白虎隊士中二番隊の少年たちは、飯盛山から燃える鶴ヶ城を見て、落城したと思い自刃した。よく知られた話だ。ところが、当日の城はまだ落ちていない。少年たちの目に映っていたのは、城下の火災だった可能性が高い。それでも、単なる見間違いだけで19人の死を説明することはできない。
戦場から飯盛山へ
慶応4年(1868年)8月、会津藩は新政府軍と戦っていた。白虎隊は、16歳から17歳前後の武家の男子を中心に編成された部隊で、本来は予備兵力だった。つまり、最後まで温存しておくはずの子どもたちだ。ところが戦況が悪化し、少年たちも前線へ出る。
士中二番隊の一隊は、滝沢峠を越えて戸ノ口原へ向かった。ところが、指揮官の日向内記は途中で部隊を離れた。少年たちは十分な指揮を受けられないまま戦闘に入ったとされる。新政府軍との装備の差も大きく、部隊は散り散りになった。
篠田儀三郎ら20人ほどは、追撃を避けて山中へ入り、戸ノ口堰の洞門を抜けた。腰まで水につかりながら暗い水路を進み、飯盛山の斜面へ出る。疲労し、仲間を失い、指揮官もいない。その状態で城下の方角を見ると、町の各所から黒煙が上がっていた。
少年たちは何を見て、なぜ死を選んだのか
当時、鶴ヶ城はまだ落城していなかった。開城は飯盛山での自刃から約1か月後の9月22日である。少年たちが見たのは、新政府軍の攻撃などで燃えていた城下町だったとみられている。
飯盛山から城までは距離があり、城そのものと周囲の煙を正確に見分けるのは簡単ではない。ましてや、水路を這って逃げ延びたばかりの少年の目だ。「鶴ヶ城が燃えている」と誤認した可能性はある。ただし、実際に交わした会話をそのまま伝える記録はない。落城の誤認だけが自刃の理由だったとは言い切れない。
少年たちは戦闘で敗走し、弾薬や援軍の見通しを失い、捕虜になる恐怖にも直面していた。武士の家に育った彼らには、生きて敵に捕らわれることを恥とする考えもあったとされる。城下の火は、すでに追い詰められていた彼らへ最後の絶望を与えたのかもしれない。
20人のうち19人が飯盛山で自ら命を絶ち、飯沼貞吉だけが生き残った。「城が燃えたと思ったから全員が死んだ」という説明は、あまりに一本道すぎる。敗走、疲労、指揮官不在、捕虜への恐怖、そして目の前の火災。それが重なった結果として見るほうが自然だ。
生き残った飯沼貞吉
飯沼貞吉は、年齢を一つ上に偽って入隊したと伝わる。自刃したものの致命傷にはならず、近くに住む印出ハツに発見され、手当てを受けて生き延びた。
貞吉のその後が、これまた妙な巡り合わせなんだよな。戦後は長州藩士の楢崎頼三に引き取られ、山口へ送られた。楢崎から学問を勧められた貞吉は、のちに逓信省の技術官吏となり、電信技師として通信網の整備に関わった。会津と長州が戦った直後に、敵方の人物に導かれて新しい人生を歩んだわけだ。
貞吉は、白虎隊時代の体験を積極的には語らなかったとされる。その沈黙を、仲間だけが亡くなったことへの罪悪感と結びつける説もある。ただ、本人の心情まではやはり分からない。残された断片的な証言は貴重でも、一人の記憶だけで当日の全員の考えを再現することは難しい。
白虎隊全体が飯盛山で亡くなったわけでもない。別の戦線で戦い、生き延びた隊士もいる。「白虎隊イコール19人の自刃」というイメージは、部隊全体の歴史をずいぶん小さく切り取ったものだ。
美談、政治利用、そして怪談
白虎隊の死は、明治後期から忠君や自己犠牲の物語として教科書や軍歌に取り上げられた。少年たちの恐怖や混乱は削られ、「主君のために潔く死んだ」という筋が強調された。太平洋戦争期には、若い兵士へ死を受け入れさせる精神教育とも重ねられたとされる。
飯盛山には、1928年にローマ市から贈られた碑が建てられた。ムッソリーニが白虎隊に感激したという話は、日本人の下位春吉が語った作り話から始まったとされる。それでも外交上のやり取りを経て、話は実際の碑になった。白虎隊の物語が国際関係の演出にも使われた例だ。
現在の飯盛山には、少年の姿を見た、泣き声や足音を聞いたという怪談もある。これらはネット上の体験談で、史実として確認されたものではない。悲劇の場所に後世の人が霊の物語を重ねたものとして分けておきたい。
飯盛山の少年たちが見たのは、落城した城ではなく、燃える城下だった公算が大きい。でも、だから「勘違いで死んだ」と片づけるのも違う。彼らを追い詰めた戦況と価値観、その死を美談へ変えた後世の社会まで見て、ようやく白虎隊の歴史が立体的になる。
