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🌊 生きたまま棺の船で消えた僧たち――補陀落渡海、南海の観音浄土を目指した死の航海

小さな寺の境内に、奇妙な舟が置いてある。和船の上に入母屋造りの箱をのせ、その四方に鳥居を立てた、神社とも寺ともつかない、見たことのない形の舟だ。全長は6メートルほどしかなく、箱の中は、大人が横になるのがやっとの広さだと聞く。1993年に、絵図や文献をもとに復元された舟で、実際に海へ出して試験航行まで行われたという。本物の使い道は、恐ろしかった。

寺の名は、補陀洛山寺。和歌山県の南東の端、熊野灘に面した那智勝浦にある天台宗の寺で、那智山青岸渡寺の別院にあたる。那智駅から歩いて3分ほどの場所だが、かつては浜に面していたらしく、いまは海岸から300メートルほど奥まった所にある。秘仏の本尊は三貌十一面千手千眼観世音菩薩で、国の重要文化財に指定されている。平安の昔から江戸の世まで、この寺の前の浜から、小舟が何度も沖へ押し出されていった。

乗っていたのは、生きた僧だ。行き先は、はるか南の海の上にあると信じられた、観音菩薩の浄土、補陀落。補陀落という言葉は、サンスクリット語の音を漢字に写し取ったもので、白華や小花樹、光明、海島とも訳されたという。那智の山は「補陀落の東の門」と呼ばれ、南の海は、そのまま浄土へ続く道だと考えられていた。海の向こうに、浄土がある。

生きたまま海を渡り、この世にいながら浄土へ往生する。それが、補陀落渡海だ。往生とは、死んだあとに浄土へ生まれ変わることをいう。死んでから行くんじゃなくて、生きたまま行くところが、とんでもない発想なんだよ。海のかなたに楽土があるという古い信仰と、観音を拝む信仰が結びついて、こんな行いが生まれたという。

自分の身を仏に捧げる修行を捨身行といい、補陀落渡海は、その中でもとびきり危うい部類に入る。窓のない舟で海へ出れば、事実上、命を落とす行いになるからだ。それでも僧たちは、平安の世から江戸の世まで、那智の浜から、水平線の向こうの南の海へ漕ぎ出していった。命がけの船出。

熊野の3つの山は、それぞれ別の浄土と結びつけられていて、本宮と新宮と那智を合わせて熊野三山と呼ぶ。本宮は西の極楽浄土、新宮は東の浄瑠璃浄土、那智は南の補陀落浄土の地だと、昔の人びとに考えられたのだ。本地仏は、本宮が阿弥陀如来、新宮が薬師如来、那智が千手観音。西は極楽、東は浄瑠璃、南は補陀落。南の海の先に浄土を置く考えは、那智にもとからあった。

4つの鳥居を立てた箱舟

舟のつくりは独特だ。和船の上に屋形を置き、大きな白帆を張り、その周りに4つの鳥居を立てる。鳥居はそれぞれ、発心門、修行門、菩提門、涅槃門と呼ばれ、この4つの門は葬送の儀礼にも見られる要素だという。仏教と神道が溶け合った熊野らしい姿は、出発の前から、弔いを思わせたわけだ。

那智参詣曼荼羅には、那智の浜の海に浮かぶ3隻の船が描かれている。うち1隻は、4つの鳥居と朱塗りの垣をそなえ、六字名号を記した帆を掲げる。大鳥居のまわりには、楽を奏でる伶人や僧の姿、幡の旗が描かれ、渡海僧を霊界へ送る葬礼の場面と読まれている。六字名号とは、南無阿弥陀仏の6文字のことだ。

この曼荼羅を広げて、絵の内容を語り聞かせる絵解きをしたのが、熊野比丘尼と呼ばれる人びとだ。最古の紀年銘は、1596年の修復の銘で、曼荼羅づくりは16世紀の末にはもう始まっていた。1993年の復元船は、この絵をもとにしている。絵の中の舟は、小さな祠のようだ。

曼荼羅には、浜の宮の三所権現と補陀洛山寺も、浜のほとりに描かれている。補陀洛山寺は、浜の宮の王子に仕える供僧の寺という位置づけだった。浜に建つ寺と、浜から出ていく舟が、1枚の絵のなかに並んでいる。寺と舟は、ひとつの景色。

舟の決まりを、細かく書き残した記録もある。1531年11月18日、常陸国の那珂湊から、山伏の高海上人が渡海した。その様子をまとめた『那珂湊補陀洛渡海記』に、舟の造りが事細かに出てくる。前後に33座、左右に19座の座を設け、33は観音の33の身に、19は法華経の19の説法にちなむという。

高海は、僧でも俗人でもない山伏で、髪は長髪のこともあれば、螺髪のこともあったという。前の年の11月18日の夜に、観音の世界からの霊告を受けて、渡海を思い立った。それから1年後の同じ11月18日に、舟は常陸の浜を離れて、沖へ漕ぎ出していった。ちょうど、1年。

帆には多羅葉に書いた梵文が使われ、綱や柱や舵にいたるまで、ひとつひとつ仏典にちなむ名がつけられた。梵文は、古代インドの言葉で書かれた経文のことだ。舟の部品のひとつひとつが、仏の教えの見立てになっていたわけだ。海に浮かぶ小さな仏堂。ここからが、舟のいちばん恐ろしいところだ。

日月の光が入らない屋形

渡海僧が屋形に入ると、扉は外から釘で打ちつけられ、内側からは2度と開かなくなった。手立てがないどころか、箱が壊れない限り、出入りそのものができなかった。船室に積まれたのは、30日分ほどの食べ物と水、行灯の油だけだ。ほぼ箱と呼べる造りの舟に、わずかな荷だけを持たせて、陸から送り出したのだ。逃げ場は、どこにもない。

考えてみてほしい。闇の中の、30日。窓のない箱の中で、頼れるのは、小さな灯りだけだ。30日分の油が尽きて、闇だけが残ったあとに、中で何が起きたのか。それを自分の言葉で書き残せた者は、ひとりもおらず、残るのは、外から見た記録と、伝え聞いた話だけだ。

渡海の姿は時代や土地で少しずつ違い、重石を身につけて入水する形や、舟に穴を空けて沈める形もあったという。窓も扉もない屋形に釘を打つ形は、その中でもとくに有名な姿だ。行き先は、どれも補陀落。

11月18日の夕方に浜を出る

出発の日には、北風が吹いて舟を南へ押し流してくれる、11月が選ばれることが多かった。日取りは18日で、この日は観音菩薩の結縁日にあたり、結縁日とは、その仏と縁を結ぶのにふさわしい日のことだ。信仰と風向きの両方がぴたりと噛み合う日だった。風と信仰が、同じ日を指す。

船出は、夕刻に行われることが多かった。補陀洛山寺の本堂で儀式が営まれ、そのあとで一行は浜へ向かった。浜の宮の地には、熊野九十九王子のひとつ、熊野三所大神社がある。海水で身を清める潮垢離の場でもあり、参詣者は、那智山へ上る前に、ここで身を清めた。同じ浜から、僧は海へ出ていく。

舟は2隻の伴船に曳かれて沖へ出て、3隻で船団を組む場合もあった。途中の帆立島で帆が揚げられ、綱切島のあたりで、伴船と舟をつなぐ白い綱が切られる。そこから先は、潮まかせだ。行き先を決めるのは、もう人の手ではなく、黒潮という大きな海の流れだった。

伴船が付き添うのは綱を切る場所までで、舟はそこで、陸との最後のつながりを断たれ、海の上に取り残される。記録が語るのは、南へ漂っていく小さな屋形の姿までで、そこから先の様子は、どこにも書かれていない。見届けた者は、いなかった。

見送りの場は、静かな別れとは、だいぶ違う。常陸の渡海では、音楽の演奏が終わると、綱が解かれて帆が揚がり、太鼓や鐘が鳴らされた。那智でも、天蓋や幡をかざして舟を見送ったと伝わり、曼荼羅には楽を奏でる人びとも描かれている。音とともに送り出す作法が、そこにはあった。

渡海を取り仕切ったのは、補陀洛山寺の住持だった。1735年の記録には、住持が代々「渡海上人」と名乗ったことが書かれている。渡海を望む者の先達を務め、綱切島に渡って往生の儀式を済ませ、同行の者とともに入水する。江戸の世には、そう伝わっていた。

頼朝の巻狩で鹿を射損じた男

1193年、下野国の那須野で、源頼朝が大がかりな巻狩を催した。巻狩とは、獲物を取り囲んで追い込む、大人数の狩りだ。下河辺行秀は、頼朝から大鹿を射るよう命じられるが、矢は外れ、鹿は小山朝政に射止められてしまう。面目を失った行秀は、その場で髻を切って出家した。髻は、頭の上で束ねた髪のことだ。

熊野に入った行秀は、法華経を読んで修行を積み、智定房と名乗った。それから40年が過ぎた1233年3月7日、那智の浦から補陀落渡海に出る。かつて頼朝の前で弓を引いた男が、今度は海へ向かった。元は、鎌倉の御家人。

この渡海を伝えるのが、『吾妻鏡』だ。鎌倉幕府の動きを日付順に書き継いだ歴史書で、同じ1233年の5月27日条に、行秀の話が載る。舟が出てから、2か月半ほどあとの記事だ。名前の残る渡海だ。

紀伊国の糸我庄から書状が届き、北条泰時のもとへ渡ったという。泰時は、鎌倉幕府の第3代執権だ。執権は、将軍を支えて鎌倉幕府の政治を動かした、いわば最高責任者の役職で、北条氏が代々その座についた。書状を読んだ人びとは、涙を流したと記される。

おもしろいのは、年号だ。渡海した3月7日は、まだ貞永2年だった。記事が載る5月27日には、年号が天福に改まっていた。同じ1233年のうちに、年号をまたいで、ひとりの男の船出が語られている。

舟の描写が、とにかく細かい。乗ったあとで外から釘を打ちつけ、扉は1つもなく、日月の光は入らない。灯火だけが頼りで、用意されたのは、30日ほどの食べ物と油だけだった。窓のない屋形は、入定所とみなされ、生きたまま入る墓のような場所だったと伝わる。

後の世の『北条九代記』には、話の続きがある。智定房は、30日余りで補陀落山にたどり着き、やがて那智へ戻ったという。1通の書をしたためて泰時に届けさせ、そのあと行方が分からなくなったとも伝わる。吾妻鏡の書きぶりとは、結末がまるで違う。どちらが本当か、分からない。

松の木に名を書き残した平維盛

時代は、さらにさかのぼる。平家の栄華と滅亡を語る『平家物語』の巻10に、平維盛の最期が出てくる。清盛の孫にあたる維盛は、屋島の戦場から離れて出家し、熊野を参詣して、浜の宮王子の浜から小舟で漕ぎ出した。向かった先は、山成島という島。

維盛は島の松の木を削り、先祖の名と自分の名を書きつけて、それぞれの法名まで添えた。祖父は太政大臣平清盛、父は内大臣重盛。自分は三位中将維盛で、年は27。寿永3年3月28日、那智の沖で入水する。そう記して、維盛はふたたび舟を漕ぎ出したという。

那智参詣曼荼羅には、赤い頭巾をかぶった3人の姿が描かれ、維盛と、従者の兵衛入道重景、石童丸だと伝わる。3人は、そろって那智の沖で入水したという。入水の話ではあるが、那智の浜から南の海へ消えていく話だ。渡海の記録に、並べて数える書き方もある。

868年の慶龍上人から1722年の宥照上人まで

記録に残る最初の渡海は868年11月3日で、熊野の慶龍上人という僧が舟に乗ったと、『熊野年代記』が記す。その後の記事は、919年の祐真上人、1131年の高厳上人と、200年以上も間をあけて、まばらに続く。平安の渡海は、わずか3例。最初の渡海から、年代記が数える最後の渡海まで、854年にわたる。

数が増えるのは戦国の世に近づいてからで、『熊野年代記』が載せる20例のうち、16世紀だけで9例を占める。15世紀が2例、17世紀が5例、18世紀が1例。全国の記録を集めた数え方では、57件ほどのうち27件が、およそ半数にあたる16世紀に集中する。戦国の世は、渡海の最盛期。

補陀洛山寺には、渡海した僧の名を刻んだ石碑が立つ。刻まれているのは25人で、平安が5人、鎌倉が1人、室町が12人、安土桃山が1人、江戸が6人だ。室町の12人のうち11人は戦国の世の人だといい、年代記の数字とは、少しずつずれている。

数え方は、史料ごとに違う。『本願中出入証跡之写』という別の記録は、18例を載せる。全国では56件とも57件とも数えられ、那智はそのうち27件から28件を占め、群を抜いて多い。寺の住職は、記録に残る渡海を20数回と数え、どの数字を取っても、半数前後は熊野の浜から出ている。最初の慶龍上人から最後の天俊上人まで、記録は約1000年にわたる。

県の案内には、国内の渡海は50回から60回ほどで、半数近くが補陀洛山寺から出たとある。記録のはっきりした40件余りのうち、25件がこの寺から出ているとも数えられる。那智で渡海した僧は、よその土地から来た修行僧が多かったという。那智の浜は、遠くの国の僧たちを呼び寄せる、海の入り口でもあった。熊野の山と海が、そこまで人を引いたのだ。

裏山に残る位牌と供養塔

証拠は、いまも寺にある。年代記が載せる20例のうち5例には、渡海僧をしのぶ額札や位牌、供養塔が、補陀洛山寺に伝わる。1636年の清雲上人には裏山の供養塔が、1663年の清順上人には位牌が、それぞれ残る。1686年の順意上人には、位牌と裏山の供養塔の両方が伝わる。裏山には、渡海した上人たちの墓も残る。

補陀洛山寺は、江戸の世まで、那智七本願の一角として大きな伽藍を構えていた。本堂は1808年の台風で主な堂塔とともに失われ、いまの室町様式の高床式の本堂は、1990年の再建だ。2004年には、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産に加わった。国の史跡「熊野三山」の一部でもある。

寺には、1529年の銘をもつ銅の花瓶と、1577年に寄付された銅の鉢が伝わり、どちらも和歌山県の文化財に指定されている。渡海舟の板絵は2枚あり、那智勝浦町の文化財になっている。花瓶も鉢も、渡海が盛んだった16世紀の品だ。

浜の宮に残る石と井戸

熊野三所大神社は、浜の宮王子とも呼ばれる。古い神社だ。『中右記』の1109年10月27日条に、浜宮王子の名が見える。11世紀ごろの木造の男神像2体と女神像1体が神社に伝わり、国の重要文化財に指定されている。1873年には、補陀洛山寺から独立して、村社になった。

寺のまわりには、石も井戸もある。渚の森公園には、古代の石信仰に結びつく「力だめしの石」が置かれている。神社の儀式に使われた「閼伽の井」も、同じ公園の中にあり、閼伽とは、仏に供える水のことだ。

熊野三所大神社の境内には、振分石という石柱が立っている。中辺路、大辺路、伊勢路の3つの道が分かれる場所を示す、道標の石だ。熊野古道は、ここで分かれる。

金光坊は島へ泳ぎ着いた

渡海の話でいちばん有名なのは、金光坊の一件だ。16世紀の末ごろ、補陀洛山寺の住持だった金光坊が、生きたまま入水するのを拒んだという。『熊野巡覧記』は、役人が無理に海へ沈めたと書く。この書が世に出たのは1794年で、事件から200年ほど過ぎたころの記述になる。

別の形の伝承もある。金光坊は舟の屋形から抜け出して近くの島に泳ぎ着いたが、見つかって、ふたたび海へ送り出されたという。その島は金光坊島、あるいは金光島と呼ばれ、いまの地図にも名が載っている。

伝承の細部は違っても、どちらの話でも金光坊は渡海を嫌がった、という一点だけは変わらない。望んで船出するはずの渡海に、望まない僧がいた話だ。こわい話だよな。

この一件が転機になった。以後、生きたまま入水する慣行は行われなくなり、住持が亡くなってから儀式を営む形に変わったという。『熊野巡覧記』が記す手順は、こうだ。住持が死期に臨むと、寺の中では弔いをせず、「渡海の望みあり」と披露する。

経文を写した108の石を袋に入れて身につけさせ、板輿に載せて鳥居の外へ運び、そこで葬礼を営む。遺体は舟に乗せられ、綱切島の海に水葬された。これが「補陀落渡り」だ。生きた渡海は水葬へと姿を変えたが、舟に乗せて綱切島の沖へ送る形だけは残った。浜の宮の浜から南の海へ、という道筋は変わらなかった。

この一件を題材にしたのが、井上靖の短篇『補陀落渡海記』で、金光坊が主人公に据えられている。小説の金光坊は61歳で、前の住職が3代続けて61歳で渡海したと語られる。読経に明け暮れ、渡海にふさわしい顔つきになりたいと願うが、やがて俗世への未練が募る。舟から逃げ出し、周りの人間に捕らえられて、ふたたび海へ出される。ここまでは小説の筋であって、史実の記録じゃないと断っておく。

内田康夫は『熊野古道殺人事件』にこの渡海を取り込み、松本清張も、作品のなかで渡海に触れている。舟の話は、作家たちの筆も引き寄せてきた。物語にしたくなる舟。

足摺岬と玉名に残る石

熊野だけの話じゃない。海の南に浄土を思い描いた土地は、ほかにもあった。出発の地として名が挙がるのは、熊野の那智、土佐の足摺岬と室戸岬、熊本の玉名だ。足摺岬は、四国の南の端に突き出た岬で、目の前には太平洋が広がる。

岬の先にある金剛福寺は、寺伝では、822年に空海が「補陀洛東門」の勅額を受けて開いたという。平安時代の末ごろには、南の補陀落の観音浄土をのぞむ、修験者の行場になった。本尊は千手観音で、四国八十八箇所の第38番札所でもある。東門の名は、那智にも足摺にもつけられた。

記録に残る最後の渡海は、この金剛福寺の住持、天俊上人のものだ。1909年、明治42年に、寺の前方の海岸から補陀落山を目指して入水したという。那智の最後の渡海から190年ほどあとの出来事で、四国の海にも、渡海と呼ばれる行いが記録に残った。

玉名にも、渡海の石がある。繁根木の地にある補陀落渡海供養塔附石塔群で、4基の板碑からなり、熊本県の重要文化財に指定されている。板碑は、薄い板のような石に、仏の姿や文字を刻んだ供養の碑だ。永禄11年、1568年の渡海にかかわる碑で、先達は弘円上人、行人は駿河の善心と遠江の道円だった。

碑に刻まれているのは、日月の図と、阿弥陀、観音、勢至の線刻だ。舟は肥後の高瀬、いまの玉名市のあたりに立ち寄り、観音信仰のために船を降りて、渡海の成就を祈ったらしい。その祈りのために建てられたのが、この碑だという。熊野の浜から遠く離れた九州の地にも、同じ願いが石になって残った。

確かめようのない航海

念のため、限界も書いておく。『熊野年代記』は、近世になってまとめられた、編年体の歴史書だ。『熊野年代記古写』『歳代記第壱』『年代記第弐』の3篇からなり、いまのところ、原本は見つかっていない。神代から1891年までの記事を収め、古代や中世の記事には、伝承や怪異の説話、霊験の話が多く混じる。古い記事ほど、疑ってかかる。

いまの写本をたどると、1894年に地元の教員の小野芳彦が、梅本家の所蔵本を書き写している。柳田國男や東京大学史料編纂所も写本を作り、1989年には影印本が刊行された。読めるのは、こうして書き写された写しだ。

編んだのは、熊野新宮の本願所に属した庵主の家の者と推定される。本願と社家のあいだでは争いが繰り返され、年代記は、本願の立場を権威づけるために編まれたと見られる。古代や中世の記事は信用しにくく、いちばん確かなのは、戦国期以降の記述だ。868年の慶龍上人の記事も、この年代記に載るものだから、慎重に読みたい。それでも、熊野三山を通して年代順に記した記録は、ほかにない。

屋形に釘を打たれた僧が、浄土に着いたのか、沖で力尽きたのかは、いまとなっては、確かめようがない。それを見届けた者はいない。確かめる手立ては、最初から用意されていなかった。

金光坊の話にも、同じ難しさがつきまとう。『熊野巡覧記』に載る伝承で、事件から200年ほど過ぎたあとの書物だ。細部が2通りに分かれているのも、伝承らしい姿かもしれない。答えは、出ていない。

1722年6月7日

『熊野年代記』が数える那智の最後の渡海は、1722年6月7日だ。宥照上人という僧が、補陀洛山寺から出た。位牌と、裏山の無縫塔が、いまも寺に伝わる。無縫塔は、継ぎ目のない卵形の石塔で、僧の墓に使われる。

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