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左大臣は一夜で謀反人にされた――長屋王の変と、ゴミ穴から出た十一万点の木簡が語る最後の日々

奈良時代の朝廷でいちばん偉かった男が、たった三日で謀反人にされて死んだ。

しかもその男の邸宅のゴミ捨て穴が千二百六十年後に掘り返されて、夏にどこの氷を取り寄せていたか、飼っていた犬に何を食わせていたかまで判明してしまった。

長屋王の変というのは、日本史の中でもかなり異様な形をした事件だ。政変としては異常に短く、冤罪としては異常に早くバレて、そして祟りとしては異常に長く生き延びている。なにしろ千三百年近く経った今でも、奈良のショッピングモールが潰れるたびにこの人の名前が呼ばれるんだから。

二月十日の朝、都の入口が全部閉まった

神亀六年、西暦でいうと七二九年の二月十日。平城京にいた官人たちは、朝からただごとじゃない空気を吸っていたはずだ。

朝廷が三関を固めたからである。

三関というのは伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関、越前の愛発関のことで、これを閉じるというのは畿内から東国への出口を物理的に塞ぐ措置だ。天皇が死んだときか、本気の反乱が起きたときにしかやらない。ふつうの朝ではない。

きっかけは密告だった。

左京にいた漆部造君足という無位の男と、中臣宮処東人という、これまた無位の男が、そろって朝廷に駆け込んだ。訴えの中身は『続日本紀』にはっきり残っている。左大臣正二位長屋王が「私に左道を学びて国家を傾けんと欲す」。ひそかに邪法を学んで国家を転覆させようとしている、という告発だ。

密告者の二人は官位を持っていない。つまり朝廷の中枢とは何のつながりもない、ただの民間人みたいな立場の人間が、当時の政府のトップを名指しで訴え出た。そしてその訴えが、その日のうちに軍事行動に化けた。

動いたのは式部卿の藤原宇合だった。六衛府の兵を率いて、平城京左京三条二坊にあった長屋王の邸宅を包囲する。

ここが肝心なところで、この日に朝廷がやったのは尋問でも召喚でもない。いきなり軍隊で家を囲んでいる。裁判の前に判決が出ているような順序だ。

長屋王の邸は平城宮の南東の角にぴったり接した一等地で、四坪ぶん、数字にすると六万平方メートル前後。奈良市の説明では約七万平方メートル、甲子園球場一・五個分という言い方をしている。そこに主人と妻と子どもたち、そして数百人規模の家人や下働きが暮らしていた。

二月十日の夜、その全員が武装した兵に囲まれた家の中にいたことになる。

「左道を学びて国家を傾けんと欲す」とは、要するに何なのか

左道という言葉が、この事件のいちばんの謎だ。

中国の律令や礼の用語で、正しい道である「右道」に対する邪道のこと。実際の運用では呪術や妖術、正規の国家祭祀から外れた呪法を指す。日本の養老律では、呪詛によって人を殺そうとすることは謀殺に準じる重罪で、天皇に対する呪詛なら大逆にあたる。

つまり「左道を学んだ」という告発は、平たく言えば「あいつは天皇を呪い殺そうとしている」という話になる。

ここで押さえておきたいのは、告発の中身が徹底的に検証不可能だという点だ。

武器を集めていたとか、兵を動かしたとか、誰かと連判状を交わしたとか、そういう物証の出る話じゃない。心の中で何かを念じていた、隠れて何かを唱えていた、という類の罪だ。証明もできないが、反証もできない。密告というカードの中でも最強クラスに使い勝手のいいやつを、二人の無位の男が引いた。あるいは、引かされた。

そして七二九年当時の長屋王は、単なる大臣ではなかった。

父は天武天皇の長男である高市皇子。母は天智天皇の皇女である御名部皇女で、これは元明天皇の同母姉にあたる。つまり長屋王は天智と天武の血を両方引いている。

妻の吉備内親王は草壁皇子と元明天皇の娘で、元正天皇の同母妹。この夫婦の間に生まれた膳夫王たちは、霊亀元年に元明天皇の詔で「皇孫」の待遇を与えられている。

血統だけを紙に書き出したら、当時の皇位継承の序列で相当上のほうに来てしまう一家だった。そこが、この事件のすべての出発点になる。

尋問に来た顔ぶれが、この事件の本音を全部バラしている

翌二月十一日。囲まれた邸に、朝廷から尋問団が送り込まれる。この面子がすごい。

一品の舎人親王、一品の新田部親王、大納言の多治比真人池守、中納言の藤原武智麻呂、右中弁の小野牛養、少納言の巨勢宿奈麻呂。舎人親王は『日本書紀』の編纂を統括した天武の皇子で、新田部親王も天武の皇子。皇族の長老二人を筆頭に、太政官の実力者が揃って乗り込んできた。

この中に藤原武智麻呂がいる。

藤原不比等の長男、いわゆる藤原四子の長兄だ。そして邸を包囲した藤原宇合は四子の三男。捜査の指揮も、尋問も、藤原の兄弟が中に入っている。しかも武智麻呂はこの政変のあと、長屋王が空けた大納言の席をそのまま埋めることになる。

利害関係者が捜査班に入っていて、しかも結果として席を継ぐ。現代の感覚でこれを見たら、誰でも同じ顔をすると思う。

この日、邸の中でどんなやり取りがあったのかは記録されていない。『続日本紀』は「その罪を糾問す」としか書かない。

ただ、当時の糾問というのは形式が決まっていて、告発状の文言を読み上げ、被告に弁明させ、その供述を筆録して持ち帰る。長屋王は左大臣で、律令の運用を誰よりも熟知していた男だ。呪詛の告発に対して何を言えば法的に反論になるかも分かっていたはずである。

それでも翌日には死んでいる。取り調べが一日で終わり、その次の日に一家が全滅するという速度は、法的な手続きが機能したというより、結論が先にあったと考えるほうが自然だろう。

二月十二日、邸の中で起きたこと

二月十二日。『続日本紀』の記述は短い。

長屋王は自尽した。妻の吉備内親王、そして所生の膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王も、みな自ら経を絶った。原文でいう「自経」で、首をくくったという意味である。

この記述の淡々とした短さが、かえって重い。歴史書は場面を描写しない。何時だったか、誰が最初だったか、外の兵は何をしていたか、一切書かない。

この日、邸の中にいた家人たちは全員拘束された。左右の衛士府と兵衛府に分けて監禁されている。数百人規模の使用人が、いっぺんに軍の施設に押し込まれた。前日まで台所で米を量っていた人間が、その翌日には囚人として名簿に載る。木簡が語る邸の日常については後で嫌というほど書くけれど、その日常が終わった日が、この二月十二日だ。

なお、長屋王の子のうち全員が死んだわけではない。

藤原不比等の娘である長娥子との間に生まれた安宿王、黄文王、山背王らは生き残った。母方が藤原だったからだ。

これは冷酷なほど分かりやすい線引きで、殺されたのは吉備内親王が産んだ、つまり皇位継承権に近い血をまとった子だけである。この一点だけ見ても、この政変が「呪詛の摘発」ではなく「血統の除去」だったことが透けて見える。

生駒に運ばれた二つの棺と、勅の中の妙な一行

二月十三日、使者が遣わされ、長屋王と吉備内親王の遺体は生駒山に葬られた。

そしてこの日、天皇の勅が出る。この勅の中身が、事件全体の中でいちばん奇妙な部分かもしれない。

吉備内親王には罪はない、と天皇が明言しているのだ。だから葬儀を賤しいものにしてはならない、喪儀は礼にかなった形で行え、と。

昨日死んだばかりの人間について、翌日、天皇自身が「この人は無罪だった」と公式に述べている。謀反人の妻として死んだのに、罪はないと言う。だったらなぜ死ななければならなかったのか。

この矛盾を朝廷は説明しない。説明しないまま、丁重に葬れとだけ命じる。処刑ではなく自尽という形をとらせたのも、遺体をきちんと葬らせたのも、後ろめたさの処理だったように見える。

そのあとの動きが、また落ち着かない。

二月十五日、全国の国司に勅が飛ぶ。三人以上が集まって何かを企むことがないようにせよ、という内容だ。要するに集会禁止令である。首謀者を片付けたはずなのに、地方の集まりを警戒している。

二月十七日には上毛野宿奈麻呂ら七人が流罪となり、九十人が放免された。連坐で捕まえた百人近くを、ほとんど処罰せずに帰している。二月十八日には石川石足が鈴鹿王の家に派遣され、長屋王一族で連坐すべき者は男女を問わずことごとく赦免する、と伝えた。鈴鹿王は長屋王の弟である。同じ日、百官がそろって大祓を行った。穢れを祓う儀式だ。

謀反を鎮圧した政権の動きとしては、明らかに腰が引けている。徹底的に根を絶やすどころか、八日目には関係者を全員許している。そして二月二十六日には、長屋王の生き残った兄弟姉妹や子どもたちに対して、位禄や季禄といった給与の支給が認められた。

潰した相手の家族に給料を出し直しているわけだ。朝廷は明らかに、この件を早く終わらせたがっていた。

密告から十一日後、二人の男に配られたもの

二月二十一日。密告した漆部造君足と中臣宮処東人に、恩賞が下りる。

二人とも無位から一気に外従五位下。それに加えて封戸三十戸と田十町。もう一人、漆部駒長という人物にも従七位下が与えられている。

外従五位下というのは、貴族の末端に手がかかる位だ。無位の一般人がここまで飛ぶのは異例中の異例で、しかも封戸三十戸というのは三十軒分の税を丸ごともらえる権利のこと。田十町は現代の面積でいえばおよそ十二ヘクタールに近い。

庶民が一生かけても届かない財産が、告発の対価として十一日で支払われた。

この恩賞の速さと大きさは、事件の性格をかなり雄弁に語っている。密告が本物で、本当に呪詛の証拠があったのなら、それを摘発した功績に報いるのは筋が通る。だが後の歴史が示すとおり、朝廷自身が最終的にこの告発を「誣告」と呼ぶことになる。

虚偽の告発に、国家が公式に報酬を払った記録が残ってしまっているわけだ。しかもこの報酬は取り消されない。中臣宮処東人はその後も官人としてキャリアを続け、右兵庫頭という、武器庫を預かるポストにまで進んでいる。

半年後、その席に座ったのは光明子だった

事件の年は、その年のうちに改元される。神亀六年は八月に天平元年になった。

そして天平元年の八月、藤原不比等の娘である安宿媛、つまり光明子が、聖武天皇の皇后に立てられた。

これは日本の歴史上、とんでもない前例だった。

それまで皇后になれるのは皇族の女性だけというのが、暗黙どころかほぼ絶対のルールだった。臣下の家から出た女性が皇后位に就いたのは、これが最初である。しかも皇后というのは単なる称号ではない。当時の制度では、皇后は天皇に事故があった場合の中継ぎとして即位する資格を持ちうる立場だった。藤原氏にとって、娘を夫人のままにしておくのと皇后にするのとでは、意味がまるで違う。

そしてこのルール変更に、理屈の上でいちばん強く反対できたはずの人物が、半年前に死んでいる。

長屋王は法制の番人みたいな仕事をしてきた人だった。実際、五年前の神亀元年にも似たことをやっている。

聖武天皇が母である藤原宮子に「大夫人」の称号を贈るという詔を出したとき、長屋王は公式令の規定を持ち出して待ったをかけた。令には「皇太夫人」と書いてある。先の勅に従えば「皇」の字が落ちる。令の条文に従えば違勅になる。どちらを取るべきか、と朝廷に問い直したのである。結果、詔は撤回に近い修正を受け、文書では皇太夫人、口頭では大御祖と称することになった。

この一件で恥をかいたのが、内臣として詔の起草に関わっていたとされる藤原房前だ。四子の次男である。

長屋王は法律論で正しかった。正しかったが、藤原の兄弟に「こいつは条文で殴ってくる」という印象を刻み込んだ。臣下出身の皇后という前代未聞の話を通そうとするとき、この男が生きていたら間違いなく令の条文を持ってくる。そう考えた人間がいたとしても、まったく不思議じゃない。

背景をもう一段掘ると、事情はさらに切迫している。

神亀四年、光明子は聖武天皇との間に男子を産んだ。基王である。この子は生後一か月ほどで皇太子に立てられた。異例の速さだった。ところが神亀五年九月、基王は満一歳になる前に死んでしまう。そして同じ頃、県犬養広刀自という別の夫人が安積親王を産んでいる。

光明子には男子がなく、他の夫人には男子がいる。この状況で藤原氏が取れる手は、光明子自身を皇后に押し上げて地位を確保することしかなかった。

長屋王が死んだのは、基王の死からわずか五か月後である。

正史が七十年後に、こっそり書き換えた一語

事件の一次史料は『続日本紀』だ。文武天皇元年から桓武天皇の延暦十年まで、九十五年間を扱った全四十巻の勅撰史書で、延暦十六年、七九七年に菅野真道らの手で完成した。長屋王の変から数えて六十八年後の編纂である。

この史書の面白いところは、事件を二度書いていることだ。

一度目は神亀六年の記事として、密告から自尽、恩賞までを淡々と時系列で記録する。ここでの筆致は完全に朝廷側で、長屋王は謀反の疑いをかけられて自ら死んだ人物として処理される。

ところが後半、天平十年の記事に至ると、朝廷の公式見解がひっくり返っている。中臣宮処東人のことを「長屋王を誣告せし人なり」と書いてしまうのだ。

誣告とは、事実無根の罪をでっち上げて訴えることである。

国が編纂した正史が、自分たちが六十八年前に下した処分の前提を「あれは嘘の告発でした」と認めている。同じ本の中で、前半の記述と後半の記述が食い違っている。

これはうっかりではなく、たぶん編纂時点でもう誰も長屋王の謀反を信じていなかったということだ。八世紀末の官人たちの間では、あれは冤罪だったというのが常識化していた。だから東人という男を説明するとき、自然に「誣告した人」と書いてしまう。

正史がここまで露骨に自己矛盾を残す例は珍しい。しかも消していない。編纂者たちが意図的に残したのか、単に整合性を取る発想がなかったのかは分からない。ただ結果として、日本の正史には「国家が冤罪だったと認めた最初期の大量粛清」の証拠が、削られないまま挟まっている。

碁盤を挟んで、九年分の何かが切れた

天平十年、七三八年。長屋王が死んでから九年目の話だ。

左兵庫少属の大伴宿禰子虫という男が、上司にあたる右兵庫頭の中臣宮処東人と、勤務の合間に碁を打っていた。

兵庫寮というのは武器を管理する役所で、二人はそこの同僚である。碁盤を挟んで、たぶん最初は雑談だったんだと思う。それが、どういう流れでか長屋王の話になった。『続日本紀』は「語、長屋王の事に及ぶ」と書く。

そこで子虫の何かが切れた。子虫は東人を罵り、そして刀を抜いて斬り殺した。

なぜ子虫が、と思うところだけれど、この男はもともと長屋王に仕えていた。

かつての主人を嘘の告発で殺した男が、九年後、同じ役所で自分の上役として碁を打っている。おそらく子虫は何年もそれに耐えていた。碁の相手をしながら、目の前の男が受け取った封戸三十戸と田十町のことを考えていたのかもしれない。そして長屋王の名前が出た瞬間に、耐えるための何かが折れた。

この事件で注目すべきは、『続日本紀』の書きぶりだ。

東人を「誣告せし人」と説明することで、この記事は暗に子虫の側に立っている。人を斬り殺した男についての記事なのに、正史の筆は殺した側に同情的な文脈を用意している。当時の人々がこの殺人事件をどう受け止めたかが、そこににじんでいる。

そして後世、この一件はしばしば「長屋王の祟りの一発目」として語られることになる。九年越しで密告者が非業の死を遂げた。碁盤の前で。あまりに物語的な決着だったせいで、これを偶然と受け取らなかった人が大勢いた。

天平九年、藤原の四兄弟が半年で全員消えた

祟りの話が本格的に始まるのは、その一年前だ。

天平七年ごろから大宰府あたりで発生した天然痘が、天平九年には都まで駆け上がってきた。当時の記録によれば、この流行で人口の四分の一から三分の一が死んだとも言われる、とんでもない規模の疫病である。

そして天平九年、四月十七日に藤原房前が死ぬ。七月十三日に藤原麻呂。七月二十五日に藤原武智麻呂。八月五日に藤原宇合。

四か月弱の間に、藤原四子が全員死んだ。長屋王を追い詰めた側の中心人物が、ひとり残らず消えたのである。

これを当時の人々がどう受け取ったかは、想像するまでもない。疫病の理由を説明する科学的な枠組みがない社会で、恨みを呑んで死んだ一族と、その加害者たちの全滅が、九年を挟んで並んでいる。因果として結ぶなという方が無理だ。都では長屋王の祟りだという噂が広まった。

朝廷の反応が、その噂が本気で共有されていた証拠になっている。

天平九年十月、聖武天皇は平城宮の南苑に出御して、長屋王の遺児たちを昇叙した。安宿王、黄文王、円方女王、紀女王、忍海部女王。生き残った子どもたちに位を上げてやった。

研究者の多くは、この措置を長屋王の霊を鎮めるための政策と見ている。国家として怨霊を認めたわけではないが、やっていることは完全に鎮魂である。そのあと聖武天皇は都をあちこちに動かし、国分寺を建て、最終的に東大寺の大仏を造る。あの大事業の背景に天平九年の恐怖があったことは、ほぼ疑いようがない。

坊さんの書いた本の中で、長屋王は完全な悪役になっている

ここで史料の話をもう一つ。『日本霊異記』である。

正式には『日本国現報善悪霊異記』といって、薬師寺の僧である景戒が編んだ日本最古の仏教説話集だ。成立は弘仁十三年、八二二年ごろとされる。上中下の三巻構成で、因果応報の実例を集めたカタログみたいな本である。

その中巻の第一縁が、長屋王の話だ。タイトルからして容赦がない。自分の高い徳を鼻にかけて、身分の低い沙弥を打ち、その結果としてこの世で悪い死に方をした話、という内容の題が付いている。

筋はこうだ。

元興寺で大規模な法会が催され、長屋王が施主として供養を取り仕切っていた。そこに一人の沙弥、つまり見習いの若い僧がいて、行儀が悪かった。汚い格好で列に割り込み、勝手に飯を受け取ろうとした。腹を立てた長屋王は、手にしていた牙笏、象牙の笏で、その沙弥の頭を打った。

沙弥の頭は割れて血が流れる。沙弥は血を拭いながら泣いて、その場から消えてしまった。集まっていた人々は、これは不吉だ、災いが起きると囁き合った。そしてその二日後、長屋王が謀反を企てていると讒言する者が現れ、王は毒を仰いで子や孫とともに死んだ、という展開になる。

この説話が凄まじいのは、その先だ。

朝廷は長屋王一族の遺体を焼き砕き、骨を川に流し、海に散らした。そのうえで王の骨は土佐国に流された。ところが土佐で百姓が次々に死ぬ。土佐の人々は「これは親王の気のせいです」と朝廷に訴え出た。祟りだ、と。そこで朝廷は骨を都に近づけ、紀伊国海部郡の椒という土地の、沖の島に移した、という話で終わる。

歴史的事実としては、長屋王と吉備内親王は生駒山に葬られたと『続日本紀』にある。だから骨を流したという部分はまず脚色だろう。

注目すべきは、八二二年の時点で、僧侶が書き留めるほど「長屋王の骨が祟る」という話が流通していたという事実だ。しかも書き手の景戒はこの話を仏罰譚として扱っている。長屋王は僧を打った罰で死んだ、という筋立てである。

つまり九世紀の仏教界には、長屋王を悪人として処理したい動機があった。冤罪の被害者ではなく、傲慢の報いを受けた男として。ここには、あの事件を消化しきれなかった社会が、無理やり納得できる物語を作った跡が残っている。

なお同じ話は後に『今昔物語集』巻二十の第二十七話にも取り込まれ、長屋王の怨霊の話として再流通した。

万葉集と懐風藻に残った、生きている長屋王

一方で、生前の長屋王がどんな人だったかを伝える史料もある。『万葉集』だ。

長屋王自身の歌が四首から五首、巻一の七十五番、巻三の二百六十八番、巻四の三百番と三百一番、それに巻八の千五百十七番あたりが知られている。

宇治間山の朝風は寒い、旅先で衣を貸してくれる妻もいないのに、と詠んだ歌。佐保を過ぎて奈良の手向けに置く幣は、妻に絶えず逢わせてくれよという願いだ、と詠んだ歌。岩根のごつごつした山を越えかねて声を上げて泣いたとしても、顔色には出すまい、という歌。味酒の三輪、祝の山を照らす秋の黄葉が散ってしまうのが惜しい、という歌。

それ以上に効いてくるのが、長屋王の邸が当時の文化サロンだったという事実だ。

佐保にあった別邸は「作宝楼」と呼ばれ、そこで詩宴が開かれた。『懐風藻』には、その宴で作られた漢詩が収められている。新羅からの使節を迎えての詩宴もあり、長屋王自身の漢詩も残る。『懐風藻』が伝える享年は五十四で、これを逆算すると生年は六七六年になる。だから長屋王の生年には六七六年説と六八四年説の二つがあって、『懐風藻』を信じる六七六年説のほうが有力とされている。

長屋王は仏教の外護者としても知られていた。

唐に千枚の袈裟を送り、その袈裟の縁に「山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁」という句を刺繍させたという話が伝わる。山や川で隔てられていても風と月は同じ空の下にある、という意味のこの一節が、鑑真の心を動かして日本行きを決意させたと『唐大和上東征伝』は語る。

事実かどうかはさておき、そういう逸話が生まれる程度には、長屋王は国際的な文化人として認識されていた。『日本霊異記』が描く傲慢な暴君像と、この人物像は、まるで別人だ。

そして一九八六年、デパートの穴からゴミが出てきた

ここから話が近代に飛ぶ。舞台は昭和末期の奈良である。

平城宮跡のすぐ南東、二条大路南のあたりに、大規模な商業施設の建設計画が持ち上がった。そごうの奈良店である。場所が場所なので、着工前に発掘調査が入った。奈良国立文化財研究所、現在の奈良文化財研究所による調査が、昭和六十一年、一九八六年から始まる。

そして一九八八年、調査区の一角から、大量の木簡が出てきた。

出土したのは左京三条二坊八坪の東南隅にあった、南北にのびる溝状の大きな穴である。要するにゴミ捨て穴だ。木簡というのは木の札に墨で字を書いた文書で、当時の役所や家政機関の伝票や荷札にあたる。用が済めば削って再利用し、最後は捨てる。だから木簡が大量に出る場所は、たいていゴミ穴か水路である。

その穴から出た木簡が、およそ三万五千点。

さらに同じ発掘の別の地点、二条大路にあたる場所の溝状土坑からは、七万四千点前後の木簡が出た。こちらは二条大路木簡と呼ばれる。合わせると十一万点規模になる。

これがどれくらい異常な数字かというと、この発見以前、平城宮から出ていた木簡は約三万三千点、全国の平城宮以外の遺跡から出ていた木簡の総計が約三万二千点だった。つまりこの一回の調査で、それまで日本中で見つかっていた木簡の総量を、軽く上回る量が出てきたのである。

決定打になったのが、一枚の荷札だった。「長屋親王宮鮑大贄十編」と読める。長屋親王の宮に納める鮑の贄が十編、という意味だ。この一枚で、この屋敷の主が特定された。一九八九年一月十二日、この邸宅跡が長屋王邸であると発表されている。

ちなみに「親王」という表記が、これまた研究者を悩ませた。

長屋王は天皇の孫であって子ではないから、律令の規定では親王ではなく王のはずである。それなのに家の荷札には親王と書かれている。制度上の呼称と、現場で実際に使われていた呼称にズレがあったのか、あるいは高市皇子の家系が特別扱いされていたのか。この一語をめぐる議論は今も続いている。

氷、鶴、犬、そして若翁――木簡が復元した邸宅の一日

木簡の何がすごいって、正史が絶対に書かない種類の情報が出てくることだ。

まず氷。

長屋王家の木簡には、氷室から氷を運んだ記録が残っている。当時、大和の山中には天然の氷を冬に切り出して夏まで貯蔵しておく氷室があり、都祁の氷室が知られていた。長屋王家はそこから氷を取り寄せていた。

奈良時代の夏、平城京の貴族の屋敷で、山から運ばれてきた氷が使われていた。その氷が何日に、どれだけ届いたかという伝票が、千二百年以上たってゴミ穴から出てきているわけだ。

次に動物。

木簡には犬に米を支給した記録がある。この犬が何のための犬だったのかは論争になっていて、鷹狩に使う猟犬という説と、食用だったという説の両方がある。当時の日本で犬食があったことは確かなので、どちらも捨てきれない。

ほかに鶴の飼育記録もある。屋敷で鶴を飼って餌を与えていた。鶴は瑞鳥だから観賞用だろう。馬もいる。厩があり、馬に飼料を与える伝票が出る。

犬と鶴と馬が同じ敷地内で暮らし、それぞれの餌の量が木札に記録されていた邸宅、というのが長屋王邸の実像である。

食べ物の記録も豊富だ。若狭や志摩から届いた鮑や海藻の荷札、各地から入ってくる米や塩や果物。地方から都へ運ばれる調庸物の荷札が屋敷に大量にあるということは、それだけの物資が個人の家に直接流れ込んでいたということでもある。研究者が長屋王の年収を試算すると現代の貨幣感覚で数億円規模になる、という話が出てくるのはこのあたりが根拠だ。

家政機関の姿もはっきり見える。

屋敷の中には政所という統括部署があり、その下に食事を作る部門、車や馬を管理する部門、工房まであった。文書を作り、帳簿をつけ、伝票を回す。ミニチュアの役所が家の中に入っている。

象徴的なのは、朝廷の雅楽寮から「長屋王家令所」宛てに舞人の派遣を依頼した文書木簡が出ていることだ。しかもそれが「移」という、対等な官司同士でやり取りする正式な公文書の書式で書かれている。国家の役所が、一人の貴族の家の事務局に、公文書を出している。長屋王家が半ば公的な機関として機能していたことが分かる。

そして人の名前。

木簡には無位無官の人々の名前が大量に出てくる。米を受け取った者、物を運んだ者、当直に入った者。正史には一行も出てこない人たちだ。

中でも研究者を惹きつけたのが「若翁」という語で、これは長屋王の子どもたちを指す呼称と考えられている。若翁のために何かを支給した、という伝票が残っている。二月十二日に自ら死んだ膳夫王たちの、幼い日の食事の記録が、ゴミ穴から出てきたのだと考えると、少しきつい。

年紀のある木簡を並べると、和銅三年八月から霊亀二年十二月あたりに集中する。七一〇年代、長屋王がまだ大納言になる前後の時期だ。事件の十数年前の、何ごともない日常が、そのまま冷凍保存されて出てきた形になる。二〇二〇年九月三十日には、この木簡群のうち千六百六十九点が国の重要文化財に指定された。

「これを残さなければ何を残すのか」という叫び

ただし、この発掘は幸福な話としては終わらなかった。

遺構は保存されなかったからだ。

調査が終わると記録保存という扱いになり、その上にデパートが建った。当時、保存を求める声はあった。建設への反対も出た。それでも計画は進み、一九八九年十月、奈良そごうが開業する。長屋王邸の遺構は、日本史上まれに見る一級の遺跡でありながら、地面ごと消えた。

考古学の側の悔しさは、後年になっても消えていない。早稲田大学の谷川章雄氏は、この遺跡について「これを残さなければ何を残すのかというレベルの遺跡」だと語り、失われたことを痛恨の極みだと表現している。バブル期の開発と文化財保護がぶつかった典型例として、この件は今も繰り返し引かれる。

奈良文化財研究所の側からは、また別の危機感が出ている。

長屋王家木簡の整理と解読に携わってきた研究者が、この木簡群の重要性が過小評価されがちだ、と書いている。二条大路木簡が公的機関に関わる「広く浅い」史料群であるのに対して、長屋王家木簡は個人の家政に限定された「狭く深い」史料群である。だからこそ、一人の貴族の家がどう回っていたかを、これほど解像度高く見せてくれる史料はほかにない。にもかかわらず、点数の多い二条大路木簡のほうに注目が集まりがちだ、という指摘である。

発見から三十年以上が経ってなお、読み切れていない削り屑が大量に残っているとも言われる。

もうひとつ、現場に立ってみると分かる話がある。

現在、この場所には商業施設が建っていて、店内に長屋王関連の展示は基本的にない。敷地の外周、国道三六九号沿いに説明板があり、北東の角にも小さな案内図がある。敷地内には長屋王家木簡の発掘についての説明図が置かれている。そして駐車場の片隅に、長屋王を祀った祠と、柱跡の表示がある。

日本史の教科書に載る事件の現場が、駐車場の隅にある小さな祠として存在している。すぐ近くには平城京左京三条二坊宮跡庭園が復元整備されていて、そちらは静かな庭になっている。

八百五十億円の百貨店と、開業前夜に建てられた祠

さて、祟りの話に戻ろう。

奈良そごうは、バブル期の投資として見ても飛び抜けていた。初期投資は約八百五十億円。初年度の売上目標が三百五十億円だったというから、投資回収の絵としてかなり苦しい。

しかも立地が問題だった。近鉄奈良駅からも、JR奈良駅からも遠い。徒歩で二十分近くかかる。周囲にはならファミリーがあり、少し足を伸ばせばイオンモールが複数ある。奈良という都市の商圏規模に対して、百貨店として大きすぎた。

そして開業直前の一九八九年九月二十七日、敷地内に長屋王の霊を鎮めるための祠が建てられている。

開業は同年十月。つまり、店を開ける二週間前に、そごうは自前で鎮魂の祠を作っている。これは事実として記録されている。祟りを信じていたかどうかは分からないが、少なくとも「何もしないで開けるわけにはいかない」という空気が現場にあったことは確かだ。

奈良そごうは二〇〇〇年に幕を閉じた。そごうグループそのものが経営破綻し、再建計画の中で切り捨てられた。ほとんどの売場が二〇〇〇年十二月二十五日に閉店、食品売場が同月三十一日で終了している。開業から十一年だった。

跡地には二〇〇三年七月十日、イトーヨーカドー奈良店が入る。こちらは十四年もった。だが二〇一七年三月八日に閉店が発表され、同年九月十日に営業を終えた。二〇一八年四月からは「ミ・ナーラ」という観光型の複合商業施設として再スタートしている。屋上にビーチを作ったり、シャトルバスを走らせたり、百貨店の発想では出てこない打ち手を重ねて、今も営業を続けている。

ネットが見つけた「長屋王の呪い」と、地元の冷めた反応

二〇一七年三月、イトーヨーカドー閉店のニュースが流れた瞬間、ネット上で一斉に同じ単語が出た。長屋王の呪い、である。

「えええええ、長屋王の祟りじゃ」「長屋王の呪いで閉店とか」「あの地は呪われてるのかも」「やはり歴史的遺跡を潰したらそれなりのアレがあるんですよ」。この手の反応が広まって、報道機関が記事にする段階まで行った。ジェイキャストニュースは二〇一七年三月十二日にこの現象を記事化し、Jタウンネットも二〇一八年に「奈良県民が気になる長屋王の呪い」という切り口で取り上げている。

面白いのは、地元奈良の反応が意外と冷めていることだ。

奈良のローカル情報を発信しているアカウントは、そごうとヨーカドーが十数年で次々閉店した経緯を紹介したうえで、こう書いている。長屋王邸跡にあるので長屋王の呪いとよく言われるが、単純に立地が悪いだけであって、長屋王のせいにしてはいけない、と。

地元の人ほど、あの場所の行きづらさを身体で知っているから、超自然的な説明にすがる必要がない。ツイッター上でも「この場所メチャ行きづらいから」という身も蓋もない指摘が並んだ。

歴史クラスタからは、もっと踏み込んだツッコミも出ている。

長屋王の変のあと、あの邸宅に入居したのは光明皇后だという説があるのだ。二条大路木簡の分析から、あの一帯が事件後に皇后宮職や藤原麻呂の関係施設として使われていた痕跡が見つかっている。だとすれば、あの土地は長屋王のものであった期間より、その後に別の主が使った期間のほうが長い。長屋王が土地に縛りつけられている前提そのものが怪しい、という指摘である。

一方で、施設側は施設側で現実的に対応している。毎日放送の取材に対して、施設関係者が「供養は毎日やります」と答えている。祠は今も駐車場の隅にあって、手入れされている。信じているかいないかとは別に、供養は続けるという判断だ。

千三百年前の政変が、令和のショッピングモールの日課に組み込まれているという、なかなか他にない状況になっている。

犯人候補を、一人ずつ並べてみる

ここまでの材料をもとに、この事件について立てられてきた説を一つずつ見ていく。

藤原氏陰謀説というのが、いちばん古典的で、いちばん人気がある。動機、機会、利益がきれいに揃っているからだ。

動機は皇親勢力の排除。長屋王が生きている限り、天武と天智の血を両方引く一家が朝廷の頂点に居座り続ける。機会は密告という装置。無位の人間を使えば、藤原氏の名前は表に出ない。利益は明白で、事件後に武智麻呂が大納言に昇り、政権は藤原四子体制に移行した。

歴史学者の岸俊男は、大夫人称号問題で長屋王に法的な反論を食らった経験から、藤原氏が光明子立后でも同じ抵抗を受けると読んだ、という筋で説明している。

この説の弱点は物証がないことだ。藤原氏が密告者を使嗾したという記録は一行もない。状況証拠だけで組み立てられた説である。ただ、状況証拠が濃すぎるという点で、千三百年間まったく人気が落ちていない。

光明子立后がらみ説は、藤原氏陰謀説の焦点を絞ったバージョンだ。

事件の半年後に前例のない立后が実現していること、その直前に基王が死んで藤原氏の皇位継承カードが消えていること、そして長屋王が制度論の専門家だったこと。この三つを並べると、立后を通すための障害物除去だったという読み筋が浮かび上がる。実際、長屋王が立后に反対した記録も残っていない。反対する前に死んでいるからだ。この説を採るなら、事件のタイミングそのものが最大の証拠ということになる。

聖武天皇主犯説というのもあって、これはなかなか刺激的だ。

歴史学者の河内祥輔は、聖武天皇自身の意思を重視する。聖武は文武天皇と藤原宮子の子で、母方が臣下の出である。血統の純度でいえば、長屋王と吉備内親王の一家に明らかに劣る。しかも二人の間に生まれた膳夫王たちは、元明天皇の詔で皇孫扱いされていた。自分より血の濃い一家が同じ都にいるという状況は、皇位継承の安定にとって現実的な脅威になる。だから聖武は自らの皇統を守るために、あの一家を消す必要があった、という解釈だ。

二月十三日に天皇自身が吉備内親王の無罪を宣言している奇妙さも、この説なら「殺したが、殺したくて殺したのではない」という心理として読める。

実際に呪詛していた説も、一応ある。

左道という告発が完全な作り話ではなく、何らかの実態があった可能性を考える立場だ。当時の貴族社会で呪術的な行為が行われていたこと自体は珍しくない。基王が生後一年たたずに死んだ直後という時期を考えれば、長屋王の側に何かを念じる動機がなかったとは言い切れない。

ただしこの説は決定的に弱い。もし本当に呪詛の証拠が押さえられていたなら、朝廷は堂々と処刑して記録に残せばよかった。実際にやったのは、自尽させ、翌日に妻の無罪を宣言し、八日後に連坐者を全員赦免し、十六日後には遺族に給料を戻すという、腰の引けきった処理である。証拠があった側の振る舞いではない。

密告冤罪説は、もはや説というより通説だ。

決め手は『続日本紀』自身が中臣宮処東人を「誣告せし人」と書いていることに尽きる。国家が編纂した正史が、自分の下した処分を否定している。ここまで露骨な自己申告はなかなかない。さらに事件後の朝廷の動きが、赦免と鎮魂に傾き続けていることも傍証になる。八世紀の後半には、長屋王が無実だったという認識が官人社会に定着していたと考えていい。

東人殺害と祟り説は、天平十年の碁盤の一件を超常的な因果として読む立場である。

密告者が九年後に、かつての長屋王の家臣に斬られた。しかも役所の中で、碁を打ちながら、長屋王の話題が出た瞬間に。物語として出来すぎている。当時の人がこれを祟りと受け取ったのはよく分かる。ただ、大伴子虫という具体的な人間が、具体的な恨みを抱えて、具体的に刀を抜いた事件でもある。祟りというより、九年かけて熟成した人間の憎悪の話として読むほうが、たぶん怖い。

天然痘イコール祟り説は、当時いちばん広く信じられた解釈だ。

天平九年に藤原四子が四か月で全滅した。この事実の破壊力は絶大で、朝廷が公式に遺児を昇叙して鎮魂に動くところまで行った。現代の目で見れば、都に住み、宮中に出仕し、多くの人と接する高位の官人ほど感染リスクが高かっただけの話である。四兄弟が全員死んだのは、四人とも同じ環境で同じ流行に晒されていたからだ。

とはいえ、疫学の概念がない社会でこの事実を突きつけられたら、祟り以外の説明を探すほうが難しい。奈良時代の宗教政策が大きく動いたのは、この恐怖が原動力だった。

そしてそごう倒産イコール祟り説。これは完全に現代の都市伝説だが、成立の構造が面白い。

長屋王という「無実で殺された怨霊」の物語がすでに完成していて、そこに「遺跡を潰した」という現代的な罪悪感が加わり、さらに「実際に潰れた」という結果が乗った。三点が揃うと物語は自動的に走り出す。

だが検証してみると、そごうの破綻はグループ全体の経営破綻であって奈良店だけの話ではないし、八百五十億円の初期投資と徒歩二十分の立地という条件は、呪いを持ち出さなくても十分に致命的だ。地元の人ほどこの説に冷淡なのは、そういう現実を毎日見ているからだろう。

平群の丘の上と、和歌山の海辺にある「もうひとつの墓」

長屋王の墓とされる場所は、奈良県生駒郡平群町梨本にある。

宮内庁が治定した長屋王墓で、住所でいえば梨本字前七五八番地。直径十五メートル、高さ一・五メートルほどの円墳状の塚で、今は方形の石垣と生垣に囲まれ、南に参道が付いている。治定されたのは明治三十四年で、大正二年に宮内庁の手で整備された。現在も、王の命日にあたる三月二十日前後に長屋王正辰祭が営まれている。

その北西百五十メートルほど、丘陵斜面の中段に吉備内親王墓がある。こちらは梨本字前七七三番地、直径二十メートル、高さ二メートルほど。同じく明治三十四年の治定である。江戸中期の地誌『大和志』には「双墓 梨本村にあり」と記されていて、この二つの塚が夫妻の墓とされてきた歴史はそれなりに古い。

ただ、考古学的にはややこしい事情がある。

長屋王墓の直下には、削平された前方後円墳が埋まっていることが確認されている。梨本南二号墳と呼ばれる全長四十五メートルほどの古墳で、築造は六世紀前半。長屋王が死ぬより二百年近く古い。つまり明治の治定は、奈良時代の墓の上ではなく、古墳時代の墓の上に行われた可能性がある。

吉備内親王墓のほうも、明治二十六年の調査で墳丘に埴輪の破片が多く見られたと記録されている。埴輪が出るということは、これも古墳時代の遺構だ。生駒山に葬られたという『続日本紀』の記述と、平群のこの場所が一致するかどうかは、実はまだ確定していない。

さらに、まったく別の場所にも長屋王の墓がある。

和歌山県有田市初島町の椒古墳だ。これは『日本霊異記』の説話に出てくる、骨を移したという紀伊国海部郡の椒の地にあたる。明治四十一年に発見された古墳時代後期初頭の古墳で、時代はまるで合わない。それでも地元では「長屋王霊跡之碑」が建てられ、信仰の対象になってきた。説話が土地に根を張って、実際の祭祀の場を生んでしまった例である。

奈良の平群に治定された墓と、和歌山の海辺に伝えられた墓。片方は明治政府が公式に決めたもので、片方は九世紀の説話から生えたもの。どちらも本物である保証はない。

長屋王という人は、死んだ場所は分かっているのに、眠っている場所だけが確定しないままになっている。

なぜこの事件だけが、千三百年語られ続けるのか

日本史には冤罪と粛清が山ほどある。それでも長屋王の変が特別扱いされるのには、いくつか具体的な理由がある。

第一に、国家が自分で認めてしまったことだ。

『続日本紀』が「誣告」と書いた瞬間、この事件は「疑わしい」から「確定的に冤罪」に格上げされた。しかも認めたのは反対派の史書ではなく、朝廷自身が編んだ正史である。他の事件なら、無実だったのではないかという議論の余地が残る。この事件には残らない。

第二に、加害者側が全滅していることだ。

物語の構造として、これほど整っているケースは珍しい。密告した男が斬られ、追い落とした四兄弟が疫病で消え、殺した側の政権が崩れる。歴史がわざわざ因果応報の形に整形されたみたいになっている。人間はこの形を見ると、必ず祟りという言葉を使いたくなる。

第三に、被害者が一族丸ごとだったことだ。

長屋王ひとりが死んだのではない。妻と、四人の子どもが同じ日に死んでいる。しかもそのうちの妻については、翌日に天皇が無罪を宣言している。無罪の人間が死ななければならなかった理由を、国家は今日に至るまで説明していない。

第四に、これが決定的なんだけれど、被害者の生活が具体的に出土してしまったことだ。

ふつう、古代の粛清事件は名前と日付でしかない。長屋王の変には、氷の伝票がある。犬の餌の記録がある。鶴を飼っていた記録がある。子どもたちのための支給を示す木札がある。

ゴミ穴から出た十一万点の木簡が、抽象的な「左大臣」を、夏に氷を取り寄せて犬に飯をやっていた具体的な生活者に変えてしまった。生活が見えると、その生活が断ち切られたことの意味も変わる。二月十二日に終わったのは政治生命ではなく、あの屋敷で毎日回っていた米と氷と餌の循環そのものだった、と分かってしまう。

そして第五に、現場が生きていることだ。

遺跡は消えたが、その上には今も店がある。人が買い物をして、駐車場に車を停める。その片隅に祠がある。店が入れ替わるたびに、この事件の名前がSNSで呼び出される。

史跡として保存された遺跡は、静かに時間から切り離されていく。保存されなかったこの場所だけが、商業施設の栄枯盛衰という現代的な時計に接続されたまま、事件を更新し続けている。皮肉な話だが、遺構が消されたからこそ、長屋王は今も現役なのだ。

十七日間の日程表に、政変の設計図が残っている

ここからは、事件全体をもう一段引いた場所から見直してみたい。

まず、この政変の時間の使い方について考えたい。

密告が二月十日。糾問が十一日。自尽が十二日。埋葬が十三日。集会禁止令が十五日。流罪と放免が十七日。全面赦免が十八日。恩賞が二十一日。遺族への支給復活が二十六日。

この十七日間の中に、告発、軍事包囲、取り調べ、一族の死、埋葬、統制強化、そして全面的な巻き戻しまでが全部詰まっている。

異常なのは加速と減速の落差だ。三日で殺すところまでは猛烈に速い。ところがその直後から、朝廷は逆方向にブレーキを踏み始める。八日目には連坐者を全員許し、十六日目には遺族に給料を戻している。

もし本当に国家転覆を企てた大逆事件なら、こんな処理は絶対にありえない。大逆罪の連坐は容赦がないのが律令の建前で、実際に後世の政変では一族が徹底的に排除されている。

ここで起きたのは、目的を達成した瞬間に幕引きを急いだ、という動きだ。目的が長屋王本人と吉備内親王系の子の除去だけだったなら、この加減速はきれいに説明がつく。それ以外の人間を潰す必要はなかった。むしろ潰すと反発を招くから、急いで許した。政変の設計図が、日程表の形で残ってしまっている。

なぜ密告者は「無位」でなければならなかったのか

次に、密告者の選ばれ方について。

漆部造君足と中臣宮処東人は、どちらも無位である。ここが妙に手が込んでいると思う。

もし高位の官人が長屋王を告発したら、それは政争として記録に残る。誰が誰を落としたか、後世から丸見えになる。無位の人間が告発すれば、政争の構図は表面に出ない。天の声のように、どこからともなく告発が湧いてくる形になる。

しかも無位の人間には、告発に失敗したときに失うものがない。うまくいけば外従五位下と封戸三十戸。この非対称な賭けを、失うもののない人間に持ちかけるのは、権力の使い方として非常に古典的だ。

ついでに言うと、恩賞が下りたのが密告から十一日後というのも、速すぎる。告発の真偽を検証した形跡がまるでない。長屋王が死んだ、だから告発は正しかった、だから褒美を出す、という順序である。結果が原因を証明する構造になっていて、これは論理としては完全に破綻している。

中臣宮処という氏族名についても、少し触れておきたい。

中臣は言うまでもなく神祇を司る一族で、藤原氏の本流もここから出ている。宮処というのは支族を示す名だ。もちろん中臣を名乗る氏族はたくさんいて、東人が藤原氏と直接つながっていたという証拠はない。

ただ、神祇に関わる系譜の男が「左道」つまり邪法の告発をしたという構図は、当時の人の目にはそれなりに説得力を持って映ったはずだ。呪術の正邪を判定する立場に近い家の人間が言うのだから、というわけである。告発の中身が検証不可能だからこそ、告発者の肩書きが効いてくる。この人選が偶然だったのか計算だったのかは分からないが、少なくとも機能はしていた。

屋敷は「家」であると同時に、半独立の行政機構だった

木簡の話を、もう少し違う角度から掘りたい。

長屋王家木簡が語る屋敷は、ものすごく忙しい。

政所という統括部門があって、そこから各部署に指示が飛び、物が動くたびに木札が起票される。米が出れば伝票、氷が届けば伝票、犬に餌をやれば伝票。この徹底した文書主義は、朝廷の官司をそのまま縮小コピーしたものだ。

当時の高級貴族の家というのは、私的な住居であると同時に、行政組織の一種だった。だから雅楽寮が「移」という官司間の正式文書で舞人の派遣を頼んでくる。国家の役所が、私邸の事務局を対等な相手として扱っている。

この事実は、長屋王という人物の危険性を別の角度から照らし出す。彼は左大臣であると同時に、独自の行政機構と数百人の人員と全国からの物流ルートを持つ、半独立の権力体の主だった。藤原氏から見て、この家がそのまま存続することの意味は、単に政敵がひとりいるという話ではなかった。

削り屑という存在も面白い。

木簡は再利用のために表面を削るので、削った屑が大量に出る。長屋王家木簡はこの削り屑の保存状態が良く、そこに書かれていた文字の痕跡が読める。つまり、捨てるつもりで消した文字が読めてしまっている。

誰かが不要と判断して削り落とした情報を、千二百年後に他人が拾って読んでいるわけだ。木簡研究というのはそういう作業で、正史が選んで書いた情報ではなく、誰も残そうと思わなかった情報を扱う。

だから長屋王の変について、事件そのものは正史しか語らないのに、事件の前の日常だけは異様に解像度が高い、という妙なバランスが生まれる。人物の輪郭が、政治の側からではなく台所の側から復元されている。

祟りは「無知な民衆の迷信」ではなかった

天平九年の疫病についても、もう一歩踏み込んでおきたい。

あの年に死んだのは藤原四子だけではない。参議以上の高官がごっそり倒れ、朝廷の意思決定機構は事実上崩壊した。人口の三分の一近くが失われたという推定もある。

この規模の災厄が来たとき、社会は必ず原因を求める。そして当時の人が手にしていた説明の道具は、仏教の因果と、在来の祟りの観念だった。長屋王という、直前に無実で死んだ高貴な人間が、あまりにも都合よくその枠にはまってしまった。

見落とされがちだが、祟り説は「無知な民衆の迷信」ではなかった。朝廷が遺児を昇叙して鎮魂の姿勢を見せているのだから、上のほうも同じ枠組みで考えていた。国家が公式に怨霊対策を打った初期の例のひとつが、この事件である。

この延長線上に、平安京の御霊信仰も、菅原道真も、崇徳院も並んでいる。日本の怨霊文化の系譜をたどると、かなり上流にこの一家がいる。

『日本霊異記』の扱い方についても、考えるべきことがある。

景戒はこの話を仏罰譚として書いた。長屋王は沙弥を打ったから罰を受けた、という構図だ。冤罪の被害者ではなく、傲慢の報いを受けた加害者として描いている。これは仏教説話集としては筋が通っているが、事件の記憶としてはかなり歪んでいる。

なぜこんな歪み方をしたのか。ひとつの読み方は、そうしないと処理できなかったのだろう、というものだ。

無実の人間が国家に殺され、その報いで加害者側が全滅する、という物語は、因果としては成立するが、国家を悪として名指しすることになる。九世紀の僧侶がそれを堂々と書くのは難しい。だから因果の起点を、政治ではなく個人の徳の欠如にずらした。長屋王が悪いことをしたから死んだ、という形にすれば、朝廷を責めずに済む。しかも骨が祟るという話は残せる。

処理のうまさというより、当時の人が抱えた居心地の悪さの現れだと思う。同じ話が『今昔物語集』に取り込まれて再流通したことで、この歪んだ長屋王像は中世まで生き延びた。

呪いを持ち出さなくても、方程式は解ける

そして現代の話。長屋王の呪いという都市伝説について、僕はこれを笑い飛ばすつもりも、真に受けるつもりもない。

ただ、この伝説がどうやって成立したかは、かなりはっきりしている。素材は三つだ。

ひとつ目は、すでに完成していた冤罪と祟りの物語。正史が誣告と認め、藤原四子が全滅した時点で、この物語は千三百年前に完成している。

ふたつ目は、遺跡を壊したという現代的な負い目。あの発掘は考古学史に残る発見で、保存を求める声もあった。それを押し切って建てたという事実は、地元の記憶に残っている。

みっつ目は、実際に潰れたという結果。予言が当たったように見える結果だけが、都市伝説には必要だ。

この三つが揃うと、物語は自走する。

だが冷静に見れば、そごう奈良店の失敗はグループ全体の破綻の一部であって、この店だけの現象ではない。八百五十億円の投資に対して初年度目標が三百五十億円という計画は、バブル期の百貨店投資としても攻めすぎている。駅から徒歩二十分という立地条件は、百貨店にとって致命傷に近い。周囲には強い競合が複数ある。呪いという変数を入れなくても、方程式は解ける。

奈良のローカル情報を発信している人が「長屋王のせいにしてはいけません」と書いたのは、たぶん地元愛と、事実へのフェアネスの両方からだろう。

それでも、施設の関係者が「供養は毎日やります」と答え、駐車場の隅の祠が手入れされ続けているという事実には、別の意味がある。

あれは呪いへの対策というより、たぶん礼儀の問題だ。人が死んだ場所の上で商売をしている、という自覚の表明である。信じるか信じないかではなく、そこに手を合わせる人がいるかどうか。千三百年前に一家六人が死んだ土地の上でレジを打つとき、何もしないでいるのは落ち着かない。その感覚は迷信とは別のものだと思う。

ルールを一番よく知っていた男が、ルールの中で一番早く殺された

最後に、この事件をどう位置づけるかという話をしたい。

長屋王の変は、日本の国家が律令という新しい仕組みを手に入れた直後に起きた。律令は本来、権力の恣意を条文で縛るための装置である。長屋王自身、大夫人称号問題で条文を武器にして天皇の詔を修正させた。それができる時代が、たしかに一瞬あった。

ところがその同じ律令体制が、検証不可能な告発を受理し、三日で一族を死なせ、十一日で密告者に恩賞を出した。制度は権力を縛らなかった。むしろ、密告と恩賞と連坐という部品を提供して、粛清を効率化した。

そこがこの事件の一番怖いところだと思う。

ルールを整備すれば恣意がなくなるわけではない。ルールを一番よく知っていた男が、そのルールの中で一番早く殺された。しかも殺した側も、六十八年後には自分の史書に「あれは誣告だった」と書いてしまう。

誰も長い目では得をしていない。藤原四子は八年後に全滅し、聖武天皇は残りの人生を鎮魂と造寺に費やし、平城京は数十年後に捨てられる。

そして千二百六十年後、その屋敷のゴミ穴から十一万点の木札が出てきた。氷の伝票、犬の餌の記録、鶴を飼っていた痕跡、子どもたちのための支給。

歴史がどれだけ乱暴に人を消しても、その人が夏に何を食べていたかまでは消せなかった。長屋王の変が語り継がれる理由を一つだけ挙げるとしたら、僕はそこを挙げたい。

あの穴から出てきたのは、無実の証明でも祟りの証拠でもなく、ただの生活の記録だった。だからこそ効く。二月十二日に断ち切られたものの中身が、伝票の束として目の前に並んでいるのだから。

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