西暦108年を最後に、記録がぷつりと切れる軍団がある。約五千人の重装歩兵。ローマ軍団の中でも古参中の古参。それがある日を境に、石にも、パピルスにも、軍の名簿にも、二度と出てこなくなる。
解散命令の記録もない。全滅を悼む記述もない。皇帝の演説にも出てこない。ただ、消える。この「ただ消える」というのが、二千年近く人間を落ち着かなくさせてきた。今回はその話をする。
## 石にはこう刻まれている――西暦108年、ヨーク
1864年、イングランド北部の街ヨークで、一枚の石板が地面から出てきた。ラテン語の碑文だ。トラヤヌス帝の称号と在位年が並び、そのあとに「第九軍団ヒスパナの手によってこの門を造った」という意味の文言が続く。年代は西暦108年に絞り込める。現在はヨークシャー博物館に収まっていて、誰でも見に行ける。
この石が、第九軍団ヒスパナという部隊が「確実に存在していた」最後の瞬間なんだよな。もっと正確に言えば、ブリタニア島で確実に存在が証明できる最後の証拠だ。門を造っている。つまり平時の建設作業をしている。壊滅寸前の部隊が門を建てるわけがない。108年の時点で、この軍団はぴんぴんしていた。
そして、そこから先が真っ白になる。石も出てこない。将校の墓碑もない。皇帝の勅令にも出てこない。ローマという、あの記録魔の帝国が、五千人規模の正規軍団ひとつをまるごと書き忘れる。ありえないだろ、と思うだろ。俺も思う。でも実際そうなっている。
さらに気持ち悪いのはこの先だ。二世紀の終わり、セプティミウス・セウェルス帝の時代に作られた「現存する全軍団のリスト」が二つ残っている。ひとつはローマの円柱に刻まれた石の目録、もうひとつは歴史家カッシウス・ディオが書き残した一覧。どちらも三十三個軍団を挙げていて、どちらにも第九軍団ヒスパナの名前はない。つまり120年ごろから197年ごろまでのどこかで、この部隊は帝国の帳簿から静かに削除された。それだけが確定事実だ。
## そもそも第九軍団ってどういう部隊だったのか
ぽっと出の弱小部隊が消えたなら、まあそういうこともあるかで済む。だが第九軍団は違う。ローマ軍の中でも指折りの名門なんだ。
起源はカエサルまで遡る。紀元前58年より前、ガリア遠征に出るカエサルが編成した部隊のひとつとされる。ルビコン川を渡った軍勢の中にいた。ファルサロスの戦いでポンペイウスと殴り合い、アフリカ戦役でも戦った。カエサルが死んだあとはオクタウィアヌス側につき、セクストゥス・ポンペイウス相手の海戦を戦い、アクティウムの海戦にも参加した。共和政ローマが帝政に化ける、その全過程に立ち会っている部隊だ。
「ヒスパナ」という添え名は、スペイン方面での戦功に由来すると考えられている。帝政が固まると北ヒスパニアに送られ、山岳民カンタブリア人の鎮圧に投入された。この時期の従軍が、部隊の呼び名として定着したという説が有力だ。
そして西暦43年。クラウディウス帝がブリタニア侵攻を決める。第九軍団はその侵攻軍の一角として、ドーバー海峡を渡った。ここから、この部隊の運命はブリテン島に縛りつけられる。イングランド東部を北上し、リンカーンに拠点を築き、やがて65年ごろヨーク――当時の呼び名でエボラクム――へ移る。71年の時点で、およそ六千人がこの地に駐屯していたと見られている。
ここは押さえておいてほしい。この軍団は、ただの駐屯部隊ではなかった。ブリタニア北辺、つまり帝国の最果ての、いちばん物騒な国境線を押さえる主力だった。北にはカレドニア――今のスコットランド――の部族がいる。ローマは何度もそこへ手を伸ばしては、押し返されていた。第九軍団は、その最前線に立ち続けた部隊なんだよ。
## ボウディッカの乱――歩兵はほぼ全滅した
第九軍団には、消える前にも一度「壊滅した」経験がある。西暦61年、ボウディッカの乱だ。
イケニ族の王が死に、遺言でローマ皇帝と自分の娘たちに領地を分けると書き残した。ローマはそれを無視して全部取り上げた。王妃ボウディッカは鞭打たれ、娘たちは兵士に凌辱されたと伝えられる。ブリテン島東部が燃え上がった。
カムロドゥヌム――今のコルチェスター――が包囲された。ローマ人退役兵の入植地で、逃げ場がなかった。ここに救援に向かったのが、第九軍団の司令官クイントゥス・ペティリウス・ケリアリスだ。彼は手元の兵をかき集めて南下した。そして、待ち伏せに突っ込んだ。
結果は惨憺たるものだった。歩兵はほぼ全員が討たれたと記録されている。ケリアリス自身は騎兵とともに辛くも逃げ延び、陣営に籠もった。救援に来たはずの軍団が、救援先に着く前に消し飛んだわけだ。カムロドゥヌムは陥落し、住民は皆殺しにされ、神殿に籠もった最後の生き残りも二日で焼き払われた。
このとき第九軍団は、ゲルマニア方面の属州から兵員を補充されて再建される。名前は生き残った。そしてケリアリスは十年後、今度はブリタニア総督として戻ってきて、同じ第九軍団を率いてブリガンテス族を叩き、北へ勢力を広げた。復讐劇としては出来すぎているくらいだ。
で、ここが後々効いてくる。第九軍団には「ブリテン島の部族に袋叩きにされた」という前科がある。一度あることは二度ある、と誰もが思う。だから「二度目は生き残れなかったんじゃないか」という物語は、最初から説得力を持ってしまったんだ。
## 「カレドニアの霧の中へ消えた」という話は、誰が言い出したのか
ここが肝心なところだ。「第九軍団はスコットランドの霧の中へ行進していって、二度と帰ってこなかった」――このイメージ、あまりに有名だが、古代の史料には一行も書かれていない。誰かが後から作った話なんだ。
発端は十九世紀のドイツ人歴史家、テオドール・モムゼン。ローマ史研究の巨人で、ノーベル文学賞まで取った人物だ。彼は『ローマ史』の属州篇のなかで、ハドリアヌス帝の治世初期にブリタニアで恐るべき破局が起きたと書いた。エボラクムの要塞が襲撃され、そこに駐屯していた軍団が全滅した、と。根拠として、108年前後にブリガンテス族の反乱があったらしい形跡を挙げている。
モムゼンが書くと、それは事実として扱われる。当時のヨーロッパの学界での彼の権威はそれくらい強かった。こうして「第九軍団はブリタニア北部で全滅した」という筋書きが、学問的なお墨付きを得て流通しはじめた。
そのあと、この骨組みに肉がついていく。全滅の場所がヨークからだんだん北へ移動していくんだ。ヨークで襲われたという話が、いつのまにか「北へ遠征して帰らなかった」になり、さらに「カレドニアの霧の奥へ消えた」になる。霧という要素はどこから来たかというと、これはもう完全に文学だ。誰も史料でそんなことは言っていない。
そして決定打になったのが、二十世紀の一冊の小説だった。
## サトクリフの『第九軍団のワシ』と、シルチェスターの鷲
1954年、イギリスの作家ローズマリ・サトクリフが児童文学『第九軍団のワシ』を発表する。負傷して除隊した若きローマ軍百人隊長マーカスが、行方不明になった父の軍団――第九軍団――の軍旗である銀の鷲を取り戻すため、ブリタニア北辺の壁を越えて敵地へ潜入する、という話だ。
この一冊が、伝説の形を決定づけた。英語圏の子どもたちは軒並みこれを読んで育った。「第九軍団は北へ消えた」は、学説というより、みんなが子ども時代に刷り込まれた原風景になってしまったんだ。2011年には映画『第九軍団のワシ』として実写化され、その前年には同じ第九軍団の壊滅を下敷きにしたアクション映画『センチュリオン』も公開されている。イギリスのSFドラマ『ドクター・フー』にまで第九軍団ネタは出てくる。
面白いのは、サトクリフがこの小説を書くきっかけになった実物があることだ。シルチェスターの鷲、と呼ばれる青銅像である。
1866年10月9日、ローマ都市カレウァ・アトレバトゥム跡――現在のハンプシャー州シルチェスター――のバシリカ(公共集会所)跡を発掘していたJ・G・ジョイス牧師が、地中から一羽の青銅の鷲を掘り出した。高さわずか十五センチ。首を右に向け、羽毛が丁寧に彫り込まれている。翼は失われていた。ジョイスは興奮した。これは軍団旗の鷲、バシリカが破壊されたときに埋められたものに違いない、と考えた。
現代の研究では、この鷲は軍旗ではないとされている。足の曲がり方から、もともとは球体を掴んでいたと推定される。つまり皇帝像かユピテル像の一部、公共の彫像の装飾だったという解釈だ。制作は二世紀。翼と足は生前に修理された跡がある。今はレディング博物館のシルチェスター展示室に置かれている。
でもサトクリフはこの鷲を見て、失われた軍団の物語を思いついた。つまり伝説の中核をなすビジュアルは、実は軍団とは関係ない置物から生まれている。それでも人は、あの小さな青銅の鷲を見ると、五千人の亡霊を想像してしまうんだよな。
## ハドリアヌスの長城は、消えた軍団の墓標なのか
第九軍団の記録が途切れるのが108年。そしてハドリアヌス帝がブリテン島にやってきて、あの有名な石の壁――ハドリアヌスの長城――の建設を命じるのが122年ごろ。ブリテン島を横断する全長百十七キロの防壁だ。
この十数年の間隔が、話をたまらなく不穏にする。何かとんでもないことが北で起きて、ローマは「もう北を征服するのは無理だ」と判断し、線を引いて壁で塞いだ。その「とんでもないこと」が第九軍団の全滅だった――という筋書きは、時系列的にきれいすぎるほどきれいなんだ。
さらにこの時期、ハドリアヌスは第六軍団ウィクトリクスをブリタニアに送り込み、ヨークに配置している。第九軍団がいた場所に、別の軍団が入る。空いた席に誰かが座ったということは、前に座っていた者はもういない。この人事も、全滅説の状況証拠として繰り返し引かれてきた。
加えて、ローマの著述家コルネリウス・フロントが、ハドリアヌス帝の治世について「ブリタニアで多くの兵士が殺された」という意味の一文を残している。誰が、どこで、どの部隊が、とは書いていない。だが「多くの兵士が殺された」の一行があるだけで、全滅説はぐっと生々しくなる。
ただし、ここには落とし穴がある。長城の建設は、破局への応急処置ではなく、ハドリアヌスの帝国全体の方針――拡張をやめて国境を固定する――の一環でもあった。彼はドナウ川方面でも似たようなことをやっている。だから長城イコール第九軍団の墓標、と即断するのは早い。早いんだけど、それでも壁の前に立つと考えてしまう。この石を積ませたのは何だったんだ、って。
## ナイメーヘンの瓦とメダル――軍団はブリタニアを出ていた?
モムゼンのブリタニア全滅説を最初に揺さぶったのが、オランダからの出土品だ。
ナイメーヘン。ライン川沿いの古い街で、ローマ時代は下ゲルマニア属州の重要拠点だった。ここから、第九軍団ヒスパナの刻印がある瓦が見つかっている。年代は104年から120年ごろとされてきた。さらに「LEG HISP IX」と刻まれた銀メッキの青銅製の軍装飾――勲章のようなもの――も出た。そしてルキウス・ラティニウス・マケルという人物がアポロ神に捧げた祭壇。彼の肩書きは第九軍団の首席百人隊長かつ陣営長官だ。
つまり、第九軍団はブリタニアを離れてライン川流域に移駐していた可能性が出てきた。ヨークの108年碑文のあと、部隊は生きて大陸に渡っていた、という筋になる。
将校たちのその後の経歴も傍証になっている。ルキウス・ブルブレイウス・オプタトゥス・リガリアヌスという人物は、第九軍団の軍団副官として、118年から122年ごろに下ゲルマニアにいたと読める記録がある。ルキウス・アエミリウス・カルスも123年ごろ、同じく下ゲルマニアで第九軍団の副官を務めたとされる。全滅した部隊に副官が任命され続けるわけがない。
この証拠が出てきたことで、二十世紀の学界では「第九軍団はブリタニアで消えたのではない」が主流になった。ではどこで消えたのか。舞台は東へ移る。
## ユダヤの荒野か、アルメニアの峡谷か
有力候補のひとつが、バル・コクバの乱だ。132年から135年、ローマ支配下のユダヤで起きた大反乱で、これはローマ側にとっても凄惨な戦いだった。ゲリラ戦と洞窟戦の連続で、ローマは複数の軍団を投入し、大損害を出している。第九軍団がライン川流域からこの戦場に送られ、そこで潰されたのではないか、という説だ。
ナイメーヘンからの撤収が120年代とすれば、時期は合う。しかも同じ時期に、もうひとつの軍団――第二十二軍団デイオタリアナ――も記録から消えている。ユダヤで二個軍団が丸ごと消えたのだとすれば、ローマがそれをあまり大声で記録しなかった理由も想像がつく。負けたことを書き残さないのは、どこの帝国もやることだ。
もうひとつの候補が東方、カッパドキア方面だ。161年から166年のパルティア戦争で、歴史家カッシウス・ディオは、パルティアの将軍がアルメニアでローマの一個軍団を包囲して全滅させたと記している。ただし、ディオはその軍団の番号を書いていない。番号が空白だから、そこに第九軍団を入れてみたくなる。
この説には反論が強い。カッパドキアに常駐していた第十二軍団フルミナタと第十五軍団アポリナリスは、二世紀末以降も健在で記録に残る。そもそも第九軍団が東方にいたという証拠が一片もない。研究者のなかには、アフリカ属州や東方の碑文に第九軍団関係者らしき名前を探そうとした人もいるが、決定打は出ていない。
結局のところ、確実に言えるのはこれだけだ。「120年ごろから197年ごろまでのどこかで、第九軍団ヒスパナは存在しなくなった」。場所も、状況も、日付も、誰も知らない。
## 「いや、やっぱりブリタニアで死んだ」と言い続ける人たち
ところがここ十数年で、揺り戻しが起きている。
考古学者マイルズ・ラッセルは、ナイメーヘンの瓦の年代について異議を唱えている。あの刻印瓦は120年代ではなく西暦80年代のものに見える、というのだ。だとすれば「第九軍団は108年以降に大陸へ移った」という前提が崩れる。彼の主張は明快で、第九軍団がブリタニアから連れ出されたという証拠は存在しない、110年代後半から120年代初頭にブリタニアで壊滅したというのが圧倒的にありそうな答えだ、というものだ。
ローレンス・ケッピーはまた別の絵を描く。117年ごろ、トラヤヌス帝のパルティア戦争のために第九軍団は一時的にブリタニアから引き抜かれた。その穴を突いて現地部族が蜂起し、事態を収拾するためにハドリアヌスは第六軍団を派遣せざるを得なくなった――という筋書きだ。彼は瓦の年代決定そのものが確実ではなく、105年前後の一時的な派遣に対応する可能性もあると指摘している。
2018年にはダンカン・キャンベルが『第九軍団の運命』で諸説を総ざらいして検討している。結論は歯切れが悪い。歯切れが悪いのが誠実なんだと思う。ブリタニア考古学の大御所シェパード・フレアも、これ以上のことを言うには新しい証拠が要る、という趣旨のことを書いて筆を置いている。
つまり百五十年議論して、振り出しに近いところに戻ってきている。モムゼンが十九世紀に言ったブリタニア全滅説が、二十一世紀にまた息を吹き返している。この行ったり来たりが、逆にこの謎の生命力の証明だ。
## トレジャラーズハウスの地下で、少年が見たもの
さて、ここからが本題だと思っている人もいるだろう。ヨークには、第九軍団の伝説とセットで語られる、有名すぎる目撃談がある。
1953年2月、ヨーク大聖堂のすぐ裏手にあるトレジャラーズハウスという古い屋敷。ここで暖房配管の工事が行われていた。作業していたのは、暖房技師見習いのハリー・マーティンデール、当時十七歳。彼は地下室で梯子に登り、天井の石にノミで穴を開けていた。真昼、正午の少し前だった。
最初に聞こえたのは、金管楽器のような音だったという。ラッパの音。どこか遠くで、間の抜けた、うまくない吹き方の音が鳴った。何度か鳴った。彼は最初、ラジオか何かだと思った。
次の瞬間、彼のすぐ横の壁――ただの固い壁だ――から、兜が出てきた。羽根飾りのついた兜だ。マーティンデールは梯子から落ちた。床にへたりこみ、隅まで這って後ずさりした。
そして兵士たちが出てきた。二列縦隊。全部で二十人前後。ラッパを持った男が先頭で、そのあとに馬に乗った男が一人。歩兵たちは疲れ切っていて、汚れていて、みじめな顔をしていた。緑がかった短い上着。大きな円形の盾。槍。腰に短い剣。行進というより、引きずるように歩いていた。彼らは地下室を横切り、反対側の壁の中へ入って消えた。
マーティンデールが後年、何度話しても変えなかった点がある。兵士たちは膝から下が見えなかった、というのだ。足首も、足も、地面に接する部分がなかった。床の上を、膝から上だけが移動していった。
彼はこの体験のあと、仕事にならず、医者にかかり、二週間休んだ。そして何年も黙っていた。笑われるのが怖かったからだ。のちに彼は警察官になり、1970年代後半から80年代にかけては、ヨークのゴーストツアーのガイドとして自分の体験を語るようになった。2014年10月21日に亡くなるまで、話の細部はほとんどぶれなかったと言われている。
この話が有名になった理由は、後日談にある。1969年、トレジャラーズハウスの地下で発掘調査が行われ、屋敷の真下からローマ時代の道路――ウィア・デクマナ、エボラクム要塞の主要道路のひとつ――が出てきた。その路面は、地下室の床から十五インチほど下だった。つまり、当時の地面はそこにあった。マーティンデールが見た兵士たちは、彼らの時代の路面を歩いていたわけだ。膝から下が見えないのは、床がその分だけ高かったから、ということになる。
十七歳の見習い工が、ローマの道路の深さを知っていたはずがない。ここがこの話の一番おいしいところだ。
## もう二人の証言――家政婦と、ワインを取りに行った女性
マーティンデールの話ばかりが有名だが、トレジャラーズハウスの地下ではほかにも証言が出ている。
ひとつは1957年、屋敷の家政婦をしていたジョーン・モーソンという女性の体験だ。彼女は地下で馬の蹄の音を聞いた。石を打つ、はっきりした音だった。そして顔を上げると、ローマ兵と馬が自分の脇を通り過ぎていった。彼女はこの話を誰にも言わなかった。当時世話をしていた幼い子ども、キャロラインを怖がらせたくなかったからだという。ところが何年も経ってから、そのキャロラインのほうが「あのときラッパの音を聞いた」と言い出したそうだ。二人は、互いに黙ったまま同じものを共有していたことになる。
もうひとつは、もっと古い。屋敷の主だったフランク・グリーンの時代の話だ。彼の女性客が地下室にワインを取りに降りたところ、ローマ兵の格好をした男が通せんぼをしていて、それ以上進めなかった。彼女は当然、屋敷の誰かが芝居でもしているのだと思った。だが屋敷にそんな格好をした人間はいなかった。
そして、マーティンデールの一年ほど前に、屋敷の管理人がやはり地下でローマ兵らしきものに遭遇していた、という話も伝わっている。つまりマーティンデールは、この場所の目撃者としては最初でも最後でもない。彼が突出して有名なのは、話が具体的で、証言がぶれず、しかも後の発掘が話の細部を裏づけてしまったからだ。
トレジャラーズハウスは今もヨークに建っていて、ナショナル・トラストが管理している。誰でも入れる。地下室のツアーもある。ちなみに屋敷にはローマ兵以外にも、いない猫、灰色の服の女、前の持ち主の葉巻の匂い、部屋を走り抜ける犬、大広間で遊ぶ子どもたち、といった常連の噂が山ほどある。だが、圧倒的に有名なのはあの二十人だ。
## なぜ「消えた軍団」だけが、こんなに語り継がれるのか
ローマ軍団で記録が途切れた部隊は、実は第九軍団だけじゃない。さっき出てきた第二十二軍団デイオタリアナもそうだし、ほかにも編成解除や再編で名前が消えた部隊はいくつもある。なのに、第九軍団だけが「消えた軍団」として神話になった。なぜか。
ひとつは、消えた場所の候補が「島の北の果て」だからだと思う。ローマは地中海世界だ。文明と法と水道と風呂の世界。その端っこに、霧と沼と森があって、そこに入っていくと帰ってこられない。世界の縁の向こう側、という感覚がここにはある。実際にはユダヤかドナウで消えた可能性のほうが高いのに、みんなカレドニアの霧の話をする。霧のほうが、怖いからだ。
もうひとつは、規模だ。五千人。一人二人ではない。町ひとつ分の人間が、集団のまま、記録から抜け落ちる。個人の失踪は事件だが、五千人の失踪は世界のバグに見える。しかもローマ軍団というのは、名簿と給与台帳と除隊記録の塊みたいな組織だ。その官僚機構が、まるごと一個の部隊について沈黙する。この不自然さが、陰謀めいた匂いを立てる。
そして三つ目。鷲だ。ローマ軍団の軍旗は銀の鷲で、これを失うことは軍団にとって死に等しい恥辱だった。トイトブルク森でウァルスの三個軍団が全滅したとき、失われた鷲を取り返すのに数十年かかった。鷲が消えたということは、部隊のアイデンティティそのものが敵の手に渡ったということだ。サトクリフはそこを掴んで小説にした。物語としてこれ以上の題材はない。
そして、ヨークの地下から膝から上だけの兵士が出てくる。歴史学が「たぶんユダヤで死んだんじゃないですかね」と冷静に言っているすぐ横で、配管工の少年が「疲れ切った顔をしていた」と証言する。この二つの温度差が、この題材の中毒性の正体なんだと思う。片方は結論が出ない。もう片方は結論が出せない。どちらも、閉じないんだ。
あらためて全体を眺め直すと、この謎には三つの層がはっきり分かれていることに気づく。史料の層、物語の層、そして怪異の層だ。この三つは互いに影響を与え合っているが、成立した順番が違う。順番を意識して並べると、伝説がどうやって育ったかがきれいに見えてくる。
史料の層は薄い。恐ろしく薄い。108年のヨークの築城碑があり、ナイメーヘンの瓦と勲章と祭壇がある。将校数名の後年の経歴がある。フロントの「ブリタニアで多くの兵士が殺された」の一行がある。カッシウス・ディオの、番号を書いていないアルメニアでの全滅記事がある。セウェルス期の二種類の軍団リストに名前がない。以上だ。これで全部だと言われると、正直、驚くほど何もない。この薄さこそが、あらゆる説を成立させる余白になっている。証拠が少ないほど、仮説は増える。歴史ミステリーの世界では、これは鉄則みたいなものだ。
物語の層は十九世紀に生まれた。モムゼンが「ブリタニアでの破局」を書き、それが「北への遠征」に化け、「カレドニアの霧」に化け、サトクリフの小説で完成形になった。ここで見落としてはいけないのは、モムゼン自身は霧の話も遠征の話もしていないということだ。彼はヨークの要塞が襲われた可能性を論じた。それが百年かけて、島の北の果てへ歩いていく行列の映像に変換された。誰も嘘をついていない。ただ、一段階ずつ、より画になるほうへ、より怖いほうへ、話が滑っていっただけだ。この滑り方は、現代のネット上の噂の育ち方とまったく同じ構造をしている。二千年前の軍団の話でも、SNSの怪談でも、人間の脳は同じやり方で余白を埋める。
怪異の層はさらに新しい。1953年だ。ハリー・マーティンデールが地下室で見たものが、この伝説に「今も見える」という現在形を与えた。ここが決定的だった。歴史ミステリーはふつう過去形で語られる。だが第九軍団の話には、ヨークの屋敷に降りていけば会えるかもしれない、という現在形が接続されている。しかも1969年の発掘が、証言の物理的な整合性を後押しした。膝から下が見えない、という一点が、ローマ道の埋没深度と一致してしまった。この符合をどう解釈するかで、人の立場は分かれる。超常現象の証拠だと言う人もいれば、地下室の床とローマ層の関係はヨークでは一般常識に近く、後付けで細部が整えられた可能性を指摘する人もいる。実際、マーティンデールが最初に語った内容と、数十年後にツアーガイドとして語った内容を比べて、細部の変化を追いかけた検証もある。決定的な矛盾は見つかっていないが、そもそも語り直された証言が完全に固定されることはない。
ここで面白いのは、怪異の層と史料の層が、実は噛み合っていないことだ。マーティンデールが見た兵士たちは、円形の大盾を持っていたと証言している。ローマの正規軍団歩兵が使ったスクトゥムは、基本的に長方形の湾曲した盾だ。円形の盾を使うのは補助部隊か、あるいはもっと後の時代の軍だ。つまり彼が見たのは、伝説どおりの第九軍団ではないかもしれない。緑の上着というのも、軍団兵の一般的なイメージとは合わない。
これをどう受け取るかが、この話の分かれ道だと思う。「だから作り話だ」と切ることもできる。だが逆の読み方もできる。作り話をするなら、映画やイラストで見慣れた四角い盾の軍団兵を出すはずだ。円形の盾と緑の服という、当時の一般人が思いつきそうにない細部をわざわざ出す理由がない。この「間違い方が変」という点を、むしろ証言の生々しさの根拠に挙げる人は多い。どちらの読みも成立する。だからこの話は死なない。
そして最後に、なぜこの謎が二千年かけても閉じないのかを、もう一段だけ突っ込んで考えてみたい。答えのひとつは、ローマという文明の性格にあると思う。ローマは記録する文明だった。石に刻み、蝋板に書き、名簿を作り、退役軍人一人ひとりに青銅の証書を渡した。だから我々は、二千年前の一兵卒の名前を知ることができる。その記録の帝国が、五千人について沈黙している。この沈黙は、記録のない社会の沈黙とは意味が違う。書かなかったのではなく、書かないことを選んだように見えてしまうんだ。
もちろん実際は、単に書かれた記録が失われただけかもしれない。パピルスは腐るし、石は再利用されて建物の壁になる。ローマ帝国の文書のうち現存するのは、比率で言えば塵のようなものだ。第九軍団の最期を記した文書は、間違いなくどこかに存在した。そして、たぶん誰かの家の床材になった。それだけの話である可能性は、かなり高い。
でも、そう納得したあとでも、ヨークの地下室の話が残る。真昼の地下で、壁から兜が出てきて、疲れ切った顔の男たちが膝から上だけで通り過ぎていった。歴史がどれだけ冷静に「文書の散逸です」と説明しても、その映像は消えない。学問は謎を縮小するが、恐怖は縮小されない。第九軍団の話が生き延びているのは、この二つがまったく別の回路で人間に届くからだ。
最後に、行ってみたい人のために現在地だけ書いておく。108年の築城碑はヨークシャー博物館にある。シルチェスターの鷲はレディング博物館のシルチェスター展示室にいる。トレジャラーズハウスはヨーク大聖堂の裏手に建っていて、地下室に降りることもできる。ハドリアヌスの長城は今も百十七キロにわたって残っていて、世界遺産になっている。壁の上に立って北を眺めると、丘と草と風しかない。あの向こうに何が消えたのかは、たぶん今後も分からない。分からないほうがいい、と思っている自分がいるのが、ちょっと嫌なんだけどな。
消えたローマ第九軍団――五千人がブリタニアの霧の中へ歩いていったという話
