長野県松本市の松本城は、国宝五城のひとつに数えられる。
その松本城を外から見上げると、屋根は五つ重なって見える。ところが中へ入って階段を上っていくと、床は六階分ある。数がひとつ合わない。
この食い違いが、長らく「隠し階」と呼ばれてきた。正式な名前は暗闇重(くらやみじゅう)といって、大天守の三階にある窓のない空間を指す。
掲示板やSNSでは、この階にまつわる都市伝説が繰り返し語られてきた。噂の中身は大きく二つに分かれる。戦国時代、敵を欺くために造られた仕掛けだという説。もう一つが、財宝や秘密の書物が今も眠っているという説だ。
あの階には何があって、財宝伝説にはどこまで根拠があるのか。史実の側から順に見ていく。
窓がないのは、隠したかったからではない
松本城の天守群は五棟でできている。大天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓。これらが連なる連結複合式という構えだ。
建っている場所が、正直そうとう厄介だった。標高五九〇メートルの松本盆地、それも女鳥羽川と薄川がつくった扇状地の上で、地盤がとにかく軟らかい。
大天守の重さは一〇〇〇トンに達する。そのまま載せれば確実に沈む。天守台の石垣の内部へ、直径約三九センチの栂(つが)の丸太を十六本、碁盤の目のように打ち込んで支えた。堀の底にも筏地形(いかだじぎょう)と呼ばれる丸太の基礎が組まれていた。
暗闇重は、こうした構造上の必然から生まれた空間だ。
松本城は望楼型から層塔型へ移り変わる、ちょうど過渡期の建築様式をそなえる。下から二重目の屋根が三階部分を覆うように張り出しているため、外から見ると屋根裏に埋もれてしまい、窓を開ける面が残らない。
松本城公式サイトの説明は、拍子抜けするほどそっけない。この階は倉庫や避難所として使われたらしい、と書いてあるだけだ。
意図して隠したのでなく、建築技術上どうしても生じた屋根裏的な空間を、階として転用した。それが暗闇重の正体になる。
柱や梁は手斧で粗く仕上げてあり、貝殻や魚の鱗のような「はつり紋」が表面に浮かんで見える。板と板の隙間を埋める桟木も、そのまま残っていた。
隠し事なら、ほかにいくらでも残っている
天守には、もっと実務的な仕掛けが数多く残る。
壁面から突き出た石落しは、大天守・乾小天守・渡櫓を合わせて十一か所ある。現存十二天守のなかで最も多い数とされる。十一という数字は、ほかの天守を大きく引き離している。
弓と鉄砲を撃つための狭間は、三棟あわせて百十五か所に上る。矢狭間と鉄砲狭間がきちんと使い分けられていた。
神秘性はまるでない。ただこちらは正真正銘、戦闘を想定して仕込まれた実用の秘密だ。
松本城は江戸期を通して一度も実戦を経験しないまま今日まで残った。撃つための穴だけが百十五、四百年ぶん使われずに空いている。この数奇な運命そのものが、この城の性格をよく表している。
六十一度の階段と、梁の上に祀られた神
四階から五階へ上がる階段は、城内でいちばん急な勾配だ。傾斜は六十一度もある。
敵の侵入を防ぐためだ、という俗説が昔から根強い。
ただ公式の説明はもっと味気ない。天井が高いわりに、階段へ割けるスペースが柱一本分しかなかった。その結果こうなった、というだけの話らしい。
最上階の梁には、二十六夜神が祀られている。元和三年(一六一七)に松本へ入封した戸田氏が祀ったものだと伝わる。
月齢二十六日の月を拝む月待信仰にもとづくもので、もとをたどれば関東地方の信仰だ。それを戸田氏が松本まで持ち込んだ形になる。
戸田氏は毎月、三石三斗三升三合三勺、およそ五〇〇キロにもなる米を炊いて供えたという。ちなみに藩の規模からすると、これは相当な量だ。
城のいちばん高いところへ神を置くという発想そのものが、天守という空間の性格を物語っている。聖と俗の境目にある建物だったわけだ。
床のくぼみが、抜け穴の入口になった
隠し階の噂をたどっていくと、必ずもう一つの伝説に行き当たる。ぬけ穴伝説と呼ばれるものだ。
文化十四年(一八一七)、天守に登った一人の武士が、天守一階の床に不自然な四角いくぼみを見つけて書き留めた。周囲およそ二メートル四方、深さ約一メートルという寸法まで記録されている。
この記録が後世にひとり歩きした。殿様が非常時に城外へ脱出するための抜け穴の入口ではないか、という噂が藩士や領民のあいだに広まっていく。
噂が育つ土壌はあった。天守を築いたのは外様の石川数正・康長父子で、徳川に臣従したとはいえ政治的な立場は複雑だ。いざという時の逃げ道くらい用意していてもおかしくない。当時の松本には、そう考えさせる空気があった。
昭和の解体修理の際、専門家がこのくぼみを詳細に調査している。
結論は、拍子抜けするほど地味だった。天守を支えていた支持柱が長年のうちに腐朽し、その跡が地面に穴として残っただけ。それが正体だった。
くわえて松本城は扇状地に位置していて地下水位が高い。堀の下を抜けるようなトンネルを掘ること自体が、土木的に不可能だったことも判明した。
腐った柱の痕跡という即物的な現象が、政治的な緊張のなかで秘密の抜け道という物語へ変換された。都市伝説の生まれ方として、これ以上ないくらい典型的な実例だ。
この「くぼみ」の噂は、後年になって暗闇重の財宝伝説と混同されていく。二つの伝承がいつしか一体化して語られるようになった経緯は、複数の郷土史ブログや観光ガイドの記述からも読み取れる。
赤い袴の姫と、開けてはいけない袋
二十六夜神には、具体的な物語がついている。単なる言い伝えでなく、松本城の公式な由緒として今日まで受け継がれてきた話だ。
元和四年(一六一八)正月二十六日の夜。天守番を務めていた藩士、川井八郎三郎が夜警をしていた最中のことだった。
そこへ赤い袴を身にまとった見知らぬ姫が、忽然と姿を現す。
姫は錦の袋をそっと手渡しながら、こう告げた。この袋の口は決して開けてはなりません。そうすれば、この城は末永く栄えるでしょう。それから天守の上方へ吸い込まれるように消えていった。
恐れおののいた八郎三郎は、一部始終を城主・戸田康長へ報告する。康長はただちにこれを神の啓示と受け止め、天守六階の梁の上へ二十六夜神として祀ることを決めた。
以後、戸田家は毎月二十六日になると三石三斗三升三合三勺、およそ五〇〇キロの米で餅をつき、神前に供えては藩士全員にふるまった。この儀式は藩の年中行事として欠かさず続いたという。
この逸話が単なる作り話として片付けられなかった理由が、ひとつある。
享保十二年(一七二七)、本丸御殿が大火で全焼した。ところが隣接する天守はまったくの無傷で焼け残ったのだ。
これは二十六夜様のご加護に違いない。結果を目の当たりにした城下の人間はそう確信し、以後この信仰はいっそう篤くなっていった。
現存十二天守のうち、天守の内部に神を祀る社が今なお残るのは松本城だけだ。ほかの十一には、こうした社がない。この一点だけでも、よその城郭伝説とは一線を画す特異性がある。
開けてはならない袋、という禁忌の型にも見覚えがあるかもしれない。「見るなの座敷」や「鶴の恩返し」と構造が酷似している。民俗学でいう贈与と禁忌のパターンに分類される典型例だという指摘が、郷土史研究者のブログでたびたび出てくる。
もし誰かがこの袋の口を開けてしまっていたら、城はどうなっていたのか。この「もしも」を膨らませる書き込みは、観光客のSNS投稿やまとめサイトの雑談スレッドでも定番の話題だ。
暗闇重は、真昼でも足元が見えない
では現代のインターネットで、松本城はどんなふうに語られているのか。
心霊スポットとして正面から扱う投稿は、じつのところそれほど多くない。
散見されるのは、もっと曖昧な話のほうだ。天守の裏手にあたる細い通路について、なんとも言えない陰気さを感じて以来その道を避けるようになった、という体験談。天守で古いものが二つ見えた、という漠然とした目撃談。
松本城のすぐ東側に位置する官庁施設の地下シャワー室については、夜になると出るという噂で有名だった、と書かれている。理由として持ち出されるのが、かつてこのあたり一帯が処刑場だったという土地の記憶だ。
この手の噂に史料的な裏付けを求めるのは、正直むずかしい。
ただ、天守という日常から隔絶された垂直方向の異空間が持つ独特の閉塞感と暗さが、こうした語りを生み出す下地になった。そこは間違いない。
とりわけ大天守三階の暗闇重には窓が一つもない。真昼間でも懐中電灯なしでは足元すら見えないほどの暗さだ。
足を踏み入れた観光客のブログや旅行記には、こんな感想が繰り返し投稿される。空気が急に重くなる気がした。板張りの床がきしむ音が、誰もいないのに聞こえた気がした。
こうした個人の主観的な体験の積み重ねが、暗闇重には何か特別なものが眠っているという財宝伝説を、令和のインターネット環境の中でじわじわと再生産する。
隠し段も隠し通路も、調査記録には出てこない
六十一度の急階段にも、さまざまな尾ひれがついて流通してきた。
途中に隠し段があって、特定の場所を踏むと外れる仕掛けになっている。あるいは階段の裏側に暗闇重へ通じる隠し通路がある。いわゆるお城系オカルトの定番モチーフが、掲示板の雑談やSNSの考察スレッドで繰り返し語られてきた。
けれど松本市教育委員会や城郭建築の専門家による調査記録の中に、そうした隠し通路や可動式の仕掛け段を裏付ける記述は一切見当たらない。
修復時の詳細な構造調査で確認されたのは、ごく実務的な建築上の制約だけだった。天井高を確保しながら、限られた柱一本分のスペースに階段を収めざるを得なかった。それしかなかったわけだ。
城に財宝を隠す、という発想の来歴
「隠し部屋に財宝や機密文書が眠っている」という噂は、松本城に限った話でない。全国の城郭に共通して見られるモチーフだ。
戦国末期から江戸初期にかけて、城主は軍資金や重要書類を秘匿する必要に迫られていた。見えない空間がひとつあれば、そこに何か隠されていると想像する。ごく自然な連想だ。
松本城の場合、その想像を後押しする材料がそろっていた。天守の大改修を手がけたのは石川数正・康長父子で、徳川家康の命を受けたと伝わる。豊臣恩顧の外様大名でありながら徳川方へ転じた石川氏の立場は、はたから見ればいかにも含みがある。
SNSでも観光客が「壁に不自然な隙間を見つけた」「秘密の書物が隠れている気がする」と投稿することがある。ただしいずれも個人の印象にもとづくもので、学術的な裏付けは何もない。
主君を裏切った男が築いた城
財宝伝説に厚みを与えている要素が、築城の当事者たちの数奇な経歴である。
石川数正は、もともと徳川家康の重臣中の重臣だった。
それが天正十三年(一五八五)、突如として豊臣秀吉のもとへ出奔する。世に言う石川数正出奔事件だ。
この出奔の真相は現在も歴史学上の謎とされ、家康の軍事機密が漏洩した可能性まで指摘されるほどの一大事件だった。
その後、数正・康長父子は秀吉の命により松本へ配置される。豊臣恩顧でありながら徳川方の監視下に置かれるという、ひどく不安定な立場で天守の大改修を任された。
主君を裏切った男が築いた城には、いざという時のために持ち出せる財産や、家康に知られたくない秘密文書が隠されていたのではないか。歴史ファンのあいだでSNSや個人ブログで繰り返し語られてきたロマンは、だいたいこのあたりから出ている。
もっとも康長は後に改易された。松本には戸田家が入り、前述の二十六夜神信仰が花開いていく。石川家の痕跡は、天守という建物の骨格の中にひっそりと残るだけになった。
なぜ人は、空白に何かを詰めたがるのか
考察系のYouTube動画やオカルトまとめブログでは、松本城の隠し階が全国の他の城郭と並べて紹介されることが多い。
姫路城の腹切丸やお菊井戸、彦根城の抜け穴伝説。日本の城郭には必ずと言っていいほど、この手の隠し空間伝説がセットで語られる。そういう比較考察を展開する動画は少なくない。
コメント欄に寄せられる反応も似通っている。本当にあったら夢がある。行ってみたけど確かに暗闇重は不気味だった。二十六夜神の話が一番怖くて好き。
史実としての正確さよりも、物語としての面白さが評価軸になった。その点が印象的だ。
肝心の松本城では、財宝や機密文書が発見されたという記録が現在に至るまで一切ない。近年の保全調査でも、新たな空洞や隠し財宝は確認されていない。
観光客向けの解説パネルにも、暗闇重・倉庫とはっきり明記されている。ここまでを踏まえれば、財宝伝説はあくまで後年に付加された物語と考えるのが妥当だ。
結局のところ、松本城の「隠し部屋」伝説を生んだのは、財宝や陰謀といったロマンを求める人間の想像力だ。その想像力が飛びついた先が、望楼型から層塔型へ移行する過渡期特有の建築的な「ズレ」だった。
屋根の数と階の数が合わない。ただそれだけの事実が、四百年ぶんの物語を呼び込む入口になった。
大天守三階へ立ってみれば、そこにあるのは財宝でも文書でもない。戦国末期の大工たちが試行錯誤の末に生み出した、薄暗い屋根裏空間そのものだ。
むしろその質素な暗がりにこそ、四百年前の職人たちの知恵と葛藤が息づいている。
隠し階伝説の本質は、たぶんこういうことだと思う。実在する暗闇重という建築的な「空白」に、時代ごとの人々が別々のものを投影してきた。
石川家の政治的な緊張があり、戸田家の信仰があり、そこへ現代のインターネット文化が重なった。
幾重にも塗り重ねられた集合的な物語の厚みこそが、あの暗がりの正体なのだと思う。
