まずは有名なほうの話から始めよう。1829年のクリスマス、ドイツ北部メクレンブルクの貧しい牧師の家に、7歳の男の子がいた。父親からのプレゼントは、イェラーという人物が書いた子ども向けの『世界歴史』。ページをめくった少年は、一枚の挿絵に釘づけになる。炎に包まれたトロイアの城壁。老父アンキセスを背負って逃げるアイネイアス。少年は父に訊いた。トロイアって、本当にこんな大きな壁があったの。父は答える。あれは詩人のつくり話だよ。少年は食い下がった。こんな立派な壁が絵に描けるなら、それは本当にあったはずだ。いつか僕が掘り出してみせる。
ハインリヒ・シュリーマン。近代考古学でいちばん有名な原風景が、この場面だ。少年時代の夢を40年後に自力で叶えた男。学者じゃない、商人だ。金を稼いで、その金で神話を掘った。世界中の子ども向け偉人伝に載っている。日本の学習漫画にも載っている。
そして、この場面はほぼ確実に、後年の彼が机の上でこしらえた作り話だ。
7歳の誓いを書いたのは、55歳の男だった
この逸話が活字になった本格版は、1880年の『イリオス――トロイア人の都市と国』の巻頭に置かれた自伝的な序章だ。前身にあたる文章は1869年の『イタケー、ペロポネソス、トロイア』にもあるが、そこでの誓いの場面は、今ほど劇的じゃない。
つまり、年を追うごとに話がうまくなっている。挿絵の記憶が鮮明になり、父との会話が具体的になり、決意の言葉が磨かれていく。決定版は死後の1892年、未亡人ソフィアが編んだ『自伝』でさらに整えられた。この「原風景」は、発掘に成功した後の彼が、成功を説明するために逆算して書いた物語なんだよな。
疑いを最初に正面から突きつけたのは、アメリカの古典学者ウィリアム・M・カルダー3世だ。1972年、シュリーマン生誕150年を記念して故郷ノイブーコウで開かれた講演の場だった。カルダーはあろうことか、その祝賀の壇上で「彼の自伝はほとんど信用できない」とやった。会場は凍りついたと伝わる。
カルダーが突いたのは、細かい話じゃない。少年時代の誓い、アメリカ市民権の取得時期、大統領との会見、語学習得の速度。そういった自己申告のほぼ全部が、他の史料と突き合わせると合わない。そういう指摘だった。
そこから20年かけて、この作業を執念で完遂したのがカリフォルニア大学デイヴィス校のデイヴィッド・A・トレイルだ。1980年代を通じて論文を積み上げ、1995年に『シュリーマン・オブ・トロイ――財宝と欺瞞』としてまとめた。
トレイルがやったのは、地味で強力な作業だ。シュリーマンが残した膨大な日記と書簡、それも複数言語で書かれたものを、出版された著作と一行ずつ照合していく。すると、出版物だけ読んでいたら絶対に見えない断層が次々に出てくる。日記に書いていないことが本には書いてある。日記の日付と本の日付が違う。日記では他人がやったことが、本では彼がやったことになっている。
語学の天才、というのも半分は自己申告だ
シュリーマンは13だか15だかの言語を操ったとされる。英語、フランス語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ロシア語、スウェーデン語、ポーランド語、ギリシャ語、ラテン語、アラビア語、そしてドイツ語。1言語につき6週間で習得したという本人談まである。
この語学力自体は本物だ。彼は実際に複数言語で日記を書き分けていた。滞在国の言葉でその日の記録をつけるという習慣があって、これが後にトレイルの手がかりになるという皮肉つきである。
ただし「6週間」は盛りだ。それと、彼の語学力はあくまで商売の道具だったんだよな。1841年、船乗りになろうとして乗り込んだ船が12日で難破し、オランダに流れ着く。そこで使い走りから始めて簿記を覚え、1844年3月にアムステルダムの商社に入った。1846年にはサンクトペテルブルクの総代理人として送り込まれている。ロシア語ができる西欧人というだけで、当時は希少価値があった。
扱ったのは藍の染料、つまりインディゴだ。そしてクリミア戦争のときには軍需物資の取引で大きく儲けた。硝石、硫黄、鉛。要するに火薬の材料である。トロイアを掘った金の出どころには、戦争で儲けた分がしっかり混ざっている。
サクラメントの砂金と、行ってもいない火事の目撃記
1851年、彼はカリフォルニアにいる。前年に亡くなった兄ルートヴィヒの遺産を追いかけて渡ったという名目だが、実際にはゴールドラッシュの現場で商売の匂いを嗅ぎつけていた。サクラメントで銀行業を始め、砂金を買い、精製業者へ転売する。半年で100万ドル分以上の砂金を回した。19世紀半ばの100万ドルだ。桁が違う。
この商売、きれいな話ではない。買い取った砂金を転売する際に目方が足りないという苦情が出て、ロスチャイルド系の代理人から抗議を受けている。追及が始まりかけたところで彼は病気を理由に店をたたみ、1852年4月7日に事業を売って、さっさとロシアへ帰った。この一件を、彼は自伝でまったく違う顔で語っている。
カリフォルニア時代には、決定的な作り話がもうひとつある。1851年のサンフランシスコ大火の目撃記だ。彼は炎に包まれる街を高台から見たという迫真の文章を残している。ところが日付が6月になっている。彼が書いた内容に合致する大火は、5月に起きたものだ。トレイルらの調べでは、彼はその日サンフランシスコにいなかった可能性が高い。新聞記事を読んで、自分が見たことにして書いたわけだ。
同じ時期、彼はミラード・フィルモア大統領に謁見したとも書いているが、これも裏が取れない。アメリカ市民権についても、1850年にカリフォルニアが州に昇格した時点で自動的に得たと自伝にあるのに、実際の帰化は1869年だ。しかもその1869年の帰化は、離婚を成立させるためのものだったという説が強い。
幕末の日本を、この男はうろついていた
ここで日本の話をしないと不公平だ。彼は1865年、慶応元年に日本へ来ている。世界一周旅行の途中だった。清国を回ったあと6月1日に到着し、7月4日に出発している。ひと月ちょっとの滞在だ。
その記録は『今日の清国と日本』として1867年にパリで出版された。日本では『シュリーマン旅行記 清国・日本』として石井和子の訳で講談社学術文庫に入っている。それ以前には藤川徹訳の『日本中国旅行記』が雄松堂出版から1982年に出ていた。
この本が面白いのは、書いた人間が考古学者になる前の、脂の乗った国際商人だからだ。目のつけどころが徹底して実務的で、値段と品質と人の勤勉さを見る。彼は横浜に上陸し、6月18日にはイギリス人6人と馬丁7人を連れて、馬で八王子まで往復した。道中で目にした木造家屋のなかの手織機、絹織物の店が並ぶ町並み、街道沿いの井戸まで細かく書き留めている。八王子の絹産業を、彼はビジネスの目で値踏みしていた。
そして日本人への評価がやたら高い。清国の描写がかなり辛辣なのに対して、日本については清潔さ、識字率、庶民の礼儀正しさ、役人の勤勉さを繰り返し褒める。混浴の風呂に度肝を抜かれつつ、それを淫らとは書かずに風習として扱う。江戸に入って将軍のお膝元を歩き、芝居小屋を覗き、寺を回った。日本側の史料と突き合わせると細部が合う部分も多く、幕末の外国人見聞録としてはかなり質が高い。
ただし忘れちゃいけない。この人は自分を良く見せるために平気で日付を書き換える人間でもある。旅行記のなかの「私は」の部分は、常に半歩引いて読んだほうがいい。
ヒサルルクの丘を最初に指さしたのは、彼じゃない
さて本題だ。トロイアがどこにあるかという問題は、19世紀半ばにはまだ決着していなかった。有力候補はブナルバシという内陸寄りの丘で、当時の学界はこちらを推していた。ホメロスの記述に出てくる二つの泉が近くにある、という理由だ。シュリーマンも最初はブナルバシを掘って、何も出ずにがっかりしている。
ヒサルルクの丘こそがトロイアだと主張し、実際に自腹でスコップを入れていた人物がいる。フランク・カルヴァート。1828年マルタ生まれ、ダーダネルス海峡沿いに根を張ったイギリス系レヴァント商人一族の男で、無給のアメリカ領事代理を長く務めた。兄のフレデリックが1847年にヒサルルクを含む農地を買っており、フランクはその一角、丘の半分を自分のものとして、1863年から65年にかけて試掘を進めていた。彼は地表に散らばる土器から、この丘が長期にわたって人が住んだ多層遺跡だと見抜いている。
カルヴァートには金がなかった。大英博物館に発掘資金を申請したが、断られている。当時の大英博物館は、そんな不確かな丘に金を出す気がなかった。
そこへ1868年、ブナルバシで空振りしたばかりの金持ちのドイツ人が現れる。
カルヴァートは自分の見立てを惜しみなく共有した。地形の読み方、どの層に何があるか、どこを掘るべきか、オスマン当局との交渉の勘どころ、現地の人夫の集め方まで。彼の手紙は具体的で、要するに発掘計画そのものを渡したに等しい。
その後どうなったか。シュリーマンは1870年に無許可の試掘を始め、1871年10月に本格的な発掘へ入る。そして成果が出はじめると、著作のなかでカルヴァートの名前を最小限にしか出さなくなった。『トロイアとその遺跡』でも、カルヴァートは親切な地元の紳士くらいの扱いだ。
1873年から74年にかけて、二人は決裂する。きっかけは、カルヴァートがある指摘を活字にしたことだった。ヒサルルクの層のなかには、紀元前2千年紀の中ごろ、つまりホメロスが歌ったはずの時代にあたる地層が抜け落ちているのではないか。これが後に「カルヴァートの千年のギャップ」と呼ばれる問題になる。
シュリーマンは怒り狂って反論した。自分が掘り当てた第二市こそプリアモスの都だと言い張っている以上、そこに千年の空白があると言われるのは、商品にケチをつけられるのと同じだった。
カルヴァートは1908年に死んだ。トロイア発見者として公式に記録されることは、生涯なかった。彼の名誉回復が本格的に始まるのは1999年、スーザン・ヒューク・アレンが一族に残された膨大な書簡を掘り起こして『トロイアの城壁を見つける』を出してからだ。
ちなみにカルヴァートの指摘のほうが正しかった。千年のギャップは実在した。
丘を縦に断ち割れ――大溝と、100人を超える人夫たち
1871年から73年にかけての現場を想像してほしい。ダーダネルス海峡から内陸へ少し入った、風の強い平原に浮かぶ高さ30メートルほどの土まんじゅう。それがヒサルルクだ。夏は40度近くまで上がり、蚊が湧いてマラリアが出る。冬は海からの風で凍える。宿はない。シュリーマンは掘っ立て小屋を建てて住んだ。壁板の隙間から風が入り、水は濁っていた。
彼が雇ったのは近隣の村々の農民たちだ。人数は季節と資金で変動したが、多い時期には150人前後、記録によっては200人近くが同時に動いていた。ギリシャ系、トルコ系、ユダヤ系が混ざり、給金は日払い。監督にはギリシャ人の親方を立て、オスマン政府からは監視官が張りついた。道具はつるはし、シャベル、手押し車、そして荷車。土を運び出すためのトロッコまで持ち込んでいる。
方針は単純にして乱暴だった。ホメロスのトロイアは一番古い層にあるはずだ。だから上を全部どけろ。
彼は丘を北から南へ縦に断ち割る巨大な溝を掘らせた。幅はおよそ40メートル、深さは15メートルを超えた。土の壁が両側にそそり立つ人工の峡谷で、上から見ると丘に大きな切り傷が入っているように見える。今でも遺跡に行くとこの溝は残っていて、「シュリーマンの溝」と呼ばれている。観光名所であり、同時に考古学史上最大級の破壊の跡でもある。
なぜ破壊かというと、彼が「上をどけろ」と言って捨てた層のなかに、後にホメロスのトロイアの最有力候補となる第6市と第7市が含まれていたからだ。青銅器時代後期の城壁も、家屋も、床も、土器も、まとめて掘り崩されて捨て土の山になった。後年、彼の助手になった建築家ヴィルヘルム・デルプフェルトが層位を整理し直したとき、決定的な部分がすでに存在しなかった。
アメリカの考古学者ケネス・ハールは辛辣だ。シュリーマンはギリシャ人にできなかったことをやり遂げた、トロイアの城壁を根こそぎ地面まで平らにしたのだ、と皮肉っている。
記録の粗さも致命的だった。出土品がどの深さのどこから出たかを、彼はほとんど記していない。層ごとの土器の並べ方も、後から辻褄を合わせるように書き換えられた形跡がある。19世紀の水準を考えれば酷だというのが擁護派の言い分で、実際カール・ブレーゲンは、1876年より前に発掘の正しいやり方を知っていた者などほとんどいなかったと弁護している。
それはそうなんだが、同じ時代にカルヴァートは丁寧に掘っていたし、デルプフェルトはオリュンピアで層位の取り方を学んでいた。方法論が存在しなかったのではない。彼が急いでいたのだ。
「金だ、金が出た」――1873年、財宝が出た朝のこと
そして問題の場面が来る。3シーズン目の終わり、発掘を打ち切る直前だった。丘の西側、彼が「プリアモスの宮殿」と信じた建物と城壁のあいだの土のなかに、銅らしきものの光が見えた。
彼が後に書いた話はこうだ。土のなかに大きな銅の器の縁が見え、その裏に金の輝きがあった。彼はとっさに人夫たちへ向かって、今日は自分の誕生日だから特別に早い休憩をやる、と嘘をついた。パイドスと呼ばれる休憩を宣言して全員を追い払い、崩れかけた土壁の下に自分ひとりで潜り込み、大きなナイフを使って掘り出しはじめた。頭上の土塊はいつ落ちてきてもおかしくなかった。妻ソフィアが赤いショールを広げ、彼が掘り出す品を次々に受け止めた。銅の大皿、銀の壺、金の杯、そして小さな金の粒が土のなかから雨のようにこぼれてくる。二人はショールに包んで小屋へ運び、鍵をかけた部屋で数えた。
出てきた物量は圧倒的だ。金の頭飾りが2つ。細い金鎖と葉形の飾り板を無数に垂らした、いわゆるディアデムである。大小の金の耳飾り、腕輪、ボタン、そして小さな金の指輪がおよそ8750個。金の杯、銀の壺、銅の大皿と鍋、青銅の槍先や斧、短剣。ざっと1万点近い金属製品と装身具の集合体だった。
彼はこれを「プリアモスの財宝」と名づけ、頭飾りには「ヘレネの宝玉」という名をつけた。
冷静に考えれば、この命名は根拠ゼロだ。プリアモスの持ち物だという証拠は何もない。銘文もない。だが名前がついた瞬間、それはただの青銅器時代の金細工から、世界文学の登場人物の遺品になった。彼は考古学者である以前に商人で、商人はブランディングを知っている。
ソフィアに宝飾を着せたあの写真は、何をやっていたのか
いちばん有名な写真がある。若い女性が金の頭飾りをかぶり、大ぶりのイヤリングを下げ、胸に金の飾りを重ねて、まっすぐ正面を見ている。ソフィア・シュリーマン、旧姓エンガストロメノス。1852年アテネ生まれ、結婚したとき17歳、相手は47歳だった。
この結婚もなかなかの話だ。シュリーマンは最初の妻エカテリーナ・リシナと別れたあと、ギリシャ人の知人である主教テオクレトス・ヴィンボスに「ホメロス的な精神を持つ黒髪のギリシャ娘」を探してほしいと依頼した。送られてきた候補者3人の写真から選んだのがソフィアである。1869年9月に結婚。子どもにはアンドロマケとアガメムノンという名をつけた。
写真の話に戻ろう。あれは発掘記録写真ではない。アテネのスタジオで撮られた、完全な演出写真だ。しかもソフィアは、財宝が出たとされる時期、現場にいなかった可能性が極めて高い。彼女は父の死去にともなってアテネの実家に戻っており、ヒサルルクを離れていた。
つまり赤いショールで金を受け止めた妻は、その場にいなかった。
この点についてはシュリーマン本人が後に認めている。妻の出番を大きく書いたのは創作だった、と。ただしその告白は公の場でというより私信のなかの話で、出版物のほうは訂正されないまま世界中に広まった。写真は絵葉書のように複製され、19世紀ヨーロッパの想像力のなかで「ヘレネの装身具を身につけた現代のギリシャ女性」というイメージが独り歩きしていく。宝飾を着せられた17歳の妻は、要するに広告塔にされたわけだ。
彼女自身の名誉のために書いておく。ソフィアは後にミケーネの発掘で実務を担い、夫の死後は自伝の編纂を行い、1902年には結核療養所の建設を支援した。1932年に80歳で死んだときには国葬級の扱いを受けている。飾りを着せられただけの人ではない。
見つけた日はいつなんだ問題
ここからが泥沼だ。「プリアモスの財宝」の発見日が、資料によって違う。
ドイツ語で書かれた記録には5月31日とあり、英語版の著作では5月27日ごろになっている。ところが彼自身の日記や、同時期にやりとりされた書簡を追うと、6月中旬、17日前後を示唆する記述が出てくる。1日2日のズレなら記憶違いですむ。3週間はすまない。
トレイルの追及はここに食い込んだ。日付が動く理由として彼が想定したのは、発掘許可の有効期限、オスマン監視官の不在期間、ソフィアの滞在期間、そして財宝を国外に持ち出すための船の日程だ。どれも「都合のいい日付」を必要とする要因になる。
とくにソフィアの件は分かりやすい。彼女が現場にいたことにしたいなら、発見日を彼女の滞在期間内にずらせばいい。逆に密輸の足がつかないようにしたいなら、監視官が別の場所にいた日にずらせばいい。
擁護側の反論もある。イギリスのドナルド・イーストンは、シュリーマンの記録の混乱を悪意ではなく雑さの産物として読む立場だ。1998年の論考では、彼は事実と解釈を切り分けるのが下手だっただけだと書いている。日記は複数言語で書き殴られており、日付欄が空白の日もある。後から清書するときに前後した可能性は十分ある、という筋だ。
ただしイーストンも、日付が動いていること自体は否定していない。動いた理由が悪意か杜撰さかで割れているだけである。
疑い其の一、あれは「ひとつの宝」ではなかったのでは
これが現在いちばん有力な批判だ。プリアモスの財宝と呼ばれるあの一群は、本当に一つの穴から一度に出てきたのか。
疑う根拠はいくつもある。まず、品目の様式にばらつきがある。制作年代に幅がありそうな品が混ざっているのだ。次に、シュリーマンが3シーズンにわたる発掘の途中でも、あちこちから金製品を単発で見つけていたことが日記から分かる。当時の彼は資金繰りに悩み、成果を求められていた。そして極めつけに、彼は財宝の出土地点を著作のなかで少なくとも2回、違う場所として説明している。城壁の外だと書いたり、宮殿の壁際だと書いたりしているのだ。
そこから導かれるのが寄せ集め説である。数シーズンにわたって別々の場所から出た金属製品を、発掘終了のタイミングで一つの「発見」としてまとめ上げ、劇的な物語をつけて発表した。個々の品はどれも本物の青銅器時代の遺物だが、「一つの財宝」という枠組みだけが人工物だ、という説明になる。
これなら、日付の混乱も、出土地点の食い違いも、様式のばらつきも一度に説明がつく。研究者のあいだでは、少なくとも一部の品が別由来である可能性は広く認められている。
疑い其の二、そもそも贋作が混ざっているのでは
もっと過激な立場もある。品そのものが偽物、あるいは近隣の別の遺跡から買い集めたものが混ざっている、という説だ。
根拠として持ち出されるのは、彼が現地の骨董商や墓荒らしから遺物を買っていた形跡があること。そして発掘の初期に「あるはずのものが出てほしい」という圧力に強くさらされていたことだ。19世紀のアナトリアには古物市場が成立していて、金製品はいくらでも手に入った。シュリーマンには資金があった。動機、機会、手段が揃っている、という言い方をされる。
ただしこの説は、決定的な物証を出せていない。プリアモスの財宝の主要な品は、その後の科学的分析で青銅器時代前期の金細工と整合する組成と技法を示している。第三千年紀の他の遺跡から出た金製品と、技術的に矛盾しない。だから現在の主流は、品は本物、枠組みは怪しい、という中間の評価に落ち着いている。全部偽物という立場を取る専門家は、ほとんどいない。
疑い其の三、カルヴァートの功績はどこへ消えたのか
功績横取り説については、もう半分書いた。ここでは規模の話をしたい。
カルヴァートが提供したのは、単なるヒントじゃない。丘の同定、地表調査の結果、自分が掘った試掘坑のデータ、土地の権利、そしてオスマン当局への口利き。発掘の最初の数年、シュリーマンはカルヴァート家の土地の上で、カルヴァートの見立てに従って掘っていた。共同事業と言っていい実態がある。
にもかかわらず、著作のなかでカルヴァートは徐々に背景に退き、決裂後は敵として扱われる。シュリーマンは彼を無知な素人扱いする文章まで残した。金と発信力と語学力を持つ側が、地味に正しかった側の名前を歴史から消していく過程が、ここでは書簡という形でくっきり残っている。アレンの1999年の研究がやったのは、その書簡を並べ直すことだった。
余談だが、シュリーマン自身が「素人が学界を出し抜いた英雄」として売り出した人物であることを考えると、この構図は二重に皮肉だ。彼が踏みつけた相手も素人だったのだから。
疑い其の四、掘る層を1000年間違えていた
これは説というより、もう確定した誤りである。
ヒサルルクには9つの主要な層があり、下から順にトロイア第1市から第9市と番号が振られている。第1市はおよそ紀元前3000年から2550年、最上層の第9市はローマ時代を経て紀元後500年ごろまで続く。約4000年分の堆積だ。ブレーゲンの調査では、これがさらに46の小層に分かれる。
シュリーマンが「プリアモスの都」と断定した焼けた層、第2市は、紀元前3千年紀のものだ。ホメロスが歌った戦争の想定年代より1000年以上古い。青銅器時代前期であって、ミケーネ文明はまだ存在すらしていない。金が出たから、焼けているから、これがトロイアだ。要するに願望だった。
軌道修正をしたのはデルプフェルトである。1882年からシュリーマンの現場に入り、1890年の最後のシーズンを経て、シュリーマンの死後は未亡人ソフィアに雇われて発掘を継続した。1893年から94年の調査で、彼は第6市の巨大な石灰岩の城壁と塔を掘り出す。整った切石積み、傾斜のついた壁面、堂々たる規模。これこそホメロスの「城壁うるわしきイリオス」だと彼は主張し、1902年に『トロイアとイリオン』としてまとめた。この時点で、シュリーマンの第2市説は考古学的に葬られている。
さらに1932年から38年、シンシナティ大学のカール・ブレーゲンが本格的な層位調査を行った。彼の判断では、第6市の最終段階は倒壊した石積みと地盤沈下の跡から地震による崩壊の可能性が高く、火災の痕跡も戦死者の遺体もない。
かわりに彼が推したのが第7市a層だ。紀元前1180年ごろ、明確な焼け跡とともに終わっている。城塞のなかは小さな家でびっしり埋まり、床に巨大な貯蔵甕を埋め込んで食料を溜め込んでいた。人が城壁のなかに逃げ込んで籠城したように見える。矢尻が出て、投石弾が出て、路上で死んだと思われる人骨も出た。現在の議論では、ホメロス的なトロイア陥落の考古学的候補として、この第7市a層が最有力になっている。
つまりシュリーマンは、探していたものを掘り当てるために、探していたものを掘り捨てていた。この構図が、彼の生涯でいちばん美しい皮肉だと思う。
「私はアガメムノンの顔を見た」という電文は、たぶん打たれていない
トロイアの3年後、1876年に彼はギリシャ本土のミケーネへ移り、獅子門の内側で竪坑墓群を掘り当てた。円形墓域Aと呼ばれる場所だ。ここから、黄金の副葬品を大量にまとった遺体が出てくる。埋葬された男性8人のうち5人に金の顔面マスクがかぶせられていた。第4号墓に3つ、第5号墓に2つ。
そのうちの1つが「アガメムノンのマスク」である。彼はギリシャ国王ジョージ1世に電報を打ち、「私はアガメムノンの顔を見た」と伝えた、ということになっている。
だがこの電文の原本は確認されていない。カルダーはこの決め台詞自体が後づけの可能性を指摘した。実際に彼が書いた文言は、もっと散文的な報告だったらしい。名台詞は、後から誰かが磨いたわけだ。
そしてマスク本体にも疑いがかけられている。年代はおよそ紀元前16世紀、1550年から1500年ごろで、トロイア戦争の想定年代より300年から400年古い。アガメムノンであるはずがない。それは動かない。問題は、あのマスクが本物かどうかだ。
カルダーとトレイルが指摘した違和感は具体的である。同じ墓域から出た他の4つのマスクは平板で、目鼻の造形も簡素で、耳は線刻で表現されている。ところがアガメムノンのマスクだけは立体的で、頬に厚みがあり、耳は輪郭に沿って切り抜かれている。何より口ひげだ。先端がくるりと上を向いた、いわゆるハンドルバー型の口ひげ。ミケーネ美術の他の作例に、この形はない。だが1876年当時のヨーロッパの紳士の流行にはある。そこから、シュリーマンが持ち込んだ、あるいは地元の金細工師に手を入れさせたのではないかという疑いが出た。
反論も強い。ミケーネの発掘は、ギリシャ考古学協会の監督官パナギオティス・スタマタキスの立ち会いのもとで行われている。オスマン当局に散々やられた後だけあって、ギリシャ側はシュリーマンをまったく信用しておらず、常時見張りをつけた。スタマタキスは彼のやり方に何度も抗議し、報告書に苦情を書き残している。その環境で偽物を埋めて掘り出すのは、かなり難しい。
ギリシャの考古学者カティ・デマコプールーやイギリスのオリヴァー・ディキンソンは、様式的にもミケーネの他の金製品、たとえば獅子頭のリュトンなどと矛盾しないと反論した。1999年前後にアメリカの考古学専門誌の誌上で本格的な論争になり、現在の落ち着きどころは「本物だが、後世の修復で手が入っている可能性は残る」あたりだ。20世紀初頭にギリシャで活動した修復家のエミール・ギリエロン親子が復元作業に関わっていたことから、彼らの手が入った箇所があるのではという議論も続いている。
現場を見た人間たちの声を三つ
第一に、フランク・カルヴァートの言い分だ。決裂後の1873年から74年にかけて、彼は地元の英字紙に寄稿し、シュリーマンの層位理解の欠陥を指摘した。要旨はこうである。ヒサルルクの堆積を見るかぎり、紀元前3千年紀の集落と、後世のギリシャ・ローマ期の集落のあいだに、およそ千年分の記録が見当たらない。ホメロスの戦争があったとされる時代の層が確認できていない。したがって、いま「プリアモスの都」と呼ばれているものは年代が合わない。
冷静で、専門的で、そして完全に正しい指摘だった。シュリーマンの返答は罵倒に近かった。自分が莫大な私財を投じて掘った成果を、金も出さなかった男に否定される屈辱に耐えられなかったのだろう。
だがカルヴァートは食い下がらなかった。彼の書簡には、名声には興味がない、ただ丘について正確なことが知られてほしい、という趣旨の言葉が残っている。事実、彼は死ぬまで海峡沿いに住み、遺跡を見守り続けた。
第二に、オスマン帝国の監視官アミン・エフェンディの立場である。発掘許可には、出土品の一部をイスタンブールの帝国博物館に納めるという条件がついていた。そのために現地に張りついていたのが彼だ。ところが1873年の財宝は、彼の目を完全にすり抜けてギリシャへ運び出された。荷物は籠と樽に分けられ、カルヴァート家の関係者の助けを借りて海を渡ったとも言われる。
密輸が発覚したのは、アテネでソフィアが金の頭飾りを身につけて人前に出たことがきっかけだった。写真も出回った。当局が知らないはずがない。責任を問われたアミン・エフェンディは投獄された。命令を出した金持ちは罰金を払って許され、現場で見張りをしていた役人は牢に入る。この非対称は、19世紀の帝国と西欧の富裕層のあいだにあった力関係そのものだ。
第三に、パナギオティス・スタマタキスの記録だ。ミケーネの現場でシュリーマンに張りついたギリシャ人監督官で、彼が本部に送った報告には、シュリーマンが墓の周囲の遺構を無造作に取り除こうとしたこと、記録を待たずに掘り進めようとしたこと、自分の制止を無視したことが並んでいる。二人は現場で何度も衝突した。シュリーマンのほうはスタマタキスを邪魔者としか思っておらず、著作のなかでは無能な役人扱いをしている。
だが結果的に、このうるさい監督官がいたおかげで、ミケーネの出土状況はトロイアよりはるかに信頼できる記録として残った。アガメムノンのマスクの真贋論争で擁護派が最後に持ち出すカードが、このスタマタキスの存在なのだから、歴史というのは面白い。
もうひとつ付け加えておく。1879年のトロイアの現場には、ドイツの医学者で人類学者のルドルフ・ヴィルヒョウが自ら足を運んでいる。細胞病理学の巨人が、なぜか泥だらけの丘にいた。彼はシュリーマンを学界に橋渡しする役割を果たし、出土人骨や地質について助言を残した。同じころ、イギリスでは首相を務めたウィリアム・グラッドストンが『イリオス』に序文を寄せている。政治家と医学者が援護射撃をする発掘というのは、それだけでこの騒動の異様さを物語っている。
密輸、裁判、そして5万金フラン
オスマン政府はシュリーマンを訴えた。裁判の結果、彼は損害賠償として1万金フランの支払いを命じられている。ところが彼はそこで止まらない。さらに上乗せして、総額5万金フランをイスタンブールの帝国博物館に支払った。これによって財宝の所有権を事実上買い取り、しかも発掘許可を再取得している。金で解決した、というより、金で歴史の所有権を買ったわけだ。
彼はまずギリシャ政府に財宝の引き取りを持ちかけ、断られ、次にフランス、次にロシアに打診し、いずれもまとまらなかった。最終的に1881年、ドイツ帝国に寄贈という形でベルリンへ渡る。民族学博物館に置かれ、後に先史・古代史博物館の所蔵となった。彼は見返りにベルリン市の名誉市民の称号を得ている。
ドイツ考古学界の主流派、たとえばエルンスト・クルティウスのような人々は、最後まで彼を素人扱いして冷たかった。だが国家のほうは黄金を欲しがった。
ベルリンから消えて、モスクワで出てきた
1939年、戦争が始まると財宝は梱包されて博物館の地下に移された。1941年1月にはプロイセン国立銀行の金庫室へ。同年のうちにベルリン動物園の対空砲塔、いわゆるツォー・タワーの地下に移される。分厚いコンクリートの要塞だ。守っていたのは博物館の館員ヴィルヘルム・ウンフェルツァークトで、ベルリン市街戦の砲火のなか、3つの木箱を最後まで手放さなかった。
1945年5月1日、ソ連軍の防諜機関スメルシが塔を接収する。5月26日、ニコライ・アンティペンコ中将の指揮のもとで木箱が運び出され、6月30日に空路モスクワへ。10日後にプーシキン美術館へ搬入された。
そこから半世紀近く、財宝は世界から消えた。ドイツは失われたと考え、行方不明の戦時流出美術品リストに載せ続けた。
1993年になって、ロシア側から所在に関する情報が出はじめる。1994年に美術館が正式に所蔵を認め、1996年には公開展示まで行われた。ドイツは返還を求めたが、ロシアは1998年に成立した法律を根拠にこれを拒んでいる。第二次世界大戦でドイツがソ連の文化財に与えた破壊に対する補償であって、略奪品ではない、という立場だ。
現在、この財宝には3つの国が権利を主張できる状態にある。掘り出された土地の主権国家であるトルコ。購入と寄贈の経緯を持つドイツ。そして現に持っているロシア。トルコは近年、文化財返還について強い姿勢を取っており、他国の博物館から実際にいくつもの遺物を取り戻してきた。だがモスクワの黄金についてはまったく動いていない。
密輸で運び出され、金で買い取られ、戦争で奪われた品が、3つの国の言い分の交点で固まったまま動かない。持ち出した本人はとっくに死んでいる。
ヒッタイトの粘土板に「ウィルシャ」と書いてあった
さて、ここまでほとんど悪口を書いてきた。最後にひっくり返す話をしよう。トロイア戦争そのものは、まったくの絵空事ではない可能性が高い。それを裏づけているのは、シュリーマンが一度も見たことのない史料だ。
20世紀に入って、アナトリア中央部のハットゥシャ、ヒッタイト帝国の首都から大量の楔形文字粘土板が出た。そのなかに、西方の属国や交渉相手として繰り返し登場する地名がある。ウィルシャ、あるいはウィルサ。もうひとつ、タルイシャという地名も出てくる。1924年、エミール・フォラーがこれらをそれぞれギリシャ語のウィリオス、つまりイリオスと、トロイアに対応させる説を出した。ホメロスの叙事詩に残る古い綴りでは、イリオスの語頭にw音がある。ウィルシャとウィリオスは、音韻的にきれいにつながるのだ。
さらに強烈なのが、紀元前1280年ごろに結ばれた条約文書である。ヒッタイト王ムワタリ2世と、ウィルシャの王アラクサンドゥとの間の宗主権条約。この王の名前を、ギリシャ語に置き換えるとアレクサンドロスになる。ホメロスのなかでパリスがもうひとつ持っている名前が、まさにアレクサンドロスだ。しかもこの条約の証人として並ぶ神々のなかに、アパリウナシュという神格がいる。アポロンではないか、と言われている。アポロンはトロイア側についた神だ。
他の文書も面白い。タワガラワ書簡には、ヒッタイト王が相手方に対して「われわれが戦争をしたウィルシャの件については、すでに合意に達している」と書いた一節がある。ウィルシャをめぐって戦争があった。相手は誰かというと、アッヒヤワと呼ばれる海の向こうの勢力で、これはギリシャ語のアカイア人、つまりホメロスがギリシャ勢を呼ぶ名と対応するとされている。
マナパ・タルフンタ書簡やミラワタ書簡には、ピヤマラドゥという厄介な軍事屋がアッヒヤワの後ろ盾を得て西アナトリアを引っかき回し、ウィルシャの王を追い出したらしい記述も出てくる。ミラワタ書簡では、トゥドハリヤ4世が追放された親ヒッタイト派の王ワルムを復位させようとしている。
これらを足していくと、青銅器時代後期の西アナトリアには「ウィルシャ」という都市国家があり、海を越えてきたギリシャ系の勢力がそこに何度も介入し、王が挿げ替わり、実際に戦闘が起きていたことになる。10年戦争でも木馬でもないが、「ギリシャ人がトロイアを攻めた」という記憶の核はある。
ただし用心も必要だ。ヒッタイト学者のトレヴァー・ブライスは、限られた文書からトロイア戦争の実在を読み込みすぎることに繰り返し警告している。粘土板は数が少なく、解釈の幅が大きく、都合よく読もうと思えばいくらでも読める。シュリーマンがやったのと同じ罠が、文献学の側にも口を開けているわけだ。
紀元前1180年、東地中海が一斉に壊れた
トロイア第7市a層が焼け落ちた紀元前1180年ごろというのは、この地域全体が崩れた時期と重なる。後期青銅器時代の崩壊と呼ばれる現象だ。
ヒッタイトの首都ハットゥシャが放棄され、シリア沿岸の交易都市ウガリットが焼かれ、ギリシャ本土ではミケーネもピュロスも宮殿が炎上した。エジプトの記録には「海の民」という外来勢力との戦いが刻まれている。線文字Bの粘土板が焼かれて偶然に保存され、そこから宮殿経済の最後の記録が読めるという皮肉つきだ。
原因については、海の民の侵入、深刻な干ばつ、地震の連鎖、青銅の供給網の断絶、宮殿経済の構造的脆弱さ、鉄器の普及、といった説が並ぶ。いまは「単一原因ではなくシステム全体の連鎖崩壊」という見方が主流になっている。エリック・クラインの『紀元前1177年』が、この見取り図を一般向けに広めた。
面白いのは、近年この崩壊像そのものが割り引かれつつあることだ。ジェシー・ミレックの検討では、従来「破壊された」とされてきた60の遺跡のうち半数以上、52パーセントが実際には破壊の証拠を欠く「偽の破壊」だという。派手な物語には、考古学の側にも修正が入り続けている。
そのなかでトロイアの位置づけは微妙で、しかし重要だ。ダーダネルス海峡の入り口という、海運と交易の要衝にある町が、東地中海が総崩れになる時期に焼けた。ギリシャ側の記憶にそれが残らないほうが不自然だろう。叙事詩は、崩壊の記憶を数百年かけて煮詰めた保存食みたいなものだ。
30ヘクタールの下市と、それをめぐる殴り合い
現代のトロイア研究を一段引き上げたのは、テュービンゲン大学のマンフレート・コルフマンである。1988年から2005年まで発掘を率い、磁気探査を使って城塞の外側を調べた。すると、シュリーマンもデルプフェルトもブレーゲンも知らなかった広大な下市が見つかる。面積にしておよそ30ヘクタール。戦車を止めるための防御壕と、木柵の跡も出た。トロイアは「王侯の小さな砦」ではなく、数千人規模の人口を抱える立派な都市だったという像が立ち上がる。
これに真っ向から噛みついたのが、同じテュービンゲン大学の古代史家フランク・コルプだ。2001年から2002年にかけて、コルプはコルフマンの復元図が誇張であり、下市の実態は乏しく、トロイアを国際的な交易都市とみなす解釈は展示と資金集めのためのイメージ操作だと批判した。ドイツの新聞も巻き込んで大論争になり、テュービンゲンでシンポジウムまで開かれている。学界の内輪もめというより、公共の場でのつかみ合いだった。
この論争、実は130年前と同じ構造をしている。ホメロスに合う都市が見つかってほしいという願望と、証拠だけで語れという禁欲とのせめぎ合いだ。シュリーマンは前者に振り切ったから、成果と汚名を同時に得た。トロイアという遺跡は、掘る人間の願望を映す鏡でありつづけている。
ヒサルルクの丘は1998年にユネスコ世界遺産に登録された。2018年には遺跡のそばのテヴフィキイェ村にトロイ博物館が開館し、4万点を超える収蔵品のうち2000点ほどが展示されている。2014年以降はチャナッカレ・オンセキズ・マルト大学のチームが調査を続け、2016年にはアムステルダム大学が「150年間の発掘史そのものを研究する」というプロジェクトを立ち上げた。掘られたものだけでなく、掘った人間の癖まで研究対象になったわけだ。
なぜ「素人が神話を信じて宝を掘り当てた」は、こんなに強いのか
嘘だらけなのに、この物語は死なない。子ども向けの本にはいまも載る。学校の授業でも語られる。理由を考えてみたい。
まず、話の形が完璧だ。幼少期の誓い、貧困、独学、蓄財、そして中年での夢の実現。伏線と回収が教科書的にきれいに揃っている。実話でこの形になることは滅多にない。滅多にないからこそ、そう見えるように編集された話が生き延びる。シュリーマンは自分の人生を、後から小説として書き直した。しかも彼はプロの語学屋で、複数言語で書ける文章家だった。素材と技術が両方あったのだ。
次に、この話は「専門家が間違っていて、外の人間が正しかった」という形をしている。学界はブナルバシを推していた。学界はホメロスを詩だと言った。ところが商人あがりの素人が、詩を文字通り信じて掘り、黄金を出した。この構図は気持ちがいい。権威が転ぶ話は、いつの時代も需要がある。ネット上でこの話が擦られるときも、だいたいこの角度からだ。学者は頭が固い、信じる者が勝つ、と。
だがそこが罠でもある。実際にヒサルルクを正しく同定したのは、専門的な訓練を受けた地道な観察者カルヴァートだった。そしてシュリーマンの「信じる力」は、間違った層を千年ぶんまるごと掘り捨てるという結果も生んだ。信念は発見の燃料であると同時に、破壊の燃料でもある。この物語のいちばん面白い教訓は、そこにある。
さらに、宝物という具体物の力が大きい。学説では人は動かない。だが金の頭飾りをつけた若い女性の写真一枚は動かす。彼はそれを本能的に理解していた。19世紀は写真と新聞と大衆読者が同時に成立した時代で、彼はその全部を使い切った。今でいえば、発掘の実況と、映える写真と、キャッチーなネーミングを全部自前でやったということだ。
プリアモスの財宝、ヘレネの宝玉、アガメムノンのマスク。この3つの名前がなければ、あれらは「ヒサルルク第2市出土の金製装身具一括」と「ミケーネ竪坑墓出土金製面覆い」でしかない。名前が遺物を有名にした。
そして最後に、彼が完全な詐欺師ではなかったという事実がある。ここが厄介なところだ。ヒサルルクは本当にトロイアだった。ミケーネの竪坑墓は本当に前16世紀の王族の墓だった。彼が世に出した遺物は、大部分が本物だ。エーゲ海先史学という分野は、彼の乱暴な掘り方がなければ、あと数十年遅れて始まっただろう。
嘘つきが、正しい場所を掘った。この居心地の悪さが、100年以上たっても議論を終わらせない理由なんだと思う。
嘘と業績は、同じ一つの性格から出てきた
ここからは、上で並べた話をもう一段深く煮詰めておく。
シュリーマン問題は「彼は嘘つきか英雄か」という二択にすると必ず失敗する。二択にした瞬間、擁護派は業績を盾に嘘を薄め、批判派は嘘を盾に業績を薄める。実際に起きたのは、嘘と業績が同じ一つの性格から出てきたという事態だ。そこを見ないと、この人物は理解できない。
彼の性格の核にあるのは、たぶん「証拠を後から用意する」という癖だ。商人として彼がやっていたのは、目の前の商品に物語をつけて値をつり上げる仕事ではない。むしろ逆で、正確な相場観と語学と信用で稼ぐ地味な仕事だった。だが彼の記録癖を見ると、日々の帳簿と日記のあいだに、すでに演出の萌芽がある。彼は毎日を「記録として残る形」に整形しながら生きていた。
サンフランシスコの火事の記述、大統領との会見、市民権の取得年。どれも彼の人生に不可欠な要素ではないのに、彼はわざわざ嘘を書いた。金銭的な利得はほとんどない。つまりこの人は、必要に迫られて嘘をついたというより、自分の人生を良い形の物語にする作業を、生きながらリアルタイムでやり続けていたということになる。
この癖は発掘現場で最悪の形で発現する。考古学というのは、要するに「出土の文脈」がすべての学問だ。物そのものより、それがどの層のどこから、何と一緒に出たかが情報になる。文脈は掘った瞬間に永久に失われるから、記録がすべてになる。
ところがシュリーマンは、記録を後から整える人間だった。彼にとって出土状況は、事後に最良の形へ整形すべき素材だった。この二つは根本的に相容れない。彼が考古学史でこれほど厄介な位置を占めるのは、単に雑だったからではない。彼の得意技が、考古学の急所を正確に突き壊す種類のものだったからだ。
トレイルの仕事の価値も、そこにある。彼がやったのは、シュリーマンを断罪することではなく、記録の層位を発掘することだった。出版物という最上層をどけると、その下に手紙の層があり、さらに下に日記の層がある。層ごとに内容が違う。日付が違う。人物の配置が違う。トレイルは、シュリーマンがヒサルルクにやったことを、シュリーマン自身の文書に対してやったわけだ。この対称性は見事としか言いようがない。だから彼の本は、単なる暴露本ではなく、方法論の実演として読める。
一方で、トレイルへの批判も理解しておいたほうがいい。イーストンをはじめとする擁護寄りの研究者が言うのは、日記が一次資料で出版物が二次資料だと単純に決めつけるのは危ない、ということだ。シュリーマンの日記は、清書用のノートと現場での走り書きが混在しており、後日まとめて書き込んだ形跡もある。日付が空欄の日もある。だから日記と本が食い違ったとき、常に日記が正しいとは限らない。さらに、19世紀の発掘報告は現在の科学論文とは文体も規範も違う。読者向けの脚色は当時ある程度許容されていた。この文脈を無視して現代の基準で裁くと、シュリーマン以外の同時代人も全員有罪になってしまう。
とはいえ、この擁護には限界がある。同時代の基準を持ち出すなら、同時代の他の人間と比べればいい。カルヴァートは丁寧に掘って正確に記録していた。スタマタキスは記録の重要性を理解していて、だからこそシュリーマンと衝突した。デルプフェルトはオリュンピアで身につけた層位の作法をヒサルルクに持ち込み、それだけで解釈が根本から変わった。同時代に、より良いやり方は存在していたのだ。シュリーマンがそれを採らなかったのは、時代のせいというより、成果を急いだ彼の選択だった。彼は年を取っていたし、私財を注ぎ込んでいたし、何より結果を世界に見せたかった。
品が本物でも、文脈が偽物なら損害は同じだ
財宝の寄せ集め説について、もう少し踏み込んでおく。
この説の強みは、悪意を仮定しなくても成立する点にある。数シーズンにわたって単発で出た金製品を手元に集めておいて、シーズン最終盤に大きな一括出土があったとき、そこに「まとめて」しまう。当人の頭のなかでは、どうせ同じ層から出たものなのだから一緒にして何が悪い、という程度の理屈だったかもしれない。
だが結果として、後世の研究者は永久に検証できなくなる。個々の品の年代分析はできても、共伴関係の情報は復元できない。「一括出土」という情報こそが、青銅器時代の社会構造を読むための最重要データなのに、それが人工的に作られてしまった。この点で、贋作かどうかという議論はむしろ枝葉だ。品が本物であっても、文脈が偽物なら、学術的な損害は同じかそれ以上に大きい。
アガメムノンのマスクの真贋論争にも、同じ構造がある。仮にあのマスクが完全な本物だったとしても、シュリーマンの記録の粗さのせいで、それがどの遺体のどの位置から、どんな姿勢で出たのかという情報が十分ではない。だから議論が終わらない。彼を信用できないという一点が、物証の周囲にずっと霧をかけている。
真贋論の本体は、実のところ「シュリーマンという証人の信用度」の問題であって、金属の問題ではない。そしてこの手の疑いは、一度かかると科学的分析だけでは晴れない。組成分析で偽物でないことは示せても、「彼が別の場所から持ってきた本物」の可能性は残るからだ。彼が自分に与えた最大の損害は、たぶんこれである。彼が触ったものは、永遠に半分疑われる。
名前が残るのは、発見した者ではなく、語れた者だ
カルヴァートの再評価についても、単純な善悪の話にしないでおきたい。
カルヴァート家はダーダネルス地域で古物の取引にも関わっていて、清廉潔白な学究というわけではない。フランクの兄フレデリックは詐欺事件で有罪判決を受けている。フランク自身も、遺物の売買と学術的関心のあいだの微妙な線の上に立っていた。19世紀のレヴァントで考古学に関わるというのは、そういう世界だった。
それでも、彼の丘の読み方は正確で、記録は誠実で、千年のギャップの指摘は正しかった。功績が埋没した理由は、彼が悪人だったからでも無能だったからでもない。単に発信力と資金力で負けたからだ。歴史に名前が残るかどうかは、発見したかどうかではなく、発見を語る力があったかどうかで決まる。これは考古学に限った話ではないが、この事例ほどわかりやすい例もそうない。
現代のトロイア観についても整理しておこう。いまの標準的な理解はこうだ。ヒサルルクはトロイアである。ここはほぼ動かない。ヒッタイト文書のウィルシャがここを指す可能性は高く、後期青銅器時代の第6市と第7市が、ホメロスの詩の背景となった都市にあたる。第6市は前1300年ごろに崩れ、地震説が有力。第7市a層は前1180年ごろに焼け、戦闘の痕跡がある。この時期はギリシャ本土もアナトリアもレヴァントも同時に壊れた大崩壊期で、トロイアの陥落はそのなかの一エピソードだった可能性が高い。
叙事詩に描かれる10年の包囲戦、千隻の船、木馬は、後世の詩的な増幅だ。ただし詩には、青銅器時代の実物を反映した細部が混ざっている。猪の牙をつなぎ合わせた兜、塔のような大盾、戦車の使い方。これらはホメロスの時代にはすでに廃れていた装備で、口承の記憶が数百年生き延びた証拠だとされる。神話は完全な虚構でも、事実の記録でもない。数百年かけて劣化しながら伝わった、圧縮された記憶なのだ。
もう一つ、この話でずっと引っかかっているのは、遺物の所有権をめぐる三すくみである。掘り出された場所はトルコ共和国の領土であり、当時のオスマン帝国は明確に許可条件を課していた。それを破って持ち出された品を、シュリーマンは金で追認させ、ドイツに渡した。そのドイツが戦争を起こし、その戦争の結果としてソ連が持ち去った。いま所蔵しているロシアは、これを略奪品ではなく賠償だと主張する。誰も完全に潔白ではないし、誰の主張にも一定の筋がある。この状態が30年以上動いていない。
文化財返還という問題が、しばしば「正しい持ち主に返す」という単純な話にならないことを、これほど鮮明に示す例はない。そしてその泥沼の出発点にあるのは、19世紀の裕福な個人が、一国の法を金で押し切ったという一点だ。
日本との縁について、最後に一言だけ足しておく。1865年に横浜へ上陸したときの彼は、まだトロイアを掘っていない。40代前半の、隠居しかけた富豪の観光客だ。だから旅行記のなかの彼は、名声を守る必要がない。この時期の文章はわりあい素直で、日本人の識字率の高さに驚き、道の清潔さを褒め、役人の融通の利かなさに苛立ち、値切り交渉を楽しんでいる。
トロイアの物語をまだ持っていなかった時期の彼を読めるという意味で、あの旅行記は貴重な資料だ。八王子までの日帰りに近い遠乗りの記述など、幕末の街道の様子を知る史料としても使われている。神話を掘り当てる前の彼が、東の果ての島国の絹織物の値段を真剣に見ていたというのは、なかなか良い絵だと思う。彼はどこにいても、目の前のものに値段をつけずにいられない人間だった。プリアモスの財宝という名前も、たぶんその延長線上にある。
結局のところ、シュリーマンという人物を一言でまとめるなら、彼は「物語を信じる才能」と「物語をつくる才能」の両方を、常識外れの量で持っていた男だった。前者が彼をヒサルルクへ連れて行き、後者が彼を有名にし、そして両方が彼を信用ならない証人にした。
彼が掘った穴は今も丘に残っていて、そこから何が失われたのかは永久にわからない。わからないということだけが、はっきりわかっている。それでもあの丘は、彼が来なければ、もっと長いあいだ誰にも知られない土まんじゅうのままだった可能性が高い。この二つを同時に飲み込むのが、シュリーマンという厄介な遺産に対する、いちばん正直な態度なんだと思う。
