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コロンブスより九十年早い大艦隊――鄭和の宝船と、明が航海記録を焼いたという話

一四〇五年の夏、長江の河口に、見たこともない数の船が浮かんでいた。二百隻を超える船団。乗っているのは二万七千八百人。指揮官は三十四歳の宦官だった。

コロンブスがサンタ・マリア号以下三隻、乗員九十人でカリブ海に着くのが、この八十七年後の話だ。

数字だけ並べると悪い冗談みたいなんだけど、これは実際に起きたことで、しかも七回繰り返された。そして最後には、その記録がまるごと消えた。焼かれたという話が残っている。今日はその話だ。

雲南の少年が、宮廷に入るまでに失ったもの

鄭和はもともと鄭和ではない。生まれたときの姓は馬。名は和。幼名を三保、あるいは三宝といった。生まれは一三七一年、雲南の昆陽州宝山郷、いまの昆明市晋寧区にあたる場所だ。海から千五百キロ以上離れた高原地帯である。のちに世界最大の艦隊を率いる男が、内陸も内陸、湖しかない土地で生まれているというのが、まずおかしい。

家はムスリムだった。中央アジア系のいわゆる色目人の血筋で、先祖をたどるとサイイド・アジャール・シャムスッディーン・ウマルという、モンゴル帝国に仕えて雲南行省の長官まで務めた人物に行き着くとされる。祖父も父も「哈只」と呼ばれていた。ハッジ、つまりメッカ巡礼を果たした者への敬称だ。父の名は馬哈只としてしか伝わっていない。要するに「馬さんちのハッジ」である。実名は残っていない。

この一族の運命を叩き潰したのが明軍だった。一三八一年、洪武帝が雲南遠征を発動する。傅友徳を総大将に、藍玉、沐英といった歴戦の将が三十万の兵で雲南に雪崩れ込んだ。元の残存勢力である梁王の政権は翌年に崩壊した。父はこの戦乱のなかで死んだと伝わる。享年三十九。少年は捕虜になった。十歳か、十一歳か。

捕虜になった少年たちのうち一部は去勢され、宦官として宮廷や諸王の府に配された。当時の明軍が征服地で日常的に行っていた処置である。馬和もそのなかにいた。年齢は十歳から十四歳のあいだと推定されている。処置を受けた者の生存率は決して高くない。

彼は生き延びた。そして北平、いまの北京にいた燕王・朱棣のもとへ送られた。この朱棣が、のちの永楽帝である。ここで少年の運が反転する。

三十四歳の宦官が、艦隊の総司令官になった日

燕王府での馬和は、単なる小間使いではなかった。北方の対モンゴル戦線に従軍している。使い走りではなく、軍務に耐える人材として扱われていたということだ。体格がよく、頭が回り、しかも複数言語ができた。ムスリムの家に生まれてアラビア語圏の作法を知っており、漢語の教養も身につけていた。この組み合わせは当時の中国でかなり希少である。

決定的だったのが靖難の役だ。一三九九年から一四〇二年まで、朱棣が甥である建文帝から帝位を奪い取った三年間の内戦。馬和はこの戦争で武功を立てた。北平近郊の鄭村という土地での防衛戦で、貯水池を守り抜いた功があったとされる。

朱棣が南京に入って永楽帝を名乗ったあと、一四〇四年二月十一日、馬和は「鄭」の姓を下賜される。この地名に由来するというのが通説だ。同時に内官監太監、宦官として登れる最高位に就いた。奴隷同然に連れてこられた雲南の少年が、三十三歳で帝国の中枢に立った。

そして翌年、彼は海に出される。永楽三年六月十五日、西暦で一四〇五年七月十一日。この日は現在の中国で「航海の日」に指定されている。

第一次航海――海賊王の首が南京に届くまで

出港地は蘇州府太倉州の劉家港。長江が海に注ぐ手前の巨大な河港だ。ここで艦隊を組み、福建の長楽まで南下して季節風を待つ。冬の北東季節風に乗って南シナ海へ出る。これが七回すべてに共通する基本パターンだった。風を待つために数カ月足止めされるのは当たり前で、艦隊は長楽で越冬しながら補給と修理をやっていた。

第一次の編成は、大型の宝船が六十二隻、それに随伴船を加えて二百隻超。乗員二万七千八百余名。この人員構成が面白くて、正使・副使といった外交要員、火長と呼ばれる航海長、舵工、班碇手といった操船の専門職、旗軍と呼ばれる兵員、通事すなわち通訳、書算手という会計事務、医士が百八十人前後、そのほか鉄錨匠や木工の職人まで乗っていた。要するに海に浮かぶ小さな都市である。二年以上帰らない航海だから、そうならざるを得ない。

ルートは占城、いまのベトナム中部から始まる。次にジャワ。ここで最初の事件が起きた。ジャワではマジャパヒト王国の内戦のさなかで、上陸した明の水兵が現地の抗争に巻き込まれ、百七十人が殺された。艦隊の兵力からすれば報復は容易だったが、鄭和は戦端を開かず、賠償として黄金六万両を要求するという政治的な決着を選んだ。この判断が艦隊の性格をよく表している。武力は圧倒的に持っているが、使うかどうかは別の計算で決まる。

そして旧港、いまのスマトラのパレンバンで、艦隊は本気を出す。

ここを根城にしていたのが陳祖義という華僑出身の海賊の首領で、マラッカ海峡一帯の交易船を長年荒らし回っていた。陳祖義は降伏を装って夜襲を仕掛けようとしたが、地元の華僑である施進卿が事前に鄭和へ通報した。待ち構えていた艦隊は海賊船団を撃滅し、賊船十隻を焼き、七隻を鹵獲、五千人を殺したと記録される。陳祖義は生け捕りにされ、鎖につながれて南京まで連行され、一四〇七年十月に市中で斬られた。旧港には旧港宣慰司という明の出先機関が置かれ、施進卿がその長官に任じられた。艦隊は帰路にセイロンとカリカットを回り、一四〇七年十月二日に帰着している。

第二次と第三次――スリランカの王を、生きたまま連れ帰る

第一次から帰った数カ月後には、もう二度目の艦隊が出ている。休みがない。

第二次はカリカットの新王の冊封が主目的で、明の使節が正式に王位を承認する儀式を行い、記念の碑を建てた。政治的にはこれが本題である。艦隊が持ち込んだのは金銀、絹、陶磁器といった贈り物で、持ち帰るのは香辛料、宝石、珍獣、そして「明の皇帝に朝貢した」という事実だった。

そのころ準備されていたのが、あの三カ国語石碑だ。永楽七年二月一日、西暦一四〇九年二月十五日の日付が刻まれている。実際にセイロン島のガレに設置されたのは第三次航海の途上とみられる。

石碑は一四四センチ×七六センチほど。表面は三つに区切られていて、漢文の部分は仏陀に、タミル語の部分はテーナヴァライ・ナーヤナル、つまりヴィシュヌ神に、ペルシア語の部分はアッラーに、それぞれ捧げ物を献じている。内容はほぼ同じで、金千枚、銀五千枚、色とりどりの刺繍絹五十巻、香炉、花瓶、灯明、蓮花、香油、蝋燭、香を奉納したと書いてある。

同じ船団が三つの神に同時に、同額の供物を捧げている。この石碑は一九一一年、ガレの工事現場で排水溝の蓋か何かに転用されているのが見つかった。現在はコロンボの国立博物館にある。

ところが第三次航海で、鄭和はそのセイロンで戦争をやる。

コーッテ王国の実力者アラケーシュヴァラ、漢文史料でいう亜烈苦奈児が、艦隊の財宝を狙って鄭和を内陸へ誘い込み、同時に別働隊で船を襲わせようとした。鄭和は敵の主力が船団側へ向かったのを見て、手元の二千人で逆に王都を急襲した。城を落とし、王とその家族を捕虜にして、艦隊まで連れ戻した。一四一一年七月六日、南京に到着。囚われの王は永楽帝の前に引き出されたが、皇帝は寛大に振る舞って釈放し、代わりにパラークラマバーフ六世を新王として立てさせた。

この一件は現代でもわりと生々しい。中国側の物語では「平和の航海」ということになっているが、スリランカ側から見れば、外国の艦隊が来て王を拉致していった事件である。この温度差は今も残っていて、鄭和を語るときの前提が国によって食い違う原因になっている。

第四次――ホルムズへ、そして「麒麟」が北京に来た

第四次から艦隊の射程が跳ね上がる。出航前の準備期間が一年半とられ、鄭和はその間に故郷の昆陽に戻って先祖の祭祀を行い、西安の清真寺でハサンというペルシア語通訳を雇い入れている。行き先が変わることを見越した人材確保だ。目的地はペルシア湾のホルムズ、漢文でいう忽魯謨斯である。

途上、スマトラで再び武力行使があった。サムドラ王国で王位を簒奪した蘇幹剌、セカンダルという人物が艦隊に敵対したため、鄭和は軍を上陸させてこれを撃破し、正統な王ザイン・アル=アービディーンを復位させた。セカンダルは南京に送られて処刑されている。この二件目の軍事行動で、明の艦隊が本気で介入する意思を持っていることが海域全体に知れ渡った。第四次の帰還時には十八カ国から使節が同行してきた。艦隊が外交を「持ち帰る」装置になっていたことがよくわかる。

そしてこの時期、明の宮廷を沸かせたのが麒麟事件だ。

一四一四年、ベンガルの使節が一頭の奇妙な獣を献上した。首が異様に長く、体には斑紋があり、蹄がある。おとなしい。角がある。儒家の古典が説く聖獣、麒麟そのものではないか、というので朝廷は大騒ぎになった。麒麟は聖天子の治世にしか現れないとされる。帝位を簒奪して即位した永楽帝にとって、これほど都合のいい瑞祥はない。

実物はもちろんキリンである。翌々年にはマリンディからも同じ獣が届いた。ソマリ語でキリンを指す語が「ギリ」に近い音であったため、それが麒麟という漢語に引き寄せられたという説もある。宮廷画家の沈度が「瑞應麒麟図」を描き、大臣たちが賀表を書き、皇帝は「これは自分の徳ではない」と謙遜してみせた。政治というのはこういうものだ。

第五次と第六次――アフリカ東岸、獅子と斑馬と駱駝の行列

第五次で艦隊はついにアフリカ東岸に達する。木骨都束すなわちモガディシュ、卜剌哇すなわちブラワ、麻林つまりマリンディ。アラビア半島側では阿丹すなわちアデン、剌撒、祖法児すなわちドファールを回った。

持ち帰ったものが凄まじい。獅子、豹、駱駝、駝鶏と記録される走鳥類つまりダチョウ、花福鹿と呼ばれたシマウマ、犀、羚羊、そしてキリン。北京に着いた行列を想像してほしい。これは経済ではなく演出だ。皇帝が世界の果てから聖獣と珍獣を呼び寄せるという舞台装置である。

第五次の出航前、一四一七年五月三十一日に鄭和は泉州の霊山にあるイスラム聖墓に参り、航海の加護を求めて香を焚き、その旨を刻んだ石が残っている。彼は同じ時期に南京や長楽で天妃、つまり航海の女神である媽祖の廟を建て、修復もしている。

ムスリムの家に生まれ、イスラム聖墓に参り、媽祖に祈り、仏教寺院にも寄進している。信仰の一貫性を求める発想が最初からない。艦隊という多国籍・多宗教の集団を率いるうえで、これは弱点ではなく機能だったと考えるほうが自然だ。

第六次は性格が違う。一四二一年に出て一四二二年九月には主力が帰っている。目的が明確で、各国から来ていた朝貢使節を本国へ送り返すこと。艦隊は分遣隊に分かれ、洪保の率いる一隊がアデン方面へ向かった。この時期、永楽帝は北京遷都と対モンゴル親征に国力を注いでおり、艦隊への熱量は落ちていた。

一四二四年、永楽帝はモンゴル遠征の陣中で死ぬ。跡を継いだ洪熙帝は即位の詔で、西洋への宝船派遣を中止すると宣言した。艦隊は港に係留され、鄭和は南京の守備司令官という閑職に回された。

第七次――六十歳の提督は、二度と帰ってこなかった

洪熙帝はわずか十カ月で死に、宣徳帝の代になる。そして一四三〇年六月二十九日、皇帝は再び西洋派遣を命じた。理由は、朝貢してくる国が目に見えて減っていたからだ。艦隊が行かなければ、朝貢体制はしぼむ。それが実証されてしまった格好である。

このとき鄭和は五十九歳。出発前、艦隊は長楽で風を待ちながら二つの石碑を建てた。一つは太倉の劉家港天妃宮に建てた「通番事蹟碑」、もう一つが長楽南山寺の「天妃之神霊応記」。

この二つは決定的に重要な史料だ。なぜなら、鄭和本人とその幕僚が、自分たちの七回の航海を要約して石に刻んだものだからである。何年に出て、どこへ行って、何をしたかが列挙されている。長楽の碑は二十世紀に入ってから再発見された。紙の記録が失われても、石は残った。

一四三一年一月十九日に南京の龍江関を出港、同年末に福建の五虎門から外洋へ出た。カリカットで艦隊は分かれ、洪保らの分遣隊がメッカへ向かっている。通訳の馬歓もこの一隊にいた。中国の国家艦隊の分遣隊がイスラム教の聖地に到達したという、それだけで一つの物語になる出来事だ。分遣隊はホルムズで本隊と合流し、艦隊は帰路につく。一四三三年七月二十二日、帰着。

鄭和はその船に乗っていなかった、というのが有力な見方である。宣徳八年、つまり一四三三年、帰路のカリカット付近で病没した。享年六十二。遺体は海に葬られた。長い航海で死者を船に載せておくことはできない。宗教的にも、彼が最も長く祈った媽祖の海に還ることは違和感がない。

南京の牛首山に鄭和墓と呼ばれる墓があるが、これは遺髪と靴だけを納めた衣冠塚だとされる。一九八五年、航海六百八十周年に合わせて整備され、墓へ登る石段は四段構成で計二十八段。二十八は航海に費やした年数であり、訪れた国の数ともいわれる。墓碑にはアラビア語の信仰告白が刻まれている。

ただし、死没を一四三五年とする説もあり、南京で死んだとする見方も消えていない。海葬説は史料に断定的な根拠があるわけではなく、状況からの推定と伝承の合成物である。

全長百三十七メートルの木造船は、浮くのか

さて、この記事の本丸に入る。宝船の大きさだ。

『明史』鄭和伝には、大船は長さ四十四丈四尺、幅十八丈と書いてある。明代の一丈をおよそ三・一一メートルとして換算すると、長さ約百三十八メートル、幅約五十六メートル。九本マスト。排水量は八千トンとも一万五千トンとも試算される。

この数字がどれほど非常識か。比較対象を出す。

木造帆船として史上最大級とされるアメリカの六本マスト・スクーナー、ワイオミング号は一九〇九年建造で、船体長およそ百メートル、船首斜檣を含めた全長で百三十七メートル。二十世紀初頭、鉄材による補強を大量に使い、蒸気式ポンプを積んでなお、この船は常時船体がたわみ、継ぎ目から浸水し続け、一九二四年に嵐で折れて全員が死んだ。

木という素材は、ある長さを超えると波の上で自重に耐えられなくなる。船首と船尾が波に乗り、中央が空中に浮く瞬間、船体は自分の重さで折れようとする。ホギングという現象だ。この限界がおおむね船体長九十メートル前後とされる。

つまり四十四丈の宝船は、素材工学の常識からいえば存在できない。造船工学者の辛元欧をはじめとする研究者は、具体的にこう指摘する。あの寸法だと排水量は一万五千トンから二万トン。木造船の構造的上限は七千トン程度。九本のマストは最も高いもので百メートル級になり、当時の中国に一本の木からそれを切り出す森林も、複数材を継いで縦通強度を保つ技術もない。仮に立てられたとしても、九本分の帆が強風で受ける力を船体は受け止められない。そして人手の問題がある。二百人や三百人であの規模の帆装は動かせない。

じゃあ四十四丈という数字はどこから来たのか。ここが面白いところで、この寸法の初出は歴史書ではない。

一五九七年、羅懋登という文人が書いた『三宝太監西洋記通俗演義』という小説である。航海から百六十年以上あとに書かれた娯楽読み物だ。この小説には妖術使いも出てくるし、艦隊が海の怪物と戦ったりもする。

ところが清代に『明史』を編纂した学者たちが、この寸法をどこかで拾って正史に書き込んでしまった。『明史』の完成は一七三九年。実際の航海から三百年以上あとである。同時代の記録、つまり馬歓や費信の見聞録には、船の寸法が一切書かれていない。

書かれていないというのは非常に重い事実だ。乗っていた人間が誰も大きさを記していない数字が、小説を経由して正史に載り、それが今日まで「記録に残る宝船の全長」として流通している。

十一メートルの舵柱と、四百二十一メートルの作塘

とはいえ、宝船が小さかったという話でもない。物証がある。

一九五七年、南京の宝船廠、正式には龍江船廠と呼ばれた造船所の遺跡から、巨大な舵柱が出土した。チーク材で、長さ十一・〇七メートル。舵の軸である。中国の研究者はこの軸から舵板の面積を約四十二・五平方メートルと逆算し、そこから船体長を百四十九メートルから百六十六メートルと推定した。四十四丈説を裏づける発見だ、と当時は受け止められた。

ところが、ここには前提の問題がある。舵の大きさと船体長の比率は船種と海域で大きく変わる。ケンブリッジのサリー・チャーチは、実際に発掘された泉州出土の宋代船と比率を比較して、同じ舵柱から導かれる船体長はおよそ四十五メートルにすぎないと計算した。

同じ十一メートルの木の棒から、百六十六メートルと四十五メートルという三倍以上開いた答えが出る。物証があっても、解釈の枠組みが違えば結論はここまで動く。

もっと決定的なのが二〇〇三年から二〇〇四年にかけての発掘だ。宝船廠の遺跡には「作塘」と呼ばれる細長い船渠の跡が残っている。三本が現存し、最大のものは長さ四百二十一メートル。ただし幅は四十一メートル、深さは四メートルしかない。

船を造る穴の幅が四十一メートルということは、幅十八丈すなわち五十六メートルの船はそもそも入らない。深さ四メートルでは、一万トン級が必要とする吃水を確保できない。この遺構から推定される最大船体長は、せいぜい七十五メートル。おそらくそれより小さい。

現在の研究者の見積もりは幅がある。リチャード・バーカーは長さ約七十メートル、幅約二十メートル、排水量三千百トン。辛元欧は六十から七十六メートル。アンドレ・スレースウィックは五十二・五メートル。鄭明らは六十一・二メートル、幅十三・八メートル。ついでに言えば、丈という単位自体が明代には統一されていない。一丈を一・六メートルと取る流儀もあり、その場合は四十四丈でも七十メートル程度になってしまう。数字だけが独り歩きしていた、という結論に落ち着きつつある。

それでも七十メートル級の木造帆船は、十五世紀初頭の世界では圧倒的だ。コロンブスのサンタ・マリア号は全長二十数メートル、百トン級である。三倍の長さということは、排水量では二十倍から三十倍の差になる。誇張を全部剥ぎ取っても、鄭和の艦隊は当時の地球上で他に類を見ない規模だった。この事実は誇張を必要としない。

復元船はなぜ完成しないのか

南京の宝船廠遺跡は公園として整備され、その一角で実物大の復元船が建造されている。全長七十一・一メートル。研究者の中庸的な見積もりを採った寸法だ。

二〇〇八年完成予定で始まり、二〇一三年に延期され、二〇一四年にまた延期され、資金の問題で止まった。木造帆船を七十メートルで造るというのは、二十一世紀の技術と予算をもってしても、それくらい難しい。この停滞そのものが、四十四丈説に対する静かな反証になっている、という皮肉な見方をする人もいる。

それとは別に、小型の宝船復元は各地で造られている。観光用の飾りに近いものから、実際に帆走できるものまで幅がある。それらの多くは、正史の四十四丈ではなく、遺跡と工学から逆算した数字を採用している。物語としての宝船と、造れる宝船が、いつのまにか別々に存在している状態だ。

「あの記録は焼かれた」――この話は一五七四年に生まれた

ここからが、この題材のいちばんおいしい部分である。

鄭和の七度の航海には、当然ながら膨大な公文書があったはずだ。航路図、日誌、各国の記録、積荷の目録、人員名簿。それが今日ほとんど残っていない。この空白を説明する物語が「明の官僚が焼いた」という話で、これはもう鄭和を語る記事の定番になっている。中国が海から撤退した象徴的な事件として、あちこちで引用される。

では、この話の初出はいつか。

一五七四年、厳従簡という官僚が編纂した『殊域周咨録』という書物である。外国事情をまとめた地誌で、その巻八にこういう趣旨の記述がある。

成化年間、皇帝の関心を引こうとした宦官が、三保太監の下西洋の旧記録を持ち出そうとした。兵部尚書の項忠が部下に命じて書庫を捜させたが、三日たっても出てこない。当時、車駕郎中だった劉大夏が先に見つけて隠していたのである。項忠が担当の役人を鞭打とうとしたとき、劉大夏が進み出て言った。三保の下西洋は銭糧数十万を費やし、軍民の死者は万を数えた。たとえ珍宝を得て帰ったとして、国家に何の益があるのか。あれは弊政であって、大臣が諫めるべきものだ。旧記録が残っていたとしても、これは破棄して根を絶つべきものであって、いまさら有無を詮索する必要などない。

注意深く読んでほしい。ここで劉大夏がやったのは「隠す」ことだ。「毀つべし」と言っているのは主張であって、行動ではない。焼いたとは書いていない。

劉大夏は本当に燃やしたのか

にもかかわらず、この話は流通するうちに膨らんだ。

一六一八年に顧起元が書いた随筆『客座贅語』にも宝船廠と航海記録に関する記述があり、そのあたりから「焼却」の語感が強まっていく。清代以降の引用ではもう「劉大夏が焚いた」と断定されるようになり、二十世紀の通俗歴史書がそれを受け継ぎ、二十一世紀のインターネットが最終的に「中国の官僚が世界進出の記録を燃やして中国は暗黒時代に入った」という物語に仕上げた。伝言ゲームの見本のような経路である。

しかも初出の一五七四年という年が問題だ。事件が起きたとされる成化年間から百年近く経っている。厳従簡が何を典拠にこれを書いたのかは、はっきりしない。同時代の実録にこの一件の記載はない。

さらに、話の細部にも引っかかりがある。劉大夏の当時の官職は車駕郎中とされる。兵部の車駕清吏司は駅伝や馬政を扱う部署で、外国関係の文書を管理するのは職方清吏司の仕事だ。管轄外の書類をなぜ彼が先に見つけられたのか、という疑問が残る。

そして決定的なのが、劉大夏にはもう一つ、ほぼ同じ構造の逸話が伝わっていることである。宦官の汪直がベトナム再侵攻をたくらんだとき、劉大夏が兵部の書庫から安南遠征の記録を隠して思いとどまらせた、という話だ。

同じ人物、同じ書庫、同じ「宦官の無謀な野心を文官が文書隠匿で阻止する」という筋書き。これは明代後期の士大夫が好んだ理想の官僚像そのものである。二つの逸話が互いに影響し合って形成された、あるいは片方がもう片方の複製である可能性は高い。劉大夏という人物は実在し、のちに兵部尚書まで昇り、清廉な名臣として評価された。その評判に、後世が似合いのエピソードを供給したという構図だ。

こう並べると身も蓋もないが、より地味で、より説得力のある説明はこうなる。記録は焼かれたのではなく、単に散逸した。艦隊が解体され、担当官庁が縮小され、南京から北京への遷都で書庫が移り、明末の戦乱があり、宮中の火災があった。誰も保存しようとしない書類は、放っておけば数十年で消える。焼却犯を探すより、こちらのほうが現実的だ。

焼けていない証拠が、二百年後の兵法書から出てきた

そもそも、全部が消えたわけではない。

一六二八年に刊行された『武備志』という軍事百科事典がある。編者は茅元儀。この本の巻末に、いわゆる「鄭和航海図」が収録されている。西洋の研究者が編者の祖父の名を取って毛坤図と呼ぶ、あの帯状の海図だ。

原形は縦二十・五センチ、横五百六十センチの巻物で、書籍化に際して四十ページに分割された。掲載された地名は四百九十九、うち四百二十三が現代の地名に同定されている。中国沿岸から東南アジア、インド、アラビア、東アフリカまで。さらに末尾には四つの「過洋牽星図」が付いていて、スマトラからセイロン、ホルムズからカリカットといった区間ごとに、特定の星の高度を指の幅で測って緯度を保つ方法が示されている。アラブ航海術のカマルと同系統の技術だ。

つまり、艦隊の航海図は生き延びた。二百年後の兵法書のなかに紛れ込むかたちで。焼却説が正しければ、これが残っているのは説明しにくい。

同じように、馬歓の見聞録も、費信の記録も、鞏珍の記録も、劉家港と長楽の石碑も残っている。消えたのは主に行政文書、つまり官僚機構が管理していた種類の書類だ。それは焼却よりも、組織の解体と無関心によって消えるものの典型である。

馬歓、費信、鞏珍――現場にいた三人が書き残したもの

一次史料の話をもう少し掘る。焼却説に比べてまったく話題にならないが、こちらのほうが読み物として面白い。

馬歓は浙江の会稽出身のムスリムで、生年は一三八〇年ごろ。アラビア語ができたため通訳として艦隊に採用され、第四次、第六次、第七次の三回に乗り込んでいる。第七次では分遣隊に加わってメッカまで行った。

彼の『瀛涯勝覧』は、一四一六年ごろ書き始められ、最終稿は一四五一年ごろ。二十カ国あまりについて、地理、政治、気候、産物、通貨、風俗、宗教、そして刑罰の方法まで細かく書き留めている。これがとにかく即物的で、たとえばカリカットの市場で仲買人が客と売り手のあいだに立ち、指を握り合って値段を決め、いったん決まったら決して覆さないという商慣習を、感心した調子で記録している。象や犀の話も、王族の食事の作法も、宗教行事の日程も同じ密度で書く。学者ではなく、実務通訳の目線なのが良い。

費信は江蘇の太倉出身で、兵士の家に生まれ、兄の代わりに軍役に就いたところから艦隊に加わった。四回の航海に参加し、一四三六年に『星槎勝覧』をまとめた。四十カ国以上を扱っており、自分で見た国と、伝聞で書いた国を区別している。詩を挿入する癖があって、風景の描写は馬歓より文学的だ。

鞏珍は南京の出身で、第七次航海に幕僚として乗った。一四三四年に『西洋番国志』を書いている。この人が貴重なのは、艦隊の運用に踏み込んだ記述を残している点だ。淡水の確保方法について、船に水槽を設けて雨水と寄港地の水を貯め、それが二万人以上の艦隊にとって死活問題だったことを書いている。また、船団が羅針盤と星の高度、そして水深測定を組み合わせて位置を出していたことも記す。艦隊がどう動いていたかを知る手がかりとしては、正史よりよほど役に立つ。

この三人の記録があるおかげで、われわれは航海の実態をかなり具体的に語れる。焼かれた書類のことばかり話題になるが、残ったもののほうが情報量は多い。

ガレの石碑と、ラム島の陶片

現地に残る痕跡の話をする。

東南アジアには三保廟、サンポーコンと呼ばれる廟が点在している。インドネシアのスマラン、マラッカ、チルボン。スマランでは鄭和が上陸して洞窟で休んだという伝承があり、その洞窟が聖地になっている。街の名前そのものが三保に由来するという説まである。

ここで祀られている鄭和は、もはや歴史上の提督ではなく、海の守護神と土地神を兼ねた存在だ。ムスリムだった人物が中国系の道教的な廟で香を焚かれ、同時に地元のムスリムからも参拝されるという、宗教の境界が溶けた状態になっている。マラッカには三宝山という丘と三宝井という井戸があり、艦隊が掘ったと語り継がれている。

ケニアの話はもっと生々しい。ラム諸島のパテ島やシユといった集落に、自分たちは難破した中国船の乗員の子孫だと言い伝える家系がある。中国風の陶器の破片が家に伝わっていたり、埋葬の形式が周囲と違ったりする。二〇〇五年、この伝承を持つ家系の女性、ムワマカ・シャリフが中国政府の招きで留学し、大きく報道された。二〇一〇年前後には中国とケニアの合同チームによる水中考古学調査がマリンディ・ラム沖で行われ、明代の陶磁片が引き上げられている。二〇一三年にはマンダ島の発掘で永楽通宝が出土した。これは鄭和の艦隊が配った可能性のある通貨だ。

ただし、慎重に言うと、これらは「鄭和の船がそこで沈んだ」ことの証明にはならない。インド洋の交易網は鄭和以前から千年単位で機能していて、中国の陶磁器も銅銭もアラブやインドの商船を通じて日常的にアフリカ東岸へ流れていた。永楽通宝一枚では、それが誰の船から落ちたかは決まらない。DNA調査についても、東アフリカ沿岸部の遺伝的多様性はもともと非常に高く、決定的な結論は出ていない。ロマンとしては最高だが、証拠としてはまだ弱い。この距離感を保ったまま語るのが、この手の話の作法だと思う。

一四二一年、中国は世界を発見した――と言い張った元潜水艦長

派生説の親玉がこれだ。

二〇〇二年、ギャヴィン・メンジーズという元イギリス海軍の潜水艦艦長が『1421 中国が新大陸を発見した年』を出した。主張はこうである。第六次航海の艦隊は分派して地球全体を回った。洪保、周満、周聞、楊慶といった提督が指揮する四つの分艦隊が、南北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、南極、グリーンランドに到達し、マゼランより百年早く世界一周を達成した。ヨーロッパの大航海時代は、中国が作った海図の写しをもとに始まったにすぎない。

売れた。バンタム・プレスが五十万ポンドの前払いを払い、翻訳は数十言語、販売部数は百万部を超え、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに数週間居座った。もともとの原稿は千五百ページあって出版不能と判断され、ゴーストライターのニール・ハンソンが書き直した。最終版には百三十人以上が関わったという。つまりこれは、一人の思いつきをプロの出版チームが商品に仕上げた本である。

学界の反応は容赦なかった。歴史学者のロバート・フィンリーは『ジャーナル・オブ・ワールド・ヒストリー』で、証拠の扱いが無謀で、論証が完全に循環しており、提示された証拠は偽物、主張は馬鹿げていると書いた。シンガポール国立大学のジェフ・ウェイドは、これは歴史小説であり、中国側の証拠は一片も存在しないと断じた。蘇明陽、金国平、マリャーン・ペレイラ、フィリップ・リヴァースらは連名で、明の遠征がアフリカを越えた証拠となる文書も遺物も一つとしてないという声明を出した。

フェリペ・フェルナンデス=アルメストにいたっては、著者は詐欺師か阿呆かのどちらかだ、という趣旨の一文を残している。美術史家のマーティン・ケンプは、似ているというだけで模写だと断定する手つきを批判した。ヒストリー・ニューズ・ネットワークの投票では「現在流通する信頼できない歴史書」の三位に選ばれた。二〇〇四年にはPBSがドキュメンタリーで主要な主張を検証し、片端から否定している。

メンジーズは二〇〇八年に『1434』を出し、今度は中国の使節団がイタリアに到達してルネサンスを引き起こしたと主張した。批判はさらに強まったが、本はまた売れた。

一四一八年の地図が出てきた、という騒ぎ

二〇〇六年一月、上海の弁護士・劉鋼が一枚の世界地図を公開した。「天下諸番識貢図」と題され、一七六三年に莫易仝という人物が一四一八年の原図を模写したという注記がある。そこには南北アメリカもオーストラリアもアフリカも、おおむね正しい形で描かれていた。もし本物なら、コロンブス以前に中国が世界の輪郭を把握していたことになる。メンジーズ支持派は狂喜した。

放射性炭素年代測定では紙が十八世紀後半のものと出た。つまり一七六三年の写しという主張とは矛盾しない。だが問題は紙ではなく中身だった。

浙江の地図史研究者らが内容を精査すると、描かれた海岸線と地名は、明らかにヨーロッパ製地図の系統に属していた。使われている外国地名の漢字表記が、清代後期、それも十九世紀に定着した訳語の形になっている箇所がある。カリフォルニアの描き方、大陸の輪郭の癖、経緯線の扱い。どれもイエズス会経由でもたらされた西洋地図を下敷きにした痕跡を示していた。一四一八年の中国人が独力で描いたものではなく、後世の中国人が西洋地図を写した、あるいは意図的に作られた偽物である。

結論はほぼ出ている。それでもこの地図の画像は、いまだにSNSで「教科書が教えない真実」として定期的に再浮上する。

南極と、オーストラリアと、際限のない拡張

派生説はさらに枝分かれしている。

オーストラリア到達説では、ダーウィン近郊で発見されたとされる寿老人の石像や、ニューサウスウェールズの難破船の噂が根拠に挙げられる。地理学者のビル・リチャードソンは、メンジーズが持ち出したオーストラリア関連の証拠を個別に検証し、年代も出所も成立しないことを示した。石像については十九世紀以降に持ち込まれた可能性が高い。

南極説にいたっては、根拠が「ピリ・レイスの地図に南極らしき海岸線がある」という別系統の疑似歴史からの借用である。ピリ・レイスの地図そのものはオスマン帝国の実在の海図だが、南方に描かれた陸地は南米の海岸線を横倒しにしたものと解釈するのが標準的だ。そこに鄭和を接続する根拠は何もない。

アメリカ到達説の傍証としてよく出るのが、南米の鶏のDNAとか、ロードアイランドのニューポート・タワーとか、北米で見つかった中国風の石碑といったものだが、いずれも独立には成立しない。鶏のDNA研究はポリネシア経由の伝播を示唆する方向で議論されており、中国艦隊とは結びつかない。ニューポート・タワーは植民地時代の建造物とする年代測定結果が出ている。

そして忘れてはいけないのが、宝船巨大説それ自体も派生説の一つだということだ。四十四丈という数字は、明代の小説家が想像で書いたものが正史に紛れ込んだ。それが現代では「中国は十五世紀に一万トン船を造っていた」という言説になって流通している。焼却説も、巨大船説も、アメリカ到達説も、構造は同じである。実際にあった凄い話に、あとから桁を足していく。

永楽帝はなぜ二百隻を出したのか

ここで政治の話をしておく必要がある。あの艦隊は貿易のために出たのではない。

永楽帝は簒奪者だった。甥から帝位を奪い、その治世の年号を歴史から抹消し、反対した官僚を一族もろとも処刑し、実録を何度も書き換えて自分こそ正統な後継者だったことにしようとした。母親を誰にするかまで書き換えている。この男が生涯抱えていたのは正統性の欠落である。

正統性を可視化する方法はいくつかある。北京への遷都と紫禁城の造営。大運河の再整備。『永楽大典』の編纂。モンゴル親征。ベトナム併合。そして、世界の果てから朝貢使節と聖獣を呼び寄せること。艦隊はこの最後の項目を担当する装置だった。皇帝の徳が四海に及んでいるという主張を、物理的に演出する。だからこそ黄金や絹を大量に配って回り、見返りに珍獣と使節を持ち帰った。収支だけ見れば、これは持ち出しの多い事業になりやすい。

朝貢体制の仕組みも押さえておきたい。明は建国当初から海禁を敷いていた。一三七一年、洪武帝が民間人の海上渡航を禁じ、のちに「板一枚も海に入れてはならない」と表現される厳しい統制が敷かれた。密貿易と海賊を抑えるためというのが名目だが、結果として対外交易の窓口は朝貢に一本化された。

外国の王が使節を送り、明の皇帝が冊封して回賜を与える。この形式でしか物は動かない。永楽帝の時代、朝貢国は十七から六十以上に急増した。艦隊が出ていたからである。艦隊が止まると数は落ち、十五世紀末には数カ国まで減った。この因果関係は驚くほどはっきりしている。

中国はなぜ海から降りたのか

そして最大の謎に入る。あれだけの能力を持ちながら、明はなぜ海をやめたのか。

古典的な説明は儒教保守主義だ。文官たちが商業と対外進出を賤しみ、宦官が主導する事業を憎み、皇帝を説得して中止させた。わかりやすいし、劉大夏の逸話とも噛み合う。だが近年の研究では、この説明はかなり分が悪くなっている。

第一に、航海は言われるほど赤字ではなかった可能性が高い。持ち帰った香辛料や染料は国庫に入り、官僚への俸給の一部を胡椒で払っていた時期すらある。国家財政を傾けるほどの負担だったという証拠は薄い。

第二に、実際に何が起きたかを見ると、これは思想闘争というより予算と権限の奪い合いに見える。宝船の事業は皇帝と宦官機構が直接動かすもので、文官の財政管理の外にあった。皇帝が自由に使える財源と実行部隊を持つことは、官僚機構にとって統制不能の権力である。だから潰した。一四三五年に宣徳帝が死に、九歳の皇帝が即位して文官が実権を握ると、海洋関連の官庁が畳まれ、遠洋船の建造が禁じられ、税糧の海上輸送が運河に切り替えられ、外国使節の受け入れ規則が厳しくされた。順番が思想ではなく制度から始まっている。

第三に、そもそも国家の脅威が北にあった。モンゴルの圧力は消えていない。一四四九年には皇帝自身がモンゴル軍の捕虜になるという事態まで起きる。北方の陸上国境に予算と兵力を集中させるのは、地政学的にはむしろ合理的な判断だった。海の向こうに明を脅かす勢力は当時いなかった。存在しない脅威に艦隊を張り付ける理由がない。

第四に、大運河が一四一五年に整備を終えたことが効いた。それまで首都への物資輸送には沿岸海運が使われていて、遠洋航海の技術と人材はその副産物でもあった。運河が通ると海運は不要になる。造船所は仕事を失い、水夫は散り、技術は継承されなくなる。三十年もあれば、七十メートルの外洋船を造れる職人はいなくなる。

要するに、誰かが決断して海を捨てたというより、海に出る理由が一つずつ消えていって、最後に誰も再開できなくなった、というのが実態に近い。この過程は劇的ではない。だからこそ「文官が記録を焼いた」という一撃必殺の物語のほうが、圧倒的に語られやすい。

なぜこの物語は今も売れ続けるのか

最後に、この話が持つ引力について考えたい。

鄭和の物語には、歴史好きが好むものが全部入っている。圧倒的なスケール。異形の英雄。到達と撤退。そして失われた記録。

特に最後の一つが強い。記録が消えているという事実は、あらゆる想像を許可してしまう。実際に何が書かれていたかわからない以上、そこに何を書いても否定されにくい。焼却説はメンジーズ的な主張の前提でもある。証拠がないことが、証拠が消された証拠として使われる。この構造を持つ話は、原理的に反証できない。だから死なない。

もう一つ、この物語は明確な政治的需要にも応えている。西洋中心の世界史像に対する反転として、これほど気持ちのいい素材はない。近代のはじまりをヨーロッパの独占物ではなくすという企図自体は、学問的にも真っ当な問題設定だ。ただ、そこに事実でないものを注入すると、かえって本物の成果まで疑われる。鄭和の艦隊は、脚色なしでも十五世紀最大の海洋事業である。そこに南極まで足すのは、金の延べ棒に金メッキを塗るような行為だ。

そして現代中国での再評価がある。二〇〇五年、初航海六百周年に合わせて大規模な記念事業が行われ、七月十一日が「航海の日」に制定された。海軍の練習艦に鄭和の名が付き、南京の遺跡は公園として整備され、博物館ができた。海上シルクロードを掲げる現在の対外政策のなかで、鄭和は「武力で征服せず交易と友好で結んだ航海」の象徴として頻繁に引用される。実際にはスリランカで王を拉致し、パレンバンで五千人を殺し、スマトラで簒奪者を処刑している艦隊なのだが、象徴として使われるときにその部分は前に出ない。歴史上の人物が国家の物語に組み込まれると、こうなる。それ自体は中国に限った話ではない。

面白いのは、脚色を剥がしていくと、残った素の事実のほうが強いことだ。雲南の内陸で生まれ、十歳で父を失い、去勢されて宮廷に入った男が、四十代から六十代までの三十年近くを海の上で過ごし、アフリカまで行って帰ってきて、最後は海に沈んだ。全長七十メートルの木造帆船が二百隻、二万七千人を載せて季節風に乗る。一四〇五年に。それだけで十分すぎる。

芯を捨てるのも、層を信じるのも、どちらも間違いになる

ここから先は総括と、本文に収まりきらなかった追加の考察をまとめて置いておく。

まず、この題材を扱うときに一番厄介なのは、真偽の判定が「本当か嘘か」の二値にならないことだ。

宝船の四十四丈は、完全な嘘ではない。明代に本当に巨大船があったこと自体は、遺跡の作塘の規模と舵柱の存在が支持している。ただ、その巨大さが正史に載る過程で小説を経由し、桁が変わった。

焼却説も、完全な嘘ではない。記録が失われたのは事実で、劉大夏という人物も実在し、彼が航海事業に否定的だったことも当時の文脈から見て不自然ではない。ただ、隠したという記述が焼いたに変わり、百年後の伝聞が同時代の証言に格上げされた。

どちらも、事実の芯に脚色の層が巻き付いている。芯を捨てるのも、層を信じるのも、どちらも間違いになる。

次に、史料状況をもう一段細かく見ておく。鄭和の航海を語るための一次史料は、大きく四種類ある。同行者の見聞録、つまり馬歓、費信、鞏珍。艦隊自身が建てた石碑、つまり劉家港と長楽の二基とガレの三カ国語碑。実録などの官撰記録に残る断片。そして『武備志』に紛れ込んだ航海図。

この四つを突き合わせると、七回の航海の年次、主要な寄港地、事件、朝貢国の名前まで、かなりの精度で再構成できる。逆に言えば、これでわからないのは細部だ。船一隻ごとの寸法、積荷の総量、人員の名簿、日ごとの航海日誌。消えたのはまさにそこである。

行政の実務文書だけが選択的に失われているというのは、焼却よりも、担当官庁の消滅という説明とよく合う。日誌を保管する部署がなくなれば日誌は消える。石碑と個人の著作は部署に属していないから残る。この分布が全部を語っている気がする。

平和的交易でも帝国主義でもない、朝貢という装置

第三に、艦隊の「平和性」をめぐる議論を整理しておきたい。

中国側の公式な語りでは、鄭和の航海は領土を奪わず、植民地を作らず、交易と友好に徹したものだとされる。これは西洋の大航海時代との対比として持ち出される。この対比には一定の妥当性がある。明は現地に総督府を置いて統治しなかったし、大規模な奴隷貿易も行っていない。旧港に置かれた宣慰司も、実態は現地華僑への肩書き付与に近い。ヨーロッパ諸国がのちにアジアで行ったことと比べれば、性格はたしかに違う。

しかし同時に、艦隊は三度にわたって軍事力を行使している。パレンバンで海賊集団を殲滅し、セイロンで王都を落として王家を連行し、スマトラで政権交代に介入して簒奪者を処刑した。いずれも、明の秩序観に反する相手への懲罰として実行されている。

これは領土征服ではないが、圧倒的な軍事力を背景にした秩序の強制ではある。二万七千人の武装集団が港に現れるという事実そのものが、交渉のテーブルの傾きを決める。平和的交易だったという説明も、帝国主義的だったという説明も、どちらも一面しか見ていない。朝貢体制という枠組みは、征服せずに序列を作る仕組みであって、その序列を受け入れない相手には武力が向く。そういう装置だった、と理解するのが一番近い。

第四に、なぜ焼却説がこれほど強い感情を呼ぶのかを考えたい。

この物語は「もしあのとき続けていたら」という反実仮想と直結している。中国が海洋進出を続けていたら、世界史はまったく違う形になっていたのではないか。この問いは、中国の読者にとっては近代の屈辱への説明になり、西洋の読者にとっては自分たちの優位が必然でなかったことの確認になる。どちらの側にも需要がある。

そして、そこに「一人の頑迷な官僚が記録を焼いたせいで」という単一原因を置くと、話は一気に飲み込みやすくなる。歴史の巨大な転換を、一人の悪役の一つの行為に還元する。これは物語としては最高で、歴史としては最悪の型である。

実際には、明が海から退いた理由は複合的で、しかもその多くは短期的には合理的だった。北の国境が最大の脅威だった。運河が完成して海運の必要が減った。皇帝の直轄事業を官僚機構が嫌った。皇帝が幼く官僚の力が強い時期が続いた。造船技術は使われなければ数十年で失われる。どれ一つとして「愚かな決断」ではない。合理的な判断の積み重ねが、結果として不可逆の撤退になった。こういう形の歴史のほうが、実は世の中には多い。

数字は、訂正よりも早く増殖する

第五に、宝船論争の副産物として面白いのが、「なぜ人は船を大きくしたがるのか」という問題だ。

四十四丈という数字を最初に書いたのは小説家である。彼は艦隊の凄さを表現するために、想像しうる最大の数字を置いた。その数字が正史に入り、正史に入ったから真実として扱われ、真実として扱われたから復元計画が立ち、復元計画が工学的に破綻したので数字が再検討された。この五百年のループのなかで、船は一度も実在の寸法に戻っていない。今も検索すれば「全長百三十七メートル」と書いてある記事のほうが多い。数字はいったん流通すると、訂正よりも早く増殖する。この現象自体が、この題材の一番の教訓かもしれない。

第六に、鄭和という人物の内面について、わかっていることは驚くほど少ない。

彼が書いたとされる文章は、石碑の文言くらいしかない。手紙も日記も残っていない。宦官として宮廷に入り、皇帝の信任を得て艦隊を率いたという経歴は語れるが、彼が何を考えていたかは推測するしかない。

故郷の昆陽に戻って父の墓に碑を建てさせたこと、泉州のイスラム聖墓で祈ったこと、媽祖の廟を各地に建てたこと、仏教寺院に寄進したこと。この行動の集合から読み取れるのは、複数の世界に同時に足を置いた人間の姿だ。ムスリムの家に生まれ、去勢されて漢人の宮廷で育ち、海に出れば媽祖に祈り、インド洋ではアラビア語圏の作法で交渉する。どの共同体にも完全には属していない。だからこそ、どの共同体とも話ができた。

艦隊の総司令官に彼が選ばれた理由は、案外そこにあるんじゃないかと思う。永楽帝が求めたのは、忠実で、有能で、そしてどの派閥にも根を持たない人間だった。

第七に、この物語の現代的な広がりについて。

インターネット上では、鄭和は複数の異なる文脈で登場する。中国の国力を語る文脈。ヨーロッパ中心史観を批判する文脈。疑似歴史を笑う文脈。そして純粋に「でかい船の話」を楽しむ文脈。

英語圏の歴史掲示板ではメンジーズの名前が出た瞬間に定型の反論が貼られるのが慣例になっていて、それ自体が一つの様式美になっている。日本語圏では、宝船の寸法と焼却説がセットで語られることが多く、たいてい「もったいない」という感想に着地する。スリランカやインドネシアの視点が話に入ってくることは、残念ながらあまりない。同じ艦隊が、来られた側にとってはまったく別の出来事だったという当たり前のことが、艦隊の巨大さの陰に隠れがちだ。

石を立てた男の用心深さが、六百年後に効いた

最後に、この題材を追っていて一番好きな細部を書いておく。

長楽の石碑の文面に、こういう趣旨の一節がある。われわれは十万里の波濤を越え、海に立つ山のような高波を見た。異域の風土と人々を望み、帆を上げれば雲のように連なり、昼夜を分かたず星を見て進んだ。天妃の霊験がなければ、これを果たすことはできなかった。

これを刻ませたのは、七度目の出航を控えた六十歳の男である。彼はこの航海から帰ってこない。石を建てた時点でそれを予感していたかどうかはわからない。

ただ、二十六年間の航海を要約して石に残しておこうと考えた人間の判断は、結果として正しかった。紙の記録は消え、石だけが残った。焼かれたのか散逸したのかは今も決着していないが、少なくとも彼は、自分の航海が忘れられる可能性を計算に入れていたように見える。

福建の海辺に石を立てた男の用心深さが、六百年後のわれわれに七度の航海の年表を届けている。海に沈んだ提督が最後に残した保険が、ちゃんと効いたわけだ。

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