり得ない」と一笑に付した。1998年10月には、ビデオ画像に石器の下に松葉が写り込んでいたこともあった。何万年も土に埋まっていた石器の下に、松葉である。

なぜ気づけなかったのか。二人は六つの理由を挙げた。手口が単純すぎて盲点だったこと。年代に合わせた石器を用意するという「科学的な整合性」が、逆に計画性を隠したこと。岡村道雄が前期旧石器の論文を出した直後にそれに対応する石器が出る、馬場壇Aの基盤層を掘り抜いた直後に新しい遺跡が出るといった、学史的にできすぎた展開を「愚かにも」信じてしまったこと。「最古」「初めて」に浸るうちに、じわじわとマインドコントロールされて科学的な疑いの目が麻痺したこと。藤村が「神の手」と呼ばれるのを嫌い、努力の結果だと言い続ける誠実さの演出に感動してしまったこと。

そして六つめが、いちばん痛い。発掘作業というのは善意の個人の集合体だ、という大前提が崩壊したことだ。二人はこう書いている。不特定多数の調査参加者の善意という前提自体を崩壊させたことが、藤村が破壊したもっとも大きいものだ、と。

彼らは近年の藤村がこう豪語していたことも記録している。藤村がいるから、出るか出ないかの心配をしたことがない。

動機については、二人も匙を投げている。藤村がまだ無名で何のプレッシャーもなかった1974年から捏造が始まっていたと推測しながら、目的は不明だと認めた。強いて言えば、彼の口癖だった「スコアをあげる」という言葉が関係しているかもしれない、と書くにとどめている。

証言その三――小田静夫と竹岡俊樹「これで小田は死んだ」

言っていた人は、いた。ちゃんといたのだ。

いちばん早かったのは小田静夫だ。東京都教育庁の職員で、旧石器研究者。1984年ごろから、学会や新聞で座散乱木の地層について疑問を口にしはじめる。下の層は火砕流だ、遺物を含むはずがない、と。1985年には科学雑誌のインタビューで同じことを言った。そして1986年、アメリカ人研究者のチャールズ・T・キーリーと連名で、日本人類学会の学術誌に批判論文を投稿する。宮城県の旧石器および「前期旧石器」時代研究への批判、というタイトルだ。

論点は鋭かった。座散乱木の十三層と十五層は火砕流の一部ではないか。石器のほとんどが水平に埋まっていて、単品で出土している。後期旧石器以降のどの遺跡でも、遺物は土の中で上下に動く。それが遺跡というものだ。なのに、この「前期旧石器遺跡」だけは上下移動がまったくない。おかしいだろう、と。

キーリーは後年、これを痛烈に総括している。彼らは「土」を理解していなかった。座散乱木の後期旧石器の層から縄文時代の石錐や土器片が出ているのに、それを上下移動と考えず、そのまま受け入れた。土がわかっていないから、上下移動がないことの異常さもわからなかった、と。

論文は一時的に大騒ぎになった。だが、それだけだった。学界の指導的な立場の考古学者たちが、面前で二人を批判した。お前たちの考え方は間違っている、そんな強い批判を活字にすべきではない。しかし、誰一人として、彼らの批判に対する詳細な反論を活字で公にすることはなかった。

小田は後にこう語っている。そのときにいろんな噂が私の耳に入ってきました。これで「小田は死んだ」。あいつは前期旧石器を探せないから、それで妬んで、あんなことをあっちこっち言って回っているのではないか、と言われました。私は本当に悔しい思いをしました。

正しいことを言った人間が、妬みの人扱いをされて、事実上の学会八分になった。

十二年後の1998年、竹岡俊樹が二本目の矢を放つ。石器の形態分析を専門とする研究者だ。彼は上高森から出た六十万年前とされる石器群について、既成の「前期旧石器」の概念から大きく外れている、この地方に分布する縄文時代の「石箆」と形態も製作技術も同一だ、と書いた。そして、これはオーパーツだ、と断じた。あるはずのない場所にある、あるはずのないもの。

竹岡は論文の提出時、藤村を「一人の特殊能力の持主」と表現して批判しようとした。だが、その部分は会誌の編集委員会から削除を強制された。削除しないなら掲載しない、と通告されている。

反応は、罵倒だった。鎌田俊昭は当時こう批判している。彼は世界中の旧石器がみんなフランス式でなければならないと思い込んでいる。あんまり藤村氏の石器がきれいなもんだから、議論について来れない。だから、おかしいって言い出す。

竹岡はこう言い残している。数年前からいろいろ言ってきても、だれも相手にしなかった。ある研究者に「竹岡さんと一緒にやるとみんなに嫌われる」と返事を頂いた。

批判の三本目が角張淳一だ。彼は発掘現場に実際に入っていた民間の技術者で、「前期・中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」という文章をウェブサイトに公開していた。毎日新聞の取材班が最初に手がかりをつかんだのが、まさにこの文章である。学者ではなく、現場を知る民間の人間が書いたものだけが、外部に届いた。皮肉な話だ。

二十五年で、まともな批判はこれだけしかない。1986年に小田とキーリー、1998年に竹岡、そして発覚直前に角張と竹花和晴。合わせて五人。三千六百人いる学会で、五人だ。

世論とネット、そして海外の目

事件は日本国内だけでは終わらなかった。ロサンゼルス・タイムズは一面でこれを報じた。海外メディアの一部は、日本人のナショナリズムと結びつけて論じた。日本人は自国の歴史を古く見せたがっている、と。

中国、韓国、北朝鮮の各国メディアは、当時の歴史教科書問題と絡めて大きく扱った。日本人が歴史を歪曲しているのが証明された、一研究家だけの問題ではなく日本人の歴史認識そのものに原因がある、といった論調である。教科書検定をめぐって日本を批判していた側からすれば、これ以上ないカードだった。

国内では、まず考古学そのものへの信頼が吹っ飛んだ。あれだけ「日本最古」と騒いでいたテレビと新聞が、今度は「なぜ見抜けなかったのか」を叩く側に回る。マスコミの過剰報道への批判も出た。発見の瞬間だけを「最古」「最古」と書き立てて、検証には興味を示さない報道姿勢が、捏造を後押ししたのは事実だ。

当時まだ黎明期だったインターネットの掲示板やウェブサイトでは、これがものすごい熱量で消費された。新聞各社の第一報を集めて並べたページ、リンク集、専用の掲示板がいくつも立ち上がっている。学者しか読まなかったはずの論争が、匿名の一般人の間で戦われた。誰が共犯なのか、という犯人探しも当然のように始まった。藤村の単独犯という協会の結論に対し、共犯者がいたはずだという告発本まで出ている。

このあたりで、事件は暴走を始める。

賀川光夫の死――事件が生んだ、もう一つの犠牲

2001年1月18日、週刊文春が「考古学者たちが口にしたくてもできない第二の神の手が大分聖嶽人周辺にいる」という見出しの記事を出した。標的は、大分県の聖嶽洞穴遺跡である。

この遺跡は1961年に発見され、翌1962年、日本考古学協会の洞穴遺跡調査特別委員会の事業として、別府大学の賀川光夫教授を責任者に正式調査された。人骨と石器が出て、旧石器時代の日本人の姿を伝える資料とされてきた。

記事は、賀川が捏造に関与した疑いがあると受け取れる内容だった。2月1日号では「小誌スクープを権威も追認」として、聖嶽人はやはり捏造であると書いた。

賀川は学術的に反論しようとした。2001年2月、九州を代表する考古学研究者十七人に出土石器などの検証を依頼し、3月6日、別府大学で記者会見を開いて結果を公表した。

その二日後の3月8日、三本目の記事が出る。見出しは「聖嶽遺跡は別の四遺跡から集められていた」。会見の内容にはいっさい触れず、疑惑をさらに強調する内容だった。

翌3月9日、賀川光夫は自宅の書斎で自ら命を絶った。七十八歳だった。遺書に「死をもって抗議する」と書き残していた。

遺族は2001年11月1日、大分地方裁判所に名誉毀損で提訴した。2003年5月15日の大分地裁判決は文藝春秋側に賠償と謝罪広告を命じ、2004年2月23日の福岡高裁は賠償額を増額した。2004年7月15日、最高裁第一小法廷が文藝春秋側の上告を棄却し、九百二十万円の支払いと謝罪広告の掲載が確定した。

日本考古学協会も別途、聖嶽洞穴遺跡問題の検証委員会を設け、2003年10月に検証報告をまとめている。

藤村の捏造は事実だった。だが、その事実が生んだ「次はどこだ」という空気が、事実ではない疑惑を一人の老学者に押し付け、命を奪った。ここは、この事件を語るときに絶対に飛ばしてはいけない部分だと思う。捏造を暴くことと、捏造だと決めつけることは、まったく別の行為である。

東北旧石器文化研究所の解散、そして関係者たちのその後

藤村がいなくなった東北旧石器文化研究所は、あえてNPO法人のまま残ることを選んだ。鎌田俊昭と梶原洋は2002年、こう書いている。責任の取り方として、きちんとした組織のまま各種の検証に全面協力し、未刊行の五遺跡の報告書を速やかに作成する。それが今の我々に課せられた責任だと思う、と。

彼らはその通りにした。2002年5月に上高森遺跡の発掘調査報告書。2003年3月に袖原3遺跡、中島山遺跡、一斗内松葉山遺跡の報告書。2003年12月にひょうたん穴遺跡の報告書。全部、自分たちが騙されて掘った現場の記録である。書いていて何を思っただろうか。

2003年12月、報告書の刊行を終える。翌2004年1月、石器文化談話会と東北旧石器文化研究所は、ともに解散した。1975年に始まった二十九年が、そこで終わった。

鎌田俊昭はその後も宮城県内で幼稚園の園長を務めている。梶原洋は東北福祉大学の教授を続け、2023年3月に退職した。

岡村道雄は1987年に文化庁の文化財調査官に転じ、1993年には主任文化財調査官になった。文化庁が毎年開く巡回展「発掘された日本列島、新発見考古速報」には、上高森や総進不動坂の出土品が展示されている。日本最古の話題は、その年の展示の一ページ目を飾る「考古学の華」だった。つまり、国の埋蔵文化財行政の最高機関が、捏造遺跡に権威を与え、全国の公共博物館を巡回させ、図録で普及させていた。

岡村は2002年、特別委員会の報告に短い文章を寄せている。捏造に気付かず、それを無批判に受け入れて研究に取り入れ、発表してしまった当時の力不足と未熟さを反省したい、と。2010年には『旧石器遺跡捏造事件』という本を書いている。

一方で、この事件に対する厳しい総括もある。小田静夫は2014年の文章でこう書いた。この間に、前期旧石器研究の当事者、関係者、推進者らの中で、誰一人として職を辞するなど責任を取った研究者がいたであろうか。誰もが言い訳ばかり並べ、何も責任を取らないまま幕を引いてしまった、と。

藤村本人はどうなったか。会見の後、松島町の瑞巌寺の修行道場に十一月末まで数週間滞在し、その後は福島県の精神科病院に入院した。戸沢充則が面会して聞き取りを行ったほかは、面会謝絶が続いた。2001年2月に離婚。家族は激しい嫌がらせを受けていたという。事件後に解離性同一性障害を発症して障害者認定を受け、2003年には入院先で知り合った女性と再婚して、姓が変わった。右手の指を自ら切ってもいる。この手が二度と悪さをしないように、という意味だったと伝えられている。

2010年の取材では、捏造に関する記憶は残っていないと述べた。2019年の取材でも、事件については「忘れた」と言い、思い出そうとすると気持ち悪くなる、と語った。当時の関係者との連絡も絶っているという。

毎日新聞の旧石器遺跡取材班は2001年、第49回菊池寛賞を受賞した。取材の顛末は『発掘捏造』という本にまとまり、続編の『古代史捏造』も出ている。

焼け野原からの二十五年――金取、砂原、そして冠

162の遺跡が消えて、日本列島の人類史は後期旧石器時代の三万八千年前あたりまで一気に巻き戻された。前期・中期旧石器の研究は、文字通り焼け野原になった。誰も手を出したがらない。手を出せば「またか」と言われる。

それでも、掘る人はいた。

2003年7月、岩手県遠野市の金取遺跡で、八万年から九万年前の土層から石器が出土していたことが明らかになる。事件の後、この遺跡でも古いものは疑いありとして一度否定される流れになっていたのだが、あらためて検討され、前・中期旧石器時代の研究を組み立て直す手がかりとされた。ここで使われていたホルンフェルスという変成岩は、中国山西省の丁村遺跡で前期旧石器に使われていた石材でもある。

2009年8月、島根県出雲市多伎町砂原で、崖の露頭から小さな石のかけらが一点見つかった。玉髄でできた剥片だ。同志社大学の松藤和人らが予備調査と本調査を行い、地層の年代を火山灰と段丘の研究、フィッション・トラック法で詰めていった。結果、十二万年前から十一万年前という数字が出た。砂原遺跡である。

この調査のやり方が、事件の教訓そのものだった。トレンチを一メートル四方のグリッドに区切り、一人が一グリッドを担当し、隣と高さを揃えながら薄く削っていく。数ミリの石屑も、一、二ミリの炭の粒も見逃さない。削った土は土嚢袋にグリッドごとに収納して、後で見落としを回収する。石器が出たら竹ベラと竹串で慎重に輪郭を出し、さんざん観察してから取り上げる。要するに、藤村が悪用した「善意の集合体」を、記録と手続きで置き換えたのだ。

砂原の石器については、いまも議論が続いている。使われている石材が日本の旧石器遺跡ではほとんど見ないものなので、研究者の目が慣れておらず、自然石だという見方も根強い。ただ、上峯篤史が開発した斑晶の観察法で、人為的な製作パターンが見いだされたという成果も出ている。

そして2024年9月、広島県廿日市市吉和。中国山地の分水嶺にある冠遺跡群で、奈良文化財研究所の国武貞克らが発掘していた。二万八千年前、三万二千年前、三万六千年前と累積する三枚の後期旧石器の層を掘り下げて、そろそろ終わりかというところで、さらに下から石器が出はじめた。

放射性炭素年代測定の結果は、四万二千三百年前。これまで日本最古とされていた三万七千年前より、約五千年古い。縁がギザギザに加工され、先が尖ったその形は、中国大陸や朝鮮半島で五万年から四万年前に使われていた石器の特徴と一致する。2025年5月26日に公表された。

この調査で徹底されたのが、考古学だけで結論を出さないことだった。2025年9月には地質学の専門家も加わって追加調査が行われている。層位の信頼性を、考古学の外から何重にも検証する。捏造事件が日本の旧石器研究に叩き込んだ最大の教訓が、そのまま手続きになっている。

日本考古学協会は2006年5月に倫理綱領を制定した。2003年3月には日本旧石器学会の発起人会が開かれ、同年12月20日と21日に横浜で設立総会の研究集会が行われている。設立趣旨には、研究の方法論的な点検、地質学や人類学や古生物学との連携、海外研究者との交流を十分にやってこなかったことを強く反省しなければならない、とはっきり書かれた。2008年には東アジア旧石器協会も設立され、日本、中国、韓国、ロシアの研究者が定期的に顔を合わせるようになった。

日本旧石器学会が全国の旧石器時代の遺跡を数え直したところ、確認されたのは一万二千か所だった。そのほとんどが後期旧石器時代のものである。前期・中期に相当するものは、人骨が伴わない、遺物を含む地層が不明瞭、そして何より石器なのか自然石なのか判別が難しい、という課題を抱えたままだ。芹沢長介が生涯かけて掘った栃木県の星野遺跡の珪岩製石器が人工品かどうかも、いまだに決着していない。

日本列島にいつ人類が来たのか。この、いちばん基本の問いに、日本の考古学はまだ答えを出せていない。二十五年前、答えは出ていることになっていた。七十万年前だと。

有名になる前から、あの男は埋めていた

さて、ここからは総括だ。この事件を「一人の嘘つきがいた話」として片付けると、いちばん大事なところを取り逃がす。だから、あえて意地悪な角度から掘り直したい。

まず、いちばん不気味な事実から。藤村新一は、有名になる前から埋めていた。

これは検証の過程で確定した部分だ。鎌田俊昭と梶原洋は、捏造の開始を1974年ごろと推定している。1974年の藤村は、二十四歳の工員である。石器文化談話会すらまだない。誰からもプレッシャーをかけられていない。「神の手」でもない。期待されてもいない。

つまり、彼は「期待に応えるために」嘘をついたのではない。順番が逆なのだ。まず嘘をついた。その嘘が期待を生み、期待がさらに嘘を要求し、その循環が二十五年回り続けた。会見で本人が語った「焦っていた」「プレッシャーがあった」という説明は、たぶん本人の主観としては本当なのだろうが、事件の構造としては後付けにすぎない。

これが恐ろしいのは、動機が最後までわからないままだからだ。金ではない。彼は工員のままだった。地位でもない。学者になったわけではない。名声も、彼自身が「神の手」という呼び名を嫌っていた。鎌田と梶原が最後に絞り出したのは、彼の口癖だった「スコアをあげる」という言葉だけだ。点数を稼ぐ。ゲームのように。

ここで並べたくなるのが、ピルトダウン人だ。

1912年12月18日、ロンドンの地質学会で、弁護士でアマチュア考古学者のチャールズ・ドーソンと、大英博物館の地質学部長アーサー・スミス・ウッドワードが、サセックス州ピルトダウンで見つかった頭骨と下顎骨を発表した。人間のような大きな脳と、類人猿のような顎。猿と人の間の失われた環。五十万年前。学名はエオアントロプス・ダウソニ、ドーソンの夜明けの人。

イギリスは沸いた。ダーウィンの国から、人類の祖先が出た。人類学の権威であるアーサー・キースもグラフトン・エリオット・スミスも支持した。1940年代の終わりまでに、この化石をめぐって二百五十本の論文が書かれている。

疑う者はいた。ドーソンが自宅で骨を作っているのを見た、という噂が当時から流れていた。アメリカの人類学者アレシュ・フルドリチカは下顎骨は類人猿のものだろうと言った。だが、支持する学者のほうが圧倒的に多かった。しかも標本は厳重に保管され、多くの研究者にはレプリカしか見せられなかった。理化学的な検査も認められなかった。

1949年、大英博物館のケネス・オークリーがフッ素法で年代を測る。五万年前だった。ミッシングリンクではありえない。1953年、より精密な分析が行われ、全部が判明した。下顎骨はオランウータンのもので、臼歯の噛み合わせ面は人間らしく見えるようにヤスリで削られていた。骨も石器も、地元の砂利に色を合わせて薬品で染められていた。伴出した獣骨は他の地域のものだった。類人猿の顎は人骨とは絶対に接合できないので、犯人はその接合部分だけを巧妙に取り除いていた。

四十年である。日本の二十五年より長い。

2016年、ロンドン自然史博物館などのチームがDNA分析とCTスキャンで再検証し、犯人はドーソン単独とほぼ断定した。同じ一頭のオランウータンの標本が使われ、同じシリケート系の歯科用パテが使われ、同じ手口で砂利が骨の中に詰められていた。しかも、その作業は熟練した保存技術者のものではなかった。骨は割れ、パテは固まるのが早すぎ、歯はヤスリがけの途中でひび割れていた。

ドーソンの動機については、王立協会の会員になりたかったという説がある。彼は五十本以上の論文を書いたが、どれもキャリアを大きく前進させはしなかった。妻と連名で認知を求める手紙も書いていた。会員に推薦はされたが、選出はされなかった。そして、少なくとも三十八件の偽造に関与していたことが後の調査でわかっている。ローマ時代の刻印入りタイル、彫像。彼は連続偽造犯だった。

ここで日本の事件と重ねると、共通点が三つ、鮮明に浮かび上がる。

一つ、権威ある学者が「発見者」の隣に立っていること。ウッドワードがいたからピルトダウンは信じられた。岡村道雄がいたから座散乱木は信じられた。アマチュアの発見に、プロが署名する。その瞬間、それは学界の共有財産になる。共有財産になったものを疑うことは、共有した全員を疑うことになる。だから、誰も疑わない。

二つ、その社会が「欲しかった答え」だったこと。イギリスは自国から人類の祖先が出ることを欲しがっていた。日本は、アジアで最も古い人類史を欲しがっていた。欲しかったものが目の前に出てきたとき、人間は検証をサボる。これは考古学の話ではなくて、人間の話だ。

三つ、批判が構造的に潰されたこと。ピルトダウンでは、標本そのものを見せないことで批判が封じられた。日本では、批判者を学会八分にすることで封じられた。方法が違うだけで、やっていることは同じである。

そして、日本の事件に固有の、いちばん根深い部分に踏み込みたい。それが「層位は型式に優先する」という考え方だ。

これは考古学の基本ルールの一つで、それ自体は間違っていない。地層は下にあるほど古い。だから古い地層から出た遺物は古い。石器の形が何となく新しく見えても、地層が古いなら古いのだ。形の判断のほうが間違っている可能性を疑え。そういう教えである。

だが、この原則には隠れた前提がある。地層と遺物の関係が、自然のままである、という前提だ。誰かが後から石器を差し込んでいたら、この原則はまるごと凶器になる。古い層から出たんだから古いのだ、という思考停止装置に変わる。

竹岡俊樹が1998年に「上高森の石器は縄文時代の石箆と同一だ」と言ったとき、彼は型式学で語っていた。返ってきたのは「層位が古いんだから古いに決まっている」という反論――ですらない、拒絶だった。原則が、検証を殺したのだ。

もう一つ、決定的に効いていたのが「土がわかっていなかった」という指摘である。キーリーがこれを一番痛烈に書いている。遺物というのは、土の中で上下に動く。凍結と融解、木の根、動物の穴、水。何万年もあれば、遺物は必ずある程度散らばる。武蔵野台地や相模野台地の後期旧石器遺跡では、1970年代末にはこの垂直移動の研究がたくさん出ていて、常識だった。

なのに、宮城県の「前期旧石器遺跡」では、遺物がきれいに一枚の面に並んでいた。上下移動がゼロ。これは後期旧石器より古いのに、後期旧石器よりきれいに整っているという、あり得ない状態だ。しかも座散乱木では、後期旧石器の層から縄文時代の石錐や土器片が出ている。垂直移動があった証拠が、目の前にあったわけだ。それを見ておきながら、前期旧石器層に垂直移動がないことの異常さには誰も気づかなかった。

キーリーはこう書いている。日本の考古学者がなぜ、発掘調査の基本条件となる「土」の知識に乏しいのか、私にはよく分からない、と。そして、その知識の欠如ゆえに、二十世紀最大の考古学的でっちあげが日本で起きた可能性は大きいと言わざるをえない、と。

外国人研究者にここまで書かれるのは、正直きつい。だが反論は難しい。

さて、じゃあ日本の他の偽史事件と比べるとどうか。ここで出てくるのが東日流外三郡誌である。

青森県五所川原市の和田喜八郎という人物が、自宅の屋根裏から落ちてきたと称する古文書群。大和王権に迫害された民が津軽で栄えていたという壮大な歴史が書かれていた。1970年代に旧市浦村の村史資料編として刊行され、1980年代の古代史ブームで爆発的に広まる。小説の題材にもなり、多くの人が半ば史実だと思うようになった。自治体が資料や遺物を買い取り、施設まで建てた。

だが中身は無茶苦茶だった。江戸時代の秋田孝季が書いたことになっているのに、明治以降、戦後にしか存在しない言葉が頻出する。極めつけが「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」だ。福沢諭吉だろ、と突っ込まれると、和田は福沢から曾祖父宛の手紙なるものを出してきた。福沢が古文書を見せてもらってその台詞を引用させてもらった、という内容の。しかも自著を「学文之進め」と書いていた。

原本は絶対に見せなかった。コピーの字体や誤字の癖は、和田本人の字とそっくりだった。紙は戦後製造の版画用和紙で、墨を塗って古めかしくしてあった。1999年に和田が死んだ後、自宅が調査され、天井裏に古文書を隠すスペースなど存在しないことがわかった。かわりに、紙を古紙に見せるために使ったと思われる、長期間ためた尿の入った容器が出てきた。

この事件を追い詰めたのは、地元紙の記者と、在野の研究者たちだった。主流の歴史学者の多くは、あえて言及を避け続けた。

旧石器捏造事件と東日流外三郡誌の決定的な違いは、ここにある。東日流外三郡誌は、アカデミズムがおおむね無視した。だから偽書だという評価が定着するのに時間はかかったが、学問の中枢は無傷だった。

旧石器捏造事件は逆だ。アカデミズムが全力で抱きしめた。国立の博物館に並べ、国の史跡に指定し、文化庁の巡回展の一ページ目に置き、検定教科書に載せ、国際学会で発表した。だから崩れたときに、学問の中枢ごと崩れた。162遺跡がゼロになるというのは、そういう意味だ。

無視されるのと、抱きしめられるの。学問にとってどちらが危険かは、もう答えが出ている。

ここでもう一段、意地悪な問いを立てたい。この事件は、本当に「藤村の単独犯」なのか。

日本考古学協会の結論は単独犯である。共犯者がいたと告発する本も出ているが、確定した事実として認定されたものはない。だから、周辺の人物を共犯だと決めつけることは、この記事ではしない。それは賀川光夫に起きたことの、繰り返しになる。

ただ、「単独犯」と「誰も責任がない」は、まったく別の話だ。

石を埋めたのは一人だ。だがその石を掘り出して「これは六十万年前の石器である」と認定したのは、一人ではない。年代を測ったのは一人ではない。報告書に署名したのは一人ではない。国の史跡に指定したのは一人ではない。展覧会で全国を巡回させたのは一人ではない。教科書に載せたのは一人ではない。

藤村が単独でできたのは、埋めるところまでだ。そこから先の「歴史になる」工程は、全部、他の人間の仕事である。

そして、この工程のどこにも、チェック機能が働かなかった。報告書が出ていない遺跡が教科書に載った。批判論文には反論が返ってこなかった。批判者は妬みの人扱いをされた。編集委員会が批判の一部を削除させた。地方自治体は町おこしのために「日本最古」を欲しがった。文化庁は「考古学の華」としてそれを展示した。

小田静夫がこう書いている。彼の背後には、一緒に発掘した大学研究者、文化庁職員、自然科学者たちがおり、その周りにはそれを喧伝した大勢の考古学者がいたことを忘れてはならない、と。

つまり、これは一人の詐欺師の話ではなく、一つの学問分野の免疫システムが二十五年間ずっと不全だった話なのだ。詐欺師は原因ではなく、症状である。

長崎潤一の「グルか、バカか」という問いが、なぜあれほど刺さるのか。答えを言うと、この二択が実は不十分だからだ。第三の選択肢がある。「グルでもバカでもないが、疑わないことで得をした人」。

長崎自身が後年、偽りの出土は自分にとって都合がよかった、と認めている。この一言の誠実さは、なかなか真似できない。五年間何も出なかった研究者にとって、出ることは救いだった。町おこしをしたい自治体にとって、日本最古は宝だった。「前期旧石器はある」と主張してきた学者にとって、藤村の石は証明だった。学生にとって、有名な現場は誇りだった。新聞にとって、最古は一面だった。

みんな、少しずつ得をしていた。だから、みんな、少しずつ見なかった。

これがこの事件の本当の教訓だと思う。捏造を可能にするのは、悪意ではない。利害の一致だ。誰も嘘をつく必要はない。ただ全員が、疑わないほうが得をする状況にいればいい。それだけで、七十万年の歴史が二十五年間存在できる。

だから、この話は考古学の話ではない。

論文の不正が問題になるたび、企業の検査データ改ざんが発覚するたび、この事件の構造がそのまま出てくる。突出した成果を出し続ける個人がいて、その成果が組織の実績になっていて、疑うと組織全体を否定することになるので、誰も疑わない。データを再現しようとした若手が「あの人を疑うのか」と言われる。外部の批判者が「業界を知らない人」扱いされる。そして、最後は必ず外部から壊される。

日本の考古学を壊したのは、日本の考古学ではなかった。考古学の知識がほとんどない新聞記者六人と、木に登る根性と、無音で撮れるビデオカメラと、金はいくらかかってもいいと言った部長だった。

これは考古学にとって屈辱だったと思う。だが同時に、いちばん健全な形でもあった。内部で自浄できない組織を止められるのは、外部だけだ。だから外部が要る。

最後に、いま何が起きているかをもう一度書いておきたい。

事件の後、日本の前期・中期旧石器研究は誰も触りたがらない領域になった。それでも掘る人がいて、2003年に岩手の金取遺跡で八万年から九万年前の層の石器が確認され、2009年に島根の砂原遺跡で十一万年前級の可能性が示され、2024年に広島の冠遺跡で四万二千三百年前という数字が出た。

冠遺跡の調査を率いた研究者は、こう書いている。捏造事件の余波で、小学校の教科書から旧石器時代の記述が消えた。その事実が、この事件が日本社会に与えた衝撃の深さを今に伝えている、と。

そして彼は、地質学の専門家を調査に加えた。考古学者だけで「これは石器だ」と言わない。層位の年代を、考古学の外側から何重にも押さえる。石器の形が大陸の古いものに似ていても、層位の信頼性が低ければ主張しない。逆に確かな層から出ても、自然の破片と区別できなければ主張しない。

二十五年かけて、日本の旧石器研究は「主張しない」という技術を身につけた。

七十万年は、消えた。かわりに残ったのは、四万二千三百年前という、ずいぶん地味だが、何重にも検証された数字である。

こっちのほうが、はるかに価値がある。歴史というのは、古ければ偉いものではない。確かめられているかどうかが、全部だ。

2000年11月5日の朝刊は、日本から七十万年を奪った。そのかわりに、確かめるという作業の意味を置いていった。二十六年経ったいま、あの六ページは、日本の考古学が受け取った中でいちばん高価な贈り物だったと思う。

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