奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

⚔️ 白虎隊、最後の朝――飯盛山で本当に何が見えたのか

会津の夏の話だ。慶応四年(1868年)旧暦八月二十三日、鶴ヶ城下から一里ほどの小さな丘、飯盛山の頂で十九人の少年が次々と自ら命を絶った。日本史でもとびきり名の知れた「集団自決」のひとつ。のちに「白虎隊十九士」として教科書に刻まれ、軍歌に歌われ、映画やドラマで幾度も再現されてきた事件だ。

でも、この話には棘がある。少年たちが自刃の理由にしたという「鶴ヶ城は落城した」という認識、あれは本当だったのか。燃え落ちる主家の城を見て絶望したのか、という疑問だ。それとも目にしたのは別の何かで、後世の私たちが「美談」に整えるために、真相のほうを静かに書き換えてしまったのか。

八月二十二日、滝沢峠を越えた少年たち

当時の会津藩には「白虎隊」があった。満十六・十七歳前後の武家の男子で組んだ隊で、正規の戦力じゃなく、本来は予備の兵力だった。まだ出番のないはずの子たちだ。ところが新政府軍の猛攻があまりに早く、藩は年齢の壁を崩して、白虎隊を次々に前線へ送り出すしかなくなった。

編成はひとつじゃない。士中一番隊・二番隊、寄合上士隊と、いくつもの隊が出ていった。このうち後に「悲劇の主役」になるのが、士中二番隊の隊士約四十名のうち、二十名前後で組まれた一隊だ。彼らは八月二十二日、会津若松城下から北東へ延びる滝沢峠を越え、戸ノ口原方面へ進軍した。

指揮を執っていたのは日向内記という藩士だった。ところが彼は途中で、食糧調達のためと称して部隊を離れ、少年たちは事実上、指揮官抜きで最前線に取り残されてしまう。これが大きい。この「指揮官の離脱」は、後の混乱と壊滅を語るうえで外せない伏線なんだよな。

戸ノ口原に展開した新政府軍は、当時最新式のスペンサー銃やスナイドル銃を装備していた。対する少年たちの手には、旧式のヤーゲル銃。射程も連射速度もまるで違う。夜明けとともに始まった銃撃戦は、開始からほんのわずかな時間で、少年たちの側に一方的な損害をもたらした。

篠田儀三郎らに率いられた一隊と、原田克吉が率いる半隊に分かれ、少年たちは水田地帯を進んだ。圧倒的な火力の差の前ではまともな抵抗もできず、次々と倒れ、あるいは散り散りに潰走していった。ただの敗走じゃない。組織的な統制がほとんど失われた壊乱だったことは、生存者の証言からもはっきりしている。

弁天洞穴を抜けた先に広がっていたもの

追撃を逃れるため、篠田儀三郎らを含む二十名前後の少年たちは、街道を避けて山の中を進むことにした。滝沢不動滝から不動川沿いに西へ向かう。行き着いたのは、猪苗代湖から会津若松城下へ水を引く「戸ノ口堰」の用水路だった。そこには洞門が口を開けていた。

全長百五十メートルほどの素掘りの穴で、俗に「弁天洞穴」と呼ばれている。少年たちは敵の銃撃を背に受けながら、腰から下を水に浸けてここを進んだという。想像してみてほしい。真夏とはいえ会津の山水は冷たく、洞穴を抜けた頃には、疲労と恐怖と寒さで体も心も限界寸前だったんじゃないか。

洞門を抜け、さらに用水沿いに百メートルほど進むと、ふっと視界が開ける。飯盛山の斜面から、会津若松城下の方角を見渡せる場所に出るんだ。そこで見えたのは黒煙だった。新政府軍の砲撃と、混乱の中で起きた火災のせいで、城下町は広い範囲にわたって炎に包まれていた。

黒い煙が、城下のあちこちから立ち上っている。少年たちの目に映ったこの光景が、後に「鶴ヶ城が燃えている、落城したのだ」という絶望的な解釈へつながっていく。ここが分かれ目だった。

疲れ切り、喉は渇き、仲間を失い、指揮官もいない。追っ手の距離も読めない。そんな少年たちが抱いていたのは、城に戻ればまだ戦える、会津はまだ持ちこたえている、という最後の希望だった。眼下の炎の海は、それを打ち砕くには十分すぎる光景だったわけだ。

飯盛山の頂で交わされた言葉

山頂に着いた少年たちは、そこで話し合いを持ったと伝わる。篠田儀三郎が「ここで潔く自刃しよう」と口火を切り、こう言ったという逸話がある。「たとえ落城していなくとも、この身で敵の捕虜となり生き恥をさらすよりは」という趣旨の言葉だ。後世の読み物の定番の場面だな。

彼らが実際に交わした言葉を、一言一句まで史料で確定するのは難しい。それでも状況は見える。弾も尽き、援軍の当てもなく、追撃の足音が背後に迫っていた。その状況を踏まえれば、彼らがあの決断に行き着くまでの心の動きは、想像するのにそれほど難しくない。

二十名のうち十九名がこの場で命を絶ち、ただ一人、飯沼貞吉だけが死にきれずに生き残った。年齢は十六、十七歳。中には満十五歳で年齢を偽って入隊していた者もいた。まだ声変わりを終えたばかりの少年たちが、家や藩、武士としての体面を守るために、自らの意思で死を選んだ。

この事実は重い。当時も後世も、日本人の心情に強く訴えるものになった。負けた側の話でありながら、白虎隊がこれほど長く人の心をつかんできた理由も、たぶんこの一点にある。

三、四キロ先の城は本当に見えたのか

ここからが本番だ。「落城誤認説」がどこまで本当なのか、踏み込んでみる。地理の事実から言うと、飯盛山から鶴ヶ城(会津若松城)までの直線距離はおよそ三、四キロメートルある。現地の飯盛山自刃の地に立つと、多くの見学者が「思っていたより遠く、城が小さく見える」と驚くという。

晴天なら、天守閣らしき輪郭を目で捉えること自体は不可能じゃない。ただ、そこから「城が燃えて落城した」と正確に判断できるかというと、疑問視する声は少なくない。まあ、そう思うよな。

城は落ちていなかった。会津戦争で鶴ヶ城が新政府軍に開城されるのは九月二十二日で、飯盛山の悲劇から一ヵ月近くも後のことだ。少年たちが見た煙と炎は城そのものじゃなく、城下町一帯が砲撃と混乱で燃えていた光景だった。現在はこれが有力な見立てだ。

指摘されている線は二つ。ひとつは、燃えていたのが城下町であって、城本体ではなかったという可能性。もうひとつは、炎そのものは目にしたうえで「あれが城だ」と取り違えた可能性だ。どちらにしても、少年たちが見た炎と、そのときの城の本当の状態とのあいだには、大きなずれがあったわけだ。

この誤認説は明治期から広く流布して、白虎隊の悲劇の「決め手」として語られ続けてきた。ところが近年は事情が違う。複数の郷土史や歴史読み物が、この見方に修正を加え、少年たちの実際の心情は別のところにあったと読み直しているんだ。

中身はこうだ。「城が落ちたから絶望した」という単純な図式より、もっと根深い武士としての倫理観に基づいていたのではないか、という解釈。戦場で潰走し、敵に後れを取った恥辱と、捕虜となって生き恥をさらすことへの恐怖が、その芯にあったと見るわけだ。

城の炎は、あくまで最後の一押しだった。彼らの決断を後押しする象徴的な光景ではあっても、自刃そのものの「唯一の理由」ではなかった可能性が高い。見え方ががらりと変わる。

要はこういうことだ。少年たちは「城が落ちたから死んだ」わけじゃない。城が落ちたかどうかにかかわらず、自分たちの立場ではもう戦えない、生きて捕らわれれば家の恥になる。絶望的な状況と、目に映った炎の光景が重なって、彼らはその結論に到達してしまったという見方だ。

こっちのほうがずっと重い。「誤認による悲劇」という単純な物語には収まらないからだ。会津武士という存在そのものが持っていた倫理観に根ざした、どこにも逃げ場のない結論だったと読めてしまう。

ただ一人残された少年、飯沼貞吉の後半生

生き残りは一人いた。自刃した二十名のうち、ただ一人命をつないだのが飯沼貞吉、後の貞雄だ。実年齢は十五歳だったが、体格が大きかったのを理由に、一歳年齢を偽って入隊していたと伝わる。仲間に遅れを取るまいと自分の喉に脇差を突き立てたものの、致命傷にはならず、意識を失ったまま倒れていた。

見つけたのは、近くに住む足軽の妻、印出ハツだった。彼女が貞吉を救い出す。その後、貞吉は塩川の地でしばらく身を潜め、町医者と長岡藩の軍医の手当てを受けて一命をつないだ。

戦後、貞吉は捕虜として長州藩士の楢崎頼三に身柄を引き取られ、山口へ送られた。ここで運命が大きく転がる。楢崎は敵だった会津の少年に「今は会津と長州の対立を言っている時代ではない、外国船がすでに日本近海に来ている」と説いた。そして学問に励むよう促したんだ。

貞吉はこの言葉を胸に、逓信省の技術官吏の道を歩み始めた。電信技師として日本各地の通信網の整備に携わり、後には陸軍にも籍を置いて、大尉の階級まで進んだ。たいした転身だ。仇だったはずの長州藩士に命を救われ、その導きで新しい人生を歩んだ話は、白虎隊の物語でも特に生々しい因縁とされる。

四十年、口を閉ざした生還者

貞吉は多くを語らなかった。その後の長い人生で、彼は白虎隊時代の体験をほとんど口にせず、資料は一部の史家にだけそっと託した。家族にさえ詳しく話すことは稀だったという。

生き残ったことへの複雑な感情が、彼を長い沈黙に閉じ込めていたのではないか、という声もある。死んでいった十九人の仲間への申し訳なさか、あるいは武士として「死に損なった」という感覚か、そのあたりだ。どちらも重たい。

彼の体験が広く一般に知られるようになったのは、意外と遅い。子孫や、彼を救った印出家、彼を保護した楢崎家の遺族たちがひそかに伝えてきた記録が、少しずつ表に出てきたのがきっかけだ。二十世紀に入ってからの話。

晩年の貞吉は仙台に移り、和歌の指導を受けながら静かな日々を送って、昭和六年(1931年)に世を去った。七十七年の生涯だった。彼の証言や、周りに残した断片的な記憶こそ、飯盛山の出来事を「物語」として組み立て直すときの、ほとんど唯一の一次的な足がかりなんだ。

考えてみると妙な話だ。白虎隊の悲劇として私たちが知っている像は、そっくりこの一人の生存者の記憶と沈黙の上に成り立っている。ここはもっと注目されていい。

敗軍の少年兵が「殉忠美談」に変わるまで

事件当時の扱いは、むしろ地味だった。「敗軍の少年兵の自滅」として、旧幕府側の悲哀のひとつとして、ひっそりと語られる存在にすぎなかった。そこから風向きが変わる。明治後期から大正、昭和にかけて、国家がこれを「殉忠美談」として大々的に再利用していく流れがあったんだ。

少年たちが藩や主家のために自ら命を絶った、という構図。これが忠君愛国や自己犠牲を尊ぶ国家主義的な教育理念にとって、この上なく都合のいい教材になった。使われ方は露骨だ。教科書や修身の授業で白虎隊が取り上げられ、軍歌が作られ、飯盛山は「聖地」として整備されていった。

太平洋戦争期には、この構図がさらに強化されていく。少年たちの自刃は「潔い死」「敵に屈しない日本精神」の象徴として語られた。特攻隊員をはじめとする若い兵士たちの精神教育にも、この少年たちの姿がそのまま重ねられていった。痛ましい使われ方だ。

実際はそんな話じゃない。彼らの死は絶望的な戦況の中での混乱と苦渋の選択で、「勇んで死を選んだ美しい物語」に単純化できるものじゃない。それでも国家はその複雑さを削ぎ落とし、「少年たちの忠誠心」という単純で感動的なパッケージに仕立てて、繰り返し利用した。今日まで続く白虎隊イメージの土台は、ここで作られた。

一人の大ぼらがローマの碑を呼んだ

とびきり奇妙な逸話がある。第一次世界大戦にイタリア軍の義勇兵として従軍した日本人、下位春吉の話だ。あだ名は「カメラータ・サムライ」。帰国後、彼は会津若松市の関係者に「ムッソリーニが白虎隊の物語に深く感激し、記念碑を建てたいと言っている」と語った。

ところがこれは下位のまったくの創作、いわば善意の大ぼらだったとされている。話はここで終わらない。この話は新聞で報じられ、外務省まで動く事態になった。当時の外務大臣だった幣原喜重郎らが関心を示し、日本政府がイタリア政府へ正式に打診するところまでいく。

ムッソリーニはこの「経緯」を否定しなかった。それどころか日本との友好関係を重く見る立場から、本当に記念碑を贈ることに決めてしまったんだよな。そして1928年。ローマ市寄贈の碑が、飯盛山に建立された。

歴史のいたずらみたいな話だ。一人のホラ話が独裁者まで巻き込んで、しまいには本物の外交儀礼にまで発展してしまったわけだから。笑っていいのか迷う。

ナチスの碑と、墓前に立った青少年団

飯盛山には、ナチスドイツの駐日大使フォン・エッツドルフが寄贈したとされる碑もある。ヒトラーユーゲント(ナチス青少年団)の一行が来日時に飯盛山を訪れ、白虎隊の墓前で敬意を示したという記録まであるんだ。なかなか意外な顔ぶれだ。

戦後、碑の扱いは揺れた。ファシズムと日本の連携を示す「負の遺産」という側面があるので、一時は碑文が削られたりもしている。今は歴史的な経緯を示す遺物として、当時のいきさつと一緒に静かに立っている。

白虎隊というひとつの悲劇が、日独伊三国の政治的な演出にまで持ち出されていたわけで、これはあまり知られていない。少年たちの死は、国境の外でまで使われた。その含みはずしりと重い。

夜の飯盛山で囁かれる白い影

観光地として整えられた今の飯盛山だが、心霊スポットとしての噂も、オカルト系まとめサイトや口コミ投稿の中に散見される。少年たちが命を絶った場所だからか、「夜になると白い着物姿の少年の影を見た」という目撃談が寄せられている。すすり泣く声の話もある。

肝試し目的で夜間に訪れた人の体験談として、山の中で説明のつかない足音や視線を感じた、という投稿も見られる。どれも個人の体験談だ。都市伝説の域を出るものではなく、史実として確認できる話じゃない。

それでも、少年たちの無念さがそのまま土地の記憶として語られている点は、この悲劇の重みを表しているのかもしれない。公式の扱いはない。会津若松市や観光協会がこうした怪談を公式に扱うことはなく、あくまでネット上の噂話にとどまっている。

薙刀を握った娘子軍と、銃を取った八重

会津戦争の悲劇は白虎隊だけじゃない。鶴ヶ城の籠城戦では、女性たちによって組織された「娘子軍」が、薙刀を手に奮戦した記録が残されている。その中心にいたのが中野竹子だ。竹子は父の代からの武芸の腕を持ち、母や妹らと一緒に義勇軍に加わった。

竹子は涙橋(柳橋)付近の戦闘で新政府軍と交戦し、敵弾を受けて重傷を負い、討死した。介錯を妹に頼み、自らの首を敵に晒すことのないよう望んだという逸話は、白虎隊の少年たちに劣らない壮絶さを持つ。息をのむ話だ。

籠城戦を最後まで支えた人物として名高いのが、後に同志社の創立者・新島襄の妻となる新島八重だ。八重はスペンサー銃を手に、男装して鶴ヶ城の攻防戦に加わった。弟の仇を討つための奮戦だ。

白虎隊の少年たちが飯盛山で散った同じ戦争の中で、女性たちもまた武器を取り、命を賭して城を守ろうとしていた。この戦争の悲劇は、それだけ広かった。少年兵の記録もほかにある。年齢を偽って前線に立った少年や、戦闘に巻き込まれて命を落とした少年たちの記録は、各地に散見される。

白虎隊も一枚岩じゃない。士中二番隊の全員が飯盛山で自刃したわけでもない。実際には約三百四十人の隊士のうち、飯盛山で自刃したのは二十人前後にすぎない、とする数え方もある。多くの隊士は別の戦線で戦い、負傷し、あるいは生き延びて後年まで生きた者もいた。

酒井峰治という隊士は生還した。後年、『戊辰戦争実歴談』という証言記録を残している。白虎隊全体を「悲劇の少年隊」という一枚岩のイメージで捉えるのは、歴史の実相を単純化しすぎている面があるんだ。

動く歩道で上る、いまの飯盛山

今の飯盛山は会津若松市を代表する観光名所で、山頂には「白虎隊十九士の墓」が並ぶ。参拝者は絶えない。参道の途中には有料の動く歩道、スロープコンベアが設置されていて、高齢の参拝者や観光客でも無理なく墓所まで上れる。

麓には「白虎隊記念館」がある。自刃した隊士の遺品や関連資料、当時の武具、戦争の経緯を伝える展示がずらりと並ぶ。飯沼貞吉に関する資料も一部が展示されていて、唯一の生存者の存在は今もここで静かに伝えられている。

墓所のまわりには、ローマ市寄贈の碑もドイツ大使寄贈の碑も現存していて、それぞれ贈呈の経緯についての説明が付いている。展望地点もある。少年たちが最後に見たとされる会津若松城下の方角を望める場所で、実際の距離感や視界の開け方を自分の目で確かめられる。

夏の会津まつりの時期には、白虎隊をテーマにした演武や慰霊祭も開かれる。この悲劇は単なる歴史的事件としてだけでなく、地域の記憶として、観光資源として、今も生き続けているわけだ。それが今の姿だ。

落城の一点だけを問うと見落とすもの

追うほど像が変わる。指揮官不在の壊乱、旧式装備での絶望的な銃撃戦、冷たい用水路をくぐり抜けた末に見た城下町の炎。そこへ「捕虜になる恥」を何より恐れた武士の子としての倫理観が絡み合い、複雑で救いのない結末になった。落城していたかどうかの一点だけを問うと、この事件の核心を見誤るのかもしれない。

この死がその後どう扱われたかを追うと、もっとはっきりする。教科書、軍国教育、独裁者を巻き込んだホラ話の記念碑外交と、少年たちの死は時代ごとの政治や思想の都合で形を変えられてきた。貞吉の沈黙もそうだ。四十年近く口を閉ざしたことが、当事者の実感と後世の「美談」とのあいだの、埋まらない断絶を指さしている。

飯盛山を訪れると、整備された墓所と記念碑、観光地としてのにぎわいがまず目に入る。その向こうに、少年たちが実際に感じたであろう恐怖と絶望、そしてそれを美しい物語に変えてしまった後世の欲望が重なっている。「落城を見たのか」という一見単純な問いが、150年以上たった今も人を引きつけるのは、そのせいだ。城は、思ったより遠い。

タイトルとURLをコピーしました