1945年5月1日の夜、ベルリンの地下8メートルで、6人の子どもが死んだ。上から12歳、11歳、9歳、8歳、6歳、4歳。全員が寝間着姿だった。女の子の髪にはリボンが結ばれていた。殺したのは他人ではない。母親だ。
この話をどう扱うか、正直ずっと迷っていた。センセーショナルに書こうと思えばいくらでも書ける。だがそれをやった瞬間に、この6人はまた消費される。生きていた12年と4年を、最後の30分の材料として使い潰すことになる。だからここでは、できるだけ細かく、できるだけ淡々と書く。名前も、性格も、その日の時刻も、部屋の位置も、証言の食い違いも、遺体がその後どこへ運ばれたかも、全部書く。オカルトめいた「呪い」の話は出てこない。出てくるのは、記録に残っている限りの事実と、記録が食い違っている場所と、その隙間に70年以上溜まり続けた人間の気味悪さだ。
まず、あの階段の下で何があったのか
現場は総統地下壕――正確には、その手前にある「前地下壕」のほうだ。ベルリンの旧首相官邸の下に、二階建ての防空施設が埋まっていた。上側が1936年完成の前地下壕。首相官邸の大宴会場を支えるために天井のコンクリートは1.6メートル厚。廊下1本から12の部屋が枝分かれし、出入口は北と西と南の3か所。下側が1944年に完成した総統地下壕で、庭の地面から8.5メートル下、前地下壕より2.5メートル低い位置にあった。この2つは螺旋階段ではなく直角に折れた階段でつながっていて、境目には隔壁と鋼鉄の扉があり、そこには常時見張りが立っていた。
ヒトラーが1945年1月16日にこの下へ引っ越してきたとき、ゲッベルス一家は上側の前地下壕に入った。台所は前地下壕の2部屋を占めていて、冷蔵設備とワイン庫まであった。マクダと6人の子どもは上、ヨーゼフ・ゲッベルス本人は下の総統地下壕に自室を持っていた。つまり親子は同じ建物にいながら、階段1本ぶん離れて寝ていたことになる。
子どもたちが使ったのは1部屋。ここは証言が割れる。三段ベッドが3つあったという話と、二段ベッドが2つしかなかったという話がある。後者はヒトラーの秘書トラウデル・ユンゲの主張だ。彼女は「あの部屋にベッドは2つだった」と譲らなかった。6人が2つの二段ベッドで寝ていたなら、誰かは床か大人のベッドに割り込んでいたことになる。こういう、どうでもよさそうな細部が一致しないところに、地下壕という空間の記憶のあやふやさが出ている。
全員Hで始まる名前の、つまらない真相
ヘルガ・ズザンネ、1932年9月1日生まれ。ヒルデガルト・トラウデル、通称ヒルデ、1934年4月13日生まれ。ヘルムート・クリスティアン、1935年10月2日生まれ。ホルディーネ・カトリン、通称ホルデ、1937年2月19日生まれ。ヘートヴィヒ・ヨハンナ、通称ヘッダ、1938年5月5日生まれ。ハイドルーン・エリーザベト、通称ハイデ、1940年10月29日生まれ。
6人全員がHで始まる。だからヒトラーへの忠誠の証だ、という説明がずっと出回ってきた。分かりやすいし、いかにもこの一家がやりそうだ。ただ、これは怪しい。マクダには前夫ギュンター・クヴァントとの間にハラルトという息子がいて、1921年11月1日生まれ。ゲッベルスと出会うよりずっと前だ。頭文字をそろえるのはクヴァント家の側にもともとあった習慣で、要するに「きょうだいで頭文字をそろえる」という、そこらの家庭にもある趣味の延長だったという見方が有力になっている。悪の象徴として語られてきた頭文字が、実はただの家族ルールだった。この話のいちばん最初の入口で、もう伝説と事実がずれている。
マクダという女――ベルリンの私生児から「第三帝国のファーストレディ」へ
ヨハンナ・マリア・マグダレーナ・リッチェル。1901年11月11日、ベルリン生まれ。両親は未婚だった。母アウグステ・ベーレントと技師オスカー・リッチェルはその年のうちに結婚したが、1904年か1905年には別れている。マクダが5歳のとき、母はブリュッセルで裕福なユダヤ人商人リヒャルト・フリートレンダーと再婚し、フリートレンダーはマクダを養子にした。彼女は一時期「マグダ・フリートレンダー」を名乗っている。
ここが後々まで効いてくる。2016年、歴史家オリヴァー・ヒルメスが、フリートレンダーが養父ではなく実父だった可能性を示す資料を提示した。決定打ではないが、第三帝国のファーストレディの血にユダヤ人の血が混じっていたかもしれない、という話になる。フリートレンダー自身は1938年にブーヘンヴァルト強制収容所に送られ、そこで死んだ。かつて自分を娘として育てた男が収容所で死んだとき、マクダは宣伝相夫人としてベルリンの社交界の頂点にいた。彼女がそれについて何を思ったか、まともな記録は残っていない。
教育はベルギーのフィルフォールデにあるウルスラ会修道女の学校で受けた。1908年から。当時の記録に「活発で聡明な女の子」と残っている。第一次大戦が始まって一家はベルリンに戻り、コルモルゲン女子高等学校に通った。ここでもう一つ、後から見ると強烈な話が挟まる。10代のマクダは、熱心なシオニストの青年ハイム・アルロゾロフと親しくなっている。彼から贈られたダビデの星を身につけて、ユダヤ人青年クラブの集まりにも顔を出した。アルロゾロフはやがてパレスチナへ渡り、ユダヤ機関の政治部門を率いる立場になり、1933年6月にテルアビブで暗殺された。マクダがナチ党員になった3年後のことだ。
1920年、19歳のマクダは列車の中で、倍の年齢の大実業家ギュンター・クヴァントに出会う。丁重な物腰と派手な贈り物で口説かれ、1921年1月4日に結婚。同年11月1日にハラルトが生まれた。クヴァントには先妻との息子もいて、家には子どもが複数いた。だが夫は事業帝国に没入し、マクダは退屈した。1929年、クヴァントが彼女の不倫を掴んで別居、離婚。このとき彼女はかなり有利な条件を引き出している。夫が世間に出したくない昔のラブレターの束を握っていたからだ、と伝えられている。20代で経済的自由と社交界の地位を手に入れた女が、次に何を欲しがったか。答えは、意味だった。
「われわれが帝国を征服したとき、われわれは夫婦になる」
1930年、マクダはナチ党の集会に足を運ぶ。演壇にいたのはベルリン大管区指導者ヨーゼフ・ゲッベルス。9月1日に入党し、地元の女性グループを率いる立場になった。翌1931年2月、ヴァイマルへの旅行で2人の関係は決定的になる。4月にはもう将来の計画を語り合っていた。ゲッベルスは日記にこう書いた。「われわれは厳粛に誓い合った。われわれが帝国を征服したとき、われわれは夫婦になる」
結婚式は1931年12月19日。証人はアドルフ・ヒトラーだった。オットー・ヴァーゲナーの証言によれば、この結婚には政治的な仕込みがあった。ヒトラーが独身を通す以上、彼のそばに「上流の作法を身につけた、社交的で見栄えのする女」を置く必要がある。マクダはその役に完璧だった。夫が誰であれ、彼女は「第三帝国のファーストレディ」の位置に座ることができた。
実際そうなった。彼女はヒトラーの周囲に女性の小さな取り巻きを形成し、ドイツ中の主婦から家庭の悩みを綴った手紙を受け取る立場になった。住居はベルリン市内、クラードウ、ハーフェル川に浮かぶシュヴァーネンヴェルダー島、そしてボーゲンゼーの別荘。改装はアルベルト・シュペーアが手がけた。ポニーがいて、池があって、使用人がいた。子どもたちはそこで育った。
問題は夫だった。ヨーゼフ・ゲッベルスは休みなく浮気をした。1936年に知り合ったチェコの女優リーダ・バーロヴァとの関係は1937年の冬から本格化し、1938年には離婚まで見えるところまで行った。8月15日にマクダがヒトラーに直訴し、ヒトラーはゲッベルスに関係を断てと命じた。9月末に一度また別れかけたが、ヒトラーは「別れるな」と押し切り、10月には仲直りした夫婦の写真をわざわざ撮らせて世間に出した。ここが恐ろしい。夫婦仲の修復まで宣伝素材として処理されている。マクダの側にも不倫はあった。1933年のクルト・リューデッケ、1938年のカール・ハンケ。
体は弱かった。心臓が悪く、長期の療養を繰り返した。戦争末期には重い抑うつと三叉神経痛――顔面の激痛が走る神経の病気に苦しんでいる。1944年8月の時点でまだ入院している。子ども6人を抱え、公人としての役割を演じ、夫の女性関係に耐え、顔面の激痛を抱えていた40代の女。あの1945年5月の決断を、狂信だけで説明しようとすると、たぶん何かを取り落とす。
6人はプロパガンダの部品でもあった
ここは書いておかないとフェアじゃない。ゲッベルス家の子どもたちは、単に「有名人の子」だったのではない。宣伝省のコンテンツだった。1942年から1944年にかけて、彼らはニュース映画に、写真に、公式行事に繰り返し登場した。ナチのイデオロギーが健全で家庭的なものだと見せるための、いちばん効率のいい素材だったからだ。金髪の子どもが6人並んで笑っている絵は、どんな演説より効く。父親はそれを知っていて、使った。
もっと悪い話もある。1939年、ゲッベルスは自分の子どもたちを、障害のある子どもたちと並べて撮影させたと伝えられる。「T4作戦」――障害者や病者を「生きるに値しない命」として殺していった計画のプロパガンダに使うためだ。健常な自分の子と、殺す対象の子を並べて撮る。この構図を思いつく人間が、6年後に自分の子を殺す側に回る。因果と呼ぶのは安直だが、少なくとも同じ思考の道具立てではある。
その宣伝省の映画部門は、1941年に『イッヒ・クラーゲ・アン(われ弾劾す)』という長編を送り出している。不治の病の妻を夫が「安楽死」させる物語で、観客に「慈悲の殺害」という発想を飲み込ませるために作られた。慈悲の名を借りて命を終わらせるという語法は、この一家の周囲にずっと転がっていた。1945年5月にマクダが使った理屈と、形はよく似ている。
ヘルガ、ヒルデ、ヘルムート、ホルデ、ヘッダ、ハイデ
ヘルガは6人の頭だった。証言はほぼ一致していて、いちばん賢い子だった。髪と目の色は父親似の濃い色。父親っ子で、夜遅く帰ってくるヨーゼフを起きて待っていた。地下壕でも、大人が言っていることと現実がずれていることに気づいていた節がある。何人もの目撃者が「あの子は分かっていた」という趣旨のことを言っている。12歳という年齢は、大人の嘘を検出できてしまう年齢だ。
ヒルデは静かな子だった。父親は1941年の日記で彼女を「小さなネズミ」と呼んでいる。写真で見ると、成長すればかなりの美人になるだろう顔立ちをしている。11歳。
ヘルムートは唯一の男の子で、繊細で夢見がちだったと言われる。父親は「道化」と呼んだ。歯列矯正の装具をつけていた。勉強はもともと苦手で、家庭教師がついてからようやく伸びた。この子については後で、地下壕でのある一言が出てくる。
ホルデは6人の中でいちばん目立たない子だったらしい。「いちばん活発でない」と評され、きょうだいの輪から少し外れがちだった。そのぶんヨーゼフが気にかけていて、ホルデはそれに強い懐き方で応えた。8歳。
ヘッダは、6歳の女の子がやりそうなことをやる子だった。1944年、彼女は「大きくなったらSSの副官と結婚する」と言い張っていたという。この家に生まれた子が思い描ける将来像の範囲が、そのまま出ている。死んだのは1945年5月1日。7歳の誕生日まで、あと4日だった。
ハイデは4歳。地下壕の電話交換手ローフス・ミッシュは彼女を「小さな色目使い」と呼んでいる。しょっちゅう冗談を言いに来る子だった。彼女は父ヨーゼフと同じ10月29日生まれで、バーロヴァ事件で壊れかけた夫婦が仲直りした後に生まれたことから「和解の子」と呼ばれていた。
看護師のエルナ・フレーゲルは6人を「魅力的」「本当にすばらしい子たち」と評した。一方、参謀のベルント・フライタク・フォン・ローリングホーフェンは彼らを「悲しげ」と見ている。同じ子どもたちを見て、大人の側の受け取りがここまで違う。地下壕にいた大人の精神状態のほうが問題だったのかもしれない。
1945年4月22日、地下へ
ゲッベルス一家が前地下壕に入ったのは4月22日だ。この日、ヒトラーは午後の軍事会議で崩壊した。ベルリン救援のための反攻が存在しないと知り、初めて公然と「戦争は負けた」と口にした。その夜、ゲッベルスは妻と6人の子どもを官邸の地下へ移した。宣伝相はそれ以前から新首相官邸の地下室に家族を置いていたが、ここで最終的に総統のすぐ隣まで詰めた。
外の状況を押さえておく。ソ連軍はすでにベルリン市内に食い込んでいて、月末には官邸まで数百メートルというところまで来ていた。地上は瓦礫と火災、地下は換気の悪い空気とディーゼル発電機の音。子どもたちが直前まで暮らしていたのは、ベルリン郊外の緑の中の家だ。灰色のコンクリート、狭い通路、鉄の扉、冷たい照明。落差はきつい。
それでも彼らは子どもらしくふるまった。地下壕で遊び、歌った。ヒトラーの飼っていたシェパード犬のブロンディと遊んだ。全員で声を合わせて歌を披露したこともある。負傷して運び込まれていた空軍のロベルト・リッター・フォン・グライムと、彼を飛行機で運んできた女性飛行士ハンナ・ライチュの前で歌い、ライチュが指揮の真似をして遊び歌を歌わせた、という記録が残っている。ヒトラーは彼らを気に入っていて、ココアを一緒に飲み、風呂を使わせた。フレーゲルはある晩、マクダが歯の治療を受けに行っている間、6人を寝かしつけるために歌ってやっている。地下8メートルで、彼女は子守唄を歌った。
フレーゲルはマクダに「せめて何人かは外に出しなさい」と迫ったことがある。返ってきた答えはこうだ。「私は夫のもの。そして子どもたちは私のもの」。所有格が全部そろっている。この文の中に、子ども自身の意思が入る場所は一つもない。
4月28日、マクダがハラルトに書いた手紙
北アフリカのイギリス軍捕虜収容所に、マクダの長男ハラルト・クヴァントがいた。空軍の中尉で、クレタ島の戦いに参加し、東部戦線とイタリアで戦い、負傷し、1944年にイタリアで捕虜になっていた。ベンガジの収容所にいた彼のもとへ、母から最後の手紙が向かうことになる。運んだのは4月29日に地下壕を飛び立ったハンナ・ライチュか、5月1日に脱出したユンゲか、そのどちらかだったとされる。
日付は4月28日。内容はこうだ。愛する息子よ、私たちはもう6日間ここ、総統の地下壕にいる。お前の父と、6人の弟妹と、私と。私たちの国家社会主義的な生に、ただ一つ可能な、名誉ある結末を与えるために。お前の父の意思に反して私はここに残った。つい日曜日には総統が私をここから出そうとしてくれた。お前は母を知っているだろう。私たちには同じ血が流れている。ためらう理由などなかった。私たちの輝かしい理想は滅びる。そして私がこの人生で知ったすべての美しいもの、称賛すべきものも一緒に滅びる。総統と国家社会主義の後に来る世界は、生きるに値しない。だから私は子どもたちを連れていく。この後に来る生には、あの子たちはもったいなさすぎるから。慈悲深い神は、私が自分の手であの子たちを救うことを分かってくださるだろう。
続きはこうだ。子どもたちはすばらしい。不平の一言も、涙の一滴もない。着弾のたびに地下壕が揺れる。上の子が下の子を守っている。あの子たちがいることは恵みだ。ときどき総統の顔に微笑みを取り戻させるから。最後の、いちばん難しいことを成し遂げる力を神が与えてくださるように。私たちに残された目的はただ一つ。死に至るまで総統に忠誠であること。ハラルト、愛する子よ、人生が私に教えたことをお前に残す。誠実であれ。自分に、他人に、そして祖国に。私たちを誇りに思い、私たちを喜びとともに思い出そうとしてほしい。
読み返すたびに、同じ場所で止まる。「あの子たちはもったいなさすぎる」。子どもの命を、彼女は理想の付属物として扱っている。理想が終わるなら子どもも終わる。そういう文法だ。そして「私たちを誇りに思ってほしい」という一文が、6人を殺す計画の直後に置かれている。この手紙は狂人の錯乱ではない。文章として整っている。整っているから怖い。
4月29日、遺言とその追記
4月29日未明、ヒトラーはエヴァ・ブラウンと結婚した。同じ日、政治的遺書と個人的遺言を口述させ、署名した。ゲッベルスは新政府の首相に指名された。そしてゲッベルスは、その遺書に自分の追記を書き加えている。
追記の中身は、要するに命令拒否だ。総統は自分にベルリンを離れて新政府を率いよと命じた。しかし人生で初めて、自分は総統の命令に従わない。妻とともに、そして自分では意思表示のできない年齢の子どもたちに代わって、自分はここに残る。もし年長の子どもたちが自分で判断できる年齢だったなら、同じ決断をしただろう。人間としての情と個人的忠誠から、総統を最大の危機の中に置き去りにすることはできない。そうすれば自分は不名誉な裏切り者、ただの下劣な男になる。ドイツの再建を左右するのは人ではなく手本だ。総統に仕えられないなら、自分にとって人生には何の価値もない。
「子どもたちに代わって」。ここが全部だ。4歳から12歳までの6人の死が、父親の手で、書面の中で代理決裁されている。しかも「年長の子ならこう決めたはずだ」という仮定まで書き添えて。ヘルガは12歳で、大人が嘘をついていることに気づいていた。彼女がどう決めたかは、誰にも分からない。
4月30日、銃声と「命中だ」
4月30日午後3時半ごろ、ヒトラーとエヴァ・ブラウンが自殺した。遺体は庭に運び出され、ガソリンをかけて焼かれた。
このときの子どもたちの様子について、ユンゲが残した話がある。彼女は6人と一緒にいた。銃声が響いたとき、9歳のヘルムートはそれを迫撃砲の着弾だと思い、大声でこう言った。「命中だ!」
子どもは音の意味を知らない。地下壕にいれば爆発音は日常だ。彼が反射的に喜んだ音は、上の階でこれから起こることの合図だった。この一行は、どんな脚色よりきつい。
5月1日の昼――クレープスがソ連軍のところへ行って、帰ってきた
5月1日の未明、ドイツ陸軍参謀総長ハンス・クレープス大将が白旗を掲げてソ連軍の戦線を越えた。午前4時少し前にワシーリー・チュイコフのところへ着いている。クレープスはヒトラーとエヴァ・ブラウンの自殺を伝え、ゲッベルスが受け入れられる条件での降伏を提案した。チュイコフの側は「そんなことはもう知っている」という態度で、条件付き降伏の交渉は一切拒否した。連合国間で合意されている通り、無条件降伏以外はない。クレープスにはそれを飲む権限がなかった。
ユンゲの記憶では、地下壕に戻ってきたクレープスは「消耗し、疲れ果てて」見えた。交渉が失敗したという情報が地下に届いた瞬間、この一家の運命は事実上確定した。ゲッベルスにはもう、政府首班として何かを取引する余地がなかった。彼が最後に持っていた「役割」が消えた。
ここで押さえておきたいのは、この日の決断が突然のものではなかったという点だ。マクダは少なくとも1か月前から、子どもを殺すことを考え、口に出していた。1945年の春、彼女は親族のエロ・クヴァントに向かってこう言っている。あの子たちを連れていく。この先に来る世界には、あの子たちは良すぎる、可愛らしすぎるから。いや、私は子どもたちも連れていかなければ、連れていかなければならないの。強い睡眠薬を飲ませる。その後で、ぐっすり眠ったところで、エヴィパンか何かを注射して、それで。
文が途中で切れている。彼女自身、最後まで言い切れていない。それでも計画の骨組みは、この時点でもう出来ていた。
さらに前段がある。宣伝相は1945年2月の時点で、ドイツ労働戦線のロベルト・ライを通じて青酸カリを調達している。3月に化学者から粉末で20人分が届き、ライ経由でゲッベルスの手に渡った。20人分。家族8人には多すぎる量だ。彼らは自分たちの分だけでなく、周囲の分まで用意していた。地下壕の空気がどういうものだったか、これで分かる。
目撃証言その一――ローフス・ミッシュ、電話交換台の男
ローフス・ミッシュはシュレージエン出身の下士官で、1940年5月から総統随行部隊にいた。1945年1月に地下壕が本格運用に入ってからは、その電話交換台の主だった。要人の通話は全部彼の卓を通る。ボディガードでも伝令でも雑用係でもあった。地下壕の最後の住人として2013年9月5日に96歳で死ぬまで、彼は何度も何度も、あの夜のことを話し続けた。話すたびに細部が揺れたことも含めて、彼はこの事件の中心的な証人になった。
彼が語った場面はこうだ。5月1日の夜、寝る時間が近かった。子どもたちは寝間着姿で、彼の仕事場のあたりにいた。母親が一人ずつの髪を梳かし、口づけをしていた。4歳のハイデは扁桃炎で首にスカーフを巻いていて、テーブルの上によじ登っていた。ヘルガは静かにすすり泣いていた。ミッシュは、あの子は母親にあまりなつかなかったという印象を持っていた。マクダはヘルガを階段のほうへ押しやらなければならなかった。押した、というのが彼の言葉だ。
そしてハイデが振り返った。にやっと笑って、彼をからかった。「ミッシュ、ミッシュ、あなたはお魚」。ドイツ語の語呂合わせだ。それが彼女の最後の言葉として記録に残っている。
ミッシュは、これから何が起きるかをうすうす察していた。そして止めなかった。彼はそのことを死ぬまで悔やんだと語っている。地下壕で経験したことの中で最も恐ろしいのは何かと聞かれ、彼は迷いなく子どもたちの死を挙げた。ヒトラーの遺体を見たことでも、ソ連軍の砲撃でもない。あの階段だった。
彼の証言には別の層もある。彼はゲッベルス本人とも言葉を交わしている。「なあミッシュ、われわれは生き方を知っていた。今度は死に方を知るというわけだ」。ゲッベルスは最後まで演説していた。誰も聞いていない場所で、部下一人を相手に、決め台詞を吐いていた。
ただし、ミッシュの証言をそのまま全面信用するのは危ない。彼は後年、映画『ヒトラー 最期の12日間』を「アメリカ化されている」と批判し、ヒトラーはあれほど怒鳴らなかったと言い、ホロコーストにおけるヒトラーの関与に懐疑的な発言をし、ネオナチを「愛国的な人々」と呼んだ。娘のブリギッタは建築家になり、ユダヤ人関連の活動を支援し、父に戦後の悔悟が乏しいことに失望していたと伝えられる。彼はソ連に捕まって8年間強制労働をさせられ、1953年12月31日に西ベルリンへ戻った男でもある。証言の重さと、証言者の思想の歪みは、別々に量るしかない。
2005年、彼は6人の子どものために記念プレートを設置すべきだと呼びかけた。理由は単純だった。あの子たちは完全に無実だった、と。この主張はドイツで大きな議論になった。加害者の家族を犠牲者として記念することの是非は、そう簡単に決着しない。プレートは設置されていない。
目撃証言その二――トラウデル・ユンゲ、22歳の秘書
ゲルトラウト・ユンゲ、通称トラウデル。ミュンヘン出身。1942年からヒトラーの個人秘書を務め、4月29日未明の遺書もこの人がタイプした。地下壕を出たのは5月1日。彼女は生き延び、戦後長く沈黙し、晩年になってようやく語り始めた。2002年に回想録『最期の時まで』を出し、同じ年にドキュメンタリー『ヒトラーの秘書』が公開され、その数か月後に死んだ。
彼女の証言のうち、この件でいちばん引用されるのはマクダの言葉だ。マクダは彼女にこう言った。子どもたちが辱められ、嘲笑されて生きるくらいなら、死んだほうがましだ。あの子たちには戦後のドイツで生きるチャンスなどない。
「チャンスがない」。これは事実の予測ではなく、母親の恐怖の投影だ。実際には、戦後のドイツで戦犯の子として生きた人間は大勢いる。楽ではなかっただろうが、生きた。ハラルト・クヴァント自身がその一人になる。マクダが「ない」と言い切った未来は、単に彼女が想像に耐えられなかった未来だった。
ユンゲはもう一つ、重い場面を残している。4月30日、ヒトラーの銃声が響いたとき、彼女は子どもたちと一緒にいた。ヘルムートが「命中だ」と叫んだあの場面だ。彼女は6人と食事をし、遊び、寝る部屋のベッドの数を覚えていた。彼女にとってこの6人は資料上の名前ではなく、直前まで顔を見ていた子どもだった。だから彼女の戦後の語りは、ずっと自責の色を帯びている。若かったから何も知らなかった、では済まない、という趣旨のことを彼女は繰り返し言った。地下壕を出た日、彼女は22歳だった。
目撃証言その三――エルナ・フレーゲル、看護師の目
エルナ・フレーゲルは赤十字の看護師で、新首相官邸の応急救護所にいた。彼女は2005年、60年の沈黙を破ってインタビューに答え、また戦後直後のアメリカ軍の尋問記録も残っている。
彼女は子どもたちを心から可愛がっていた。6人は「魅力的」で、地下壕の中で互いに遊んでいた。彼女は言う。あの子たちは生きることを許されるべきだった。あの子たちは、周りで起きていたことと何の関係もなかった。
マクダについての評価は、意外なほど高い。「聡明な女性で、たいていの人間よりずっと高い水準にいた」。夫の女性関係にも品位を持って耐えていた、とも。フレーゲルは、その「高い水準」の女に子どもを外へ出すよう懇願し、拒まれた。
そしてもう一つ、彼女は殺害の場面についての一つのバージョンを伝えている。マクダは子どもたちに、地下壕に長く滞在することになるから予防接種が必要なのだ、と説明していたという。子どもは注射を嫌がる。だから理由が要る。母親は理由をこしらえた。ここまで来ると、狂信という言葉では届かない。段取りの領域だ。
彼女はエヴァ・ブラウンについては冷たい。「まったく色のない人物」で、速記者の中に混じっていても目立たないだろう、と。ヒトラーの犬が死んだときのほうが、エヴァの自殺より地下壕の人間には応えた、とまで言っている。地下壕の人間関係の温度が透けて見える。
そして、ハンナ・ライチュ
女性飛行士ハンナ・ライチュは4月26日に負傷したグライムを乗せてベルリンに飛び込み、29日に飛び去った。地下壕にいた数日、彼女はマクダに子どもを空輸で脱出させようと持ちかけている。彼女の言葉として伝わっているのはこうだ。ゲッベルス夫人、私が20回飛ばなければならないとしても子どもたちを外に出します、ここに置いておくわけにはいきません。
マクダの答えは、いつもと同じだった。子どもたちは、辱めと嘲笑の中で生きるより死ぬほうがいい。
アルベルト・シュペーアも同様の申し出をしている。ヒトラー自身も、マクダ本人には脱出を勧めていた。手紙にあった「つい日曜日には総統が私をここから出そうとしてくれた」がそれだ。逃げ道は複数、実在した。全部彼女が閉じた。
誰が毒を入れたのか――クンツ証言と、その周りの矛盾
ここからが、この事件のいちばん厄介な部分だ。6人を実際に殺したのが誰なのか、確定していない。
中心にいるのはヘルムート・クンツという歯科医だ。1910年、エトリンゲン生まれ。法学を学んでから歯科に転じ、学童のむし歯についての学位論文を書いた。1936年にルッカで開業し、SSに入る。1939年には第3SS装甲師団「トーテンコップフ」にいた。1941年に重傷を負い、ベルリンの武装SS歯科部門に配置換え。1945年4月下旬に首相官邸へ回された。最初の患者はマクダ・ゲッベルスで、下顎のブリッジの下にできた膿瘍の処置だった。
4月27日、マクダはクンツに、子どもたちを死なせるのを手伝ってほしいと頼んだ。彼はこのとき子どもたちに会っている。そして持ち場に戻った。
5月1日、マクダから電話がかかってきた。前地下壕に来てほしい、と。行くと彼女は、ヒトラーが死んだこと、一家が死ぬと決めたことを告げた。彼が渋ると「総統の命令だ」という趣旨のことを言われた、という伝えもある。
クンツの供述はこうだ。自分はモルヒネを注射した。モルヒネはマクダがルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガーから入手したものだった。子どもたちを意識のない状態にするためだ。そして青酸カリのアンプルを口に入れたのは自分ではない。マクダとシュトゥンプフエッガーだ。シュトゥンプフエッガーはヒトラーの主治医で、SS中佐。
ここで対立する証言が出てくる。ミッシュとヴェルナー・ナウマンは別の筋書きを語った。シュトゥンプフエッガーが甘い味をつけた飲み物を作り、それで子どもたちを眠らせた。青酸のアンプルを口に入れたのはマクダだ、と。ナウマンによれば、子どもたちには「朝になったらベルヒテスガーデンへ発つ」と説明され、そのための睡眠薬だ、ということになっていた。フレーゲルのバージョンでは予防接種だった。別の話では、白い寝間着に着替えさせられた子どもたちに、母親が「お医者さまが、子どもも兵隊さんもみんな飲むお薬をくれますよ」と言った、とされる。チョコレートに混ぜたという説まである。
説明の中身が全部違う。ということは、この場面をきちんと見ていた人間はほとんどいないか、見た人間が正直に話していないか、そのどちらかだ。
アメリカのジャーナリストで地下壕の関係者を大量に取材したジェイムズ・P・オドネルは、こう結論した。シュトゥンプフエッガーはおそらく薬を飲ませる部分に関与していたが、実際に子どもを殺したのはマクダ本人だ。そして証言者たちがシュトゥンプフエッガーに罪を寄せたのは、彼が翌日に死んで反論できなくなったからだ、と。オドネルはさらに、シュトゥンプフエッガーはその時点で酔いすぎていて、精密な作業をこなせる状態ではなかったのではないかとも書いている。
死人に罪を着せる。生き残った人間が全員そうした可能性がある。これがこの事件の証言状況の底だ。
クンツは5月2日にソ連軍に捕まり、10年間ソ連に抑留された。1955年、元軍曹の証言によって彼の関与が改めて表面化し、1959年になって幇助殺人6件で捜査対象になる。ドイツの裁判所は結局、有罪判決を下さなかった。彼はその後も歯科医を続け、1976年にフロイデンシュタットで死んだ。6人の子どもの死に立ち会った男が、戦後30年、普通に患者の歯を治療していた。
ヘルガの痣
検死で、ヘルガの体に複数の痣が見つかった。ほとんどが顔にあった。顎の骨折を疑う記述もある。他の5人には目立った外傷はなかった。
この所見の解釈は一つしかない、と多くの研究者は考えている。12歳のヘルガは途中で目を覚ましたか、そもそも十分に眠らされていなかった。そして抵抗した。青酸カリのアンプルを口の中に押し込むには、口を開けさせ、噛み砕かせる必要がある。抵抗する子どもに対してそれをやれば、顔に力が加わる。
もう一つ、彼女に投与された量が足りなかった、という可能性も指摘されている。どちらにせよ、ヘルガはあの部屋で、自分が何をされているかを理解した状態で、母親か医師と揉み合ったことになる。
ミッシュの証言では、彼女は階段の手前ですでに泣いていて、母親に押されて上がっていった。押されて上がった先に、あれがあった。この2つの証言はつながる。彼女は最初から分かっていた。
ソ連側の記録によれば、遺体は寝間着姿のまま、女の子の髪にはリボンが結ばれた状態で発見されている。殺した後に、髪を整え、リボンを結び直した人間がいる。ヘルガの顔に痣を作った同じ手が、それをやった。この一点だけで、この事件は普通の凶行のカテゴリから外れる。
8時半、庭への階段
5月1日の午後8時半ごろ、ヨーゼフとマクダは階段を上がった。ゲッベルスの副官ギュンター・シュヴェーガーマンの証言では、夫婦が先に立って階段を上がり、彼は階段室で待った。そして銃声を聞いた。外へ出ると、2人はもう動いていなかった。
死因については記録が割れる。青酸だったという説、拳銃だったという説、両方だったという説。シュヴェーガーマンによれば、彼はゲッベルスの生前の指示に従って、SS隊員にゲッベルスの体へ数発撃ち込ませた。体は動かなかった。念押しの発砲だ。その後、遺体にガソリンをかけて火をつけた。だが火は不十分で、2人は半分焼けた状態のまま、埋葬もされずに庭に残された。ヒトラーの遺体を焼くのに使ったガソリンの量に対して、こちらは足りなかったのだと言われる。
ゲッベルスは自分の遺体が晒し者になることを何より恐れていた。ムッソリーニがミラノの広場で逆さ吊りにされた話は、地下壕にも届いていた。だから徹底的に焼けと命じた。そして、焼き切れなかった。
夫婦が階段を上がるまでの数時間、マクダは何をしていたか。伝えられているのは、子どもたちの部屋から一人で出てきた彼女に涙はなく、そのままトランプの一人遊びを始めた、という話だ。ペイシェンス。日本で言うソリティアだ。この細部の出所は必ずしも確実ではないが、あまりに何度も引用されるので、いまや事件の一部として定着している。トランプを繰る手つきだけが、彼女の内面についての唯一の手がかりとして残った。
5月2日と3日、ソ連軍が地下へ入る
5月2日、ベルリン守備隊が降伏した。ソ連軍が首相官邸の敷地に入り、庭で半焼した2体の遺体を見つけた。ヨーゼフ・ゲッベルスの身元は比較的早く特定された。小児麻痺の後遺症で変形した右足に装着していた金属の矯正具が焼け残っていたからだ。宣伝相の最大のコンプレックスが、身元確認の決め手になった。マクダのほうは損傷がひどく、顔の判別がつかなかったと記録されている。
6人の子どもが見つかったのは5月3日だ。イヴァン・クリメンコ中佐の指揮する部隊が、前地下壕の中で発見した。寝間着姿、リボン。一部の記録では、彼らは並んだベッドの上にきちんと寝かされていたとされる。
戦場を通ってきたソ連兵にとっても、この光景は別格だった。前線の兵士は死体には慣れる。だが「殺された後で身支度を整えられた6人の子ども」に慣れている人間はいない。
遺体はベルリン北部ブーフの病院へ運ばれた。ここで検死が行われる。委員会を率いたのは中央方面軍の主任法医官ファウスト・シュカラフスキー。彼のチームは5月上旬、地下壕周辺で発見された遺体群――ヒトラーとされる遺体、エヴァ・ブラウンとされる遺体、クレープス、ブルクドルフ、ゲッベルス夫妻、そして6人の子どもを順に扱った。
検死は青酸中毒の所見を軸に進んだ。子どもたちの口腔内には特徴的な苦扁桃臭が残っていたとされる。ヘルガの痣が記録されたのもここだ。ただしシュカラフスキー委員会の報告書全体の信頼性は、現在では相当割り引いて読まれている。ヒトラーの死因を銃創ではなく青酸中毒だと断定した点は、多くの研究者が否定している。歯の残存物だけが確実な証拠として認められ、それ以外は政治的圧力の下で作られた文書だと見られている。スターリン自身が公の場で「ヒトラーは死を偽装して逃げた」と語っていた時期があり、鑑定は最初から政治の道具だった。
つまり、6人の子どもの死についての最も直接的な物証記録が、政治的に汚染された文書の中にある。これがこの事件のもう一つの厄介さだ。
遺体の25年間
その後の遺体の旅は、ほとんど不条理劇だ。
1945年5月6日から8日にかけてブーフで検死が行われ、隣接する空き地に埋められた。5月17日、ブーフに駐屯していたスメルシュ部隊が再編で北のエーバースヴァルデ・フィノーへ移動することになり、遺体も掘り出されて森の中の駐屯地敷地に埋め直された。5月22日、ソ連の将軍に見せるためにまた掘り出され、また埋められた。6月3日、部隊がラーテノウへ移るというので、また掘り出し、ノイ・フリードリヒスドルフ近くの森に埋め直した。7月にはシュテンダール、旧ヒンデンブルク兵舎の裏の畑。12月にはマクデブルク、スメルシュの敷地内にあるボイラー室の車寄せの下。
1946年2月21日、最後の検死をした上で、マクデブルクのヴェストエントシュトラーセ36番地の中庭に、深さ2メートルの穴を掘って埋め直した。地面はわざと均され、周囲と見分けがつかないようにされた。木箱に入った半ば腐敗した遺体だった。ヒトラー、エヴァ・ブラウン、ゲッベルス夫妻、そして6人の子ども。同じ穴に。
そこから25年間、彼らはマクデブルクのアパートの中庭の下にいた。上には東ドイツの住民が暮らしていた。誰も知らなかった。
1970年、その土地が東ドイツ側に返還される話が持ち上がる。KGB議長ユーリ・アンドロポフは、遺体が発見されて巡礼地になることを恐れた。3月13日付で破壊の許可が出て、作戦名は「アルヒーフ」――文書庫。ソ連共産党指導部の承認済みだった。
1970年4月4日から5日にかけて、KGBの小さなチームがマクデブルクの中庭を掘った。木箱が5つ出てきた。中身はまとめて、マクデブルクから11キロ離れたシェーネベックの兵舎の敷地へ運ばれ、焚き火で焼かれた。骨は砕かれ、灰になった。その灰は、ビーデリッツ近くのエーレ川――ビーデリッツ川と呼ばれることもある――に、「豚橋」と呼ばれる橋のあたりから流された。作業については2通の調書が作成された。ヒトラーの頭蓋骨の一部と顎の一部だけは証拠物件としてモスクワのKGB文書庫に残された。
6人の子どもの遺体は、この時点で完全に消えた。墓はない。骨もない。灰も川に流れた。
彼らの祖母、マクダの母アウグステ・ベーレントは、孫たちの遺体がどうなったのかを最後まで知らなかった。何度も問い合わせたが、答えは返ってこなかった。ソ連は情報を出さなかった。彼女は孫の墓を持たないまま死んだ。
ハラルト・クヴァント、ただ一人
1921年11月1日、シャルロッテンブルク生まれ。マクダの長男。父はギュンター・クヴァント。5月1日の夜に死んだ6人は、彼にとって異父きょうだいだった。
彼は空軍の中尉として1941年のクレタ島降下作戦に参加し、東部戦線、そしてイタリアで戦い、負傷し、1944年に連合軍の捕虜になった。リビアのベンガジの収容所に入れられ、釈放されたのは1947年。母の手紙は、その収容所に届いた。
戦後、彼は1949年から1953年まで、ハノーファーとシュトゥットガルトで機械工学を学んだ。1954年に父ギュンターが死ぬと、異母兄弟のヘルベルトとともにクヴァント家の産業帝国を引き継ぐ。BMWの株の約3割、バッテリーメーカーのファルタ、機械メーカーのIWKAなど。戦後西ドイツの経済復興の、かなり中心に近いところにいた。1951年にインゲ・バンデコウと結婚し、5人の娘をもうけた。カタリーナ、ガブリエーレ、アネッテ、コリーン=ベッティーナ、パトリシア。
1967年9月22日、イタリアのクーネオ近郊で飛行機事故により死亡。45歳。
彼が母や弟妹について公に語った記録は、ほとんど残っていない。沈黙を選んだのだろう。彼の子孫は現在もドイツ有数の資産家一族として存在している。クヴァント家が戦時中に強制労働を使っていたことは後年に公的な調査で確認され、一族は謝罪と基金設立に応じた。歴史はきちんと請求書を送りつけてくる。ただ、その請求書は6人の子どもには届かない。彼らには未来がなかったからだ。
もしマクダが手紙の中で「戦後のドイツに私の子どもたちのチャンスはない」と書いたその予測が正しかったなら、ハラルトも生きられなかったはずだ。だが彼は生きた。捕虜収容所から出て、大学に行き、結婚し、5人の娘を育てた。母親が「不可能だ」と言い切った人生を、長男が実演してみせた。この事実が、あの手紙の論理を全部無効にしている。
戦後、この話がどう語られてきたか
最初の枠組みを作ったのはヒュー・トレヴァー=ローパーだ。イギリスの情報部員として1945年に地下壕関係者を追跡し、翌年『ヒトラー最期の日』を書いた。ここで地下壕の最後の数日は「頽廃した宮廷の崩壊」として物語化された。ゲッベルス一家の死は、その物語のクライマックスとして配置された。
その後、ジェイムズ・P・オドネルが1970年代に生存者を徹底的に取材した『ザ・バンカー』を出す。証言の突き合わせという作業を最初に本格的にやったのが彼で、シュトゥンプフエッガー犯人説への疑いもここから出た。1990年代以降はソ連側の文書が部分的に公開され、アントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落1945』のような研究がロシア側の記録と西側の証言を並べて読めるようになった。ヨアヒム・フェストが2002年に地下壕についての本を出し、同じ年にトラウデル・ユンゲの回想録が出る。
そしてこの2冊を土台にして、2004年に映画『ヒトラー 最期の12日間』が作られた。監督オリヴァー・ヒルシュビーゲル、脚本と製作はベルント・アイヒンガー。ヨーゼフ役はウルリヒ・マテス、マクダ役はコリンナ・ハルフォーフ。6人の子どもは6人の子役が演じた。
この映画がやったことは大きい。それまで「悪魔」として抽象化されていた人間たちを、汗をかき、手を震わせ、泣く生身として画面に置いた。ドイツ国内では公開前から激しい議論になった。怪物を人間として描いていいのか、と。ヒルシュビーゲルはこう答えている。悪い人間は爪を生やした怪物として歩き回ったりしない、そう思えたら気が楽だろうけれど。批評家のデイヴィッド・デンビーは、人間として描かれてもなお、あの男のあらゆる衝動が破滅にしか向かわないことがはっきり見える、と擁護した。アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされ、批評家の評価も高い。
ただし、子どもの殺害の場面については、当の目撃者から異議が出ている。ミッシュは、映画は夫婦が共同で決断したように描いているが、実際にはマクダが一人で決めて子どもたちを地下壕に留めたのだ、と主張した。あの決断の主語は誰か。映画は「両親」にしたが、証人は「母」だと言った。この差は小さくない。
そして、この映画にはもう一つ副産物がある。総統が地図の前で怒鳴る場面が、無数のパロディ動画の素材になった。同じ映画の中に、6人の子どもが眠らされる場面がある。ネットは前者だけを切り取って延々と再生産し、後者は切り取られない。切り取れないからだ。笑いにできないものは流通しない。この非対称が、そのままインターネットのこの話への態度を示している。
ネットの中の6人
考察系・オカルト系の文脈で、この事件は独特の位置を占めている。心霊現象の話は出てこない。地下壕に幽霊が出るという伝承もほぼ流通していない。それでもこの話は「怖い話」として繰り返し語られる。
理由は、たぶん3つある。
1つ目は写真だ。6人の子どもの写真は大量に残っている。ゲッベルスが宣伝素材として撮らせたからだ。笑っている顔、庭で遊んでいる顔、正装して並んでいる顔。歴史上の悲惨な出来事の犠牲者で、これほど大量に「幸福な写真」が残っている例は少ない。しかも最後の結末を知った上でそれを見ることになる。写真の中の子どもは自分の終わりを知らない。見る側だけが知っている。この情報の非対称が、写真を心霊写真より不気味なものにする。
2つ目は、加害者が母親であることだ。子どもが死ぬ話は多い。だが「守るべき人間が、守るという名目で殺した」という構造は珍しい。しかも本人がそれを手紙に書き残している。この構造は、読む側の一番古い部分――親に守られるという前提――を直接殴りにくる。安全の定義が反転している場所を見せられると、人間はうまく処理できない。
3つ目は、加害と被害が同じ一族の中にあることだ。6人は加害者の子であり、被害者だ。この2つは矛盾しない。だがどちらか一方だけを選ぶと、必ず何かが歪む。「ナチの子だから」と切り捨てると、8歳や4歳に責任を負わせることになる。「純粋な犠牲者だ」とだけ言うと、宣伝映像に使われ、その宣伝が別の子どもたちの死を後押ししたという事実が消える。ミッシュの記念プレート提案が議論になったのは、この線引きの難しさそのものだった。ドイツの記憶文化はこの手の問いに何十年も向き合ってきたが、答えは出ていない。出ないのが正解なのかもしれない。
ネットではしばしば、この話が「母性の狂気」というパッケージで消費される。それはたぶん半分しか合っていない。マクダの手紙も証言も、狂気というより整合性で出来ている。彼女の中では前提から結論まで筋が通っていた。前提が壊れていただけだ。狂人の暴走なら理解を放棄できる。だが理路整然と組み上げられた結論として6人が死んだのだとすると、こちらの理路も安全ではないことになる。だから怖い。
なぜこの話は、いつまでも人の心をえぐるのか
歴史上、1945年5月1日よりはるかに多くの子どもが死んだ日はいくらでもある。同じ戦争で、同じ体制の手によって、名前も残らずに死んだ子どもは数え切れない。アウシュヴィッツで、ワルシャワで、レニングラードで、東京で、広島で。数だけを見るなら、この6人は統計にすらならない。
それでもこの話が刺さり続けるのは、名前と顔と最後の会話が全部残っているからだ。ハイデが振り返って言った語呂合わせの一言。ヘルガが階段の前で泣いていたこと。ヘルムートが銃声を迫撃砲だと思って喜んだこと。ホルデが父親になついていたこと。ヘッダの誕生日まであと4日だったこと。ヒルデが父親に「小さなネズミ」と呼ばれていたこと。この解像度で残っている子どもは、あの時代にはほとんどいない。
そして、その解像度の高さの原因が、彼らを殺した父親の仕事だという点がひどい。ゲッベルスが子どもたちを撮らせなければ、写真も映像も日記の記述も残らなかった。彼が宣伝の材料として娘たちを消費したからこそ、私たちは彼女たちの顔を知っている。加害の記録が、そのまま追悼の資料になっている。これほど気持ちの悪いねじれは、そうそうない。
もう一つ。この話は「逃げ道があった」という事実を含んでいる。ライチュが飛行機を出すと言った。シュペーアが申し出た。ヒトラーですらマクダには出ろと勧めた。地下壕の外は地獄だったが、6人が生き延びる確率はゼロではなかった。全部、母親が閉じた。運命でも戦局でもない。判断だった。だから読む側は、いつまでも「もし」を考え続けてしまう。歴史の大部分は「どうにもならなかった」で出来ているが、この件だけは、どうにでもなった。
確定していることは、思っているよりずっと少ない
ここまで書いてきて、どうしても最後に整理しておきたいことがいくつか残っている。事実の羅列では拾いきれなかった部分だ。
まず、証言の食い違いをどう扱うかという問題から。この事件について確定していることは、実はかなり少ない。6人が5月1日の夜に死んだこと。死因が青酸中毒であること。事前にモルヒネか何らかの鎮静剤が使われたこと。マクダがその場にいたこと。ここまでだ。誰がアンプルを口に入れたか、それが何時何分だったか、子どもたちが最後に何を聞かされたか――全部が複数バージョンで存在する。
しかもその複数バージョンは、ランダムに散らばっているわけではない。よく見ると、全部が同じ方向に歪んでいる。証言者は誰も「自分が入れた」とは言わない。クンツはモルヒネまでだと言う。ミッシュとナウマンはシュトゥンプフエッガーの名前を出す。そのシュトゥンプフエッガーは5月2日の夜、脱出を試みて死んだので何も言えない。オドネルが指摘した通り、これは責任の押し出しとしてあまりに都合がいい配置だ。
ここに、地下壕の生存者証言の一般的な性質が出ている。彼らは戦後、ソ連の尋問と西側の取材と自国の司法と世間の目に、順番に晒された。話すたびに聞き手が違い、リスクが違った。ミッシュの証言が年を追って変化したのも、悪意というより、この圧力の下で記憶が再編集されていったからだろう。人間の記憶はハードディスクではない。呼び出すたびに書き換わる。だから「最も早い時期の証言が最も正確」という原則は一応使えるが、最も早い時期の証言が最も強い圧力の下で取られている場合、その原則も効かない。クンツの最初の供述はソ連の尋問室で出たものだ。
次に、マクダ・ゲッベルスという人物の読み方について。彼女を説明する枠組みは、ざっくり4つある。狂信者説、ヒトラー恋着説、心理的崩壊説、そして「保護」説だ。
狂信者説は分かりやすい。国家社会主義を心底信じ、それが滅ぶなら子どもも滅ぶべきだと考えた。手紙の文面はこの読みを支持する。ただ、この説は彼女の前半生とうまくつながらない。10代でシオニストの青年と付き合い、ダビデの星を身につけていた女が、20代でナチ党員になり、40代で子どもを殺す。イデオロギーの中身より、「何かに強く帰属したい」という形のほうが一貫している。
ヒトラー恋着説は、彼女の第一の情緒的な結びつきが夫ではなくヒトラーだったと見る。ヒトラーへの接近手段としてゲッベルスと結婚した、という読みだ。結婚式にヒトラーが証人として立ち、後年ヒトラーが夫婦の危機に介入して離婚を止めたことを見ると、この三角形は明らかに普通ではない。彼女にとって家庭は、ヒトラーとの関係を成立させるための装置だった可能性がある。装置は、目的が消えれば維持する理由がなくなる。
心理的崩壊説は、末期の彼女の心身の状態を重く見る。重度の抑うつ、三叉神経痛、1944年8月まで続いていた入院。ベルリンの陥落。夫の失脚。そして地下壕という閉鎖環境。この条件下で判断能力が正常に働いていたと考えるほうが無理がある。だがこの説には弱点がある。彼女は少なくとも1か月前から計画を口にしていたし、青酸の調達は2月に始まっていた。衝動ではなく、準備された行為だ。
「保護」説は、彼女自身が採用した説明でもある。ソ連軍の手に落ちること、戦犯の子として辱められることから子どもを守った、と。これがいちばん厄介なのは、当時のベルリンの現実がこの恐怖を部分的に裏づけていたからだ。ソ連軍による民間人への暴行は広範に起きていた。だが、それを理由に自分の子を殺した母親が、他に何人いたか。同じ状況にいた無数の母親は、子どもを連れて逃げた。逃げようとして失敗した人も、成功した人もいる。マクダは逃げる手段を提示された上で断っている。「保護」説は、選択肢がなかった場合にしか成立しない。彼女には選択肢があった。
たぶん、どれか一つが正解ということはない。この4つが全部少しずつ効いていて、最後に「決断する自分」に酔う瞬間があった、というのが現実に近い気がする。手紙の「私たちを誇りに思ってほしい」という一行には、明らかに自己陶酔がある。彼女は自分を悲劇の主人公として見ていた。悲劇の主人公は、脇役の生死を演出の一部として処理できる。
もう一つ、どうしても書いておきたいのは、この話を扱うときの態度についてだ。
この事件は、扱い方を一歩間違えると簡単に有害になる。第一の罠は、6人の死を「ナチの末路」の象徴として使うこと。そうすると子どもは記号になり、体制批判の道具になる。彼らを道具にしたのは父親であって、私たちが二度目をやる必要はない。第二の罠は逆方向で、この一家の悲劇に感傷的に寄り添いすぎることだ。ヨーゼフ・ゲッベルスは、数百万人の死に直接手を貸した人間だ。彼が最後に妻子とともに死んだことは、彼の罪の量に一切影響しない。地下壕で6人が死んだ同じ週に、ヨーロッパ中の収容所と廃墟で、名前も残さずに死んでいった子どもがどれだけいたか。その全部の一つ一つに、6人と同じ密度の記録があったはずなのだ。ないのは、記録する側がいなかったからにすぎない。
だからこの記事は、6人を特別扱いするために書いたのではない。むしろ逆で、たった6人ぶんの解像度でこれだけ耐えがたいのなら、名前も顔も残らなかった膨大な子どもたちについて、私たちは実質的に何も感じられていないということになる。人間の共感には解像度の上限がある。6人までなら耐えられて、600万人だと数字になる。この認知の限界そのものが、20世紀に起きたことの一部だったと思う。ゲッベルスは職業として、その限界を熟知していた。彼は数字ではなく顔を使って人を動かす技術者だった。そして最後に、自分の子どもの顔を使い切った。
遺体が1970年に川に流されたことについても、少し違う角度から考えたい。アンドロポフが恐れたのは巡礼地化だった。ヒトラーの墓ができれば、そこは必ず聖地になる。その判断は、政治的には合理的だ。実際、灰が流されたことで、この一家の墓は世界のどこにも存在しない。ネオナチが花を置く場所はない。
しかし副作用として、6人の子どもの墓もなくなった。彼らは死んだ後も、父親の付属物として処理された。生きているときは宣伝の材料、死んだ後は同じ木箱、そして焚き火。個人として扱われた瞬間が、たぶん一度もない。祖母のアウグステ・ベーレントが孫の墓を探し続けて見つけられなかったという話が、この件でいちばんしんどい後日談かもしれない。彼女は娘も孫も一度に失って、悼む場所すら与えられなかった。
最後に、記念プレートの話に戻る。ミッシュが2005年に提案したあれだ。設置されていない。反対の理由はいくつもある。加害者一族を記念する場所ができれば、それはそれで巡礼地になりかねない。前地下壕の跡地は現在ただの駐車場で、案内板が1枚立っているだけだ。地下壕の構造体自体、1988年から1989年の住宅開発でほぼ撤去された。何も残っていない土地に、6人ぶんの名前を刻むかどうか。
私は、刻まなくていいと思っている。ただし理由は「彼らがナチの子だから」ではない。石を置いた瞬間に、この話が完結してしまうからだ。完結させないほうがいい種類の話というものがある。ヘルガの顔の痣は、いまも説明がついていない。誰が何をしたのか、確定していない。その未確定のまま置いておくことが、たぶんいちばん誠実な扱い方だ。答えの出ない場所に人間はときどき戻ってくる。戻ってくるたびに、少しずつ違う角度から見る。石は、その往復を止めてしまう。
1945年5月1日の夜、ベルリンの地下8メートルで、6人の子どもが死んだ。上から12歳、11歳、9歳、8歳、6歳、4歳。この事実だけは、どの証言バージョンを採用しても変わらない。そして、この事実は誰の役にも立たない。教訓にもならないし、警告にもならない。ただそこにある。80年経っても、まだそこにある。
